by Rainbow School
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人間関係において、自分の相手役をしてくれている「魂」が、そのせいでカルマを積み増ししてしまうという可能性はないのか?

次のようなご質問をいただきましたので、以下に回答いたします。

 

Q.(頼まれてやっている)カルマの人間関係と、カルマの上積みについての質問です。地球に生まれてくる段階で、事前に自分で決めていた課題があるかと思います。過去生で、なんらかの理由によりその課題をクリアできなかった場合に、同じような課題を再度設定して生まれてくることがあるかと思います。

 

その課題のために、交流のある霊(人)に困ったちゃん役を引き受けてもらい地球に転生してくる、ということがあるとします。困った人の役を引き受けてやっているとはいえ、それに伴う地上での立ち振る舞いでカルマを上乗せしてしまうことはないのだろうか・・?という疑問です。

 

頼まれてやっているとしても、波動の法則が存在する以上、自分が出した波動は自分で受けることになります。また、転生前に交流があったということは、霊界は純然たる階層社会なので、あまりに自分と波動が違う相手と交流することはないはずです。

 

そういう存在が困った役を引き受けることによって、結果、図らずともカルマを上乗せしてしまった的なことにならないのかな、とその点でもやもやしています。ご回答よろしくお願いします。

 

A.先ず、「カルマ」ということの意味なのですが、これはもともとサンスクリット語で「行為」を表す言葉であり、「行為」のプロセスと、その結果を同時に包含した概念を意味しています。ですから、人間は生きている以上、なんらかの「行為」を必ず為すのであり、その意味では、人生行動そのものが「カルマ」だとも言えるのです。

 

「カルマ」と言いますと、一般的には「宿命的な災い」のようにばかり捉えられがちですが、必ずしもそうではなくて、悪いことだけではなく、善いことにもみな「カルマの法則」が働いているのです。さて今、「悪いこと/善いこと」と書いたのですが、この「善悪」概念も、あくまで主観的なものに過ぎず、厳密に言えば、宇宙に「善悪」というものはないのです。

 

「善悪」概念が主観的なものに過ぎないということは、例えば、ジョージ・ブッシュのあの「悪の枢軸国」発言を思い起こしてみれば、直ぐに解ることでしょう。あの時ブッシュは、イラン、イラク、北朝鮮を「悪」の国家と断じる一方で、自国アメリカを「善」の国と位置づけて、諸国に「さあ、どっち側につくんだ」と迫ったのです。そして、日本もその「善」の側に加担しました。

 

その結果がどうなったのか、またそこに至るまでの裏側には何があったのか。これはもうみなさんが知る通りです。けれども、このような例を挙げても、「いいやそんなことはない。誰もが認める悪はある。たとえば殺人だ」と仰る向きもたぶんおられることでしょう。でも果たしてそうでしょうか? 人間は、戦争で人殺しをすることは、国際法で認めているではありませんか。

 

このように、「善悪」概念など、所詮は主観的なものに過ぎないのです。ただし、宇宙的にみて敢えて言えば、こういうことは言えます。〈分離〉意識に向かう行為は「悪」的であり、〈合一〉意識に向かう行為は「善」的である、と。しかしこれも、あくまで「的、ぽい」ということであって、「絶対」ではないのです。宇宙に「絶対善」や「絶対悪」はありません。

 

そもそも、個々の「魂」がなぜ一者(神)から分かれて生じたのかと考えますと、〈分離〉を、即「悪」だと決めつけることは出来ません。これを「悪」だと決めつけたものが、いわゆる「原罪論」です。しかし「原罪論」には矛盾があります。宇宙の一切合切を仕切るものを「神」だとすれば、個々の「魂」を〈分離〉させた存ものは「神」です。

 

すると、その行為を「罪」だとすると、「罪」を犯したものは「神」ということになり、そう断じるものは(原罪を有した)「人間」であるという逆転のパラドックスが生じてしまいます。さらに、「原罪」を持つ「人間」に「罰」を与えるとなると、「罪」を創ったのも、「罰」を与えるのも同じ「神」ということになり、非常におかしなことになってしまいます。

 

