by Rainbow School
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養生と、トレーニングの違い
自彊術体操を始めて半年ほどになります。それ以前は真向法をやっていました。真向法は6年間くらい続き、そのあと自彊術に出会って今のように置き換わりました。自彊術の中に真向法のエッセンスも入っていて、動きをさらに加える形になったのです。

私が健康体操を毎日するようになったのは、密教ヨーガ(一般に知られているようなハタ・ヨーガではなくて瞑想行)の前段として、体調を整えるための適切な運動法がないかと探していたこともあるのですが、何といっても、体が弱かったからです。

子どもの頃からへなちょこで病弱だったため、なんとか健康になりたいという思いがずっとありました。これが、もし生まれつき頑健な体を持っていたとしたら、「養生」という考えにはとても至らなかったと思います。

スポーツ選手が意外と短命に終わってしまうのは、結局そこではないでしょうか。生まれつき頑健な体を持っていて、体を鍛えるトレーニング法には長けているけれども、「養生」という考えには乏しい。

現役時代はカロリー消費量が多いので、焼肉のドカ食いなどをしても平気だったのが、引退後も食習慣が変えられずにたちまち太ってしまう。それと怪我が絶えず、その後遺症もあって、引退後は急に運動をしなくなる。そんなこんなで、頑健なゆえに不健康ということになってしまうのではないでしょうか。

「養生」というのはトレーニングとは違って、鍛える一方じゃない。最近では科学的トレーニング法が浸透してきて、食事管理や休息も重視されるようになって来てはいますが、「気」を整えるとか、陰陽のバランスを保つといった考えまではないと思います。

今、BS日テレで『宮廷女官チャングムの誓い』の再放送を観ています。話は後半に入り、チャングムが流刑地の済州島に送られ、そこで医女になるための再出発を図るというところです。

ここで、医術の師となるチャンドクに出会うのですが、チャンドクに先ず教えられるのが、患者の顔色を見る技術。顔色を青、赤、黄、白、黒に分け、かつその部位を見ることで、患者の大体の状態を把握する。

次に教えられるのが脈診。これも現在のように単に心拍数を測るというだけではなく、指先の感触だけで脈の打ち方の違いを把握する。芤脈、浮脈、緊脈、滑脈、濡脈、数脈、牢脈、完脈など、その特徴を見分けることで、脈を診るだけで様々な病変を診断するのです。

自分が子どもの頃のお医者さんは、その他にも下瞼をめくって裏を見る、ベロを出させて見る、顔の両側のリンパ節に触れる、指を重ねてトントン打診をする、ということをみんなやっていました。今、そんなことをしているお医者さんは全く見なくなりました。

病院へ行くとすぐに検査に回され、医者は上がってきたデータを見るだけ。現代の医学は、一見発達したように見えて、診断技術は後退した面もあると思います。何よりも、人間を動かしているエネルギーは「気(プラーナ)」にあり、陰陽バランスがいかに大切か、という考えが失われてしまいました。

これが、現代人の不健康を作り、替わって健康食品産業を隆盛させる元になっていると、私は思います。高齢化社会がますます進展するいま、先人たちの知恵に習い、もう一度「養生」の視点に立ち返ることが必要ではないでしょうか。

3月から毎週月曜の午前中、全4回の日程で「自彊術」の講座を企画しました。まだ数名分の空きがあるようですので、ご興味のある方は、どうぞお問い合わせください。

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ある映画監督の病気と死
ご迷惑が掛かるといけないので名前は伏せますが、その映画監督は、戦後の映画史において革命的な足跡を残した人でした。世代的には私より一回り上の世代が、同時代感覚を持ってこの監督の映画を観ていたと思います。

団塊の世代よりも遅れて誕生した私は、映画、ファッション、音楽等、その時代に起きたあらゆる分野の革新を後追いして見ることになりました。この監督も極めて先鋭的で、既に特異な評価を獲得しており、当時の私はなんとか理解したいと思ったものです。

