by Rainbow School
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今まで、そしてこれからのこと

自分のことを話すのは気が引けます。ですが、「虹の学校」を始めてからこの4月で8年め。8年といえば《オクターブ》ですので、この機会に、今までのことやこれからのことを書いておこうと思います。

 

昨年、このブログを休止すると宣言しておきながら、今もポロポロと不定期でメッセージを載せたりしていて、何となく再開したような感じになっていますが、再開したわけではありません。あのステージは、やはりあれで終わりです。今はステージが変わって、自分としては「アート」のつもりでやっています。本当は絵を描きたいのですが、その気分がまだ充分に煮詰まっておらず、苦手な文章を駆使して取り組んでいるといった感じです。

 

昨年、休止宣言をしたのは、毎週月曜にメッセージ掲載という義務を自分に課して続けていたところ、「お伝えしたいこと」よりも「義務感」の方が勝って来て苦しくなり、限界を感じたためです。と同時に、定期掲載を義務づけたことで読者も徐々に増えていったのですが、一方で、新たな「依存」を作り出してしまったことに気づかされました。迂闊でした。考えもしませんでした。そこで大いに反省し、この辺で流れを変えるべきだと判断したのです。

 

そうして暫く休んでみると、以前とはまた違った感覚が芽生えて来ました。もう全部語り尽くしたと思っていたのに、「因の科学」については、やり残していたな、という気が復活して来ました。それともう一つは、もっとポエティックな表現をしたいと思ったのです。詳しく語るのもいいのですが、時には短い言葉の方がハートに突き刺さることもあります。そこで、読者のことは考えずに、自分の「アート」表現として、書きたい時に勝手に書くということにしました。

 

その結果、前よりもずっと楽になりました。今は一件の記事を書いてアップするまでにだいたい3日くらい掛かっています。その間、自分の意識を High に持ち上げて、それをずっと維持し続けなければならないのですが、以前ほどは疲れなくなりました。でもやっぱり、始める前には緊張してしまい、「よし、やるぞ」という気分に混じり「イヤだなぁ」という気分が湧いて来ます。

 

書き出す前には、以前と同じように「今このタイミングで、人々にお伝えすると Good なメッセージは何でしょうか?」と尋ねてから始めるのですが、そのあとは、これを言っちゃって果たして理解されるだろうかとか、文章量とか、余計なことは考えずに、もう好き勝手にやっています。ですから「もし興味があれば、どうぞいらっしゃい」といった感じです。

 

インターネット・メディアもこの7年で大きく様変わりし、今は「YouTube 」が主流です。しかし私はそれをする気はありません。「映像」というものは確かに分かりやすいのですが、その分かりやすさがクセモノです。これまでのテレビがそうであったように、インターネットTVもまた、「洗脳」にはうってつけのツールになり得てしまいます。私はそれを望みません。

 

私の使命は、第一にあらゆる「洗脳」の破壊です。

そしてその後に、「あなたは誰か」ということを思い出していただくように、あの手この手を使ってガイドして行くことです。

 

およそ外から来るあらゆるものは「信じ」てはなりません。

「信じ」た瞬間、そのコントロール下に堕ちたということ意味します。

そこに「真の自由」への解放はないのです。

 

あなた方は、「深奥の自分」を頼みとする自分にメタモルフォーゼしなければならないのです。いいえ、それは義務というよりも、そうすることを誓ってみんなこの世に誕生して来たのです。ですから、思い出すだけでよいのです。ありのままでよいのです。そこに、なんの努力もいらないのです。

 

あなた方は、いずれ、その高みに必ず到達します。地上への旅路は片道切符ではありません。みんな帰りの切符を携えたうえで地上に降りて来ています。帰りの切符というのは「死」の意味ではありませんからね。誰もが、いずれ必ずアセンションに至るという意味です。それは保証します。

 

みなさんは、最終的に「旅など必要なかったんだ」と気づくための旅に出て、「最初から救われていたんだ」と気づくために救いを求め、「ガイドなど不要だったんだ」と気づくまでのガイドを、いま私がしているのです。

 

ここを理解してください。あなたがそのことを、頭ではなく、感覚として、全身の細胞として理解する日が来るまで、あなたから「不安」は消えません。「安心」とは、物質的な充足でも、状況的な安定でもなく、「心のあり方」だからです。

 

その領域に到達するまで、あなた方は、自分の外側にある情報を追い求め続けることでしょう。でもその時にも、自分がそれを発見したんだ、このタイミングで天によってそれが自分に手配されたんだ、と考えてください。実際にそうなのですから。これを習い性にしていけば、ちょっとずつ、ちょっとずつ、今までと違う新しい感覚が身に付いていきますから。

 

私が、本名も明かさず、半ば隠れるようにして活動をしているのは、みなさんのその固有の「気づき」を邪魔することがあってはならないと考えるからです。私など、単なるパイプ役。主役はいつだってあなたです。

 

ですから、私という人間になど興味を持たないでください。いつぞや「もっとご自分のことを紹介してくだされば、より親しみが持てるのですが‥‥」というメールを、ある方から頂戴しました。お気持ちはありがたいのですが、自分への親しみを持ってもらいたくてこの活動をしているわけではありません。むしろその部分は徹底的にゼロにしたいのです。

 

ということで、これから書くことは、今のこのタイミングで少し語っておいた方がいいかなと直感したまでのことで、別に方針転換したというわけではありません。聞きようによっては、何か「自分は特別だ」と主張しているかのように受け取られるかも知れませんが、そのようなつもりはありません。それは、これまでの7年間をもってご容赦ください。

 

このことは強調しておきたいのですが、そもそもこの地球上に、「特別な人間」など一人もいないのです。でも、すべての人間が、みなそれぞれ極めてユニークな存在なのです。この違いが解りますか? そのユニークな「魂」の一つであるところの私が、今世の自分の使命として、今この活動をやっているというだけなのです。

 

ですから、あなたにはあなたのアジェンダがあり、使命と役割があるのであり、そこに特別な違いは何もないのです。なぜ、万人がそれぞれみなユニークかと言いますと、何十回、何百回と転生を重ねて来た中で、「魂」がみな違った体験を重ね、それぞれが違った旅路を歩いて来たからです。自然界を見てください。一つとして同じものはないでしょう? 多様性は宇宙の摂理なのです。

 

さて、多くの人と同じように、これまでに私は、いわゆる霊能のある方のアドバイスをその時々で受けて来ました。中には怪しい人もおりましたが、概ね良きアドバイザーに恵まれて来ました。その際、お互いに関連のない複数のチャンネルから、同じことを言われた場合には、その情報の信憑性は高いと判断していました。

 

そうした中で、私は、今まさに自分がしているような、将来の自分の役割について、複数の人から聞かされていました。しかしそれを、長いこと本気にはしていませんでした。その当時は、あまりにも縁遠い話にしか感じなかったからです。また、別の複数の人からは「あなたが誕生した時、天使が嬉しくて舞い踊った」と、これも同じことを言われました。

 

はあ? 天使? まったくワケが解りませんでした。将来の役割については、一人からは「あなたの場合は、困っている人を助けるというよりも、生き方を説く人になる」と言われ、また別の人からは「あなたは、取って置かれた人です」と言われました。「取って置かれた」とはどういう意味でしょう? それに「生き方を説く」だなんて‥‥。

 

処世術は自分の最も苦手とする分野でしたし、もう50代半ばを過ぎていましたし、その時はカミさんが死んだ直後でもあり、そんなものがあれば「こっちの方が聞きたいよ!」とすら思っていました。

 

その時分には、いまこのブログで語っているようなことは何ひとつ知らず、全然無知無知片瞑りだったのです。自分をまるで信頼していませんでしたし、愛してもいませんでした。自分は、社会不適合者のヘナチョコのポンコツオヤジだと思っていました。ですから「天使が舞い踊った」なーんてのは、どうせリップサービスの類のものだろうと思っていました。

 

というのも、私には、いわゆる「霊能」というものがまったく無かったからなのです。冗談で、自分のことを「零能者」だと言っていたくらいです。

 

けれども、霊的世界のことはそれなりに探求していましたので、友人から背中を押されるようにして「虹の学校」を始めました。しかし、いま思うと初期のころはレベルが低く、自分の中にエゴがまだたっぷり残っていました。そんな折、インターネットで S.O.さんの『アセンション 宇宙からのメッセージ』と出会い、魂が揺すぶられるほどの衝撃を受けました。「これは、自分に向けて書かれたメッセージだ!」と受け取ったのです。そして、同じように感じる人がきっともっといるに違いない、と思いました。

 

そこで、S.O.さんにコンタクトを取り、出版を提案したいと思いました。しかし連絡の手段がありません。そこで、テレパシー能力に優れた友人の力を借りて、S.O.さんとコンタクトを取ってもらったのです。応答はすぐに来ました。しかし、そこで返ってきた言葉に、またもや衝撃を受けることになりました。友人の口を借りた S.O.さんが、私にこう言ったのです。「そうしてくださるのは嬉しいですが、それよりも、先ずあなた自身がアセンションすることが先決なのではありませんか?」

 

そして、続けて「あなたがアセンションするかしないかで、意味が違って来ることは、あなたにもお解りでしょう?」と言われたのです。ガーンと頭をブン殴られたような衝撃です。「あなたにもお解りでしょう?」と言われたのですが、実のところ、ぜんぜん解らなかったのです。恥ずかしい、とにかく恥ずかしかった。加えて時を同じくして、前にも書いたように、上から「何をグズグズしている!」と強い口調で叱責されてしまったのです。ああ情けなや。恥ずかしい、恥ずかしい。恥ずかしい×都合4乗。

 

こうなったら、もう腹を括るしかありません。ソフトランディングなんて甘いことを考えてちゃダメなんだと悟り、ハードランディングに切り替え自分を追い込むことにしました。そのために、次の四つのことを自分に課しました。一つめはアルバイト仕事を止めることです。ひと月働いて4万、5万という収入しか得られないのであるなら、いっそのこと止めてしまおうと思いました。「仕事をして収入を得なければならない」という思い込みを、先ず断ち切ったのです。

 

二つめは田舎に引っ越すこと。その時期には、目を閉じるたびに農村の風景が浮かび、これは「田舎へ行け」とのメッセージかなと思い、それに従ったのです。しかしやってみて、すぐに「ああ、なんてバカなことをしたんだろう」と後悔の念に駆られました。山奥の朽ち果てた廃屋で、ひとり裸電球の下でサバ缶を食べていたら、身体がガタガタと震え出し、しばらく忘れていたパニックが蘇って来ましたし。この不安症状を乗り越えるまでには3年ほど掛かりました。

 

三つめは「行」に取り組むことです。私は、勇気がなく、体力も継続力もありませんでしたので、これを何としても克服したいと思っていました。そんな時に、いま『ヨーガクラス』のコーチをしてくださっている Yoko 師匠が出現したのです。彼女が考案したオリジナルのエクササイズを習い、これに熱心に取り組んでいると、体力も継続力もしだいに向上して行きました。ですから、彼女の存在なくして今の私はありません。この出会いは、天から私へのプレゼントだったと思っています。

 

四つめは、生活スタイルを変えることです。私が目指したのは「超人」になることではありません。ごく「ふつう」の人になりたかったのです。「超人」となって空中浮揚ができるようになったところで、せいぜいサーカス団でスターになれるくらいのもの。あ、あと、梯子を使わずに屋根の修理ができたり、ゴンドラを使わずビルのガラス拭きができるかも。でもそれがなんだと言うのでしょう? そう言えば、空中浮揚をウリにした某宗教団体の教祖がいましたっけね。

 

そんなことよりも、「ふつう」であることがどんなに尊いことなのか。幸福なことなのか。逆に難しいことなのか。毎食、自分で料理をして食べること。食べ終わった後の皿洗いや後片づけをきちんとやること。部屋をこまめに掃除すること。乾いた洗濯物をたたむこと。怖がらずに運転ができること。自分が食べる野菜を作ること。草取りを面倒がらずに黙々とすること、等々。こうしたことが、自分にはなかなか出来ませんでした。

 

長いこと、「ふつう」には価値がなく、世の中においては「秀でている」ことが必要だと思い込んでいましたから。でも、それまでの一切合切を捨てて、目標を切り替えました。ゴミ屋敷と化していた東京の家の中を片づけ、不用品や本を処分しました。テレビニュースも新聞も見るのを止めました。生命保険や定期購読は全部解約しました。年賀状を止め、古い友人たちとの付き合いも全部断ち切りました。古い自分を抹殺したのです。そうやって、徐々に「ふつう」のことがこなせるようになって行きました。

 

そうした取り組みを継続していったところ、ちょっとずつ宇宙からのメッセージを受け取る感覚が芽生えて行きました。そして気がつくと、あれまぁ、いつの間にか「生き方」を語っていたというわけです。「生き方を説く人になる」とは、処世術のことではなくて、真の自分発見への道、宇宙の真理探求へのプロセスのことだったんですねぇ。それが解りかけた時、すっかり忘れていた、自分が確か7歳か8歳のころに経験したある強烈な想いが甦って来ました。それは、

 

将来、自分は、人々に感動を与える人間になるんだ。

あっちとこっちをつなぐ虹の架け橋になるんだ。

 

というものでした。そして、いくつかの過去世の断片を思い出し、そのルーツが別の星にあるらしいことも分かって来ました。そしてある日、明晰夢の中で、その星にいた時の自分の名前を告げられました。それが Ota Yoto です。本当は一語で Otayoto なのですが、人名っぽく聞こえるかなと思って間を区切ったのです。でも、ハッキリ言ってピンと来ないし今もって馴染む感じがしません。そのうち、これは自分の名ではなくて、「バーソロミュー」と同じようなメッセージ・ソースの名前なのかな?と思うようになりました。

 

まあ、自分にとっては、名前も過去世もルーツも、もはやどうだってよいのです。わたしはわたし。今を生きる、のみです。

 

何事も、経験に裏打ちされた言葉以外は説得力を有しないと思っています。その意味で、私(という媒体)を通じた言葉が、もし説得力を持つとすれば、霊能もなく、無知な、社会不適合者のヘナチョコオヤジであっても、本気を出せば「アセンション」できるのだ、ということです。このブログを通じて、その経過と実例を示しました。ですから、あなたも、必ずや「アセンション」できる。それを願えば、乞い願い続ければ。‥‥必ず。

 

私の、これまでの霊的探求の道は、「こうするといいよ」と示されたことが殆どなく、「そのやり方はよくないね」という体験を学び続けて来た歴史でした。もしかすると、「こうするといいよ」という啓示はあったのに、自分が見逃していたのかも知れません。いや、そうではなく、「そのやり方はよくないね」という気づきが、結果として「こうするといいよ」というアドバイスになっていた、という高度なテクニックが使われていたのかも知れません。

 

私が最初に学習したのは「宗教」でした。「宗教」じゃダメだ、と気づくまでに15年ほど掛かりました。「宗教」のどこがいけないかと言いますと、先ず、自分で考えたり、自分の「直感」を信じる力を奪い取って、一つの偏向した教義に人を隷属させてしまう点です。加えて、信じる対象が、自分の内にではなく外(本尊、教祖、教義、教団、聖典)にあると思わせることで、見せかけの安心を与えていること。

 

しかしそれは、本当の安心ではありません。対象が失われたら、たちまちにして消えてしまうが如きものです。でも、それが却って、「依存」という強い求心力を維持し続ける構造になっているのです。

 

次に向かったのは精神世界でした。しかしその世界は(あえて「スピリチュアル業界」と呼ぶことにいたしますが)、「宗教」よりもさらにひどい世界でした。そこは、「エゴ」が「スピリチュアル」というファッションを着てのし歩いている世界だったのです。それはファッションですから、とにかくトレンドや、ブランドや、見た目の派手さばかりがもてはやされる。

 

でも一皮めくって見れば、本質は「エゴ」そのもので、純粋さや、誠実さや、素直さがまったく通用しない。他人を利用したり、支配したり、蹴落とすことばかり考えている人間たちの集まりでした。「スピリチュアル」という言葉そのものには何の罪もないのですが、私はすっかり嫌気が差し、もう「ス」と聞いただけで、コメカミ辺りが「ピリッ!」となるほど、「スピリチュアル」という言葉も業界も嫌いになってしまいました。ですから、今の業界動向というものをまったく知りません。

 

その時に学んだことは、スターを創ってはダメだということです。自分をスターにしてもいけないし、誰かをスターに仕立て上げてもいけない。スターを創ってしまったら、その人に対する憧れや、より近づきたい、自分だけ寵愛されたいという思いを育てます。それが、序列やヒエラルキーや派閥を生み、真のスピリチュアリティとは真逆の暗闘世界を作り出すのです。


セミナーに来られた人の中で、私のことを「先生」と呼ぶ人がたまにおられるのですが、「虹の学校」ではその言葉は禁句です。世間でよく見られるこの悪弊を真似するのは止しましょう。目の前の人間を「先生」と呼んだら、その瞬間から、その人は「生徒」になっちゃいますよ。そして次には、「先生」と呼ばれた人は「先生」を演じるようになり、呼んだ方は「生徒」を演じるようになってしまいます。どちらも、自分を檻に入れた道を歩くのです。

 

それと「スピリチュアル業界」は、そこに足を踏み入れる人たちを、独特の世界に引き摺り込みます。そもそも精神世界に興味を持つような人は、(私もそうでしたが)自分は現実社会にうまく適合できていないという思いを抱えている人が多い。そこに「不思議世界」が提示されると、こっちの方が本当だと思うようになるのです。

 

さて、ここからが分かれ目。それは、確かに霊的世界への目覚めの第一歩ではあるのですが、社会適合がうまくできないというコンプレックスを解消できないままそっち側にのめり込んで行くと、これが「選民意識」に化けてしまうのです。なぜかと言うと、不思議世界と自己承認欲求とを単純にカップリングしてしまうために、その世界を知る「自分は特別」という思いを育ててしまうのです。そしてついには、「選民意識」を持つ者同士の醜い競争が起こるのです。

 

ここで考えてみなければならないのは「社会適合化」という問題です。今のこの腐った社会に、適合する必要が果たしてあるのか?ということです。その必要はありません。むしろ「適合化」を強いられることで、多くの人たちが苦しんでいます。しかし、現実世界は腐った面ばかりではなく、それと同じくらい喜びを感じる場面もあるのです。「スピリチュアル」に逃げ込む人たちというのは、その場面すら怖がって拒絶している人たちが実に多い。これではいけません。

 

いったい何のために物質世界に誕生して来たのか。陰陽二極性が相争うこの地球にわざわざ誕生して来たのか。それが嫌だったら、ずっと霊界にいればよかったのです。でも転生して来たからには、「よし、今度こそは」と決意して生まれて来たわけでしょう? その誓いを忘れてはなりません。

 

確かに、現実世界にはひどいことが多い。でも、ひどい社会だからこそ学べることも多いのです。筋トレに負荷が必要なのと同じで、霊トレにも負荷が必要なのです。それなのに、苦しいエクササイズを放棄して、逃げ込んだ「スピリチュアル・ワールド」をもひどい世界に変えて、一体それでどうするんですか? 本末転倒も甚だしいと言わねばなりません。

 

「スピリチュアル業界」のおぞましさというのは、これだけじゃない。今のような時代の転換期や年号の節目になると、必ず変なことを言い出す人が登場します。「○年○月までに××しないと、救われる最後の機会を失うぞ」とか、「大地震が来るぞ、火山が噴火するぞ」などと言っては人々を脅します。地球に暮らす人間は、こっちからあっち側を見ようとするクセが、どうしても抜けないものですから、このような不安を煽る言葉にはすぐに反応してしまいます。

 

でもいいですか? あっち側の本当の世界は「無時間」の世界なんですよ。それなのに、どうして制限時間を設けるんですか? 「ハイヤーセルフ」って何です? すでに完成の域に達している自分じゃないですか。未来のどこかにゴールした自分がいるんですよ。全部の「魂」が等しく「神」の子なのに、どうして「救われない」なんてことが起こり得るんですか。「脅し」に引っ掛かるなんて、あまりにもバカげています。宇宙の本質は生々流転です。地震や火山噴火が起きるのは当たり前じゃないですか。

 

浮遊霊や動物霊の手下となって働いている人は、8割、9割、本当のことを言って、あとの1割、2割で引っ掛けて来ますからね、ご用心。『引き寄せの法則』なんてのはその典型。同じ波長が引き合うというのは本当です。でも、このテクニックを使えば、お金だって、仕事だって、恋人だって、何でも引き寄せられますよって、人間のエゴを刺激しているのが解りませんか?

