by Rainbow School
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善、偽善、罪悪感、悪

神の世界には、善も悪もありません。善も悪もないのですから、罪も罰もありません。善と悪。罪と罰。これらの概念は、みんな人間たちが考え出したことです。その証拠に、木々や草花、鳥や虫たち、魚や獣たちがどう生きているかを想像してみてください。彼らは、善と悪を想い、罪と罰を怖れて毎日を生きているのでしょうか? いいえ、ただ、その時を生きているだけです。

 

神の世界に、善も悪もないことは、論理的に考えてみてもすぐに解ることです。大宇宙の創造者、“それ” を、人は「神」と名づけました。“それ” が何であるかは、人知を超えたものですから判然とはしませんが、“それ” が一者であることだけは確かです。もし二者であったとすると、互いを創造したものは何者かという矛盾が生じてしまいます。結局、創造主は一者ということに落ち着かざるを得ません。

 

ならば、一者である「神」の中に、どうして善と悪が存在するでしょうか? 自己のこれが善、これが悪と、いったい誰が決めるのでしょうか? 一者であるはずの「神」を判定できる者は、他のどこにもおりません。よって、善も悪もありません。また、一者であるはずの「神」が、なにゆえ自己の内に罪と罰を創造するでしょうか? 悪さをした自分の左手を、右手で叩くとでも言うのでしょうか?

 

善と悪。罪と罰。これらは、これまでの人間たちが、ほぼ総意のもとに考え出した、壮大なるフィクションに過ぎないのです。ああ、それなのに‥‥。どれほど多くの人が、これまで、このドグマの牢獄の中で不自由な人生を送って来たことでしょう。あなた方は、もう真実の神学に目覚めなけばなりません。魚座の時代を超えて、水瓶座の時代に相応しい神学に。宇宙には善も悪もない。宇宙にあるのは、「分離」から「合一」に至るまでの、霊的進化の道だけなのです。

 

*魚座の時代は宗教の時代で、そのシンボル(双魚)が示していた通り、善悪二元の対立が表面化した。しかし、水瓶座の時代に移行したことで、星座図が示しているように(少年が水瓶に入っている水を地に注ぐ)地上に天からの真理が注がれる時代となった。

 

あなた方は全員、もともと一者だった霊的存在から、お餅をひねり出すようにして細かに分けられました。そして身体という物質的衣裳を纏うことによって、個別化した存在となり、地上に降り立ったのです。この個別化し、物質世界に適応した霊(Sprit)は、地上でそれぞれが独自の体験を重ねることにより、次第に個性が芽生えて行き、やがて自我を伴った「魂」へと成長したのです。

 

ですから、あなたの中には、一者と同じ霊的資質と、「魂」としての本来の自己と、身体的な自己の感覚とが、常に同居しているのです。「魂」は、一者と、身体的な自己との中間にあって、両者を仲立ちしています。そこで、そういうあなたを「多次元的存在」と言っています。あなたは、肉体だけの存在ではなく、多次元的に存在しており、常に多次元的な意識を有しているのです。

 

*この場合の多次元とは、数学的次元のことではなく、霊性密度のこと。別の言葉で言えば、複数の振動数の帯域を同時に持っているということ。

 

なぜ、このようなプロセスが生じたかと言いますと、「神」が、自分自身を把握し、自分自身を再創造するためです。「神」は一者です。そのままでは、自己を把握することが出来ません。白色だけの世界にいたのでは、白が白とは分からないのと同じです。黒があるからこそ白が分かるのです。そこで「神」は、自分自身を知るために、全智から、あえて霊(Sprit)を切り離し、自分に似せた存在を地上に創りました。それが人間です。

 

*姿かたちが似ているという意味ではなくて、存在構造の多次元性が似ているという意味。これが誤解され、「神」はしばしば、擬人化された白髭の老人として描かれるようになった。また人間は、全智から切り離された結果、「神」を〈想像〉することが可能となったが、代わりに(通常の意識下では)全智を失った。

 

あなた方は、身体的な「分離」という条件の下で、それぞれ個別の体験を積み重ねながら、自己の本質が実は「合一」の存在にあったのだと気づくまでの、長い長い旅を続けるのです。これが、いわゆる「自分探しの旅」です。その旅は、結局のところ、旅は必要なかったんだ、最初から自分の中に全てがあったんだと気づくまで、何度も輪廻転生の機会を与えられ続けられるのです。

 

ですから、霊的に見た場合、個々の「魂」の成長の差は、「分離」から「合一」への進化の程度ということでしかありません。それは進化の程度であって、優劣ということではないのです。どんな「魂」であっても、最後の最後は、例外なく「合一」を理解し、体現するところに至るのです。ところが、人間はこれを知らない上に、多次元的な意識を持った存在ですから、このことを、それぞれの意識段階で、異なった感覚として捉えてしまうのです。

 

チャートを見てください。宇宙には、「分離」から「合一」へと至る進化の道しかありません。

ところが、あなた方の「肉」の感じ方(つまり身体的、物質的感じ方)は、「分離」を「善」、「合一」を「悪」と感じてしまうのです。

 

これは、いちばん最初の、地上に降りて個別化した際の喜びが、その後もずっと継続していてそうさせるのであり、この結果、人間の大半は「分離」意識をくすぐるものには強く反応し、「合一」意識は無視するか、逆に排斥しようとまでするのです。

 

具体的には、優劣、競争、損得、貧富、美醜、差別、階級、闘争といったものを大半の人間が好み、社会のあらゆる場面でそれを推進する一方で、平和、融和、和合、平等、分配といった考え方は、これを嫌悪し、揶揄したり攻撃したりするのです。「平和ボケ」という用語があるのはその一つの表れです。アメリカでは、自己防衛のために銃を所持することは当然と考える人が多く、こういう人たちが政治的にも大きな力を持っています。

 

ですが、人間は多次元的な意識を持つ存在です。あなた方の本質はあくまで「魂」にあるのであって、「魂」は「合一」こそが「善」、「分離」意識は「未善(未だ善に至らない)」の段階なのだということを、ちゃんと知っているのです。なぜなら、「魂」は元々「合一」であったところの一者から分かれた存在だからです。しかしこれは、あくまで「感じ方」であり、冒頭に申し上げたように、宇宙には「善」も「悪」もありません。

 

このようにして、一人の人間の中に、「善」的なものに関する、相反する「感じ方」が同時に生じることになるのです。しかし、いま言った多次元的な意識構造を意識し、理解している人は、残念ながら極めて稀です。知識としてこれまでに教わったこともありませんし、内観することを習慣づけて生活している人(つまり日常的に「瞑想」を行なっている人)もほとんどいないためです。

 

その結果、大多数の人は、「肉」の感じ方(自我)と、「魂」の感じ方(真我)との間でいつも揺れ動き、葛藤を起こすことになるのです。これが、心がザワザワする際の、背景にある原因なのです。どっちが本当の自分の声なのかが判らない。「肉」の感じ方と、「魂」の感じ方との中間領域で、互いの意識が綱引きを行って、それがザワザワとした感覚をあなたの中に生じさせるのです。

 

さて、いつまでもザワザワした状態では気持ちが悪いですから、どこかで手打ちをしなければなりません。そこで、意識の根っ子では「分離」の方により気持ちが傾いているけれども、これを覆い隠して、「合一」的なことを言ったりやったりしてしまう。これが「偽善」的行動となるのです。反対に、言葉や行動では「分離」の考えに同調しながらも「なにか違うぞ」と思う。その時に、人は「罪悪感」を抱くのです。

 

「偽善」よりも「罪悪感」の方が、より本質に近づいて来てはいますが、どちらも、未だ葛藤状態の中にあることには変わりがありません。さてここで、人間社会の中に大きな問題が生じます。

 

肉欲が支配する物質世界と、霊的世界とでは価値観が逆転しているために、あなた方の世界では、「分離」を「善」だと主張する者がもてはやされ、崇拝され、ピラミッド構造の頂点に支配者として君臨することになります。すると、お金も産業もマスコミも教育も、全部がこれらの人たちの傘下に置かれますから、多くの人が「なにか違うぞ」と直感で思ってはいても、この構造の中に、仕方なしに巻き込まれて行ってしまうのです。

 

こうして繰り返される、最大の悲劇が「戦争」です。クリント・イーストウッド監督の作品に『アメリカン・スナイパー』という映画があるのですが、この作品は、一人の人間が(元々は普通の市民が)、いかにしてイラク戦争に巻き込まれて行ったのか、戦場に送られて大量殺人者となって行ったのかを、鮮明に描き出しています。

 

主人公の男性は、子どもの頃より、父親から徹底的にアメリカ式のマッチョイズムを叩き込まれます。これが染み付いた彼は、青年となってしばらくは荒馬を乗りこなすロデオに夢中になるのですが、アメリカ大使館爆破事件を契機に国家の役に立ちたいと考えるようになり、海軍に志願。そこで特殊部隊のシールズに配属され、優秀なスナイパー(狙撃手)となるのです。

 

イラクに派兵された彼は、都合4回、述べ1000日に及ぶ現地勤務の中で、160人もの “敵” を狙撃によって殺害し、軍隊内部で「レジェンド(伝説)」とまで呼ばれる存在になるのです。しかし、これがもし、アメリカ国内でアメリカ人に対して行われたことだとしたらどうなるのでしょう。5人殺せば殺人鬼、160人殺せばジェノサイド(大量殺戮)と言われるのではないでしょうか?

 

それが、同じことをイラク人に対して行ったら、ヒーローになってしまうのです。彼も、子どもを殺さざるを得ない時には、さすがに躊躇する。でも信念に従うことを優先します。その信念とは、父親から徹底して叩き込まれたマッチョイズムであり、アメリカ国家への忠誠心であり、自分が信ずる神(キリスト教)の庇護のもとにあるという三位一体の「正義」なのです。

 

この三位一体は恐ろしい。家庭教育、国家教育、宗教教育が一つのものとなった際には、160人もの人間を殺害する殺人鬼に、容易に人間はなれる。4回の派兵の間に、彼も結婚し、二人の子どもにも恵まれ、家庭ではよきパパとなっている。それなのに、自分が殺した160人にも、同じように愛する家族がいて、日々の営みがあったということまでは想像が及ばない。この、もの凄い「分離」意識、「分離」感覚。結局、彼は、次第に息苦しさを覚え始めるのですが‥‥。

 

しかしここで、そうなったことの背景にある、人類史にいつも共通したある枠組みに、地球人は気づかなければなりません。彼を、そのような「信念」で染め上げた者たちが背後に存在するということ。そしてこの人たちは、「分離」が「善」なのだと、本気で信じているのです。自分自身が先ず、心底からそのように洗脳されている。ですから、多くの人たちとは違い、その信念に揺るぎがないのです。平気で嘘をつけるし、そこに罪悪感も生じない。

 

「分離」を「善」と信じ切る者は、「合一」を理想とは考えません。むしろそれは、自分たちが信じる世界を破壊しかねない危険思想。「合一」「平等」などという発想は、彼らにとっては「敗北」以外のなにものでもないのです。こんな人たちに絶対に負けるわけにはいかない。ですから、共通利益がある間は「仲間」であっても、最後は、裏切り、仲間割れ、罪のなすり付け合いで終わる。宗教組織や家元制度にしょっちゅう分派が起こるのも、みなこれと同じ理由です。

 