この監督の「映画」が、映画として面白いかと問われれば、個人的にはノーです。特に晩年のものは。けれども「映画」という表現を「反抗の武器」として使い、しかも庶民生活や時代性から遊離することがなかったという点で、まさしく異彩を放っていたことは間違いありません。

お正月に、この監督の生涯を追ったドキュメンタリー番組があり、20代で時代の寵児となったころのパワフルさを見て圧倒されました。私が知っているこの監督の姿は、テレビにちょくちょく出演するようになってからのもので、ちょっとしたことでスイッチが入ると、顔を真っ赤にして激昂する姿が強烈に印象に残っています。

いわゆる “瞬間湯沸かし器” といった性格で、言っていることにはもっともな部分があるのですが、でもちょっと怒り過ぎではありませんか、というものです。それが、テレビという媒体においては重宝された、ということもあっただろうとは思うのですが‥‥。

そこで今日の話なのですが、この監督は晩年に脳梗塞を患ったのです。この脳梗塞と、すぐに激昂する “瞬間湯沸かし器” 的性格との間には、深い関係があります。“瞬間湯沸かし器” のように絶えず脳を酷使していたために、脳梗塞になってしまったのです。

それは物理的にそうなったというよりも、「改めなさい」という警告のサインとしてそうなった。それは、周囲の人々の気持ちを、もっと察して配慮してあげなさい、という意味だったのです。

自分は自由である。自由に生きるんだ。その姿勢と生き方には素晴らしいものがあります。でも自分の才能に溺れることなく、同様に、他者も自由であるということを、もう少し考慮してあげればよかった。

脳梗塞を患ったこの監督は、精力的にリハビリに取り組み、一度は現場に復帰して一本の映画を撮りあげます。ところが復帰した現場で、また以前のように口から唾を飛ばしてして周囲の人間を怒鳴りつけているのです。ほどなくして二度目の発作に襲われ、一人では殆ど何もできない状態になってしまいました。

幸いにも、奥さんやお子さんたち、またヘルパーさんたちの手厚い看護と介護を受け、トータル17年間の濃密な家庭生活の時間を過ごすことができました。舌鋒鋭い論客として鳴らしたこの人の「魂」にとって、思い通りにならない身体と、言葉を発することができないもどかしさは、きっと大変な忍耐を強いられたことでしょう。

この意味はもうお解りでしょう。最初の警告で気づきがなかったために、第二弾として、周囲の人々の献身に支えられ「生かされる」という道が用意されたのです。これとちょうど似たことが、エリザベス・キューブラー・ロス女史にも起こり、彼女は『人生は廻る輪のように』という本の中で、その意味を述べています。

エリザベス・キューブラー・ロス:精神科医、『死ぬ瞬間』の著者として有名

この端的な一つの例を見て解るように、人の身の上に起きる出来事は、すべてがカルマの清算を通じた学習となっているのです。カルマの清算(別名「償い」)は、今世の中で行われる場合もあれば、来世に持ち越しとなる場合もあります。いずれにせよ、清算が終わるまで課題は出し続けられます。

あなたも、自分の身の上に起きた出来事をよくよく分析してみれば、そこに示されている課題が、自ずと解るはずなのです。しかし、そのような視点に立って自分を振り返るということをしないために、多くの人間たちが、野放図にまた新たなカルマを作り出す生き方をしているのです。

実は私も、“瞬間湯沸かし器” 的性格の持ち主でした。そして私の場合は、妻の死という事実をもって、課題に向き合うよう突きつけられたのです。私は「償い」をしなければならず、「心」を改めさせられ、そして今のようなお役が与えられたのです。
仕事と健康
庵野さんと僕らの向こう見ずな挑戦 日本アニメ(ーター)見本市』という」番組を観ました。私はアニメについては全くの門外漢で、映画もテレビも観ることはないのですが、庵野秀明さんという人物には以前からとても注目しています。