 

高次元の存在が、エゴを刺激したり、恐怖を煽ったりすることは絶対にありません。なぜって、その領域を卒業した「意識体」が、高次元(第六霊性密度)の存在なのですからね。でもそのような、人々を惑わすようなことを言う人たちも、その段階にある学習者たちには大いに寄与しているわけです。これぞ、まさに『引き寄せの法則』。需要と供給とがガッチリ噛み合っているわけです。

 

「神」は、あなたに、いつもあなた専用のスペシャルな「生け花」を生けて見せてくれています。その「生け花」をどう見るかはあなた次第。気づかずに通り過ぎることもできます。「あ、花だ」と、目を留めることもできます。「キレイだなぁ」としばし見とれて心を癒やすこともできます。ジーッと見た花の奥に、生命の神秘と輝きを見い出すこともできます。かと思えば、今まさに見せてくれている美を見ずに、枯れる日が来ることを心配して眺めることもできるのです。

 

あなたが見る「現実」は、あなたが「創る」のです。

さて、どう創る?

 

これまで見て来たことは、結局、全部が自己の解放を妨げ、「わが内に神がいる」という発見を阻害する要因になって来たのです。その真実に気づくまで、実に50年を要しました。これじゃダメ、これもダメ、この道もダメ、ダメ、ダメ、ダメ、というダメ出しの連続です。今になって思えば、それはみんな、今ある私のために用意されたギフトだったんですね。

 

さあ、それを、今度はみなさんにプレゼントです。みなさんは、もう私と同じ50年を過ごす必要はありません。10分で通り過ぎればいい。真理はすでに明らかです。

 

わたしの本質は身体ではなく、心奥にある「真我」であること。

そしてその「真我」は、有限ではなく無限の存在であって、

いつも宇宙とつながっているということ。

ゆえに、わたしの中に、つねに「神」が存在している、ということ。

 

エゴ、宗教、オカルトは、「アセンション」への三大阻害要因です。これらの誘惑に引っ掛からないように気をつけて、自分を信じて、熱心に行を続けていれば、7年のうちに必ず「アセンション」できます。今度のコロナ騒動で、私はそれを確信しました。もの凄い追い風の到来です。

 

ショック・ドクトリン(The Shock Doctrine)」は、何も悪いことの便乗だけではないのです。「コロナ騒動」があったおかげで、人々の意識が大きく変わる可能性が出て参りました。この騒動が、本当に大切なものは何か、生きるとはどういうことか、を根底から考え直させるきっかけを与えてくれています。「アセンション」というものが、どこかの風変わりなオッサンが一人、トンデモ話を一生懸命になって吠えている、だけのものでは無くなる可能性があります。

 

私は「虹の学校」の活動を通じて、隠れたダイヤモンドの原石を発見し、自分が死ぬまでに、12人の「アセンション」達成者を生み出そうという目標を立てていました。しかしそれを今、10倍の120人のオーダーに変えようと思っています。そうすれば、次の世代には、120×120で14400人になる。今度の「コロナ騒動」が、それを後押ししているような気がするのです。

 

昨年から、来年度は変化の時だ、という予感がしていました。東京での人材発掘を終了して、これからは外に出て行こうと思っていました。(昨年65歳の誕生日を迎え、年金額が少し上がり、年間収入が127万円になりました。これで、年に3回くらいは、どうやら外出できそうな感じです!)その最初が1月の大阪だったのですが、今度の「コロナ騒動」で、あとが続かなくなってしまいました。

 

また昨年は、3泊4日の合宿形式で「アセンション・クラス」を都合4回開講してみたのですが、参加者には好評だったものの、定員割れが生じたりして、このやり方もイマイチだなと感じました。その際に、毎回、同じ話をするのなら、いっそのことビデオテキストを作った方がいいのかなと考えていました。そこへ今度の「コロナ騒動」が起き、Zoomというテレビ会議システムが脚光を浴びていることを知って、これを使えばインターネット上で『瞑想クラブ』が出来るかも?と考えました。

 

そのためには、スペックの強力なノートパソコンと、映像編集ソフト、ほか機材が必要です。購入費用については分割でなんとかなりそうなのですが、問題は10年間、あえて最新テクノロジーを拒絶して来たので、完全な浦島太郎状態であること。それと、一昨年から視力が急激に低下し、細かい文字で書かれたマニュアルがまったく読めない。近視に老眼に乱視に飛蚊症に白内障にドライアイにアレルギーも加わって、天眼鏡を使ってもよく見えない! さて、どうしたらいい?

 

それと、オープンではなくて、クローズドの仕組みにしたいんですね。不特定多数の人に顔を晒すことなんてとても耐えられない。拡散なんか望みません。むしろひっそりしていたいんです。大勢じゃなくていい。「なにがなんでもアセンションしてやるぞ」という真剣さを持った人だけ訪れてくれればいいんです。

 

「虹の学校」では、セミナーに来た人にはニックネームのプレートを付けてもらうだけで、どこの誰かといったことは一切尋ねません。「魂」だけを見る。その人の「魂」が、どの学習段階にあって、今の心の状態はどうであるかということは、部屋に入って来られた瞬間に分かります。いちいち指摘したりはしませんけれど。ですから、私の前で嘘はつけません。嘘をつけばすぐに分かってしまいます。その場の波動が一瞬にしてサッと変わるから。

 

これは、訓練によって後から身についたもので、「アセンション」すれば、誰でもそうなります。ごくたまにですが、最初から私に疑いの眼差しを向けて来たり、こいつの実力を一つ試してやろうとか、ノウハウを盗んでやろうとやって来られる方もいらっしゃいます。それらも全部分かります。年に2・3人は、私を激しく罵倒する人が現れます。それも事前に分かります。波動が分かるって、なかなかシンドイものなんですよ〜。

 

何でも見通してしまう人間は、もしかしたら怖いと思われるかも知れませんが、でも大丈夫。防御姿勢のバリアを張っていると、直ちにそれがキャッチされ、その穴から理由までが透けて見えます。ところが、オープン・ハートで来られる人は、それ以上は見えないんです。オープン・ハートのエネルギーで全身が包まれているから。北風よりも太陽。素直で、明るく、純粋であること以上に強いものはないんです。

 

オカルティックな知識満載の人や、サイキック体験への興味津々の方も、ご遠慮願いたいです。「虹の学校」はそういうところじゃないですから、来てもすぐに幻滅されると思います。

 

「虹の学校」は「ふつう」で「ありのまま」を目指したいんです。そうすると、メンバーシップの形態を取らないといけなくなるかも知れませんね。これらをどうしたらいいのか。映像面をその道のプロにお願いしたら費用が発生するでしょうから、そうなれば、メンバーシップ制に多少の課金も必要になって来るかも知れません。何かよい案やアドバイスがあれば、教えていただきたいです。

 

もし自分が神ならば、残る期間、この男をどのように使えばよいだろうか、といつも考えています。まだ、使い道は残っているだろうかとも考えます。もし気功治療をやらせれば、かなりの実力を発揮するでしょう。でもそれは、私でなくてもできる人がいる。リトリートや個人カウンセリングも、できなくはないでしょう。でもそれは、私には向いていない。となると、やっぱり「科学」と「美」と、その中間の「アート」を通じて語るのが、いちばん向いているのかな?

 

「虹の架け橋になりた〜い」と誓ったあの日の熱情が続く限り、そしてまだ使い道が残っている限り、宇宙の真理を説く活動を、私は続けて行きたいです。

生きぬくことと、個人的な試練

この世に生を受けて、みなさんが第一に為すべきワークは「生き残り」です。これは人間に限らず、すべての生物は「生き残り」を賭けて活動をしているのです。しかし人間の場合には、この他の重要な目的があります。それは、生きぬくことによって、地上での「体験」を精一杯することです。もし「体験」が無ければ、「魂」が、わざわざこの不自由極まりない地上に降りて来る意味がありません。

 

あなた方がする「体験」は、あなた個人のものというだけではなく、「神」の手足の体験でもあるのです。そこを、先ずはしっかりと認識してください。「神」は、あなた方を通して地上世界を体験しているのです。ですから、あなた方は、一人ひとりが「神」のセンサーです。そのようにして、「神」は自分自身の新たな一面を「体験」することで、よりバージョンアップしようとしているのです。

 

ですから、先ずは、何としても「生きぬく」ことが求められます。「生きぬく」過程を通じてこそ、地上でしか味わえない、喜びや、悲しみや、この世の不条理や、試練をたっぷり体験し、「魂」であるところの自己を成長させることが出来るのです。その幸福を感じ取ってください。あなたの目に映るもの、すべてはギフトです。試練に遭えば遭うほど、あなたという「魂」は強く鍛えられるのです。

 

さてそこで、地球のアセンションの意味を考えてみましょう。どうして今年から、世界的規模での災禍が、ほぼ同時に始まったのでしょう? もちろんそこには、人類のカルマの清算という問題があります。しかし同時に、およそ2万6000年ごとに訪れる、この滅多にない機会を体験するために誕生して来た「魂」たちに、天が大きく飛躍するための「試練」をギフトしている、とも言えるのです。

 

*およそ2万6000年:これは地球の歳差運動の周差に関連があると見られる。

 

「かわいい子には旅をさせろ」です。裕福な家に生まれ、何の苦労もせずに育ったお坊ちゃんよりも、貧乏な家庭に生まれて、艱難辛苦を経験して来た人の方がずっと学びが多い。この、人類全体への「試練」は、人類全体を愛するがゆえの、「神」からのプレゼントであることを知ってください。ですから、降りかかる災禍を怯えて過ごすのか、ギフトと捉えるのかで、今後のみなさんの生き方は大きく違って来ます。

 

あなたにとって、一番の「試練」とは何でしょうか? おそらく、死ぬかも知れないような体験をすることでしょう。しかし、「死」そのものは「試練」ではありません。これを混同しないように。「死ぬかも知れないような体験をすること」は、なるほど大きな「試練」ですが、「死」それ自体はごく普通のことです。回転ドアを向こう側へ抜けることでしかありません。ここに、「生きぬく」ことの意味がある。つまり、どのように「生きぬく」のか、という点です。

 

兵隊として戦場に駆り出され、殺すか殺されるか、という瞬間に出遭ったとしましょう。例えば、草むらを匍匐前進していて、大丈夫かな?と立ち上がって見たら、すぐ目の前に敵兵がいて二人同時に相手に気づいた、というような瞬間です。さて、どうする⁈ 今の私なら、躊躇なく殺される方を選びます。それは、その瞬間の、〈死ぬかも知れないような体験〉に際しての、自分の「生き方」の選択なのです。

 

では、この度のことに限らず、今後「試練」を目の前にした時、あなたという個別の「魂」は、どのような「生き方」を選択して行けばよいのでしょうか?

 

このアジェンダ(Agenda:実行に移されるべきことがら)は、決して全員に共通したものではありません。今度のような社会全体を揺るがすような大事件が発生した場合、社会は、世間は、政治は、全員に共通の行動を取らせようとします。しかし、ただその言いなりになって巻き込まれてしまいますと、「魂」としての自己固有のアジェンダを見失ってしまいます。それでは何のために転生して来たかが分かりません。

 

大小含めて、事件や事故や厄災に遭遇した時には、その「体験」を、自分としてはどのように受けとめて、理解するかが大切なのです。いつも言っているように「行為」が重要なのではありません。外にあるものはみな、単なるスクリーンなのです。その「行為」に付随した、「思念」や「意識のあり方」こそが重要なのです。それが、あなたという「魂」の、霊的な成長度合いを決定づけるのです。

 

あなたという存在は、小宇宙(Microcosm)に喩えられます。これは大宇宙(Macrocosm)のミニチュア版と言ってもよく、両者は相似形を成しています。そこで、大宇宙を「神」と呼ぶのだとすれば、あなたも小さい「神」、少なくとも「神」の一部である、と言えるのです。ただ、全部の「魂」に個性を持たせた結果、全員に、各々異なった「歪み」がちょとずつ生じている。けれども、底部にある本質(真我→神我)は、みな同じなのです。

 

では、なぜ「神」は、全部の「魂」を、自身の完全なる相似形として創らなかったのでしょうか?

 

この理由は、直ぐにお解りでしょう。

全部が同じでは、軋轢も共感も生じ得ないからです。よって「神」ご自身からすれば、新しい体験が生まれよう筈がありません。自身をバージンアップ出来ません。そこで、各々の「魂」に、個性と自由が与えられているのです。

しかし、どの「魂」であっても、みんな愛すべきかわいい我が子であることには変わりがなのです。

 

宇宙の真髄は振動するエネルギー体です。大宇宙というのは、物質的世界も非物質的世界も含め、全体がバイブレーションの階層から成り立っています。たった一つの素が、ただ振動数が違うというだけで、あらゆるものを創りだしているのです。実に驚くべきことです! そして、振動数の低い、つまり密度の低い帯域から、振動数の高い、つまり密度の高い帯域までが、指数関数的にグラデーション状に連続しています。

 

*指数関数的;等間隔による階段状の上下(算術級数的)ではなく、べき乗の関係で大きくなったり小さくなったりするような関係。→『Powers of Ten』を参照

 

この帯域の違いは、便宜的に7つに分けられ、各階層にはシンボルカラーとして「虹の七色」が当てられています。これは単にそのように色が振られているというわけではなく、後で詳しく述べますが、各色が象徴しているテーマを、それぞれの帯域が担っているのです。また7階層の内側はさらに7つに分けられ、これで全体が7×7の49階層となっています。この全体構造を『オクターブの法則』と言っています。

 

*49階層:厳密には、この下位にもさらに7分類が為され、これが延々と続くわけですが、そこまで行くと差があまり認識できないため、49階層で留め置いている。

 

オクトはラテン語で8の意味です。みなさんがよく知っている「オクターブ」と言えば、音楽用語の7音階だと思いますが、どうして7音階なのに、8のオクトの名前が付けられているのでしょうか? 7音階は、ドレミファソラシ・ドで一つ上の帯域に上がるでしょう。つまり8番目でジャンプする。そこで、これを『オクターブの法則』と呼ぶのです。

 

さてそこで、ピアノの鍵盤を思い描いてください。ミ→ファとシ→ドだけは黒鍵がなく半音階であることにお気づきでしょう。ゲオルギイ・グルジエフはこれを「ショック」と読んだのですが、ミ→ファ(つまり第3→第4霊性密度)は、物質界から非物質界への移行に当たり、シ→ド(つまり第7→第8霊性密度)は、この宇宙から、あっち側の宇宙(こっちから見ると「無」)への移行に当たるのです。この二箇所だけには、振動状態において大きな変化があるのです。

 

いま言った全体構造は、驚くなかれ、そっくり人間にも当てはまるのです。人体が小宇宙と呼ばれている所以です。またそれは、あなたが、紛れもなく「神」の分身であることを表しています。あなたという個別の存在は、宇宙に普通にある元素を組み合わせて拵えた泥人形に、神の生命の息吹が吹き込まれて誕生したものなのです。そして、大宇宙の7つの階層構造は、そっくりあなたの身体に反映されているのです。

 

それが、いわゆる「チャクラ」です。「チャクラ」というのは、アストラル体(第4霊性密度の体)上にあるエネルギーセンターのことで、あなたに、宇宙の各階層が担うエネルギーを供給する中継所となっています。一方で「チャクラ」は、カルマの種子を宿した場所でもあります。そのため各人の「チャクラ」は、大宇宙の構造を映したものではあるのですが、完全なバランスが取れておらず、その人のカルマに応じた特有の「歪み」を持っているのです。

 

*アストラル体上にあるエネルギーセンター:その上位のカラーナ体(第5霊性密度の体)にも別のチャクラがあると言われている。私には(今のところ)知覚できないのですが。またセンターは「中枢」と訳されることが多い。

 

物質的身体(肉体)は、このアストラル体の鋳型の中に、両親のDNAからその「魂」の歪みに応じた組み合わせを選んで、自己形成を図ります。その結果、あなたの「身体」にも、生まれながらにして「チャクラ」に応じた歪みがあり、これがその人固有の身体的特徴や、強いところ弱いところの傾向、先天的な病気や疾患、特有の心グセ、知力、才能、霊的資質などを表すのです。したがって、今のあなたは、自分が計画して作った乗り物に乗っかっているというわけです。

 

ですから、自分の容姿を嘆いたり、両親のことを恨んではいけませんぞ。

 

この「チャクラ」には7箇所説と、12箇所説があり、身体上に重なってあるとする場所にも諸説があります。しかし、「虹の学校」としては、宇宙の構造把握は出来るだけシンプルでありたいということと、これまでの実験や経験から、身体上に重なって7箇所、それ以外に5つのエネルギーセンターがあるという結論に(今のところ)落ち着いています。

 

諸説ある中でも、身体上の7箇所についてはほぼ見解が統一されていて、脊髄の尾骶部から脳の中枢に至る線上に(アストラル体上ではこれを「スシュムナー管」と呼ぶ)、朝顔状に開いた形で「スシュムナー管」にくっ付いた状態であるとされます。この7箇所に応じた身体上の部位には、それぞれ特有の内分泌器官や神経叢があって、アストラル体上の「チャクラ」の歪みを、内分泌器官や神経叢の歪みとして反映させるのです。

 

*7箇所については、瞑想と呼吸法を組み合わせた集中によって、凡その位置を掴むことが可能です。

 

あなたを、この世に生かし続けてくれているエネルギー源、一般にはそれは「食物」だと信じられているのですが、そうではありません。「食物」エネルギーは、細胞を作る素材を提供したり筋肉組織を燃焼させたりなどの限定的な働きを担っているに過ぎず、生命活動を維持させている主体は、地上の機器では観測できない「宇宙エネルギー」です。この宇宙エネルギーは、西洋ではエーテル、インドではプラーナ、中国では気と呼ばれて来ました。

 

*厳密な定義を言えば、ちょっとずつ違うのかも知れませんが、細かいことにこだわっても仕方がないので。要は、昔から人類が共通に認めて来たということです。

 

ところが、「チャクラ」に歪みがあると、この「宇宙エネルギー」の取り込みがスムースに行われません。あるチャクラでは過剰、またあるチャクラではエネルギー不足になったり、エネルギーの鬱滞が生じたりします。これが、その人の心身に不調をもたらす原因となっているのです。そこで、この「チャクラ」の状態を改善し、なんとかバランスが取れた状態にしたいわけです。

 

そのための方策が、カルマの解消であったり、エゴやこだわりを捨てるということであったり、呼吸法や体操に取り組むことであったり、いわゆる「浄化」というプロセスになるのです。ですから、「アセンション」というものを「チャクラ」の面から捉えれば、「チャクラ」を浄化し、歪みを取って、バランスを回復させることだとも言えるわけです。完璧にバランスされた「チャクラ」、それは大宇宙と同じ、すなわち「神」と同じ状態の実現であるわけですから。

 

では、順番に見て行きましょう。各「チャクラ」の名称が覚えられない人は、下から1番、2番と数えて行き‥‥、最後を7番としても結構です。

 

 

先ず、いちばん下にある会陰部を入り口とする1番チャクラを「ムラダーラ」と言います。シンボルカラーは「赤」で、このチャクラは「物質界に生かされる」というテーマを持っています。大宇宙とは物質界の基本元素である地水火風と対応しており、それゆえ大宇宙的には「物質界の誕生」、小宇宙的には、冒頭で申し上げた「生きぬく力」というものが、この「ムラダーラ」の強弱の差に顕れるのです。ここが先ずは土台だということです。

 

次に、一つ上がった2番チャクラであるところの「スワディスターナ」は、身体上では「性腺」の部位に相当します。大宇宙的には、物質界誕生後の「生命の芽生え」を担当しており、小宇宙的には「性腺」に対応していることからも解るように、主として性的な「情動のコントロール」や「個人のアイデンティティ」(誕生から一歩進んで、性差や個としてのアイデンティティを持つ)というテーマを持っています。シンボルカラーは橙色です。

 

3番めの「マニピューラ」は腹部の太陽神経叢に対応したチャクラで、東洋医学で言うところの丹田に相当します。シンボルカラーは黄色です。大宇宙的には「自己意識の成長」を担っており、ここから(つまり「第3霊性密度」から)陰陽の二極性が開始されます。人間の主たる活動の場と、それに対応した意識は、この「第3霊性密度」に依拠しており、そのことから、小宇宙的には「人格を磨き、社会的な関係を築くこと」がテーマとなっています。

 

