by Rainbow School
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キリスト教がもたらした弊害(2)
私は、大きく次の四つの問題点を指摘したいと思います。

(1)神を法則ではなく、父(人格神)にしたこと
(2)天使と悪魔という二元対立論を強調したこと
(3)原罪論を持ち込んだこと
(4)他力信仰を奨励したこと

これらは、教会と僧侶に権威づけをし、宗教を広めるためにはどれも非常に有効な優れた戦略であったと言えます。だからこそ、世界の3分の1の人々に浸透したわけです。しかし逆に言えば、非常に多くの人々が、キリスト教の「教義」の洗脳下に置かれてしまいました。欧米人の間では、あまりにも長く、かつ深く浸透したために、この洗脳を解くのがとても難しい状態にあるのです。

ではこの四つの何がいけないかを順番に見て行きましょう。

先ず(1)の《神を法則ではなく、父(人格神)にしたこと》については、「法則」という視点に立てなかった、つまり「真理」に迫れなかったということだけではなく、そこに人間的な「情愛」というものが持ち込まれてしまいました。それは、感情というものを持つ人間には合っていたのですが、「沈黙する神」【注1】という問題を解決できずに、却って苦悩をもたらしました。

キリスト教教会内部の荘厳な雰囲気、あまりにも美し過ぎる演出の数々は、「父に対する愛」という人間的な感情を美化するためには、非常に都合がよかった。しかしそれによって、「法則」の普遍性というものが顧みられなくなってしまったのです。

エッセネ派の人々は、荘厳な神殿を持ちませんでした。洞窟で、あるいは道端で、話し合っていたのです。いつでも、どこにでもあるものだけが「真理」であり、教会に行かなければ出会えないようなものが「真理」であるはずがありません。「法則」こそが「真理」であり、ですから答えはすでにあるということなのです。

(2)の《天使と悪魔という二元対立論を強調したこと》の弊害については、言うまでもありません。これが「神」の名の下に戦争を行うという、今日に続く大問題の下地になってしまいました。

天使と悪魔というのは、「観念」を象徴化したもので、そのベースにあるのは、利他愛と自己愛の対立なのです。これは誰の中にも共存している事柄です。ところが、自己を天使側、つまり「善」なる者と位置づけ、自己以外を「悪」と見なす極端を行った結果、「悪」を叩くことが「善」を浮上させるという独善を生み、戦争そのものを肯定してしまったのです。

世の中に、しじゅう悪巧みを考えている人というのはおります。しかし、詐欺に心を動かされる人が一人もいなければ、詐欺師というものは成り立ちません。悪というものは、見たい人が見るということです。認めなければ悪はないのです。悪を認めることは悪に力を与えることであり、善悪二元論はこの誤りを強調してしまったのでした。

さて(3)の《原罪論を持ち込んだこと》を説明する前に、「原罪」とは何かについて話しておかなくてなりません。

「原罪」というのは、人類というものがそもそも「罪」を背負った存在だとする考えです。この「罪」とは、神に対する不従順ということで、人類の始祖とされるアダムが、禁断の木の実を食べて楽園を追放された。アダムは始祖ですから、よって人類すべてにこの「罪」が及んでいると見なすのです。

この「原罪」論が、戻るべき天国に対する渇望、ひいては教会への帰属意識を掻き立てたことは言うまでもありません。

しかし、「真理」を言えば、罪も罰も宇宙にはないのです。いったい宇宙は誰が創ったのでしょうか? それは解りません。しかし、創造者と被創造物が一対一の関係で成り立つ因果律を考えれば、やはり宇宙を創ったものがいるはずであり、それは論理的に考えて、一者です。ただ一つの存在です。【注2】

その同じ一つが、罪と罰を創るものでしょうか? 何のために罪と罰が必要なのでしょうか? 罰を与えたいために罪を創ったというのでしょうか? それは、それほどイジワルな存在なのでしょうか? 論理的に考えてあり得ません。ましてや、なぜ罪を背負った人間をわざわざ創り出す必要があったというのでしょうか?

少し考えてみれば、これほど馬鹿げた教義はないのに、世界中のキリスト教徒たちが、このおかしな論理に嵌められてしまった。自分は「原罪」を背負っている。やることなすこと上手く行かないのは「原罪」のせいだ。この、本来なくてもいい蓋を自分に被せて、過去どれだけ多くの人が道を迷ってしまったことか‥‥。

(4)の《他力信仰を奨励したこと》。これまで見て来た三つは、どれも教会とその組織への帰属意識を深めることになったのですが、その副産物として「他力信仰」の考えが徹底されて行きました。父なる神に祈る。そしてその神によって自分を引き上げて貰う、という「他力信仰」です。

確かに、最後の最後は「他力」なのです。また、宇宙のすべては「一なるもの」によって創られたのですから、我々がその手のひらの上にあるという意味では、「絶対他力」であるということも間違いではありません。しかしそれが「自力」を否定したり、おろそかにするものであってはならないのです。