でもこのドキュメンタリーはいささか羊頭狗肉。肝心の庵野さんは殆ど登場せず、庵野さんの会社カラー(khara, Inc.)の若手作家の活動を追う展開になっていて、肩透かしを喰いました。でもそれはそれで、知らない世界を知ることができて興味深かったです。

その中で、彼らのライフスタイルを見て、ちょっと心配になりました。出社するのはだいたいお昼前後。中には昼夜が完全に逆転していて夜の8時に出社という人もいる。食事はご飯だけ炊いて、お惣菜を買ってきて済ませる。疲れたら机の下に頭を突っ込み、床に寝るという状態。これが何日間も続くのです。

ナレーションをスタジオジブリの鈴木敏夫さんがやっていて、「うちなら(昼出社なんて)クビだ」とか「うちは朝、みんなでラジオ体操をやっている」とか言うんですよね。

以前に水木しげるさんのことを書きましたが、水木さんは手塚治虫さんを代表とする「不眠不休で仕事をするのが漫画家」という固定したイメージを批判していて「俺は毎日10時間寝る」と言っていたんですよね。結果、手塚治虫さんは短命、水木しげるさんは長命となりました。言うなれば、スタジオジブリは水木しげる派、カラーは手塚治虫派です。

実は私もひとのことは言えないんですよね。仕事をしていたころは、同じような状態でした。帰るのはいつも深夜、週のうち半分は事務所で寝ていて、体も神経も疲れ切っていました。家に帰っても神経の興奮が続いていて寝付けず、テレビ画面の砂嵐をボーッと見てクールダウンしていました。(不気味な絵図)

クリエイティブな作業というのは、クオリティを上げようとすると際限がないので、どうしてもそうなってしまうんですよね。最後はどこかで妥協しなければならないわけですが、それが自分にはなかなか許せない。そういう魅力というか、魔物が、クリエイティブな作業には付いている。

でも今になって思うのですが、「バカだったな」と当時を反省しています。そうやって徹夜続きで、果たしていい仕事が出来ていたのだろうか? 身体はガタガタで、整体や氣功道場に通って調整する必要を生じ、お金もいっぱい使いました。カミさんにも子どもにも優しく接してやれませんでした。

まあ、そういう反省があって今があるとも言えるのですが、本当はもっと若い時分に気づくべきでした。仕事の大半は実はフローで、ストックに価するものなんて殆どなかった。だったら、もっと健康に気を配って、ゆったりと自己の内面を見詰める時間を多く持つべきでした。

でもそれが解らないんですよね、若い時には。徹夜続きの自分が、なんかカッコイイみたいな錯覚に陥っているのね。体をこわすところまで行って、痛めつけられてみないと、なかなか解らないんだなぁ。
アイドルに見る齢の取り方
20代の一時期、映画館に勤務していたことがあります。当時の映画業界はどん底で、人件費抑制のために、ポスター貼りからフィルム運び、掃除、売店、映写まで一人で何役もやりました。私がいた劇場は300席くらいありましたが、お客さんはいつもパラパラでした。

そういう中で、アイドルになった人を劇場に呼んで舞台挨拶をさせると、アイドル見たさでその日だけは入場者が増える。ということで、何度か出演交渉もしました。しかしこれがなかなか面倒くさい。アイドルの方はマネージャーがガッチリガードしていて、あれをさせちゃダメ、これをさせちゃダメといろんな制限を付けてくる。

それは、そのアイドルのキャラクターイメージを損なわないための事務所の戦略で、一度確立したイメージを(たいていキャッチフレーズが付けられていた)必死に守り通そうとするのです。ですからタレントさんも自由な発言は禁じられていました。当時は、それが熱心なファンに対するサービスだと考えられていたのです。

ところが同じアイドルを、時期を経てまた呼んだ時に、以前とは違ってお客の入りが半分以下という事態を経験をしました。舞台に立つご本人にしてみれば、厳しい現実を目の当たりにしているわけで、まったく哀れなものです。その後そのアイドルは芸能界から消えてしまいました。その時、私は悟りました。アイドルはイメージを守っちゃダメなんだと。

