by Rainbow School
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社会のレールから外れる怖さ
韓国に、その名も『絶望ラジオ』という、若者を対象としたラジオ番組があるそうです。インターネットのポッドキャストという仕組みを使い、毎週月曜日に1時間から1時間30分ほど放送していて、1000人ほどのリスナーがいるそうです。私はそれを、NHKのドキュメンタリーWAVE「“絶望ラジオ”の若者たち〜競争社会 韓国の街角で〜」を観て知りました。

韓国人とは違い日本人はおとなし過ぎて、外に向かって主張しようとする人があまりいませんが、水面下での状況はそれほど違わないのではないでしょうか。ただ韓国の方が、より先鋭的で激しいだけであって、今日の韓国の状況は、明日の日本を間違いなく示唆していると思います。

韓国経済は、財閥系大企業の輸出に依存している割合が非常に高く、主要な貿易相手国であった中国経済が失速すると、たちまちその影響を受け、大企業傘下の中小零細まで一気に冷え込んでしまいました。これが若者の雇用環境にも、深刻な影響を与えているのです。

OECDのデータによると、韓国の大学進学率は71%で日本の51%より20ポイントも高いのですが、10人中4人が卒業しても就職できない状況にあるようです。これは、大企業や公務員の椅子をめぐって、激しい受験競争が繰り広げられている反面、皮肉なことに、そこからこぼれ落ちる人も多いということです。

韓国の若者たちは、自分たちのことを恋愛、結婚、出産を放棄せざるをない「三放世代」と自嘲して語るそうです。そういう人たちの気持ちを吐き出す場所として『絶望ラジオ』が登場し、リスナーを獲得して行ったんですね。でも日本だって、「三放」という状況は同じではないでしょうか?

なぜこんなことになってしまったのでしょう? IMFのデータによると、所得上位10%の人の所得合計が全体に占める割合は、韓国が45%、シンガポールは42%、日本でも41%に達するそうです。韓国はアジアで一番高いということですが、日本でも所得格差が広がっているということですね。そしてこれは、全世界的な傾向であり、全世界的に若者が「絶望」的雇用状況に追いつめられているのです。

フランスでは、社会党出身のオランド大統領が画策する労働法改正に対して、労働者の反対抗議デモが続いています。社会党といえば、本来は労働者の味方だったはずです。ところが保守政党の国民運動連合側が、労働法改正に反対を唱えるという、ねじれ現象が生じているのです。まさに、政治など茶番劇。どっちが政権をとっても、結局、向かっているところは一緒なのです。

それはアメリカのオバマ大統領を見ても解るでしょう。反ブッシュの票を集めて当選したはずなのに、大統領になったとたんブッシュ政治を踏襲する大統領に豹変してしまいました。オバマ大統領もマペットに過ぎず、結局のところ、国際政治は、大きなシナリオを影で描く者たちに操られるまま、カオスへと向かっているのです。

それなのに、一般大衆は、政治への無関心、無知のまま、自分たちの首を絞める政治家と政府を選んで、騙されるがままになっている。世界の中では、こうした構造に気づき出し、抗議の声を挙げる人がしだいに増えてきているというのに、島国に暮らす日本人はこの点で非常に遅れています。

韓国の若者の「絶望」は、よく解るのです。「解る」などと簡単に言ったら失礼かも知れませんが、私も20代は「絶望」と「焦り」の中で過ごしました。

いま振り返ってみると、それは「社会のレールから外れる怖さ」なんですね。私の場合は、まだ社会全体の状況は悪くなかったですから、自分一人が「社会のレールから外れる怖さ」を感じていました。でも今の時代は逆転してしまって、過半数の人たちが「社会のレールから外れる怖さ」を感じているのではないでしょうか?

