by Rainbow School
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本物に出逢う

私が生まれたのは昭和29年。家には、テレビも洗濯機も電気炊飯器も、まだ何にもない時代でした。電化製品としてあったのは、ラジオと、天井からぶら下がった裸電球だけ。うちは母親が洋裁店を細々とやっていたのですが、アイロンもホースが付いたガスアイロン。ボディ横の小窓にマッチを突っ込んで点火するのですが、ボッと着火する瞬間が恐かった。冬の暖房ときた日には、火鉢と練炭炬燵だけ。それはそれは寒かった。

 

まあ『三丁目の夕日』のような感じでしょうかねぇ。クルマはオート三輪が走り始めたばかりで、鉄道は蒸気機関車が全盛。スーパーはまだ登場していないし、もちろんコンビニなんてない。自動販売機もあるわけない。飲食店はほとんどが個人経営の家業(「暖簾分け」というのが少しあったけど、いわゆるチェーン店は一つもなし)。当然ながら、パソコンもないし、スマホもない。

 

とにかく、なーーーんにもない! でも「本物」があった。本物の素材、本物の技、本物の味、本物の職人、本物の人情、etc.。‥‥と書いてしまうと、「昔は良かったなぁ」という感傷のように聞こえるかも知れないけれど、自分にはそれはありません。やはり今の方が格段に過ごしやすくなっているし、パソコンとインターネットがあるおかげで、こんなことも出来ているし。

 

ただね、「おーい、本物はどこへ行っちまったんだよーォ」と、三丁目の夕日に向かって叫びたくなるんだよね。その最たるものが食べ物。今じゃ、外食というものを殆どしなくなりました。どこへ行ってもチェーン店ばかり。あー、つまらない。都心へちょいと出掛ける用事があって、目的地付近の飲食店をネット検索してみるのですが、上位に並ぶのはみーんなチェーン店。「これじゃ、検索の意味ねぇじゃん」と思ってガッカリ。

 

それで、自分で食事を作るのだけれど、スーパーにお頭つきの魚がもうない! あるのは、パックに入った切り身ばっかし。魚は頭が美味しいのにねぇ。ある日イカを探していたら、全部筒切りになって売っていたのにはびっくり。味噌だって醤油だって「だし」ってものが入っているし、その「だし」と称するものだって、正体が何かは不明。自分でとった「だし」は3日で腐るのに「だし」入り調味料がいつまでも腐らないのはどうしてなの?

 

ということで、自分で料理をすることも年々難しくなってきました。いったいこの先、何を食べればいいのでしょうねぇ? 私に餓死しろということか(とチト大袈裟)。自分の年代が、たぶん「本物」を知っているギリギリでしょう。だから、今の50代以下の大多数は「ニセモノ」しか知らない、「ニセモノ」をスタンダードだと思わされて、育ってきたのじゃないかな?

 

イボ胡瓜のとげとげの痛さと、付け根部分の苦味。いつまでも舌に残り続けるほうれん草のえぐ味。食べる者を拒絶するかのような人参の強烈な香り。煎茶の渋みに、焙じ茶の香ばしさ。顔をしかめるほどに酸っぱい夏みかん。魚肉ソーセージの中の白い脂肪の塊。羽釜のお焦げが発する食欲をそそる匂い。いったいどれほどの人が、それらを覚えているでしょう?

 

でも、そうしてしまったのは、みんなその前の世代の「思想」と「行動」が原因です。「本物」の素材よりは合成品や「◯◯風」、だしよりは化学調味料、職人よりはロボット、技よりはコンピュータプログラム、手間ヒマ掛けるよりは早く安く、人情よりはマニュアル接客の方がずっと効率的でいい、と考える大勢の大人たちが、今の「ニセモノ」氾濫の文化を創り上げちゃった。

 

でもそれで、いったい誰が得をしているのかな? 「本物」に触れた経験がないから、「本物」と「ニセモノ」の区別がつかない。そのために、「本物」だけが持つ表情や奥深い文化というものを理解できない。理解出来ないから「本物」を創れる人が育たない。「本物」を創れる仕事がないから、生活に充実感もない。育てる必要などないという考えだから、低廉で単純なマニュアル労働の奴隷としてみなコキ使われてしまう。

 

それで、いったい誰が得をしているのかな? 労働者は同時に消費者でもあるのに。これじゃ、消費が萎縮するのは当たり前だよ。デフレ脱却なんて、そもそも無理。だって、お財布に遣えるお金がないんだから。生きていくだけでギリギリという人が多いんだから。かくいう私も、年金とアルバイトで月収9万4千円。ま、新しい服などいらないし、今さらモテようとも思わないから、ビンボーであっても困窮はしていないけど。

 

今や、失われた20年が25年になり、30年に迫ろうとしている中で、その間に人々が学習したのは、「もう、高い物は買わなくていい」ということだと思う。我々の年代は、前の「好況」の時代を知っているけれど、40代以下は「不況」しか知らないんだよね。だからこの先、たとえ労働者賃金が上昇したとしても、バブル景気の頃のような消費形態にはもう戻らないと思う。あまりに長きに渡る「不況」を経験して、人々は、経済の裏を、すっかり学習したと思う。

 

高級ブランド品製造の舞台裏のことも。コモディティ(生活必需品)はここまで安く出来るんだということも。グローバリズムで全世界の消費が平準化してしまったことも。その裏には、奴隷にされている労働者がたくさんいるということも。その陰で、一部の投資家だけが莫大な富を手中にし、隠し財産を蓄えていることも。そしてそれらを、嘘つきの政治家や、政府や、銀行や、マスコミが結託して推し進めているということも。

 

もちろん、全員が「解った」というわけじゃない。今も変わらず、前の世代が作った物差しから、もしも外れてしまったら「自分はどうなっちゃうのだろう」と不安に思っている人は多い。それで、お隣の韓国のように、ごく少数の指定席を求めて必死になるという人もいるでしょう。でも大学を出たとしても、ロクな働き口がないということも、多くの若者は学習してしまいました。

 

そんな中で、最近、時代が変わりつつあるなと思うのは、30代、20代の若い人たちの中に、「本物」にスッと近づこうとする人たちが出て来ているということ。彼ら彼女らは、それまでの歴史的経緯をほとんど知らない。だからこそ、逆に、今の世に特別プロテスト(protest、反抗する)するという意識もなく、スッと「本物」に近寄れてしまうのかも知れないです。それはまるで、光を求めて吸い寄せられる虫たちのように。

 

だとすれば、それは凄いことだと思う。ゴチャゴチャ言わずに、「好きだからやる」「自分がやりたいことをやる」「世の中にいま必要とされていることに貢献していくんだ」と、感覚的にかつシンプルに想い、行動できる若者の登場は、世の中に、本当に革命をもたらすものになるかも知れない。若い頃の自分が、到底持ち得なかった勇気を、これらの人たちは既に持っているのだから。

 

今までなら、「そんなことを言っても現実は甘くはないよ」とか、「お金がなかったら生活できないのよ」とか、「いつまでもそんな夢みたいなことは通用しないよ」とかと言っては、前の世代は、いつも若者の夢を潰して来ました。そして、世間のレールに従わせようとして来ました。その際の常套句は、「あなたの将来を思って」だったけれど、それは、勇気を行使しなかった者の、勇気ある者への嫉妬だったのではなかろうか?

 

しかし現代の若者は、みな個室を持ち、有り余る物に囲まれて育ち、飢えることもなく、少子化によって家も余る時代に生きている。だから、そんな古典的脅しはもう通用しなくなっていると思う。(もちろん、それとは裏腹に貧困世帯が増加しているという現実もある。だからこそ、格差の問題は深刻ですが)しかも、そんな脅しに乗っても、ブラック企業のドレイになってしまうかも知れないということもバレている。

 

そういう中で、自分の直感に従って素直に行動する人たちが出現し始めているというのは、表に見えない部分での感覚的変化が、今まさに進行しつつあるのだと思う。権力のためなら、出世のためなら、お金のためなら、見え透いた嘘を平気でつき、それを恥だとも思わず、自分に反抗する者は計略によって陥れ、恐怖を煽っては人々を騙し、自分は接待ゴルフに興じる、醜い先人たちの姿にも大いに学習したことだと思う。

 

このような価値観を未だに抱いている大人たちは、醜いだけでなく古い。あまりにも古過ぎる。時代感覚が無さ過ぎだし、何より自分を変えようとする勇気がない。口では「圧力」とか「攻撃」とか威勢のいいことを言っていたとしても、内実はすこぶる付きの小心者だ。いや昇進者か。はたまた傷心者なのか。もし権力を失ったら、出世から取り残されたら、収入の道を奪われたら、自分はない。そう考える、あなたとは一体何者なのだ。

 

それらが全部なくなって、素っ裸になった時こそが、あなたではないのか? この世に誕生した時には、素っ裸だったではないか。素っ裸ではあったが、あなたはあなた以外ではあり得なかったではないか。その後あなたは成長した。肉体も、思考も、感情も、すべてが変化し続けて来た。それでもなお、あなたは、自分がまぎれもなく、継続し続けている、同一の個体であると考えているはずだ。

 

それはなぜだろうね。「あなた」を継続させているものは、はたして何か?

 

よ〜く考えてごらん。それが真のあなた、本物のあなたなのだよ。解るかい? そして、それは永遠の生命なのだよ。『ブラザー・サン シスター・ムーン』という映画を観るといい。アッシジのフランチェスコは、民衆の前で、豪華な刺繍のついたコートを脱ぎ、文字通り素っ裸になる。それは、誕生以来に身につけたもの全てが「幻想」だという強烈なメッセージなんだよ。そして、自分は、「本物」の自分を生きるという決意を、そのことで示したんだね。

 

だから、あなたにも、「本物」の自分を生きて欲しいのだよ。「本物」の自分を生きれば、世の中の「本物」と「ニセモノ」の区別がつくようになり、「本物」に近づきたいと思うようになる。そして「本物」に近づけば、「本物」だけが持つ素晴らしさに気づき、自分の喜びを発見できるようになるから。そのために、どうか勇気を持って、生きていって欲しい。

 

なあに、勇気と言ったって、それほど大したことじゃない。

自分の直感に、素直になるだけのことだから。

Q.摂食障害(過食嘔吐)との付き合い方について

Q.現在30歳。一人暮らしを始めた18歳の頃から、過食嘔吐を毎日繰り返すようになり、今に至るまで続いています。思えば、幼少時から小太りな体型をからかわれることが多く、自分の体型にコンプレックスを抱いていました。そのため、とにかく痩せたいとの思いが強く、小学生の頃にはすでにダイエットを色々と試していました。

 

そのような時に、『気づきの啓示板』のバックナンバーを読み、過食は心の問題、愛への渇望感が原因と指摘されていることを知りました。頷ける部分もあり、今は、自分なりに愛を乞う側から、愛を与える側になろうと意識転換を図っているところです。過食嘔吐に対するお考えや、この先の改善に向けた心の在り方など、ご教授頂ければ幸いです。

 

*質問者からは、もっと詳しい経緯等もお聞きしていますが、差し支えない範囲で、質問内容を整理させていただきました。今回のご相談は「摂食障害」に関するものでしたが、回答は「心」のトラブル全般について言えるものになっています。文中にもありますが、「摂食障害」というのは、「心」のトラブル全般の、顕れ方の一つなのです。ですから、別の顕れ方で悩まれている方も、そのように置き換えて読んでいただければ、きっと役立つヒントが得られると思います。

 

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A.先ず、あなたが、ご自分がいま置かれている状況の背後には、霊的な課題があると考えていらっしゃることに対して、敬意を払い、感謝申し上げます。そうでなければ、上記のテーマについて、わざわざこの『気づきの啓示板』に、質問をお寄せいただくことはなかったでしょうから。

 

霊的な課題。確かにその通りなのです。しかしそれは、過去世がどうとか、何かに取り憑かれているといったオカルティックな話ではありません。あなたとは何か、あなたが生きるとはどういうことか、といった本質的な問い掛けがそこに含まれているのです。あなたは、「摂食障害」という体験の機会を得たことによって、今、その扉を開けたのです。ですから、いつも言うように、そのギフトに感謝してください。私も、あなたが下さったギフトに感謝します。

 