人間はみんな齢を取って行きます。アイドルだって齢を取るしファンだって齢を取る。ところがその流れに逆らってタレント側がいくらイメージを守ろうとしても、ファンの方は容赦なく齢を取って行く。そうすると、いつまでも変わらないタレント(ということは、成長しないということでもあるのですが)との間に、しだいに違和感が生じて来るのです。

ですからこれを防止するためには、タレント側はイメージを守るのではなく、逆にファンよりも常に一歩先の、自分が成長している姿というものを見せ続けていかなくてはならないのです。ある意味、ファンを裏切り続ける必要があるのです。それは勇気のいることですが、芸能界で長続きしているタレントさんを見れば、みな変身をいとわなかった人々であることが判ると思います。

私が尊敬するクリント・イーストウッドなどは、頭髪が後退しても、、皺くちゃになっても自分をさらけ出しているし、監督としても今なおコンスタントに作品を生み出し続けています。岸恵子さんや香川京子さん、ちょっと前の田中絹代さんらも、老け役を堂々と演じておられますね。『柔道一直線』で足でピアノを弾き名を馳せた、近藤正臣さんは今はお爺さん役でいい味を出しています。

齢を重ねることは、老いて行くということに間違いなく、それに抵抗しても仕方がありません。アンチエイジングの化粧品やサプリメントのコマーシャルに、びっくりするほどの若い肌の方が誇らしげに登場しておられますが、私はちっともステキだとは思いません。不自然でかえって気持ちが悪いです。

「老い」に抵抗し、見た目の「若さ」を必死で守ろうとする。どうして人間的「成長」を目指そうとはしないのでしょうか。「心の成熟」を目指そうとはしないのでしょうか。それこそが人生をポジティブに生きるということなのに‥‥。いつまでも「若さ」に拘り続けるのは、「成長」を放棄するということなんですよ。
「栄養」は食べ物それ自体ではない
私たちは物質的な肉体を持ち、その生命を維持させていくためにはエネルギーを取り込まなくてはなりません。この外部から取り込むエネルギーには、大きく二種類があります。一つは食べ物です。もう一つは、現代の科学では認められていませんが、呼吸と共に取り込んでいるプラーナです。

プラーナのことについては、これまでにも何度か書いてきましたが、「生き」とは「息」であり、人間は誕生して最初に「息」をした時から、魂を持った個人として生き始め、「息」をしなくなった時に肉体を持った存在としての活動を停止します。これが「生き」を引き取る、ということです。霊界に帰る(引き取る)わけですね。

この二種類のエネルギーのうち、どちらが重要かは、言うまでもなくプラーナです。普通の人でも、一ヶ月くらいは食物をなにも摂取しなくても生きていけますが、息は5分間くらい止まっただけで、たいていは死んでしまいます。ところが、この重要なプラーナについての知識は、一般の人には殆どありません。

さて今日は、もう一方の食物エネルギーのことですが、現代の栄養学がいかに間違っているかという指摘はこれまでにもしてきました。先ずプラーナの働きを知らないわけですから、そもそも根本的に間違っています。人体にとっては、プラーナが主たるエネルギーであって、食物というのは補助的エネルギーなのです。

だからと言って軽視してよいというわけではなく、やはり気を使うべきなのですが、その気の使い方のポイントが、現代栄養学では間違っているのです。

ここで、その基本的なポイントを挙げますと、
1.できるだけ汚染されていない、生命エネルギーに溢れた旬のものを摂る
2.少量をよく咀嚼して、楽しく、かつ喜んでいただく
3.日常の生活において、呼吸を整え、心身のバランスをよくしておく

といった点に気をつければよく、摂取する食品の種類にはそれほどこだわる必要はありません。これは人体というものが精密な化学工場であり、生きるために必要なものは自分で作り上げる能力を持っているからです。もちろん1.の点から言えば、加工食品などはできるだけ避けるべきです。