これは、言い換えますと「自我」に気づくということです。「自我」はふつう、先ずは「自己愛」に向かいます。すると、「自己愛の中で社会的な関係を築こう」と精を出すことになりますので、必然的に「エゴの行使」という方向に向かうのです。しかしそれは、「魂」の正常な発達プロセスだとも言えます。むしろ現代人が抱えた問題は、「自己愛」が築けないでままで育つ人が大勢いるということです。また、このチャクラは、喜怒哀楽の感情を担当しています。

 

4番めの「アナハタ」は、身体上では「胸腺」の部位に当たり、シンボルカラーは緑です。このチャクラは、7つあるチャクラのちょうど中間に当たります。このことから解るように、「アナハタ」は上の3つと下の3つのチャクラをブリッジする役割を果たしています。大宇宙的にも「第4霊性密度」は「半霊半物質界」という中間領域に当たり、ここでのテーマをそのまま「アナハタ」に映し出しています。そのテーマとは「愛の完成」です。

 

この領域では、上下方向をブリッジするだけではなく、「第3霊性密度」から始まった横方向の二極性を統合するというテーマがあるのです。すなわち、自己愛と他者愛は、結局は同じものだと気づくことです。このチャクラのバランスが達成されると、その人は、愛と許しと慈しみの人へと変身して行きます。「アナハタ」が、別名「ハートチャクラ」と言われる所以です。

 

しかしそれまでは、人は、愛と憎しみ、正義と悪との闘争を、飽きるまで繰り返すのです。今日までの世界はまさにその歴史。人類は、全体としては、なかなかその段階を超えらず今に至っています。というのも、この「第4霊性密度」の帯域は、別名「とらわれ領域」とも言われ(昔は「地獄」と言われたところ)、凝り固まった主義主張を捨てきれない「意識体」が跳梁跋扈し、その波動に同調してくる地上の人間を操っているためです。

 

でも、どうにかこうにか、そこを乗り越えて「愛の完成」を果たしますと、その「魂」はいよいよ高次の自我との交信段階へと進みます。物質界を離れて「第5霊性密度」の意識、すなわち霊的意識に目覚めるのです。

 

この5番めのエネルギーセンターに相当するのが「ヴィシュダー」です。身体上では喉の位置に当たります。ここには内分泌器官の甲状腺と副甲状腺があります。喉という部位から推察されるように、「ヴィシュダー」は、自分の意志を声に出す、すなわち自己表現と関係しています。このチャクラに難のある人は、話し下手であったり、皮膚(表現を象徴)に問題を抱えていることが多いです。

 

対応する「第5霊性密度」のテーマは「本当の智への気づき」で、宇宙には、地上の論理や地上の科学を超越した「真理」が存在することに気づくということです。ですから、あなたが地上で味わう体験を、宇宙的な観点から見つめ直し、自分の考えにして発信するという課題を、このチャクラは持っています。シンボルカラーは青です。

 

6番めのチャクラは「アジナー」で、眉間にあり、深部が松果体および視床下部と繋がっています。仏像の眉間にある宝石は、このチャクラが覚醒したことを表現しています。対応する大宇宙のテーマは「真我への合一」。小宇宙では「本当の智恵に目覚める」ことが課題です。このチャクラが目覚めますと、サイキックな能力が出て来るようになり、宇宙から、本当の智恵、真実の智恵を受け取ることが出来るようになります。シンボルカラーは紺色です。

 

そして最上部、7番めに位置するのが「サハスラーラ」です。このチャクラは頭頂部に開いており、深部は脳下垂体と繋がっています。「サハスラーラ」は、天上から陽極性のエネルギーを受け取る際の入り口となっており、またその他のチャクラを統合する役割も果たしていることから、別名「クラウンチャクラ」とも呼ばれます。この部位に対応した大宇宙のテーマは「無限神聖に到達すること」です。小宇宙的には、いわゆる「霊的覚醒を得る」ことになります。

 

「サハスラーラ」が整い、目覚めますと、あらゆることが許せるようになります。また、宇宙の成り立ちや、悠久や、普遍的な愛や、神聖なエネルギーが、すべて鮮やかで生き生きと実感されるようになるので、深く静かな感動と、感謝の念の中に生きられるようになります。と同時に、人々を助けたり、普遍的な愛を提供する活動を行うようになって行きます。シンボルカラーは紫です。

 

以上、見てきましたように、大宇宙の階層構造と、小宇宙(人体)のチャクラとは、完全な相似形を為しています。ですから、あなたの身体的特徴や、強いところ弱いところの傾向、先天的な病気や疾患、特有の心グセ、知力、才能、霊的資質などをていねいに振り返ってみますと、あなたという「魂」の、今世におけるアジェンダが判るのです。

 

ですが、残念なことに、人々はそんなことを気にも留めていません。無智なるがゆえです。たとえ「悩み」があったとしても、いま言ったような観点から捉えてみた経験がないのです。それが、人類の覚醒が遅れている最大の理由です。何度転生して来ても、設定して来たアジェンダを忘れ、「第4霊性密度」のエアポケットに捕まって、魑魅魍魎に操られ、エゴに埋没したまま抜けられない人生を送るのです。

 

しかし、今後あなたがたを襲うことになる「試練」は、その新しい視点に気づくチャンスです。負荷を与えなければ筋肉が鍛えられないのと一緒です。いま一度、周囲に展開されるものはみなスクリーンだということを思い起こしてください。世間には、よく「あなたのチャクラを開いてあげる」とか「カルマをとってあげる」というような人がおられるのですが、そのようなことは出来ません。あなたのアジェンダを、他の人に肩代わりしてもらうことは出来ないのです。

 

あなたはあなたです。

 

「試練」を体験する時、その「試練」を体験する過程で最初に動いた感情を先ず落ち着かせてから、次に、いま述べた7つのチャクラの観点から、その体験を捉え直してみてください。そして、ストロング・ポイントとウィーク・ポイントを導き出し、今世の自分のアジェンダを探ってください。そうすれば、どんな「試練」も「魂」を成長させる道具として使えるのです。必ず、あなたにドンピシャリの発見がもたらされます。

 

今世、私の妻だった「魂」は、自分が癌になった時、「病気になるのは悪いことばかりじゃない」「病気になって初めて解った」と言って、(その中身については言いませんでしたが)10カ月後に逝きました。彼女は、その死にゆく体験を、大いなるジャンプの機会に変えたのです。人は、たとえどんな状況にあろうとも、すべての体験を、己を成長させるツールに変えることが出来ます。その「神秘のメソッド」の奥にある、宇宙の深い愛を感じ取ってください。

 

では、元気に行ってらっしゃい。

次のワクワクする体験をするために。

そうして、大いなる一者のバージョンアップに寄与するために。

神は、超えられない試練は与えない

人類の、「次の世界」を産み出すための、陣痛の時代が始まりました。何もかもがひっくり返るので、大方のものがそっくりひっくり返るまでには、たぶん一世代分くらいの時間を要することでしょう。けれども、宇宙の悠久からみれば、それは瞬きをするほどの間でしかないのです。まさに、座布団をクルッとひっくり返すようにして世界が生まれ変わる。今まで、そこに胡坐をかいて載っかっていたものは、みーんな振り落とされるのです。

 

今度のCOVID-19騒動において、それが自然界に由来するウイルスなのか、人工的に作られたものなのか、震源地は中国の研究所なのか、それともディープ・ステートの工作によるものなのか、といった話がネット上を飛び交っています。しかし、そこをあまり深追いしても仕方がありません。すでに起きたことですし、どうであれ、厄災は起きる時には起きるものだからです。今は、どのように対処し、そこから何を読み取り、次につなげて行くかを模索する時です。

 

ある病院関係者から、マスクを自分たちで手づくりしているという話を聞きました。まるで野戦病院のようだなと思いましたが、本当に、これは形を変えた世界大戦なのかも知れません。マスク一つが、世界を激震させているのですからね。物の製造は全部中国に任せればいいと言って、国内製造業を壊滅させて来たツケがいま回っている。世界中で、わずか3カ月で、ものの見事にグローバル経済システム脆さが露呈してしまいました。

 

この期に及んで、まだ株だ、金だ、国家だ、宗教だと言っている人は、時代環境変化に対するセンスがなさ過ぎです。

もう元には戻らないのです! 

これで、世界中の人々が、同時に一気に体験する。今まであらゆるものを覆い隠して来た「マスク」が、次々に剥がれ落ちて行くのを。

 

賢い人々は、そこで気づくでしょう。今までの世界、あれは何だったのかと。

労働とは、お金とは、本当の幸福とは、いったい何だろう、ということに。

 

「仕事」という概念が、これから変わります。気づく人が多くなればなるほど、早くそれは実現する。もう「お金」のためだけに働くことはありません。「自分が喜ぶ」ことをするのが「仕事」という意味に変わります。したがって、「お金」の奴隷になることも、また奴隷的労働に従事することもなくなります。みんな、思い思いの「自分が喜ぶ」ことをすればそれでよいのです。

 

じゃあ、一日中テレビゲームをやっていていいのか? いいんです。もしその人がその「仕事」をしたいのならね。

 

でも、どんな人も、いつかは気づくことになります。他の人たちに喜んでもらうことをすることが、自分のいちばんの喜びであるということに。

 

大阪釜ヶ崎の児童館に来ている子どもたちが、冬の毎週土曜日に「こども夜回り」という活動をしているドキュメンタリーを見ました。おむすびや味噌汁を作ってリヤカーに載せ、路上生活者を訪問する活動です。子どもたちは屈託なくダンボールハウスを訪れては、言葉を交わしお弁当を届けています。一人の男の子が言いました。「ああしてな、おっちゃんが喜んでくれたら、僕も嬉しいし」。

 

素晴らしい! 日本の総理大臣を、今すぐこの子に変えたいです。

受け取ったおっちゃんたちは、食事が貰えたことよりも、自分を気づかってくれる子どもらがいるということに感激している。

 

ペシャワール会中村哲さんが、生前こんなことを話されていました。最初にアフガニスタンに入った時には、わずか10円ほどの薬もないために死んでいく人を目の当たりにして「可哀想だな」と思った。しかし今にして思えば、自分の中にも驕りがあった。彼らの中には、働き口がないために仕方なくテロリストになる人がいる。そうして戦場に出て、図らずも人を殺してしまった人は、みんな何とも言えない暗〜い顔をしているんですね。しかしそんな彼らにも、仕事を手伝って貰っていると、だんだんと表情が変わっていき、やがては非常に熱心に働くようになっていく。その時に、彼らの中にも、同じ人間としての暖か〜いものが流れているんだと気づいた、と。

 

世界中を襲うコロナウイルス禍、とそれに続く失業。こうした災禍が起こるたびに、その被害を真っ先に被るのは、いつだって、最も弱く最も貧しい人たちです。富める者たち、権力を握る者たちは、弱く貧しい人たちを、普段は巧妙に騙して搾取し、いざ危機が迫った時には、自分が真っ先に逃げ出します。戦争だって同じ。なぜ、そうなのか? なぜ、同じことが延々と歴史で繰り返されているのか? 今度こそ、民衆は気づく時です。

 

自分は操られていたのだ、ということを。そして、自分を操っていた者たちも、操られていたということを。その操っていた者たちも、また操られていたということを。

ダンス、ダンス、ダンス。お内の中で踊ろうぜ。

このようにして、世界は、巨大な幻想をみんなで創っている。

 

お金とは何? 銀行とは何? 投資家とは何? 労働とは何? 会社とは何? 教育とは何? マスコミとは何? 政府とは何? 国家とは何? 国連とは何? そして、Who is WHO?

 

これらの「マスク」をいったん全部剥がすのです。

新時代のためにも。そしてあなたのためにも。

 

古い仕組みはやがては消えます。そこに未練を残したりしがみ付いていては、苦しみは増すばかりです。今のことは今対処しなければならないでしょうし、物理的世界で起きることは物理的に対処しなければなりません。でもその奥には、所詮これは幻想なんだ、その幻想をどう生きるかを試されているんだ、という「気づき」を持って、困難を乗り超えて行ってください。

 

神は、あなたが乗り超えられない試練は与えません。どうしてでしょう?

どうして、そう言い切れるのでしょう?

今まで熱心に学習して来た方なら、その答えが解るはずです。

次の言葉を、何度も噛みしめてください。

 

神の中に、わたしがあるのです。

ですから、わたしは、神の一部です。

よって、わたしの中に、いつも神がいるのです。

 

 

男性たちへ

 

一般に、身体的には、男性は陽極を象徴した存在で、女性が陰極を象徴しています。しかし、マインド的にはこれとは真逆で、女性が陽極、男性が陰極なのです。

 

マインドは空間的に身体よりもずっと大きくて、身体を包含しています。ですから、女性身体は陽中陰、男性身体は陰中陽が現れたものです。(図中の眼の部分に当たる)

 

陰極のマインドは、「直感」を認めようとせず、物事を理詰めで捉えようとする傾向があります。それはそれでよい面もあるのですが、一方で融通が利かず、自分で一度決めた枠組みにハマりやすいという傾向があります。そのことから、環境の激変に対しては非常に弱いのです。

 

いわゆる過適応を起こしてしまい、幻想の世界にいつまでも固執し続けます。女性から見るとガラクタとしか思えないものを、一生懸命コレクションしているのは男性ばかりですし、親分のためなら命を捧げるというのも男性なら、保身や忖度も男性に顕著な行動原理です。変化を嫌い、仲間うちだけでつるみ、それ以外の人を警戒します。

 

このようにマインドはとても弱いのですが、外面的には陽極ですから、それに縛られて「男は強くあらねばならない」という観念を強く持っています。この典型例がアメリカ人のマッチョイズムで、銃を手放そうとしないのは、強さではなく、実は弱さの顕われなのです。「防衛」をしきりに叫ぶ人も同じです。イソップ物語の「北風と太陽」を思い出してください。本当に強い人というのは、太陽のような人なのです。

 

しかしそのような、これまでの男性の行動原理を支えていた基盤が、もはや成り立たなくなっていることを、男性陣はもう認めなくてはなりません。

 

そもそも、〈地球のアセンションがなぜ今なのか〉というのも、地球という惑星が、宇宙の中で、陽極優位となるサイクルに入ったからなのです。その境い目は2012年前後にあったのですが、男性優位の社会はその転換を素直に認めようとせず、それまでの惰性で今日まで引っ張って来てしまいました。しかし、宇宙の流れが根本的に変わったので、これまでの男性的な社会システムは、今後いくら頑張っても、もう機能しません。

 

代わって、女性的なもの、母親的なもの、支配ではなく融和的なもの、理性ではなく直感的なものが、社会の基盤を構成するように変わって行きます。そこで、男性としては、あっさり白旗を揚げて、これまでの支配的、強圧的、組織的な思考や振る舞いを捨てて、出来るだけ早く女性的なマインドを身につけていくべきです。もう権威を振りかざしたり、威張りくさったりする男性は通用しません。

 

このブログを読んでくださっている男性には、そのような古くさい人間は一人もおらず、みな優しい方ばかりだと確信しています。ですが、逆に心配なのは、環境の激変から来るショックです。私もかつて、不安神経症に陥って、パニック障害になったり鬱になったりしたことがあるので、その苦しさが分かります。けれども、神は、乗り超えられない試練は与えません。

 

中小零細の経営者のみなさん、フリーランスのみなさん、今の仕事が無くなっても、命はつなげます。精神的に追い詰められた時には、身近にいる女性たちを頼ってください。恥ずかしいとか、男としてみっともないとか、そんなことはかなぐり捨ててください。素になって、少年に返って、完全なオープンハートをもって接すれば、心ある女性たちが必ずあなたを助けてくれます。

 

女性たちの「生きぬく力」は絶大です。ですから困った時には頼りなさい。そして、助けて貰ったら、今度はあなたが周囲を助けなさい。そのようにして、みなで助け合いなさい。それが、来るべき社会の礎を築くのです。

危機を乗り越える

「おっ、こう来たか」というのが、今度の「COVID-19」騒動に接した際の私の最初の印象です。金融崩壊がどのように始まるのかなーと思っていたので、この展開は意外でした。「なるほどなぁ」と妙に感心したりしていますが、どうやら最初にパンデミック、次に経済危機が来て、最後に金融崩壊という順番になりそうです。そしてトドメが食料難、さらに、水資源をめぐる大戦争ということになるのかも知れません。

 

今回の「COVID-19」騒動が示している注目すべき点は、全世界が、わずか3カ月程度の間に、文字通り「感染」してしまったということです。これほどのスピードと広がりは、歴史上なかったことです。けれども、ただ「大変だ、大変だ」と騒ぐのではなくて、人類としては、その裏にある意味をきちんと汲み取らなければいけません。起こる何事にも、そこには宇宙の計らいによる意味が、必ず隠されているのです。

 

それは、第一に、もはや世界が一つになったということ。しかし、その一貫として、まるで熱病のようにして推進されて来たグローバル経済や、詐欺的金融システムや、都市部への極端な人口集中や、支配的な人間統治の仕組みは、天の理に適っておらず、極めて脆弱であったということを、この機会を通じて、人類が思い知らされるということです。もし、人類に災厄が訪れるとすれば、それは「人類のカルマ」の果実として受け取らなければならないのです。

 

いつも言っているように、それは「罰」ではありません。人類への、宇宙からのギフトなのです。

 

世界は一つとなった。しかし、その「一つ」への方向性が誤っているよ、と天が人類に警告してくれているのです。宇宙に「罰」はありません。もちろん「罪」もありません。振り子を右へ右へと押し続ければ、いつかは左に揺り戻しが来る、というだけの話。その不毛を学習する最終チャンスが訪れたのです。ですから、このチャンスをぜひともモノにしましょう。何度も何度も同じ過ちを、もう人類は繰り返すべきではありません。さあ、一緒に目覚めましょう。

 

それに、みなさんは、人類に課せられたこの「陣痛の時期」を、承知で、ぜひともそれを体験したいと願って転生して来た魂なんですからねっ。えっ、忘れちゃった? じゃあ、思い出してくださいよ。それを決意した時の意気込み、望み、晴れやかで清々しさに溢れた気分を。二階級特進のチャンスなど、いくら宇宙広しと言えども、そうそうあるものじゃないのですぞ。地球に生まれて来たということだけでも、大変なものなんですからね。

 

私は霊能者ではなく、予言は出来ませんししませんが、信頼できる複数の霊能者が、共にこの「陣痛の時期」は2037・8年ころまで続くと言っています。ですから、それまでに、地球人類がどこまで変われるかが、人類全体としての勝負どころになりそうです。

 

これまで私は、こうした話題(予言やオカルティックなこと)にはなるべく触れないようにして来ました。それは、そこだけに注目してしまって、背景の意味や霊的な意味、そしてそこにある課題を汲み取ろうとする人があまりいなかったためです。また、そのような情報を与えることで、不安や恐怖を誘発することになってしまっては元も子もないと思っていました。

 

しかし、地球のバイブレーションが上がって、霊的学習が進んだ人もだいぶ増えて来ましたので、きっと正しく受け止めてくださるだろうと思い、今回のこのタイミングでお伝えしました。

 

この際に言っておきますと、みなさんは、「予言」というものが、いったい何を読んで(read)語られているのか、ということを知りません。「予言」が当たったとか外れたとか、そんなことばかりを問題にしています。しかしこれも、「地上世界から不思議世界を覗き見ようとするクセ」の典型的な例です。

 

そもそも、霊的世界には「時間」というものがありません。それなのになぜ「予言」なのでしょうか? 変だとは思いません?