「心」のトラブルの原因はその奥にある

あなた方、人間は、ご自分がどういう存在であるかということを、よく解っていません。たとえ専門家と称する人であっても(例えば、医者、心理学者、哲学者、宗教家、カウンセラー等)、非常に限定的なところでしか人間というものを捉えていないのです。人間は、多次元的存在であるということを、多くの人は知りません。中には気づいている人もいるのですが、大勢の声に掻き消されてしまっているというのが現状です。

 

多次元的存在とは、(解りやすい言い方と範囲で言えば)あなた方が「魂」と「心」と「身体」が合わさった存在だということです。この3つは(地上界においては)互いに密接に関連し合っているのですが、そのように捉えている人は、まず殆どおりません。現代の主流的な考えは、「脳」が「心」と「身体」を支配しているのであり、「魂」の存在などは認めない、という立場に立っています。

 

そのため、「心」のトラブルを、物質的器官である「脳」の機能障害と捉え、これを薬(という同じく物質)によって治療しようという試みがなされています。しかし、よく考えてみてください。「心」は物質でしょうか? 物質ではない「心」を、物質によって果たして治療できるものなのでしょうか? ここには、本末転倒があります。解決策としては、本質からあまりにも遠すぎます。

 

そうではなく、「心」のトラブルなのだから、「心」に直にアプローチしようという考えも当然ながらあります。カウンセリングや自助グループなどの試みです。薬物治療よりは、これで本丸にグッと近寄りました。しかしそれとても、効果が上がっているとはとても思えません。なぜなのでしょうか? この視点では、「心」のトラブルは「心」に問題があると捉えています。ですが、そうではないのです。

 

その奥に、もう一段階ある。いかにも問題を起こしているように見えている「心」は、実は「原因」ではなくて「結果」なのです。

どんな問題も、問題を起こしているその根本原因を突き止めて、これに向けて対処しなければ解決はしません。今回は、その視点を提供しています。

 

あなたが問題視しているものは、あなたの表現

「過食/嘔吐」を繰り返す型の摂食障害のメカニズムについては、たくさんの書物も出ておりますし、あなた自身も、既に分析されて解っていらっしゃると思います。簡単に言えば、心に満たされないものがあるので、その代替行為として、食べ物で満たそうとする衝動が生じるのです。しかし一方で、このまま「過食」を続けていては、健康に悪いとか、太って醜くなるという強迫観念もあり、そこで、食べた物を吐くということで、帳尻合わせをしようとしているのです。

 

ここで、先ず把握していただきたいのは、抑えきれない心の衝動というものが、あなたの奥底にある「今の満たされなさを、満たしたい」という叫びの、実は「代替行為」として生じているということです。解りやすく言えば、心がいつも空腹なので、とりあえずお腹をいっぱいにすることで、仮の満足を得ようとするのです。いわゆる中毒症(addiction)は、みなこうした手っ取り早い行為の中に生じています。

 

あなたの場合、それが「過食/嘔吐」という表現に出ているために、どうしてもそこに注目が行ってしまうとは思うのですが、真の問題はそこではないということです。それは、「表現行為」のバリエーションの一つであって、人によっては、〈買い物をし続ける〉とか、〈ビデオゲームにはまる〉とか、〈自分の身体を傷つける〉とか、〈刺激物や薬物の虜になる〉とか、色々な出方をして来るのです。

 

さて、それを聞いて、どう思われたでしょうか? 実にありふれたことだとは思いませんか? あなたは、今ご自分が「摂食障害」というところにフォーカスを絞っているために、そのことで頭の中がいっぱいになっていると思います。ですが、人間というものは、多かれ少なかれ、このような傾向をみな持っています。ただそれが、度を超して、普通の生活にすら支障が出て来たときに、世間では「◯◯障害」とか「◯◯病」といったレッテル貼りをしているのです。

 

ですから、そこで第一番めに気づいていただきたいことは、あなたが「◯◯障害」だと思っていることは、みな程度問題なのであって、あなたが「障害」のレッテルを貼らなければ、それは「障害」ではないということです。逆に言うと、あなたが「障害」にしてしまえば、何だって「障害」になり得る。例えば「猫舌障害」とか、「異性にモテない障害」とか、「前屈して手が床に届かない障害」とか。私などは、さしづめ「障害のデパート」でしょう。生涯が障害です。

 

現代人の不幸は、人間どうしの「ふれあい」がますます希薄になっていく一方で、膨大な「情報」だけが飛び交い、人々が、知らず知らずのうちに、これがスタンダードだという「情報」を「信じ込む」ようになってしまったことです。そこでは、人間には「◯◯障害」というものがあり、誰もがこれを発症している恐れがあり、それは治療すべきものであり、支援すべきものだ、という了解事項がすでに出来上がってしまいました。

 

しかし、それが何をもたらすかということを、この際に、よく考えていただきたいと思います。あなたが、「◯◯障害」についての知識を深めれば深めるほど、あなたの視点とレッテル貼りはますます強化されていきます。その陰で、そのトラブルを「市場化」したい人たち、「産業化」したい人たちにとっては、目論見通りの社会が実現していくのです。

 

百歩譲って、それが正しいことだとしましょう。ではなぜ、「◯◯障害」の人が減らないのでしょうか? なぜ、次から次へと、新しい「障害」が作り続けられているのでしょうか? 同様に、医療の高度化と言いながら、なぜ病気が減らないのでしょうか? なぜ、毎年々々、医療費が増え続けるのでしょうか?

 

話が横道に逸れたので戻します。第一の視点は、あなたが、ご自分を「障害」視しているからこそ、「障害」が発生しているということです。そしてこのことは、解決のための第一の視点であると同時に、実は究極的な回答をも示しているのです。ただ、そう言ってしまうと、現在、問題の渦中にある人にとっては空を突くような話なので、今は、ご自分の思い込みが、症状を悪化させてしまうことになる、ということを覚えてください。

 

しかしこの見解には、納得がいかない方もきっと大勢おられると思います。でも私も、パニック障害になりましたし、鬱病にもなりました。それは、確かに、具体的な不調が心身に現れていたのですが、いま考えると、やはり自分でそれを強化していたという点があったことは否めません。ですから、先ずはそこに気づくということが、こうした問題を手放すきっかけを与えてくれることになります。

 

意識化していない意識の働き

次に、いま起きている心身の実際の不調と、あなたが、自分ではあまり意識化していない意識、つまり潜在意識に畳み込まれた、心の飢え、渇きとの関係を見てみましょう。人間の身体というものは、非常に複雑な機構を持ったいわば化学工場であり、電子回路であり、動力機関でもあります。これらはすべて、特別に意識せずとも、普段は、潜在意識がその活動をコントロールしてくれています。

 

ところが、潜在意識には、顕在意識(自分が意識している意識)のもとでの経験も、蓄積されていくのです。その中に、強い不安や、怒りや、悲しみや、自己否定感などがあった場合には、潜在意識の自動コントロール機構(ホメオスタシス)がそれらのノイズによって狂わされてしまい、微少ホルモンの分泌や神経回路の正常な働きを阻害してしまうのです。

 

この結果、体調がなんとなくおかしいという感じになり、最初は「なにか変だな?」と思う程度だったものが、この情報が心にフィードバックされて、今度はしだいに心が塞ぐようになり、この塞いだ心がさらに体調を悪化させるということで、スパイラル状の下降が生じてしまうのです。ここでお気づきのように、「障害」という名の思い込みは、この下降局面にターボを掛けることになってしまいます。

 

では、どうしたらよいのでしょうか? これも、勘のいい方はすぐにお分りでしょう。そうです、ターボを逆向きに掛ければよいのです。自分はすこぶる健康だ。今日も清々しい。寝床があって、食べるものがあって、これ以上何が必要だろう。足りないものなんて何もない。私は私だし、宇宙は私という存在を認めている。だから私は生かされている。ああ、なんてハッピーなんだろう。

 

そう思い込めば、思い込めれば、心と身体とのフィードバックが、上昇方向に回転し始めることになります。つまり、スイッチを逆方向に入れ替えればよい。と、理屈は極めて簡単なことなのですが、ところがこれがなかなか出来ない。なぜ出来ないのか? それをトコトン突き詰めて考えてみれば、今の自分が、いかに幾重もの「とらわれ」に縛られているかに気づけるのではないでしょうか?

 

・元気ハツラツとしている自分の姿など、とても想像できない。

・自分の容姿や体型はお世辞にもいいとは言えないし、自分は劣っている。

・他の人と比べて、自分には特別な才能など何もない。

・自分には、経済力もなく、将来がまったく見えない。

・自分は、誰からも認められないし、誰からも愛された経験がない。

・生きている意味というものが、何も見出せない。

 

自己表現の転換をめざす

この不足感、未充足感、自己否定感の強い「とらわれ」が、すなわち、心の渇き、飢えなのですよ。解りますか? なぜなら、あなたの本質(魂)は、自分が「自由」であることを知っているから。「魂」は「私は自由だ!」って叫んでいるのに、それが檻の中に閉じ込められた状態にあるから。だから、あなたは叫ぶ。そして「私はこうよ!」と「表現」する。あまり誉められたものではない「表現」方法によって。

 

過食という行動に出たり、買い物をしまくったり、アルコールをガンガン飲んだり、パチンコにハマったりして。「ねえ、見て見て!」「ここに私がいるのよ!」って。「誰か、私を愛して」って。「こんな私を理解して」って。でもね、あなたを檻の中に閉じ込めているのは、いったい誰なんだってことに気がつかなくちゃいけないね。それは、あなた自身なんだよ。あなたが創った「とらわれ」なんだよ。

 

今まで、いろいろなことがあっただろう。辛い体験もしただろう。悔しい思いもしてきただろう。そのことはみんな知っているよ。理解者がいないって? 冗談じゃない。あなたは一人ぼっちじゃない。それどころか、一人ぼっちであったことなど、いまだかつて一度もない。そのことは、わたしがいちばんよく知っている。なぜなら、わたしがあなたを創ったのだから。

 

いいかい? 錯覚しちゃいけないよ。以前に、「人間とは、表現せずにはいられない存在だ」と書いたことがあるけれど、覚えている人はいるかな? 「表現」活動とは、地上で生きること、そのものなんだよ。花だって、虫だって、空だって「表現」しているじゃないか。つまり「表現」=あなたの「体験」だ。あなたは、どのみち「表現」せずにはいられない。だから、どんな「表現」をしているかが、あなたという存在を自己規定するのだよ。

 

それは、周囲が認めるとか認めないとかといったことじゃない。そんなものは関係ない。あなたが、今の自分を、どうしたいか、どうでありたいか、を決めるということなんだよ。だから、過食と嘔吐を繰り返す自分でありたいなら、それを続けたっていい。買い物をし続ける自分でありたいなら、そうしたっていい。アルコールや薬物に浸り切っている自分でありたいなら、それも止めはしない。

 

でも、もったいないとは思わないかい? どうせなら、他の「体験」、つまり「表現」をした方が、あなたの「魂」の成長につながるとは思わないかい? それに、わたしから見て不思議なのは、人間は、どうしてわざわざ自分を苦しめる体験をチョイスするのかということなんだ。人は、「魂」の世界を不思議だと言うけれど、人間の行動の方がよっぽどストレンジで不思議だよ。これこそ、宇宙で永遠に解けぬ謎! なんてね、冗談だよ。

 

さあ、もう解ったのではないかな? あなたは、自分で自分を拘束している「とらわれ」は何で、どこから生じているものなのかを、一度じっくりと内省して、炙り出してみるといい。繰り返しになるけれど、過食/嘔吐が「問題」なのではなく、それは「表現」なのだということ。そしてそれは、潜在意識の底にある「とらわれ」という真の問題の、リアクションだということ。

 

だから、この「とらわれ」を、ゆるし(ゆるすとは緩めるということ)、手放せばいいのだよ。あのとき誰かにああされた、こうされた。消えない傷、怒り、悲しみ、悔しさ。こうであらねばならない、こうあるべきという思い。不足感、未充足感、劣等感、自己卑下、自己否定。よくいうトラウマ。それらはみんな、あなたの「想い」でしかないのだよ。そして「想い」は、自由に選べるのだよ。

 

お勧めしたい具体的なアクション

ここで、あなたに、具体的なアクションをお勧めしよう。そう、まさにアクションであることがポイント。いつもいつもリアクションに終始していた、あなたの「表現」癖を、これからはアクションに変えるのだよ。あなたが、自分からアクションを仕掛けるんだ。これからは、自分の意思で、意識的に行動を選ぶ癖をつけなさい。それによって、今までの、まるで夢遊病者のような、潜在意識のリアクション癖に、ストップをかけるのだ。