韓国社会は、このレールが非常に細い上にキッチリしているから、余計に「外れる怖さ」が強いと思うのです。でも、これも今になってやっと解るのですが、「レール」というものも、社会が作り上げた錯覚に過ぎないんですね。そういう「レール」を敷く者がいて、その価値観を教育によって洗脳し、大衆を錯覚の中に追い込んでいるだけなのです。

「生きる」ということをプリミティブ(原初的)に考えたら、無人島で暮らすことだって、山奥で暮らすことだって、まったくOKなんです。今の社会システムから逸脱した環境で暮らすことだって出来るんですよ。勇気さえ持てば。要は、自分が「生きる」うえで何に価値観を見いだすかということです。

「レール」にしか価値がないと思い込んでいたら、そりゃあ、外れることはやはり「恐怖」です。でもそうじゃないということ。出来るだけ早く、そこに気がつくことです。

そこで、今の若者がかわいそうだなと思うのは、小さい頃から、「外れる」訓練を殆どさせて来て貰っていないということです。なんでも一律でしょ。遊びは全員テレビゲーム、買い物は全員コンビニ、全員がスマホを持って、全員が LINE を使い、全員がチェーン店のカフェや居酒屋へ行く。そういう「レール」しか知らないで育っている。

いろんな仕事があることを見て来ていないし、ヘンなおじさん、ヘンなおばさん、奇妙な老人にも出会っていない。だから、もし「絶望」しそうになったら、思い切って「旅に出たら」と勧めたいです。ひとに「甘えてみたら」と勧めたいです。唐突に思われるかも知れないけど、それが訓練になるから。

世界は多様だということ。「レール」は1本じゃないし、「レール」から外れて野原を歩くことだって出来るんだよね。その方が、自由でのびのびしているとは思わないかい? かつてそういう世界的なムーブメントがあったんだよ。1960-70年代のヒッピーさ。

どんなに外れたって、地球の地面から外れるわけはないんだよね。この意味、解るかな? もっと言おうか。宇宙から外れるわけは絶対にないんだよ。だから、もし「絶望」しそうになったら、旅に出ようよ。そしてひとに甘えてごらん? 思い込みを手放すことが出来るから。
なぜストライキをしない?
日本の非正規雇用者の割合は4割を超し、今もなお増え続けています。年収200万円以下、貯金も出来ずにカツカツの生活を強いられているという人も多いことでしょう。厚労省は、非正規で働く人の雇用の安定や処遇の改善を図ると言っていますが、まったくもって笑止千万。では、そうなるような政治を今まで推進して来たのは誰なのか? 日本政府じゃありませんか?

政治家、役人というのは、問題を作っては「対策」と称してまた問題を作り出す。そして税金をかすめ取って懐を肥やしていく。その悪知恵に掛けては天才的だ。今やそういう才能を持った人間しか、政治家、役人になれない。何から何までとことん腐り切っている。

この超格差社会の煽りを、もっとも受けているのが若者とシングルマザーではないかと思う。これでは、結婚もできないし、少子化になるのは当たり前ではありませんか? それなのに、これもまた「少子化対策」と称して、特命担当大臣のポストまで作り、実効性のない無意味なスローガンの羅列だけのために税金を使っている。

若者は日本の将来を担うことになるわけだし、シングルマザーはその次の世代の若者を育てていく渦中にあるわけで、どうしてもっと大切に扱わないのだろうと思う。年金だって、次の世代の収入が支える構造になっているわけですから、破綻するのは目に見えている。それなのに、年金運用の失敗で8兆円もの損失を出したというのですから、どうなっているんでしょうねぇ。

もう一つ、私が不思議で仕方がないのは、デモやストライキが起きないこと。欧米では今の政治に対する不満からデモやストが頻発しているというのに、日本にはそれがない。ただじっとして、甘んじて受け入れるといった風潮です。「和の精神」にも全くほどがある、と思います。Cool Japan とか言って、オタク文化に埋没しているだけで本当にいいんでしょうかねぇ。