「自力」あっての「他力」、「他力」あっての「自力」なのです。もし「他力」だけでよいのであれば、いったい何のために肉体を持ってこの世に誕生したのでしょうか? いったい何のために、苦悩を味わわされるのでしょうか? 試練というものは、それを乗り越える「学び」としてあるのであって、それは「自力」で取り組めということなのです。

「もっと苦しめ」ということなのです。必死に祈ったら、苦しみを解いて救い上げてあげるよ。果たしてそれが「愛」でしょうか? その苦しみを自分でよく考えて乗り越えろ。それこそが、もっと大きな「愛」だとは思いませんか? それは、どちらに「成長」があるかを考えてみれば、すぐに解るはずです。

以上、キリスト教がもたらした四つの弊害について書いて来ました。日本人にはあまり馴染みがないことですが、世界は未だにキリスト教の強い影響下にあって、この弊害をどう乗り越えるかは、人類全体にとっての大きな試練でもあるのです。今後起きるであろう世界の動向を、そのような視点で見ていただければ幸いです。(了)

【注1】沈黙する神:必死に祈ったり、お願いしたりしたとしても、自分の望むものが得られない、回答がないという問題。

【注2】論理的に考えて一者:宇宙を創ったものがもし二者だとしたら、互いに半分の宇宙しか創っていないのですから、それは真の創造者とは言えません。ですから二者を創ったさらに上位のものがいるということになり、結局それは一者でしかあり得ないのです。神秘学では、それはロゴス(LOGOS:理法)だと教えています。
キリスト教がもたらした弊害(1)
統計によると、世界の宗教のうち、3分の1(33%)がキリスト教徒だといいます。今世紀中にはイスラム教徒がこれを抜くと予想されているのですが、それでも、現在の世界はキリスト教の圧倒的支配下にあるといっていいでしょう。なぜなら、政治経済をこれまで牛耳って来た、いわゆる「西側」諸国のほとんどが、みなキリスト教文化圏にあるからです。

日本のキリスト教信者数は人口の1%以下で、その意味では、日本人はキリスト教の影響をあまり受けていないと思うかも知れません。しかし人間は輪廻転生していますから、過去世でキリスト教の影響を強く受けたという人は少なくありません。私は霊能者ではありませんが、話をしていたり雰囲気を読んでいると、それが如実に感じられる人がおられます。

これは、別段キリスト教を貶めようとか考えてのことではないのですが、過去2000年の歴史の中で、歪められて成立したキリスト教の弊害というものが、今日の世界に大変な悪影響を与えていると、個人的には考えています。

「キリスト」というのは、ギリシャ語で「救世主」の意味で、イエスがその「救世主」と目されたことから、イエス=キリストのようなイメージが出来上がっていますが、厳密にはキリストは一般名称、イエスが個人名称です。仏陀(目覚めた人)が一般名称、釈迦が個人名称というのと同じ関係です。そしてさらに言えば、神秘学では「キリスト意識」と「仏陀意識」は同じだとしているのです。

キリスト教が、コンスタンティヌス1世によって公認されたのが313年。それまでは、ローマ帝国はキリスト教を弾圧していました。それが一転して公認し、395年にはテオドシウス1世が「国教」に指定します。その背景には、広大な国土を持つに至ったローマ帝国を統治するには、当時、信者数が膨れ上がっていたキリスト教を、弾圧するよりは抱き込んだ方がいいという目算があったわけです。

この過程で、キリスト教の解釈の統一を図るために、325年の「ニカイア公会議」を第一回として、何回かの公会議が開かれ、三位一体説をはじめとする今日のキリスト教の公式の見解というものが整えられていったのです。

同様に『聖書』も制定されていきましたが、この中には誤訳や意図的な改変、解釈変更などが多々盛り込まれていました。つまり、キリスト教は、かなり政治的な意図のもとに作られて行ったのです。

考えてみてください。イエスが豪華な教会を持ったのでしょうか? ヒエラルキーを作ったのでしょうか? 十字架を胸にぶら下げたのでしょうか? 『聖書』を読んだのでしょうか? これらはみな後の人々が作ったのです。イエスは神秘学徒の集団であったエッセネ派から出現したのであり、キリスト教という宗教の教祖ではないのです。

さて、このようにして成立していったキリスト教ですが、そこには当然ながらイエスの語ったエッセンスは含まれてはいるものの、いくつかの重大な点で、意図的な歪みが加えられてしまいました。

(明日につづく)
信仰心
セミナーに初めて来られた人に、「やっぱり、人間いちばん大切なのは、信仰心ですよね」と同意を求めるように質問され、「いやぁ、自分はいたって信仰心のない人間なんで‥‥」と答えたら、ビックリされてしまいました。

宗教はもちろんのこと、スピリチュアルを説くセミナーでも「信仰心」の大切さを強調するところは多いようです。ですから多くの人がその慣習に自然と染まっていて、「信仰心」が何よりも大切だと思い込んでおられるのです。そこで「信仰心は不必要」などと言うと、急に頭をガーンと殴られたようになってしまうようです。

