by Rainbow School
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よくある質問

セミナーなどでよく訊かれる質問をまとめてみました。

 

Q.あなたは霊能者なのですか?

 

A.いいえ、霊能者ではありません。人間誰しもが持っているという意味においては、私にも少しは霊感があります。しかし、いわゆる「霊能者」と言われる人のような特別な能力は所持していません。アカシックも読めませんし、予言もできませんし、オーラも見えませんし、スプーンも曲げられません。どちらかと言えば、劣等意識の強い「0能者」で、へなちょこ人間です。

 

メッセージの語り手と、私とは全くの別人です。私も、日々、反省と忍耐と努力を重ねる、ただの一人の求道者に過ぎません。

 

Q.宇宙と繋がったメッセージを下ろしているとのことですが、なぜそんなことが出来るのですか?

 

A.最初から出来たわけではなく、徐々に鍛えられたのです。上からによって、用いられるように。この『気づきの啓示板』も、最初のころと今とでは、レベルやスタイルがまったく違って来ているのがお分かりいただけると思います。途中、一段また一段と、階段をジャンプするような感覚的な変化があり、その度に内容が変化していきました。

 

いちばん最初は、「神」という言葉を出すことにもかなりの抵抗感がありました。しかし今では平気です。初期のものは未熟で恥ずかしいのですが、変化の過程をありのままに見ていただいた方がよいと考えて、そのままにしてあります。誰もが同じことが可能だということを、敢えてみなさんにお伝えするためにも。

 

Q.具体的には、何と繋がっているのですか?

 

A.ソースが何であるか、またどの霊性密度にいる存在なのかも、今のところ、私には分かりません。これは私のテレパシー能力が低いせいでもありますが、ソースにとっては、名前を明かすことが別に本意ではない、という面もあると思います。どうも複数おられるようで、男口調になったり、女口調になったり、軽いノリでジョークを言ったりと、様々です。

 

Q.どのようにして、このメッセージを書いているのですか? これは自動書記のようなものですか?

 

A.いいえ、自動書記ではありません。私のコントロール意識は失われておらず、ボーッとした感じではありますがちゃんと起きております。そのため、タイピングしたメッセージ内容が、果たして自分の考えなのか、上からのものなのか、区別が判然としません。そのことに、これまでの間ずっと葛藤があり、コンプレックスも感じています。

 

自分の場合、声が聞こえるわけでも、文字が見えるわけでも、イメージが浮かぶわけでもありません。何かもやっとした概念があり、それを、自分の引き出しにある言葉から、適当なものを選び出しては、彫刻のように創り上げていくといった感じです。

 

この、言葉を選び出すという作業が非常に忍耐のいるもので、自分の未熟さ、無能ぶりがさらけ出されるのでとても恥ずかしいです。そのため、文字校正以外では、自分がタイピングしたものを読み直すことはありません。その場限りで、全部、忘れるようにしています。

 

構成のようなものは一切考えておらず、いきなり書き始めます。呼び水のために、自分のことや、身近な出来事や、社会現象を先ず取り上げることが多いです。とにかく、最初の1ブロックが書き上がると、後からは、次から次へと次のブロックの概念がやって来ます。

 

よく「長過ぎる」というお叱りを受けるのですが、長く書こうと思っているわけではありません。やはりシンドイですし、私も出来れば短い方がいいのですが、後から後からモヤモヤがやって来るのです。きっと、しっかり伝えたいという思いが、上の存在たちにはよほど強いのでしょう。

 

そうやって、連携パスのようにブロックを繋いでいくと、だんだんと自分の波動も上がって来て、ついには憑依したような言葉が出て来ます。この状態の時の一人称は「わたし」と書いており、前半の「私」とは区別しています。これはハッキリ分かれるというよりも、どちらが優勢にあるかという違いです。私には明確な区別がつきません。

 

ですから、ニールさんの『神との対話』シリーズを読んだ時には大変な衝撃で、その内容もさることながら、どうやって「自分」と「神」との言葉を分けて記述できたのかと、驚嘆しました。(一度だけ、同じような感覚になったことがあります。)

 

