by Rainbow School
<< August 2020 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
<< 7月の『瞑想クラブ』中止のお知らせ | main |
若い魂2 ――「信念の人」からの卒業

あなた方、一人ひとりの「魂」は、みな等しく「一者なるもの」から分かれてこの宇宙に生じ、自由意志を与えられ、それぞれの冒険の旅に出発しました。そして、地上と我が家(Home = 霊界)との間を行ったり来たりしながら(つまりは輪廻転生を何度も繰り返しながら)、そのつど体験を深め、自己の「魂」の成長をちょっとずつ果たして、最後にはまた一者のもとに抱かれるという、長い長いプロセスの渦中に、あなたは今いるのです。

 

家出してまた元の家に還る。そこにどんな意味があるのかと、いぶかしく思われる方も少なくないでしょう。まさにそれは、人間がつねに考え続けて来た「生きる意味は何か?」ということと同義です。しかし、見逃してならないのは、この広大な宇宙に、同じ体験をする「魂」は一つもないという点です。実に、Amazing ! だとは思いませんか? ここにこそ価値がある。つまり、「一者なるもの」からすれば、自身をそれによってバージョンアップ出来るのです。

 

そしてあなたは、「一者」から分離したものであると同時に、「一者」そのものでもあるのです。

 

この「家出してまた家に還る」という旅のプロセスを、様々な観点から見ることが出来ます。「霊性密度」の上昇という面から説明することも出来ますし、中心的「意識」の変化という面から説明することも出来ますし、「知覚・感覚」の変化という面から説明することも出来ますし、「カルマ」からの脱却という面から説明することも出来ますし、宇宙的「愛への目覚め」という面から説明することも出来ますし、真の「智慧」の獲得という面から説明することも出来ます。

 

それらはみな、「魂」の成長プロセスにおける、別々の表れ方としてあるのです。しかし全部が同時に進行している。今日はその内の一つ、「智慧」の獲得という面から、「若い魂」の特徴を追って見ることにします。

 

宇宙に射出された「魂」が、地上に降りて最初にする学習、それは「信念の人」になることです。「自由意志」には本来、制約が掛けられていません。ところが、地上世界は何をするにも制限だらけ。時間に縛られ、空間に縛られ、物に縛られる。自分が思った通りになどならないのです。そこで人間は、この不自由極まりない世界を生き抜くための便宜策として、様々な「信念」を生み出し、これを鎧のように着て生きる道を、まず最初に選択するのです。

 

「信念」には、ザッと見回しただけでも、政治的信念、外交政策に関する信念、防衛に関する信念、民族に関する信念、宗教上の信念、教育に関する信念、倫理道徳に関する信念、善や正義に対する信念、といった硬いところから、豊かさに関する信念、幸福についての信念、お金にまつわる信念、出世や社会的成功に関する信念、人づきあいに関する信念、健康や病気に関する信念、美や体型に関する信念、果ては食事の仕方から何を食べたらいいのかまで、実に様々なものがあります。

 

もしも「信念」を何も持たないでいると、心は絶えずフラフラして一向に定まりません。人はそれでは不安ですので、「信念」という杖を欲するのです。結果的に(幼年期の惑星であるところの)地球は、多種多様な「信念」が交錯し、ぶつかり合う世界が、今こうして顕現しているのです。しかもそれだけではありません。地球では「あの人には信念がある」というのはお誉めの言葉の一つで、確固とした「信念」を持つことが貴ばれ、時にはそう指導されたり、強要されたりすることも少なくないのです。

 

ところが、「魂」の世界、また「智慧」の獲得という面から見ますと、「信念の人」となることは、「智慧」に関する学習のまだほんの出発点に過ぎないのです。それどころか、「信念の人」であることは、「智慧」への気づきがまだない状態、すなわち「無智」の状態にあるということなのです。釈迦が、人間にはいろいろと問題点があるけれども、その大元は、つまるところ「無智」にある、と言ったのはそのことを示しています。

 

ここで「智」という漢字を使ったのは、あえて「知識」と区別するためです。「知識」は「智慧」ではありません。どんなに「知識」を増やしても、「智慧」を獲得できるわけではありません。むしろ「知識」は、「信念」を育てる方向に働く場合が多い。ですから、知識は非常に豊富だけれども、「魂」的に見ると「無智」にあるという知識人はいっぱいいます。「智慧」というのは、「宇宙意識」と同調できる段階に至ったということであり、別に知識などなくても、そうなった人は「宇宙の叡智」をいつでも引き出せるのです。

 