霊的進化から見れば、最も遅れている「魂」が、この世のあらゆる支配権を握っている地球人類。そして、大多数の人たちの中に潜む優越感や、差別意識や、支配欲や、所有欲や、攻撃性などの「分離」意識を、あの手この手で刺激してはこれを表に出させ、自分たちの世界に引き摺り込む。しかし大衆は、そのようにして支配され、隷属させらているということに少しも気づいていない。むしろ喜んで、その誘惑に着いて行く。

 

何度同じ悲劇を経験しようが、何度転生をしようが、人類は未だにこの構造に気づかない。支配者にとって、現場で戦う者は、単なる使い捨ての駒。戦場でも会社でも同じ。死んだら勲章を与えて、また騙して、自分たちだけはのうのうと生きて行く。心など痛まない。まだその段階にすら達していない未熟な「魂」だから。彼らにも守護霊がいて、一生懸命気づかせようとはしているのだが、本人が気づかないことには‥‥どうしようもない。

 

よいかな、ここが肝心要。人類は、いま瀬戸際にあるのですぞ。だから、みなさんが、支配者たちに気づきを与えてやって欲しいのだ。繰り返し言って来たように、騙される人が誰もいなくなれば、騙す人は成り立たなくなるのだよ。そこで、先ずはあなたたちが、善悪というものの背景にあるこの構造に気がつくこと。あなたの本質は身体にあるのではなく、「魂」にあるのだということ。「肉」が感じる「善」と、「魂」が感じる「善」とは、逆になっているのだということ。

 

そこをしっかり学習して、世に満ち溢れる情報を、見極める眼を養って欲しい。本物とニセモノ、どうでもよいことと肝心なこと、真実であることとそうでないこと。そして、闇に誘う道と、光へ続く道。この取捨選択が、あなたという人間の今後の「生き方」を決めるのだよ。それは、決してあなた一人の問題ではない。その集合意識が、人類の行く末を決めることになるのだからね。

 

だから、そのようにして、先ずはあなたたちが目覚め、次いで彼らにも気づいてもらい、人類が永らく置かれて来た奴隷状況から、そっくりジャンプして欲しいのです。お願いしますよ。

 

可哀想に‥‥。「分離」意識に凝り固まった人たちは、未だ「魂」の喜びを知らないのです。「肉」の喜びの段階に、ずっと埋没したままなのです。権力者たちの顔をよく見てごらんよ。楽しそうに見えますか?

 

でも、これを読んで下さっているあなたにはお解りでしょう。「肉」の喜びと、「魂」の喜びとは、全く異質であるということが。きっとこんな経験が、あなたにもあることでしょう。解り合えた、誠意が通じた、真心を受け取った、そう感じた瞬間、わけもなく涙が溢れ出てきたという経験が。それは「魂」の喜び。あなたの本質が、深いところで知っていた「善」の扉が開いた瞬間なのですよ。

 

なにものにも代えがたいこの喜び。物質世界を超越した「魂」のふるえ。あなたのこれからを、この喜びで満たしなさい。この喜びの中に生きなさい。そして、周囲の者たちにもこの喜びを分け与えなさい。友よ、光の道を進め。無償の愛の道を一心不乱に生きるのだ。

人類が、歴史から学ぶこと

記憶力が人一倍劣っている私にとって、小中学校時代の地理・歴史の授業は、苦痛、拷問以外の何物でもありませんでした。人の名前や年月日が覚えられないのです。カミさんの誕生日すら覚えられず、当てずっぽうで言ったところ違っていて、もの凄く怒られたことがあります。命日がいつだったかも、もう覚えていない。その理由が最近になってやっと分かりました。そういうものに関心がない!

 

歴史教育が大切だと言います。確かに、歴史から学ぶことには大いに意味があります。でも、世の識者が「歴史教育が大切だ」と言っていることについては、異議を唱えたいです。ロゴスとしての歴史(記述された歴史)に、所詮真実などありません。というよりも、そもそもこの世に真実などない。ですから、「歴史教育が大切だ」と言った場合、それらは例外なく、ある特定方向に思想を導きたいということを意味しています。

 

よいですか、大切なのは「教育」ではなく、自分が「学ぶ」ことなのですよ。これは全ての分野について言えます。「教育」と「学ぶ」とでは、180度も違う。「教育」とは人間をロボットにすることであり、「学ぶ」とはロボット状態から脱することです。ところが、「教育基本法」なるものが定められているのを見ても分かる通り、誰もが「教育」を無条件で是として考え、これをベースにどうあるべきかを語っているのです。

 

こうした思考法が、人類に、どれほどの歪みをもたらして来たことか。「教育」と言えば、即よいことと思ってしまう。これだけじゃありません。「倫理・道徳」と言えば、即よいこと。「経済発展」と言えば、即よいこと。「防衛」と言えば、即よいこと。「愛国」と言えば、即よいこと。「薬」と言えば、即よいこと。etc.。これらはみんな、そう思わせたいと願った支配者が作った、プラットフォームなのですよ。

 

歴史は大の苦手という私でしたが、NHKの大河ドラマや、戦国武将ものや、三国志といったものにも、全く興味が持てませんでした。一体どこが面白いのか、さっぱり解りませんでした。でもそれを口に出して言えない。多くの人が熱狂する中で、自分は歴史が苦手だし、教養はないし、ずっとコンプレックスになっていました。でもこれも、最近になって、やっとその理由が分かりました。

 

これから100年、200年経た時に、歴史の教科書に、今の政治を司っている宰相たちの名前は載るのだろうかと考えてみたのです。そして、その権力の攻防史を学習することに、果たしてどんな意味があるのかと考えてみました。結論はひとこと。バカバカしい。でも、そうならないとも限りませんよね。時が経つにつれて、寓話化され、銅像が建立され、遺品が博物館に納められ、記念小学校が造られ、郷土が誇る偉人に奉りあげられるかも知れません。

 

今やっている過去の歴史教育といったものも、これと大差がないのではないでしょうか。よく言われることですが、History というのは his story であると。つまりは男の物語、もっと言えば支配者、権力者の物語です。A国とB国が戦争をして、A国が勝ったとしましょう。すると、A国の視点から都合よく作られた「歴史」だけが残るのです。私たちは、こうした権力者の攻防史を、それが「歴史」だと言われて覚え込まされていくわけです。

 

大事な合戦で、いかなる策略を持って敵に勝利したか。どこで誰を味方につけ、誰が裏切ったのか。忠誠心の篤い優秀な家来がどれだけ適材適所されていたのか。それらを紐解くことが歴史研究ということになっています。でも、前線で槍を持って戦った足軽のC助はどうなったのでしょうか? 日報を点けていたけれど無かったことにされてしまったD作はどうなったのでしょうか?

 

歴史の藻屑と消えてしまって、語られることはありません。考えてみてください。これほど理不尽なことがあるでしょうか? 同じ人間なのに、同じ生命を宿しているのに、みんな同じ神の子なのに‥‥。戦争でどれだけ大勢の人が死のうとも、原発事故でどれだけの人が故郷を追われようとも、また生活苦でどれだけ自殺者が出ようとも、その人たちの名前が、歴史で語られることはありません。

 

いつの時代でも、歴史に名を残すのは、人々をまるで消耗品のように扱った、支配者であり、権力者であり、お金の亡者なのです。もっと言えば、非道の殺人者をヒーローとして教え込むことが「歴史教育」になってしまっている。こんな歴史など、別に、私は知りたいとは思いません。私は、今の権力者たちの顔を見るよりは、普通の人、名もなき(本当はあるんだけど)人、我が愛する友たちの方がずっと好きです。

 

歴史学習で大切なことは、そこに(自分が)何を見出すかなのです。言い換えれば、自分がその歴史に、どんな意味を与えるか、です。それが、歴史から「学ぶ」ということの意味です。これ以外に、歴史から「学ぶ」意義はありません。客観的事実などは幻想に過ぎません。「客観」も誰かの主観に過ぎませんから。ですから、誰かが意図的に与えた意味に習うのではなく、自分が意味を与えてこそ、初めて「学んだ」ということになるのです。

 

例を上げましょう。ご存知のように、日本は広島と長崎で、あの悲惨な原爆の被害を体験しました。ここで起こったことをよく知れば、またどういう経緯でそうなったのか、そして体験者がその後どうなったのかをよく知れば、同じことを、自分が再び体験して味わう必要はありません。「こんなことは、もう絶対に嫌だ」と思うだけでよいのです。そこに、歴史から「学ぶ」ことの意義がある。

 

ところが、そう思わない人もいるのです。戦争の抑止のためには「核」が必要だ。自分たちに敵対する国を時々「核」で脅してやることも必要だ。場合によっては、小型の「核」を使ってもいい。あるいは、史上最悪の原発事故を経験しても、日本には原発が必要だ、再稼働を急げ、と言う人もいる。こういう人は、いったい歴史の、どこに、何を学んでいるのでしょうか?

 

この数年で、歴史の裏側や、闇の勢力の存在について、多くの人が本当のことを知るようになりました。このブログを書き始めた当初は、私もかなりぼかした言い方をしていたのですが、もうそんな必要もないかも知れません。これは、既に何度か語って来たように、地球に対して、宇宙から今、アセンションの強い光が注がれているために、隠されていた闇がどんどん明るみに出ているのです。

 

そして、これも何度も書きましたが、ジョン・レノンが「世界は狂人によって操られている」と言いました。今の日米を見れば、「本当にそうだなぁ」と思うのではないでしょうか。世界史は謀略の歴史です。謀略に次ぐ謀略で、人々が表で信じ込まされて来たことと、裏側はまるで違うのです。日本でも、明治維新にまつわる闇や、日露戦争開戦の裏側などを知る人が随分と増えて来ましたね。

 

しかしこの謀略が、以前ほどは、すんなりとは通らなくなっているのです。「シリアが化学兵器を使用した」と言って、トランプ大統領は国連決議も経ずに、また米国議会の承認も得ずにシリアを爆撃しました。これに日本は、精査もせずに、直ちに支持を表明しました。しかし、この化学兵器使用の証拠とされる映像が、ヤラセの演出であったことがすぐにバレてしまいました。

 

謀略が拙速なのです。すぐにバレるような嘘をつかざるを得なくなっているのです。ケネディ暗殺の闇は50年間もちました。ベトナム戦争の闇は40年間もちました。でもイラク戦争の闇は10年間しかもたなかった。そして今は、一週間ももたない。だから、嘘に嘘を塗り重ねるしかなくなっている。それほど彼らは追い詰められているのです。強い光が、闇を照らし出すようになって。

 

いったい何の権利があって、デッチ上げを「正義」と偽り、他国に爆弾を落とせるのでしょうか? 人の命を、人々の生活を、何と思っているのでしょうか? 米英仏は、いったい何様のつもりなのでしょうか? そして日本は、国際的な信用をどこまで落とすつもりなのでしょうか? 歴史に決して学ぼうとしない者たちが、そろって歪んだ「歴史教育」を説くのです! ああ、この人類の終わりなき錯誤。カルマの連鎖。

 

今の世界がメチャクチャなのは、陣痛の時を見ているのです。それは、来るべき世界への産みの苦しみ。今までの秩序(のように見えていたもの)の大崩壊。世界史は謀略の歴史であり、それは闇の勢力が仕組んだものであり、時の権力者たちは、ただの操り人形。その操り人形に、さらに大衆が操られ、奴隷にされ、搾取され、戦争に駆り出され、ぼろ雑巾のように使い捨てにされてしまうことの悲劇。

 

