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クリント・イーストウッド監督の『HEREAFTER』

「死後の世界」の真実を知る者たちの邂逅

 

クリント・イーストウッド監督は、私の憧れの人です。1930年生まれの御年90歳でありながら、今も精力的に映画を作り、質の高い作品をコンスタントに生み出し続けています。

 

つねに新しいテーマに挑戦し、学習し続けている姿勢。穏やかな物腰、真摯さを失わない態度、そして茶目っ気とユーモア。老いを隠そうとはせず、自然に振る舞い、静かに語るその姿。頬の縦ジワと涼やかな眼の奥には、気高い「魂」が鎮座しているのが見えます。イーストウッドこそは、映画界に出現した「賢人(Wizard)」です。

 

*「魔法使い」と訳されることが多い英語の「wizard」。これは「wise(賢い)」に「大いに…する者」の接尾辞であるところの「- ard」が結びついた言葉で、「wise man」と同等の意味をそこに含んでいます。

 

でも、そんなイーストウッドも、最初から「賢人」であったわけではありません。「賢人」としての素養を、後に開花させたのです。下積み時代にはそれなりの苦労をし、多くの女性と浮き名を流したこともあります。俳優としてマカロニ・ウェスタンと『ダーティ・ハリー』で成功をつかんだ後に監督業に進出しましたが、当初はトラブル続きだったようです。けれども、1992年の『許されざる者』でオスカーを受賞。その後は作品の質も安定するようになり、今では業界関係者の誰もが敬愛する名映画監督となりました。

 

特に、俳優陣からの信頼は厚く、多くの俳優が、監督からのオファーを心待ちにしています。それは、イーストウッド監督が俳優出身だからという理由もあるのですが、どうやら独特の演出法の虜に全員がなってしまうようです。イーストウッド監督は、撮影でリハーサルをしないというのです。役について、演じる俳優と事前の話し合いは持つようですが、現場に行ったら完全に俳優まかせ。しかも、ほとんどファースト・テイクで撮り終えてしまうというのですから。

 

これを聞くと、日本の巨匠たちの演出法とは余りにも違うので驚きます。小津安二郎監督は、俳優をロボットのように動かしました。例えば、物憂げな表情と仕草を表現したい時に、小道具にリボンテープを用意して、指に巻きつける動作を右巻きに何回、そのあと左巻きに何回、そしてまた右巻きを何回と指定し、それが淀みなく見えるまで十数回ものテイクを繰り返しました。小津は、シンメトリーや相似形の構図に極端にこだわり、その絵の中に、俳優を嵌め込もうとしたのです。それが小津安二郎の美学でした。

 

また天皇と呼ばれた黒澤明は、現場でスタッフ・キャストを容赦なく怒鳴りまくって、自分の思い通りに従えるという方法を取りました。溝口健二は、リハーサルを徹底して行って、俳優には「違う」と言う以外、他に何も言いませんでした。そうやって何十回とやらせる中で、俳優を心理的にトコトン追い詰めて行き、役が憑依するまでカメラを回さずに何日も待つという方法を取ったのです。まあ、そういう時代だったんでしょうけれど、現場で威張って君臨しているというのが、日本映画の「巨匠」の条件だったのです。

 

クリント・イーストウッド監督が、どうしてそのような演出法に至ったかというと、自身が俳優だったので、俳優の心理がよく分かるということが一つ。リハーサルを何回もやったら疲れるし、最初のパッションが消えて、役を「演じる」ようになっていってしまう。それは、彼としては嫌いなのです。

 

それともう一つは、彼の口ぐせに秘密がある。イーストウッド監督は、「頭で考えるな、自分の内に聞け」ということをしょっちゅう語っています。あれ?、どこかで聞いたことがあるとは思いませんか? そう、彼は知っている。イーストウッドは、映画界に現れた「賢者」なのです。

 

そして、今回取り上げる映画の『HEREAFTER』(2010年公開)。タイトル名は「ここから後」ということで、これは「来世」という意味なんだそうです。しかし映画を観ますと、「来世」というよりも、むしろ死後の世界、つまり「今世」と「来世」との間の「中間世(生)」を扱った話になっています。英語の「hereafter」には、たぶん〈死んだ後〉という漠然としたニュアンスがあるのでしょう。

 