「信仰心」というのは、謂わば、道を歩くときの「杖」です。崖や山道に差し掛かった時には、「杖」があった方が歩きやすいかもしれません。しかし、いつも「杖」を使っていると、そのうちに平坦な道でも「杖」なしでは歩けなくなってしまいます。その結果、本来人間は「杖」なしでも歩けるのだ、ということを忘れてしまう可能性が高いのです。

私の母は「信仰」を持つことによって、性格が一変しました。ヒステリー症状がなくなり、気持ちが穏やかになって、起きたことを何でも受け入れるようになりました。それは紛れもなく「信仰心」の賜物だと言えます。しかし私にも、しばしば教会(神道系)へ行くようにと促し、家にあった父が使っていた仏具やお社を、私の知らない間に庭でみんな燃やしてしまいました。

「杖」なしでも歩けるということを忘れてしまうということ。そして、特定の一つの対象しか信じなくなること。これが「信仰」というものの、いけないところです。

「宇宙」がどうして出来たのか、何ものが創ったのかは、誰にも分かりません。「ビッグバン」説は、そこだけには因果律が成立しないと言っているのですが、どう考えてもこれは苦し紛れの屁理屈です。そもそも因果律を追究するのが科学であるのに、「宇宙」の始まりに関してだけは、因果律が成立せずに「無」から生じたと言っているのですから。

それはさておき、創造主が何であるかは分からないにしても、その意図は、創造の結果であるところの「宇宙」に表現されているのです。あまねく所に行き渡る「法則」として。そのことからすれば、創造主とは「法則」である、と言っても間違いではありません。そしてこの「法則」は、物理的な世界では物理的な「法則」として、私たちの前に立ち現れているのです。

たとえば「万有引力の法則」というものを取り上げてみることにしましょう。(実は重力がなぜ存在するのかは未だに解っていないのですが)ニュートンが発見した「万有引力の法則」は、地上での物体の動きをよく説明しくれます。さてこの引力は、「信仰心」の多少によって変化するのでしょうか?

するわけがありません。「信仰心」の多少によって、もし引力が変化したとすれば、それは普遍的な「法則」ではなくなってしまいます。同様に、全「宇宙」をつかさどる普遍的な「真理の法則」が、「信仰心」などに左右されるはずはありません。「信仰心」の多少に関係なく、どんな場合でも、普遍的に作用するものが「法則」であり「真理」だからです。

「信仰」という言葉の定義にもよりますが、この「真理の法則」を敬い、その法則に則った生活をすることを、もし「信仰」と呼ぶとすれば、その敬う心は「信仰心」だと言えるかもしれません。しかし、世の中に今ある「信仰心」はそうではありません。「信仰心」のためには、極端な場合、異教徒たちは皆殺しにしてもよいとまで言うのが「信仰心」とされているのです。

これほど馬鹿げた行為はありません。「信仰心」のために、「真理の法則」を無視し、むしろ逆らった生き方をしてしまっているのですから‥‥。無智蒙昧と言わざるを得ません。「法則」とは、冷徹で絶対的なものです。頭上に放り上げた石が必ず落下するように、「真理の法則」に逆らった結果も、必ず自分に返って来ます。それが「法則」というものなのです。

「信仰心」というものが強調されるようになったのは、宗教教団を束ね、聖職者に権威を持たせるための、それが強力なツール(道具)となり得たからです。無学な大衆を教団に引きつけておくのには、「信仰心」がもっとも手っ取り早かったのです。しかし、多くの人間が高等教育を受け、インターネットで何でも調べられる時代に、「信仰心」はもはや時代遅れです。

「信仰心」など要らない。教団など要らない。ただ、「真理の法則」をよく学習して、その法則に則った生き方をするだけでよいのです。
仏教が「愛」を説かない理由
10年前までの私はというと、まだ「愛」という言葉を語るのに強い抵抗感を持っていました。ハリウッド映画を観た日ときたらエンディングは決まって「愛」で、「なんだまたかよ。離婚率が5割を超してる国が、よく言うよ」と、スクリーンに向かって、舌打ちしながら毒づいていたりしたわけです。

というのも、当時の私は(頭の固い)仏教徒でしたので、西洋人、とりわけキリスト教徒が言うところの「愛」を全く信用していなかったのです。ご承知のように、仏教では「愛」を、苦を生じる元になるとして、否定的に扱っています。正確に言うと、仏教で言うところの「愛」は、「渇愛(タンハー)」という情動的な「愛」を指します。

そしてまさに、西洋的な「愛」はこの「渇愛(タンハー)」を超えるものではない。だからこそ、「愛」の裏側には常に「憎しみ」が隠れていて、これが二元対立思想(さらには戦争)の引き金にすらなっている、と考えたわけです。そういう意味で、当時の私は、仏教の方がずっと上を行っていると思っていました。(西洋人のインテリ層にも東洋思想の方が上と考えた人が多くいた)