この悲劇の原因は、一体どこにあるのかを、人類はよくよく見つめねばなりません。今の権力者たちを叩いたところで、どうにもなりません。政権が別のパーティーにスイッチしたところで、どうにもなりません。戦争を武力によって無くそうと思っても、どうにもなりません。紙幣が仮想通貨に替わっても、どうにもなりません。そういう「仕組み(System)」そのものに、欠陥があると気づかない限りは。

 

実に、ここが人類の分かれ道。何もかもが信じられない「Post-truth」の時代に、それでも「真理」を探し求める人たちに言おう。全ての因は洗脳にある。深い深い洗脳に。あまりにも深い洗脳に。

 

洗脳とは、洗脳されている間は、それが洗脳とは気づかないものだ。大衆を洗脳しているマスコミや教育が、すでに洗脳されている。そしてそれらをコントロールしている政府もまた洗脳されている。さらには、それらを陰で操っている闇の支配者たちも、実は洗脳されているのだよ。何によってか? 一なるものからの「分離」意識によって。人々はバラバラであり、人間には、優れた者とそうでない者とがいるという意識によって。

 

ゆえに、彼らは、大衆支配という道を選んだのだ。そうすることが当然だと考えたのだ。だから、平等に分配しない仕組みを創ったのだよ。そして、富者になるイメージをチラつかせて、欲望に火を点け、このシステムの俎上にあげて互いを競わせ、そのリングから落ちる恐怖を与えて自由を奪い、馬車馬のように働かせ、その後で富を奪い取る壮大な仕組みを構築したのだよ。

 

しかも始末の悪いことに、多くの宗教は、この「分離」意識の構造に、「善と悪の戦い」という図式を与えて、これを容認どころか、なお一層強化してしまったのだ。この世には善と悪があって、悪を叩くことが善を保証するのだと言って。寛容を教えるべきはずの宗教が、こぞって真反対のことを教えたのだよ。これが、今日、地球文明を破滅させかねないほどの火種となって燻っているのだ。なんと愚かな人々であろうか。

 

神の名を語って戦争をすることは、もういい加減にしてもらいたいものだ。本当に、神がそんなものを望んでいると思っているのかね。人々が流す血をわたしが見たいと、本気で思っているのかね。いいかい、善も悪もないのだよ。みんな我が子なのだよ。あるのは、「分離」という意識から、「合一」という意識に至る、意識の発達度合いの違い、つまりは霊性の向上度合いの違いだけなのだ。

 

そして、この学習の機会は、つまり霊性向上の機会は、全部の「魂」に等しく与えられているのだよ。そこに差別は一切ない! 以前に、保母さん保父さんの視点に立って世の人々を見て欲しいと言ったよね。実にいろんな人がいるんだよ。「分離」意識と、そこから派生する敵対意識、被害者意識でまだガチガチの人から、「合一」意識を体現するに至った人まで。

 

未だ幼稚園の年少レベルという甘えん坊しゃん。年中レベル、年長レベルにまでちょっとだけ進歩した人。そこを終えて小学生に上がった人。そしてごく稀に中学生レベルに達した人も。と、ここまでが地上の義務教育。これ以上は、肉体を持っている間は行けない。だが、ついでに言っておく。まだまだ道は続くんだよ。高校、大学、大学院とね。

 

幼稚園の年少組の霊性にある「魂」の横暴に、いつまでも引っ掻き回されたままでいて、どうするんだい? そして、それが許せないと言って、今度は年少組をやっつけるのかい? 違うだろう。あなたの課題は、自分がステップアップすることじゃないのかい? 自分がステップアップするとはどういうことなんだろうね。また言わせるのかい? 無条件の愛の人を目指すということなんだよ。

 

愛を与えれば、愛が返ってくる。疑いの目で見れば、疑いの目が返ってくる。敵視すれば、敵視が返ってくる。ヘイトスピーチをすればヘイトスピーチが返ってくる。異次元の圧力を加えれば、異次元の圧力が返ってくる。簡単なことだよ。みなさんが今、見ているままさ。なのに、なぜこんな簡単なことが解らないのかねぇ。いいかい、人を助けることで自分が助けられ、人を癒すことで自分が癒されるのだよ。

 

だから、わき目を振らず、ひたすらここを目指しなさい。無条件の愛に生きる人が、一人でも二人でも増えれば、洗脳に騙される人がそれだけいなくなる。何度も同じ過ちを繰り返していてはダメだ。歴史の裏、裏の裏、裏の奥、奥の奥を見るのだよ。光が射している今がチャンスだ。「魂」の世界からのみ歴史を見なさい。そして、歴史に学んで、自己の「魂」の糧としなさい。

 

あなたの健闘を祈る。

よくある質問

セミナーなどでよく訊かれる質問をまとめてみました。

 

Q.あなたは霊能者なのですか?

 

A.いいえ、霊能者ではありません。人間誰しもが持っているという意味においては、私にも少しは霊感があります。しかし、いわゆる「霊能者」と言われる人のような特別な能力は所持していません。アカシックも読めませんし、予言もできませんし、オーラも見えませんし、スプーンも曲げられません。どちらかと言えば、劣等意識の強い「0能者」で、へなちょこ人間です。

 

メッセージの語り手と、私とは全くの別人です。私も、日々、反省と忍耐と努力を重ねる、ただの一人の求道者に過ぎません。

 

Q.宇宙と繋がったメッセージを下ろしているとのことですが、なぜそんなことが出来るのですか?

 

A.最初から出来たわけではなく、徐々に鍛えられたのです。上からによって、用いられるように。この『気づきの啓示板』も、最初のころと今とでは、レベルやスタイルがまったく違って来ているのがお分かりいただけると思います。途中、一段また一段と、階段をジャンプするような感覚的な変化があり、その度に内容が変化していきました。

 

いちばん最初は、「神」という言葉を出すことにもかなりの抵抗感がありました。しかし今では平気です。初期のものは未熟で恥ずかしいのですが、変化の過程をありのままに見ていただいた方がよいと考えて、そのままにしてあります。誰もが同じことが可能だということを、敢えてみなさんにお伝えするためにも。

 

Q.具体的には、何と繋がっているのですか?

 

A.ソースが何であるか、またどの霊性密度にいる存在なのかも、今のところ、私には分かりません。これは私のテレパシー能力が低いせいでもありますが、ソースにとっては、名前を明かすことが別に本意ではない、という面もあると思います。どうも複数おられるようで、男口調になったり、女口調になったり、軽いノリでジョークを言ったりと、様々です。

 

Q.どのようにして、このメッセージを書いているのですか? これは自動書記のようなものですか?

 

A.いいえ、自動書記ではありません。私のコントロール意識は失われておらず、ボーッとした感じではありますがちゃんと起きております。そのため、タイピングしたメッセージ内容が、果たして自分の考えなのか、上からのものなのか、区別が判然としません。そのことに、これまでの間ずっと葛藤があり、コンプレックスも感じています。

 

自分の場合、声が聞こえるわけでも、文字が見えるわけでも、イメージが浮かぶわけでもありません。何かもやっとした概念があり、それを、自分の引き出しにある言葉から、適当なものを選び出しては、彫刻のように創り上げていくといった感じです。

 

この、言葉を選び出すという作業が非常に忍耐のいるもので、自分の未熟さ、無能ぶりがさらけ出されるのでとても恥ずかしいです。そのため、文字校正以外では、自分がタイピングしたものを読み直すことはありません。その場限りで、全部、忘れるようにしています。

 

構成のようなものは一切考えておらず、いきなり書き始めます。呼び水のために、自分のことや、身近な出来事や、社会現象を先ず取り上げることが多いです。とにかく、最初の1ブロックが書き上がると、後からは、次から次へと次のブロックの概念がやって来ます。

 

よく「長過ぎる」というお叱りを受けるのですが、長く書こうと思っているわけではありません。やはりシンドイですし、私も出来れば短い方がいいのですが、後から後からモヤモヤがやって来るのです。きっと、しっかり伝えたいという思いが、上の存在たちにはよほど強いのでしょう。

 

そうやって、連携パスのようにブロックを繋いでいくと、だんだんと自分の波動も上がって来て、ついには憑依したような言葉が出て来ます。この状態の時の一人称は「わたし」と書いており、前半の「私」とは区別しています。これはハッキリ分かれるというよりも、どちらが優勢にあるかという違いです。私には明確な区別がつきません。

 

ですから、ニールさんの『神との対話』シリーズを読んだ時には大変な衝撃で、その内容もさることながら、どうやって「自分」と「神」との言葉を分けて記述できたのかと、驚嘆しました。(一度だけ、同じような感覚になったことがあります。)

 

そのようなわけで、コンプレックスと恥ずかしさを抱えながら継続している作業なのですが、最近になってようやく観念したと言いますか、自分は自分、自分がやれるスタイルでやるしかない、これが自分の役割、と思うようになりました。

 

考えてみますと、自分にさしたる「霊能」が無かったことは、今世におけるギフトであったかも知れません。もし「霊能」があれば、「霊能」に溺れて錯覚し、「真理」探求の姿勢を持てなかった可能性が大です。そう考えると、私は、この私の今世の役割を、徹底していく他はなさそうです。

 

これからも、出来るだけ慎重であり続けます。どう受け止めるかはみなさん次第です。批判もどうぞなさってください。それは自由です。みなさんの今後の人生の気づきに、霊性の向上に、このブログのメッセージが少しでもお役に立てれば幸いです。

 

Q.この『気づきの啓示板』ブログには、どうしてコメント欄がないのですか? またFacebookなどのSNSを利用されていないのはどうしてですか? 読者が少ないと書かれていますが、利用すれば、もっと多くの人に届けられると思うのですが。

 

A.そうすることの意義を感じていないからです。アクセス数を上げることには関心がありません。そんなことをしたところで、結局は、「波動の法則」によって、ある程度似通った波動の人のところにしかメッセージは届かないのです。また、もし自分が、名声や金銭などの誘惑に負けてしまったら、たちまちにして、上から見放されてしまうことでしょう。

 

それに、「気づき」は純粋に個人的な体験です。このブログに掲載しているメッセージは、共通した何かを知らせようというよりも、それぞれの方のドアノッカーの役割を果たしているに過ぎません。「気づき」というのは、あなたが、自分の中に元々あったものに気づくのです。またそれは、その人の霊性の発達段階に応じて顕れるものなのです。

 

コメント欄を活用したり、Facebookなどを用いれば、読者の方々が、自分の想いを言えることができ、それはそれで別の「気づき」にもなり、活性化することでしょう。しかし、今のインターネット状況では、デメリットの方が大きいと考えます。

 

多様な個人的な体験が行き交うことによって、そこに軋轢が生じることは、どうしても避けられないでしょう。それは、私が望むところではありません。また、私自身も、そうした軋轢の影響を受けてしまい、それ以降のメッセージの受信が困難になってしまうことでしょう。高次元の存在からのメッセージは、静寂の中にしか下りることがないのです。

 

ここで大切なことを申し上げます。現代人の不幸は、「情報」の虜にされてしまっていること。「情報」の虜になっている限り、霊性の向上は望めません。入り口にすら立てない。重要なのは「情報」ではなく「感覚(feel)」なのです。「智」は外にあるのではなく、あなたの中にすでに備わっています。その「智」の扉を開くためには、「情報」はむしろ遮断しなければならないのです。

 

古代人の霊性が高かったのはなぜでしょうか? 自分の「感覚(feel)」を大切にし、森や、海や、花や、水や、風と共に生き、それらと会話が出来たからです。現代人に欠けている勇気は、何よりも「情報」を捨てる勇気、そして「お金」を捨てる勇気、「孤独」になる勇気です。

 

Q.貧乏だということですが、セミナーなどの料金をもっと上げられてもいいのではないですか?