 

同様に、ただ「手放せ」と言っても、今のあなたには難しいだろうね。だから、持つものを「持ち替える」ことを目指してごらん。うまく「持ち替え」られたら、前の「とらわれ」は、自動的に「手放して」いることになるから。そのために、自分がいつも「自由」であることを自覚し、これを表現しなさい。自分を解放し、「魂」の喜びの表現を見つけ出しなさい。誰にでも才能があります。そのように、あなたたちは創られたのだから。

 

ご自分をもっと信じなさい。喜びに生きなさい。朝、目覚めたら、太陽の光を浴びて深呼吸をしなさい。食事は、楽しく、美味しくいただきましょう。楽しくない食事は身になりません。そして自然の中を、身体が心地よい疲れに包まれるまでひたすら歩きなさい。「心」のトラブルを、「心」をいじってなんとかしようと思っても、その「心」自体がトラブルを起こしているのだから、うまくはいかないよ。

 

それよりも、「心」と「身体」がつねに情報をフィードバックしていることに着目しなさい。「心」はひとまず忘れて、忙しく「身体」を動かすことに活路を見出すんだ。そして、風呂掃除をする時でも、台所で洗い物をする時でも、また職場で仕事をする時でも、たとえどんな些細なことでも、自分がそれを「表現」として為し、心から楽しんでいることをイメージしていつも行動しなさい。

 

また、たとえどんな出来事に遭遇したとしても、心の中で「ハッピー、ハッピー」と唱えて、微笑んでそれを受け取りなさい。そして、それらのアクション癖がすっかり身についたら、その先に、こうご自分に問いかけてみてね。

「私は、誰なの?」

「私は、何をしたいの?」

 

それが見出せた時、あなたは、それまで、自分がとんでもない誤解をし続けてきたことに、きっと気づくでしょう。

満足は、与えられるものではなく、与えるものであるということに。

与えることで受け取ることができ、癒すことで癒されるのだから。

文明の終り

文明の終りが迫っています。これは予言ではありません。私には予言する能力はありませんし、予言はいたしません。今の地球人類の行動の観察結果から、そう予測しています。

 

人類はこれまでにも、何度も、自ら築いた文明を自己崩壊させて来ました。それと同じ状況、雰囲気が日々強まって来ています。人類は、今度もまた同じ轍を踏むのでしょうか? だとすれば、残念ながら、地球人類の学習能力は、非常に低いと言わざるを得ません。過去の経験から気づきを得ようとはしないし、内省というものがまったく足りません。

 

最初にみなさんに言っておきたいことは、たとえ世界が、今後どのようになったにせよ、あなたは生きるのを絶対に止めないということです。宇宙(=生命)に死はありません。人々がこの世で「死」と呼ぶものは、連続する生命の、変化の一局面に過ぎないのです。宇宙では、変化し続けることだけが、唯一、変化しないこと。絶対的存在(=停止)というものはないことだけが、絶対なのです。

 

あなたの「魂」は、どのみち永遠に生き続けるのですから、いわゆる「生きるか、死ぬか」ということよりも、今ある生を「どのように生きるか」が、常に問われているのです。瞬間々々で、あなたが何を知り(思い出し)、どう行動し(体験し)、自分が意味づけする(感じる)のか。その積み重ねによって、個々の「魂」の、今世における学習と、成長度合いが違って来るのです。

 

ですから、人類全体が置かれた状況を鑑みれば、あなたにとっては、いま進行しつつある「文明の終り」のプロセスを、自分が、視点をどこに置いて参加し、何を体験し、どう感じるかが課題となっていきます。もちろん、それはただの傍観者というわけではなく、あなたが、種としての人類の存続をこの先も望むのかどうか、それが人類全体の集合意識に大いに影響を与えます。

 

いま述べたことは、人々の一般的な認識としては、まだほとんど定着していません。それは、人間が、内省する機会をあまり持とうとしない上にプラスして、これまでさんざん間違った知識を吹き込まれて来たためです。特に、「生」と「死」という概念については、まったく誤解をしています。死を怖れなくなるのは、勇気の為せる技ではありません。「魂」は永遠ということを、思い出すがゆえなのです。

 

地球人類がまことに不思議なのは、自分の「死」を、それこそ死ぬほど怖れているというのに、他人を殺すことについてはあまり厭わない。マフィアだけではなく、時に政府が、国家が、殺人を推奨し、人々をこれに駆り立てるし、多くの宗教までもが異教徒を殺すことを正当化しています。さらには、映画やビデオゲームなどで、子どもたちに、早くから殺人の興奮と快感を教えています。

 

この世界の中に、埋没している人たちは、みんなそうすることが当たり前であるし、正しいことだと思っています。しかし、これらを宇宙的な視点から眺めると、地球人類というのは、どうやら集団自殺を望み、それに向かって着々と計画を実行しているとしか思えません。そうは思いませんか?

 

今、国際政治の舞台では、「善悪の逆転」という事態が起こっています。日本は今まで、米英独仏を中心とするいわゆる西側に所属していて、日本政府は西側の行動に追随し、国民の多くは西側が一方的に流す情報を信用して来ました。その陰で、西側が敵と見なす国家、ロシアや中国やイランなどは悪人国家だと決めつけ、これと対抗するような措置をしばしば採って来ました。

 

その一貫として、リビアのカダフィ、イラクのフセイン、シリアのアサド政権等を、あたかも自国民を痛めつけている悪の独裁者国家であるかのように宣伝し、そういう国家を民主的に解放するという「善」の御旗を立てて軍事介入するアメリカに、日本は同盟国として、その都度、追随して来ました。

 

カダフィとフセインは、西側の思惑通りに倒されてしまいましたが、しかしアサド政権は踏ん張って、ロシアの協力を得て、ついにはIS(ダーイッシュ)をほとんど解体させるところまで漕ぎ着けました。この予想外の展開の中で、ISが実はアメリカが作ったものであることが知れ渡り、過去の中東戦争や、アラブの春や、アフガン戦争が、全部アメリカが仕組んだ謀略であることがバレてしまいました。

 

さらには、クリミアの独立問題もロシアが悪者ということにされていますが、その前に起きたウクライナ政権のクーデターが、アメリカが画策したものであることが、証拠とともに明らかとなっています。このようなことで、国際社会においては、いま「善悪の逆転」現象が起きているのです。自分たちは「善」と言い続けて来たアメリカこそが、実は「悪」の帝国だったのだと。

 

ロシアへの経済制裁も、結局、困ったのは輸出を禁じられたヨーロッパの農民たちで、ロシアは国内生産を増やすことでこれを乗り切り、前よりもかえって豊かになりました。一般民衆の生活を見れば、今や露米の差は歴然です。世界がこぞってアメリカ離れに傾斜している中で、日本だけが今なお属国として忠誠を誓い、アメリカに次ぐ貧困大国への道をひた走っているのです。

 

ここで、本当はロシアの方が「善」だったのだと言いたいわけではありません。「善」とか「悪」とかというものは、所詮は人間が創った概念で、そんなものは、視点が変われば容易にスイッチしてしまうものだということ。むしろそれよりも、〈自分が為したことは、自分に還る〉という冷徹な「宇宙の法則」が、その背後に如実に顕れているという点を見ていただきたいのです。

 

重要なことは、外から来るものは「信じ」てはならないということです。世界は壮大なフィクションの上に構築されていて、しかもそれを意図的に操っている者がいます。ですから、何かを「信じる」ことは、そのコントロール下に入る、奴隷になるということを意味します。「信じる」のではなく、常にあなたの「直感」を大切にしてください。

 

自分の「直感」がイヤだなぁと思うことにはハッキリと「NO!」と言い、「直感」がいいなぁと思うことには喜んで賛同し行動してください。義務感や、正義感や、倫理観や、その場の空気などに流されないように。目を釣り上げ、拳を振り上げ、口から泡を飛ばして話す人には要注意です。語る内容が人を欺くためのものだから、そういう見ための演出で感情に訴えて誤魔化しているのです。

 

特に、身近で分かりやすい「敵」を設定し、その粉砕を声高に叫ぶような人の言葉を、簡単に信じて着いていかないように。未知の、新しいことの創造よりも、既知の「敵」の粉砕を叫んだ方が大衆には分かりやすく、同調させやすいのでそうしているのです。ヒトラー、ジョセフ・マッカーシーオーヴァル・フォーバス、ジョージ・ブッシュなどの演説映像があれば、よく見てください。みな同じ手法を駆使していることが解るでしょう。

 

このような人たちは、まだ「自分が何者か」が、思い出せていない人たちなのです。「自分が何者か」を思い出せていないから、自分と敵を分けて、相手の粉砕を叫ぶことができるのです。しかし、もし自分を思い出していれば、自分と他者は一つであるということが解り、よって他者に為したことは自分に還るということも解り、他者を愛することは自分を愛することだと解るはずですから。

 

「歴史に学べ」とは、常套句ですけれども、今度こそは正念場です。歴史から、いったい何を学べばいいのか? 大抵の人は、その歴史で起きたプロセスだと考えています。もちろんそれも重要です。ですが、それ以上に重要なことは、その時の人間の心理です。心の動きです。

 

戦争というのは、全部が、(いま所有している物の、またこれから所有しなければならないと考えている物の)「防衛」意識から始まり(ということは、「敵」が存在するという前提に立ち)、この正義のためならば、「敵」を殲滅して当然と考えることから起きています。このような信念に取り憑かれた人物がリーダーとなり、名誉や勲章と引き換えに、一般民衆の命をまるで将棋の駒のように使って捨てるのです。

 

一つの戦争が終わると、民衆は必ず「もうコリゴリだ」「国に騙された」と言うのですが、しばらくすると、またこの文脈に易々と乗っかってしまう。正義のためならば、国家のためならば、愛する家族のためならば、自分の命を喜んで捧げると誓う。そうやって、また、未熟な「魂」のリーダーの後を着いて行ってしまうのです。ですから、人類はいつまで経っても、肝心な点を歴史から学べないのです。

 

どうか、あなたの視点を、宇宙にまで引き上げて、世界の現状を見て欲しい。そうすれば、いま起きていることが、いかに馬鹿げた「心理ゲーム」に過ぎないかが解るはずです。

 

ジョン・レノンは「世界は、一握りの狂人に操られている」と言いました。まったくその通りです。狂人が、世界を引っ掻き回し、民衆を蟻地獄のような世界に引き摺り込んでいる。この全体の構造に、今度こそ気づくかどうかが、人類にとっての正念場です。今までの認識レベルでは、またアトランティスの二の舞いに終わってしまう。そうではなくて、構造(System)そのものからのジャンプが求められるのです。

 

とりわけ、いま「文明の終り」が迫っているわけは、テクノロジーの進歩が急激に進んでいるためです。狂人の政治指導者と、良心なき科学進歩の組み合わせは、非常に危い。アトランティスが消滅したのも、結局は、この組み合わせが原因です。

 

アインシュタインは、ルーズベルトに原爆の開発を進言しましたし、天才物理学者と言われたオッペンハイマーは原爆開発の父となりました。(*後にこの二人は、自分がした行動を大いに悔やむことになります)ノーベル化学賞を受賞したフリッツ・ハーバーは、第一次世界大戦で毒ガス兵器を開発し「化学兵器の父」となりました。有機化学者のルイス・フィーザーは、ナパーム弾を生み出しました。すべて、科学の誤用です。

 

良心なき科学は、魂の荒廃に過ぎない。

フランソワ・ラブレー(François Rabelais、 1483? - 1553)

 

急速に発達する、遺伝子研究、AI(人工知能)、脳のコントロール技術研究が、もしかしたら人類を滅ぼすことになるかもしれません。ことに、「産業」と結びついた場合は、これらは急速な進化を遂げます。競争と利益が、開発への強力なモチベーションになるからです。このモチベーションの前では、どんな警告も霞んでしまう。産業が政治を動かし、政治が人々を動かすからです。

 

先日、ニュースで、ある日本人のAI研究者がこう言っているのを耳にし、驚きを禁じえませんでした。「AIの研究は、生命の謎を解く鍵になるだろう」。その方は、きっと本気で、そう思われているのでしょう。でも、どうしたらそういう発想が出てくるのか、私には解りません。それよりも、庭の草木や昆虫たちをじっくりと観察した方が、生命とは何かがよほどよく解るのではないでしょうか?