では、なにゆえに、個々の「魂」が一者のもとから〈分離〉したのでしょうか? あるいはさせられたのでしょうか? それは、〈合一〉を体験するためなのです。〈合一〉したままでは〈合一〉は体験できません。〈分離〉することによって初めて、〈合一〉に向かう「行為」というものが体験できるのです。実に、「カルマ」の意味はそこにあるのです。

 

ですから、「カルマの法則」というものが、決して「罪」や「罰」に起因した法則ではなく、それ自体が「神のギフト」であるということが、これでお解りになるでしょう。したがって、「カルマの法則」を恐れる必要はいささかもありません。「カルマ」というのは、あなた方の、瞬間々々での「生き方の選択」なのです。〈分離〉意識をより強めた体験をそこで選ぶのか、〈合一〉意識をそこに見い出すのか、という。

 

そのことを踏まえた上で、ご質問にお答えします。さて、質問者は、「交流のある霊(人)に困ったちゃん役を引き受けてもらい地球に転生してくる、ということがあるとします。」という仮定から、質問に至る論を展開されておられます。ですが、そのようなことはそもそもありません。ですから、ありえない仮定のもとに、疑問を投げかけておられるのです。

 

ではなぜ、質問者にそうした仮定が生じたのかと推理しますと、人間関係におけるこの世的な貸し借りを、「魂」の世界や輪廻転生の仕組みに、そのまま当てはめて見ている節があります。ですが、これは誤りです。霊的世界に貸し借りはありません。自分の本心を押し殺して、他者のために◯◯役を「演じる」というようなことは出来ないのです。何もかもがお見通しの世界なのです。

 

その「魂」の、素っ裸の霊性度合いに応じて、万事よろしく設計されて、次の転生計画が決められているのです。その際に、個々の「魂」は、全員が、自分の人生の主役なのです。その主役の周囲に、縁の濃い「魂」たちによって脇役が設定されます。主役から見れば、周囲の人たちは、あたかも自分の課題を助ける役を演じてくれているように見えるかも知れません。その見方はある意味で正しいのですが、それは、同時に相手側の人にも言えることなのです。

 

Aさん、Bさんという縁のある「魂」がいたとしましょう。Aさんにとって、Bさんは自分に何らかの気づきを与えてくれる存在です。しかし、人間関係というものは、つねに「間(あいだ)」に生じるものであり、そこで生じている「関係」に対しては、その関係者はすべてイーブンの影響を受けているのです。ですから、両方が互いに主役なのです。

 

こんな例を考えてみましょう。Aさんは寝たきりで、自分一人では身の回りのことが何ひとつ出来ません。Bさんは、このAさんに付きっ切りでずっと看護をしています。果たして、Aさんは貰うばっかり、Bさんは与えるばっかりなのでしょうか? この世的に見れば、そう見えるかも知れません。けれども、霊的に見れば、そのような一方的なことはまったくないのです。

 

このAさんとBさんとの「間」に、看護という「行為(=カルマ)」が行われた時、両者はそれぞれの視点で、この体験を分け合っているのです。ここには貸し借りはありません。それは両者にとって、互いに自分のカルマを解消するための絶好のチャンスとしておとずれた体験なのであり、その出逢いは完璧に設計されています。ですから、質問者のような心配は、する必要がないのです。

 

AさんとBさんとの「間」に生じた出来事は、AさんはAさんの視点で自分の学習課題として捉えるのであり、BさんはBさんの視点で自分の学習課題として捉えるのです。この時、両者で協力して為した体験を、〈分離〉意識的に捉えるか、はたまた〈合一〉意識的に捉えるかは、それぞれの人の自由意志によるのです。

 

Aさんは〈合一〉意識的に捉えたのに、Bさんは〈分離〉意識的に捉えたとしましょう。Aさんは、その体験を通じてちょこっとだけ霊性の向上を図ることができました。でもBさんは、体験を通じても気づきがなく、ネガティブな「カルマ」をかえって強化してしまいました。このBさんの「カルマ(行為)」に対して、Aさんには何の責任もありません。そもそも責任の取りようがありません。

 