そのようなわけで、コンプレックスと恥ずかしさを抱えながら継続している作業なのですが、最近になってようやく観念したと言いますか、自分は自分、自分がやれるスタイルでやるしかない、これが自分の役割、と思うようになりました。

 

考えてみますと、自分にさしたる「霊能」が無かったことは、今世におけるギフトであったかも知れません。もし「霊能」があれば、「霊能」に溺れて錯覚し、「真理」探求の姿勢を持てなかった可能性が大です。そう考えると、私は、この私の今世の役割を、徹底していく他はなさそうです。

 

これからも、出来るだけ慎重であり続けます。どう受け止めるかはみなさん次第です。批判もどうぞなさってください。それは自由です。みなさんの今後の人生の気づきに、霊性の向上に、このブログのメッセージが少しでもお役に立てれば幸いです。

 

Q.なぜ、普通の人が知り得ないことを知っているのですか?(2018.8.12 追記)

 

A.私がお伝えしていることに、目新しい情報は殆どありません。古代より伝えられて来た普遍的真理を、現代の言葉で、現代のツールを使って、現代人のハートにも響くように、焼き直しして語っているだけのです。ですから、お伝えしている情報はみなどこかに原典があるのであり、皆さんが直接お知りになることも可能です。

 

宇宙には、あらゆる情報が詰まった書庫、通称「アカシック・レコード」があります。この書庫から自由に情報を取ったり、また高次元の存在が語り掛けて来る言葉を受信できるという能力を持った人が、いつの時代にも少数ながらおられます。そして、そのようなプロセスを経て地上に下された言葉が、すでにたくさん公開されているのです。

 

私自身にはそのようなテレパシー能力はないのですが、どこにどんな情報があるかということを(上から)タイミングよく知らされ、それによって知識を増やして来ました。また、私には本物とニセモノの違いが直感的に判ったほかに、異なった場所にあるAという情報とBという情報の関連性や構造的位置づけといったことが、パッと絵が浮かぶようにして分かったのです。

 

そのようなことで、だんだんと、普通の人の目にはなかなか触れない、隠れた、深部にある、本物の智恵が、自分に届けられるようになりました。しかしながら、残念ではありますが、世に溢れる、この分野の情報の99パーセントは、どうでもよいことか、ニセモノか、あなたを魔界に引きずり込もうと狙っている情報ばかりです。それは、人類の段階がまだそこに留まっているから。

 

智恵というものは、その人の成長度合いに応じて届けられるものです。小さな器にいくら水を注いでも、大半は零れてしまいますからね。ですから、今あなたが、このメッセージに目を留めて下さったというのは偶然ではありません。あなたの器の準備が整い、レベルが合って、そうしたタイミングが訪れたということを示しています。ですからどうぞ、ここを踏み台になさってください。

 

虹の学校は、あなたのような真の智恵を求めている方に、もう右往左往しなくても済むように、早道の場を提供してあげたい。そして、純粋であるがゆえに躓いてしまった人たちを、「大丈夫だよ」と励ましてあげたい。そのために、道しるべとなる言葉を、現代人のハートにも届くように語り直すことが、今世の自分の使命だと考えております。

 

Q.この『気づきの啓示板』ブログには、どうしてコメント欄がないのですか? またFacebookなどのSNSを利用されていないのはどうしてですか? 読者が少ないと書かれていますが、利用すれば、もっと多くの人に届けられると思うのですが。

 

A.そうすることの意義を感じていないからです。アクセス数を上げることには関心がありません。そんなことをしたところで、結局は、「波動の法則」によって、ある程度似通った波動の人のところにしかメッセージは届かないのです。また、もし自分が、名声や金銭などの誘惑に負けてしまったら、たちまちにして、上から見放されてしまうことでしょう。

 

それに、「気づき」は純粋に個人的な体験です。このブログに掲載しているメッセージは、共通した何かをお知らせしようというよりも、それぞれの方のドアノッカーの役割を果たしているに過ぎません。「気づき」というのは、あなたが、自分の中に元々あったものに気づくのです。またそれは、その人の霊性の発達段階に応じて顕れるものなのです。

 

コメント欄を活用したり、Facebookなどを用いれば、読者の方々が、自分の想いを言えることができ、それはそれで別の「気づき」にもなり、活性化することでしょう。しかし、今のインターネット状況では、デメリットの方が大きいと考えます。