私は、自分が27歳までフリーター生活を送りましたから、その時の不安感や焦燥感や絶望感がよく解るんです。今とは時代状況が違うので、自分が味わった感覚と、今の若者が同じだと断じるわけにはいきませんが、若者特有の感覚というのは、そんなに違いがないんじゃないかと思うんですよね。

当時は、自分が結婚できるなんて思ってもいませんでした。社会から落ちこぼれたという疎外感と、到達できない理想へのもどかしさが一緒になってしまい、いっそのこと「もう死んでやろう」と思いながら、一袋のそうめんを朝夕に半分ずつ食べて、生きながらえて来ました。おかげで栄養失調になり、眼病になったこともあります。

自分はへなちょこだったけれども、フヌケにはならなかった。いつも怒りを抱えていて、そのエネルギーを燃やして生きてきました。

人生はいつでもやり直せますから、将来がどうのと言うつもりはないのですが、心が折れてしまうことだけが気がかりなのです。理不尽な状況を甘んじて受け入れ続けていますと、心がポッキリ折れてしまいます。そうなると、自己を変身させるエネルギーまでもが失われてしまいます。それはもったいないことですし、何よりあなたの「魂」が喜びません。

あなたには才能があるし、自分を輝かせることが出来るのですから、そこに向かって、とにかく一歩を踏み出すことが何より大切です。後先考えずに、ご自分の直感に従って行動して欲しい。あなたは独りぼっちではなく、あなたにはいついかなる時にも応援してくれる守護霊が付いているのですから、安心して、この世の生を全うしなさい。

怒ったっていいんですよ。反抗したっていいんですよ。若い炎を燃やせ。シングルマザーの苦境を叫べ。そうやって、腐り切った社会を、理想社会に変えていくんだ。
Move! Move! Move! Move!



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ブラックスーツとブラック企業
毎年この季節になると、ターミナル駅や電車の中は、ブラックスーツに白シャツ姿の若い男女で溢れかえります。去年も同じことを書いたような気がするのですが、この光景が不思議で仕方がないのです。「入社式にはブラックスーツで来い」と会社が命じたわけではないと思うのですが、みんな判で押したようにブラックスーツを着ています。

そもそもブラックスーツというのは、セミ・フォーマルルックであって(タキシードや燕尾服を殆ど着なくなった現代では、フォーマルと言ってもいいかも)ビジネスで着るような服じゃありません。冠婚葬祭の時に着用するものです。ブラックスーツを一着持っていれば冠婚葬祭にも使えるという考えなのかも知れませんが、それを知らないのはおかしいです。

それよりももっと不思議なのは、どうして「自分」というものをもっとアッピールするような服装をしないのか、ということです。大学の新卒だったら22・3歳の若さなのでしょう。それなのに、「心」は最初から老人のように萎んでいる。

ある人が、言葉の反応の違いに見る「国民性」というジョークを教えてくれました。どうしようかと決断を迷っている時に、一押しする殺し文句が次だと言うのです。

アメリカ人には、「これをするとヒーローになれるよ」と言えば落とせる。
イギリス人には、「これをすればジェントルマンですよ」と言えば落とせる。
そして日本人には、「これは、みーんなやっていますよ」と言えば落とせる。

これだから、ブラック企業がはびこるわけです。従順を通り越して、命令せずとも、労働者の方が「あ・うん」の呼吸で合わせてしまう。

日本人が作る組織というのは、どこも「あ・うん」の呼吸で動いていて、明確な命令を誰が出すというわけでもない。ですから、いざ不祥事が生じた時には、誰も責任を取らない。連帯責任にしてしまって、一人当たりの責任量を薄めることで逃れてしまう。

そういう日本企業特有の文化に、22・3歳の若さから合わせてしまってどうするんですか?
どうして反抗しないのかな? 反抗するのは若者の特権じゃないですか。

いつも書いているように、詐欺師は騙される人間が居なければ成り立たない。両者の協力によって、初めて詐欺が成立します。ブラック企業だって同じこと。そこに勤める人間が居なければその企業は成り立たないんですよ。