 

霊的世界は、意識のエネルギーだけで構成された場です。深い瞑想をすると、誰もが「時間」が止まった感覚を経験できます。しかし、(経験者は分かると思うのですが)その状態にあっても、様々なビジョンを次々と見たりしていて、意識は絶えず変化しているのです。地上世界では、「変化」というものを無条件に「時間」と結びつけて考えているために、この感覚は解りにくいのですが、とにかく永遠の今というものがそこにあるのです。

 

さてそうしますと、その場には、地上で過去とか未来と呼ぶあらゆる意識の変化が「同時に」詰まっていて、なおかつそれも変化しているのです。「予言」の霊能に長けた人は、その中から最も強いエネルギーを発していると思われる集合意識を探し出して、「将来このような可能性がある」と予測します。しかしそれは、あくまで、その時点で判断した場合の予測なのです。一般の人には、この事情が分からないのです。

 

そこで、霊能者が発した言葉を、直線的時間軸の中で解釈して、未来の「予言」だと受け止めます。しかし厳密には、あらゆる意識がその場にあり、集合意識も複数の塊が見え、各々の成長度合いも違うのです。たとえて言えば、森にポツポツ群生しているキノコの株のようなものです。ということで、将来「現実化」する可能性のある世界は、決して一つとは限らない。いくつもの可能性があるのです。これが、いわゆる「パラレル・ワールド(Parallel World:並行世界)」です。

 

しかし、みなさんが言うところの「現実」は、人類全体のその後の集合意識のあり方によっては、その後いかようにも変化します。どんな集合意識が51パーセントを獲るかは、予め決まったものではないのです。当初の予測では「こうなるだろう」と思われたものも、途中で別の「パラレル・ワールド」にスイッチするということがあり得る。これが、「予言」というものが必ずしも当たらない理由です。

 

*このことは、個人の運命に置き換えてみてもまったく一緒です。人は予め、その生におけるアジェンダを設定した上で、地上に誕生して来ますが、運命は決まってはいません。運命は(置かれた環境の範囲内で)自分の意思で自由にドライブできます。しかし、どんな人生を歩もうとも、その過程で、必ず自分のアジェンダに向き合う機会が人生の中に織り込まれるのです。あとは、それに、その人が気づけるかどうかです。

 

また、「時間」のない世界の集合意識を読んでいますので、一般人がもっとも知りたがる「いつ、それが起こるのか」という年代特定については非常に難しいのです。これも「予言」がしばしば外れる理由です。それと、いつも言っていますが、ちゃんとした霊能者は、人々の恐怖や不安を煽るような「予言」は、絶対にしません。そういう「予言」をする霊能者は、みな闇系に捕まった人たちですから注意してください。

 

いま説明した背景事情を考慮した上で、試しに、次の出口王仁三郎(1871 - 1948)が語った「予言」を読んでみてください。

 

原子爆弾など神様の眼から見たら線香花火に等しい。だが、悪魔は今の原爆の何千倍もある奴や、毒素弾、生物弾など最終兵器を作るので大三災はこれからだぜ、本当の火の雨じゃ。お筆先に『世界の人民三分になるぞよ』とあるのは三割の事ではない。ホンマの三分じゃ。三分どころか二分も難しい。神様のお力はその最終兵器の何万倍、否無限である故、神様のご守護があれば、こんな物は無効じゃ…。何処に居ても救われる。(出口王仁三郎『吉岡御啓示録』より)

 

さて、これからの時代をどう生きればよいか、ということですが、今後の17・8年間は、これまでの30年間とは、まさに天地がひっくり返った価値観をもって、新しい世界の創造に本腰を入れて取り組まなければなりません。

 

藤原直哉さんという方がおられて、これまで、経済→生活→命の順番で考えられていた社会システムを、今後は命→生活→経済の順番にひっくり返さなければならないと仰っています。まさにその通りです。我々は、先ず経済が成長しなければ生活がよくならず、したがって命も保証されない、と言われ続けて来ました。しかしその結果、実際には、経済の奴隷にされ、生活は追い詰められ、命さえないがしろにされた社会で生きることを強いられています。

 

今度のパンデミック騒動と、それに続く経済危機は、そんな論理が砂上の楼閣でしかなかったことを如実に示しました。これでもなお、旧い価値観にしがみつくようでは、もう救いようがありません。これからは、価値観を、命→生活→経済の順番に変える。しかも、その場合の「命」は、単に人命のことだけを言うのではなく、もっと宇宙的な視野に立った「命」を考慮していくことが求められます。宇宙で言う「命」とは、宇宙の全活動そのものなのです。

 

みなさんは、その新しい価値観をもって生きる先駆者となるのです。人類全体を考えた場合の未来は、人類の集合意識の、今後のあり方ひとつに掛かっています。どんな意識が51パーセントに育つのか、ということです。しかし、幸いなことに、あなた方一人ひとりの「魂」の成長は、これとは別個のアジェンダと捉えてもらっても差し支えないのです。

 

それは、地球的論理からすると、何か身勝手なことのように思えるかも知れませんが、むしろ逆。私も、当初はそれがまるで解っておらず、ある日、上からメチャクチャ怒られるハメになりました。「何をグズグズしておる。先ずお前がアセンションしなくてどうする!」と言われて、やっと眼が覚めました。

 

つまり、こういうことです。あなたがアセンションすれば、あなたはその後、必ず他の人を助ける道に進むということです。そしてそれが、やがては人類の集合意識を変えることに繋がるのです。

 

これからは、まさに「光」と「闇」との熾烈な戦いとなります。しかし、これを読んでくださっているあなたは、この「戦い」に参加してはなりません。あなたが進むべき道は、「戦い」ではなく、「光」と「闇」の統合なのです。これこそ、今までの世界がひっくり返る大変革なのです。そして、これが実現されてこそ、宇宙の中で、地球人類はアウフヘーベンできるのです。ですから、先ずはあなたが先駆者となって、この第三の道を周囲の人々に示すのです。

 

Middle Way を。調和した世界を。

 

人類は、未だにこの理屈が解っていません。宗教ですら、「光」が「闇」を駆逐するという寓話を、長年に渡って人々に信じ込ませて来ました。しかし、「光あるところに影あり、影あるところに光あり」ですから、もし「闇」を完全に駆逐してしまったとしたら、「光」も存在し得ないということになってしまいます。

 

こんな簡単な理屈すらも、今の地球人には理解できないのです。そして、まだまだ「戦いたい」人たち、それが「正義」だと思っている人たちで、この世は溢れかえっています。ですが、あなたは、周囲で繰り広げられる「戦い」には、巻き込まれないようにしてください。傍観者でいてください。非難されてもずっと平和ボケでいてください。あなたには、それ以上の大切な役目があるのですから。

 

それよりも大変なのは、やがてあなたの内部に起きてくるであろう「光」と「闇」との戦いです。それは、「道」を歩む者にとっては避けられない「暗夜(Dark Night)」の時期。さて、これをどう乗り切るか。第一には、完璧さを求め過ぎないように。地上に暮らし、肉体を持つ者に完璧はありません。第二には、焦らないこと。すべてはグッド・タイミングで進みます。第三には、「闇」を抑え込もうとはせずに、出るに任せて、観照者の視点でそれを眺めて乗り切ってください。

 

古くから、何人ものチャネラーによって言われて来た「予言」に、このようなものがあります。地球の終末期、世界は、相も変わらず戦いに明け暮れている地域と、小さなコミュニティを作って平和につましく暮らす人々がいる地域とに、完全に別れる。その「予言」の実現性はともかくとして、これからは、大きなものはみなダメです。大きなものが「良い」と思われていた時代は、これで完全に終わりました。

 

争いもなく、貧困もなく、差別もなく、世界中の人々が共に楽しく、安心して、仲良く助け合って暮らせるような社会。そのような世界は、一体どうすれば実現できるのでしょうか?

 

「One World」の理想郷の実現には、大きく二つの道があります。一つは、人々から多様性というものを奪っていって、考え方も行動も、みな同一のものに染め上げてしまうという考え方です。この30年間というもの、世界中で推奨され、実際に展開されて来た方法は、全部こちらの道でした。

 

しかし、こうした力づくで「One World」を実現しようとした場合には、そこからこぼれる者、はみ出す者は、みな差別の対象となってしまいます。そして、実際にそれが起きており、その傾向はますます顕著になっています。その結果、一元化されてゆく社会からこぼれ落ちる不安、はみ出す不安に苛まれる人々が爆発的に増え、人間関係はギスギスし、かつてない「生きにくさ」が、雲のように社会の上を覆っています。

 

しかし、「One World」の理想郷実現には、もう一つの道があるのです。それは、前者とは真逆の、人々の多様性を認め合うという社会です。多様性を認め、互いを尊重し合うと、どうして「One World」の理想郷が実現できるのでしょうか? それは、好奇心を入り口にして、その奥に、どんな人間にも共通したあるもの(それは「愛」なのですが)がある、備わっているという真実に、必ず、人は気がつくからなのです。

 

それは、最初から備わっている。ですから「One World」は努力目標ではありません。最初からあるのです。ただ、それに気がつかなかったし、気がつかないようにさせられて来ただけなのです。社会統治の機構にしろ、教育にしろ、宗教にしろ、まことに皮肉なことに、一元管理を目指せば目指すほど「One World」から遠ざかり、逆に多様性を認め合えば、人々は自動的に「One World」に向かうのです。

 

まさにどんでん返し。

みなさんは、その価値観がひっくり返った後の、生きた手本として行動してください。

 

さて、「危機の時代」の乗り越え方について、最後に言及しておきましょう。いま「危機」と書いたのですが、この捉え方がそもそもよくありません。人は変化を嫌うので(現在の生存の安定が崩れると思うから)、変化の予感を「危機」と捉えます。しかし、同じ事象であっても、それを崩壊と見れば「危機」かも知れませんが、創造と見れば「チャンス」です。ですから、これは「チャンスの時代」と言い換えましょう。ほら、たちまち明るい希望が見えて来る気がしませんか? 「危機」が「嬉々」に様変わりです。

 

人が、変化に際して、不安や怖れを抱くのは、ただ、今の生存が脅かされるから、という理由だけではありません。実はその奥には、過去世での体験が影響しているのです。各々の「魂」は、これまで幾度となく転生して来た中で、餓死したり、殺されたり、拘留されたり、拷問を受けたり、疫病で死んだりといった、何らかの悲惨な体験をして来ています。そのため、それと同様の状況が起こりそうになると、その記憶が甦って来て、不安や怖れの感情を掻き立てるのです。

 

たとえば、私は高所恐怖症ですが、直前の前世で、崖から海に突き落とされて殺されたという経験を持っています。このように、あなた特有の不安や怖れをジーッと内観して行くと、過去世での体験が甦って来る場合があります。そこには、今世における「カルマ解消のアジェンダ」が潜まれているのです。ですから、不安や怖れが起きた場合には、怖れに埋没したり、逆に逃げようとしたりせずに、その原因の源はどこからやって来ているのか、をじっくりと探ってみてください。

 

次に行動の仕方ですが、いつでも「直感」に従って行動してください。「直感」に従った行動は、「安全」が完璧に保証されています。「直感」に従って行動したことで、思わぬ災難を逃れたという報告例はいくらでもあります。いつも通っている通学路を、その日はどういうわけか別の道を行く気になってそうしたところ、本来行くはずだった道で大事故が起こっていたとか。

 

なぜ「直感」に従った行動には「安全」が保証されているのかは、これまで熱心に学習を重ねて来た人ならばお解りでしょう。

 

一方、「理性」を使ってはダメです。「理性」は「安全」を保証してくれません。福島第一原発の事故がなぜ起こったのか。もし「直感」に従っていれば、「こんな危なっかしいもの、いいわけないよね」と分かったはずです。それなのに、科学技術でコントロール出来るとか、大学の偉い先生がお墨付きを与えているとか、地元経済が潤うとか、雇用が確保されるとか、様々な「理性」を働かせて「直感」をマスキングしてしまったために、悲惨なことになったのです。

 

注意を要するのは、「直感」と「怖れ」を混同しないことです。この両者は、意識の働かせ場所がまったく違うのです。前に使用したのと同じ図を使って、これを説明しましょう。

 

不安や怖れといった感情、そして思考、および本能は、第三霊性密度の領域である身体(肉体)に依拠した意識です。

 

この、感情、思考、本能の三つは、地上世界を生きるために備わった意識なのですが、身体センサーがキャッチする外部情報に、ダイレクトに反応するという特徴を持っています。

 

この時の反応は、瞬時になされるために、人は、外部情報と、自分の反応との区別がつけられず、両者をしばしば混同してしまいます。また、自分が起こした反応の中にすぐに埋没してしまう傾向があります。

 

例えば、目の前にいる相手が「憎い」と思った時、その「憎い」という感情そのものは自分が生み出したものです。ですが、そのことにはまったく気づかずに、全部を相手のせいにして、「あいつは許せない」といった自分の思考パターンの中にすぐに埋没してしまうのです。ほとんどの人は、普段このレベルの意識しか使っておらず、その状態にしか馴染みがありません。

 

このレベルで展開される意識(感情、思考、本能)は、外部情報からの影響をつねに受けているので、その度にあっちへフラフラこっちへフラフラと揺れ動くのです。これが心の不安や動揺や爆発です。しかし、いま「怖れ」の源を探ってみるようにと言いましたが、「怖れ」に限らず、その人の心の動きに、何度も繰り返されるような特有の傾向がある場合には、その一段奥に、真の原因というものがあるのです。言わば心の本体です。

 

それは、第三霊性密度の一つ上の、第四霊性密度(アストラル界)にある意識で、「魂」の下部構造を形成しています。この領域には、「チャクラ」と呼ばれるエネルギーセンターがあって、個々の「魂」は、それぞれが個別の歪みのパターンを持っています。本当は、全チャクラがバランスよく整っていることが理想なのですが、過去世の体験を通じて身に付けた、強いこだわりや執着が、その特性に応じたチャクラに歪みをもたらすのです。そして、これがカルマの種子(しゅうじ)となるのです。

 

ですから、人が、特有の感情パターン、思考パターン、本能パターンを見せている時には、自分では気づかないまま、「魂」の下部の意識(カルマの発現としての意識)を働かせているのです。けれども、この領域で働かせている意識を、人は通常、意識するということがありません。したがって、カルマに埋没したまま、流された生活を送ってしまい、それ以上のレベルの意識に気づくということが殆どないのです。

 

*自分では気づかなくても、他者には、その人特有の、感情パターン、思考パターン、本能パターンが見えています。他人は自分の鏡と言われる由縁です。ですから時々、痛いところを指摘して貰うことも、魂の成長にとっては役に立ちます。

 

「直感」は、第四霊性密度のさらに一つ上、第五霊性密度(カラーナ界)で働いている意識です。この領域は「魂」の上部構造に当たり「真我」に接触しています。ここでの意識が、「真我」からのメッセージを受け取って、あなたに「直感」をもたらすのです。その出所は、すでに覚醒しているあなた、つまりハイヤーセルフです。ですから「直感」は、あなたからあなたへのプレゼントなのです。

 

さて、「第五霊性密度」と聞いて、それがアセンションの目標場所だと、すぐに気づいた方もおられるでしょう。そのことから解るとおり、「アセンション」とは、言い換えれば、常時「直感」を働かせて、この地上世界を生きる状態になること、とも言えるのです。そして、そのためには、第三霊性密度と第四霊性密度で働かせている意識を「閉じる(滅する)」必要があるのです。第三と第四の意識を閉じれば、自動的に「第五霊性密度」が浮かび上がって来るのです。

 

とはいえ、我々はみな物質であるところの肉体を持ち、地上で暮らす存在ですから、「完璧」はあり得ません。そもそも肉を持つということが、不完全さの中に飛び込むということなのですからね。そこで、出来る限り、第三と第四の意識を滅することを心がけていく、という生き方になります。それが、倦まず弛まず、「道」をひたすら歩む、行者の生き方というものなのです。

 

ですから、日々、努力あるのみ。

Practice, Practice, Practice,  Everyday!

 

そうして、ちょっとずつちょっとずつ前に進み、遂には、エゴ、オカルト、宗教の三大誘惑をすべて断ち切るのです! 

 

日々の暮らしの中で、いつも意識を立ち上らせて、「真我」に迫る訓練をしてください。そして、この「第五霊性密度」の中に自分が浮遊している感覚を、細胞の隅々にまで染み渡らせてください。上昇イメージの描き方については、『PEACE DOME』の案内ページに例を載せています。これを試しにご自分で工夫なさってください。続けていれば、だんだんと「直感」が入って来るようになります。

 

2年前より、「虹の学校」では家庭菜園に取り組んでいるのですが、メンバーの一人が、今度の「COVID-19」騒動を受けて即、田舎に畑つきの家を借りる手はずを整えました。「食べ物を自分で作ることが、とても大切なことだと思って突き動かされた」そうです。別のセミナーに来て下さっている20代の男性は、今年から農業を習いに行くと語っていました。「直感」を大事にする人の行動は、もう始まっています。

 

危機の時代はチャンスの時代です。これをきっかけにしてください。旧い価値観にしがみついていては、変化を上手に乗り越えられません。世の中がぜーんぶひっくり返るんですからね。変化の時代には、待っているのではなく、自分から「希望」を持って先に動くのです。そうすれば、変化に翻弄されることがないので、怖くはありません。

 

この30年間、世の中を席巻して来た「今だけ、金だけ、自分だけ」の風潮は、まるで蜃気楼のように消え去ることでしょう。代わりに、自分の好きな創造活動を仕事にする、他者に喜んでもらって自分も喜ぶ、自然と共に生きて自然の恵みをいただく、という「宇宙の法則」に逆らわない生き方をする人たちが、これからどんどん増えて行くことでしょう。

 

あなたも、その先駆けの一人となってください。天は、いつだってあなたの味方です。一緒に世の中を変えましょう。

続・ネガティブな出来事を、覚醒へのチャンスに利用する

コロナウイルスの感染拡大によって世界が騒然としています。しかしこれは、まだ序章に過ぎません。この騒動をきっかけにして、世の中の大規模な建て直しが、これから徐々に進んで行くのです。しかし、同じ場所に、新しい建物を建てるには、その前に旧い建物を壊さなければなりません。

 

親しい人たちには、近々「バルブの崩壊」がやって来るよ、と言って来ました。キーを打ち間違えたのではなく、本当に「バルブの崩壊」。バブルというのは、生ビールをジョッキに注いだときに浮かぶ泡の部分でしょ。そこが吹き飛ぶ、というのが「バブルの崩壊」。今回は、その程度の話では済まない。生ビールを供給していたタンクの「バルブ」がクラッシュする。早い話が、バブルの大元である金融システムそのものが崩壊するということです。『熟れすぎた果実』2019/10/22

 

その崩壊の影響はコロナ騒動の比ではなく、今日ただいまの市民生活を直撃します。経済活動が回らなくなってしまうので、連鎖的な企業倒産が起こり、失業する人たちも膨大な数に及ぶでしょう。そこで、緊急的にどうするか、当面どう凌ぐか、という問題とともに、旧来の社会システムへの根本的な問いかけや、生き方の見直しと価値観の大転換、そして新しい社会システムの構築に向けて、模索が一気に進むことでしょう。『崩壊へ向かう世界、その中にある希望』2019/09/01

 

ここで、みなさんは選択を迫られることになります。何かを守ろうとして、あくまで旧い社会システムにしがみ付く道を選ぶのか、それとも、こいつはいいチャンスだと思って、今までの価値観を見直し、己の生き方をすっかり変えてしまうのかどうかです。世の中がひっくり返ることや、自分の生き方をひっくり返すことは、一面においては恐怖です。でも、ドキドキとウキウキはスイッチできる。意識を変えさえすれば、未曾有の大変化にも、大いなる希望を見い出すことは可能なのです。

 

恐怖が、何から生じるか分かりますか? 「執着」ですよ。いま持っているものを失いたくないという執着が、恐怖を生じさせるのです。財産を失いたくない、家を失いたくない、家族を失いたくない、恋人を失いたくない、ペットを失いたくない、仕事を失いたくない、地位を失いたくない、名声を失いたくない、美貌を失いたくない、健康を失いたくない、命を失いたくない、etc.。これら、すべてが執着です。ですから、一切の執着を持たなければ、恐怖は消える。

 

ある方から、欲とエゴとの関係について質問をいただきました。食料の備蓄はエゴに当たるのかというものです。そのように、頭で考えて、これはセーフとかアウトとかの線引きをしないようにしてください。それもまた執着になってしまいますから。前回の記事で、トイレットペーパーの買い占めのことを書いたので、ふとそんな疑問を抱かれたのでしょう。

 

人は、物理的な世界に生きていますので、当然ながら物理的な制約を受けます。ご飯も食べればウンチも出る。食欲というものがもしもなければ、生体を維持していくことは難しくなりますし、性欲がなければ子孫も誕生しません。また意欲がなければ、仕事も、創造活動も、人助けも出来なくなってしまうことでしょう。釈迦だって、イエスだって、人々を救いたいという大欲を抱いたのです。ですから「欲」そのものが悪いわけではありません。

 

問題は「我欲」と「執着」です。人は、善いと言われることにしろ、悪いと言われることにしろ、「行為」にばかり目を向けてしまいがちです。ですが、大事なのは「行為」ではありません。「行為」につい目が向いてしまうのは、身体である自分が自分だと思っているからです。それを当然だと考えている。でもそうではなくて、何かを為している際の「意識」のあり方が問題なのです。

 

お米を向こう3カ月分くらい備蓄しておくとしましょう。その際に、どういう「意識」でそのような行動をしたのか。そこに「我欲」と「執着」はなかったかどうか。今日のおやつに、好物のチョコレートケーキを食べたとしましょう。そこに「我欲」と「執着」はなかったかどうか。「ああ、楽しく美味しくいただきました。ありがとう」と言って、チャンチャンでおしまいにしてしまえば、「執着」は起こらない。

 

そのようにして、あなたが為す一切の行為について、何も「執着」を持たなければ、失う恐怖というものがそもそもないので、苦しみもなくなり、いつもハッピーでいられるのです。ですから、「今ここを生きる(Be here now)」なのです。要は、この世のすべては「うたかた(泡沫)」であることを知って、どんな一瞬も楽しく生きて、全部忘れてしまえばよいのです。

 

実に、簡単な理屈です。

 

でもこれが、なかなか出来ないんですよねー。「我欲」と「執着」に見られる特有の性向は、その人の過去世にまつわるカルマの発露ですし、教育や社会を通じて、「もっと我欲を出せ、もっと執着を見せろ」と、さんざん吹き込まれていますからね。そっちの方が正しい生き方だとされて来たし、「執着」を捨てる生き方なんてバッカじゃなかろうかと思われている。いや、いた。

 

だけど、この先はそうはいかないんですぞ。「執着」を捨てられない人ほど、苦しみに喘ぐようになりますからね。しかも、それだけじゃない。この世で「死」と言われる段階を迎え、身体を脱ぎ捨てて意識体だけとなった時、「執着」は次のカルマの種子になります。通常ならば、そのカルマを清算することをアジェンダ(課題)として、また来世に転生して来るわけですね。ところが、それを迎え入れる器(身体)も、場所ももうないのですぞ!