しかしその後、日本の仏教は釈迦の説いた教えではないという衝撃の事実を知り、さらにはキリスト教もイエスの教えではないということを知るに至って、宗教というものの不毛にやっと目覚めたわけです。そこには「真理」などなかったのです。(「真理」の一端はあります。ただし相当に歪められた形で)

さて「愛」に話を戻しますと、実は「愛」にも大きく三段階があって、本来はこれを区別して捉えなければならなかったのです。ところがみんな一緒くたにして「愛」と語っているために、混乱が生じているのです。しかし古代ギリシャ人はこれを明確に区別していました。それが、エロス(ερως, eros)、フィリア(φιλια, philia)、アガペー(αγαπη, agapee)です。

この三つは、エロス(性愛)、フィリア(隣人愛・博愛)、アガペー(真の愛・神の愛)のように訳されることが多いようです。訳語から、それぞれの意味の違いが何となくお解りかと思いますが、実はこれは「霊性密度(次元)」でいうところの、第三、第四、第五にそれぞれ対応しているのです。

そして、第三霊性密度(次元)の愛である「性愛」は、感情を司る第三チャクラ(マニピューラ)と対応しており、第四霊性密度の「隣人愛・博愛」はまさにハート、つまり第四チャクラ(アナハタ)と対応し、第五霊性密度の「真の愛・神の愛」は、本当の智の獲得を意味する第五チャクラ(ヴィシュダー)とそれぞれ対応しているのです。

このことから察しられますように、最初は「感情」をたっぷり含んだ情動的な「愛」だったものが、霊性が向上するに従って、しだいに博愛的なものに変化してゆき、最後にはそれさえも超え、善悪二元論的対立からついに脱して、本当の「愛」の完成を見るというわけなのです。

これは個人としても、また人類全体としても、「魂」の進化にとっての大きな課題であり、今日世界から戦争が絶えないのは、人類の大多数が未だに第三段階の未熟な「愛」に留まっているということなのです。

さて以上を通じて、仏教が言うところの「愛」は、どちらかというとエロス的な「愛」を語っており、キリスト教が説くところの「愛」は、フィリアからアガペーへの「愛」を語っているということがお解りいただけるでしょう。(実際には、それをエロス的な「愛」と混同している人が多いということになりますが、目指しているのはアガペーです)

ですから、一緒くたにして「愛」と言ってしまうために、仏教とキリスト教での捉え方の違いが目立ってしまうのですが、その違いは、三段階ある「愛」のどこにフォーカスを当てているかという違いから来ているのです。さらに言えば、仏教は自力を重んじ、キリスト教は他力を重んじていますので、そういう視点の違いが生じているのです。

では、このエロス → フィリア → アガペーへの進化段階を決定づけるものとはなんでしょうか? それは「感情」を手放していくということなのです。そう言うと、きっとびっくりされる方がいらっしゃると思います。なぜなら「愛情」というものが、一般常識では尊いものだとされているからです。

でもこんな例を考えてみてください。親の過剰な「愛情」に翻弄されてしまった子がたくさんいるんですよ。確かに赤ちゃんは一人では生きられませんから、幼少時にはたっぷり「愛情」を注いであげることが必要です。しかし、子どもの成長に合わせて、親の「愛」も、エロスからフィリアへと向上させていかなければならないのです。いつまでもエロス的な「愛」では、子のためにならないのです。

ですからそのためには、「感情」主体の主観的な意識から、より客観的な意識を多く獲得するように自己を鍛錬していく必要があります。そしてそれが出来たとき、「渇愛(タンハー)」は普遍的な「博愛」へと変わり、「同情心」もより普遍的な「慈悲心」へと変わっていくのです。
宗教戦争の本質
「宇宙」というものがどうして存在しているのか。これは誰にも解けぬ謎です。人間は、その中の一員であるわけですから、「宇宙」の存在理由が解らないとなると、自動的に、人間の存在理由も解らないということになってしまいます。これが、「自分というものが解らない」「生きる意味がわからない」という思いが生じる根本原因なのです。

しかしそれでは気持ちが悪いので、人間は便法を考え出しました。「宇宙」というものは不可知の創造主が創ったものという見なし方です。そしてこれに人格を付与し、創造主を「父」、人間を「子」と捉えることで、一応の安心を見出したのです。これが宗教を生み、定義の違いによって、多くのバリエーションを生むことになりました。

しかし、不可知の存在の証明は不可能ですから、その考え方を「信じる」しかなく、やがてこの「信じる」者たちの同士の縄張り争いが発生しました。そして、縄張り争いを繰り返す過程で、その闘争が、彼らが「信じる」創造主の御心に果たして適っているのかどうかという問題は、都合よくねじ曲げられて来たのです。適っているはずであると。

これほどおかしな話はありません。Aという宗教と、Bという宗教が、ともに自分たちが信じる「神」の思し召しで戦争をし、殺し合いをする。その結果、仮にAが勝ったとしましょう。A宗教はやっぱり自分たちの「神」が正しかったと言うのでしょうが、ではB宗教を信じる人々を創造したものは誰なのでしょうか?