 

多様な個人的な体験が行き交うことによって、そこに軋轢が生じることは、どうしても避けられないでしょう。それは、私が望むところではありません。また、私自身も、そうした軋轢の影響を受けてしまい、それ以降のメッセージの受信が困難になってしまうことでしょう。高次元の存在からのメッセージは、静寂の中にしか下りることがないのです。

 

ここで大切なことを申し上げます。現代人の不幸は、「情報」の虜にされてしまっていること。「情報」の虜になっている限り、霊性の向上は望めません。入り口にすら立てない。重要なのは「情報」ではなく「感覚(feel)」なのです。「智」は外にあるのではなく、あなたの中にすでに備わっています。その「智」の扉を開くためには、「情報」はむしろ遮断しなければならないのです。

 

古代人の霊性が高かったのはなぜでしょうか? 自分の「感覚(feel)」を大切にし、森や、海や、花や、水や、風と共に生き、それらと会話が出来たからです。現代人に欠けている勇気は、何よりも「情報」を捨てる勇気、そして「お金」を捨てる勇気、「孤独」になる勇気です。

 

Q.貧乏だということですが、セミナーなどの料金をもっと上げられてもいいのではないですか?

 

A.貧乏というのは相対的なもので、世間的に見れば確かに貧乏ですが、それを惨めには感じておりません。むしろ自由です。貧乏である原因は単純で、金銭が得られるような仕事を殆どしていないためです。それに割く時間があったら、『虹の学校』の活動に一身を捧げたいと、ある時期を境に決心しました。

 

また同時に、宇宙の仕事には付加価値を求めない、とも決めました。なんとなれば、「宇宙」は誰のものでもなく、「真理」はタダだからです。それと、私がすでに年金生活者であり、月に8万円弱をいただけているので、それで充分だということです。しかし、もし年金が破綻したりすれば、お恵みをいただかなくてはならなくなるかもしれません。

 

ということで、「清貧」を気取っているわけではありません。私は「清貧」思想は嫌いです。霊性の高さと、貧富とは、何の関係もないと思います。イエスが「貧しき者は幸いである」と言った意味は、貧しい人の方が困難に遭う機会が多い(つまり、それだけ「気づき」のチャンスが多い)という意味で言ったのです。貧しくても、「気づき」がなければ、どうしようもありません。

 

Q.生徒さんは、何人くらいおられるのですか?

 

A.生徒という人はおりません。「虹の学校」は先生も生徒もなく、みな等しく宇宙の子です。あなたを指導してくださるマスターは天上界にいて、その「聖徒」となるかどうかはあなた次第です。あなたが「聖徒」であり続ければ、マスターはいつでも援助の手を差し伸べてくださいます。しかし、少しでも道理に反するようなことがあれば、静かに去って行かれることでしょう。

 

Q.どうして駄洒落とかが多いのですか?

 

A.ジョークは神様の発明品、とだけ答えておきましょう。

「世界で最も貧しい大統領」ムヒカさんのメッセージ
友人から、ウルグアイ前大統領のホセ・ムヒカさんが来日してテレビに出るということを聞いたので、録画して観ました。

民放テレビのこのような番組を観るのは5年ぶりくらいでしたが、やっぱりそのスタイルには耐え難いものがありますね。コマーシャルとスタジオのトークと解説というものを削除したら、ムヒカさんが出ている場面は正味30分くらいしかないのです。中味をこうまで薄める技術というのは、どんなもんなんでしょうねぇ。

まぁ文句を言っても仕方がないのですが、正味30分で見たムヒカさんはとってもチャーミングな人でした。それに、ピン!と来た方も多いと思いますが、ムヒカさんは語り手(メッセンジャー)です。「世界で最も貧しい大統領」というキャッチフレーズを付けられているようですが、ムヒカさん自身は「貧乏」ではなく「質素」なだけだと言っています。この違いは重要です。

前に、良寛さんを「清貧」の代名詞で取り上げるのはいかがなものか、と書いたのですが、ムヒカさんを見ればその違いというものが解るんじゃないでしょうか。「貧しさに耐え抜く清い心」というのは、ちっともオシャレじゃないし、そんなものは間違っています。やっぱり貧困というものは、地球上からなくなるべきだし、それは出来るんです。