 

なぜなら、地球自体がアセンションしてしまうから。アセンション後の地球には、アセンションした「魂」しか住めなくなるから。未だ幼稚園レベルの「魂」というのでは、小学校には入れて貰えない。入学拒否に会うんですぞ。脅しているわけじゃないけど、入学拒否をされた魂は、行き場を失って、浮浪児のように霊界の裏通りをうろつくしかなくなるんですぞ。何万年、何十万年とね。

 

だから、何がなんでも、このチャンスをものにしなさい! アセンションを成し遂げなさい!

 

えっ、自分は裏通りの方が好きだって? 盛り場もあるし‥‥って。

あなたねぇ、もう。

そういう人は勝手にしなさい!

 

でも、あなたはそうじゃないよね。

残りの人生をかけて、死に物狂いで取り組みなさい。

なあに、死に物狂いと言ったって、ただ「執着」を捨てればいいだけなんだから。そうすりゃ自動的にアセンションしてしまうんだから。

 

何も、いちどきにぜーんぶ捨てられなくてもいいんですよ。引越しで家を空っぽにするまでには何日も掛かるでしょう。前に上げた代表的な執着品のリスト。中には、私にはそれはないなとか、他者の執着している様子を見て、自分にはそれがどういう感覚かよく分からない、というものだってあるでしょう。その感覚を、自分が執着している対象にも拡張して行けばいいんですよ。

 

例えば、名声に対する執着はない、でもお金に対する執着はある、としましょう。名声なんてものには興味はないのに、どうしてお金には執着心があるのか。その違いはどこから生じているだろうのか? と見つめ続けてみればいい。そうすれば、だんだんと執着心は薄まっていきます。なぜか? お金というものに埋没していた状態に、観照者の視点が入ることで、貼りついた意識を剥がすことが出来るようになるからです。

 

さらに、決定打となる認識をそこに付け加えてください。これも、いつも言っている通りです。あなたの周囲に展開されている現実はみんな「幻」だということ。その「幻」の世界を、あなたは、自分を主役とするドラマを演じているのだということ。あなたにとっての重大事は、演じている際に遭遇する体験を、どのように味わい、そこからどんな「気づき」を得たか、だけなのだということを。それ以外の一切合切は、変化し、やがて形を失ってしまうものなのです。

 

古代より、多くのメッセンジャーが、みな同じことを語って来ました。実に、あの手この手を駆使してね。でも、この「真理」に目覚める人は、いつの時代もほんの僅かしかいません。それほど、エゴの誘惑と、執着のボンドが強力だということです。そこで私も、今の時代の人々なら理解できるであろう、あの手この手を駆使して説明してきたわけですが、今日は別の角度から説明を試みることにいたしましょう。

 

図1を見てください。私たちが今いる宇宙は、すべて振動するエネルギー体によって出来ています。この振動するエネルギー体は、元をたどれば、たった一つの究極の元素とでも呼べるものに還元されてしまいます。しかし、そのたった一つが、振動数を変えることによって、様々な性質に変化し、さらに同質のものが集まるという「波動の法則」によって、あるものは「生命力」に、あるものは「魂」に、そしてあるものは「物質」に顕現しているのです。

 

この、多様な振動数が集まって構成された宇宙は、大きく三つのパートに分類されます。

一つは「物質界」です。もう一つは非物質的世界で、通常は「霊界」と呼ばれています。この「物質界」と「霊界」との中間領域に、文字通り中間である「半霊半物質界」があるのです。

 

この大まかな三つの分類方法に関しては、神秘を探求する各種のグループにおいて、名前の付け方はあれこれありますが、宗教や洋の東西を問わず、ほぼ共通の認識となっています。

 

ところが、これをさらに分類した際には、細かな違いがいろいろと出て来ます。名称や定義づけもバラバラですし、特定宗教を信じる信者は、その宗教の教義を鵜呑みにしますので、もうしっちゃかめっちゃかの状態。結果として、人々の理解がちっとも進まないという状態が続いているのです。

 

しかし、これは変ですよね。宇宙は誰にとっても一つなのですから、理解を助けるためにも、分類法は共通にした方がよいと思うのです。そこで「虹の学校」では、これを7階層に分け、スッキリした形に整理したのです。また、従来は「次元」と言っていた言葉も、数学的次元(dimension)との混同を招きやすいので、「霊性密度(spiritual density)」という言い方をなるべくしていくように改めたのです。

 

この7階層に分ける分類法も、「霊性密度」という名称も、オリジナルというわけではなく、「オクターブの法則」としてすでにあったものです。それがいちばん解りやすいと思われたので、そのモデルを拝借することにしたわけです。なぜかと言いますと、人体上にある7つのチャクラと宇宙との関係が明瞭に説明できる上に、「アセンション」が、第3霊性密度から第5霊性密度への飛躍であるという意味も、容易に理解できるようになるからです。

 

さて、私たちは地球という物質界にいて、なんとかして宇宙の全体像や仕組みを知りたいと思い、あの手この手の模索を繰り返しています。しかし、「非物質界(霊界)」を見たり、観測したりすることは、通常の方法では出来ないのです。(いわゆる「見えない世界」)ところが、「半霊半物質界」には、半分は物質化をしていますので、この領域には、霊的性質が時折り顔を覗かせることがあるのです。みなさんがよく知っている存在に幽霊があります。

 

この中間領域(第4霊性密度)を知覚する能力に秀でた人がいて、この人たちは霊能者と呼ばれます。ところが、霊能者の大半は、第4霊性密度でキャッチした情報を、神からの言葉として下ろしているのです。それは悪意からではなくて、霊能者自身が本当にそうだと信じているのです。しかし、この人たちは第5霊性密度以上の、本当の霊界にはアクセス出来ないのです。なぜかは、もうお分かりですね。

 

エゴの執着を捨て切れば、何の努力もなしに、自動的に第5霊性密度へジャンプする。ところが、霊能者の大半はむしろエゴまみれで、霊能を付加価値にして高い見料をふんだくるというありさまですから、ジャンプなど出来る訳がありません。でも、一般の方々には、第4霊性密度と第5霊性密度以上の世界の区別がつきませんから、不思議世界の話などをされると、「そうかぁ」と思って、その領域に簡単にハマり込んでしまうのです。

 

エゴと、宗教と、オカルトを信じている限り、アセンションは不可能という理由はそこです。アセンションするということは、エゴ(第3霊性密度)の世界を捨てて、宗教とオカルト(第4霊性密度)の世界に落ち込まず、その領域を跳び越して、さらに向こう側へ行くということなのですから‥‥。地上に身体を有したまま、意識だけは第5霊性密度へと上げるのです。それがアセンション。

 

そんなことが自分にも可能なのか? 可能です。いま言ったばかりじゃありませんか。身体を含めた物質界はみな「幻」なんですよ。だとしたら「意識」しか残らないじゃありませんか。その「意識」を、第5霊性密度へジャンプさせればいいのです。ただ、それだけ。ところが、みなさんは、毎日そうしたいと願いながら、毎日それに失敗している。それはなぜかと言うと、地上から宇宙を眺めるというクセが、どうしても抜け切れないからなのです。(図1)

 

霊的世界はこうだとか、宇宙の階層構造はこうなっているとか、真理の法則はこうなんだという話をなんど聞いても、その瞬間は「解った!」と思ったのに、数時間もするとまた元に戻ってしまう。それは、肉体を持った自分が自分で、現実という世界がここにあって、時間がある、という地上の論理に、すぐさま絡め取られてしまうからです。「地上から宇宙を見る」というクセが、どうしても抜けない。あなただけではなく、哲学者も、科学者も、宗教家も。

 

ですから、地上の世界にいて、宇宙を覗こうとするこのクセを、あなたは止めなければなりません。ここが重要なポイントです。あなたがアセンション出来るかどうかの分かれ目です。地上に軸足を置いて宇宙を見るのではなく、逆に、宇宙から地球や人間や自分自身を見るのです。そうすれば、過去にお伝えして来た様々なことがらも、これからお伝えすることになるであろうことも、すべてをすっかり理解することが出来ます。ユーレカ!(eureka)と。

 

図2を見てください。

「物質界」というのは、宇宙全体からみれば、局所的に存在する特殊世界でしかないのです。むしろ「非物質的世界」の方が、はるかに広大無辺なものなのです。

その広大な「非物質的世界(霊界)」に抱かれて、その中に、振動数を落とした物質的宇宙が局所的に存在しているのです。

 

*広大無辺:厳密に言えば、時空間という概念がそもそもないので、我々がイメージする「広大」とは異なります。無限の宇宙(霊的世界)の中に、有限の宇宙(物質界)があるのです。

 

ですから、いわゆる「この世」と「あの世」は、ドアを隔てて分かれているというのではありません。「あの世」という海の中に、「この世」という島がちょこっと浮いているのです。それを、みなさんは逆に考えている。この世が主で、こっちからあっちを見ようとしている。ですから、いつまで経っても「真理」を掴めないし、オカルト現象を畏怖したり、逆にありがたがる性癖が抜けないのです。

 

でも、視点を真逆にすれば、不思議などどこにもない、ということも解るし、そんなものに興味もなくなってしまうのです。すべては一者ということが解るからです。同時に、生命も、存在も、愛も、法則も、全部は同じものの違う表現であるということが解る。ただ頭で解るというのではなくて、魂が完全に同化して、まったくその通りだということが全身で解る。

 

だから、あなたもそうお成りなさい。

 

その時に、みなさんは知ることになります。地球という惑星に暮らすあなた方の、生命や、存在や、愛や、健康や、法則や、善や、自由や、正義や、神に関する定義が、いかに狭く偏見に満ちたものなのか。「物質界」という限定された世界でしかものを考えられないから、それらの定義も、みな限定されたものになっているのです。そして、その偏見を真実だと思い込んでいる。

 

ではどうすれば、頭ではなく、「魂」で、全身の感覚で、それが解るようになるのでしょう? それには、静寂に身を置いて、ご自分の内をひたすら見つめることです。瞑想をしなさい。内観を徹底してごらんなさい。よい喩えが見つからないのですが、油揚げの皮を裏返しに包んだ稲荷ずしを見たことはありませんか。ちょうどあれのように、自分の内を深く深く見つめていると、それがクルッとひっくり返って大宇宙になってしまうのです。

 

ヘルメスの「下は上のごとく、上は下のごとし」とはこれのこと。

あなたの内側に大宇宙があるのです。「大宇宙(macrocosm)」と「小宇宙=人体(microcosm)」は、相似形を為しているのです。

 

物質界に生きている限り、人は物理的な制約を受けます。それを無視しろ、と言っているわけではありません。むしろ、物質界を生きるための乗り物である身体を、もっといたわりなさいと今までも言って来ました。ですから、この機会に、身体をいたわることをさらに学習してください。

 

乗り物をぞんざいに扱っていては、クリエイティブな体験は出来ませんし、内観もうまくできません。ですから、そこはちゃんとケアした上で、意識の世界を探求してください。では、次回の『PEACE DOME』でご一緒しましょう。

ネガティブな出来事を、覚醒へのチャンスに利用する

スーパーの棚にトイレットペーパーが無いのだそうです。1973年に起きたオイルショックの際にも首都圏のスーパーからトイレットペーパーが消え、この時の映像は、当時を物語る資料として今もしばしば取り上げられています。その当時と同じことが、47年後のこの令和の時代にも起きるとは、いやはや。

 

当時、私は田舎に住んでおりましたが、この時にはニュースの意味がまったく解りませんでした。「都会の人というのは、随分とおかしな行動をするものだなぁ?」と思っていました。オイルと言えば石油のことでしょう? それが高騰するかも知れないとなると、どうしてトイレットペーパーの買い溜めに走ることになるのか? まるで落語の「風が吹けば桶屋が儲かる」式の話にしか思えませんでした。

 

ま、今はその心理というものも判るようになったのですが、今回、我れ先にと買い溜めに走った方々に言いたいです。「自分のお尻さえ拭ければそれでいいのか!」と。足が悪くておいそれとはスーパーに行けない人もいるだろうし、寝たきりで誰かの世話にならなければ生きていけないという人だっているでしょうに。お知り合いにいません? そういう人のお尻事情のことは、まったく頭をよぎらなかったのかと。

 

いつもは無造作に、カラカラとペーパーホルダーから3回引き出していたところを、この際、意識して1回分に節約し未知の領域にチャレンジしてみるとか、そうして節約できた分を、他の人に分けてあげるということが、なぜ出来ないのか。47年経っても、人間はちっとも進化向上していない。これじゃあ、地球人類のアセンションなど、夢のまた夢だね。

 

あなた方は、二段階の覚醒を経なければなりません。一つめは、ご自分の外界に展開している景色からです。二つめは、あなた自身の固着した意識からです。一つめの景色は、原始人時代とは違い、今の人間は、殆どが何らかの「社会システム」を通過した後の景色を見るようになっています。これがあまりにも当たり前過ぎて、そのことにもはや誰も疑問を抱きません。よって、ここからの覚醒は、非常に難しいものになっています。

 

二つめの固着した意識とは、簡単に言えば「信念」です。「信念」は、その人が暮らす「社会システム」と、その人の「性質(サムスカーラ:過去世から続く傾向)」が合わさって生じます。この「信念」こそが、あなた方の「悩み」を生み出し、さらにはカルマをも生じさせる根本原因となっているのですが、人々はそんなことを知りませんし、逆に「信念」固い人が尊ばれ、「信念」を持てとさえ言われているのです。

 

ですから、この二重に覆い被さった「マーヤ(幻影)」からの覚醒は、現代では至難の技です。しかし、これまで説明して来たように、外界に映る世界というものが、自分の意識の投影なのだということ。つまり全ては「マヤ化し」であることをを理解し、自分の意識を変えれば、世界も変わって見えるというだけでなく、違った世界をも創造できるということに気づけば、そこに脱出への糸口が開かれるのです。

 

この「自由への脱出」を、わずか20分ほどで完了してしまった聖者もいると聞きます。確かに、それは不可能ではありません。「真我(アートマン)」は、その人が元々持っているものですから、マーヤを全て捨てて、ストンとその中に落ちれば、直ちにアセンションしてしまうことになります。しかし、あの釈迦ですら「六年麻麦の行」を経て次に進んだのですから、焦らずに、しかし熱心に、倦まず弛まず歩む以外にはないのです。

 

前回お伝えした情報(削除しました)は、この世界が、この世界を支配したいと願う一部の「魂」によって、意図的に計画され操作されている、ということを取り敢えずは知っていただきたいと思ってのことでした。でもそれは、全部が「マーヤ」なのです。

 

実に、ここが肝心なところ。これを間違ってはなりません。今まで、闇の世界のことや、オカルトや、超常現象などについて、あまり言及して来なかったのは、そこにしか興味のない人というのがいるためです。そういう人たちにリーチしてしまうことは避けたい。それでは、本末転倒になってしまいますからね。

 

しかし、このわずか数年で時代状況が大きく変わりました。闇の世界のことを知る人が爆発的に増えたのです。それはそれで、一つの必然ですし、そういう語り部が登場することも、その人たちの役割があってのことです。さてそこで、ただ闇を暴露するということではなく、ましてや未来に怯えるということではなくて、これを活用していただきたいのです。

 

あなたは、あなたの周囲に展開される出来事(それは、あなたが創るマーヤなのですが)を、ご自分のために活用できるのです。そしてまた、そうすることが、あなたがこの世で生きて、様々な体験をすることの真の目的であり、価値ある生き方なのです。

 

今なぜ、闇が明るみに出る事態が、加速度的に進行しているのか。これには理由があります。以前にも書きましたが、地球がアセンションする時期を迎え、宇宙から注がれるエネルギーが非常に強くなっているためです。曇り空の時には、影はぼんやりしているでしょう。でも強い日光が当たった時には、影の輪郭がハッキリ見えるし、光が廻り込むので、隠れていたものも見えるようになるのです。それと同じです。

 

隠れていたもの、隠されていたものが、強い光が当たることによって、露わになるのです。異常気象や天災が多発していることも同じ理由です。人間の行いの蓄積によって、ダメージを受けた地球が、そのダメージを放出して揺り戻しを図っているのです。これは個人においても同じ。他者を騙したり、あげつらったり、罵ったりする場面が急増しているのは、その人間の隠れていた本性(魂の性質)が、剥き出しにされているのです。

 

しかし、だからと言って、そういう人たちを糾弾してはなりません。宇宙のすべては、「波動の法則」によって動いています。人間の本性は、時に信じられないほどの残酷さを見せることがあります。でも、その人間を糾弾した場合、糾弾した人は、即座に相手と同じレベルの波動に落ちるのです。相手と波長が合うからこそ、「糾弾したい」という気持ちが沸いて来るのです。そのことをみんな知らないで、避難の応酬合戦をしています。

 

知識人と言われる人とて例外ではありません。むしろ、知識も教養もある人の方が、自分の「信念」を声高に主張し、自分とは異質な者に対する闘いを挑みます。しかし、ここで気がついていただきたいのです。そのようにして、「信念」の応酬を個人間で行ったものがケンカ、組織間で行ったものが闘争、国家間や民族間、宗教間でおこなったものが戦争、だという単純な原理にです。それらはみな相似形を為しているのです。

 

ではその根底にあるものとは何でしょう? 自己と他者との分離意識です。俺とあいつとは違う。あるいは、俺らとあいつらとは違う。そのような思いから出発して、仲間意識と敵対意識の両方の「信念」を、各人が自分の中に育て上げるのです。およそあらゆる戦争が、「防衛」と「正義」が口実になって始まっている、という事実に注目してください。そして、それは今も変わりません。

 

儲け話に心を動かされる人がいるから、詐欺師に騙されるのとまったく同じで、ヘイト意識を刺激されるから、戦争屋の策略にハメられるのです。もういい加減、人類はこの単純な原理に気づくべきです。今やっと、そのチャンスが訪れたのです。あなた方は見抜かねばなりません。この世の今の「社会システム」そのものが、壮大なる詐欺システムであり、人類を覆い尽くす大茶番劇であることに。

 

強い光が射し込むようになったことで、今までは気づくことのなかった、表の「社会システム」の裏側が、どんどん炙り出されるようになって来ました。投資家、グローバル企業、マスコミ、政府、政治家、官僚、警察、検察、裁判所、医療システム、教育システム、そして国連をはじめとする国際機関すらも、全部が裏を牛耳る者によって操られています。彼らは、自分が操られているとは少しも思わないまま、一般人を操っているのです。

 

その裏社会を牛耳っている者たちの奥には影の者たちがいる。そして、影の者たちを、さらにその奥にいる闇グループが支配しているのです。こうして、闇→影→裏→表という順番で、支配のヒエラルキーが出来上がっている。しかしここで、その詳細を追いかけることは致しません。追及しようとしたところで、所詮は分からないことですし、そんなことに興味を持ったら、直ぐにその波動にハマってしまいますからね。

 