これは、Bさん自身の体験学習であって、そこにはなんぴとも介入することは出来ないのです。人間の思考からすれば、これはクール過ぎて、いささか冷たい感じがするかも知れませんが、法則とは元来がそのようなものです。でも、もっと大きな視点で見て欲しいのです。個々の「魂」は、どれほどすったもんだがあったとしても、全部がいつかは一者のもとに還るのです。

 

何度も何度も輪廻転生を重ねる中での、たった一つの人生の、さらに瞬間の出来事に対して、責任論で思い悩む必要などありません。「カルマの法則」全体がギフトなのであり、それぞれの場面での選択は、その「魂」が、その成長段階において、その時に正しいと思って下した選択です。その結果が、この世的に見て、善い悪いの差があったとしても、常にそれは、その「魂」にとって、「神のギフト」であり続けるのです。

 

最後に「カルマの積み増し」ということについて述べておきましょう。どういう時に、カルマ(ここでは負のカルマ)の積み増しになるのかということです。これも極めてシンプルなことで、〈合一〉に向かう「行為」が為されればそのカルマが消え、〈分離〉に向かう「行為」が為されればカルマが積み増しされるということです。

 

トラックの荷台を思い浮かべてください。そこには、今世で荷下ろししなければならないあなたへの課題が積まれています。あなたが苦しみに遭遇する時、その根本原因に気づいて、エゴを反省し、〈合一〉への気づきを得れば、その荷を下ろすことが出来ます。でも、過去世でしたことと同じような衝動で、今世また行動してしまえば、荷は雪だるまのように膨らんでしまうわけです。

 

また仮に、〈合一〉への気づきをなんとか得たとしても、その過程で為した「行為」に、別の〈分離〉意識行動が含まれていれば、今度はまた違う荷を荷台に引き入れるのです。こうして、載せたり下ろしたりを繰り返しながら、最終的にはすっかりネガティブな荷を下ろし終わり、そこで輪廻転生が止むのです。

 

ということで、あなたもそこを目指して、瞬間々々を、どうか伸び伸びと生きていってください。

 

参考:善、偽善、罪悪感、悪

善、偽善、罪悪感、悪

神の世界には、善も悪もありません。善も悪もないのですから、罪も罰もありません。善と悪。罪と罰。これらの概念は、みんな人間たちが考え出したことです。その証拠に、木々や草花、鳥や虫たち、魚や獣たちがどう生きているかを想像してみてください。彼らは、善と悪を想い、罪と罰を怖れて毎日を生きているのでしょうか? いいえ、ただ、その時を生きているだけです。

 

神の世界に、善も悪もないことは、論理的に考えてみてもすぐに解ることです。大宇宙の創造者、“それ” を、人は「神」と名づけました。“それ” が何であるかは、人知を超えたものですから判然とはしませんが、“それ” が一者であることだけは確かです。もし二者であったとすると、互いを創造したものは何者かという矛盾が生じてしまいます。結局、創造主は一者ということに落ち着かざるを得ません。

 

ならば、一者である「神」の中に、どうして善と悪が存在するでしょうか? 自己のこれが善、これが悪と、いったい誰が決めるのでしょうか? 一者であるはずの「神」を判定できる者は、他のどこにもおりません。よって、善も悪もありません。また、一者であるはずの「神」が、なにゆえ自己の内に罪と罰を創造するでしょうか? 悪さをした自分の左手を、右手で叩くとでも言うのでしょうか?

 

善と悪。罪と罰。これらは、これまでの人間たちが、ほぼ総意のもとに考え出した、壮大なるフィクションに過ぎないのです。ああ、それなのに‥‥。どれほど多くの人が、これまで、このドグマの牢獄の中で不自由な人生を送って来たことでしょう。あなた方は、もう真実の神学に目覚めなけばなりません。魚座の時代を超えて、水瓶座の時代に相応しい神学に。宇宙には善も悪もない。宇宙にあるのは、「分離」から「合一」に至るまでの、霊的進化の道だけなのです。

 

*魚座の時代は宗教の時代で、そのシンボル(双魚)が示していた通り、善悪二元の対立が表面化した。しかし、水瓶座の時代に移行したことで、星座図が示しているように(少年が水瓶に入っている水を地に注ぐ)地上に天からの真理が注がれる時代となった。

 