「信念の人」は、自分の「信念」を、何の疑いもなく「自分の見解(My Opinion)」だと捉えています。ですが、そうではありません。それは、大抵はどこかにあったものから借用して来た論理です。その借り物の論理に自分を乗っけて、それを自分の見解だと錯覚しているのです。「信念の人」は、何も持たないでいること(素の状態でいること)に不安があるので、まだ自分の考えを持つには至っていません。そこで、借り物の論理を強固に信じることで、自分のアイデンティティを保とうとするのです。

 

こうした人たちにとっては、「My Opinion」など実は無かった、と気づかされることは大変な恐怖です。そこで恐怖心の強い人ほど、「攻撃は最大の防御」とばかり、自分の固定的観念を声高に主張します。そして、自分の「信念」とは相入れない考えを持つ人たちを、なんとか説得しようと試みたり、時には悪し様に罵ったり、ヘイトする気持ちをぶつけたりします。こうした態度が昂じて行くと、自分自身の内部に不寛容の種を育て、場合によっては、激しい狂気や暴力に向かわせることもあるのです。

 

今の世界が、まさにそうなっていることにお気づきでしょう。これは、地球人口に占める「若い魂」の割合が異常に増えた結果なのです。その多くの「魂」が、いま「信念の人」の学習途中にあります。そこへ、自己表現ツールとして「SNS」なるものが世界同時革命的にもたらされたものですから、多くの「魂」が、その影響や結果をあまり考えることなしに、その便利ツールに飛びつき、一斉に「ディスる」とか「ヘイト」するという形での「我が信念」の発露に向かうようになったのです。

 

しかも、「信念の人」の段階にあることは、知識の有無とは関係がありません。そこで、弁舌の立つ知識人が、「我が信念」の発露の先頭を切って、信者を集める状況が展開されています。

 

どっちが「保守本流」かという言い争いなどはその典型的なもので、左←→右のスケールのA地点が「保守本流」だと自認している人が、その色メガネで他者を見れば、Bにいる人はサヨクに見えますし、Cにいる人は右過ぎるということになってしまいます。そこで、両方を口撃し、我こそが正しく保守本流と主張するのです。

 

中には、自分は「これこれ、こういう立場の論客だ」と誇らしげに公言した上で、ものを語っている知識人もいます。そして、自分の色メガネを通らないものを見つけると、すぐに噛みついてはケシカランと言う。でもそれは、「自分は、偏見の狭い檻の中にいて、そこからしかものを見ないぞ!」と言っているのと同じじゃありませんか。結局、信者集めの宗教と一緒なんです。我が宗だけが正しくて、あとはみんな邪宗、邪教だと。馬鹿馬鹿しい限りです。

 

「信念」とは、かくも人を盲目にしてしまうものなのです。不毛な左右議論を延々と繰り返すのはやめて、どうして上を見ないのでしょうか?

 

三角形の頂点は「一つ」であるということに、どうして気づけないのでしょうか? 万教帰一。様々な教えも、その出どころはたった「一つ」ということに、どうして気づけないのでしょうか? ほんのちょっとの、その気づきが起これば、くだらぬ「信念」からは解放され、寛容の中に生きることが出来ますものに。ああ、残念。

 

いくど転生を繰り返しても、「信念」を手放すことの出来ない多くの「魂」。このカルマは、感情的なものよりもさらにタチが悪いのです。カルマの主な構成要因には、「解消できなかった思い(感情)」と、「信念(理性)」と、「行為の記憶(身体)」とがあります。「思い(感情)」のカルマは、一見すると最も手放しがたいように見えますが、ほんのちょっとしたきっかけや働きかけで、一瞬にして解消することがあります。

 

「思い(感情)」のカルマの場合、いま現在は苦しんだ状態にあります。ですから、そこから何とか脱したい、というモチベーションが働く。ところが、「信念(理性)」のカルマの場合は、「それが正しいんだ」と、自分がいま強く信じ込んでいる状態にあります。そうしますと、それを手放すことは、現在の自分のアイデンティティの崩壊に繋がってしまうのです。そこで、より強く抱えようとするのです。

 

エマニュエル・スウェデンボルグは、霊界を探索する研究(自分の意識を身体から離脱させて、実際に霊界の中に入って見てくる研究)の中で、多くの聖職者が「地獄」に落ちている姿を見ました。それは、その時代、キリスト教の二元論の価値観がヨーロッパを席巻していたので、スウェデンボルグもそこを「地獄」と表現したのですが、20世紀になって、ロバート・モンローは数多くの被験者を用いた実験を通じ、霊界にある、かつて「地獄」と呼ばれていたその領域を「信念体系領域」と名づけ直したのです。

 

*第四霊性密度の階層、中有界に同じ。

 