 

A.貧乏というのは相対的なもので、世間的に見れば確かに貧乏ですが、それを惨めには感じておりません。むしろ自由です。貧乏である原因は単純で、金銭が得られるような仕事を殆どしていないためです。それに割く時間があったら、『虹の学校』の活動に一身を捧げたいと、ある時期を境に決心しました。

 

また同時に、宇宙の仕事には付加価値を求めない、とも決めました。なんとなれば、「宇宙」は誰のものでもなく、「真理」はタダだからです。それと、私がすでに年金生活者であり、月に8万円弱をいただけているので、それで充分だということです。しかし、もし年金が破綻したりすれば、お恵みをいただかなくてはならなくなるかもしれません。

 

ということで、「清貧」を気取っているわけではありません。私は「清貧」思想は嫌いです。霊性の高さと、貧富とは、何の関係もないと思います。イエスが「貧しき者は幸いである」と言った意味は、貧しい人の方が困難に遭う機会が多い(つまり、それだけ「気づき」のチャンスが多い)という意味で言ったのです。貧しくても、「気づき」がなければ、どうしようもありません。

 

Q.生徒さんは、何人くらいおられるのですか?

 

A.生徒という人はおりません。「虹の学校」は先生も生徒もなく、みな等しく宇宙の子です。あなたを指導してくださるマスターは天上界にいて、その「聖徒」となるかどうかはあなた次第です。あなたが「聖徒」であり続ければ、マスターはいつでも援助の手を差し伸べてくださいます。しかし、少しでも道理に反するようなことがあれば、静かに去って行かれることでしょう。

 

Q.どうして駄洒落とかが多いのですか?

 

A.ジョークは神様の発明品、とだけ答えておきましょう。

「祈り」の真髄

神社仏閣に行くと、たくさんの祈願札を見かけます。お正月には恒例行事のようにして祈願祭が行われますし、人々が皆、お賽銭を投じては手を合わせて祈りを捧げています。受験シーズンにでもなれば、合格祈願でたいそう賑わいます。私もかつては、意味も解らずに、単に人真似でそのようなことをしていました。手を合わせた向こう側に、霊験あらたかな何者かがおわすと信じていたのです。

 

けれども、これらの願いの一切合切を聞いていたとしたら、神様というのは大変です。忙しいだけじゃなくて、おそらく世の中はメチャクチャになってしまうことでしょう。色んな人の欲望が、一斉に噴き出して。入学定員が100人のところに200人の応募があったとします。その200人全員が合格祈願を出したらどうなるんでしょう? やっぱり100人しか受かりませんよ。だとしたら「祈願」というのは何なのでしょうねぇ。

 

ここで、何か変だな?と思わなくちゃいけませんよ。合格祈願ていどなら理不尽さをあまり感じないかも知れませんが、身内に生きるか死ぬかの瀬戸際にある人がいるといった場合や、大事故で生死が判らないという時に必死で無事を祈るといった場合であっても、これとまったく同じことが起こります。結局は、生きる人と死ぬ人に分かれるのです。

 

そして、願望通りの結果が得られなかった時には、「神も仏もあるものか!」と悪態をつきたくなるでしょうし、願望通りの結果となった時には、「ああ、祈りが通じたんだな」「私の祈りが聞き届けられたんだ」と思うのではないでしょうか? だとしたら「祈願」というのは何なのでしょうか。顕れる結果には、「祈願」とは別の力学が働いていることに、お気づきにはなりませんか?

 

「祈願」という言葉には、「祈り」に「願い」がくっ付いています。そのため、多くの人は、「祈り」と言えば「願い事」をすることだと無条件に思い込んでいます。自分の「願い」をなんとか実現させたいと思う。そのために、神仏のお力をお借りする。いま「お借りする」といったのは、ソフィストケートした言い方であって、実体は、自分の願望のために神仏を使ってやろう、という算盤(そろばん)ずくです。

 

スピリチュアル業界(?)に首を突っ込んだ人の中に、よく「引き寄せの法則」というものに引き寄せられている人を見るのですが、こんなものに引っ掛かっていてはダメです。その人は、いったい何を引き寄せたいのかな? 同じ波長が共鳴し合うというのは真実です。ですが、その「自分のために何かを引き寄せたい」という願望そのものが、エゴから発していることに気づきませんか?

 

ですから、私は常々こう言っているのです。「引き寄せの法則」を活用なさりたいならどうぞしなさい、と。でもおまけに漏れなくエゴもついてくるよ、と。

 

同じ波長が共鳴し合うというのは真実です。互いに引き合うと言ってもいいです。引き寄せると言っても間違いではありません。それは厳然たる法則だから。でも、(振動数が)高い波長でなければ、高い波長を引き寄せることは出来ませんし、低い波長は、低い波長どうしで共鳴し合うのです。

 

ですから「引き寄せの法則」という言葉に引っ掛かっている時点で、その人はスピリチュアル業界のエゴの戦略(ひとつ、これで引っ掛けてやろうという低い波長)の中に落ちている。それは、あなたの中に眠るエゴの部分が刺激され、共鳴したからです。逆なんですよ。天使や大師たちは、いつも応援したい人を探しているのに、自分たちを引き寄せるだけの高い波長を持った人がなかなかいないことにお嘆きなのです。

 

宇宙というのは法則です。宇宙全体が法則なのですから、なんぴとたりとも、この法則の下から逃れることは出来ません。「祈願」とは関係なしに、試験に受かる人と受からない人が生じるのも、「祈願」とは関係なしに、生き残る人と死ぬ人が出てくるのも、その背後に、人々が知らない、冷徹な「宇宙の法則」、つまり「真理」が厳然と働いているからなのです。

 

あなた方は、もういい加減に、先に述べたような迷信から脱して、その奥にある「真理」に目覚めなければなりません。それに、容易には受け入れらないのを承知で敢えて言えば、霊的世界から見れば、この世での生死など別に大した問題ではないのです。なぜなら「魂」は不滅なのですから。「魂」こそがその人の本質であり、死後もずっと生き続けるのですから。この世でいう生死は、ドアを隔てた入退室に過ぎないのです。

 

さて、真の「祈り」とは何かです。それは「願い」などではありません。いくら願ったところで、「宇宙の法則」に合致しないことは、実現のしようがないのですから。「祈」という字は、「示」ヘンに「斤」が付いたもの。「示」は「神」で「斤」は「近づく」。つまり、神に近づく行為が「祈り」です。では、どのようにして近づくのでしょうか。自分の波長を高めることによってです。これ以外に近づく方法はありません。

 

ここで、ピン!と来た方がおられるでしょう。そうです、「瞑想」と同じです。振動数の低い、物質界にフォーカスしている意識を滅して行くと、入れ替わりに、高い振動数を持った「魂」の意識が浮かび上がって来ます。すると、その振動数に応じた霊界のチャンネルが開かれるのです。「瞑想」は、この状態で、どちらかと言えば「受信」、「祈り」は反対に「発信」に徹したものと言っていいでしょう。

 

しかし、明確な区別はありません。要は、「瞑想」を「祈り」とし、「祈り」を「瞑想」とする感覚が大切です。これによって、あなたの、内なる宮が開かれる。つまり、あなたの社(やしろ)である人社が神社となるのです。

 

さてそこで、何を「祈り」とするのか、です。これは、あなたが理想とする世界です。この理想とする世界が、「宇宙の法則」に反しないものであれば、神々の応援を得て「魂」の意識世界の中にそれが実現されるでしょう。しかしもし「宇宙の法則」に反していれば、それは斥けられるか、修正を迫られるでしょう。

 

この「理想」は、あなたの「願い」ではなく、元々、そこに在ったものなのです。この違いが解りますか? つまり、「神の理想」が、あなたの中に想い出された時に、両者がつながるのです。神と、あなたの「魂」の中に宿している神の分身とが、共鳴した瞬間に。これが、「祈り」の真髄です。

 

そうして、あなたは、神の使徒の一人となる。その理想を、地上で実現するための、奉仕者として生きることを「祈り」の中に誓う。なぜなら、地上世界での実現は、地上世界に生きる者にしか出来ないから。

 

「祈り」とは、これです。世に蔓延する「祈願」などとは、いかに懸け離れたものであるかが、これでお解りでしょう。ですから、「祈り」を為すには、自分をどこまでも純粋なものに律しなければならないのです。そうでなければ、自分の波長を高めることは出来ない。高められなければ、上には届かない。そこで、いつも言っていることが大切になります。素直に、正直に、誠実に、無条件の愛をもって生きること。

 

それなしに、スピリチュアリズムの扉は開かれない。絶対に、開かれることはない。

イエスとゴータマは、結局なにを説いたのか

ナザレのイエスと、釈迦族のゴータマ・シッダルタは、ともに歴史上の人物です。イエスは今から2000年ほど前に、ゴータマはそれより前の紀元前5世紀ころ世に出現して、それぞれの持ち味を活かした立場から、宇宙の真理を語りました。その活動の一端を、今日まで続くキリスト教、仏教として、いま我々は見ているのです。しかし、その伝えられ方は、相当に歪められたものとなっています。

 

*ナザレは地名、釈迦はシャキャという一族の名を漢字で音写したもの。

 

二人が霊的に傑出した人物であったことは疑いありません。しかし重要な点は、我々と同じく、二人が肉を持った人間だったということ。ところが、その事実が無視され、共に祭壇の奥に鎮座せられるべき、この上なく高貴な存在として位置づけられたのです。そのことで、イエスもゴータマも、神に代わる信仰の対象として、人々の外に置かれることになりました。

 

結果、祭壇を納める教会が必要となり、それを管理する教団が作られ、その価値を永続的に維持するために、組織が権威化していったのです。

 

これで、「救い」というものの本質が何であるのかが、皆んなわけが分からなくなってしまいました。教会、祭壇、僧侶、聖典、教義、儀式、といったものの中に「救い」に繋がる道があると、人々に錯覚させたのです。「信仰」という名の下に、それは教団への強い依存体質を人々に染み込ませることになり、教団運営にとってはまことに良かったのですが、入れ替わりに大きな問題を生み出しました。

 

権威や集金システムの「権利」を巡って分派が起こり、ともに相争うようになったのです。外の物に権威を求めれば、それらは当然起こり得ることです。結果として、複数の教会、複数の祭壇、複数の僧侶、複数の聖典、複数の教義、複数の儀式が乱立し、互いに我こそは正宗、他はみんな邪宗・邪教と罵り合って、果ては戦争まで繰り広げるようになっていったのです。

 

それが、果たしてイエスやゴータマが望んだことなのでしょうか。イエスやゴータマが本当に伝えたかったことだとでも言うのでしょうか。なにゆえに、神が、我が子同士を争わせますか。ちょっと考えてみれば分かりそうなものなのに、人間たちは、未だに同じことを繰り返しています。新しく勃興する宗教もみんな同じ。結局は、ピラミッド型組織を作って、人々に上を仰ぐことを強いているだけです。

 

「キリスト」というのはヘブライ語の「メシア」のギリシア語訳で、「救世主」という意味です。よく、クリスマスを「Xmas」と表記しているのを見かけると思いますが、これは Christ のギリシア語表記が Χριστοςと、X で始まっているためです。ですから、イエス・キリストというのは、結局、キリスト(救世主)であるところのイエスさんという意味になります。

 

一方「ブッダ」は、サンスクリット語で「目覚めた人」という意味です。いったい何に目覚めたのか。「真理」にです。ですから、ゴータマ・ブッダは、真理に目覚めたゴータマさんという意味です。さて、ここで注目していただきたいのは、「キリスト」も「ブッダ」も、特定の個人を指した名称ではないということです。

 

ところが、多くの人は、「キリスト」と言えば無条件でイエスその人を指し、「ブッダ」と言えば、ゴータマその人を指すものと誤解しています。これが、二人を神格化の頂点に位置付けて来たことの何よりの証拠であり、同時に、今日まで続く長い権威主義と不毛の歴史を作り出す元凶として作用して来たのです。しかし、二人は紛れもない「人間」でした。あなた方と同じ「人間」だったのです。

 

これは、決して二人を貶めようとして言っているのではありません。逆です。二人は、誰もが「キリスト」になれるし、「ブッダ」になれるよということを示そうとしたのです。そのお手本を、ともに我が身をもって示しただけだったのです。さてそう聞いて、今まで、二人を神さまのように拝んでいた人たちはショックを受けるかも知れませんね。場合によっては怒り狂うかも知れません。

 

けれども二人は、この世に生きていた間、実にフレンドリーに周囲と接していたのです。神格化されることなど微塵も望んではいませんでした。考えてみてください。万人の平等を説く者が、また万人に救いをもたらす者が、なにゆえに自己の神格化を望むでしょうか? なにゆえに、お付きを引き連れて、神輿に担がれて、ぞろぞろと歩くでしょうか? 