 

本日ここに書いたことは、人類への警告に一部なっていますが、これを脅しとは捉えないでください。冒頭にも書いたように、宇宙/生命に死はなく、あなたが今後、何をどう体験するかだけの問題です。「死はない」ということを、今は頭でしか受け止められないかも知れませんが、いつかそれが腑に落ち、「なるほど、そうだなぁ」としみじみ感じる時が、必ずやって来ます。

 

ですから、これを読んで下さっている方は、いつも言っているように、瞬間々々を、自由に、創造的に、楽しく生きてください。「死」を怖れる人は、結局「生」も怖れる人になってしまいます。そうではなくて、この世でいう「死」は、いささかも怖れる必要はないのですから、そういう人にとっては「生」も怖れる必要がなくなるのです。

 

このことが、実感としてあなたに訪れる時、あなたは、今世の目的を、生きながらにして達成することになります。それでは、その日を目指して、どうぞ行ってらっしゃい。いつも応援していますから。

支援(Support)ということについて

困っている人を助けることは良いことです。人間がみんな、そのような優しい心根を持って生き、行動していたとしたら、どれほど素晴らしい社会が出現しているでしょうか? しかし残念ながら、現実はそのようにはなっていません。

 

これは地球人類が、霊的にまだまだ未熟なためです。学校で言えば、小学校入学のレベルにも至っていません。助けるよりはむしろ虐げる、平等よりは優劣、与えるよりは奪う、融和よりは闘争、正直よりは欺瞞を好む人間が、社会のリーダーとなって、民衆をその価値観で染め上げ、引率しています。彼らがリーダーになれるのは、それを支える大衆に、結局は同じ心根を持つ人が多いからです。

 

でも心ある人たちは、内心それはおかしいと感じています。ある意味、それは当然です。なぜなら、その人の「本質」は、虐げるよりは助ける、優劣よりは平等、奪うよりは与える、闘争よりは融和、欺瞞よりは正直の方が、人は幸せに生きられるということを知っているからです。この〈心ある人たち〉というのは、自己の「魂」が発する声に素直な人たちなのです。

 

けれども、「魂」の声に素直な人たちにとっては、今は非常に生きにくい時代です。ちょっとニュースを見れば、暴力事件や紛争やテロで人が何人殺されたといった話ばかり。一方で、株価がどうしたこうした、ビットコインが史上最高値をつけたとかと言って人々を儲け話に誘う。イヤな世の中だなぁと思いながらも、多勢に無勢で世の流れには逆らえない。こんな状況に、きっと胸を痛めておられることでしょう。

 

先日、ある人からこんな相談を受けました。その方の職場近くの路上に、ホームレスの男性がいたのだそうです。彼女は気の毒に思って、最初、食べ物をその人に渡してあげていた。そのうちに話をするようになったというのですが、ある時、男性から「500円くれないか?」と言われて、それで急に怖くなったというのです。さて、あなたがその彼女だったらどうしますか?

 

そんなつもりで始めたことじゃないのに‥‥。自分はただ困っていると思って、ちょっと食べ物をあげただけなのに‥‥。一人ぼっちじゃないよ、と言いたくてお話しただけなのに。どうして今、彼はそんなことを言って来るのだろう? 500円。うーん、どうしよう。あげるべきなのだろうか? でもここでお金をあげたら、これから会うたびに無心されるかも知れない。もしかして、最初は500円だったのが、次には1000円になるかも知れない。そして段々と私の生活に入り込んで来るかも? あーイヤだ、自分は何を怖れているんだろう。500円が惜しいのか? いや、そうじゃない。やっぱり彼を、本当のところでは受け入れていないんだ。自分の愛が足りない、ということか? 最初の思いが、単なる偽善者に過ぎない、自己満足に過ぎなかったということを、いま突き付けられているのだろうか?

 

きっと、こんな思いが頭の中を駆け巡るのではないでしょうか? 私にも、若い頃に同じような経験があります。一緒に切磋琢磨して来た友人の一人が、鬱になって仕事が出来なくなってしまった。無収入になった彼を憐れんで、私は彼に10万円をあげました。当時、10万円もあれば1箇月生活できたのです。倹約すれば2箇月は持ちます。その間に、打開策を見つけられるだろうと思ったのです。

 

ところが10日ほど経った頃、当時住んでいたアパートに彼からのハガキが届きました。そこには「お金が無くなりました。」と、一言だけ書かれてありました。これにはびっくりすると同時に、私は腹を立てました。私の3倍のスピードでお金を使っている! いったいどういうことだ。それ以来、彼とは一度も会っていません。今でも時々、どうしているかなぁと思うことがあります。

 

もう30年も前の話で、当時は、私も今のような智恵を持ってはいませんでした。それで、自分のしたことに、やはり激しく自己嫌悪し、悶々とした日々をしばらく送りました。

今の私なら、昔の自分にどう言ってあげるでしょうか? また彼にはどうしてあげるでしょうか?

 

これから書くことは、世間的な、また処世術的な回答にはならないと思います。ですが、この『気づきの啓示板』の読者なら、きっと解ってくださるだろうと思います。

 

近年、「支援(Support)」という言葉が一般に広く浸透し、そうした行為、行動、考え方が当たり前のような感覚になりつつあります。冒頭にも書いたように、困っている人を助けてあげることは、基本的には良いことです。でも、その人が、何に困っているのか、その困っている部分を何をもって助けてあげるのか、を見極めることが非常に大切です。

 

お腹が空いていたら、おにぎりを作って食べて貰えばいいですし、寝るところがなかったら、部屋の一部を提供して布団を使って貰えばいい。ところが「お金」となると、何か気分がザワザワするのは、「お金」というものがいろんなサービスに代替できてしまうからです。その結果、ひもじいのだろうと渡してあげた500円を、お酒を買って飲んでしまったということが起こり得る。

 

*逆に、災害発生直後には、何にでも代替可能な「お金」がいちばん良くて、毛布や古着ばっかり送って来られても困る、という話もあります。

 

このズレは、本当に困っていることの原因が見抜けていないことと、対処の仕方が適切でないことの両方が合わさって生じます。この場合、「500円くれないか?」と言った人は、ひもじかったのではなく、実はお酒を飲みたかったのです。でもそれだって、違うかも知れません。本当のところは、孤独感に打ちひしがれていて、それをお酒で紛らわそうとしたのかも知れません。だとすれば、お金もお酒も何の解決にもなりません。

 

「支援(Support)」という言葉の、今の一般化や常識化は、どうも、この視点がスッポリ抜けているような気がしてなりません。現代においては、「支援」というものが何か制度化、イベント化してしまって、却って、本当に困っていることは何か、というものを見抜く目を失わせているのではないでしょうか? 沈鬱な表情に沈み切った人を助けるのに必要なことは、ただ優しく抱擁してあげることだけなのかも知れません。

 

若い頃の私に、そしてこの500円騒動の相談者に、共に欠けていた視点は、「課題の区別」ということです。私も相談者も、「どうしたらいいのか?」という対処方法にばかり目を向ける余り、相手の課題とは関係ない課題まで自分の中に創り出し、それと闘う羽目に陥っている。そのことに気づかないのです。500円をあげるべきか、あげざるべきか。そのことで、果たして自分が苦しむ必要があったのか? いったいそれは、誰の課題なのか?

 

もちろん、「あなたの現実はあなたが創っている」とこれまで言って来ましたし、「何事にも偶然はない」とも言って来ました。だとすれば、そういう状況に遭遇したのは、何か自分にとっての意味があるはずだ、と生真面目なあなたは思うでしょう。それは、その通りです。ですが、ここからが問題です。「真の援助とは何か?」ということを、あなたは考えなくてはなりません。

 

ここで、世間的な常識からは大きくズレます。宇宙でいう「真の援助」とは、たった一つ。相手の「魂」が、今この瞬間(be here now)の自己の課題に気づいて、成長することを促すことだけなのです。そう聞いて、「なんだ、また『魂』かよ」と呆れられる方もおられるでしょう。でも「なるほどそうか!」と、今までモヤモヤしていたものが、スッキリされる方も多分おられることでしょう。

 

「魂」は、すべて個別のパーソナリティを持っています。あなたが誰かに会う。その時、あなたは、その関係性の中にご自身の課題を発見します。が同時に、相手もその人自身の課題を発見しているのです。これは、当然ながら、同じではありません。そして、その時の境遇や事件は、たとえどんなに悲惨で可哀想なものに見えたとしても、宇宙的に見れば、すべてがギフトなのです。

 

この考え方には、きっと激しい抵抗を覚える方もおられることでしょう。ではこう言い直します。ギフトに変え得る力を、各々の「魂」は最初から持っている。そして、ギフトに変え得た者のみが、それこそが「神の恩寵」だったと気づく。これが、いわゆる『沈黙する神』という命題の答えなのです。

 

神は沈黙している。何もしてくれないように見える。しかし、あなたがハッと気づけば、あなたは、元々が神の一部なのですから、その瞬間に、自分の恩寵を自分で受け取るのです。解りますか? これが、これまでの宗教では決して説かれることがなかった奥義なのです。なぜ説かれなかったのか? みんながこれを知ってしまったら、組織宗教が成り立たなくなってしまうから。

 

ですから、「真の援助」とは、その人の「魂」の課題を見抜いて、今ある状況から、相手が何を学び取るのか、どういう至らなさに気づくのかを、促してあげることなのです。そのためにこそ、お互いの出会い、人間関係というものがあるのです。このことが解れば、いわゆる「支援(Support)」というものの多くが、時に逆効果しか生み出していないことの理由がお解りでしょう。

 

一生懸命「支援」しているつもりが、依存・共依存の関係を創り出しているだけに終わっているケースがあまりにも多い。また、支援する側のちょっとした満足とは裏腹に、支援された側が却って孤立感を深めてしまうケースも見られる。今の親子関係の多くが、自助グループと称するものの多くが、こうした罠に陥っています。それは、互いの「気づき」を遅らせ、「魂」の成長を阻むものになっていることに、それこそ気づいていただきたいのです。

 

課題=成長へのチャンスであることに着目してください。介入し過ぎることによって、相手の課題を奪ってはならないのです。それは、天からのギフトを取り上げてしまうということです。もちろん、相手の課題まで自分が引き受ける必要はありません。あなたにはあなたの課題があるのですから。だから、そこに集中しなさい。そして、それはエゴではありません。

 

そう行動することは、「情」が支配する人間社会から見れば、一見、何か冷たいものに映るかも知れません。がしかし、「宇宙の法則」とはそういうものなのです。「愛情」から「情」を取り去れば、真の「愛」だけになる。宇宙の人になる。時には、何にもしないことが、最大の援助だということがあり得ます。まさに、それは『沈黙する神』のように。

 

ですから、誰かを助けてあげられなかったからと言って、悲しんだり、自分を責めるのはお止しなさい。それぞれの「魂」には、それぞれの課題があって、そうなっているのですから。たとえあなたが助けられなくても、その人は、最初から助けられているのですよ。だから、あなたはあなたの課題に、ちゃんと向き合いなさい。そして自分を助けなさい。それが、結果的には多くの人を助けることに繋がるのですから。

“絶対的” なものなど、どこにもない

自分で自分を客観視することは、完全にはできません。自分の行動や思考プロセスを、時に内省することは出来ますし、それは自己の成長にとって必要かつ大切なことですが、それでも「内省している今の私」というものから逃れることはできません。そこで、人はしばしば、客観的に見ようとしている自分と、見られている自分がゴッチャになり訳が分からなくなってしまう時があります。

 

えっ、しょっちゅうそうだって? それはいけませんなぁ。そんな時には、誰か権威ある人にジャッジして貰いたくなったり、倫理道徳の規定や、聖なる書物の一節に従いたくなったり、霊能者のご託宣を仰ぎたくなったりするものです。私にもそういう時があります。でもその時に大切なことは、外から来る情報に対しては、いつも、「私にとっての真実」をそこに見つける、という姿勢で臨むことです。

 