万物の創造主というものがもしいるとすれば、それは一つです。一つでなければなりません。もし二つということになったら、その二つを創ったものは誰だということになってしまいます。ですから、論理を重ねて行けば、必ず一つというところに帰着します。

そうしますと、A宗教がB宗教を攻撃して叩くということは、この創造主の被造物の一部を破壊するという行為になってしまいます。つまり、「神」の思し召しで戦争をしたつもりが、逆に「神」の全体性を破壊することになってしまうのです。「神」の嘆きが、聞こえるとは思いませんか?

悪魔(Devil)という概念は、人間が勝手に創り出したものであり、発想そのものが悪魔的(悪魔を考え出さなければ悪魔はいないわけですから)であることに、気づきましょう。悪魔を叩くことが、善なる者を高みに昇らせるなどということはありえません。むしろ、悪の上塗りににしかならず、人類にとってそれは自殺行為にも等しいのです。

第二次世界大戦であれほどの犠牲者を出したのに、人類は未だにことの本質を掴んではいません。相も変わらず「敵」を設定し、それを叩くことばかり考えている政治家が、各国のトップについているのです。その発想がどれほど幼稚なものであるか。冷静になって考えてみてください。

仮想敵についていろいろ話したり分析したりする者の方が現実的で賢く、“World Peace”などと真正面から言う者は、空想論を言っているに過ぎないと、小バカにされるような風潮があるのですが、本質は真逆だということです。「真理」はいつもシンプルで普遍性を持っているものです。複雑で個別にしか言えないようなことは、所詮うたかたに過ぎないのです。
「肉の宮」に勝る宮なし
神はご自身に似せて人間を創られた。この短い言葉の中には、何重もの深い意味が隠されています。この言葉の中に、すべての真髄が含まれてると言っても過言ではありません。

その一つが、他ならぬ私たちの肉体。人間の体はおよそ60兆個の細胞で出来ていますが、その始まりはたった一個の受精卵です。つまり陰陽の合一。それが倍々ゲームで卵割を重ね、やがて各器官が、収まるべきところに収まるべくして出来上がっていくのです。

これは宇宙の創生理論だというビッグバンのインフレーション仮説と、まさにそっくりではありませんか。このように、マクロコスモス(宇宙)とミクロコスモス(人間の細胞)は、相似形を為しているのです。

また、この相似形を写したものが、いわゆる「易」です。陰陽太極(二極)から始まり、四象、八卦、十六卦、三十二卦、と倍々ゲームで増えていく。陰陽太極図は、勾玉を二つ並べて回転させた図で、それは胎児を表しています。

人間の体の60パーセントは水ですが、現在の分析技術では70数種類の元素が見つかっています。それらはみな宇宙にあるもので、これらの元素を絶妙に組み合わせて人体が作られ、肉体の死後はまた分解されて、他の宇宙の存在を生かすための素となるのです。

ふだん意識せずに接しているために気がつきませんが、これほどの「完全なるもの」は他にないのです。試しに、どれほど凄いかを挙げてみましょう。

1.食物から生命エネルギーを取り出す化学工場を体内に有する
2.筋肉を動かして、行為、行動することができる
3.思考し、善なる意識を表現しうる
4. 男女合体して、新しい生命体を生み出すことができる

以上のことを、一つの肉体が全て兼ね備えているのです。人間が外に作った宮で、これらを超える宮は、何一つありません。どんなに丁寧に扱い、修繕を重ねたとしても、それらは必ず朽ち果てるのです。

あなたが着ている「肉の宮」こそ、完全かつ最高の宮なのです。なぜなら、神の似姿に創られたのですから。そのことが解れば、自ずと、何を参拝対象とすべきかもお解りでしょう。だから、日々体をいたわり、体に感謝し、体にお供物を捧げて生きるのです。
偶像崇拝とは?
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教を合わせて、世界四大宗教という場合があります。人口で言うと、ヒンドゥー教徒の方が仏教徒よりもずっと多いのですが、一国を超えて広がったという意味で、仏教が世界四大宗教に数えられています。

さてこの中で、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つは、一つの神を信仰するということから、一般的には「一神教」だと言われています。実はこの3つの宗教が奉じる神が同一であるということは、日本人にはあまり知られていません。ですから、これらの宗教間の争いは、よく「近親憎悪」だと言われたりします。

一方の仏教は「神」を報じてはいません。仏教の目的は解脱に在って、神との契約において自己の救いを求めるという、エジプトを起源とする考え方とは異なっているのです。簡単に言えば、地中海から広がった宗教は「他力」、東洋は「自力」を志向したと言えるでしょう。

仏教は「神」を奉じないのですが、その代わりに「神々」を多く祀りました。これは万物に神性が宿るというアニミズム(animism)の考え方を反映したものです。そして、これらの信仰対象を表現するために、像をたくさん作りました。時には、巨石であったり、巨木であったり、それらに宿る霊を祀ることをしました。