今はインターネットがあるんですから、ブラック企業の実態をどんどん告発すればいいじゃないですか。自分が「おかしい」と思うことは、「おかしい」と言えばいい。みんなに合わせてブラックスーツを選んでいるようじゃ、先行きは暗いよ。真っ黒だ。
昔の友人に贈りたい言葉
若い頃に仕事で知り合った友人から、久々に封書が届きました。開けてみると、奥さんが亡くなり家族葬を執り行ったという事後報告でした。年齢的に言って、そういう知らせを耳にすることが、これから益々多くなるんでしょうね。

その道の先輩(?)として、慰めてあげたいと思い、10年ぶりくらいに電話して話をしました。こんな場合は、あれこれ言わなくていい。聞いてあげるだけで、慰めになるものです。

かれこれ2時間くらい話をしたのですが、10年という歳月は、やはりお互いの進む道を大きく変えてしまうものですね。サラリーマン生活が長かった彼は、順調(?)に、サラリーマンの定年後に突き進んでいるようでした。

いったん退職した後も、同じ会社で、かつての部下を上司として時給1500円で働いているそうです。ハローワークに行ってもいい職種はないし、1500円貰えるところなんて今どきない。だったらこのまま会社に居よう。

そう考える気持ちも解るのですが、「楽しい?」と聞いたら、「ぜんぜん」という返事が返って来ました。もう情熱を燃やせなくなってしまった仕事を、どうして惰性で続けるのかなぁ?

「楽しくない」というのは、それがもう辞めどきだということを示しているのに。今まで体験できなかったこと、これからやりたいことに、チャレンジできるチャンスなのに。

彼は大企業のサラリーマンなのですが、会社というのは恐ろしいところだなと思いました。「社畜」という言葉がありますが、その人の自立心、意志力、思考力を本当に奪ってしまう。

いちばんいけないのは、還暦を過ぎてもまだ「お金」がなければ生きていけない、と彼が信じ込んでいること。だから、惰性でも働き続けるし、少しでも時給の高いところを選ぶ。そして「楽しくもない」時間をつぶす。

でもそれって、「お金」のドレイになり続けるということじゃないのかな?

現代の男性に必要なのは、一日も早くコミュニティ・デビューを果たすことだと私は思うんです。そこには、幼児のころに体験した「公園デビュー」と同じ意味合いがある。会社というもう一つの「家」からは、いずれ出なくちゃならないんですから。

それに時代感覚が大きく変わった。既存のシステムは悪弊ばかりが目立ってもう役には立たない。それを変えていくのは、これからはコミュニティの力です。勘のいい人はそれを敏感にキャッチしていて、20代、30代からコミュニティ・デビューをスタートしています。

「社畜」のまま「老後」に突入したら、コミュニティ・デビューの機会はますます遠のいてしまう。もう充分働いたんだから、これからはコミュニティを通じてお返しをする番だと思うんだ。

世の中を見渡せば問題は山積している。時給1500円貰えるのなら、そのうち500円分をその問題解決に当てて、自分のワークにしたらどうかな。そうしてマイ・プロジェクトを立ち上げればいい。そうすれば、自分も楽しく過ごせるし、周囲の人々をハッピーにすることだって出来るじゃないか。

なぜ「老後」などと言って、自分を閉じていってしまうのかな? これからじゃないか。もう子どもの学費の心配をしなくてもいいし、こう言ってはなんだが、女房殿にガミガミ言われることもない。生命保険なんか全部解約しちまえよ。今という瞬間を、輝かせて生きるんだ。
南の島のジョーク
都会のビジネスマンが、南の島に、バカンスに行った時のジョークというのがあります。