これまで「外から来るものは信じないように」「つねに自分自身に頼りなさい」と、何度も語って来ました。しかしそれは、外から来るものを完全にシャットアウトしなさいということではないのです。そもそも、それは不可能ですし、それを目指したら、地上で生活する意味がなくなってしまいます。そうではなくて、外から来るものを「自分で選んだ」という意識を、つねに持って接することが大切なのです。そして、実際にそうなのです。

 

たとえばこの『気づきの啓示板』にしても、自分の中にパッと明かりが灯ったように感じるセンテンスが時にあろうことかと思います。それはその瞬間に、あなたという個が、自分の中に元々あった、封印された小箱の蓋を開けたのです。それで、光がサッと射し込む。ですからそのとき眼にした言葉、それは単に鍵の役割を果たしたに過ぎないのです。

 

このようにして、あなたは、「真の自分」を、その段階に応じて徐々に思い出して行っているのです。外から来る情報は、一見偶然のように見えて、実は天によって周到に手配されたものです。しかし「気づき」となる情報は、その準備が出来た者にしかもたらされません。同じ情報を見ても、準備が出来ていない人には、自分にとっての価値が見出せず、それは素通りして行ってしまうのです。

 

ですから、「これは私に向けて書かれた言葉だ!」と読むことが大切なのです。これは文章だけに限ったことではありません。友人が発した言葉、街を歩いていてふと耳にした会話、人々の仕草や行動、足を止めて眺めた絵やオブジェ、音楽、景色、すべてがそうです。自分の周囲に展開されるすべてを師として眺め、そして自分の発見とする。これが、自分でハンドリングするということであり、「自分に頼む」ということなのです。

 

冒頭に書いたように、外に頼みたくなる気持ちも解ります。でもそれを、自分自身の選択に変えていかないと、人は外部にあるものの奴隷として生きることになってしまいます。「魂」が本来有している「自由」の放棄です。

 

人はよく「聖書には、真実がすべて書かれてある」とか、「誰々という過去の偉人はまるで神のような人だ」とか、「わが師である◯◯先生は、この世で最高の人物だ」などと言います。そして、「神」の言葉が記された書物なのだから、この聖書・聖典は「絶対」なのだ、あの先生の仰ることは「絶対」なのだというロジックを使いたがります。

 

けれども、その聖書・聖典を記して編纂したのは、紛れもなく人間です。その「先生」と言われる人物も、人間なのです。最高のチャネラーといえども、同じ不完全な人間なのです。「神」は自らペンを取りません。誰かを通して語らせる。その誰かとは人間です。そこをよく考えなくてはいけません。

 

さらに、言葉そのものが不完全なものです。だからこそ、同じ聖書・聖典類を奉じていながら、言葉の解釈をめぐって異論が百出するのです。そして、たくさんの宗派に分かれ、どっちが本物かと言って不毛な争いをしている。それがどれほど馬鹿げたことであるか、なぜ気がつかないのか。一体なんのための、スピリチュアルな世界への参入なのでしょうか?

 

何事にも「絶対」などはありません。もし「絶対」なるものがあったとしたら、活動がそこで停止するということです。いま有る「絶対」が、少しでも動いたら、それはたちまちにして「絶対」でなくなるからです。宇宙は、決して活動を停止しません。あえて言えば、「絶対」でないことののみが「絶対」である、と言えるでしょうか。すべては、至高を目指して「今、成ろうとしている」存在なのです。

 

それは「神」ですらも。

ですから、神に似せて造られた人間、不完全な我々がいるのです。

 

何かを “絶対的” と認めた瞬間から、それを基に自分の行動を規定してしまうという(つまり自分には「自由」はないと信じる)逆転が始まります。あの先生が言ったことだから、それに従順に従う。聖書・聖典にこう書かれているから、それを信じる。戒律でこう言われているから、それを固く守る。本人は、そうすることが “絶対的” に正しいことだと信じている。

 

そして、その状態に埋没して生きることが、「聖」なる領域に生きることだと信じ込んでいる。でもこれが、「奴隷」でなくしてなんだと言うのでしょうか? この宇宙に、あなたという「個」が生み出されたのは一体なぜなのでしょうか? 自分というものを失くして、奴隷的人生に身を捧げるために、わざわざこの世に誕生してきたとでも言うのでしょうか?

 

ご覧なさい。今の世の中を、そして世界を。宗教でも、お金でも、政治でも、科学でも、“絶対的” と信じる「何ものか」に、自分を売り渡してしまったロボット人間たちが、世界を大混乱へと、生命を大破壊へと導いているこの現実を。なぜ誰かの後を付いて行こうとするのでしょうか? なぜ、自分で自分を縛る道の方を選ぶのでしょうか? なぜ、「自由」であろうとはしないのでしょうか?

 

あなた方の最高の権威は自分自身なのですよ。そのことに自信を持ちなさい。あなたの代替は、他にいないのですよ。あなたという「魂」は、一兵卒でも、駒でも、歯車でも、部品でもありません。この広い宇宙の中に、たった一つの、個性を持った独立した存在です。コントロールされる自分ではなく、自分をコントロールできる自分を見出しなさい。

 

「魂」は生きないではいられません。「魂」には、この世でいう死はないのです。ですから、人間にとっては、生き残ることが問題なのではなく、どう生きるかが問題なのです。この意味をよく考えなさい。あなたはどう生きたいですか? 生き残りのために、自分の「自由」を押し殺して生きる人生と、「自由」を謳歌して、生き残りなど考えずに瞬間瞬間を燃焼させる人生と。

 

いいですか。幸福とは、その時々の「気持ち」なのですよ。

自己を解き放つとき

「自由」。この言葉を、おそらくこのブログの中で、これまでいちばん多く使って来たのではないでしょうか。それは、今の人間たちの苦しみや、不幸の原因、そのすべての根っ子が、同じ「不自由さ」に起因しているからです。しかもそのことに、人間は全くと言っていいほど気づいていません。あなたが日々感じている諸問題は、すべてあなたが「自由」でないところから生じているのです。

 

でも、ここで言っている「自由」は、一般的に考えられているものとはちょっと意味合いが異なります。宇宙では「自由」は「愛」と同義語なのです。この意味が解りますか? つまり、完全に「自由」であることは、イコール自分が、完全な「愛」の人になるということなのです。これが解れば、あなたは大きく飛躍します。今世生まれてきた目的を存分に果たし、そして帰ることが出来るでしょう。

 

人間たちは、「不自由さ」というものを、外から押し付けられる拘束だと考えています。そして「自由」を、自分の意のままに振る舞えることだと捉えています。ですから、人は「自由」になりたいと願う。ところが、人間を「自由」にしたら、社会秩序が破壊されてしまうと考える人たちがいて、これに「制限」を加えようとします。そこでいつも、「自由」と「制限」を巡って、綱引きが繰り返されるのです。

 

これは、本当の「自由」とは何かを知らないため、逆に言えば、「不自由さ」というものの根本原因を知らないためです。人間社会で言われている「制限」も、そして「自由」すらも、宇宙から見れば、実は、同じ「不自由さ」に他ならないのです。要は、両者が載っかっている基盤そのものが、「不自由」な領域にあるのです。ではいったい何が、また何から「不自由」だと言うのでしょうか?

 

それは、自分です。本当の自己です。真我です。

 

真の我(われ)は、つまり「魂」は、本当の「自由」というものを、生まれながらにしてちゃんと知っているのです。ところが、成長して知恵を持つようになると、その活動に意識的に「制限」を設けたり、〈欲望〉という名の偽物の「自由」によって、それを覆い隠してしまうのです。これが、その人に、根本的な「不自由さ」をもたらす原因となっているのです。

 

そこから、受肉すること(「魂」が肉体に入る=Reincarnation=転生)が、しばしば牢獄に入ることに例えられているのです。

 

我欲のままに生きることが「自由」なのではありません。むしろそれは真逆。自分を最も強く拘束させてしまうことに他ならないのですよ。あなた方も、それを半分は解っているはずです。だから、みんなよく言っているじゃありませんか。欲望に突き動かされて、何かに夢中になってしまうことを「ハマった」と。

 

肉体というのは、まことに不自由なもので、時空間の箱に閉じ込められ、移動が制限され、他人とコミュニケーションするのもやっかいだし、肉体を維持するためには、常に食事をしたり運動したりしなければなりません。霊界にいたときの、それまでの自由さがまったく失われてしまうのです。

 

その代わりに、肉体を持つことによって、「魂」はこの物質世界を知覚し、生きていくためのセンサーであるところの、いわゆる「五感」を獲得しました。けれども、幼少期はまだ「五感」の発達が未熟です。幼児は周囲にあるもの何に対しても興味を示し、見たり、聞いたり、触ったり、口に入れたりすることで、しだいに自分の外側にある世界を認識していきます。

 

この時期の「魂」は、本当の「自由」というものをまだ覚えているのですが、「五感」の発達とともに、外の世界に順応し、入れ替わりに、本当の「自由」を徐々に忘れていくのです。そして、家庭矯育、学校脅育、社会狂育によって、「魂」の真の「自由」は見事に歪められ、「幻の世界」を、しだいに真実だと思い込むように育てられていくのです。

 

でも、ここで想像してみてください。生まれたての無垢の赤ん坊は、そんな社会システムとはまだ無縁であったということに。

 

この、外に広がる世界観は、マス(mass)で構成されていて、多重構造である上に、かつ非常に強固なものですから、個人が異論を差し挟む余地がほとんどありません。自己の「魂」に素直な人は、なんとなく違和感を感じてはいるのですが、それを言ってもどうにもなりませんし、そういう人は、逆に「落ちこぼれ」と見なされ社会から排斥されてしまうのです。

 

一例を挙げましょう。今の世界においては「経済」というものが、政治上の一大問題となっています。不況の常態化、雇用問題、貧富の格差、貧困、飢餓、母子家庭問題、熾烈な競争、学歴差別、不正と汚職の蔓延、そして環境破壊まで。ほとんどのことが、「経済」が上手く回っていないことが原因で発生しています。しかしこれらの問題を、一挙に解決する道があるのです。

 

それは、「分かち合う」という考え方の導入です。「経済」活動の根底に、「分かち合う」という基本理念があるだけで、すべてが変わります。「分かち合う」という考え方があれば、富の偏在も、物の偏在もありませんし、ムダな競争をする必要もなく、それぞれに適切な雇用が見出され、貧困も飢餓もなく、学歴差別も必要なく、不正も汚職もなく、戦争のない世界が創られます。

 

これを、みなさんは夢物語だと思われるでしょうか? いいえ、そうではありません。成長した「魂」が創る世界は、いずれ必ずそのようになります。それが進化の法則だからです。ではなぜ、今はそれが実現できていないのでしょうか? その答えは簡単です。社会の基本に、出発点に「オレは、分かち合わない是」という思想が、当然のこととして横たわっているからです。

 

「分かち合わない」ことが「是」だという考え方が、「経済」活動の基盤を構成している。そのために、「経済」は富の奪い合いとなり、激しい競争が生じ、マスコミがこれを煽って人々に刷り込み、格差が生じ、この思想教育を学校で教え、学歴社会が生まれ、差別が生まれ、労働者は奴隷にさせられ、不正と汚職が蔓延し、環境破壊が止まらず、あまつさえ戦争まで起こしているのです。

 

複雑怪奇に見える世界も、元はたったこれだけなのです。人類が「分かち合う」という考え方を選ぶか、「分かち合わない」という考え方を選ぶか、そのどちらかなのです。今、人々の多くは、社会が上手く機能していないのは、現行のシステムがおかしいのではないかと思い始めています。そこで、あれを変えたら、これを変えたらと議論しています。

 

でも、根本はそこにあるのではありません。システムを構成している、元にある考え方こそを問うべきなのです。システムなど、元にある考え方がひっくり返れば、それに合わせて早晩変わっていくものです。こと経済に限らず、金融も、教育も、医療も、福祉も、環境問題も、全部があれよあれよという間に変わっていくことでしょう。重要なことは、どういう考え方の下に、システムを再構築するかなのです。

 

あらゆる面で破壊が進む地球。今のこの地球の混乱を治め、平和な世界を実現し、自然環境を元のように回復させ、人類という種が存続し、そして進化していくためには、根本にある考え方がどのように変わらなければいけないのか? その答えは、すべて共通しています。人類みんなが気づかなければならない、たった一つのこと。宇宙をつかさどる究極の答え。根本法則。

 