これが、地中海発祥の一神教からすると、教義で禁じられている「偶像崇拝」に映ったわけです。2007年に、バーミヤンで石仏が破壊された事件をご記憶されている方もおられるでしょう。

しかし、像に彫られた物をみな「偶像」だとする考え方は、単純に過ぎるのです。よく私は言うのですが、お墓参りに行って、みな何に頭を垂れて祈っているのですか? まさか墓石ではないでしょう、と。それと同じで、像というものは、心を集中させるに際しての、一つのターゲットに過ぎないのです。

英語で言うGod(神)はgood(善)から、Devil(悪魔)はevil(悪)から派生したものです。このことを見ても解るとおり、地中海発祥の一神教は、「一神教」とは言っておりますが、内実は「善悪二元論」です。あくまで、「悪魔」に対抗した「神」なのです。「神」を際立たせるために「悪」を作ったと言ったらいいでしょうか。

アニミズムの考え方は、「一神教」を奉じる人たちからは、原始的で低級なものとされています。しかし、万物に神性が宿るということは、あらゆるもの全部なのですから、結局は一つということになります。つまりこちらこそが、「二元論」に陥ることのない本当の「一神教」だと言ってもよいのです。

ところで霊界では「神」とは言っていません。「神」というのは人間が付けた名称であって、霊界では「それ」というのが普通です。英語では「THAT」です。あるいは、「THE UNIVERSAL」です。「THE UNIVERSAL」は、日本語では「普遍的なるもの」と訳されます。

「universal」というのは、アメリカの映画会社の社名になっていますが、大宇宙とか、全体とか、あまねく偏在しているといった意味です。この語にある「uni」は「単一の」という意味で、ユニフォームが単一の服を示していることからお解りでしょう。

ですから「universal」には一つのものから普遍化したという意味があるのです。つまり、正しく「全一」という意味を示している言葉が、この「THE UNIVERSAL」です。

さて「偶像崇拝」の真の意味なのですが、この「THAT」あるいは「THE UNIVERSAL」を、人格化してしまったことを指すのです。本来、「それ」としか呼べないものを、人格化してしまった。人格化して自分の外側に置いて、これを信仰の対象としてしまった。ここに、宗教の罪深い問題、根本的な誤りがあるのです。

「人間を、神は、ご自身に似せて作られた」これは本当のことです。なぜなら、全てが一つなのですから。全てが一つなのですから、相似形を為しているのは当然のことです。

ところがこの言葉を曲解して、神も人間と同じような姿をしている筈に違いないと、逆の解釈をしてしまった。そして、この人格神を「唯一神」として、信仰の対象に置いてしまったのです。お解りでしょうか? 「偶像崇拝」を禁じている「一神教」の方が、実は「人格神」を奉じるという「偶像崇拝」の根本的な間違いに陥っていたのです。

真理は、そこにはありません。昔から語り手たちが伝えてきた真理は、全宇宙は一つであり、それは「それ」としか呼べないものであり、あなたも「それ」の一部であり、だから、あなたの中にもすでに「それ」はある。したがって、あなたの中にある「それ」に頼め、ということに尽きるのです。
宗教の時代の終わり
今年の夏、私は長年の念願だった本家の山に行きました。私の父の名は宗悦で、本当だったら寺を継ぐはずだったのですが、軍隊に取られてしまったので別の兄弟が継いだのです。今はその子だった従兄弟が継いでいるのですが、後継者がなく、たぶん今の代で修験の道も途絶えるでしょう。

私の中には、そのことに関する引っ掛かりがずっとありました。それで一度どうしても山に行きたいと願っていたのですが、登って一晩泊まってみて、予想だにしない全く意外な感慨を持ったのです。それは、「宗教の時代は終わった」というものです。

それまでは、300年続いた家系の歴史をこれで終わらせるのは忍びない、といった思いをどこかで抱いていたのですが、それが綺麗さっぱりとなくなりました。歴史は歴史として、真理への道は、時代に合ったものへと変わらなくてはならないと確信したのです。

世の中が、余りにも物質主義に偏重したために、宗教的なるものが衰退したという面ももちろんあるでしょう。が、それは同時に、宗教が語る「言葉」がもはや力を失ったということでもあるのです。

宗教はある意味、無学な大衆に対して、真理の一端を示すための方便としてあったと思います。しかし、これだけ科学が発達し、世界が一つにつながり、様々な物で溢れ返り、自然が遠くなった時代に、以前と同じ「言葉」が届くわけがないと思います。

親戚の法事などに出席しますと、法事が終わった後に、お坊さんが「ありがた〜いお話」をしてくださるのですが、アマノジャクな私はいつも(こんな話は、いったい誰が聞くのだろうか)と思うのです。西方に阿弥陀様がいらしてどうのこうの。思わず「見て来たんですか?」と言いたくなる。