イーストウッド監督の映画はそのほとんどを観ていますが、『HEREAFTER』を観たのは今度の自粛期間中で、長らくその存在を知りませんでした。それもそのはず、2011年の公開時に3.11が起き、この映画の中にある津波シーンが問題視され、途中で公開が打ち切られていたというのです。ところが、この5月にたまたまこれを観てびっくりし、知人に紹介しようと思っていたところ、同じ自粛期間中に『HEREAFTER』を観たという人が、他に何人もいたのを知ってさらにびっくりでした。

 

さて、映画ですが、クリント・イーストウッド監督が、こんな際どい作品を撮っていたということに、先ずは驚かされました。時代が変わったと言いましょうか。一昔前ならば、これはキチガイとか変人のレッテルを貼られかねないような題材です。『死ぬ瞬間』を書いたエリザベス・キューブラー・ロスは、実際にもの凄い迫害に遭ったんですからね。それが今は、マット・デイモン主演で、ハリウッド映画として作られているのです。

 

*『HEREAFTER』には、ロス博士をモデルにしたと思われる「臨死」研究者の女性医師も登場します。

 

しかもアメリカは、今なお75パーセントがキリスト教徒ですから、明らかにキリスト教の教義に反しているこのような映画を、堂々と作ったということにも驚きです。時代は確実に変化しています。古くさい宗教教義と奇跡話にはもう納得いかず、「真実」を知りたいと思う人が増えているのでしょう。それに応えて、「真実」を語る人も世界同時に出現している。ということに大いに勇気づけられました。ということで、今日は、私から見た『HEREAFTER』の解説です。

 

考えてみれば、クリント・イーストウッド監督がこのような題材に手を染めることについては、何の不思議もないのです。というのは、「頭で考えるな、自分の内に聞け」という口ぐせが彼の口から出るのも、彼が40年以上に渡る瞑想習慣によって掴んだ自身の「感覚」に基づいた言葉だからです。

 

クリント・イーストウッド監督が「瞑想」を習慣にしているということを私が知ったのは、つい最近のことです。しかしそれが分かった時、私は「なるほど!」と膝を打ちました。ここ数十年のイーストウッド作品に、一貫して流れているテーマの根っ子が解ったからです。イーストウッド作品が一貫して語って来たことは、この世には「ヒーロー」など何処にもいないということです。

 

映画ですから「主人公」というのは当然いる。でも、その主人公は決して「ヒーロー」などではないということ。その人物を「ヒーロー」にしてしまうのは、メディアや、周囲の人間たちの身勝手な願望なのです。イーストウッド映画の主人公たちは、みな自分の内面から湧き上がるもの(それは「真我」の声なのですが)に、ただ忠実であろうとして行動しただけなのです。

 

しかし人々は、その結果だけを見て、そこに「正義」や「信念」を見い出し(要は、自分の正義感や信念を投影し)、「ヒーロー」に仕立て上げようとするのです。しかしこれは、危険な衝動です。その衝動が、もしも逆に働けば、同じ人間を、今度は「断罪すべき人間」に仕立て上げてしまうことになります。『父親たちの星条旗』も、『ハドソン川の奇跡』も、『リチャード・ジュエル』も、みなその残酷さを描いている。

 

世の中には、我が内なる声(真我)に忠実に生きようとする少数の人間と、声を無視して、世間的価値観やエゴの衝動に生きようとする圧倒的な多数者とがいます。数だけを見たら、内なる声に忠実に生きようとする者は、ひっそりと隠れるようにして生きるか、または絶えず世間の動向に翻弄され、ある時には阻害され、またある時には非難や断罪を受けて生きるしかありません。

 

アメリカン・スナイパー』や『チェンジリング』では、世間や社会に翻弄されてしまう人物が描かれていますし、FBI長官だったフーヴァーの生涯を描いた『J・エドガー』では、内なる声にあらがって生きようとした人間の、尊大さの裏に隠された小心さが表現されています。かと思えば、『グラン・トリノ』や『15時17分、パリ行き』のように、周囲の雑音を無視して生きる力強さが示された作品もあります。『HEREAFTER』は、その極めつけかも知れません。

 

『HEREAFTER』は、互いに何の接点もない3人の物語が、入れ替わりで進行していきます。たぶん多くの人が戸惑うと思うのですが、この形式はずいぶん後まで続き、最後の20分になってからやっと3人の物語が一つになる。しかしここで、俄然この形式が効いて来るのです。最後になって繋がるというところに、この映画の隠れた主題が表現されています。つまり、一見、何の接点もないと思われた状況の奥に、実は最初から互いを引き寄せ合う糸が存在していたということです。

 