さて、現代栄養学の一番の問題は、「栄養」というものが、食べ物それ自体にあると考えているところです。その結果、バランスのよい食事を心がけるために「一日30品目を摂れ」といったスローガンを掲げたり、栄養を摂るという観点から、どうしても過食になりやすい傾向があるのです。

現代人の健康問題は、栄養不足にあるのではなく、むしろ過食によるバランスの乱れにこそあります。これは「栄養」というものの捉え方の誤りから来ており、「栄養」は食べ物それ自体にあるのではなく、人体という化学工場で、必要な要素に再構成され「自己化」していくというところにあるのです。むしろ、ここにスポットを当てなければなりません。

ですから、素材の種類や量をうんぬんするよりも、先ず精密化学工場としての自分の体が、外部エネルギーをどれだけ「自己化」できるかという能力に、「栄養」が大きく左右されるということです。これが、真の栄養学なのです。

そしてそのためには、心身を平静に保ち、平常からプラーナを充分に取り込んで、先ず生体機能を活性化させておく。その上で、楽しく、感謝して、毎食をいただく。これが最も大切だということです。
病はこうして作られる
今年の夏、あるご婦人に4日間ほど気功術を施してあげました。自分はそれを看板にしているわけではないので、こちらから投げかけることはしないのですが、足が痺れて辛いというので、思わず「じゃあ気功をやってみますか?」と言ってしまったのです。

それから4日間通いました。なかなかしつこくて、直ぐには結果が出ませんでしたが、ちゃんと好転反応が起きて、3日めからは快方の兆しが出てきました。ところが4日めが過ぎた翌日「もう治療は受けない」と言って来られました。ご主人が「そんなわけの分からないものは止めろ」と言ったというのです。

残念ですが、まあ仕方ありません。その後、そのご婦人は総合病院に行かれたのですが、MRIの診断を受けることになったというのです。私は(えっ、足の痺れでMRI?)と思いましたが、何も言いませんでした。しかもその検査機器が順番待ちで、その方が受けられるのは1カ月先だというのです。

それからどうなったかは、こちらから訊くのも憚れるのでそのままにしていたのですが、先日久しぶりにお会いしたら、見るからにやつれてしまって元気がない。聞けば、脊柱狭窄症と診断されて、これから入院するというのです。私が気功術をしてあげたころは、足が痺れると言いながらも、まだ農作業をされていたのにです。

入院して、どんな治療をされるのかは分かりませんが、外科的にいじったりしなければいいけどなぁ、と案じています。脊柱は単に神経の通り道じゃないんです。中枢という言葉どおり、肉体的活動を司る正にセンターになっているのです。

西洋医学はそのことを知りません。人間の肉体について、ごく限られた偏った見方しかしていないのです。加えてそこに、高度な検査機器→データによる診断→病名の付与→手術と薬による治療、という一連の流れが出来上がってしまい、人間の勘や経験を基にした見立てというものが排斥されてしまいました。

足が痺れているだけなのに、なんでMRIなのか? 私だって、日常的にあちこち痛むし、怪我もするし、胃が重かったり、食欲がなかったりする時だってあります。そういうグレーゾーン(薄いグレーから濃いグレーまで)にある時に、高度な検査機器を使ったら、そのコストに見合うだけのパフォーマンス、つまり「病名」を付けなければならなくなってしまいますよ。

「調べたけれど判りません」とか「どこも悪いところありません」とは、とても言えないでしょう。こうして適当な「病名」が付けられ、そこから「病気」と「病人」が作られていく。
一度「病名」が付けられた「病人」は、その日から、その「病気」らしく振る舞うようになっていってしまいますよ。意識の底に、それが植え付けられるわけですから。