不安な時代を反映して、聖書研究や仏典研究に向かう人もおられるのですが、「今さら‥‥」と思わずにはいられません。それが全く無意味だと言っているわけではありません。そうしたものの中にも「真理」は説かれています。しかし、非常に歪められた形に変容させられてしまっている。

ですから、そこから「真理」を拾おうとしたときには、まるで発掘調査をするような、ミステリーの謎解きをするような格好にならざるをえません。これは大変な難儀で、幅広い知識と、直感と、洞察力を必要とします。そのようなものに、みなが取り組む必要はいささかもないと私は思います。

「語り手」というものはいつの時代にも居て、その時代時代に合ったやり方で、ちゃんと「真理」を説いているのです。耳を澄ませば、眼を凝らせば、直感を働かせれば、いつでも誰にでもその「言葉」は発見できるのです。なにを今さら2000年も前の「組織」によって歪められた言葉を有り難がる必要がありましょうか?

そのような回り道をする必要は全くありません。「真理」はいつでもそこにあるのだから、直接つかみに行けばいい。最短距離で行けばいい。「真理」に時間はないのです。「真理」は永遠に「真理」なのです。普遍的なるもののみが「真理」なのです。そうでなければ「真理」とは言えないではありませんか?

「真理」をつかむのに、組織も、信仰も、苦行も、何も必要はないのです。それは、2000年間続いた歪みの歴史。ある時期、方便としてそれは必要だったかも知れませんが、もう手放す時期が来ています。一人ひとりが己を信じて直接向かえばいい。なにを今さら、歪みに身をさらす必要がありましょうか?
アダムとエヴァと、2本の木
自然と共に生きている人は、毎日見る自然界の観察から「命」というものが何であるかをよく知っています。自然界に「死」はなく、「命」というものは、たえず運ばれていくものだということを。一見「死」に見えるものも、次を生かすための若返りの循環であることを。

これが自然の掟であり、人間もこの掟に従わなければなりません。「死」が怖いという人は、自分という存在が無くなることの恐怖に耐えられない、とよく言われたりするのですが、魂が永遠であることはもちろん、肉体も消滅するわけではないのです。

焼かれようが土に埋められようが、肉体を構成していた細胞は原子レベルにまで分解され、他の「命」を構成するために使われます。これが「命」の大きな仕組みであり、その永遠なるものを象徴したのが、エデンの園の中央に植えられていたセフィロトの木(Sephirothic tree)です。

一方、エデンの園にはもう一本の木が植えられていました。知恵の木です。この知恵というのは「善悪」のことであり、そのことから、知恵の木は「善悪を知る木」とも呼ばれます。

神から、この木に成った果実だけは食べてはいけないよ、と禁じられていたのにもかかわらず、アダムとエヴァは好奇心から実果実を食べてしまい、それによってエデンの園を追放されてしまいます。

この物語には、神との契約の概念や、原罪の概念が含められているので、話の本質が見えづらくなっています。これは、後に教会の権威や宗教への隷従を人々に為さしめるために、本質をかなり歪めて伝えられたものであって、この歪みを取ってしまえば、物語の本質が解ります。

アダムとエヴァは人間の創始です。この二人が、禁断の果実を食べ、さらには永遠の命まで獲得しようとしたために、罰として楽園を追放されたということになっているのですが、これは楽園と地上とを分離した考え方で、そもそもの前提が大きく歪んでいるのです。

あの世とこの世は一つ。霊界と物質界は一つ。神と人間は一つ。これが本質です。罪も罰もないのです。

アダムとエヴァが「永遠の命」の獲得を狙ったというのはおかしな話です。なぜなら、元々「永遠の命」だったからです。冒頭に書いたように、「命」とはそもそも永遠だからです。永遠の輪廻の活動を「命」と呼ぶのです。自然界をご覧なさい。永遠に運ばれていく活動が、あなたにもハッキリと見える筈です。

元々「命」は永遠のものであるのに、それを限定的であると歪めたために、「永遠の命」の獲得を狙ったアダムとエヴァを、神が逆上して楽園から追放したという、さらにおかしな話をくっつけなければならなくなったのです。

これは、「命」を限定することで生じる恐怖を利用し、救いを、教会や宗教儀式に求めるように人々を仕向けたのです。そして、罪と罰という概念をも植えつけました。最悪なのは「原罪」論です。生きている人間がそもそも罪なんだと。これほど「命」の法則に反した教えもありません。

だとすれば、それを創ったのは誰か、という責任論が生じてしまいます。ですからこれは明らかな矛盾です。「原罪」を持つ人間を創った者が居たとしたら、その者に罪はないのか? ましてや、罰を与えることなどできるのか、となってしまいます。

そうではないのです。アダムとエヴァで象徴された人間の創始の魂は、元々、永遠を生きていたのです。ところが肉体を得た(物質化した)ことによって、先ず陰陽二元を生じた。エヴァはアダムの肋骨から創られたとなっていますが、これはその時の経緯を物語っています。