海辺で、リクライニングチェアに身を委ね、気持ちよさそうにしていたビジネスマンに、散歩をしていて通りかかった島のお年寄りが尋ねた。

「あんた方の国では、みんないつも忙しく働いているそうだけど、あんたもそうなのかい?」
「ええ、まあ」
「へえ、なんのために、そんなに働くんだい?」
「そりゃ、決まってますよ。働いてうんと稼いだら、こういう所にやって来て、思い切り楽しむことだって出来るじゃないですか」
「ふーん、あんたたちは変わってるねぇ。俺は、毎日そうしているがね」

 
酷使される若者
グローバルディベートWISDOM』という討論番組が、NHK BS1にあります。テーマに惹かれて録画するのですが、未だかつて最後まで観たことが一遍もありません。毎回、最初の5分くらいで気分が悪くなり、10分と持たずに途中で見るのをやめてしまいます。

2月28日も「酷使される若者 働き方をどう変える」というタイトルに惹かれ見始めたのですが、いやぁー相変わらずひどい。何がひどいかというと、「討論」と言いながらも、この番組は、ほとんど新自由主義者のプロパガンダの場になっているのです。背後にそうしたい仕掛け人がいるのを非常に強く感じます。

番組では最初、今の若者が直面している労働環境の悪化という問題を取り上げます。非正規雇用の増加、低賃金、長時間労働、使い捨てといった現実です。ところが、いざ「最低賃金の引き上げ」という一つの課題を取り上げると、司会者はすぐに「最低賃金の引き上げ」は是か非かというディベートに話を持って行ってしまうのです。

ここで、新自由主義者の恐るべき屁理屈が展開されます。最低賃金を引き上げたら、体力のない中小零細企業はやっていけなくなる。今まで、低い能力しかない人であっても低賃金だからこそ雇用できていたのに、そういう人たちのための仕事が失われ、失業が増えることになる等々。まるで、賃金抑制は労働者のためでもある、と言わんばかりです。

こんなふうに矮小化されたディベートに話を移して、物事の本質から目をそらさせる。
毎回そうで、だからこの番組は嫌いなの。

若い世代の労働環境の悪化は、世界的に見られる実情です。そのことで多くの若者たちが苦しんでいるのですから、問題の根っこはどこにあり、どうすれば根本的な解決が見出せるのかということを議論するのが、テーマに沿ったディベートなのではありませんか?

それを、「最低賃金の引き上げ」は是か非かという矮小化した話にすり替える。この、優しさのなさ、分かち合う意識の乏しさ、将来を見る目の欠如、エゴイズム。

若者の労働環境の悪化という問題は、単に今現在の問題じゃないんですよ。若者というのは、将来の社会を担う人材であり、これから家庭を持ち、子どもを育てて行かねばならない人たちです。そういう最も重要な視点がそっくり抜け落ちている。これで、有識者だとか専門家だと、果たして言えるのでしょうか?

制度や政策といったことは、二の次、三の次、もっとずーっと後でいいんです。そんな小手先の議論にうつつを抜かすよりも、はるかに大切なことは、若者という存在が、社会の中でどうあって欲しいか、という「在り方」です。そして、そのために何ができるか、と上の世代が真剣に考えることです。

そういう思いやりが、今の経営者や政治家にほとんど見られません。目先のことしか考えていない、このエゴのツケが、近い将来、大きなマイナス面となって社会全体に跳ね返ってくることは、誰が考えても解りそうなものじゃありませんか。

私は、若者には、元気で生き生きと、各人の才能を発揮して楽しく生きていって欲しいと切に思います。なぜなら、そうであれば社会全体が明るくなるだろうし、私も共に楽しく暮らせるだろうから。
気持ちの沈む店、弾む店
年末から家の片付けをしていて、本や服がたくさん出たので、買い取って貰おうと某リサイクル店へ行って来ました。1時間半の時間を費やして、受け取ったお金は全部で270円。だいたいが5円とか10円。その中には、私が同店で買った1冊500円の雑誌もあるというのに。

ほとんどタダ同然で仕入れたものを50倍、100倍の値段を付けて販売しているのですから、これで儲からないわけがありません。しかも、売るにしても買うにしても、店までの運賃(交通費)は客持ち。ドライバーも、荷下ろし作業も「客が」タダで働いている。これをボッタクリ商法と言わずして、なんと言いましょうか!