これは、実に画期的な研究成果でした。そして、「信念体系領域」の中を、「信念」の強さの度合いによって、さらに階層分類化したのです。宗教的信念はその領域内に位置しており、そこが、かつての「地獄」に他ならなかったのです。早い話が、「地獄」など無かったのです。それは宗教上の脅しのために作られた絵物語に過ぎず、問題は「信念」にあったのです。「信念」に縛られ続けている状態を「地獄」と呼べば「地獄」。ですが、それは罰で落とされたのではなく、自ら好んで行った場所だったのです。

 

ここで、何を言いたいかと言いますと、「信念」こそが、人の霊的成長を阻む最大要因であるということです。にも関わらず、人々はそれを全く知らないし、宗教者ですら解ってはいない。そして、むしろ逆方向をせっせと邁進している。悲しいかな、これが今の現実です。現世界の姿だということです。

 

一つの「信念」を強固に持てば、他の「信念」と相入れなくなってしまうのは当然でしょう。そうなれば、「信念」と「信念」とのぶつかり合いとなる。このような簡単な理屈も今の地球人には解らないのです。多様な「信念」が、あっちからもこっちからもまるで光線銃を発したように飛び交っては火花を散らす。そうした極めてノイジーな世界に、我々は生きているのです。しかしそれが、ごく当たり前の日常風景であるために、あまりにも当たり前すぎて、様々な「信念」体系の中に置かれているという自覚がほとんどない。

 

今の時代に、なぜこれほどまで心を病む人が多いのか言いますと、これらの「信念」体系に〈自分も合致して生きなければならない〉という圧力が、暗黙のうちに社会に染み渡っているからです。とりわけ、日本の社会は同調圧力が強い。社会が提示する「信念」体系に、もしも合致できなければ、自分は社会からつまはじきにされてしまう。でも内なる声は、「なにか違うよ」「そんなの嫌だ」と言う。この葛藤に苛まれた人たちが、鬱や不安神経症やパニック障害に陥っているのです。

 

ある意味、自分に正直である人たちが、心の病を引き起こしている。言い換えれば、「魂」の旅の次のステージへ進む可能性のある人が、心の病に罹るのです。なぜなら、何の疑問も持たずに、社会の「信念」体系に従順に従う生き方を選ぶ人が世の中のマジョリティだからです。そこでは、疑問を抱くような人は常に異端であり「社会不適合者」と見なされる。そして、一度そのようなレッテルが貼られると、自分でもそうだと思い込むようになって行くのです。

 

ここで思い浮かべるのは、炎の画家ゴッホのこと。彼は初めの頃、聖職者の道を歩もうとしていました。けれども、伝道師として赴任した炭鉱町で、貧しい農民たちにあまりにも深く、かつ過激に救済の情を示したため、教会からクビにされてしまうのです。その失意の中で、ゴッホは絵を描くことに喜びを見い出そうとするのですが、描いても描いても売れることがありません。ゴッホの絵は、絵画の世界でも異端だったのです。ただ一人、弟のテオ以外には誰も理解者がいませんでした。

 

一時期、ポール・ゴーギャンという知己を得て、共同生活を営むのですが、そのゴーギャンに去られた時、ゴッホは自分の耳を削ぐという自傷行為に及び、とうとう精神病院に入れられてしまうのです。

 

ゴッホの作品に『星月夜』という一枚があります。彼はなぜ、月や星や糸杉をあのようにうねる形に描いたのでしょうか?

 

これは知られていないことですが、彼の眼には実際にそのように見えたのです。エネルギーの渦がほとばしっているのが彼には見えた。それは、草間彌生さんの眼に水玉が見えるのと一緒です。でもそれを解ってくれる人が、周囲には誰もいなかったのです。

 

草間彌生さんも、若い時分には変人扱いされずいぶんと叩かれました。でも今は巨匠ですから、叩く人はいません。人の評価など勝手なもので、力のない時には異端のレッテルを貼ってコキ下ろし、権威になったら途端にヘイコラする。芸術と言ったって、大半の人は権威と絵の値段にしか興味がありません。しかし、世の中というのは、そういうものですから致し方ありません。ゴッホは生前に「権威」になれないまま37歳でこの世を去り、弟のテオもその半年後に亡くなります。二つの「魂」は、ツインソウルでした。

 

みなさんに、改めて強調しておきたいのは、(それが宇宙の理に適っている限り)何をするのも「自由」だということです。生きる上で「自由」ほど貴いものはありません。それが「魂」の本質だからです。「自由」を追求してこそ、本源に還れるのです。けれども、「自由」を許さず、他者にも自分にも制限を加えることに熱心な人たちが、この世界には大勢います。というよりも、そういう人たちが今の社会のリーダーになっている。彼らは「信念」に捕えられたままの人たちなのです。先ずは、そのことを知ってください。

 

もしあなたが、他者の言動に「怒り」を覚えたとしたら、それはその人の「信念」と、あなたの「信念」が衝突した時なのです。ですから、そのような時には、自分の「信念」を検証するチャンスにそれを使わせてもらいましょう。あなたの「怒り」の奥には、どんな「信念」が眠っていたのでしょうか? それはどこからやって来て、いつの時点で自分の中に取り入れることになったのでしょうか? そして、その「信念」は、手放すことが出来ない性質のものなのでしょうか?