それは、「全部が一つ」ということ。あなた方に伝えたいことは、いつも繰り返し言っている言葉、ただこれだけ。あなたはわたしであり、わたしはあなた。ゆえに、あなたが為したことは、あなたに返る。他者を愛することは自分を愛することであり、自分を愛することは他者を愛すること。そこに分離はない。このことを根本に据えて、すべてを考え直しなさい。それが、今後のあなたの出発点になる。

 

その時に、忘れてならないのは、あなたも、現行の社会システムの成立に加担して来たという事実です。過去、何度も言って来たように、一部の富者が成立しているのは、それを支えている多くの貧者がいるからです。加害者がいて被害者がいるのではありません。みんなが合わさって、そういう社会を合意の下に創り上げて来たのです。ここに気づかないといけない。

 

いいですか、「」に目覚めるのです。

まさに気づき。気づきのジャンプです。

 

あなたの現実は、あなたが創っている。そう、これまでにも何度か言って来ましたね。これは、あなたが「現実」だと思って来たものは、あなたの「認識」に過ぎないからです。これが「現実」という、確固たる存在はどこにもない。あなたの「認識」の中にしかないものだからです。ですから、あなたの「想い」が、あなた固有の「認識」を創り上げ、あなたが思っている「現実」を、あなたに見せるのです。

 

そこで、こう言えます。

他者が選んだものに、自分が加担することをもうこれ以上やめるとき、それがその人の解放のときとなる。

そして、その人は、入れ替わりに本当の「自由」を思い出す。

 

友よ。そのようにして「自由」を思い出して欲しい。自分はそのように創られたということを思い出して欲しい。そうして、無限の「自由」を再び得て、無条件の「愛」の人になりなさい。その「愛」を周囲の人々に振りまきなさい。残された時間はもうあまりありません。あなたが目覚めて、周囲の人々に影響を与えれば、人類は変わります。地球も変わります。わたしがついています。だから勇気をもって、己の道を進みなさい。

神は「居る」のではなく、「在る」のだ

ピンポン🎶〜とチャイムが鳴り、玄関に出て見ると、外に見知らぬ女性が二人佇んでいました。二人が醸し出すその雰囲気から、私は直ぐに察知して「宗教ですか?」とこちらから先に尋ねました。相手は頷くと、よくその名を聞く某渡来系の教団の名を名乗りました。(へー、こんな過疎の山奥にまでやって来るのか)と、私は驚き、その行動力に感心しました。私が住む部落には4軒しか人が住んでいないのです。

 

彼女たちに、私はのっけから「宗教の時代はもう終わりです」と、いつも話していることを伝えました。それは挑戦的態度を示そうとしたわけではなく、その場を早く打ち切りにしたかったからなのですが、でもそんなことであっさり引き下がる人たちではありません。彼女たちも「使命」を感じてやっておられることです。結局それから30分も話をすることになりました。

 

「今の世界の混乱の、大部分は宗教が原因になっているのじゃありませんか?」と言うと、彼女たちもそれを認めるのですが、「それは神様の本当の意向を知らないからです」と言い、でも「自分たちは違う」と言うのです。そして、「神様は、そうしたことも全部見ているんですよ」と言って、自分たちが信奉する「神」の名を挙げるのでした。

 

「神の本当の意向を知らない」というのは仰る通りだと思いますし、「全部見ている」というのもその通りです。強いて言えば、「見ている(watch)」というよりは、「知っている(know)」と言った方が適切な感じがします。がしかしそんなことよりも、私が不思議に思うのは、2000年前に勃興して、その後、人の手によって成立した宗教および聖典の解釈を巡って、未だに正統派争いを繰り広げてるというその時代錯誤の感覚です。

 

超ミクロ世界に迫る量子力学が誕生して90年、宇宙の膨張が発見されてから同じく90年、DNAが発見されてから60年、惑星探査機ボイジャーが太陽圏外に向けて出発して40年、ハッブル宇宙望遠鏡が打ち上げられて27年。それなのに、どうして宗教だけは、2000年も前に創られた「神話」の解釈論に、今もって終始しているのでしょうか?

 

おかしいとは思いませんか? あれだけ熱心に「神」を説きながら、現代に「神」は存在しないとでも言うのでしょうか? もし現代に「神」が存在しないのなら、過去の「神」を語っても無駄ですし、現代に「神」が存在するのなら、「神」はいつでもその時代に合った言葉と方法で語りかけて来ているはずです。それでこそ、永遠かつ普遍的存在と言えるのではないでしょうか?

 

なぜ、2000年も前の「神話」を、未だにどの宗教も有り難がるのだと思いますか? それは、まさに「神話」だからです。今進行しつつある現実ではないからです。「神話」だから、骨董的価値があると思われ、数々の奇跡もスンナリ認められる。「神話」だから、言葉を巡って、それぞれの宗派が、都合のよい勝手な解釈が出来るのです。

 

宗教者は、我々が住む「宇宙」というものを、果たして真剣に真正面から考えたことがあるのでしょうか? 彼らは「神様」は語ります。自分たちが承認する「神様」については語ります。しかし「宇宙」のことは語りません。けれども、「神」と「宇宙」と「生命」は、すべて同義です。同じことの言い換えなんですよ。なぜなら、「神」とは、「全て」だからです。

 

「神様」は正しく見て下さっていると、彼らは言います。自分たちが信奉する道のみが正しくて、それ以外は邪道であり邪教だと言います。そちらの道を行く人たちは、みなサタンに支配されているのだと言います。こんな馬鹿げた世界論、宇宙論が、果たしてあるでしょうか?

 

囲碁を思い浮かべてください。自分たちは本当の「神様」を奉じる白い碁石のグループ。でもその横には、サタンの支配下にある黒い碁石のグループも勢力を延ばしている。これが今の世界だと言う。では、その世界を支えているものは何でしょうか? 碁盤ですよ。白い碁石も、黒い碁石も、全部碁盤の上に載っかっている。だとすれば、その碁盤全体が「宇宙」なのだし、それが「神」だ。

 

「神」は、白い碁石じゃない。「全て」だ。この当たり前のことに気がつくことが、21世紀に相応しい、新しい「神学」の出発点になる。

All is in all.(全ては全ての中にある)

だから、当然のことながら、あなたも「神」の一員なのですよ。

 

「神」とは、全智であり、全能であり、全存在であり、宇宙であり、生命であり、完全なる愛であり、法則であり、その全てだ。あなた方は、その「神」の、Sum of God(神の総和)を形成している。

 

神は「居る」のではなく、「在る」のだ。

 

どうでしょう、ここで提案なのですが、「神」に「様」を付けるのを、思い切って止めてみては? 止めたところで、「神」は別に怒りはしない。今までだって、人間たちは「神」をさんざんに言ってきたのだから。「神様、神様」と崇め奉るから、擬人化した感情的なものを、自分の外側に求めてしまうのだ。「神様」は「居る」と信じ、「神様依存症」で生きるしかなくなってしまうのだよ。

 

「神は、未だかつて、自分の名を名乗ったことは一度もありません。なぜなら、宇宙それ自身であるものに名前は必要ないからです」と私は言い、空中を指差して「神はここにも在るし、あなたの中にも在る。そして私の中にも」と言ったのですが、彼女たちには通じませんでした。きょとんとした顔をして「あ、もうお昼だから」と言って帰って行きました。

 

「洗脳」というものは、実に不自由なものだなと思いました。でも彼女たちは、自分が「洗脳」されているとは夢にも思っていません。「信仰」していると思っているのです。正しいことをしていると思っている。この教団のホームページを見ると、「教えの型に固く従うように努力する」とある。もう全然ダメです。「教えの型」も、「固く従う」ことも、「努力する」ことも。

 

宗教の恐ろしいところは、実にそこです。自動車を暴走させて通行人の列に突っ込んだり、山に火を点けて家ごと家族を焼き殺したり、集会所に行って銃を乱射したり。人間が、同じ人間に対して、どうしてこんな酷いことが出来るとお思いですか? 固い「信念」が在るからなのですよ。固い「信念」が、個人の内なる常識をぴょんと超えさせてしまうのです。「信念」が、人を殺人者にしてしまうのですよ。

 

内なる自分にちょっと聞いてみれば、「相手も同じ人間なんだよ。同じ生命(いのち)なんだよ。宇宙の一員なんだよ」という声が直ぐに返って来るはずです。でも「信念」は、その声をあっさり素通りさせてしまう。そして、現代においては、固い「信念」は何も宗教だけに限ったことではありません。政治的「信念」、金銭的「信念」、教育的「信念」、医療的「信念」、etc.。

 

こうしなきゃダメだ、ああしなきゃダメだ。現代人は、押し寄せて来るあらゆる「信念」の洪水の中で、もう息も絶えだえになっている。それが、今という時代の「生きにくさ」の原因です。その鎖から、解き放たれる手助けをしてあげることが猛烈に求められているのに、宗教までもが、自分たちがこしらえた古臭い「信念」を振りかざし、人々をなおも従わせようと躍起になっている。

 

「教えの型」を学ぶ必要はないし、「固く従う」ことなどむしろ避けるべきだし、「努力する」必要も全くない。あなたは、ただ「ありのままでいい」ということに気づくだけでいいのだ。

 

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広い。そして、そこから入って行く者が多い。命に至る門は狭く、その道は細い。そして、それを見出す者が少ない。」

 

まことにその言葉の通りです。しかし、細い道、狭い門とは、特定の宗教・宗派のことを指しているのではありません。そうではなくて、外から来る何かを「信じる」という大通りから、逸れることが人間には難しいのです。みんながゾロゾロ着いていく道から外れて、自分の好きな小道に一人で分け入っていくということがなかなか出来ない。それには、ちょっとした勇気を必要とするから。

 

重要なのは自分自身なのです。外から来るものを「信じる」ことではない。あなたの現実は、あなたが創っているのですよ。自分が、自分の周囲に起きるありとあらゆる出来事について、何をどう解釈し、どんな意味を与えるか、それだけなのです。だから、ありのままに、自分が導く道を行けばよい。なぜって、これが生命の全ての目的なのだから。

 

「信じない」イコール「疑う」ということではありません。自分の内なる「それ」を信じていれば、外から来るものは、「疑う」ことも「信じる」ことも必要がなくなるのです。いつでもオープンハートでもって接することが出来るのです。そしてその状態にあることを、「魂」の自由、「宇宙」との一体と呼ぶのです。これぞ完全なる独立、かつ宇宙との融合です。

 

だから、内なる声に耳を傾けなさい。自分を信じなさい。内なる細い道を目指すのです。そこは元々、あなたが通って来た道なのですよ。そこを帰るだけです。あなたはひとりぼっちじゃない。いついかなる時でも、わたしと共にある。わたしは「全て」なのだから。わたしが在るように、あなたも在る。ですから、安心して己の道を選ぶのだよ。そして、自身の内に湧く歓喜のロードを進みなさい。

 

 

想いは実現するということと、人生苦との狭間

想いは実現する。この言葉を、スピリチュアルなことに関心のあるあなたなら、きっとどこかで目にしたことがお有りでしょう。ところが言葉とは裏腹に、人生というのはままならないし、ちっとも思い通りにはいきません。いったいこれはどういうことなのでしょう? 若いころの私も、思い通りにならない現実に随分と苦しみました。苦しんで、苦しんで、とうとう還暦を過ぎちゃいましたよ〜。(・ω・`;)ノ

 

仏教学の権威である故中村元さんは、サンスクリット語の「苦(dukkha)」を、〈思い通りにならない現実〉と訳されました。これは名訳とされているのですが、仏教では、そもそもの出発点に「一切皆苦(いっさいかいく)」という捉え方を置いています。それからすると、〈人生ってのはねぇ、ぜーんぶが思い通りにならないんだよォ〉ということになってしまいます。う〜ん、暗い。

 

ま、そりゃそうなんですが、還暦を過ぎた今は、「これはちと言い過ぎだよな」と思うようになりました。確かに、人生は思い通りにならないことだらけです。でも最初から「一切皆苦」という認識を自分の中に置いてしまうと、常時「一切皆苦」という人生を自分の中に創り出してしまうことになってしまいます。皮肉なことに、まさにその意味で、思考は現実化してしまうのです。

 