まあ、それは仕方ないとして(世の中そんなもんよ)、このBOOKをOFFして売っている店がいやなのは、店のどよ〜んとした雰囲気。店員の顔がみんな死んでいる。マニュアルでコキ使われて、疲弊し切っているのが判る。かわいそうに、仕事が楽しくないのだろうなぁ。

しかも、なおかつ、おまけに、かてて加えて、BGMにラップを流しているんだよ。乗れねーって。こっちとしては一刻も早く退散したいんだけれど、査定の間どうしても待たなくちゃならない。それで待ち時間に、200円の本を2冊買っちゃったじゃないか、もう!

うちから歩いて10分のところに、有機野菜の専門店があるのね。値段がスーパーとほとんど変わらないので、ちょくちょく買いに行くんですけれど、この店のスタッフもみんな若いお兄ちゃん、お姉ちゃんばかり。でもBOOKをOFFして売ってる店とは全然雰囲気が違うのね。

いちばんの違いは何かというと、スタッフそれぞれが、自分の言葉で客と話しているということ。商品知識が豊富で「こうして食べるとおいしいよ」と話したり、逆に客から「先日買ったあれ、こうやって食べたらおいしかったわ」と聞いたりと、自由に会話を楽しんでいる。BGMはかかってないけど、こっちの方がよほど気分が弾む。

今の時代だから、それが凄〜く新鮮に感じられるんですけれど、市場って元々そういうものだったんですよね。そして、少なくとも私は、そういうお店の方を愛します。マニュアル接客のお店なんか行きたくないし、御免被る。ぜーんぜん、楽しくない。

働く人たちだって、別に苦しみながら仕事をする必要はないんですよ。苦しみに耐えながらするのが仕事、なーんて考えは捨てた方がいい。その苦しみは、客にたちまち伝わってしまうから。どうせなら、楽しいコミュニケーションをした方がよくはないかい? それは出来るし、誰にもそうする権利と、能力があるんだ!
上司面談で、自分の思いを正直に話してもよいか?
数日後に、職場で上司面談という機会があって、何でも話していいよと言われているのですが、今の自分の思いを正直に話して良いものでしょうか?

このような相談を、ある人から受けました。この人は、「正直」という言葉に引っ掛かって、自分の内側に葛藤を生じているようです。言いたいことはある。しかしそれを指摘したら、職場にかえって混乱が生じるかもしれない。でも言わないでいたら、自分の「正直さ」を裏切ることになる。

辛いですよねぇ。いっその事、そんな面談なんて機会がなければよかったのに‥‥と思いません? この答えは、トップ(最高権力者)が、どういう理念の持ち主であるかによって異なると思うのです。

相談者は、語るべき内容よりも、いつの間にか、自分が「正直さ」を全うすべきかどうかということに、意識の中心をスライドさせてしまっています。でも頭がいっぱいで、そのことに気がついていません。とても真面目で、真摯な人なのです。

ところが、面談相手である上司の視点は、そこにはないわけです。上司というのは、組織内の中間管理職です。あなたの「正直さ」を試しているのではなく、ガス抜きや、上の人間が気づいていない問題を把握するという目的と同時に、それを話しているあなたという人物を横目で見ているのです。

ガス抜き:組織内の不平不満が溜まって爆発する前に、吐き出させること。

ということは、何を話したところで、組織の権力者の意向によってジャッジされてしまうということです。中間管理職は権力者ではありません。中間管理職にも保身があり、半分は組織の意向で動いているのです。目の前に居るのは一人であっても、その後ろには「組織」の意向というものが控えていることを意識しないといけません。