 

「信念」と「信念」を闘わせたら、暴力装置を持っている者が最後は勝ってしまいます。万が一ひっくり返すことが出来たとしても、それでは、以前の「信念」を別の「信念」で置き換えただけのことです。あなたが目指すべきステージは、そこではありません。「信念」そのものを捨てること。「信念の人」という学習段階からの卒業なのです。その段階を卒業してこそ、次の扉が開かれる。輪廻転生の長い長い旅路の中で、出来るだけ早く、その第一段階を駆け抜けることが、あなたに「アセンション」への切符を手渡します。

 

しかしその先も、まだまだ長い。「信念の人」の段階を終えたあなたは、次に「学ぶ人」へと進級します。自分は、なんと「無智」だったのかと悟るのです。「信念」を杖に、何か解ったような気になっていたけれど、実は何も知らなかった。宇宙とは何か。存在とは何か。生命とは何か。生きる意味とは何か。死とは何か。死ぬとどうなるのか。自分は誰なのか。どこから来てどこへ行くのか。肝心なことを何一つ知らないまま、それでも生きて来た自分に気づく。そして、あなたは次の「学ぶ人」になる。

 

あなたは猛勉強を始め、本を読んだり、インターネットの記事を読んだり、セミナーに出たり、人と会ったりします。そうやって、何年もの学習期間を経て、ようやく気づくのです。外からやって来る情報をいくら仕入れたところで、崇高な感覚に目覚めることなどないんだ、と。こんなことを続けていてもダメだ。これではラチが明かない。そう悟って、それまでの一切合切を投げ捨てた時、次のステージへの扉が開くのです。

 

あなたは、「学ぶ人」から「神秘に目覚める人」へと進む。あなたの関心は、外側にある情報から、我が内なる師へと移って行ます。そして、ついに悟る。なんだ、こんなところに最初からあったんだ、と。必死になってグルを追い求める必要などなかったんだと。自分自身がマスターだったんだと。こうして、あなたは最終段階である「叡智の人」になる。これが目覚め(Buddha)だ。知識人は、知識は豊富だけれども、真実を何も知らない人。しかし賢者は、知識はなくとも、絶対の真実を知る人です。

 

というわけで、道のりは非常に遠い。しかし、遠いようでいて、案外近い。なぜなら、それは、元々あなたの中にあったものだから。それさえ見い出せれば、100回も200回も転生することなく、今世1回で劇的な進歩を遂げる可能性もある。というのも、これから、世の中が何もかもひっくり返るからです。「信念」を支えて来た基盤そのものが瓦解してしまう。液状化した地面の上では、もはやどんな「杖」も役には立たないのです。これから先、「信念」を持つ人は「信念」を持つがゆえに、かえって苦しみに喘ぐことになるでしょう。

 

さてあなたは、「智」の学習プロセスの、今どの段階に来ているでしょうか?

 

社会が提示する「信念」、学校が教える「信念」、知識人が語る「信念」、宗教家が指導する「信念」、親が吹き込む「信念」、これらにいちいち付き合い、自分を合わせて生きる必要など全くない。あなたの「魂」は本来的に自由だ。ですから、自信を持って、伸び伸びと生きなさい。あなたの理解者はここにいる。なぜって、あなたはわたしの子なのだから。

 

襲ってくる「信念」の嵐はどこ吹く風と受け流し、あなた自身の「信念」を、一つ、また一つと捨てていけば、もっともっと楽に生きられます。でもこの言葉を、逃げ道に使ってはいけないよ。「腐った社会」に適合しようと、ムリして生きる必要はない。それはその通り。でも、それを分かった上で、「腐った社会」を〈生き抜く力強さ〉を身につけるんだ。「智慧」はそのためにある。

 

そしてさらに、この「腐った社会」を、「明るく楽しい、希望に満ち溢れた社会」へと変えて行くんだよ。あなたのハートの崇高なバイブレーションによって。

 

逃げるのではなく、闘うのでもなく、他者を馬鹿にしたり驕ることもなく、淡々と、あなたの「自由」を生きなさい。「自由」を謳歌しなさい。そして、未だ「信念の人」の学習段階にある多くの「若い魂」たちに、慈しみの目を向けてあげなさい。彼らが、早く気づいてくれますように。