白い紙に白い絵の具で形を描いても見えません。でも黒い背景に白を置けば、その白が認識されます。このようにして、陰陽二元が生じ、それが広がって行ったのです。

男と女、光と影、S極とN極、プラスとマイナス、表と裏、上と下。およそこの世にある物の中で、陰陽を構成していないものは何ひとつとしてありません。嘘だと思ったら調べてご覧なさい。それは、この陰陽二元が、ただ一点から生じたことの証拠としてあるのです。

さてそこで、アダムとエヴァが「知恵の木」の実を食べた。「知恵の木」とは、善悪を知る木です。アダムとエヴァは、この実を食べることによって、陰陽二元に、「善」と「悪」という解釈を追加してしまったのです。そこで急に男女差を意識することになり、慌ててイチジクの葉っぱで前を隠すことになったのです。

男女の区別とは、単に性の陽と陰を示しているに過ぎません。二つで一つなのです。しかし、それに「善悪」概念をプラスすると、男尊女卑が生まれてしまいます。このようにして、あらゆる局面に、人間は「善悪」の概念を付け加えていったのです。これが、「失楽園」の本当の意味です。

人間は、自由意志の原則の行使において、「善悪」の概念を持つようになり、楽園から出て行くことを自ら選択したのです。わざわざ困難な道に歩み出したのです。その好奇心によって。

しかし、これまでの説明を聞いてすでにお解りでしょう。万物は二元の様相を示してはいますが、これは物質世界が成り立つためと(例えば、原子は+電荷と−電荷が引き合うことで形が保たれる)、「命」が世代交代して運ばれていくためにある仕組みなのです。

陽と陰に優劣はないのです。どちらも必要なのです。しかしながら多くの宗教は重大な過ちを犯しました。「善」と「悪」を分け、自らを「善」だと位置づけたのです。そして対立する「悪」の想念を確立し、これを叩くことによって「善」が光り輝くという、本質を無視した理論を打ち立て、これを神の名の許に布教していったのです。

現在もその影響は深刻です。日本を含めた西側陣営は、なんの躊躇もなく「テロとの闘い」という言葉を標榜しています。しかし、「テロとの闘い」によって、「善」が勝利するはずもなく、みなさんが見ての通り、世界中がますます大混乱に陥っているだけです。「悪」を叩くことは「悪」の上塗りでしかないのです。

私たちは、こうした誤りを修正し、物事の本質をちゃんと理解しなければなりません。「善」と「悪」は、アダムとエヴァの物語が象徴するように、人間が自ら選んだものです。しかし、その元を創造したのは、大霊であり普遍的なるものです。それは「陰陽相調和して万物なる」という本質を示したものだったのです。

支配と被支配、富者と貧者、勝者と敗者、奪う者と奪われる者、これら調和を乱す行為は、全て、宇宙の法則を無視した自由意志の使い方なのです。ですから、歪みは、いずれ必ず調整されます。しかし、そうならないように生きるのがもちろんいい。本質を理解した方々には、どうか調和の中に生きていただきたいと願います。
「他力」という「依存」
人は、様々なものを「依存」の対象物として見出します。その究極が、神様への「依存」です。宗教とは、神様への「依存」に他なりません。なぜこれが究極かと言いますと、疑うことが許されないからです。薬物やお酒は疑える。しかし神様は疑えない。そのため、宗教の洗脳からの脱出は難しいのです。

しかし、他の「依存」と同様、神様への「依存」もまた、自己判断力、生活行動力、社会性意識を減退させてしまいます。それで本人は楽しいかと言いますと、これも他の「依存」と同様、最初は心地よいのですが、だんだんと苦しくなって来る。

その理由も同じです。真の問題に向き合うのを避けているからです。しかし、宗教の場合は、そのことに気づきにくい。なぜなら、苦しいのは「信仰」不足のせいであると自己判断して、ますます神様への「依存」を強めていくからです。その際に、便利なエクスキューズとして使われるのが「他力」です。

確かに、最後の最後は「他力」です。全てが大いなる一つのものに委ねられているということから言えば、絶対「他力」に間違いはありません。しかし「他力」を強調する人は、しばしば「自由選択の原則」を忘れています。「他力」とは、自分では何もしないまま、神様にお任せすることではありません。

目の前の問題にきちんと向き合い、「自由選択の原則」に従って、「自力」をとことん試してみる。その「自力」の果てに「他力」があるという意味なのです。ですから、「自力」なき「他力」、「他力」なき「自力」は、どちらも本物とは言えません。

「自力」が本当か、「他力」が本当か、と議論しているようでは、まだ本物ではありません。ましてや、「他力」を何も行動しないことのエクスキューズに使い、お祈りばかりしているようでは、本末転倒と言わざるを得ません。それは単なる「依存」であって、自己の解放をますます遠ざける行為でしかないのです。

なぜなら人は、行動し、体験し、感情を味わい尽くすために生まれて来たのですから。