一つは「質素」に生きることによって。一つは「分け与える」ことによって。もう一つは「心の豊かさ」を求めることによって。ムヒカさんは100万円の月給を貰っても9割を寄付し、その残りで生活しているわけでしょう。ですから、いま上げた3つを、社会的指導者として全部実践しておられるわけですよね。

私だってお金は欲しいです。お金があれば、自分が考えている構想をもっと早く進めることが出来ると思うから。でも今はそういう環境にないし、だからやれる範囲でやるだけ。年金を貰えるようになったので今は月に7万5千円の収入があります。生きて活動するには充分だし、美味しいものを自分で調理して食べているし、毎日がハッピーです。

私がびっくりしたし、ちょっと希望を感じたのは、ムヒカさんが講演先に選んだ府中市の東京外国語大学の会場がいっぱいだったこと。うちから近いし、知ってりゃ行くんだったな。入りきれない聴衆が外にもたくさんいる。ムヒカさんの言葉を聞きたいという人が大勢いるんですね。そういう時代感覚が広がっているのかなぁ。

ムヒカさん自身が「私は、新しいことは何も語っていない」と仰っているように、言われていることはどれも当たり前のことです。古代からずっと伝えられてきた普遍的な智慧しか語られていません。でもその普遍的な智慧が、一筋の光明に聞こえるほど、今の社会の構造や価値観が歪んでしまっているということですよね。

貧乏というのは、物のないことではなくて、持っていても、もっともっと欲しいと思うことだ、と。その通りなんですが、それをいちばん煽って来たのは、皮肉なことにテレビです。このムヒカさんの特番だって、間にCMが入って「もっと買え、もっと買え」というメッセージを送り続けています。広告収入がなければ民放テレビ局の経営は成り立たず、それを止めることが出来ない。

政府も、財界も、企業が収益を上げなければ雇用は守られないんだから、経済成長が何よりも大事であると。企業が成長しなければ、したがって幸福というものはないんだと。そのためには、自然がどうなろうと知ったこっちゃないと。もっと買え、もっと買え。売って、売って、売りまくれ。

今もってそう言い続けている。これが、現代社会の洗脳。この洗脳があらゆる分野に浸透していて、幼少時の家庭教育、学校教育から、人々はそうした価値観を叩き込まれる。おそらく、今日も明日も、政治は、経済界は、マスコミは、同じメッセージを発信し続けることでしょう。

ムヒカさんが珍しかったのは、その真反対を言う政治指導者だったこと。番組でもちょこっと紹介されていましたが、フィデル・カストロチェ・ゲバラもそういう人でした。でもそれは資本主義にとっては危険思想だったから、西側は独裁者のレッテルを貼ってこれを糾弾してきました。

ムヒカさんのような社会的影響力のある人が、真実を語るのはよいことです。同じことを私が言っても「お前はアホか」となるところが、ムヒカさんが語れば「ひょっとして‥‥」と気づいてくれる人が大勢いるだろうから。そして意外にも、ムヒカさんの言葉に耳を傾ける人がたくさんいるというのを見て、時代の風が変わってきたなと思いました。私も未来にちょっと希望を持ちました。
良寛さんはズルい人
Eテレの『100分 de 名著』の12月は良寛さん。良寛さんの名前を知らない人は、あまり居ないでしょうね。越後の出雲崎に生まれ、詩人・書家として生きた人。つまりはアーティストです。でも良寛さんの名を有名にしているのは、その生き方。七十四歳で生涯を終えるまで、粗末な庵に一人住んで乞食僧として過ごしたことにあります。

これが「清貧」の生き方だとして、現代でもてはやされているわけです。この番組でも「清貧」ということを強調しています。でも私は、そうじゃないと思う。良寛さんというのはズルい人で、「ズル貧」だったと思います。そして、そのことを自分で分かっていたと思います。

良寛さんを「清貧」にしてしまったのは後年の人であって、良寛さん自身は「清貧」を生きようとしたわけじゃないと思うんです。ちょうどイエスを、神の子として奉り上げたように、後年の人が勝手な理想像を、良寛さんに仮託してしまっただけです。