仏教の限界はそこにある、と今の私は思っています。「苦」を努力してなんとか乗り越えるという発想。それで随分回り道をしましたね。その過程が無駄だったとは思っていませんが、これからの人たちが同じことをする必要はもうないと思います。生老病死が本当に深刻な苦しみであった時代には、その思想は慰めになったことでしょう。でもこれからは、本当の科学(因の科学)を知る時代です。

 

50代の半ばを過ぎた時に、私はそれまでの一切合切を捨てて、「これからは、普通のことが普通に出来る人を目指そう」と決めました。「普通のことが普通に出来る」とは、ご飯を作ったり、お茶碗を洗ったり、洗濯をしたり、買い物に行ったり、掃除をしたり、ゴミを出したり、草取りをしたり、花を育てたり、クルマを運転したりといったことです。これらが、当時の自分には出来ませんでした。

 

なぜ出来なかったかと言いますと、それらに「苦」を感じていたからです。どれも、やればやれないことではなかったけれど、半分「嫌だなぁ」と思いながらやっていた。ですから、それらを難なく普通にこなしている人を見ると、「凄いなぁ」といつも尊敬の眼差しで見ていました。その姿は、私にとっては大きな憧れであり、次の人生の大目標だったのです。

 

台所に、山のように洗い物が溜まっている。「これを洗わなくちゃいけないのか、嫌だなぁ」と思う。そう思うこと無しにスッと出来るようになりたい。そして遂には、喜んで出来るまでになりたい、とそう思ったのです。これはあくまで一般論ですが、そういう意味では、世の女性たちは、男性よりも遥かに進んでいると思います。「虹の学校」の門を叩くのも9割が女性ですし。

 

山奥で暮らして5年になりますが、家の近くに産土神を祀った小さなお宮があるのです。最初に来た時には、過疎地でもう誰も手入れをする人がなく、お宮全体に腰高までの草が生い茂っていました。「よ〜し、これを一つ、自分の『普通の人』になるプロジェクトの実験にしてみよう」と決めた私は、その年から、少しずつ手入れを始めました。

 

最初は、鎌で草を刈っていました。ひとりですので、一日では全部刈れません。しかも、刈っても刈っても、また草が生えてくる。春から夏に掛けては大量の花が地面に落ち、秋になると落ち葉でたちまちいっぱいになってしまいます。それでも続けていたら、2年目から草の背丈が低くなり、地面が見えて来ました。そして3年目になると、草の代わりにうっすらと苔が生えて来たのです。

 

4年目になると、これが逆転し、苔の間に生えた雑草をピンセットで引く抜くスタイルへと変わり、今ではあたり一面に苔が生え、すっかり苔神社に生まれ変わってしまいました。そして、何かしっとりした、凛とした空気があたりに満ちて来るまでになったのです。そうなってみて「ああ、これか!」と、私はやっと気がつきました。「想いは実現する」ということの意味がです。

 

苔を生やしたのは私ではありません。自然にそうなったのです。「自然て、なんて凄い庭師なんだろう」と思いました。苔神社にしようというプランが私にあったわけではありません。今できることをコツコツやっていたら、だんだんと姿形が変わっていった。そして驚くことに、いつの間にか自分も、普通に草取りや掃除ができる、掃除喜爺さんに変身していたのです。

 

ああ、想いは実現する。

 

でも想っただけでは、もちろん実現はしなかったでしょう。行動したからこそ、そうなった。しかしそれは、こうも言えます。先ず「想わ」ないことには、次のステップである「行動」は生じない。そこで、〈人生思い通りにならない〉ことの原因の一段階目は、「想っても行動しない」か、「想いそのものを抱かない」か、そのどちらかだということです。耳が痛い人、おられるのではありませんか?

 

いや、俺は強烈に想っていたし、それなりに行動もした。それでも実現しなかった。そう仰る方もおられるでしょう。かく言う私もその一人でした。20歳の時に映画監督になる夢を抱き、東京に出てきてそのための努力を必死にした。でもいつも、あと一歩というところでなぜか道が閉ざされてしまうのです。

 

泣きたい気持ちに押し潰されそうになる中で、私は自分の運命を呪いました。その不運の才(?)が、その後もずっと自分にまとわりついて離れませんでした。

 

さてそこで、〈人生思い通りにならない〉原因の二段階目です。今になって思うのですが、そのように図られたということです。誰に? 天によって。いや、もっと正確に言えば、自分の「魂」が、そのような軌道修正を選んだと言うことです。あの時もし、自分の「心」が望んだようにスンナリ映画監督になっていたら、今このようなことはしていなかったでしょう。また出来なかったでしょう。

 

そう考えると、不運の日々、屈辱の日々、貧乏に喘いでいた日々、悲しみに打ちひしがれた日々、この世の不条理に憤っていた日々、うつ病で死ぬことしか考えなかった日々、そしてカミさんの病死、それらがみんな今の自分の役に立っているのです。

 

また、もし自分に、生まれつきの霊能でもあったなら、きっと錯覚して、道を誤っていたことでしょう。無能だからよかった。無智だからよかった。だから選ぶことが出来た。お宮さんの掃除を始めた時と同様、ゆくゆくはメッセンジャーになろうなどとは露ほども考えたことはなかった。でもコツコツやっていたら、いつの間にかそうさせられていたのです。天の手足となったのです。

 

あなた方はみな、この世に転生して来る際に、一人ひとりが、自分の今世における「課題」を設定して誕生しています。この「課題」は、自分という「魂」の霊的成長を図るためのもので、前世までのカルマの刈り取りが半分と、今世で新たに味わいたい領域の体験が半分含まれています。そしてそれが体験できる国や環境や両親や自分の肉体を選んで、この世に誕生して来るのです。

 

「魂」は、そのことをもちろん覚えているのですが、成長してこの世を体験し、五感に操られる「心」の方がしだいに優勢になるに従って、大多数の人は、自分が設定して来た転生の目的を忘れてしまいます。このブログで、しばしば「思い出すだけ」と言っているのは、そのためです。何かを掴まなければと思う必要は何もないのです。思い出せば「魂」に帰れるのであり、それが「真我」の発見、つまり自分探しということなのです。

 

ということで、あなたの「想い」が、この「魂」が設定してきた目的に合致し、かつ「宇宙の法則」に則っていることであれば、それは自ずと実現することになります。と、今書きましたが、正確には、あなたの「魂」の初期設定に合致するだけでよいのです。なぜなら、転生時における各「魂」の課題設定そのものが、「宇宙の法則」に則った上で創られているからです。

 

ですから、自分の今の境遇や運命を呪ってはなりません。全部、自分が計画したことです。よくよく見つめてみれば、そこには必ず何らかの学びが含まれていることが解るはずです。それを素直に受け取りなさい。そして感謝しなさい。間違っていたならば修正しなさい。それでこそ、あなたの「魂」が成長できる。カルマも試練も、あなたがご自分に贈ったギフトなのです。だから、自分を愛しなさい。

 

想いは実現する。この言葉を、世に言う「成功者」の方々が発しているのを時々見かけます。また、この手のハウツー本やスピリチュアル系の教材も山のようにあります。それらと、いま言った意味とを、混同しないようにしてください。「成功者」などという概念は、「不成功者」の上に立ってこそあるものだということに気づいてください。そんなものが「宇宙の法則」だと、あなたは本気で思うのですか? わたしが、わたしの子らの差別を望むとでも言うのですか?

 

あなたの本質は「魂」です。「魂」は不死不滅であり、今世で行き着いた霊性のレベルと、この世で体験したことに付随した思いと、身につけた技能と、積んだカルマだけが、次の転生にも運ばれます。境遇や、体験や、物資的なものは、全部、それらのプレイの「道具」に過ぎないのです。このことが解れば、人生にとって、いったい何が重要なことなのかが解ることでしょう。

 

なぜちょっと前のブログで、今度の選挙のことを書いたのか。人は、そしてメディアは、受かったとか落ちたとか、大勝したとか惨敗したとか、そんなことばかりに注目します。でも、それらの何一つ、あの世へも、そして来世へも運べないのですよ。議員の椅子もバッチも、私利私欲で得た財産も名声も、何一つ運べないのですよ。運ばれるのは、その「行動」に至った「想い」だけなのです。

 

そして、自分が蒔いた種は自分で刈り取るという法則があるだけ。だから反省が大事なのです。「因の世界」にまで遡った反省が必要なのです。自分が犯した間違いに直ぐに気がついた者は、その場で直ぐに刈り取れます。でも、間違いに、更に間違いを重ねて生きる者は、雪だるまのようにそれを膨らまし、来世にまで持ち越して、大きく実ったカルマを刈り取らなければなりません。

 

賢明なあなたなら解るでしょう。それは「罰」ではないということが。ただ、自分が為したことは自分に返るという「宇宙の法則」を学ぶチャンスに過ぎないということが。そしてそれは、自分で自分に贈ったギフトなのです。このことが心底解った時、あなたの「魂」は大きく成長する。

 

だから、自分の今の境遇を、嘆かず、朗らかに、精一杯生きなさい。瞬間瞬間の思いを大切にしなさい。そして、何気ない「今この瞬間」に喜びを見出した時、あなたは宇宙の奥義を理解することでしょう。

 

これこそが「神の恩寵」であったということが。

“God bless you” だったのだということが。

 

残念ながら、多くの人が、成功や、物質的な充足を、この世での「想い(願望)」にしているために、それが実現しないと言っては嘆いています。かつての私のように。でもそうではないのです。あなたの真の「想い」は、ソウルの「想い」にこそある。そこに気づけば、そして自分自身を発見できれば、あなたの「想いは実現する」のです。宇宙とは、最初からそのように創られています。

 

だから、友よ。あなたもそのように生きるのだ。

無智ということ

物欲、支配欲、名誉欲、不親切、物惜しみ、執着、狡猾、猜疑心、怒り、憎しみ、嫉妬、慢心、無智、不節制、自暴自棄、‥‥。程度の差こそあれ、人間には誰しも、こうしたいわゆる悪感情や、悪い心グセ、性格というものが備わっています。若いころの自分にとっては、これらの克服が大テーマで、いろんなことを試しましたし、苦しみもしました。そしてそのチャレンジは今も続いています。

 

でも最近は、世間の話題として、そういうことをあまり聞きませんねぇ。もはや「煩悩」解禁になったと言いますか、むしろ剥き出しの「煩悩」を競い合うのが当たり前の世の中になってしまったなぁと感じています。「煩悩」の克服ということが、もはや人生上のテーマでは無くなったのでしょう。もしかしたら、「煩悩」という言葉自体、すでに死語になってしまったのかも知れません。

 

さて、人間にこうした様々なネガティブな感情や性格がある中で、古来より、いちばんの問題は「無智」なのだとされて来ました。「無智」こそが悪の大親分であって、そこにたくさんの子分が従っているのというのです。釈迦もこれと全く同じことを言っていて、仏教では「無明」と言うのですが、明るくないこと、光が差さないことをもって「無智」という状態を示したのです。

 

ではこの「無智」とは、何を意味しているのでしょうか? いったい何を知らないというのでしょうか? そしてそれが、どうして全ての悪の親玉だと言うのでしょうか?