 

そんな輩が「キリスト」であり「ブッダ」だとでも言うのでしょうか? それでは思想の矛盾です。そう思いませんか?

 

凡夫という言葉があります。大聖者、大覚者であるイエスやゴータマに比べれば、自分は何と未熟で、間違いだらけの、ちっぽけな、取るに足らない存在なのか。一生かかっても、自分はそんな境地には到達できない。ああ、自分はなんともなさけない凡夫である。

 

違う。

違う、違う、違う。あなたは凡夫ではない。

イエスやゴータマは、まさにその考えを打ち破ろうとしたのです。

誰もが「キリスト」になれるし「ブッダ」になれるんだよ、と。

ほら、こんなふうに、と。

 

あなた方は、先ずこの凡夫思想を葬り去らねばなりません。

そして、21世紀にふさわしい、新しい神学に目を見開くべき時が来たのです。

 

一般にはあまり知られていませんが、神秘学では、「キリスト」というのは別名「キリスト意識」とも言い、ある一つの到達した意識状態を指した言葉です。その意味するところは、「全き愛」です。完全な愛にある意識状態を「キリスト」と言うのです。ナザレのイエスは、その「キリスト意識」を携えて、自身の30数回めの転生を成した「人間」だったのです。

 

そこには目的があったからなのですが、肉を持ったということにおいては、他の人間たちと何ら変わりがなかったのです。ただイエスは、自分を、「キリスト意識」の完全なる媒体としました。純粋なパイプ役となって、自分を神の通り道にしたのです。つまり神に使われる者です。結局、そこでイエスは何をしたのか? イエスが説いたことは一つ、「宇宙とは愛である」ということでした。それを、完全なる法則性の上に説いたのです。

 

では、ゴータマが説いたことは何か? 「宇宙とは法則である」ということです。それを、愛の下敷きの上に、どこまでも説いたのです。宇宙とは「理」なんだと、「Law」なんだと、徹底して語ったのです。突き詰めれば、二人はこれしか言っていません。奇跡話は、当時の人々が(残念ながら今もそうですが)、奇跡でも見せない限り、真実の言葉に耳を傾けようとしなかったから、やって見せたまでのことです。

 

二人が説いたことは、一見、まったく関連がないように思えます。ですが、これは「宇宙」というものの多面性を、各々別の視点から語ったものであって、元は同じ一つのことを違う側面から言っているのです。

 

宇宙とは法則である。

宇宙とは愛である。

 

これは、いずれもが正しく、ともに真理を示しています。しかし切り口はまだまだあるのです。

 

宇宙とは智性である。

宇宙とは生命である。

宇宙とは力である。

宇宙とは波動である。

宇宙とは変化である。

宇宙とは永遠である。

宇宙とはあらゆる存在である。

 

ここで言う「宇宙」は全てという意味です。ですから、これを「神」という言葉に置き換えると、こうも言えるのです。

 

神は法則である。

神は愛である。

神は智性である。

神は生命である。

神は力である。

神は波動である。

神は変化である。

神は永遠である。

神はあらゆる存在である。

 

この全てが正しく、そして、たった一つのことから発しているのです。

それは、

 

全部が一つ。一つが全部。(All is One. One is all.)

 

これしかありません。実にシンプル。それなのに、宗教は、これをこねくり回し、もっともらしい屁理屈を考え出しては小難しいものに変えて、あたかも人々が容易には到達できないものであるかのような印象操作を行って来ました。ああ、いかにそれが、人々の霊的成長を長年にわたって妨げて来たことか。キリスト教は人々に原罪意識を植え付け、仏教は凡夫意識を植え付けて来たのです。

 

今という時代が、乱雑さの極みに達していることは解ります。人間の心が、ほとんど壊れそうになっていることも知っています。しかしそれは、全て、人間が想い行動したことの結果です。この状況を何とかしたい、地球を救いたい、自身が変わりたい、と思っている方々にここで言ってあげたい。今さら、イエスやゴータマに戻る必要はないんだよ、と。

 

戻りたければ戻ってもいいが、判じ物のように書かれた書物の謎解きに挑戦したり、熱心にお経を唱えたり、どこかの偉い先生の教えをうかがいに行ったりすることは、ハッキリ言って時間の無駄だ。いいかい。教会、祭壇、僧侶、聖典、教義、儀式、そんなものには何の値打ちもないんだよ。そこに「信」を見出すことは、あなたの「真」の気づきを遠ざけ、遅らせるだけだ。

 

イエスもゴータマも、確かに傑出した人物ではありましたが、言ってみれば、神の声を伝えた、その時代のメッセンジャーの一人に過ぎない。あなた方の殆どはご存知ないでしょうが、どの時代にも、たくさんのメッセンジャーがいて活躍しているのですよ。それは言葉だけとは限らない。絵だったり、音楽だったり、映画だったり、園芸だったり、数学だったりと、凡そありとあらゆる分野でね。

 

それを、何を今さら、2000年以上も前の、その時代の状況下の影響を強く受けた、古代の外国語の、訳文の訳文の、難解な言い回しの、しかも教団によって意図的に歪められた教義を、有り難がって読む必要があるでしょうか? あなた方がそれらに目を向ける理由は一つ。古くて、たいそう権威があるからだ。そして、それしか知らないからだ。

 

でも、よく考えてごらん。神は存在である。神は永遠である。神は生命である。神は智性である。神は変化である。いいかい、神は、今この瞬間も、まさに存在し、変化しつつ、生きているのだよ。

 

イエスもゴータマも、今は大師として、天上の世界で生きているんだよ。生きて、みんなに声援を送っているんだよ。「我々の真実の声を聴け」とね。なぜ、ただ今、この瞬間の声を聴こうとしないんだい? なぜ、わざわざ2000年以上も前の不確実な書物に「信」を求めようとするんだい? Be here now ! と、何度も言って来たはずだがね。

 

えっ、聴けったって、どうすればいいか分からないだって? 困ったね。これも、何度も言って来たはずだがね。いいかい、神はあなたの内にあるんだよ。あなた自身が神なんだよ。だから、「魂」の奥にあるその声に耳を傾ければいいのさ。イエスもゴータマも、正にそれを示したんだ。そうすれば、誰もが「キリスト」になれるし「ブッダ」になれるんだよ、と。

 

豪華な神殿など不必要かつ不用なのさ。なぜって、あなたの肉体がすでに神殿なのだから。神は、最高の宮の中に降りたんだよ。いつでもどこでも持っていける、今の言葉で言えばモバイル神殿、スマート本尊、それがあなたの肉体だよ。この素晴らしいギフトに感謝して、せいぜい労って磨き上げることだね。そうすれば、あなたに、天使も神々も降りるから。

ワークショップ フィジカル・トレーニング基礎講座

 

瞑想と体操は、霊性開発における車の両輪であり、最高の組み合わせです。

これまでに『初級・瞑想法講座』または『自由宇塾』に参加されたことがある方を対象に、『フィジカル・トレーニング基礎講座』を開催いたします。

習慣化しやすい「自彊術」体操に、ハタヨーガの訓練法の一部と、特殊な呼吸法、およびヒーリング・タイムを加えて、一連のプログラムといたしました。

参加要件を満たしている方は、この機会にどうぞご検討ください。

 

日時:4月15日(日)13:30 〜 16:30
場所:多摩市 関戸公民館 8F 和室1
   京王線 聖蹟桜ヶ丘駅   徒歩2分
参加費:1,000円
(当日お支払いください)
定員:8名
参加要件:これまでに「初級・瞑想法講座」または「自由宇塾」に一度でも参加された方

 

詳細およびお申し込みはこちら ▶

正直に生きるということ

今の国会で行われていることを見ていると、つくづく、これが人間なんだなと思わされます。「地球人は、霊的レベルからみれば、未だ小学校入学の域にも達していない」。これは、霊界のマスターたちがしばしば漏らす嘆き節です。ですから、今の国会を、大人たちがやっていることではなくて、幼稚園内での出来事だと思えば、この尋常ではないドタバタ劇も理解ができます。

 

どの人が嘘をついているかなど、ピュアな視線で見れば、誰にでも直ぐに分かること。ところが、嘘が見逃されるどころか、嘘がバレているというのに、嘘に嘘を重ねることが是認されてしまうという異常さです。駄々っ子のグループにくっついていけば飴玉が貰え、逆らったらイジメられる。みなさんは、これを園児としてではなくて、保母さん保父さんの視点に立って見てくださいよ。

 

何度も言って来ましたが、騙す人と騙される人は、持ちつ持たれつの関係です。騙される人がもしも一人もいなければ、詐欺師という商売は成り立ちません。人が詐欺の被害に遭ってしまうのは、詐欺師が繰り出す甘言に、心惹かれる部分があるからです。つまりは、自分の中に眠るエゴが刺激され活性化されるからこそ、そこに同調というものが起こり、持ちつ持たれつの関係が成立するのです。

 

今の国会を見て驚くのは、嘘を是認してしまう人の、あまりの多さ。この人たちは「嘘をつく」ことの過ちよりも、もっと大切なものがあると考えているのです。「正直である」ということを、単に方便のようなものとしか捉えていません。「正直」は単なるポーズでしかありませんから、「真摯に受け止め」とか「丁寧に説明する」とかの紋切り型の「嘘」を、平気でまた言えるのですね。

 

あなた方の殆どは、「嘘をつく」ということを、もっぱら他者に対しての作為として捉えています。けれども、霊的世界から見た場合はそうではありません。霊的世界から見た場合、その人の生き方として最もしてはいけないことは、「自分に嘘をつく」ことなのです。何より、これが最悪。そして、その怖さというものを、殆どの人が知りません。ですから、嘘に嘘を重ねて、自分を裏切り続けても平気でいられるのです。

 