アーティストとして生きる時に、いつも問題になるのは、どうやって喰っていくかです。通常は、作品を売ることを考える。その時、同じ売るのでもより高く売るために、著名人になることが先決だと考えるアーティストだっている。そこで、絵画ならば画壇といわれるグループに所属し、パーティー外交を繰り広げ、時には政治を使ったりしてのし上がる。

この世というのはそうしたものだし、それはその人の生き方ですから、とやかく言えないのですが、一方でそれを激しく嫌うアーティストもいる。商売が絡めば、どうしたってそこに俗物根性が入り込む。それと、アーティストとしての純粋性とがぶつかって折り合いをつけることが出来ない。そういう人は、極端な場合「売らない」と決めてしまうことになります。

前にこのブログで書いた、ロベール・クートラスはそういう人だったし、田中一村さんもそうでした。ゴッホは別に「売らない」と決めたわけではなかったけれど、生前は一枚も絵が売れませんでした。このように「売らない」「売れない」というアーティストは、当然、著名にも成りようがないので、自分と自分が生み出す作品に純粋に向き合うしか無くなっていく。

それは、もの凄く孤独な世界なんですね。他の人がとうてい入り込めない。下手をすれば発狂しかねない。その自分の「心」をなんとかコントロールしながら、いかに作品を作り続けていくかという生き方に、自然となって行くわけです。良寛さんは、それだったと私は思います。

じゃあどうやって喰っていくんだとなった時に、良寛さんは乞食(こつじき)を選んだ。他の人から施しを頂く生き方です。これを「清貧」と呼ぶことには抵抗があります。だいいち「清貧」という言葉が私は大嫌い。良寛さんだって、近所の人に「味噌をくれ」とズーズーしくおねだりしているよ。

良寛さんの「生」があるのは、周囲の人々の施しのおかげであって、そのことを考慮せずに、良寛さんの生き方を「清貧」というのは筋違いではないでしょうか。仮に、この「清貧」の生き方が素晴らしいと言って、みんなが「清貧」を目指したらどうなるでしょうか? 施しをしてくれる人が誰も居なくなって社会が成り立ちません。

だから私は「ズル貧」だと言うのです。乞食(こつじき)というのは、その覚悟をもって臨むのであって、これを「清い生き方」にしてしまったら、まともに働いている人に申し訳ないと思う。

ロベール・クートラスは乞食すらせずに餓死寸前だった。田中一村さんや石田徹也さんなんかは、アルバイトをしながら絵を描いた。こっちの方が、ずっと「清貧」じゃないかと私は思う。

良寛さんは僧籍があったので得をしました。托鉢行が社会に広く認知されていましたから。同じことを、もし田中一村さんや石田徹也さんがやったとしたら、果たして施しを貰えたでしょうか?

誤解のないように言っておくと、別に良寛さんの生き方がダメだと言っているんじゃないですよ。乞食僧というのは、何も珍しいものじゃない。私の父方の祖父だって乞食僧でした。それを現代の尺度で捉えて「清貧」というのは、ちょっとズレていませんか、ということです。

ちなみに新潟県長岡市の隆泉寺にある良寛像は、私の母方の伯父(故人)の手になるもの。伯父は画壇に入り、政治を駆使した方のアーティストでした。
「清貧」である必要はない
私はどこからどうみても貧乏人です。54歳の時に「もうダメだ、自分は通じない」と実感して、それまでの仕事を捨てる決心をしました。その後はアルバイトで生計を立てようと思っていたのですが、上手く行きませんでした。年齢ではねられてしまって、まずもって雇って貰えない。労働市場の過酷な実態を目の当たりにしました。

「清貧」という言葉がありますよね。自分が「清」であるかは判りませんが、「貧」であることは間違いない。ヒヒーン。他に「貧すれば鈍す」(貧乏をすると、生活の苦しさのために精神の働きまで愚鈍になる)という言葉もありますが、そうならないように「貧して、ますます鋭す」を心掛けています。略して「貧鋭」。

貧乏というのは、結局相対的なもので、絶対的な貧乏とか、絶対的な金持ちというものはないわけです。お金のない人はないなりに工夫して暮らし、ある人はそれなりに使えばいいだけのことです。私も今はこうですが、お金がある時にはそれなりに使いました。いちばんいけないのは、お金を溜め込むこと。流れをストップさせることです。