私のカミさんも、見る見る衰弱していって、わずか10カ月で死んでしまいました。その頃は自分もまだよく解っておらず、その手痛い失敗の、反省の上に今があるのです。現在の医療は、法律に守られた独占の上にあります。ですから、そこで決まったこと、進行しつつあることには、誰も逆らえない。
加えて、「介護保険」という、齢を取ったら「介護」される老人になるのが当たり前という価値観まで作られている。
こんなことでいいのでしょうか? 医療や介護をめぐる状況はますます悪化していると思います。
ダイエットと「愛の渇き」との関係(2)
(前日の続きです)

この悪循環を断ち切るためには、やはり根本的な「原因」に向き合い、これを解決するしかありません。それなくして、どんなダイエット法を試みてみても、いわゆるリバウンドという結果に終わってしまうでしょう。ある方法で「成功した」という方も、よく観察すれば、「心」が変化していることに気づかれると思います。

このように、「過食」の悩みに苦しまれている方は、先ずもってご自分の「心」の状態を客観視して、そこに何らかの「愛の渇き」があることを発見し、それを認めていただきたいのです。それが出発点であり、そこで「素直さ」というものに立ち返れない人は、次へは進めません。

素直になって、自分を見つめれば、必ず「愛の渇き」、「愛」への強い渇望感が未解決のまま、根底に横たわっていることに気づかれるでしょう。その内容は人によって違います。しかしその多くは、幼少時の体験を起因とした、父性的なもの、母性的なものへの渇望感にあると気づかれることでしょう。

それが解った人、特定できた人は、そこから大きく変わる。中には、それが前世から引きずってきたものであるという人も、かなりおられます。しかしそういう人も、「心」を落ち着けて静かに瞑想をすれば、しだいに根本的な原因というものを発見することができるようになります。要は、とにかく素直になることです。

そして、そこに気づくことが出来れば、真の「原因」に向き合うことになるので、あとは長息と止息の呼吸法をしっかりやるだけで、スーッと痩せていき、体調も「心」も整って行きます。道具も何にもいりません。お金も掛かりません。呼吸の仕方を変えるだけでよいのです。

さて、その気づきに至った方は、さらに次のことに想いを馳せていただきたいのです。確かに、自分の根底には「愛の渇き」というものがあることが解った。そしてその大きな原因は、幼少時のあの体験に起因しているということも解った。しかしそこでです。もう一歩、先に進んでいただきたい。

あなたは、ご自分の「愛の渇き」ばかりにフォーカスを与えてはいなかったでしょうか? 自分への愛情不足、満たされなさ、そればかりを考えて過ごして来てはいなかったでしょうか? まさにそこに真因があるのです。

今まで、どれほどの「愛」を、あなたは周囲の人に与えて来たでしょうか? ご自分を忘れて、どれほど周囲の人に尽くして来たでしょうか? 「愛」はブーメランなのです。無償の「愛」が欲しければ、自分が先ず無償の「愛」を与える人にならなければなりません。

これが「宇宙の法則」「真理の法則」なのです。すべての苦悩は、自分の心得違いより発する。それが解った人は、その日から大変身することでしょう。
「愛」を求める人から、「愛」を与えられる人に、あなたもなれるのです。

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*なぜ、呼吸法だけで体型が変わるかと言いますと、人体の生命活動を維持していくためのエネルギーには、食物エネルギーだけではなく、呼吸によって取り込まれる「プラーナ(気)」もあるからなのです。

むしろこちらの方が重要であり、この元が充分に体内に取り込まれている状態は「元気」、これが不足すると「病気」になるわけです。「プラーナ(気)」を充分体内に取り込んでいれば、その分、食物エネルギーに頼る必要がなく、自然と少食になっていくのです。
ダイエットと「愛の渇き」との関係(1)
テレビ、雑誌、インターネット、電車内、どこもかしこもダイエットを誘う広告で溢れかえっています。新式のダイエットをうたう広告が、こんなにも次から次へと登場するということは、どれも効果がないということを証明している、と自分などは思うわけですが、世間の人はそうは思わないようです。

何事も、問題を解決しようとした場合の鉄則は、「原因」に当たることです。太り過ぎという現在の状態は「結果」であって、「原因」ではありません。それなのに、現在の「結果」の解決を目指して、その対処法をいろいろやってみようとみな考えるので、物事が解決しないのです。