多くの場合、「自分に嘘をつく」ことは、「他者に嘘をつく」ことと同時に行われています。しかし、他者についた嘘の場合には、他者の誰かがその嘘を見抜いたり、無視したりすれば、嘘は暴かれてしまって成立しません。ところが、自分についた嘘はそういうわけにはいかない。この嘘を暴く方法は一つしかないのです。それは、自分自身で暴くこと。つまり懺悔することです。

 

これが、未だ幼稚園の域にいる人には出来ない。「嘘をつきました。ごめんなさい」この一言が言えない。こんな簡単なことが、今の霊的レベルの人間には難しいのです。一度ついた嘘がバレるのが(それこそ自殺することよりも)怖い。そこで、嘘に嘘を重ねて雪だるまのようにして自分を保護しようとする。でもそれは、自分を自分で縛り付ける手枷足枷になってしまっているということに、本人は全く気がついていないのです。

 

この人は嘘をついている。大抵の人なら誰でも判ります。ところが有識者の中にも国民の中にも、これを是認してしまう人たちが大勢います。なぜでしょう? この人たちもまた「嘘をつく」よりも大切なことがある、との信念を持っているのです。それは、今の内閣が打ち出している、特定の国や集団に対する敵視政策です。これが、同じように、誰かを敵視し、貶めたいと願っている人々の感情面に火を点けて、燃え上がらせているのです。

 

つまり、その部分で、波長がぴったりと合っている。ですが、霊的に見てこれほど低いレベルの生き方はありません。人が、この物質世界に生まれて来た目的は、「分離」を超えた「融合」を再体験するためである、と繰り返し語って来ました。けれども、そのスタートラインにすら着けない人たちがいるのです。分離、敵視、闘争という感覚から、いつまでも脱け出ることが出来ない。

 

そして、最も倫理道徳観の薄い者が道徳教育の必要性を叫び、私利私欲で国を私物化しようとしている者たちが愛国を叫んでいる。ここまで来ると、もうジョークとしか思えません。ですから、倫理道徳も、愛国も、正義も、無用だと何度も言ってきたのです。そんなものは、為政者の道具に都合よく使われてしまうだけ。問題は、霊性にあるのです。霊性が高くなれば、そのような縛りは自ずと不必要になるのです。

 

「お前らは敵だ、圧力を掛けるんだ」と隣国に言い続ける。ですが、考えてみてください。そこにも同じ人間が暮らしているんですよ。「敵だ」「圧力だ」とずっと言われ続けた側は、そう言われてどう思うでしょうか? 「このヤロー」と思うのではありませんか。そこに同じ人がいるという想像力もなければ、相手の心理も考えていない。カルマの法則も、生まれ変わりの法則も知らない。全くの無知蒙昧。まさにマスターが嘆く幼稚園レベルです。

 

宇宙の法則は、究極的には次の一言しかありません。「全部が一つ、一つが全部」。何かに迷ったら、いつでもこの原点に返りなさい。そこに答えがあります。全部が一つなのですから、誰かを傷つけることは、自分を傷つけることです。誰かを貶めることは、自分を貶めることです。誰かを敵視することは、自分を敵視することです。そんなことが、人間たちには、なせそれほどまでに楽しいのですか?

 

ここで、これを読んで下さっているみなさんには、やさしい保母さん保父さんの視点に立ってみて欲しいのです。攻撃的にふるまう人たちを、攻撃によってやっつけようとしてはなりません。攻撃を反撃によって制圧できると思っているのは、あなた方に根強く浸透した幻想です。それでは、あなたも同じ土俵の上に落ちることになってしまいます。そうして、またしてもカルマが巡るのです。

 

いつもいつも闘争に身を置いている人の「魂」は、何年経っても成長が見られません。特定のセクトに先ず身を置き、その立場からものを語るクセをお辞めなさい。それは、真のあなた自身を捨てること。自分で自分を騙し続けていくことです。土俵を上から眺めて、保母さん保父さんになりなさい。未だ気づけない、幼いAくん、Bくん、Cくんらに、あなたならどういう声をかけてあげますか? どんな愛を示してあげられますか?

 

あなた方の意識は、一つの層だけで成り立っているのではありません。「心」が創る意識の奥には、「魂」の意識があります。この「魂」の意識は、さらに奥の部分で大宇宙(つまり神)と繋がっているのです。よく「神はすべてお見通しだ」と言うでしょう。それは本当です。あなたの思考も行動も、全部神は知っている。なぜ、お見通しなのかが、解りますか? 他ならぬ、あなたが「神」だからなのですよ。

 

「神」が、あなたの中に鎮座しているから。だから、あなたがしたことは、自動的に、すべてお見通しとなるのです。ですから、なんぴとも「神」を騙すことは出来ません。不可能です。それなのに、愚かな人間は、本当の自分である「魂」の声を無視して、「心」が創るエゴによって、自分の「魂」を騙そうとします。騙すことが出来ていると思い込んでいます。そうやって、自分に「嘘」をつくのです。

 

でもこれが、どんな結果になるかを、その人は知りません。あなたの左足が左へ行きたいと思っているのに、右足が右へ行けばどうなりますか? 股が裂けてしまうでしょう。自分に「嘘」をつくということは、日々、自分に股裂きの刑を課していることと同じです。それを、身体が、脳が、細胞が、苦痛として感じないわけはありません。顔つきも、どんどん悪人顏になっていってしまいます。

 

反対に、「魂」の意識と、「心」の意識がピタッと揃った時にだけ、人はピュアになり、大霊が流れ込むので「幸福」をしみじみと実感できるのです。そうすれば、顔つきも自ずと穏やかなものになり、周囲に明るい雰囲気をもたらすようになります。それが、正直に生きるということの本当の意味であり、意義です。

 

宇宙に罰はありません。罰のように思えることも、みんな、あなたがあなたに課していることなのです。そのことを知りなさい。自分が蒔いた種は自分が刈る。これは、冷徹な法則です。例外はありません。だとすれば、よい種を蒔いてみてはどうでしょうか。よい種から、よい花を咲かせてみてはどうでしょうか。

 

このあなたも、あのあなたも、みなが、かけがえのない種を持っているのですよ。なぜって、そのように創られたのだから。その種を、陽の当たるところに置きなさい。なぜ、わざわざ、陽の当たらない影の世界に身を置こうとするのですか? まるで成長のない、エゴでまみれた世界に、なぜいつまでも夢中になるのですか?

 

今の世界を、反面教師にしなさい。ダークな世界が発する誘惑には決して屈しないように。ご自分を信じなさい。自己の「魂」の成長を目指しなさい。力強く、そして限りなく。

 

あなたは生きている。今この瞬間をまごうことなく生きている。わたしと共に。

自分を信じる

信用できるものが何もない。今、多くの人を捉えている感覚は、たぶんそのようなものではないでしょうか。政府や官僚に対する信用度はもはや地に落ちました。三権分立など絵に描いた餅。警察や検察が本来の義務を果しているかどうかも定かでない。本来、権力の監視機関であった筈のマスコミも、真実を隠して意図的な情報操作を行っているということを、多くの人が知るようになりました。

 

医療制度も、学校制度も、信用できない。企業も、金融システムも、食品も信用できない。とにかく何もかもが信用できない。これは日本に限られた現象ではなくて、世界中で、特に資本主義を推進して来た西側諸国に共通して見られる現象のようです。俯瞰してみれば、現在の強欲な資本主義を基盤とした社会のあり方が、崩壊へと向かっていると言えるでしょう。

 

これまでの秩序が崩壊する。それは一見、悪くなって行くように見えますが、長い目で見れば良いことです。一時的には崩壊は大混乱をもたらしますが、それは産みの苦しみであり、人類の変革のためには避けては通れない道なのです。では、この先はカオスしかないのだろうか? そうではありません。何もかも信用できないというのは、一種の気づきです。しかも、大いなる飛躍への。

 

「信」をもう外に求めない。これは個人にとっても、人類全体にとっても、大ジャンプを意味します。代わりに、「信頼すべきものはすでに自分の内にあったのだ」と気づくきっかけを提供することになるからです。実に、ここが肝です。「信」を外側に置いている限り、人は、生きる不安から逃れることは出来ません。それは岸壁に垂れ下がったロープのようなもので、手放す恐怖が生じるからです。

 

自分を信じる。これは簡単なことのようであってとても難しい。ですから、現実に多くの人が「信」を外に求めているし、求めようとしているわけですね。でも、なぜ自分を信じることが出来ないのでしょうか? それは、自分が何者かが分からないからです。自分はいったい何者か。多くの人はその問い掛けから逃避し、外見や肩書きの中に「自分」を見い出そうとしています。

 

でもそれが虚飾に過ぎないということは、直ぐに解るのではないでしょうか? もしも、その外見や肩書きが取れてしまったら、その人は、たちまち自分が誰だか分からなくなってしまうことでしょう。だからこそ、多くの人がその恐怖に怯えて外見や肩書きを必死で守ろうとするのです。でもそれは、自分ではない自分で自分を縛っているということなんですよ。そこに少しも気づいていないのです。

 

1996年、英国で「post-truth(真実の後)」という言葉が、その年の流行語大賞として選ばれました。 このキーワードは、今の社会風潮や政治状況を端的に表しています。 

 

何が「真実」であるか判らなくなった現在(post-truth)では、人々は、自分の感情や主観的な思い込みにフィットする情報や知識だけを受け入れるようになり、自尊心をくすぐる言動には熱狂する一方で、異なる見解には敵意をむき出しにするようになったと言うのですが、まさにその通りですね。それが、今のような「不寛容な社会」を創り出しています。

 

こうした傾向は、バブル崩壊後の1990年代から徐々に強まり、当初は「タコツボ化」とか「オタク」というキーワードを生んだのですが、不況の深刻化と雇用の流動化によって、自分の将来像が描けなくなると、人々の不満が鬱積し、そのエネルギーを外に出すタイプの人は排他的、攻撃的になり、内に溜め込む人は鬱になる傾向が強まったのです。

 

これは「真実」だと確信できるものがない中で、情報だけは爆発的に増えました。また情報を得たり発信したりする手段も極めてイージーに行えるようになりました。その結果、物事の前後関係や、そこに至った経緯や、言った後での影響度を深く考えることなしに、多くの人が、その場の自分の思いつきや感情的な反応から出た言葉を、まるで速射砲のように繰り出すようになって行きました。

 

さてこれは、「自分」を信じていることになるのでしょうか? 信じていると言えば、言えないことはありません。でも問題は、その「自分」とは何か、ということです。感情を動かす自分、主観的な思い込みに拘泥する自分、確かにそれも自分です。でもそれらの「自分」は、しばしば自分自身に嘘をついたり、暴れたり、裏切ったりします。果たしてそれは本当の「自分」なのでしょうか?