お金は、よく血液に例えられます。社会の中で健全に回っている間は健康で、そこに鬱滞、鬱血があると、社会は病気になってしまいます。甚だしい時には、動脈瘤破裂などの症状も起こすのです。

お金持ちというのは、要するに大動脈を担っているわけで、動かす血液量が多いわけです。ですから、それをストップさせたら影響が大きい。全身に血液が回らなくなる。この血液を適切に回すことで、小さな血管にも流れて行き、果ては毛細血管まで行き渡るのです。私などは、さしずめ毛細血管の役割を担っているというわけです。でもこれだって、なければ困る。

結局のところ、それぞれに応じた働きをすればいいのであって、別に「清貧」である必要はない。逆にみんなが「清貧」を目指したら、社会は困ってしまいます。

いま富者である人は、前世で人々を労ったり、施しをしていた経験があって、今世そうなっているのかも知れません。ですから、次に極貧に陥ったりしないように、その恵まれた境遇を活かして、他の人々に役立つようなお金の使い方をすればいいわけですね。残念ながら、そういう人が少ないようですけれども。
宗教の時代の終わり2
NHKのBSニュースで、バチカンのスキャンダルの話をわりと詳しく報じていました。マスコミの方針が変わったのかも知れません。バチカンのスキャンダルというのは大きく二つあって、一つは聖職者による子供に対する性的虐待です。もう一つはマネーロンダリング疑惑です。映画『ゴッドファーザー』で描かれたバチカンとマフィアとの関係です。

13日、第266代ローマ教皇に選ばれたホルヘ・マリオ・ベルゴリオ(Jorge Mario Bergoglio)枢機卿は、歴代法王として初めてフランチェスコ(フランシスコ)を名乗ることになりました。フランチェスコは “アッシジのフランチェスコ” と呼ばれる守護聖人。清貧で知られた人物で、映画『ブラザーサン・シスタームーン』の主人公として描かれています。

そのことから、これまでの腐敗したバチカンを改革しようとする表れだと見られているわけですね。ところが12世紀に聖マラキが歴代のローマ教皇を預言したとする、通称『聖マラキの預言』書には、ベネディクト16世の後継者が、ローマ教会において最後の教皇となることが預言されているのです。

果たしてその預言が現実のものとなるかは今後の展開次第ということになるわけですが、その預言がたとえないとしても、やはり宗教の時代は終わったと感じざるを得ません。

私も宗教家の家系に生まれて、名前も宗和と付けられました。ですから宗教には親しみがあるのですが、霊界の研究が進んでインターネットでそうした情報が交換できるようになった時代に、宗教で縛りをかけることはもはや不可能だと思います。また、そうする必要もないと思います。

霊界は一つです。Aさんが見た霊界とBさんが見た霊界が違うということはあり得ません。そうであったらそれは論理的矛盾です。ですから、どんな人がどのようなアプローチをしようとも、行き着くところは同じなのです。洋の東西を問わず、人種国籍を問わず、宗教を問わず。

宗教の開祖は大部分は霊能者であり、その人物の霊性が高ければ、文化の違いで多少の表現差があったとしても、みな同じことを説くはずなのです。
真理は一つであり、それは普遍性を持つからです。

ところがそれが教団を持つようになって組織化され、二代目、三代目と代替わりし、優れた霊能者が排出できなくなると、組織を維持するために教義や儀式の型だけが伝承されていきます。

その結果、お線香は立てるのではなくて折って横に寝かすのが正式だとか、墓はこういう形式にすべきだとか、うちの本尊だけを拝みなさいとか、本質とは何も関係ない、下らない(と言っては言い過ぎかな?)話が「教義」に格上げされ、信者はそれを一生懸命布教するというおバカな話になっていくわけです。

いまの宗教はみなそれをやっています。宗教家が、本来の志を忘れているのです。
なぜ宗教家になったのか? 「悩める人の杖となれ」ということではなかったのか? それとも教団を作りたかったのか? 宗教が解体され、原点に戻る時期が来ていると私は感じています。