その上司とどの程度気心が知れているかにもよりますが、なんでもさらけ出して訴えて、それがスンナリ通るほど、組織は甘くない。下手をすると、めんどくさい奴、職場の和を乱す者、危険人物、反乱分子、人格異常者、といった烙印を押される可能性だってあります。

組織というのは、所属する各人の、意識の集合体であり、集合体としてのパワーを持ちます。駅のコンコースを想像してください。人が少ない時はみんな各自の方向を歩いていますが、改札から一斉に人が出てきた時などは、この流れに逆らって歩くことは困難です。

修学旅行などでは、先頭に旗を持って歩く人がいて、その後をみんなでゾロゾロと着いていく。中には「俺は一人で、自由に歩きたいんだ」と思う人もいるでしょうが、それでは統制がとれないので、まあ従って着いていくわけです。組織というのは、所詮はそういうものです。

腐った組織をなんとか改革したいという思いは大切ですが、それを実行しようと思ったら、それなりの戦略というものが必要不可欠になって来るのです。

先ず、トップの首をすげ替えるという手があります。しかしこの方法は、末端の人々の強い支持がない場合には「独裁者」と言われて潰されてしまう懸念が高い。次に、中間管理職の誰かが、下克上によって実権を握るという方法、いわゆるクーデターというものがある。

そして最後に、末端の人々が一斉蜂起するのが革命です。下から改革しようとした場合には、同調者を集めて力にしていく(職場では、ストライキをやるなど)しか、対抗手段がないのです。以上、どの手を使うにせよ、組織の改革というものは大きなパワーを必要とし、一個人の力だけではどうにもなりません。

もし、トップ(最高権力者)に、働く人を大事にする考えや聞く耳があり、またその理念が組織全体に浸透しているのであれば、末端の一人の声が届くかもしれません。しかしそうでない場合は望み薄で、訴えたところで、やぶへびに成りかねません。

やぶへび:余計なことをしてかえって悪い結果を招くこと。

どんな改革も、結局のところ、力で捻じ曲げようとしても難しい。一時それで成功したかに見えても、曲げた木の枝も手を離したらパーンと元に戻っていってしまうように、なかなか定着しない。いつも言っているように、人間の「心」が変わらない限りは、表に現れるものも変わらないのです。

自分の「心」が変われば自分が変わり、家族の「心」が変われば家族が変わり、組織の「心」が変われば組織が変わり、人類全体の「心」が変われば人類と社会が変わるのです。

自分に「正直」であるということは、「魂」の声に従って生きるということです。なんでも打ち明けろということではないのです。自分としては「正直」に打ち明けたつもりが、単にあなたの偏見や、思い違いや、愚痴や、不平不満に過ぎないということだってある。それは、「魂」の声に従ったことになるのでしょうか?

先ずあなたが、「正直」なバイブレーションを出すように努めることです。泳げない人に、溺れた人は救えないのです。先ずあなたが、一人で泳げるようになることを目指すように。あなたが明るい灯台になれば、周囲はその光に照らされて、自ずと変わっていくようになるのです。
一流の役者と二流の役者
役者というのは面白い仕事です。なにしろ自分以外の人間になっちゃうんですから。きっと変身の魅力に取り憑かれて、多くの人が役者になりたいと思うのでしょう。でも一流の人とそうでない人とでは大いに違う、というのが私の持論です。

売れているとかいないということではないですよ。売れていないくても一流の人はいるし、売れていても二流の役者はいっぱいいる。役者論については以前にも書いたかも知れませんが、この違いがどこに起因しているかということが今朝、突如わかったのです。

いったい何が違うかというと、よく「役に成り切る」と言いますが、この解釈が全然違うと思うのです。二流の人は「演技」を向上させて行こうとします。「演技」の質を高めることが、「役に成り切る」道だと捉えている。つまり、できる限り上手に演じようとするのです。