あなた方は全員、もともと一者だった霊的存在から、お餅をひねり出すようにして細かに分けられました。そして身体という物質的衣裳を纏うことによって、個別化した存在となり、地上に降り立ったのです。この個別化し、物質世界に適応した霊(Spirit)は、地上でそれぞれが独自の体験を重ねることにより、次第に個性が芽生えて行き、やがて自我を伴った「魂」へと成長したのです。

 

ですから、あなたの中には、一者と同じ霊的資質と、「魂」としての本来の自己と、身体的な自己の感覚とが、常に同居しているのです。「魂」は、一者と、身体的な自己との中間にあって、両者を仲立ちしています。そこで、そういうあなたを「多次元的存在」と言っています。あなたは、肉体だけの存在ではなく、多次元的に存在しており、常に多次元的な意識を有しているのです。

 

*この場合の多次元とは、数学的次元のことではなく、霊性密度のこと。別の言葉で言えば、複数の振動数の帯域を同時に持っているということ。

 

なぜ、このようなプロセスが生じたかと言いますと、「神」が、自分自身を把握し、自分自身を再創造するためです。「神」は一者です。そのままでは、自己を把握することが出来ません。白色だけの世界にいたのでは、白が白とは分からないのと同じです。黒があるからこそ白が分かるのです。そこで「神」は、自分自身を知るために、全智から、あえて霊(Spirit)を切り離し、自分に似せた存在を地上に創りました。それが人間です。

 

*姿かたちが似ているという意味ではなくて、存在構造の多次元性が似ているという意味。これが誤解され、「神」はしばしば、擬人化された白髭の老人として描かれるようになった。また人間は、全智から切り離された結果、「神」を〈想像〉することが可能となったが、代わりに(通常の意識下では)全智を失った。

 

あなた方は、身体的な「分離」という条件の下で、それぞれ個別の体験を積み重ねながら、自己の本質が実は「合一」の存在にあったのだと気づくまでの、長い長い旅を続けるのです。これが、いわゆる「自分探しの旅」です。その旅は、結局のところ、旅は必要なかったんだ、最初から自分の中に全てがあったんだと気づくまで、何度も輪廻転生の機会を与えられ続けられるのです。

 

ですから、霊的に見た場合、個々の「魂」の成長の差は、「分離」から「合一」への進化の程度ということでしかありません。それは進化の程度であって、優劣ということではないのです。どんな「魂」であっても、最後の最後は、例外なく「合一」を理解し、体現するところに至るのです。ところが、人間はこれを知らない上に、多次元的な意識を持った存在ですから、このことを、それぞれの意識段階で、異なった感覚として捉えてしまうのです。

 

チャートを見てください。宇宙には、「分離」から「合一」へと至る進化の道しかありません。

ところが、あなた方の「肉」の感じ方(つまり身体的、物質的感じ方)は、「分離」を「善」、「合一」を「悪」と感じてしまうのです。

 

これは、いちばん最初の、地上に降りて個別化した際の喜びが、その後もずっと継続していてそうさせるのであり、この結果、人間の大半は「分離」意識をくすぐるものには強く反応し、「合一」意識は無視するか、逆に排斥しようとまでするのです。

 

具体的には、優劣、競争、損得、貧富、美醜、差別、階級、闘争といったものを大半の人間が好み、社会のあらゆる場面でそれを推進する一方で、平和、融和、和合、平等、分配といった考え方は、これを嫌悪し、揶揄したり攻撃したりするのです。「平和ボケ」という用語があるのはその一つの表れです。アメリカでは、自己防衛のために銃を所持することは当然と考える人が多く、こういう人たちが政治的にも大きな力を持っています。

 

ですが、人間は多次元的な意識を持つ存在です。あなた方の本質はあくまで「魂」にあるのであって、「魂」は「合一」こそが「善」、「分離」意識は「未善(未だ善に至らない)」の段階なのだということを、ちゃんと知っているのです。なぜなら、「魂」は元々「合一」であったところの一者から分かれた存在だからです。しかしこれは、あくまで「感じ方」であり、冒頭に申し上げたように、宇宙には「善」も「悪」もありません。

 