 

人間の意識というものは一つの層のみで出来上がっているのではありません。潜在意識、顕在意識、超意識、超絶意識の四層*から成り立っています。人間は通常、この意識を意識化することなしに思考し、行動しています。その結果、潜在意識や顕在意識が創り出す「思い」に常に振り回され、それが「自分」だとみんな思い込んでいます。けれども、それは表層的なものに過ぎません。

 

本当の「自分」は、その奥にあります。それが、超意識、超絶意識です。これらは肉体を超越したもで、脳の活動が創り出しているものではありません。「魂」の意識、そして「魂」をさらに超えた意識と言えます。そこに本当のあなたがいるのです。しかし残念ながら、このことを殆どの人は知りません。知識として知らないだけではなく、その本当の「自分」に問いかけてみたこともあまりありません。

 

 

ところが実際には、多大な影響を受けているのですね。多大どころか、そもそも、あなたという個が存在しているのは、超意識、超絶意識があるからこそです。脳科学者は、人間の意識や行動をすべて脳の活動で説明しようとしますが、そこには無理があります。脳の活動の結果が意識なのだと彼らは言います。じゃあその脳を動かしているものは何かという問いに、彼らは答えることが出来ません。

 

ではどうして、人は本当の「自分」の声に耳を傾けるということが、なかなか出来ないのでしょうか? それは、五感刺激によって形づくられる意識(潜在意識、顕在意識)が、あまりにも優位に立ち過ぎているためです。対して、超意識や超絶意識は、非常に精妙で微かなものです。そのため通常の意識状態では、この精妙な超意識や超絶意識は、奥深くに埋もれてしまっているのです。

 

多くの人が、言葉としては「魂」を知っていても、実際には、自分の「魂」を意識する努力というものを殆どしていません。また、したとしても、すぐに諦めてしまいます。ここには盲点があって、いま言った理由から、「魂」の意識は、探ろう探ろうと努力しても、逆に掴むのは難しいのです。なぜなら、探ろう探ろうと必死に努力している意識は、「脳」が創った意識だからです。

 

「魂」の意識と「脳」が創る意識との関係は、実はトレード・オフになっているのです。つまり「魂」の意識を呼び出してくるためには、「脳」が創る意識は、逆に閉じていかなければならないのです。そうすれば、入れ替わりに「魂」の意識が(自動的に)浮かび出て来ます。これを、あまり考えずに行っているのが、みなさんが眠っている時に見る夢です。

 

人が眠りに落ちると、肉体は五感刺激の反応に蓋をしてしまいます。それと入れ替わりに、「魂」の意識が活動を開始するのです。ただし夢見は、意識する意識を失った状態ですのでコントロールが効きません。ですから、コントロール意識を保ちつつ、五感刺激の反応を抑えてしまう技術を身につければ、誰でも「魂」にアクセスできるようになるのです。このほとんど唯一とも言える手段が「瞑想」です。

 

「瞑想」と聞くと、多くの人は座禅修行を思い浮かべると思います。ですが、あんな苦行をする必要は全くありません。いつでもどこでも、ちょっとした時間に、リラックスして、静かに眼を閉じて、すべてお任せで、ボーッと身を委ねればそれでいいのです。これを繰り返し行って、習い性のようにしてしまえば、あなたは、本当の「自分」を発見する旅に立てます。

 

現代では、多くの人が「情報」にこそ価値があると思っています。そのため、いつも最新情報を仕入れようと、インターネットを血眼になって追いかけ、それで神経をすり減らしています。このような人にとっては、一日数時間をボーッと過ごすことなど、単なる時間のムダ使いにしか思えないことでしょう。かつては、私もそう思っていました。でもね、時間のムダ使いは、前者の方なんですよ。

 

情報にアクセスすることにアクセクしている時間、それでいったい何が得られるのでしょうか? 一年前の情報をあなたは記憶していますか? 一カ月前の情報を記憶していますか? 三日前の情報を記憶していますか? すべてはうたかた。川面に浮かぶあぶくです。そうやって過ごした時間だけ、本当の「自分」を発見する時が過ぎ去って行くのですよ。

 

便利なアプリは、恐ろしい麻薬です。人を虜にして、抜け出せなくしてしまいます。道具を使っているのではなく、道具に使われてゾンビにされていることに気づきましょう。

人生にとって大切なことほど、日常での優先度が低い。死の間際になって「死待った!」と言うことのないようにしましょうね。

近未来の働き方 ---- AIインパクト後の世界

今から書くことは予測であって予言ではありません。私には予言する力はありませんし、決していたしません。今後数十年で、おそらく人類の「働き方」は激変することでしょう。それ以前に、「働く」ということの意味が一変してしまうかも知れません。また「働く」ことの意味が、良い方向へと変わらない限り、人類はこの変化を上手に乗り越えられないだろうと思います。

 

いま人類は、新たな革新的テクノロジーの導入によって、「仕事」環境を一変させようとしています。そのテクノロジーというのは、AIや、IoTや、Brockchainと呼ばれるもので、これらが雪崩を打つようにして「仕事」の現場に一気に入ることにより、人間の「働き方」そのものが、必然的に変わらざるを得なくなっていきます。ここでは、総じてこれを「AIインパクト」と呼ぶことにします。

 

AI(Artificial Intelligence:人工知能)

IoT(Internet of Things:モノのインターネット)

Brockchain(分散型ネットワーク)

 

例として、今よく挙げられるのが、「タクシー運転手の仕事が無くなる」というものです。これは、クルマの自動運転や、GPSと連動した効率的な配車システムといったものが、既に実用化の段階に入っているためです。けれども、それは単に解りやすい例というだけであって、タクシーで可能なら、長距離トラックでも可能だろう、電車でも飛行機でも可能だろう、ということにすぐにでもなっていくことは疑いようがありません。

 

そればかりではありません。介護も、働き手がいないというのならロボットにしてもらった方がいいんじゃないか。会社の受付も、カフェのウェイターもロボットでいいよね。学校の先生なんてAIの方がずっとマシだよ。病名診断はAIですればいいんだから、医者は要らないよね。ということに必ずなります。ロボット警官やロボット兵士がすでに造られ始めていますし、韓国では、人間は汚職ばかりするからという理由で、政治家ロボットまでが試作されています。

 

このテクノロジー革命は、結局は「人間は不必要」という極端化の方向に限りなく突っ走っていきます。これは、テクノロジーの革新というものが、つねに全体の理想像を思い描くことなしに、部分が先行して進展していくからです。なぜかと言うと、技術革新は新しい産業を生み出します。新産業の勃興は、投資家および企業にとっては莫大な富を生み出す種ですから、「これは行けそうだ」となると、投資が一気に集中し、激しい競争と切磋琢磨が短期間に行われるのです。

 

この、新しい富を生み出すのではないかという期待と、科学者・技術者の熱心さとが結びついた際のモチベーションというものはどうにも抗し難いもので、人間は、制御不能なモンスターを拵えてしまっては、後になって「はて、どうしよう」と、やっと対策を考え始めるという過ちをつねに繰り返しているのです。核にしろ、原発にしろ、化学兵器にしろ、金融商品にしろ、みんな同じです。

 

アインシュタインは、第二次世界大戦末期に、時のルーズベルト大統領に原爆開発を進言したのですが、後に後悔してこう語っています。

「戦争中、科学は人々に毒を盛りました。平和な時には、私たちの生活を忙しくしました。人間を機械の奴隷にしたのです。あなたが図形と方程式を解いている時、このことを決して忘れないでください。」

 

そして、まさに今、テクノロジーの進化はその最終局面へと向かおうとしています。「仕事」の場に、人間はもう不要だということ。SFで散々描かれて来た人間と機械との闘争。そして最終的には、人間が完全に機械の奴隷にされてしまう。そういう時代が、いよいよ到来したということです。

 

AIインパクト後の世界を、科学者や科学ジャーナリストはまるでバラ色のように語ります。ですが、そんな単純な話ではありません。人間がする「仕事」が無くなる。それは、人間とは何か、生きるとはどういうことか、その意味が新しく問い直されるということです。

 

「仕事」が無くなるというのは、なるほど差し迫った脅威には違いありません。ですが、本当の脅威はもっと深いところにあります。それは、AIインパクトによって、人間がますます身体感覚を喪失してしまうということ。言い換えれば、人間が、遂に人間ではなくなるということです。

 

人間が五感を有するのは、この物質世界というものを把握、認識するためです。それは必要があってそうなっているのであり、五感は物質世界を生きるために、天から与えられたツールなのです。ところが、AIインパクトは、人間からこの機能を大幅に代替してしまいます。それを人間は、便利とか、進歩とかと言っているのですが、裏からみれば、機械依存にますます陥っていくということです。

 

今ですら、現代人は、自分の周囲の環境を知覚する能力を大幅に低下させています。あなたはいま食べているものの食材が、どこでどのように作られどうしてテーブルまでやって来たのかを知っていますか? あなたは自分のウンチがどこへ行ってその後どうなるかを知っていますか? あなたはどれが鮮度のいい魚か見分けられますか? あなたは食べていいものといけないものを臭いで嗅ぎ分けられますか? 半世紀前なら誰もが知っていたことを、現代人は知りません。

 

現代のお医者さんは患者の顔色を見ません。舌の状態を見ません。まぶたの裏を見ません。検査機関から挙がって来たデータを見て、それで「診断」を下しています。巷の人々は、わずか10年で、あっと言う間に「世界須磨穂教」の信者になり、そこから得られる「情報」の虜にされるようになりました。今や、自分が認識する「世界(World)」とは、機械の向こう側に広がる世界なのです。それが、あなたのリアリティになっている。

 

しかし、このような環境に常時置かれていたのでは、早晩、人間は心を狂わせてしまいます。自分が「生きている(Live)」という実感が、五感の鈍化によって失われる一方で、「生存(Survive)」するためには、周囲の機械が不可欠となっていきます。そしてこれが、「生きることの不安」をさらに増幅させ、その不安から逃れるために、ますます機械にハマるという悪循環構造を作り出すのです。現に、今そうなっている。

 

人は、「自分が、誰かに、何かに役立っている」という手応えがなければ、決して満足することはありません。それは心を超えた魂レベルの問題であり、根元的な願望なのです。「全部が一つ」ということを、「仕事」を通じて思い出していこうとするのです。けれども、人々の一部は、特にエリート層の人たちは、そこを全く理解していません。「仕事」というものを、生産性とか、対価の問題としてしか、考えていないのです。

 

するとどうなるでしょうか? 資本家や経営者は、コストは出来るだけ下げて、生産性を出来る限り高めたいと思うでしょう。その手っ取り早い手段が、賃金の抑制です。資本家や経営者は、「会社が儲からなければ給料は払えないんだから」と説明しますが、失われた20年で判ったことは、たとえ大会社が儲かっても、全体の平均賃金はますます低下し、貧富の格差が拡大する一方だったということです。

 

投資家にとっては、会社の従業員は人間ではありません。会社に付随した生産機械の部品でしかないのです。投資家というのは、投資対象は何でもいいのであり、土地、不動産、株、債権、先物、絵画、宝石、なんでもござれで、儲かりそうなところを次々にサーフィンしていく。ですから、企業もその一つに過ぎず、売ったり買ったりできる商品だとしか、投資家は見ていません。

 

グローバル経済の浸透後は、このような投資家(8割は外国人)に日本の企業が商品として売買されることが当たり前となり、その度に、その会社で働く従業員たちが振り回されるという事態に追い込まれてしまったのです。こうした投資家が、日本企業を支配し、その企業がさらに政府を操って、法律を自分たちに優位になるように変えて行った結果、今のような絶望的な貧富の格差が生じる事態となったのです。

 

さて、いま進展しつつあるAIインパクトを、投資家や資本家の視点に立って考えてみてください。彼らは何のために導入を急ぐのでしょうか? 言わずもがなの、究極の賃金コスト抑制策になる得るからです。何しろ、人間を雇わなければ、給料を支払う義務が無くなります。この技術革新による低コスト競争に、いち早く勝たなければ、この先は生き残れないかも知れません。それで我も我もと急ぐ。

 

今までの考え方の延長線であったとしたら、当然そうなります。しかしその試みは、失敗に終わるでしょう。短期的には成功を収めたとしても、その状態を続けることは出来ないと思います。なぜなら、労働者というのは、同時に消費者でもあるからです。労働者がいなくなったら、消費する者もいなくなってしまいます。ですから、商品やサービスの売り先がなくなってしまいます。