 

このブログでは、これまでにも「無智」という言葉や「智慧」という言葉を何度か使って来ました。目ざとい方は、私が「知」ではなく「智」という漢字を使っていることにお気づきだと思います。が、これは意識してそうしていたのです。「智」という漢字は、「知」の下に「日」が付いています。ですから「日」の基に「知る」ということであり、この「智」は、いわゆる「知識」ということではないのです。

 

*「智」という漢字の部首については「日」(ひへん)に分類している辞書の他に、「日」(いわく・ひらび)に分類している辞書もあります。「ひ」と「いわく」は、今日の活字では同じ形ですが、本来は別字です。ここでは、あえて「日」(ひへん)説をとっています。

 

知識人と言われる方たちの中には、知識を持たない人々を小バカにする傾向がありますが、彼らとて「智慧」を有しているとは限りません。「知識」と「智慧」とは別物です。「知識」とは相対的なものであって、自分は「知識」があると言ったとしても、その人が何もかも知っているわけではありません。例えば歴史を考えてみてください。歴史の全てを知ることは不可能です。

 

「日」を基礎にして「知る」ということ、あるいは「日」を「知る」ということが、どういう意味なのか? 「日」の象形文字は「⦿」です。これは「◯」の中に「・」を納めた形で、「宇宙」を表すシンボルの一つになっています。「宇宙」を表すシンボルにはたくさんあって、◯、⦿、+、T、⊕、☯、✡、卍、などは、みなちょっとずつ意味を違えながら、それぞれが「宇宙」を表しています。

 

その中で「⦿」がどういう意味を持っているかと言いますと、中心の「・」が宇宙の始まり、周囲の「◯」が現在の宇宙全体を表していて、一つのものから宇宙が誕生したというシンボルになっているのです。つまり「全一(全部が一つ、一つが全部)」というものをシンボライズしているのです。ですから、「全一」という真理を知っているよということが、この「智」の意味なのです。

 

そこで、釈迦の言った「無明」という言葉と結びついて来ます。宇宙のバイブレーションは、しばしば「光」に例えられますから、その「光」を知らないことが「無明」、すなわち「無智」というわけです。つまり「無智」というのは、「宇宙の法則」を知らない「無智」を意味しているのです。そしてこれは根本ですから、よって最大の悪とされたのです。

 

話を戻して、人間のあらゆる煩悩の大元は実に「無智」にあるのだと。言い換えれば、あらゆる不幸の原因は「無智」なればこそなんだと、歴史上の多くのメッセンジャーが、みな同じように指摘して来たのに、どうして人類は、今もって「無智」のままなのでしょうか? これだけ知識の溢れた世界に、真の「理解」というものがほとんどない。信じがたいことですが、それが現実です。

 

なぜ「理解」がないのかと言えば、一つには宗教が邪魔をして来たということがあります。各宗教が、自分たちが創案した教義を信者に信じ込ませて来たために、宇宙というものへの正しい理解が進まなかったのです。

 

そしてもう一つは、「知」と「智」を取り違えて来たということ。「無知」が最大の問題だと言われると、みんな、じゃあ知らなきゃな、学習しなくちゃなと思うでしょう。でもそうじゃないのです。この「無智」とは、知識を増やせということではないのです。

 

知識は、なるほど思索を深めるきっかけや道具になってくれます。ですが使い方を誤ると危険ですらあります。なぜならば、知識は「信念」を生むからです。歴史上の大きな過ちは、暴君によってではなく、むしろ知識人によってもたらされて来ました。例えば核兵器です。科学の知識がなければ、人類は核兵器を生み出すことはできませんでした。

 

「知性はあまりにも頻繁に我々を騙す。」

「私たちは無知によって道に迷うことはない。自分が知っていると信じることによって迷うのだ。」ジャン=ジャック・ルソー

 

問題は知識なのではありません。「智」を知らないことにある。もっと正確に言えば、「智」があることに、気づいていないことにある。あなたには、実は最初から「智」があるのです。どこに? ソウル(魂)に。

 

あなたは多次元的存在で、この物質世界だけではなく、第四霊性密度にも、第五霊性密度にも、第六霊性密度にも同時に存在しています。それを、今は意識できないかも知れませんが、意識できようとできまいと、多次元的存在であることは間違いありません。なぜって、そのように創られたのですから。

 

ですから、「無智」から脱するためには、「智」を求める必要はなにもなく、ただ思い出すだけでよかったのです。教科書も先生も、全く必要がなかったのです。ではどうやって思い出せばいいのでしょう? 「知性」に騙されるのを、もういい加減に止めればいい。そうすれば、入れ替わりに、あなたの中にある「智」が浮かび上がって来ます。

 

現代人の不幸は「知識」が無いことにあるのではありません。むしろ逆で、外側から、まるで津波のように、後から後から押し寄せてくる来る「知識」という濁流に、完全に飲み込まれてしまっていることにあるのです。「知識」が有り過ぎて、それに振り回され、かえって自分を見失っている。でも本当に大切なものは「知識」ではありません。

 

それよりも大事なものは、「普遍的な智」の基盤に立って生きることです。それこそ真のあなた。あなたがあなたたる由縁の本質です。ですから、外側から来るものに対しては、勇気をもって、「そんなもの関係ない」「わたしはわたし」と宣言するのです。そして、ご自分の直感やインスピレーションを信じるのです。

 

世の中が激動すればするほど、喧(かまびす)しくあれば喧しくあるほど、あなたはあなたであることを保ってください。そうすれば、幻の中に生きて、右往左往している人たちのことがハッキリと見えて来るでしょう。

 

今日、ここで述べたことをテーマに、できれば瞑想を行ってください。瞑想は、外から来る情報と内なる情報とを切り替えるための最高のツールです。それが、あなたに「智」への扉を開かせてくれるようになるでしょう。

舌禍と正直であること

「全員受け入れることはさらさらない」「排除いたします」。この言葉が波紋を呼んで、選挙戦の潮目が大きく変わってしまいましたね。そこにはやはり驕りがあったと思います。言ったご本人も、後から大いに反省したということなのですが、その反省がもし「舌禍」という面に留まっているのだとしたら、それは充分ではありません。なぜなら、人は思っていないことは表現できないのですから。

 

権力者には二種類がいて、権力そのものが欲しくて権力者になる人と、理想社会の実現のために、権力が持つ統治機構を利用しようとする人です。「権力」など、本当は社会には必要がありません。しかし残念ながら、地球人はまだそこまでは進歩していません。そのため、大勢の民衆を統治するためには、やむなく暫定的に今のような権力機構が必要となっています。

 

そうした状況下では、権力を握った者が、どれだけ真摯に民衆の奉仕者(Public Servant)として生き抜くかが問われるのです。けれども、これも残念ながら、そのように生きる人物は圧倒的に少ない。自分が奉仕者であることを忘れて、まるで王様か貴族のように振る舞う人がほとんどです。選挙公約など、今や有って無きが如し。当選後は平気で嘘をつきまくって私利私欲に邁進する。

 

「こんな人たち」発言も「排除いたします」発言も、その根底にあるのは同じ「分離」という意識です。「人は同じではない」という考え方です。確かに、全員が独立した個体であり、顔かたちも違うし、考え方も立場も境遇も主義主張もみんな違う。でも、それでもなお「みんな同じ」「全部は一つ」という確信を持つことは、先ほど言った霊的進歩の段階において、一段高い飛躍となるのです。

 

ことに、この違いが政治のトップを占める人たちの意識の根底に強くある場合、社会は大きな影響を受けます。「分離」という考え方を推し進めますと、自分と他人を分ける、自分たちの仲間と他の人たちを分ける、ひいては味方と敵を分けるという考えに行き着きます。さらには、自分たちさえ良ければいい、自分の地位や財産を守りたい、そのためには邪魔する敵をやっつけろとなって行きます。

 

これが何をもたらすかは、歴史をちょっと概観してみれば、もう明らかではありませんか? ですが人間は、本当に深いところでの反省というものをなかなかしませんし、いつも情動に突き動かされてしまうので、「あいつは敵だ」「敵をやっつけろ!」と勇ましいことを言って旗を挙げる人には、簡単に「そうだ、そうだ」と同調して、後先あまり考えずに着いて行ってしまうのです。

 

口の利き方は、もちろん慎重にあるべきです。思わず口を突いて出た言葉が、情動に左右されたものでないかを客観視してみる習慣をつけるといい。でもそれは、単に戦術とか、手練手管とか、テクニックとかという問題なのではありません。自分の本性を隠して、いくらテクニックを弄しても、それは「自分自身に嘘をつく」ということにしかなりません。

 

自分自身に嘘をつくことは、とても簡単です。場合によっては、周囲の人々や、大衆を騙すことさえも可能でしょう。でも、天(宇宙)を欺くことだけは、絶対に出来ません。なぜなら、誰もが最初から宇宙に包含された存在であり、かつ深いところでは常に宇宙意識と繋がっているからです。

 

これまで何度か、「正直に生きる」ことの大切さを語って来ました。これは、倫理的意味合いで語っているのではありません。また「嘘をつかない」という意味なのでもありません。倫理なるものは、所詮は人間が定めた基準であり、文化や時代が違えば内容も違ってしまいます。また「嘘をつかない」ということも、ダブる部分はかなりありますが、意味していることの次元が違う。

 

「正直に生きる」とは、自分の「魂(Soul)」に従うということです。自分の「魂」を裏切らないということです。それぞれの人の「魂」は、もともと一つだった宇宙意識から、分かれたピース(一片)ですから、宇宙意識の完全性を知っているのです。ですから、その「魂」の声に耳を澄まして、「魂」が喜ぶことを素直に行っていれば、それがすなわち「正直に生きる」ということなのです。

 

このようにして「正直に生きる」ことは、宇宙の真理にそのまま合致しているわけですから、自分自身の中に葛藤を起こすことがなく、従ってストレスもありません。ですから、ただただ正直に生きれば、その人は平安でハッピーに生きられるのです。

 

ところが、地球に住む人間たちは、どうもそのような生き方が嫌いなようです。「全部が一つ、一つが全部」というのが、揺るぎない「宇宙の真理」であるのに、それには耳を貸さず、他者と比べ、優劣を競い、他者を自分に従わせるために命令し支配し、逆らう者は攻撃し、粉砕することに情熱を燃やそうとする。そのどこが楽しいのでしょうか? 宇宙の不思議よりも、この人間の方がよっぽど不思議です。

 

あなた方に言っておきます。それほどまでに、他者と闘争をし、誰かを殲滅することがお望みであるのなら、あなた方は、遠からず、それを望み通りに地球規模で実現することでしょう。すでに、その集合意識の行方を、あなた方はニュースで見て知っています。でも、いよいよの時になって、「天罰だぁ!」などと言わないで下さいね。天は罰を与えないし、天に罰はありません。みんな、そうしたいと人間が望んだ結果なのですから。

 

剣を取る者は、みな剣によって滅びる」。この意味がお解りですか? 武力を持った者はその武力によって滅びる、と読めます。でもそれだけじゃない。剣を取った瞬間から、その人は、自分の「魂」を信じることを拒否してしまう、という意味なんですよ。剣の方を信じてしまうということです。それが、自分という存在が何者かを分からなくさせる。つまりはせっかくの自分(真我)を滅ぼす。

 

あなたが、ご自分の心の中に常時「剣」を抱くようになってしまったら、当然のことながら、その時点で、宇宙意識とは繋がれなくなってしまいます。そうなれば、その人の「魂」は、今世での霊性向上の機会を失うだけでなく、日常的に「心」に絶えず葛藤を抱えるようになり(なぜなら「魂」の生き方と「心」が望む生き方とが相克するので)、さらには、カルマまで積むことになります。

 

ですから、「反省」という機会(ギフト)を得た時には、「魂」のレベルにまで遡って自分を深く見つめ、自分のどこがいけなかったのかを整理し、宇宙に懺悔し、許しを請うことが大切です。それでこそ「反省」の機会を活かすことが出来ます。

 

人間、誰しも道を誤るものです。大切なことは、たとえ道を誤っても、その「反省」から学ぶことです。逃げてはなりません。成功よりも、失敗の方がより多く学べるのです。誤りに際して、そうやって、自分ときちんと向き合った時、それが本当に自分へのギフトであったことにあなたは気づくことでしょう。

 

ここで、よく知られた、『黄金律』と言われる、あの真理の言葉を改めてお伝えしておきます。

自分がしてもらいたいことを、他の人にも行いなさい

実にこれこそは、シンプルで、「宇宙の法則」をこれ以上余すことなく表した聖なる言葉です。でもこのシンプルな理想を、日常的に実践している人は、極めて稀です。たったこれだけのことが、今の人間には出来ないのです。

 

反省を、もし「舌禍」というレベルで捉えていたとしたら、せっかくの機会を活かすことは出来ません。ですから、「素直さ」が、人間にとって何よりも大切な資質なのです。それが、虚勢を張って嘘で誤魔化したり、誰か他の人のせいにしたりした日には、もうどうにもなりません。一度嘘をつけば、嘘に嘘を重ねなければならなくなり、「反省」の機会はどんどん遠ざかってしまいます。

 

後々になってから、やっと「反省」しようという気になったとしても、それまでに、多くの人を騙したり陥れて来たネガティブな行為の堆積は、いったいどうやって償うというのでしょうか?

 

社会機構の重要ポストに就く人を見る時には、出自や学歴や経歴などで判断するのではなく、ただただ、次のことだけを見てください。この人は、「自分がしてもらいたいことを、他の人にも行う」という資質を持った人であるのかどうか。

そしてあなたも、「自分がしてもらいたいことを、他の人にも行う」人であってください。