太り過ぎの第一原因は「過食」です。そんなことは解り切った話です。日々の活動を通じて放出しているエネルギーよりも、食物から取り込むエネルギーの方が慢性的に多いために、それがいわば貯金として体内に溜まっているわけです。つまり、エネルギーの収支バランスが悪いということ。

この収支バランスを改善するためには二つの方法があります。入って来るエネルギーを少なくするか(つまり少食)、出て行くエネルギーを多くするか(つまり運動)です。

ところが、新式のダイエットというものは、食べていても痩せられるとか、運動しなくても痩せられるとうたうものが多い。こんなバカな話はありません。根本から間違っています。

しかし、そこに簡単に引っ掛かってしまう人が多いということは、道理を知らないということだけでなく、過食を止められないし、運動もしたくない、という考えの人で世の中は溢れているということを物語っています。

そこで、もっと奥にある第二の原因に気づくことになります。それは「心」です。

いつも繰り返し言っているように、今の肉体を作っているものは、その人の「心」なのです。「心」の状態、あり方です。「過食」が止められないのは、「心」の満たされなさを、とりあえずの「口福」によって代替的に満たそうとする、無意識の(潜在意識下の)行為なのです。

つまり「過食」の背後には、「愛が得られない」という、その人の根本的な「心」の問題が、必ず潜んでいます。ですから、この「愛が得られない」という根本的な渇望感を解決できなければ、どのようなダイエット法を試したところで、また直ぐに元に戻ってしまうのです。

胃袋というのは、第二の脳と言われるくらい、感情面と強く結びついている臓器です。腹が立つとか、腹わたが煮えくり返るとか、片腹痛いとか、感情のアップダウンを表した言葉が「腹」に集中しています。また、心配事がある時には食欲がなくなりますし、それが続くと胃潰瘍になって胃に穴が空いてしまいます。

そのように、胃と腸は、人間の感情に非常に深く関係しています。これは、この部位に重なるようにしてあるマニュピューラ・チャクラ(アストラル体にあって、目に見えない)が、感情を司るチャクラであるために、その影響を強く受けるのです。ということで、「過食」が「愛」をむさぼる代替行為になってしまっているのです。

さて、その「愛」で、一般的に言って女性がもっとも希求するものは「Sweet Love」です。ですからその代替行為が、文字通り「Sweets(甘いお菓子)」に向かうことになる。しかしそうして得た一時的な「口福」は、所詮、代替行為に過ぎませんから、直ぐに渇望感が湧いてきて、やがて「Sweets」が止められなくなってしまうのです。

さて、どうすればいいのでしょうか?(この続きはまた明日)
私の祖父は「ニセ医者」だった
吉永小百合さん主演のテレビドラマで『夢千代日記』というのがありました。期間をおいてシリーズが三度放映されているのですが、1981年の最初のシリーズに、とても情の厚い親切な医者が登場するのです。ところがこの医者は、医師免許を持たぬ「ニセ医者」だったのです。

演じていたのがケーシー高峰さんだったのはご愛嬌(医事漫談で一世を風靡した)です。この医者は指名手配になっていたらしくて、身元がバレそうになり、シリーズの途中で夜逃げしてしまいます。でも悪徳医とは真反対の人々に慕われた人物だったので、物悲しい感じがしていました。

私の祖父は修験道の行者(山伏)だったのですが、実は「ニセ医者」として逮捕されたことがあるのです。山伏というのは、山岳で修行し霊験を獲得した行者のことを言うのですが、山岳に暮らすためにナチュロパシー(自然療法)の知識を持っていました。行者ニンニクという野草がありますが、修行中にこれを食べて元気回復を図ったことからその名があるのです。