 

その表れは、すでに今の経済状況の中に見ることが出来ます。日銀は、安倍政権になって通貨の供給量を3倍に増やしました。それなのに、目標としていた2%のインフレ率が達成できずに、6回もの達成目標の延期を行っています。通貨をいくらじゃぶじゃぶにしても、賃金抑制によってそのお金が庶民には届きません。全部、株価操作に使われてしまう。これでは、庶民はより安いものしか買えなくなるのは当然です。

 

ですから、AIインパクトによって、真っ当な賃金を貰える人の数がさらに激減したら、今の経済システムそのものが崩壊してしまいます。今の強欲な資本主義は、どのみち崩壊しますが(延命策によって、今はかろうじて回っているように見せているだけ)、庶民にとっては、「働く場が無くなる」という衝撃は、身近に迫った重大な危機であることは間違いありません。

 

そこで、「働く」という意味そのものを、根本から変える時期が来ているのです。

 

あなたは、「働かざる者、喰うべからず」と思っていますか? 思っているとしたら、どうしてでしょうか? 私は54歳の時に引退を宣言し、世間で言ういわゆる「仕事」はやめてしまいました。それまでいた業界で、自分が通用しなくなったためです。その後、パチンコ店の深夜清掃のアルバイトを5カ月、次にラブホテルの受付のアルバイトを3カ月やりました。でも、どちらも体調を崩してやめました。

 

その後で、『お風呂の王様』の面接に行ったのですが、採用されませんでした。その時に悟りました。「そうか、自分は労働力としては、もはや見なされないんだ」と。何といっても向こうは王様、こっちは単なる一般ピープルですから逆らえません。それでガックリ来て、それ以上、仕事を探すのを諦めたのです。仕事をしないとどうなるのかな?という興味もありました。

 

今は年金で暮らしているのですが、働いていないのかと言えば、働いています。このブログを書くのに丸々2日を費やし、疲れ果てて1日休むので合計3日は最低掛かる。その他に、家事をこなし、月に1回のセミナーの準備をしたり、ホームページを作ったり、草取りをしたり、家の修復をしたりと、結構忙しい。ただ稼ぎがないというだけであって、働くことは働いている。

 

つまり、「働く」という意味が、以前とはもう全く違うんですね。「働く」=「自己表現」になったのです。私にとっては、掃除も洗濯も料理も、みんな自己表現です。自己表現であることをつねに意識して、体を動かしています。もはや、「収入」と「働く(自己表現)」ということが、リンクしていないのです。そして、この意味の転換は、やがては人類に共通のものとなります。

 

「働く」ことの意味が一変する。そうでなければ、人類の解放はありません。

 

「労働」は、これまで、主として対価を得ることに力点が置かれていました。そこから「働かざる者、喰うべからず」という言葉も生まれたのです。しかし、そう思い込ませたことは、資本家や投資家の地位保全に大いに寄与しました。富者は自分では働きません。他のものに働かせるのです。土地、不動産、株、債権、会社、使用人、そしてお金そのものなどに。

 

矛盾した話ですが、一部のスター以外、自分で働く人は決して大金持ちにはなれません。自分以外のものを働かせる人だけが大金持ちになれるのです。「働かざる者、喰うべからず」という洗脳は、こうした「自分では働かない人たち」を支える構造に使われているのであり、多くの人々は、失業=無収入=飢死、の恐怖に怯えながら、しぶしぶ奴隷的労働に従事させられて来たのです。

 

これが、長い人類史だとも言えるのですが、このカラクリに未だに人々は気づいていません。しかしここで、よく考えていただきたいのです。人類には、なにゆえに貧富の格差があるのでしょう。なにゆえに貧富の格差が次の世代にも引き継がれてしまうのでしょう。なにゆえに支配する者と支配されるものがいるのでしょう。なにゆえに富をめぐって武力衝突が起こるのでしょう。

 

その答えは簡単です。分け与えようとしないからです。人間が、互いに奪い取ることばかりを考えて、それをひたすら実践しているからです。ですから、このカルマが何百年、何千年経とうが止まない。でも、分け与えることを第一に考え、人類がこれを実践していったとしたらどうなるでしょう。たちまちにして世界は変わります。餓死の不安は消えて、戦争も無くなって、全世界の人々が、仲良く平和に暮らせる社会が出現します。

 

世界の人口を養えるだけのものは充分にあります。不足も必要もありません。偏りがあるから、不足や必要があるように見えるだけです。世界の富の半分を、わずか1パーセントが所有している。この極端なまでの偏り。その反対側の、今日の食事さえままならない7億人の人々。もしも、使い道なく秘匿されているこれらの富が出回ったら、貧困などはあっという間に無くなることでしょう。

 

いま、世界中で「ベーシック・インカム(Basic Income)」の導入が検討されています。すでに実施している自治体もいくつか出始めています。これは、今までのような社会保障制度のあり方、〈生活困窮者に限って給付金を手渡す〉といった考えを止めてしまって、すべての人々に最初から一律に生活費を支給してしまおうという考え方から成り立っています。

 

これまでの常識であった「労働と賃金」(賃金は労働の対価)という考え方を根底からひっくり返すものであることから、初めて聞く人は、きっと戸惑うことだろうと思います。ですが、この制度のメリットは計り知れません。先ず、生活保護費の給付金対象者を「判定する」といった事務やコストが一切必要なくなります。それに全員に一律ですから、生活保護を受けるという後ろめたさもなくなります。

 

さらに、毎月の生活費がきちんと届くので、将来の生活不安というものがなくなり、貯蓄をする必要もありません。その結果、お金が市中に出回るようになるので、市場経済が活性化します。またすべての職業人が、基本として、生活のためにお金を稼ぐ必要がなくなるので、失業や追い詰めるような成果のプレッシャーからは解放されます。教育費もタダ、医療費もタダが実現できるでしょう。

 

まるで夢のような話に思えるでしょうが、AIインパクトを乗り切るには、この方向しかありません。人間の「仕事」がなくなる時代を、今までのような労使概念(資本家と労働者)の延長で捉えていたのでは、貧富格差のさらなる拡大を飛び越し社会そのものが崩壊してしまいます。しかし「ベーシック・インカム」が実現できれば、AIインパクトを、人類の解放に利用することもできるのです。どっちに行くかで180度違う。人類にとって、これはまさに運命の分かれ道です。

 

富裕層、既存支配層は、当然あれこれと理由をつけては、この一大転換を阻止しようとしてくるでしょう。「ベーシック・インカム」の発想は、〈みんなでシェアする〉という考え方を基点にしています。これは、富裕層がこれまで築き上げて来たスケールを根底から破壊するものになるからです。ところが面白いことに、シリコンバレーの若いIT起業家たちの多くは、この「ベーシック・インカム」に賛成の意向を示しているのです。

 

しかし、ここで再び考えていただきたいのです。空は誰のものでしょうか? 空気は誰のものでしょうか? 水は誰のものでしょうか? 土は誰のものでしょうか? 土地は誰のものでしょうか? 鉱物は誰のものでしょうか? 海は誰のものでしょうか? 海にいる魚たちは誰のものでしょうか? 夜空の星々は誰のものでしょうか? その光は誰のものでしょうか? 宇宙は誰のものでしょうか?

 

誰のものでもありません。みんなに等しく与えられたものです。それなのに、一部の人間たちが、「これは俺のものだ」と勝手に線引きをして、それを認めさせる制度を作り、他者には「分け与えない」ことを正当化、常識化してしまいました。その結果、支配者と被支配者が生まれ、奪い合いと闘争が生じ、貧富格差が拡大し、奴隷的労働が公認され、多くの人々が生活苦にさいなまれるようになったのです。

 

AIインパクトは、人類にとって諸刃の剣です。しかしこの進展をストップさせることは、もはや出来ません。テクノロジーの革新は、今後急速に進みます。ですから、これを、人類の目覚めの千載一隅のチャンスとして用いることが大切になって来ます。

 

人間が不要になるということは、「生産」に関わる人間の数が、今よりもずっと少なくて済むということです。視点を変えれば、今よりもるかに少ない労働コスト、エネルギーコストで、地球人全員に、生活に必要な物資が供給できるようになるのです。さてそこで、「仕事」に対する考え方の大転換が必要になって来ます。遊んで暮らす人を認める、生産しない人を認めるということが。

 

ここに至って、「働く」ことの意味、「仕事」の意味が根本的に変わります。「働く」ことと「稼ぐ」ことがもはやリンクしない。「働く」ことは、自己表現に全面的に変わるということです。今の世間常識からすると奇異な感じに映るかも知れませんが、このブログでは繰り返し言って来たことです。人間は自己表現せずにはいられません。それをすることがその人の「仕事」なのであり、自分を生き生きとした喜びで満たすものであり、生まれて来た目的なのです。

 

ですから、この「働く」ことの意味の転換は、人間の本来のあり方に収まるということになります。どうか今日から、「働く」ことを自己表現の視点で捉え直してみてください。そしてその中で、五感をフルに使うのです。どんな仕事も、クリエイティブでない仕事はありません。料理をする時でも、洗い物をする時でも、掃除をする時でも、人は常にクリエイティブであり続けられます。そして、そう行動できる人が、ハッピーでいられる人なのです。

 

これまで、芸術に生きようとする人は、大多数が苦難を強いられて来ました。生活苦があるので、パトロンに魂を売り渡したり、「先生」に奉りあげられることをよしとする人もいました。それは、非生産的なことは仕事に非ずと見なされて来たからです。ゴッホなどは生前一枚しか絵が売れず、ノイローゼになって耳を切りました。しかし「ベーシック・インカム」が実現されれば、生活苦もなく、将来不安もなく、全員が自分のやりたいことに打ち込めるようになります。

 

芝居をやりたい人は、アルバイトをせずに芝居ができます。音楽を聴かせたい人は、望まれるところどこへでも行って自由に演奏ができます。無農薬野菜を作りたい人は、遊休地を借りて気兼ねなくできます。コスト割れだった林業も復活させられます。サーフィンをし続けたい人は、海辺に引っ越して好きなだけやれます。そうやって、全員が思い切り自己表現をすればよいのです。

 

それで丸く収まるように、宇宙というものは出来ているのです。信じられないでしょう? 信じられないという人は、自然を見てください。自然の中の循環サイクルに眼を凝らしてください。放っておいたら大変なことになる。無秩序で大混乱になる。そう思って、この循環サイクルをいじくりまわし、却ってアンバランスを作り、そのしっぺ返しに遭っているのが今の人間たちなのですよ。

 

いいですか。この大宇宙にムダなものはなに一つないんですよ。あなたという個性は、あなたという個性を役立てるために生まれたのです。梅は桜になろうとはしない。ただ梅を生きるだけ。この言葉を今いちど思い出してください。そして、自分の個性を最大限生かしなさい。誰かのためにとか、役に立とうとか、小賢しいことは考えるな。自分がやりたいことをやれば、それでいいのだよ。

 

だから、己の「魂」の声を聞け。心ではない、そのもっと奥にある「魂」だ。そこにインプットされている。あなたが自分で刻印して来たメッセージが。

 

あなたが、このあなたが、あのあなたが、やりたいことをやれば、それで全部が丸く収まる。そのように宇宙は出来ている。それは同時に、自動的に、宇宙全体に役立つことになっているのだよ。

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