それよりも、なぜそんなことが可能なのかを考えてみてください。あなたは、カラ領収書を書いてもらったり、カラ出張をしたりした経験がないでしょうか? 私はあります、何度も。勤め人をしていた時代に、上司からやり方を手ほどきされました。このようなちょっとした不正、ちょっとした嘘、ちょっとしたチョロまかしは誰もが経験している。そういう心を刺激して、束ねれば、闇→影→裏→表までの一直線の支配が可能になるのです。

 

ここで考えていただきたいのは、人類削減計画のような恐ろしい企て、人類家畜化計画のような非道な謀略を考える闇の人たちが、信じられないほど残虐な人間なのかということです。そうではありません。残虐・非道なことを実行するのは、末端にいるごくフツーの人間なのです。闇の人間たちは、豪勢な邸宅に住んで、まるでチェスの駒のように、それを見て動かしているだけなのです。

 

ここに、重要な秘密と、この支配の構図からの脱却へのヒントが隠れています。今の「社会システム」を、制度だけで変えようとしてもうまくはいきません。それは、人々の心のあり方、もっと言えば意識の成長度合いの問題だからです。地球人類の意識が成長しなければ、覚醒への一つめの課題である、この奴隷的「社会システム」からの脱却は出来ません。しかし逆に、もし意識がジャンプすれば、「社会システム」が一挙に変わる可能性も秘めているのです。

 

みなさんは、闇のグループが、どうしてそんな狂人的計画(見方によってはマンガチックですらある)を何百年にも渡って代々遂行し続けているのか、ときっと疑問に思うことでしょう。単に「お金のため」というのではないことくらいは誰だって分かる。しかし、この常軌を逸した執念は何なのか、と不思議に思われるでしょう。ある人は、「彼らは悪魔教を崇拝している」と言い、合理的理由づけをしようとしています。しかしこれは、ちょっと違う。

 

悪魔教というのは、キリスト教的な二元論に立った見方です。「善」の立場から見ると、彼らは悪魔を崇拝している「悪」なのだと。でも、最近のコピー用紙はどっちが表か裏か判らないじゃないですか。とりあえず最初に刷った面の反対側が裏になる。それとおなじことで、彼らは彼らなりの正義感と信仰を持っているのです。そして、強い「信念」の下に、彼らが描く理想社会を実現したいと考えているのです。

 

みなさんは、闇のグループが、なぜ「イルミナティ(Illuminati)」と呼ばれているのかご存知でしょうか? イルミナティとは、〈“Illumination” を受け取るに値する人〉の意味です。つまり、光り輝く段階に達した人のことを言っているのです。これは、もともと白色系の神秘主義の秘密結社にあった段位で、闇グループの名称は、この段位をそのまま模しているのです。つまりは、黒色系のイルミナティというわけです。

 

闇グループは、その中心的組織の形成段階において、白色系神秘主義の一部を中に取り込んで、白を黒に変えてしまったんですね。その意味で、両者は非常に似通っており、ただ進むべきルートが違うというだけ、とも言えるのです。ここを理解しないと、この壮大なる不思議が解けない。

 

糾弾していると誤解していただきたくはないのですが、悪魔を創り、育てたのはキリスト教なのです。なぜか? 自分たちを「善」だと言うためには、反対側に「悪」が必要になる。「悪」がもし無ければ、「善」は成立し得ないのです。まさしく「闇」と「光」の関係です。両者とも、それは単なる「概念」に過ぎないのですが、「善」を標榜する者は、必ず反対側に「悪」の存在を必要とするのです。

 

これが、組織宗教というものが共通して抱え続けて来た、そして今日も抱え続けている不毛の論理であり、地球人類のカルマなのです。自分たちが信じる神、信じる経典、信じる教義のみが正しく「善」であると言う。すると、それ以外は全部「悪」なのだということになってしまいます。そこで、宗教間の非難応酬合戦が絶えず繰り返され、エスカレートしたした際には、本当の戦争へと突き進んでしまうのです。過去の歴史は全部そうです。

 

ですから、人類はここを乗り越えなくてはなりません。不毛の論理を超越しなければならないのです。そういう段階に、人類が至ったということです。魚座の時代(宗教対立の時代)は終わり、水瓶座の時代(真理が流れ込む時代)に既に入ったのです。世界大戦がもう一度必要でしょうか? 同じことの繰り返しは、もうここでスッパリと断ち切りましょう。そして次の次元へと進みましょう。

 

そのためには、全体の構造をよく理解することが大切です。「善」が「悪」を駆逐するという論理は不毛です。どこまで行っても切りがなく、カルマの繰り返しでしかありません。「正義」をかざせば、反対に「不正義」(と見なすもの)を、自分で自分の中に育ててしまうのです。この理屈を理解しなさい。解りますか? すべては「意識」の世界なのですよ。外側に顕現するものは、全てあなたの「意識」の投影なのです。

 

「理想」というものを、あなたはお持ちですか? あなたが想い描く「理想社会」とはどんなものでしょう? 人間は、霊的学習の途上にある存在です。「魂」が、自己愛と他者愛の二極性を実地体験学習するために、身体という衣を纏って、この地上世界に降りたのです。ですから身体は、地上という物理的世界を生きるための、それは単なる乗り物、借り物に過ぎないのです。ここを先ず理解してください。

 

霊性密度の第三から第五までが、愛の二極性を体験する段階です。この領域の中で、両方の体験を味わい尽くして、第三→第四→第五へと霊性が向上して行くのです。

 

自己愛それ自体は、愛の本質でもあり、肯定されるべきものですが、本質からずれるとエゴに傾きやすいという性質を持っています。一方の他者愛は、一見するとよいことのように思えて、偽善や形を変えた支配に陥りやすいのです。わが子に対する親の愛情や、好きな異性に対する愛情は、本人はそれを「愛」だと思っているのですが、実は支配欲求の発露という場合が少なくありません。結局、それもエゴの変形なのです。

 

このようにして、自己愛と他者愛の両方を行ったり来たりしながら、みなさんは心の揺れ動きを体験し、悩んだり傷ついたりしながら、本当の「愛」とは何かを少しずつ学習して行くのです。

 

しかし、その行ったり来たりは、ある見方からすれば非常に中途半端に映ります。そこで、いっそのこと自己愛に徹してしまった方がよいと思う「魂」が、必ず出現して来ます。そういう「魂」は、ある意味で、一つの道を極めようとする「求道者」なのです。地球という惑星は、宇宙に置かれた監獄で、牢名主が幅を利かせる世界ですから、結果として、そのような「求道者」が世界の実権を手にしているのです。

 

しかし、ここで考えてみなければいけないのは、いつも言っている通り、もしも詐欺に引っ掛かる人が一人もいなければ、詐欺師は成り立たないということ。ですから、ほんの一握りに過ぎない闇の支配者が、世界を牛耳ることが出来ているのは、闇の支配者の支配に、大多数の人々が、それとは知らず協力しているからなのです。みんなで一致協力して、そのような世界を創り上げている。だから、みんな喜んで、自ら進んで奴隷になると言って来たのです。

 

支配者は、人々を「恐怖心」によって支配します。それがいちばん楽で、効果的であることがすでに解っているからです。よく注意して見れば、メディアも、金融も、政府も、企業広告も、教育も、医療も、宗教も、そして霊能者も、みんな「恐怖」ばかり煽っているということに気がつきませんか? これが、彼らの支配戦略なのです。恐怖で支配するのです。

 

しかしそれは、宇宙の理法ではありません。宇宙を司るものは一つです。その一者が、どうして自分で自分を怖がらせる必要がありましょうか。バカげています。今こそ、そこに気づいてください。一人になって、静かになってみれば、それがどれほどバカげたことか、直ぐに解る筈なのに‥‥。全世界の人間が、いとも簡単に引っ掛かって、何千年、何万年もの時を過ごして来たのです。それもこれも、無智なるがゆえです。

 

今、全世界には77億の人間がいると言われています。その77億人、全員が一人ひとりみな違う外見と個性を持っているのです。これって、凄いことだと思いませんか? さてそこで、「違い」にスポットを当てて、自己愛のみを徹底させるとしましょう。すると、自分以外の人間は全員、愛さざるべき人間ということになります。しかしこれではとても生きていけませんし、支配もできませんよね。

 

そこで人は、同質だと思われる人間と、それ以外の人間とに分ける妥協点を、どこかに見い出そうとするのです。それは、血縁、同族、出自、階級、地域、国家、言語、人種、組織、主義思想、利害関係、などであったりします。そして、そのインナーサークルに限ってだけ「愛」と思われるものを行使し、それ以外の外側にある者は排斥しようとするのです。

 

これは多かれ少なかれ、殆どの人間が持っている意識です。人類のカルマと言ってもいいでしょう。

 

闇の支配者は、その心理を巧みに突いてきます。人々を分断させ、競わせたり、嫉妬させたり、疑心暗鬼にさせたり、恐怖心を抱かせたりすることによって、全体の支配を可能にしているのです。

 

しかし、77億の人間を、まったく別の角度から見ることも出来ます。それは、全員の個性の奥に、何かしらの共通したものが、確かにあると感じる一瞬。それを、あなたも感じたことがあるはずです。旅に出た時、食事をともにした時、挨拶を笑顔で返して貰った時、音楽を聴いた時、アートに触れた時、海外ドキュメンタリーを見た時、「ああ、人はみんな一緒なんだな」と思う瞬間が、ありませんでしたか?

 

あるのは当然なんですよ。なぜって、源が一緒だから。77億の「魂」は、すべてたった一つのものから生じたのですからね。でも、「みんな一緒なんだ」というその感覚は長続きしない。あなた方は直ぐに、元の、社会が提示する分断に引き戻されてしまいます。なぜでしょうか? あなた方の中にある、「自分と他者は違う」という感覚の方が優ってしまい、せっかく湧き起こった「一つ」という感覚を、直ちに否定してしまうからです。

 

階段は、昇るよりも降りる方が楽です。恐怖心や闘争心を煽る社会は、常に低い波動を発していて、人間を、この波動に同調させるように仕向けています。その波動の大元が、霊界にある「魔」のエネルギーなのです。ですから、表→裏→影→闇の奥に、もう一段階の「魔」が存在している。それは意識の集合体で、人々が、恐怖心や闘争心に駆られれば駆られるほど、波動の法則によって同種のものが引き寄せられ、力を増すことになるのです。

 

ですから、それを悪魔教と呼べば、そう言えないこともありませんが、実体は、単に人々の意識のありようの問題だということです。従って、これをオカルティックに捉えてはなりません。オカルティックに見ること自体が、すでにその世界からの誘惑なのです。これに簡単に引っ掛かってはなりません。そこに気づきましょう。好奇心や恐怖心は、それらエネルギー体にとっての餌なのです。

 

いつも言っているように、人類の集合意識がどこへ向かうかによって、未来などいかようにも変化するのです。そして、今がその覚醒へのチャンスなのです。冒頭で、あなた方は、二段階の覚醒を経なければならないと言いました。一つめは「社会システム」の拘束からの目覚め、二つめは自分自身が創る「信念」の拘束からの目覚めです。しかし、必ずしもこの段階を経る必要はありません。

 

自分の「信念」をすっかり捨ててしまえば、自動的に「社会システム」の拘束からも自由になるのです。ですから、「社会システム」について精通する必要はありません。知識人がいて、各人がいろんな立場からいろんなことを言いますが、他人を小馬鹿にする人や、特定の主義主張に凝り固まった人の話は無視するに限ります。知識は、時に覚醒の邪魔をします。古代から言われて来たように、赤子のように、純粋無垢であった方がずっとよいのです。

 

今回は「社会システム」の闇について、構造をお話ししましたが、それを知った上で、次にはもう忘れてください。くれぐれも夢中にならないことです。夢中とは、まさに夢の中。夢の中にいたのでは目覚めることは出来ません。四次元の河にハマらないように、あなたは、ご自分の理想社会だけを胸に思い描いて、強く強く前に進んで行ってください。

 

意識のありようだけが重要なのです。もうそれしかないのです。周囲に見えるものはみな幻。それを忘れないようにして、日々を明るく、元気よく、誠実に、周囲の人々に親切を尽くし、かつ楽しんで、人生を生きてください。

 

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今月から、新しい試みをしてみたいと思います。

毎月、1日、11日、21日の3回、

21時から21時15分までの15分間、

「PEACE DOME」と名づけた、祈りの瞑想を宇宙に捧げます。

もしよければ、このイベントにご参加ください。

 

「PEACE DOME」の企画意図と詳細についてはこちら ▶

覚醒への試練

霊的成長という観点から眺めたとき、地球には三段階の人間が存在します。

 

先ず初めは、「人は身体だけの存在ではなく、同時に霊的な存在でもある」ということにまだ気づいていないか、もしくはそれを否定してしまっている人たち。いわゆる「無智」の段階にある人々です。二番めは、魂の存在、あるいは霊的世界の存在に多少なりとも気づきがあり、その本質に迫りたいと願うようになった人々です。そして三番めは、もはや宇宙の本質を我がものとし、霊的世界を下敷きに生きるようになった人間、いわゆる「覚醒」を成し遂げた人物です。

 

この三段階は、霊的成長の大まかな区分を示しているのですが、あるところで急に変わるというものではなく、徐々にグラデーション状に推移して行きます。この中で、「無智」の段階にある人というのは、たぶん3割ていどでしょう。ある調査によると、日本では「無宗教」だと答える人の割合が7割を占めるということですが、自然崇拝の文化的伝統があるので、「霊的世界というものは多分あるんだろうな」という感覚は、意外にも多数の人が持っているのです。

 

ところが、「霊的世界というものがあるんだろうな」と思ってはいても、それを突き詰めようとする人となると、数はグッと少なくなります。おそらく100人に1人程度でしょう。ですから99パーセントの人は、深く追求することなく、理解を曖昧にしたまま、なんとなく「霊的世界」を信じているといった状況です。しかし、その100人に1人の中でも、運よく覚醒(ascension)への最初の扉を開けることができ、その先を進もうと決意する人は、さらに1パーセントしかいないのです。

 

この「光への道」の最初の扉は、ある日、唐突にやって来ます。宇宙を支配している超越的存在があることに、突如、気がつくのです。それはむせるような歓喜とともにやって来て、理屈によるのでもなく、言葉でもなく、法や、愛や、生命の本質というものを、いきなりドカンと、丸ごとその人は受け取ることになるのです。これが、最初の目覚め(awakening)です。

 

しかしそれは、真の覚醒(ascension)ではありません。ここで夢々錯覚してはならないのです。それは、ただ最初のスタートを切ったというだけの話。最初の扉をこじ開けたというだけであって、ここからがいよいよ本番。真の覚醒に向けての、本格的な試練が始まるのです。それは、一体どんな試練なのか?

 

それを説明する前に、「アセンションする」ということを、人間の「意識」の観点から見てみることにしましょう。アセンションとは、その主体(意識的存在)が、第三霊性密度の領域から、第四を通過し、第五霊性密度の領域へとジャンプすることを言います。さて以前に、人間の意識は一重ではない、ということをお話ししたのを覚えておられるでしょうか? 潜在意識、顕在意識、超意識、超絶意識の四重になっているということを。

 

第三から第五へジャンプするというのは、「意識」で見た場合、「顕在意識」から「超意識」への飛躍を意味します。別の言葉で言うと、「自我」から「真我」へのジャンプです。「自我」というのは、「魂」が、この世に個別的肉体を持って誕生し物質世界を生きることになったため、それに適応するようにして形成されたところの「意識」です。一方の「真我」は、霊界にいた時から継続して所持している、本当のわたし、真のわたしの「意識」です。

 

この、本当のわたしの「意識」は、個別性はまだ有しているものの、カルマが解けて、極端な偏りや尖ったところが無くなった存在になっています。そしてさらに先に、「真我」が完全に「一なるもの」に融合した状態の「神我」(=超絶意識)があるのです。この最終領域への到達が、いわゆるニルヴァーナ(涅槃)です。さて、話をシンプルにするために、超絶意識や潜在意識のことには触れずに、「自我」から「真我」への上昇という点だけに話を絞って、論を進めて参りましょう。

 

この宇宙は、(こちら側から見て*1)何もない「無」の世界から先ず誕生しました。そして誕生するやいなや二極性を生じ、この二極性をフルに展開することによって、途方もない多様性を持った現在の宇宙が出来上がったのです。その名残りが、今もハッキリと刻印されています。あなたの周囲にあるものをよく観察してみてください。極小から極大のものまで、宇宙のあらゆるものは二極性を有しています。この二極性の間に新たな創造が生まれる、という法則性*2を、宇宙は持っているのです。

 

*1こちら側から見て:「無」の反対側に別の宇宙がある可能性があります。

*2法則性:これを「三角形の法則」と言います。二極性の間に新しいものが生まれることを▽(正反合)で示し、これが末広がりに拡大することを△で示しています。

 

ちなみに、宇宙の創世に関して、『新約聖書』には次のような記述があります。「初めに言葉があった。言葉が『光あれ』と命じ、次に光と闇ができた」。この「言葉」は、ギリシャ語では「ロゴス」となっており、最初に日本語訳をした人が、悩んだ挙句に「言葉」と訳し、これが定着してしまったのです。しかし「ロゴス」は、英語の「logic」の語源ですから、むしろ「法」と訳した方が適切です。つまり、宇宙の法が、先ず二極性を産んだということを物語っています。

 

 

図1を見てください。人間の「意識」は、「真我」に迫るほど、一なるものに近づくことになるので、二極性は中央に収斂されて行きます。つまり二極の「分離」状態から「合一」へと向かうのです。

 

一方、物質世界を生きている「自我」は、まさに二極性そのものの中にあります。この結果、「自我」は、陰陽二極性の間を、絶えず、まるで振り子のように激しく揺れ動いてしまうことになるのです。右か左か、賛成か反対か、行くべきか止めるべきか、etc.。これが「心」の迷いの、実は正体なのです。

 

でも、それでは人間は気持ちが悪いので、大抵の人が心の安心を得ようとして、先ず、自分の立ち位置を決めたがるのです。これが、所属や肩書きを切望する認知欲求です。自分に鎖をつけ、柱に縛りつけることで、荒波にも絶対に流されまいと図るわけです。

 

しかし、そのようなポジションを、おいそれとは見い出せない人は、主義主張(の固定概念)にそれを仮託しようとします。そして、主義主張をより鮮明化するために、仮想敵を作って、それを攻撃するという手段に出るのです。

 

これが、現代の、国家主義や、ヘイト意識や、ディする意識の異常なまでの広がりなのです。例えば、保守を自認する人は、自分の保守思想と合致しない人たちには、みんな「左翼」のレッテル貼りをして攻撃をします。そのことで、自分が右側のポジションだということを示そうとするのです。しかし、ここにはもっと深い、「魂」レベルでの欲求が隠れているのです。

 

前に、ヘイトしたがる人の心の構造について話をしました。AさんはBさんが嫌いで、Bさんを憎んでいるとします。しかしその「思い」というのは、Aさんのものなのです。ですからAさんは、アンチBというポジションに自分を設定することで、Bさんへの思いと、アンチBという思いを、自分の中に同時に出現させているのです。そうすることで、無意識に心のバランスを取っているわけです。もちろん、本人はそんなことには気づいていません。相手をヘイトすることで、自分の承認欲求が満足させられると思っているのです。

 

これは、由々しき問題です。それは「無智」(頭の良し悪しはまったく関係なく、霊的に「無智」ということ)なるが故の行動で、実態は、自分の心の中にしじゅう股裂き状態を創造しているわけです。これが、その人の精神性にダメージを与えないわけがありません。甚だしい場合には、身体細胞にもそのアンビバレンツが及びます。そうした状態が繰り返し続けば、いつかは「病気」という形をとって、修正するよう気づきが図られることになります。

 

そのようなわけで、「無智」の段階にある人は、二極性の間を一生迷い続けて、その生涯を終えます。ところが、そのような一生の中でも、どんな人にも「真我」に触れる瞬間というものが、何度かは必ず訪れるのです。それは守護霊たちの計らいによるものなのですが、直感や、ビジョンや、言葉や、出来事としてそれが示されます。「真我」に触れた瞬間には、パーッと心が晴れたり、「感情」が動いているわけではないのに、ただただ涙が溢れ出て来たりします。

 

注意していれば、それは「思考」や「本能」や「感情」を超えた、別の「意識」であることに気づくのですが、いま書いているような知識は殆ど誰も持っていませんので、99パーセントの人が注目することなく、これをやり過ごしてしまうのです。またそれだけではなく、この世は「自我」というものを肯定する世界ですので、それを超えた「意識」については、幻覚とか錯覚とか幻聴といったレッテルを貼って、排除までしている始末なのです。