大正期から昭和に掛けての山間部の地域のことですから、医者などいないわけなのです。代わって祖父が、栄養指導から霊的治療までを、求めに応じて行っていたのでした。その名声は近隣にまで及び、なんと本物の医者までが遠くから教えを乞いに来ていたのです。法事などで帰った際には、祖父から治してもらったという人に何人もお会いしました。

さてその治療法の一つに「瀉血(しゃけつ)」というものがありました。現在はあまり行われないようですが、鬱滞した古い血を体外に出す療法で、昔はよく行われていました。祖父の道具箱の中にこれに使用するためのメスが入っていて、そのことを通報する人がおり、医師法違反ということで御用になってしまったのです。

それもあってか、祖父は家系から本当の医者を出さなければならないと念じるようになり、その意思を継いで、孫のうち二人が医者になったのです。そして私が、(私自身は強く意識したことはないのですが)いつの間にか、霊的方面へと進むようになったのです。(ただし、修験道は継がなかった)

ですから、今日の「医療」というものを見たときに、「いったい何をやっているのか」と、いつも考えるのです。病人を創り出すことに熱心なホンモノの資格を持った医者と、報酬も貰わずにただ苦しみを解いてあげようとしていたニセモノの医者と、いったいどっちがホンモノの「医療」なのかと。あなたは、どちらの治療を望みますか?
たった一つの受精卵から人間が誕生する不思議
人間が大宇宙(Macro Cosmos)の縮小版(Micro Cosmos)であることの証拠は、いろいろなところに見ることができます。人体を構成している元素もその一つで、70パーセントは水ですから、水素と酸素が大部分を占める。この他、炭素やカルシウムに加えて、微量な元素が90種類ほど見つかっています。今までに発見された原子は116ですから、人体は殆どを含んでいるということになります。

興味深いのは、受精卵から胎児への成長です。人体を構成する細胞の数は約60兆個といわれていますが、その全部が、たった一つの受精卵から出来るのです。受精卵が、2、4、8、16と倍々ゲームで卵割を繰り返し、受精後5日目には、のちに骨になったり、筋肉になったり、内臓になったりする細胞への分化が始まり、最終的には約260種類の細胞に分化するのです。

この過程は何かによく似ているとは思いませんか? 宇宙の始まりを示す理論とされる「ビッグバン」そのものではありませんか。最初の倍々ゲームの卵割などは、まさに「インフレーション理論」そのものです。ですから人体は、受精卵の「ビッグバン」で出来上がる、と言ってもいいと私は思います。

さてそこで、受精卵の前が何であったかを、ちょっと考えてみてください。これは言うまでもなく、卵子と精子の結合です。つまり、陰極と陽極の結びつきがあって、受精卵の「ビッグバン」が開始されるということになります。これもまた、実は大宇宙の成り立ちをコピーしたものになっているのです。

すなわち、宇宙の始まりを示すとされる「ビッグバン」以前にも、陰極と陽極のエネルギーがあったということです。それがブラックホールという一点に集まり、反対側に抜けていった時に、そちら側で「ビッグバン」が起こる。このようにして、宇宙は、反宇宙との間で、行ったり来たりという輪廻転生を繰り返しているのです。これもまた大きな陰陽を形成しているというわけですね。

なぜ銀河は渦巻き状なのか? これはお風呂の栓を抜いた時に渦巻きが出来るのと同じで、銀河が中心のブラックホールに向かって抜けていっているからです。抜けた先にはまた「ビッグバン」が起こって宇宙が誕生する。このようにして、まるで泡ぶくがボコボコと沸くようにして、宇宙が絶えず呼吸を続けているのです。

話を戻して、このような計り知れない大大大宇宙と、ちっぽけな人間は、相似形だということ。大きいとか小さいとかは物理的空間概念であって、それを無視してしまえば、結局は同じということです。ですから、あなたは宇宙そのものであり、自分の内面に入れば、全体宇宙とアクセスできるということを、これは示しています。

下なるものは上なるものの如く、上なるものは下なるものの如し。エメラルド・タブレットに書かれてある一文は、この真理を、余すことなく語っています。