ところが一流の人はそうじゃない。役がもう自分の中に入ってしまう。ですから「役に成り切る」というのは、文字通りその役に変身してしまう。それは既に「演技」じゃないんです。その役が、逆に自分の肉体を動かしている。つまりは「憑依」と言っていい。

舞台や映画に全身全霊を打ち込んだ役者は、終了後も「役がなかなか抜けなくて困った」と語る人が多いです。それは、それが「憑依」現象だからです。

「役作り」というものが必要か、不必要かという議論が昔からあるのですが、それが必要・不必要ということよりも、重要なのは、「演技」の道を行くのか、「憑依」の道を行くのかの違いだと思います。

いくら入念な「役作り」をしたところで、「演技」の道を行く人は二流だし、「役作り」なんて別にしなくても「憑依」の道を行く人は一流なのだと思うのです。ただしプロとして生き抜くためには、天然だけではダメで、やはり「演技」を超えて「憑依」に至らなければならないのだと思う。

この、役における「憑依」現象というのは、こういうことです。先ず、与えられた役というものを強烈に思念する。するとその人物像がしだいに固まってきて、明確な形を持つようになる。そこまで行くと、それは一つのエネルギー体を構成し、あたかも「魂」のようになって、役者はそれを自分の中に入れるのです。

絵や音楽や文章その他の手段で、表現活動を行っている人の中には、きっと我を忘れる瞬間というものを経験している人がおられると思います。確かに自分がそれをやっているのだけれども、何か自分じゃない感じがする。

これは、いわゆる「チャネリング」の状態になっているんです。何かにものすごく集中していると、その先にチャンネルが開かれ、ついには自分をサポートする情報あるいは存在とつながってしまう。すると実力以上のものが降りてきて、自分でもびっくりするようなものが出来るんですね。

*チャネリング:高次の存在とテレパシーによってつながること、その状態

ですから、表現者は高次の存在とつながり、役者は自分が形作ったエネルギー体とつながるという差だけで、両者は結局は同じことなんです。きっと、スポーツ競技などをする人にも同じような感覚の瞬間があると思う。

そしてこのことは、あらゆる仕事について言えると思います。我を忘れるようにして仕事に打ち込んでいる瞬間、その人は一流に近づいているということです。
「生きがい」なんてクソくらえ
人口動態を見れば、この先、高齢者がますます増加することは疑いようがありません。私自身も、そのゾーンに一歩足を突っ込んだところです。でも「老後」という言葉も「生きがい」という言葉も嫌いで、そんなものクソくらえと思っているのですが、世間一般ではそれが重要視されているようです。

その時にライフプランナーとかいう人がアドバイスするのは、先ずは資金。潤沢な資金を溜め込んで置かないと豊かな老後を送れないとか、いざとなった時に困るよという脅しを掛けてくる。次には健康。健康を考えること自体はいいのですが、それが「もしも病気になったら」という視点から組み立てられる。

そして三番目に、「生きがい」を持てという。園芸でも油絵でも写経でもいいから趣味を探せと言う。まったくもって、大きなお世話じゃありませんか。

どうして自分の人生を、他の人に組み立てて貰わなくちゃならないのでしょう? その場合のライフプランナーとかいう人はみんな年下です。じゃあ年上のあなたが、それまでの人生で学んだこと、身につけたことは一体なんだったの?ということになりませんか?

自分が、せずにはいられないことを続けていたら、ことさら「生きがい」なんて言わなくても、毎日が楽しくて忙しくて、それで終わってしまいますよ。「老後」になってから、「生きがい」を年下に教わらなくちゃならないなんて、滑稽過ぎると思いませんか?

好奇心に蓋をして、他人に自由を売り渡す日々を、当たり前のように送っていると、気がついた時には、好奇心の持ち方も、自由の使い方も、すっかり忘れているということに成りかねません。いくつになっても子ども心を忘れてはダメです。人間、かわいく齢をとらなくちゃね。