 

しかし、このような見なし方は正しくありません。それは、幼い子どもや、臨死にある人たちを観察していれば、自ずと解ることです。

 

幼い子どもの場合は、脳が未発達なために、まだ「自我」が充分に育っておらず、したがって「真我」が優位に立った状態で生きています。子どもの一人遊びは、大人から見れば「空想」の世界で遊んでいるように見えますが、子どもたちからすれば、大人の世界こそが「空想」で、自分が遊んでいる世界の方が本物なのです。7歳くらいまでの子に、「どうして我が家に生まれて来たの?」と聞けば、ちゃんと答えてくれます。

 

一方、事故などにあって臨死状態にある人が、意識不明だと聞くと、関係者は例外なく心配し、早く意識を回復して欲しいと願います。そして意識が戻ると「あぁ、よかった」と言って安心するのです。しかし、この「意識が戻る」というのは、「自我」意識のことであり、昏睡状態にある際には、幼児とは逆プロセスで、その人は「真我」を取り戻す準備に入っているのです。この時に、「魂」はいわゆる臨死体験というものをしているのです。ですから、何の心配も要りません。

 

このように、「真我」は、そもそもその人に備わっているものです。ところが、「自我」が育つ過程で、入れ替わりに忘れ去られてしまうのです。そして遂には、これがまったく顧みられなくなり、存在自体を自分で否定してしまうのです。その結果、多くの人が「無智」に陥って、代わりに嘘の情報で頭をパンパンに膨らませ、二極性の間をフラフラしたり、意識構造の中を堂々巡りしたりして、(図2)悩み続けるのです。

 

この世は、霊的世界とは価値観がひっくり返った世界です。試しに、図1の三角形をひっくり返してみましょう(図3)。ここでは「自我」が前面に出ていて、「真我」は底深くに沈んでいます。

 

あなた方の世界では、「自我」を誇示することが礼賛され、それを人生の目標とし、またそうすることが当然だと思うように教育されます。社会全体がそうですので、誰もその価値観を疑わないし、「真我」を見い出そうとする人は、全くと言っていいほどいません。

 

けれども、「真我」は失われてしまったわけではありません。「真我」はいつも、その人と共にあるのです。ただ、衣装ケースの奥深くしまい込んで、忘れてしまったというだけです。なぜ忘れてしまったのか? 「自我」が芽生えると子ども心を失くし、大人になるに従って、流行ファッションばかりを追い求めるようになったからです。自分の外にある様々な刺激的な話題が気になり、衣装ケースの表面だけを取っ替え引っ替えするので忙しい。子ども時代の一人遊びは、もう出来なくなったのです。

 

でも、この表面をすっかり取っ払ってしまったら、忘れていた「真我」は必ず現れ、その中にストンと落ちることになるのです(図3)。これが、真理の世界で、「努力は要らない」「そのままでいい」「最初から救われている」と、繰り返し説かれて来たことの理由なのです。その言葉だけを聞いたら、まるで意味が解らない。でも、とうとうこれで解ったでしょう? 「真我」は、到達すべき目標などではなく、あなたの内に最初からあるのです。今この瞬間もね。

 

Be Here Now !

努力は要らない。

そのままでいい。

 

実にシンプルです。あまりにもシンプル過ぎて、きっと拍子抜けしてしまったことでしょう。ところが、これが超難関なんですね。何がそんなに難しいかというと、「自我」を捨て切ることが、みんな出来ないのです。アセンションの難しさというのは、到達することの難しさではなく、捨て去ることの難しさなのです。でも、この逆転現象を誰も知らない。知らないまま、みんな到達に向けて必死に努力しようとしている。だから、成就できない。

 

今まで、いろんな喩えを使って、このことを表現して来ました。梯子をすべて降り切れば自動的に引っ張り上げられるとか、思い切ってバンジージャンプをすればいいとか、砂袋を捨てれば気球は自然に浮かぶとか。それらは全部、同じことを語って来たのです。逆三角形で示した図の「自我」部分をぜんぶ取っ払ってしまえば、その人は、難なく「真我」に転げ落ちる。だから努力は必要ない。しかし、「自我」にしがみついている間は、底に転げ落ちることは大変な「恐怖」に映るわけです。

 

最初の目覚めを経験したとしても、「自我」を捨てる道に進む決意をする人は、100人に1人しかいません。残りの99人は、「自我」にホームポジションを置いたまま、「スピリチュアル」という言葉に惹かれ、泉に水を汲みにやって来る。ザルで水を汲みに来ても持って帰ることは出来ないんだよ。水で満たすためには、ザルごと沈めるしかないんだよ、と言っても、「ザルごと水に沈めるんですよね」とただおうむ返しに言うだけであって、本当にそれを実行しようとする人は、まずいない。

 

そんなわけで、あなた方の大半は、「真理」の世界に触れてみたいと願いながらも、「なにがなんでも」といった強い情熱がないために、毎日その試みに失敗しているのです。受け取る器がザルだから。そして、100分の1のそのまた100分の1の、1万人に1人くらいが、ようやく「光への道」へと進んで行く。でも、その人たちの行く手に待ち受けるものは、避けて通ることの出来ない、またその段階に至った人にしか解らない、厳しい試練なのです。

 

その試練は大きく三つある。

 

第一の試練は、いわゆる「ヴァイブレーション(波動)」が知覚できるようになることです。これだけを聞くと、知らない人はよいことのように思えるかも知れません。しかし、この能力が開花すると、波動に敏感になる余り、粗雑な波動に接した際には、槍で突き刺されるような痛みや、めまいや、吐き気に悩まされることになるのです。人混みは耐え難く、買い物にもなかなか行けない。ニュースもドラマも見ることが出来ない。耳鳴りは凄まじく、自分の心臓の拍動すら知覚してしまう有り様。

 

いやはや、この世の波動の粗雑さといったら、まるでガード下で暮らしているような凄まじさです。生まれつき、こうした敏感な知覚能力を持っている人というのも、相当数いるのですが、周囲の人を見るとみんな平気な顔をしている。そこで、自分の頭がおかしいのでは?とみんな思うのです。そして精神科を受診すると、適当な病名を付けられてクスリを渡され、それを服用しているうちに、本格的な精神病に移行してしまうという人が、いーっぱいいる。まったく、何てことでしょうか。

 

第二の試練は、未だ捨てきれないエゴの残りカスが、後から後から湧いて来ることです。一つ克服できたかなと思うと、直ぐに次がやって来る。これは、外からの誘惑という形によってもたらされます。それはお試しで、そのことによって自分のエゴというものに気づかされるのですが、うっかり誘惑に乗ってしまったら、たちまちにして「自我」の世界に逆戻りです。一方、ここで適切な処理を誤れば、自分の未熟さや、不安定さや、卑小さに苛まれるということになってしまうのです。

 

そして第三の試練は、カルマの総ざらいをしなければならなくなるということです。カルマというのは、その人の前世で、うまく清算できていなかった「思い」です。この「思い」が残っているために、いま一度それと向き合い、きちんと清算するチャンスを欲して人は輪廻転生して来るのです。ですから、今世でアセンションを達成しようとした場合には、残っているカルマを総ざらいしなければならなくなってしまう。従って、その人の今世は、ずいぶんと辛いものになります。

 

別に脅しているわけではないのですが、以上の三つが避けては通れない試練で、これらは「Dark Night(暗夜)」とか「四次元(第四霊性密度)の河」などと呼ばれています。加えて、「四次元の河」を渡る途中で、河に落ち、溺れてしまうという場合もある。「信仰」や「オカルトへの興味」が誘う罠がそれです。宗教を入り口にして、「信仰」を経験した後に、これを捨てるという道はある。しかし、教義や戒律を「信じ」続けている限りアセンションは不可能です。なぜって、それを手離せてないのですから。

 

「オカルトへの興味」というのも、これは「四次元(第四霊性密度)」世界への執着そのものであり、これに強い興味を抱き続けることは、その人の意識を「四次元(第四霊性密度)」世界に固定してしまいます。すると、何度転生して来ても、またそこに惹かれて河に落ち、結果として輪廻転生の回数を倍化してしまうことになるのです。

 

不思議現象を不思議だと思っている間は、箸にも棒にもかからない。「不思議現象などどこにもない」と思えて、初めて「四次元の河」を渡り切れるのです。

 

このように、エゴ、宗教、オカルトの三つは、アセンションの三大タブーであり、この三つをすべて手離さない限り、「四次元の河」を渡り切ることは、絶対に出来ない。要は、これらの試練を乗り越えるだけの「自由への欲求(Disire to freedom:「自我」の拘束から完全に脱却する)」の炎を、それはそれは激しく燃やすことがない限り、乗り越えられるものではない、ということです。ですから、このブログでも「覚悟しなさい」ということを、繰り返し言って来たのです。

 

日本に生まれたみなさんは、とても恵まれているのですよ。貧しくても、今日のご飯に困るという人はいないでしょう。街も比較的きれいですし、街中でドンパチ騒ぎもありません。自然が豊かで、水は豊富にあります。お店にはたくさんの商品が並んでいます。医療保険制度だってある。何を発言しようと自由ですし、また発言のせいで逮捕されたり処刑されたりということもありません。信教の自由は保証されていますし、女性もスカーフを着用する義務はありません。

 

これらの恵みは、前世までに積んだ、あなたの「徳」の賜物です。人間として生まれることだって、実は大変なことなんですよ。地球にはいま77億人がいて、人口増加がまだ続いています。この人口爆発が、今なぜ起こっていると思いますか? 今度の「地球のアセンション」の機会に、自分もあやかりたい、経過を体験したい、という「魂」が、大挙して押し寄せているからなのですよ。ま、例によって、本人はすっかり忘れてしまったみたいですけれどね。

 

それなのに、これほど恵まれた環境にあるあなたが、「よし、なにがなんでもアセンションしてやるぞ!」と決意しないでどうするのですか? この次の「転生」があるという保証は、今のところ提示されていないんですよ。この先、地球がアセンションしてしまった暁には、修行中の「魂」が生まれ変われる惑星はもうないのです。その「魂」は、数千年、ひょっとしたら数万年も、第四霊性密度に留め置かれる可能性がある。人間に生まれるというのは、それほど大変なことなのですよ。

 

地球という惑星は、第三霊性密度下にある二極性を体験学習するために、宇宙に用意された特別な星です。この惑星上では、二極性の引っ張り合いに巻き込まれるために、人間は数多くの苦悩を体験します。それは、その成長段階にある「魂」のために用意されたもので、言うなれば「気づき」を得るための「愛の鞭」なのです。あるメッセンジャーは、地球を「流刑地」と呼び、あるメッセンジャーは地球を「監獄」に喩えました。

 

*コリーヌ・セロー監督の『美しき緑の星(La Belle verte)』というコメディ映画があります。この映画は、霊性の進んだ星に暮らす宇宙人たちが、他の惑星を表敬訪問する人を定期選抜するというシーンから始まります。司会役が候補地の名を順番に上げて行くと、希望者の手が次々と挙がります。ところが「地球!」と言ったとたん、みんなショボンと下を向いてしまい、手を挙げる人が誰〜れもいなくなってしまうのです。

 

地球は、「自我」によって「自由」を奪われた、正に「監獄」です。ここでは価値観が逆転していて、ずる賢い牢名主のような人間が、他の人々の「自我」を操ることで、社会を支配しているのです。人々は、働き蜂や兵隊蜂やパシリとして支配者にコキ使われているのですが、支配されているということに全く気づいていません。それどころか、自ら進んで、働き蜂や兵隊蜂やパシリになるのです。それは、人々の「自我」が、支配者が繰り出す引っ掛けに、簡単に同調してしまうためなのです。

 

しかしこれをもって、支配者だけを糾弾するわけには行きません。よく、儲け話に引っ掛かったという話を聞くでしょう。どうして儲け話に引っ掛かるのでしょう? それは、引っ掛かった人の「自我」にも、「儲けたい」というエゴがあったからです。そこで、類は友を呼ぶ「波動の法則」によって、〈儲け話に騙される〉という現実が、両者の一致協力のもとにそこに「創造」されたのです。もしもその人に、「儲けたい」というエゴが無かったとしたら、この現実は起きないのです。

 

このようにして、地球という惑星は、エゴの突っ張り合いが社会の根底を為してしまっているのです。他ならぬ「スピリチュアル」という業界にしろ、「宗教」にしろ、所詮はエゴの塊です。「自我」を捨てる気などさらさら無く、「自我」のエゴの上に、ありがたそうな「スピリチュアル」という付加価値をくっつけて、高く売りつけているだけです。しかしそれも、それをありがたがる人がいるからで、両者の波動が合うから成立しているのです。

 

ということで、このような環境にいる以上、いくら「努力は必要ない」と言っても、「自我」の誘惑を断ち切ることは非常に難しい。だから一気には切れない。少しずつ手離して行って、ほぼ抜けたかなという心境になるまで、最低でも4・5年は掛かる。そうやって、やっとのことでアセンションが達成される。しかし、ここまで到達するには、途中99人が脱落する。

 

結局、100分の1の100分の1のそのまた100分の1で、1000000万に1人という程度しかアセンションできないということになってしまう。‥‥今まではね。今、このような活動をしているわけは、隠されたダイヤモンドの原石を掘り起こし、これを磨く手助けをして「アセンション」する人間をもっと増やせ、という司令を受けたから。私に出来ることはそこまで。

 

でも、「光への道」は、これが最終というわけではありません。その先に、真の合一(神我、ニルヴァーナ)という段階がまだ控えているのです。しかし、地上に生きながらにして、この段階に至る「魂」は極めて稀だとされ、同時代に地球上に二人は存在しないと言われています。

 

元の三角形△の形に戻りましょう。(図1)「自我」は、第三霊性密度(物質界)に対応した「意識」で、三角形の底辺部にあります。しかし、普段は意識していなくても、「真我」の意識は同時につねにあるのです。静かな環境に身を置き、心を静かにしていると、この「真我」が、あなたにメッセージを送って来ることがあります。それは、本当のあなたからの、あなた自身へのメッセージなのです。そこには重要な示唆が含まれています。ですから、これを無視しないようにしてください。

 

ただし「重要な」というのは、あくまで「魂の成長にとって」という意味ですので、これを「損得」で捉えないでください。魂の成長のために「こっちの道を行け!」というアドバイスは、「自我」の尺度では「損」に見える場合が往々にしてあります。ここで、考えたり迷ったりしていてはダメなのです。多くの人が、考えた末に「自我」に負けてしまいます。しかし、行く時には行かねばなりません。Go Go! だから、バンジージャンプをせよ、としつこく言っているわけです。

 

このようにして、「自我」を少しずつ手離して行き、四次元の河もどうやらこうやら抜けて、「真我」をホームベースに置いて生きるようになると、かつてあれほど興奮や興味を覚えたことにも、ことごとく関心がなくなってしまいます。この世界が、所詮はうたかた、幻だということが、頭だけの理解ではなく、実感として、真実だと悟るようになるのです。

 

ことここに至ると、日常生活でたとえ今までと同じことをしていたとしても、あなたの生き方は、それまでとはまったく違ったものになってしまいます。(図4)意識が「真我」に上がると、二極性の幅がグッと狭まるので、心はあまり揺れなくなります。そして、万物が、この二極性の調和の下に創造されているということが、実感として解るようになります。

 

これがよく言うところの「中道」です。「中道」というのは、どちらか一方に偏らないという意味だけではなく、両極があって一つのバランスがあるということを示しています。それは、二元対立の学習が、その時点で止むということです。そして、かつて自分が通って来た道と同じ旅の途中を、「無智」であるがゆえに同じように苦しんでいる人たちを、手助けしないではいられなくなるのです。

 

このブログが、どれほどの役に立つかは判りませんが、私は私の使命を果たすだけです。「地球に行ってくれる人はいませんか?」と、かつて言われた時に、ついうっかり「ハーイ」と手を挙げてしまったものですから。

初めてのサットサン ―― Q&Aに寄せて

前回の記事中にあった宿題に、投稿をしてくださった方がおられました。許可をいただいた上で、以下にこれを掲載いたします。

 

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「霊的成長への希求」に関する宿題について投稿致します。瞑想をした訳でもありませんし、全くの的外れで回答にもなっていないかもしれませんが、私なりに感じたことがありました。結論から申し上げますと、宇宙や魂が何故霊的な成長を図るのを止めないのかというのは、ひょっとして、「遊び心」(のようなもの)を持った「好奇心」「向上心」「探究心」(のようなもの)があるからではないかと‥‥。「遊び心」と言っても、決してふざけたり不真面目なのではなく、大真面目にそして「ユーモア」を持ってということです。

 

「霊的成長への希求」と「時間の罠」については、私も日々気になっていたので、記事を読み直し、しばらく悶々と考えました。行き詰まったので一度考えるの止めたのですが、slice of life の事がもう一度頭に浮かんだ時、ふと思い出しました。当たり前の事ですが、私は既に幸せなのだと。裕福ではなくても必要な物はちゃんと持っているし、何より愛されていると。ここ数日、体調が悪く疲れて気分が悪かったのですが、「あ、そういえば私幸せなんだった」と思ったら楽しくて疲労感などどうでも良くなり、筋トレをしました(笑)。

 

そしてまた気づき、思い出しました。これも当たり前だとは思いますが、私は成長が楽しいのです。心身ともに幾度なく病みましたが、それも含めてです。なにぶん若輩者ですので未だ悲しみや怒りや不安を感じますが、歳を重ね気づきを得ていくのは楽しいです。ひょっとするとこの「楽しみ」も魂が成長を希求する理由の一つとは言えないでしょうか。私も宇宙の一部であるなら、こんな私の戯言も少しは意味があるのかもしれないと思いました。

 

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ご投稿、どうもありがとうございました。初めての「サットサン」が、意図せずに起きたことを嬉しく思います。『気づきの啓示板』では、コメントもトラックバックも受け付けてはいないのですが、この方は、わざわざ「問い合わせ欄」を使って、宿題に対するご自分の見解を送ってくださいました。

 

「サットサン(satsang)」というのは、「真理との交流」という意味です。『気づきの啓示板』を始めて、もうすぐ8年になるのですが、前回質問をお寄せくださった方と、それに対する私からの応答と、今回コメントをくださった方とのリレーで、初めての「サットサン」がここに成立したのです。実際に出会わなくて、互いに名前を名乗らなくても、「サットサン」の場が生まれたのです。

 

なんて素晴らしいことでしょう。8年めにして。

けれども、今回の「サットサン」には、もっと深い意義があります。

 

ある時、セミナーに参加された方から、「私は長い間メンター(mentor:指導者)を探し求めていましたが、今日やっと出会えました」と言われたことがあります。完全な誤解に、一瞬とまどいましたが、私がその時、即座に返した言葉は「あなたは、『自分にはメンターなど必要なかったのだ』ということを、これから学んで行かなければなりません」でした。

 

メンター、マスター、グル、師。なんと呼ぼうとよいのですが、あなたの外側に「サットサン」の対象を見つける必要はないのです。あなたが、心底からアセンションしたいと願うなら、また本当の自由にたどり着きたいと切望するなら、師を求めて、グルグル回る必要などまったくないのです。

 

セミナーに行く必要もなければ、瞑想をする必要もない。ヒマラヤに行く必要もなければ、ヨーガを極める必要もない。どこかの教団に所属する必要もなければ、信仰する必要もない。マントラを唱える必要もなければ、戒律を守る必要もない。説教を聞く必要もなければ、聖書・聖典を読む必要もない。

 

ない、ない、ない。なにからなにまで、必要ない! 聖書・聖典に耽溺することは、むしろ害毒ですらある。なぜなら、あなたを「聖なる(holy)」という幻想に引き摺り込み、そこに固く縛りつけてしまうから。この際だからついでに言いましょう。信仰者が、「解脱」を達成することは不可能なのです。熱き信仰。それは、「自由(Freedom)」への最大の障害となってしまうのです。

 

あなたの師は、あなたの内に在る。常にあなたと共に在る。あなたが、たとえどんな状況にあろうとも、あなたの師が、あなたを見捨てることは絶対にない。だから、内なる師と常時会話することを習慣づければよいのです。沈黙する師との沈黙の会話をネ。ひとたび内なる師と会話する習慣を身につければ、あなたは、どこにあっても師を見い出すようになる。なぜか。それは、あなたの内なる師の、その場への顕現を見るようになるから。

 

これが、真の「サットサン」。

このたび質問をくださった方も、コメントをお寄せくださった方も、真の「サットサン」に挑戦されたのです。ああ、なんて素晴らしいエポックだろう。

 

あなたも真の「サットサン」を始めなさい。

これ以上、外に求めようとはせずに、これからは自分自身に頼みなさい。

沈黙に身を置いて、沈黙の声に耳を傾けるのです。

そして、そこで得たものを、他の人々と分かち合いなさい。

Q . 一体「霊的成長」とはなんでしょうか?