3人の人物の一人めは、フランス在住の女性ジャーナリスト、マリー・ルレ。彼女はテレビ局のニュース報道でキャスターを勤めているという花形です。二人めは、イギリスはロンドンに住むマーカス少年。彼にはジェイソンという双子の兄がいるのですが、父親はおらず、母親はヘロイン中毒で育児放棄という悲惨な家庭環境にいます。三人めはアメリカ人のジョージで、彼には「霊能者」としての特異な才能があったのですが、それを封印して、今は工場でフォークリフトを運転する職に就いています。

 

やがて、3人それぞれに転機が訪れます。マリーは、休暇で訪れた東南アジアのリゾート地で、運悪く、スマトラ島沖地震で発生したあの大津波に呑み込まれてしまうのです。幸いにも彼女は救い上げられるのですが、人工呼吸を施しても意識が戻りません。しかし、救助した人がもうダメかとあきらめた時、奇跡的にも彼女は息を吹き返すのです。その間、マリーは、いわゆる「臨死体験」のビジョンの中にいたのでした。

 

奇跡の生還を果たし、フランスに戻ったマリーは、一躍「時の人」となります。回復期を経て、彼女はテレビの仕事に復帰しようとするのですが、もう以前のようには上手くいかなくなってしまいます。ディレクターからは休養を言い渡され、ではその間にミッテラン大統領に関する本を書き上げようと出版社と契約をするのですが、いざやろうとすると、どうしても身が入らない。あの時の「臨死体験」のことばかりが脳裏に浮かび、あれは何だったのかと、確かめたい欲求に次第に駆られていくのです。

 

マーカス少年のところには、窮状を見かねて福祉局の職員がしょっちゅうやって来ます。しかし兄弟は、母親がなんとか自力で更生してくれることを望んでいます。ある日、母親はついにそうした日々から脱け出そうと決心し、中毒を中和させる薬を買いに行ってくれるようマーカスに頼むのです。兄弟としてはやっと希望が見えた瞬間です。しかし、その日の宿題をまだ終えていないマーカスを気遣った兄は、代わりに自分が行くことを申し出るのです。

 

ところが、ジェイソンは薬局を出た後で不良少年たちに取り囲まれ、それを振り切ろうと道路に飛び出したところを、クルマに跳ねられ即死してしまうのです。まったくもって理不尽な死です。希望が見えた矢先の兄の死。不良少年たちが現れたことも、クルマがぶつかって来ることも予想はできなかった。マーカス少年にしてみれば、兄は、自分の身代わりになったようなものです。どうして自分ではなくて兄だったのか。この偶然の重なりにどんな意味があるのか。彼は猛然とそれを知りたくなるのです。

 

ジョージは、幼い頃に患った病気の高熱とその時の手術がもとで、回復した後に優れた霊能力を発揮するようになります。そして一時期は、愛する人を失って悲しむ人のために、亡くなった霊と交信する仕事をしていたのですが、今ではすっかり足を洗っています。それは、誰かの手にちょっとでも触れた途端、「見えてしまう」自分に疲れ切ってしまったからでした。

 

何でも「見えてしまう」ということは、相手の傷や、痛みや、触れられたくない部分をも抉り出し、そこにジョージ自身を付き合わせることになってしまいます。そうなれば、もはや普通の人間関係を営むことなど出来ません。恋人も出来ずに、孤独の中で生活するしかないのです。ジョージにとっては、霊能などを持ってしまったことは、もはや呪いでしかなく、彼は誰にも注目されることなく、ひっそりと生きたいのでした。

 

ところが、不景気の煽りを受けて、独身であった彼はリストラ対象者に入れられてしまいます。すると、それを聞きつけた兄が、また霊能者の仕事に復帰すればいいじゃないかと近寄って来るのです。彼は、弟の苦悩などつゆ知らず、また一儲けしようと企むのです。そして勝手にクライアントを見つけて来ては、嫌がる弟に交信をさせるのでした。久々に、仕方なくやってみたジョージでしたが、兄やクライアントたちの身勝手さを見て、やっぱり嫌気が刺してしまうのでした。

 

この3人は、表面的なそれぞれの問題とは別に、みな共通した苦しみ(「悲しみ」と言った方が適切でしょうか)を抱えています。それは、周囲に「理解者がいない」ということです。マリーは、「臨死体験」以降、政治やジャーナリズムに対する興味を急速に失って行きます。そんなことよりも、彼女にとっては、「臨死体験」の意味を追究することの方がよほど重要な課題になるのです。しかし、周囲の者たちは、現実離れしていくマリーを次第に厄介者扱いするようになります。