このようにして、一人の人間の中に、「善」的なものに関する、相反する「感じ方」が同時に生じることになるのです。しかし、いま言った多次元的な意識構造を意識し、理解している人は、残念ながら極めて稀です。知識としてこれまでに教わったこともありませんし、内観することを習慣づけて生活している人(つまり日常的に「瞑想」を行なっている人)もほとんどいないためです。

 

その結果、大多数の人は、「肉」の感じ方(自我)と、「魂」の感じ方(真我)との間でいつも揺れ動き、葛藤を起こすことになるのです。これが、心がザワザワする際の、背景にある原因なのです。どっちが本当の自分の声なのかが判らない。「肉」の感じ方と、「魂」の感じ方との中間領域で、互いの意識が綱引きを行って、それがザワザワとした感覚をあなたの中に生じさせるのです。

 

さて、いつまでもザワザワした状態では気持ちが悪いですから、どこかで手打ちをしなければなりません。そこで、意識の根っ子では「分離」の方により気持ちが傾いているけれども、これを覆い隠して、「合一」的なことを言ったりやったりしてしまう。これが「偽善」的行動となるのです。反対に、言葉や行動では「分離」の考えに同調しながらも「なにか違うぞ」と思う。その時に、人は「罪悪感」を抱くのです。

 

「偽善」よりも「罪悪感」の方が、より本質に近づいて来てはいますが、どちらも、未だ葛藤状態の中にあることには変わりがありません。さてここで、人間社会の中に大きな問題が生じます。

 

肉欲が支配する物質世界と、霊的世界とでは価値観が逆転しているために、あなた方の世界では、「分離」を「善」だと主張する者がもてはやされ、崇拝され、ピラミッド構造の頂点に支配者として君臨することになります。すると、お金も産業もマスコミも教育も、全部がこれらの人たちの傘下に置かれますから、多くの人が「なにか違うぞ」と直感で思ってはいても、この構造の中に、仕方なしに巻き込まれて行ってしまうのです。

 

こうして繰り返される、最大の悲劇が「戦争」です。クリント・イーストウッド監督の作品に『アメリカン・スナイパー』という映画があるのですが、この作品は、一人の人間が(元々は普通の市民が)、いかにしてイラク戦争に巻き込まれて行ったのか、戦場に送られて大量殺人者となって行ったのかを、鮮明に描き出しています。

 

主人公の男性は、子どもの頃より、父親から徹底的にアメリカ式のマッチョイズムを叩き込まれます。これが染み付いた彼は、青年となってしばらくは荒馬を乗りこなすロデオに夢中になるのですが、アメリカ大使館爆破事件を契機に国家の役に立ちたいと考えるようになり、海軍に志願。そこで特殊部隊のシールズに配属され、優秀なスナイパー(狙撃手)となるのです。

 

イラクに派兵された彼は、都合4回、述べ1000日に及ぶ現地勤務の中で、160人もの “敵” を狙撃によって殺害し、軍隊内部で「レジェンド(伝説)」とまで呼ばれる存在になるのです。しかし、これがもし、アメリカ国内でアメリカ人に対して行われたことだとしたらどうなるのでしょう。5人殺せば殺人鬼、160人殺せばジェノサイド(大量殺戮)と言われるのではないでしょうか?

 

それが、同じことをイラク人に対して行ったら、ヒーローになってしまうのです。彼も、子どもを殺さざるを得ない時には、さすがに躊躇する。でも信念に従うことを優先します。その信念とは、父親から徹底して叩き込まれたマッチョイズムであり、アメリカ国家への忠誠心であり、自分が信ずる神(キリスト教)の庇護のもとにあるという三位一体の「正義」なのです。

 

この三位一体は恐ろしい。家庭教育、国家教育、宗教教育が一つのものとなった際には、160人もの人間を殺害する殺人鬼に、容易に人間はなれる。4回の派兵の間に、彼も結婚し、二人の子どもにも恵まれ、家庭ではよきパパとなっている。それなのに、自分が殺した160人にも、同じように愛する家族がいて、日々の営みがあったということまでは想像が及ばない。この、もの凄い「分離」意識、「分離」感覚。結局、彼は、次第に息苦しさを覚え始めるのですが‥‥。

 