次のようなご質問をいただきました。きっと同じ疑問を持たれている方も多くいらっしゃるのではないかと推察します。そこで、今回はこの疑問にお応えしたいと思います。

 

Q .生きているということ、生きて様々な体験をするということは、「自分は誰か」に対する答えを見つけるためのものという記事や、その他、最近の記事について、特に興味深く、何度も拝読しています。ですが、未だに肝心なところがわかりません。すべては魂の成長、霊的成長、気づきのために用意されたもの、という表現もあったかと思いますが、「何のために?」と思えて仕方ないのです。

 

私たちは「それ」、「それ」は私であり、あなたであり、あれやこれやすべて、ひとつ。なんのために成長するのか、何をもって成長というのか。もともと「それ」であり、今でも「それ」であるワタシが、見かけ上、いろいろな制限がある物質世界で「学ん」だり、自分は「それ」だと「気づいた」ところで、だからといって何になるのでしょうか?

 

きっと答えは「何にもならない」だとは思いますが、見習い神様が、自由に何でもできるのは、あまりにもつまらないから、神様学校をサボって、物質化、分化させた自分の部分(ニンゲン)が、いろいろな喜怒哀楽の体験をするのを手をたたいて面白がっている、そんな感じに思えるのです。 一体「霊的成長」とはなんなのでしょうか?

 

A . とてもよい質問であり、深いところを突いておられます。あなたが投げかけられた問いは、究極の問いの一つです。これは、「私は誰か」という問いと、ちょうど対をなしており、ですからそのことにインスパイアされて、深い疑問を抱かれたということも、当然過ぎるくらい当然なのです。

 

いったい何のために? という究極の疑問については、いくつかの見解があります。しかし今日は、それを紹介することはやめておこうと思います。書くと、それを信じる人が出て来る可能性があるからです。それよりも重要なのは、あなたがどう思われるかであり、質問の最後のところで、すでにあなたはご自身の(今の)見解をお書きになっています。確かにそれも一つの見解であり、どう思おうがあなたのまったくの自由なのです。

 

なぜ、こんなことを言うかといいますと、もっとも適切だと思われる回答は、「それは、分からない」と言うしかないからです。本当に、分からないのです。私だけではなく、今までにそれを分かった人は誰もいない。あなたご自身も、それを直感して「きっと答えは何にもならない、だとは思いますが、」とお書きになっているじゃありませんか。もし、あなたの方が、先にその答えを見つけたとしたら、ぜひとも教えて欲しいと心底から願っているくらいです。

 

宇宙が在る(とする)。すると、どうして在るのか、またはどうして出来たのか、という疑問が当然ながら湧きます。それは、ある日、勝手に出来たのだろうか? もし勝手に出来たとすると、どこから、どのような理由で、勝手に出来たのか? 「在る」の反対は「無い」だ。だから、宇宙が「出来た」のだとすると、その前は何もなかった、「無」だったということになる。じゃあ「無」とは何なのか? どうしたら「無」から「有」が生じるというのか?

 

そもそも、「どこから、どのような理由で」と考えた時点で、それはもう「勝手に」ということではなくなってしまうではないか? だとしたら、他の造作物と同じように、ある意図から、この宇宙、および全存在が造られたのではないのか? その意図もしくは意図を有する存在を、仮に「創造主」と呼ぶことにしよう。では、その「創造主」自体は、どこから、どのような理由で顕現したのだろうか?

 

「創造主」が顕現したことにも、きっと何らかの意図があったはずだ。だとすれば、「創造主」の創造者がいるということになる。じゃあ、その創造者は、どこから、どのような理由で顕現したのか? ‥‥というようなワケで、この推論にはキリがありません。そこで、「創造主」を創った存在は、「絶対者」なのだということにして、この推論を打ち止めにします。では「絶対者」とは何でしょう? 絶対であって永遠不変のものです。それは「無」以外にはありません。

 

だとすると、「創造主」を設定しようがしまいが、宇宙は「無」から生じたということになります。違いは、中間に、「創造主」という意識的存在を組み込んでいるかどうかだけです。万物は「無」から生じた、という考え方と、万物が出現する前に、先ず非物質である意識的存在が生まれ、それが万物をかたち創った、と考えるかどうかの違いです。

 

物質科学は、当然ながら、前者の立場をとっており、この論を教育やメディアを通じて繰り返し主張しています。ところが実際には、大半の人々は、その説明に満足してはいません。では、いま言った後者によりシンパシーを感じているのかと言えば、これも、そこまで思索している人はほとんどおりません。結局のところ、大多数の人々の結論はこれです。なんや、よう分からん! そして、私も、やはり分からないのです。

 

「無」の〈意図〉を、どうやれば説明できるでしょうか? 「無」なのに‥‥。あるいはその前段階の「空(意識が消滅した世界)」を、どのように説明できるというのでしょうか? 意識が消えた世界なのに‥‥ネ。

それに、いま重ねて来た論は、最初の「宇宙が在る(とする)」に始まって、全部が仮定の話でしかない。つまりは、単なる「概念」の言葉遊びに過ぎない。

 

ですから、釈迦も言ったのです。

「汝、ニルヴァーナを知りたくば、ニルヴァーナに至れ」と。

それは言葉でなんかとても説明できない世界なんだ。とにかく行くしかないんだよ、ということです。

 

ということで、肩透かしのようで申し訳ないのですが、

これだけは確実に言えます。

「気づいたところで、何にもならない」と思ったにせよ、〈「魂」は霊的成長を希求することを止めない〉ということ。現にあなたも、こうして質問を発することで、それを証明しています。

霊的成長を図ることを、「魂」が止めることは、決してないのです。

 

そこで、みなさんに宿題です。

どうして、「魂が、霊的成長を図ることを止めることはない」のでしょうか?

そう、言い切れるのでしょうか?

このテーマについて、お時間のある時に、瞑想を行ってみてください。今日取り上げたテーマについて、もしかしたら別の見解が見出されるかも知れません。

 

今のあなたの見解は、あくまで「今の」見解なのです。

そして、この見解は、どんどん変わって行きます。なぜだと思いますか?

それが、気づきによる「霊的成長」というものだからです。

あなたは誰あれ? ―― 自己承認欲求の本質

あなたは誰なのか。

 

これが、この世に生きるあなたへの究極的な問いかけです。

 

あなたがいま在るということ、

生きているということ、

生きて様々な体験をするということ、

体験を通じて喜怒哀楽を味わうということ、

他者と接して愛憎の渦を経験するということ、

そして生きる意味はどこにあるのかと問うこと。

 

これらすべては、ただただ、この問いに対する答えを見つけるためにあるのです。

 

あなたは誰か。

 

さて、あなたはどう答えるでしょうか?

 

私は誰か。私は誰か。私は誰か。

私は誰か、と問いかけている、その私とはいったい誰なのか‥‥。

 

あなたは、自分の顔を、自分で直に見ることは出来ません。けれども、この事実はあまりにも日常的な体験となっているために、それが意識されることはほとんどありません。しかしこの事実は、「あなたは誰か」という根源的な問いかけに対する一つのメタファーを示しているのです。つまり、あなたは、自分の姿を見ることは出来ないけれども、自分が誰かと問うこともしないし、知らないということです。

 

でも、知らないまま、生きているのですよ! なんと。

それを許容しているのですよ! なんと。

疑問にも思わないのですよ! なんと、なんと。

これが、あなたの心から、不安や、劣等感や、嫉妬心が消えない根本原因だというのにねッ!

 

「自分が本当は誰か」を知らないあなたたちは、自分の存在意義というものを、ほとんど無意識のうちに外の世界に求めようとします。いわゆる「自己承認欲求」です。それはちょうど、鏡を見ることでしか自分の姿を把握することが出来ないのと同じように、自分の外側にあるものの評価によって、自分の「存在意義」を確認しようと、本能的に図るのです。

 

なぜなら、その欲求が満足させられなければ、たちまちにして不安や、劣等感や、嫉妬心が自分を襲い、甚だしい場合には、自分の生存の意義すらも見失ってしまうからです。そこで、外部に対して、絶えず「自己承認」を求めるという行動を人は無意識に取ろうとするのです。しかし、鏡に映った像が、実体ではなく虚像であるのと同じく、外側の評価もまた虚像であるということに、その本人は気づいていません。

 

「自己承認欲求」の出かたにはいくつかのパターンがあります。先ず第一には、自分を優秀者だと思いたいという欲求です。そのための罠は社会のいたる所に見られ、オギャーと生まれた瞬間から、人はこの優劣のスケールの中に叩き込まれるのです。赤ちゃんコンテストに始まり美人コンテスト、運動会の一等二等、書道コンクールの金銀銅、通知表に試験の点数、背が高いか低いか、金持ちか貧乏人か、有名大学出か三流大学出か、およそありとあらゆるところに優劣のスケールが存在する。

 

そして、親も学校も、「世の中には、優劣のスケールがあるんだよ」ということしか、究極的には子どもたちに教えていません。そして、「あなたは優秀者になるんだよ」「ガンバレ、ガンバレ」と吹き込みます。言い換えれば「劣等者になどなったら、大変な人生になるよ」というプレッシャーを与え続けるのです。そして、この競争に勝ち残った者たちだけが、地位、名誉、賞賛、財産を手にし、人々にそれを誇示するようになるのです。

 

しかし、この「自己承認」のパターンには大きな問題があります。どのスケールも、優秀者というのはほんの僅かな人間に過ぎず、大多数は劣等者の烙印を押されてしまうということ。これが広く社会通念になっているのですから抗いようがありません。結果、競争のプレッシャーに耐えかねて精神を病む人が激増しているのです。しかし精神を病む人というのは、実はまともな人間で、「もう、そんな時代じゃないよ」ということを、「魂」が察してSOSを発しているのです。

 

ここで私は、それぞれの能力の違いを認めたり、互いに切磋琢磨することまでも否定しようとしているわけではありません。自分の才能に気づき、それを伸ばすことは人生上の大きな喜びですし、互いに切磋琢磨することで「魂」をより向上させることが出来ます。しかしその才能の特質や能力の違いが、みな、他者の役に立つために備わっているのだ、という視点が決定的に欠けています。もしそれが理解されれば、素晴らしい社会が実現することは疑いなしです。

 

第二のパターンは、ある承認された集団に、自分が帰属するというものです。自分への直接的な承認というものがたとえ得られなくとも、ある集団に帰属することによって、自分が同じように承認されたと思い込めるわけです。これが、昔から、第一のパターンから落ちこぼれる人たちの受け皿として機能して来ました。宗教組織や、会社や、町内会や、趣味のサークルや、自助グループや、行きつけの飲み屋や、半グレ集団まで。

 

しかし、このパターンにも大きな問題があります。それは、その集団への依存傾向を強化し、そこから脱け出せなくなってしまう人を作るということです。もし脱け出したら、せっかく満たされた(と思っていた)「自己承認欲求」が、たちまちにして崩壊してしまうからです。これは、嵌まり込んだ者にとっては大変な恐怖です。そのため、この恐怖を利用して、人々をコントロールするということが、宗教を中心に広く行われて来ましたし、今でも行われています。

 

さて、この第二の「自己承認欲求」パターンですが、ネット社会が加速したことによって、近年、様相が大きく様変わりしてしまいました。日本が高度成長期をひた走っていた頃、日本社会にはまだ家族縁、地域縁、会社縁の三つのコミュニティがあって併存していました。ところが1990年代までに、先ず家族縁や地域縁が失われ、2000年代に入ると残る職場縁も崩壊してしまったのです。会社はもはや疑似家族集団ではなく、使い捨ての労働力が集まる場となったのです。

 

代わって趣味縁に支えられたグループが立ち上がるようになりました。いわゆるタコ壷文化やオタク文化の登場です。しかしその後、ネット社会に急速に移行したことによって、人と人とが直接触れ合う濃密なコミュニケーションの場というものは、どんどん失われて行きました。多くの人が、自分が傷つくことを怖れて、他者と接するのを嫌がるようになり、コミュニケーション能力のリテラシーも著しく低下しました。

 

結果として、どの共同体にも属さない「根無し草」として生きる人たちが、全世代的に爆発的に増加したのです。

 

こうした社会傾向の広がりは、反動として、一部で濃密なコミュニケーションを希求する動きも見せています。ですが、コミュニケーション経験の不足につけ込む詐欺師もやたらと跋扈するようになり、まったく心の安まる時がない、ただ騒々しい、ギスギス・トゲトゲした人間関係が拡大するに至ったのです。このような状況の中で、第一の「優秀者」にもなれず、第二の「コミュニティ」にも属せない人は、どうやって「自己承認欲求」を満足させればよいのでしょうか。

 

その顕われが、「ヘイト」や「ディスる」という行動に、人々を駆り立てています。面と向かって、自分が先頭を切って、論陣を張るまでの勇気はないが、誰かが何かを「ヘイト」したり、誰かが誰かを「ディスる」話題には瞬間的に反応し、自分も一言ツイートして、それで取り敢えずの「自己承認欲求」を満足させる。今や誰も彼もが、デモ隊の後方から石を投げる行為に夢中になっています。それは、「共同体」幻想の瞬間風速版なのです。

 

こんなことは、やめた方がいいです。それは所詮「幻想」ですし、瞬間風速的に過ぎ去ってしまうものです。その風が止めば、その人はまた次の暴風雨を見つけようとするでしょう。そんなことを続けていて何になりますか。己の「承認欲求」が満たされないのは一体どうしてなのか、という根本命題に向き合う機会を後回しにして、一時の気晴らしの為に、ただ時を浪費しているだけです。その間に、その人の心と体は、ズタズタ、ボロボロになって行っているとも知らずに。

 

いいですか。「ヘイト」や「ディスる」行為に血眼になっている人というのは、その思いを、自分が特定の相手にぶつけていると思っています。相手をやっつけていると思っています。でも、その「思い」というのは、〈その人の〉創造物なのですよ。荷物を送った相手が、その受け取りを拒否したらどうなりますか。荷物は送り主に返ります。デモ隊の後方で石を投げている人の石を、いちいち相手が受け取ると思いますか? 全部がその人のところに返っているのですよ。

 

すると、どうなると思います? 自分で自分に石を投げつけているのですから、体はボロボロ、心はズタズタになるのは当たり前でしょう。でもそうやって、自分で自分の心身を傷つけているものですから、ちっとも癒されることがありません。そこで、そのイライラをぶつける次の攻撃対象をまた見いだし、瞬間風速的な「自己承認欲求」を満たそうとして、「ヘイト」や「ディスる」行為を繰り返すのです。そしてまた心身が傷つき、次の攻撃対象を探し‥‥。

 

嘆かわしいことに、そのネガティブなエネルギーが、まるでオーストラリアの森林火災のように地球に広がっています。もしもあなたが、その石つぶての攻撃に遭ったら、最善の策は受け取らないことです。投げ返すことも、防御もしないこと。そうすれば、石は投げた人に返ります。でも、その、メカニズムを知ったからと言って、「へへ、いい気味だ」などと思ったりしたらNGですよ。理由は分かりますね。その「思い」は、あなたの創造物だからです。自分への「ザマ〜見ろ」だからです。

 

あなたが、どれほど誠実に、純粋に、真摯に、また親切に生きようとしたところで、万人から好かれることは出来ません。性質も、系統も、経験も、理解度も、信念も、生き方も、価値観も、全員が異なるのです。あなたを嫌い、逆恨みし、嘲笑し、侮蔑し、攻撃し、罵倒する人は必ず出現します。それは、その人の中に沸き立つ、劣等感や嫉妬など制御できない感情を、あなたという相手を見つけて、そこに投影しているのです。投影することによって「自己承認欲求」を一時的に満たそうとしているのです。

 

ですから、それを解ってあげた上で、無視してください。関わらないことが、その人に対するいちばんの親切です。なぜなら、いま言ったことを、その人が自分で理解するようになるまでは、つまりその人に「気づき」が訪れるまでは、そうした批評グセ、批判グセ、嘲笑グセ、攻撃グセが止むことはないのです。その「気づき」を早めてあげる最善の方法は、無視して、一切を取り合わないことです。決して同調しないことです。

 

さて、このような時代の中で、一番めのエリート意識でもなく、二番めの帰属意識にも頼らず、三番めの「ヘイト」や「ディスる」行為に走るでもなく、「自己承認欲求」が満たされるにはどうしたらよいのでしょうか。あなたが、自分の存在を認め、生きていてもいいんだ、この世には生きる喜びがあるんだ、と心底から思えるようになるためには、です。これは、今日の宿題にしておきましょう。

 

ヒントは、「あなたは誰か」ということです。

あなたの外見は、鏡に映さなければ、自分で見ることは出来ない。この事実は、自分は誰かということのメタファーになっていると言いましたね。

いま挙げた三つの「自己承認欲求」パターンは、いずれも、外の鏡に自分を映そうとしているということにお気づきではないでしょうか?

でも、逆の探索ルートもあるということです。それは、内側を見るのです。

 

私は誰か。私は誰か。私は誰か。

私は誰か、と問いかけている私とは誰か。

 

もしもこれが解ったら、(頭ではなく)心底から解ってそれと一体化したら、あなたはもう、自分の外側に「自己承認欲求」を持つことはありません。なぜなら、「私は誰か」ということをすでに知っているからです。すでに知っているものを、どうしてなおも外側に答えを見つけたいと思うでしょうか。ですから、これが「自己承認欲求」に対する究極の答えなのです。「私は誰か」がもしも解れば、「自己承認欲求」などは、そもそも起こりようがないのです。

 

幼少時に、親からの愛情をたっぷり受けたという経験のなかった人たちは、概して、大人になってからも強い「自己承認欲求」を引きずりがちです。他方、よい家庭に育った人たちは気持ちが大らかで、そのような欲求を示すことはほとんどありません。それは、自分は「周囲からちゃんと承認されていた」という記憶を、意識の底に持っているからです。ですから、今をガツガツすることがないのです。

 

ここに注目してください。つまり、「自己承認欲求」の強さというのは、自分が創り出している「想念」に過ぎないのだということです。ですから、この「想念」を満足させようとして努力を重ねることは、葛藤の苦しみしかもたらしません。その努力の結果、運よく望む地位や賞賛を手にしたとしましょう。その時には苦しみが消える。でもそれは、望むものを手に入れたからではなく、苦しみの元であった「想念」が消えたからなのです。

 

だとすれば、最初からそんなものは持たなければよいのではありませんか?

 

そもそも、「自己承認」の欲求など、うたかた(泡沫)のものです。「ねぇ、私ってかわいい?」と恋人に訊く。「ああ、かわいいよ」という答えが返って来る。でも翌日になったら、その人はまた「ねぇ、私ってかわいい?」と同じことを訊くことでしょう。なんど承認したところで、その人が満足することはありません。なぜって、本人が絶対に認めないのですからね。認めることができない自分像にずっと拘り続けているのですからね。

 

「自己承認欲求」の拘りから自由になれないという人は、自分が「要求」ばかりしていたということに気づきませんか? 以前にも書きましたが、愛を乞う人ではなく、愛を与える人になって欲しいのです。みなさんは大きな勘違いをしておられます。自分が認められない、自分を認めて欲しいという「想念」ばかりが肥大して、与えることを忘れています。だから、自分が愛を与える人になれば、自動的に「承認」が得られるという、宇宙の真理に気づけないのです。

 

与えたら返ってくる。それは、ご祝儀の半返しのようなことではありません。宇宙の本質は意識だけの世界だということを思い出してください。あなたが与える。与えたいと思う、役立ちたいと思う。その思いは、誰のものでしょうか? あなたのものです。ですから、与えた瞬間に、その人は同時にそれを得ているのです。自分が送った自分の思いをね。先ずは、ここから始めてください。そうすれば、その果てに、あなたは究極の真理を理解することになるでしょう。

 

私は誰か? 私はわたしだ。

あの人は誰か? あの人もわたしだ。

私もあの人も、同じわたしだ。

だから、あの人にすることは、私にすることであり、

私にすることは、あの人にすることと同じなのだ。

そして、すべては、一つに溶け込む。

 

これ以上の、何を求めると言うのでしょうか?

すべての答えがここにあるではありませんか。

 

さて、あなたは誰あれ?