 

マーカス少年に対しては、「保護」という観点から、その道の大人たちが親切心を発揮して接して来るのですが、マーカスが求めているのは、そんなことではないのです。彼は、なぜ兄が自分の身代わりとして死ぬことになり、自分は生かされる運命になったのか。その理由が知りたいのです。ジョージはジョージで、なぜ自分が「霊能」など持つに至ってしまったのか。その厄介さからもう逃れたいのに、いつまでも追いかけられてしまうという苦悩を背負っています。

 

その3人が、最後にロンドンで出逢うことになるのですが、ここでイギリスという場所が意味を持って来るのです。イギリスは心霊主義(オカルティズム)の本場で、古くから降霊会などが盛んに行われて来ました。その過程で、1970年くらいまでは『シルバーバーチ』や『ホワイトイーグル』を始めとした優れたメッセージが数多く降ろされていたのですが、70年代に入ると、新しいムーブメント(いわゆる「ニューエイジ」の台頭)はアメリカに移ったのです。その結果、イギリスの霊的進歩はそこで止まり、古いオカルティズムの伝統だけが残ったのです。

 

真実をどうしても知りたいマーカス少年は、「霊能者」に狙いを定めます。そしてあちこちを探し回るのですが、残念ながら、出逢うのはインチキ霊能者ばかり。この辺りの事情は、たぶんどこの国も違わないのでしょう。しかもインチキ霊能者の方が、大勢の人々を集めている。これは、お互いの波長が合うためです。求めているものと、与えるものとがピッタリ合う。

 

ピラミッドの三角形は、下へ行くほど底辺が広く、上へ行くほど底辺は狭い。ですから、この状況を嘆いても仕方がありません。人間とは、所詮そういうものだということです。

 

こと霊的学習に限らず、あらゆる学習において言えることなのですが、人は、今の自分の学習段階から、飛び抜けて上のものを一挙に受け取るということは出来ません。ほんのちょっとの上にしか、気づくことはないのです。ですから、倦まず弛まず日々努力することが大切なのですし、解る人には解るものだし、解らない人には解らないのです。

 

さてそうして、マーカス少年は、最後の最後になって、やっとジョージという本物に出逢えることになります。本物は、イギリスではなくアメリカからやって来たのです。ここで、マーカス少年が、インチキ霊能者に捕まらなかったという点が重要です。彼には波長が合わなかった。言い換えれば、マーカス少年には、本物とニセモノを見抜く力が備わっていたということになります。そしてこれが、「えっ?」というラストの伏線になっているのです。

 

その結末はお楽しみとして、全体を振り返れば、この3人は出逢うべくして出逢ったと言えます。そうして、初めて互いに「理解者」を得た。この3人にとっては、お互いに喜ばしい結末となったのですが、しかし別の見方をすると、「解る人」というのは最初から決まっていて、解らない人には解らないという状況はやはり変わらないのだ、とも読めるのです。すると、あんまりハッピーエンドでもないのかなぁと‥‥。

 

最後に、マーカス少年がジョージから知らされた交信の、普遍的意味について言及しておきます。

 

身近な人の「理不尽な死」というものに出会われた方は、決して少なくないと思います。しかし、そのような「理不尽な死」にも必ず「意味」があるということです。「亡くなった意味」ということを言っているのではありません。人は、亡くなった意味を知りたいと思うものですが、霊的な観点から言えば、生き死にというのは、それほど大きな問題ではないのです。これを納得するのはなかなか難しいとは思いますが、理由は簡単で、霊魂は不滅だからです。

 

「意味」というのは、周囲の人にとって意味があるということです。〈意味を見い出せる〉と言った方がよいかも知れません。人間は、関係性の中に生きています。ですから、身近な人の「理不尽な死」という出来事も、周囲の人たちにとっては、その人からのメッセージの一つなのです。周囲の人たちは、その「理不尽な死」から、自分に向けられたどのようなメッセージでも引き出すことが出来ます。別に霊能者の助けを借りなくても、感じればいいだけなのですから。

 

そして、亡くなった人というのは、まさしく、そのメッセージのスイッチを押すために亡くなったのです。それが、今世での最後の役割だったのです。この映画を観れば、それが解るはずです。ですから、愛する人を失っても、いつまでもメソメソしていてはいけません。自分に向けられたメッセージをしっかり受け取って、新たな気づきを得て成長を果たし、次の段階へと力強く歩み出すことが大切です。

 

また、それこそが、先に亡くなった人の願いなのですから。