しかしここで、そうなったことの背景にある、人類史にいつも共通したある枠組みに、地球人は気づかなければなりません。彼を、そのような「信念」で染め上げた者たちが背後に存在するということ。そしてこの人たちは、「分離」が「善」なのだと、本気で信じているのです。自分自身が先ず、心底からそのように洗脳されている。ですから、多くの人たちとは違い、その信念に揺るぎがないのです。平気で嘘をつけるし、そこに罪悪感も生じない。

 

「分離」を「善」と信じ切る者は、「合一」を理想とは考えません。むしろそれは、自分たちが信じる世界を破壊しかねない危険思想。「合一」「平等」などという発想は、彼らにとっては「敗北」以外のなにものでもないのです。こんな人たちに絶対に負けるわけにはいかない。ですから、共通利益がある間は「仲間」であっても、最後は、裏切り、仲間割れ、罪のなすり付け合いで終わる。宗教組織や家元制度にしょっちゅう分派が起こるのも、みなこれと同じ理由です。

 

霊的進化から見れば、最も遅れている「魂」が、この世のあらゆる支配権を握っている地球人類。そして、大多数の人たちの中に潜む優越感や、差別意識や、支配欲や、所有欲や、攻撃性などの「分離」意識を、あの手この手で刺激してはこれを表に出させ、自分たちの世界に引き摺り込む。しかし大衆は、そのようにして支配され、隷属させらているということに少しも気づいていない。むしろ喜んで、その誘惑に着いて行く。

 

何度同じ悲劇を経験しようが、何度転生をしようが、人類は未だにこの構造に気づかない。支配者にとって、現場で戦う者は、単なる使い捨ての駒。戦場でも会社でも同じ。死んだら勲章を与えて、また騙して、自分たちだけはのうのうと生きて行く。心など痛まない。まだその段階にすら達していない未熟な「魂」だから。彼らにも守護霊がいて、一生懸命気づかせようとはしているのだが、本人が気づかないことには‥‥どうしようもない。

 

よいかな、ここが肝心要。人類は、いま瀬戸際にあるのですぞ。だから、みなさんが、支配者たちに気づきを与えてやって欲しいのだ。繰り返し言って来たように、騙される人が誰もいなくなれば、騙す人は成り立たなくなるのだよ。そこで、先ずはあなたたちが、善悪というものの背景にあるこの構造に気がつくこと。あなたの本質は身体にあるのではなく、「魂」にあるのだということ。「肉」が感じる「善」と、「魂」が感じる「善」とは、逆になっているのだということ。

 

そこをしっかり学習して、世に満ち溢れる情報を、見極める眼を養って欲しい。本物とニセモノ、どうでもよいことと肝心なこと、真実であることとそうでないこと。そして、闇に誘う道と、光へ続く道。この取捨選択が、あなたという人間の今後の「生き方」を決めるのだよ。それは、決してあなた一人の問題ではない。その集合意識が、人類の行く末を決めることになるのだからね。

 

だから、そのようにして、先ずはあなたたちが目覚め、次いで彼らにも気づいてもらい、人類が永らく置かれて来た奴隷状況から、そっくりジャンプして欲しいのです。お願いしますよ。

 

可哀想に‥‥。「分離」意識に凝り固まった人たちは、未だ「魂」の喜びを知らないのです。「肉」の喜びの段階に、ずっと埋没したままなのです。権力者たちの顔をよく見てごらんよ。楽しそうに見えますか?

 

でも、これを読んで下さっているあなたにはお解りでしょう。「肉」の喜びと、「魂」の喜びとは、全く異質であるということが。きっとこんな経験が、あなたにもあることでしょう。解り合えた、誠意が通じた、真心を受け取った、そう感じた瞬間、わけもなく涙が溢れ出てきたという経験が。それは「魂」の喜び。あなたの本質が、深いところで知っていた「善」の扉が開いた瞬間なのですよ。

 

なにものにも代えがたいこの喜び。物質世界を超越した「魂」のふるえ。あなたのこれからを、この喜びで満たしなさい。この喜びの中に生きなさい。そして、周囲の者たちにもこの喜びを分け与えなさい。友よ、光の道を進め。無償の愛の道を一心不乱に生きるのだ。