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自分自身をドライブして生きる

5月28日掲載の記事「アーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』と、地球のアセンション」に関連して、ある方からご質問をいただきました。質問の主旨は、〈闇グループにせよ、光のグループの存在にせよ、我々というものは、結局はそうしたものに「管理」されてしまう存在でしかないのではないか。それを思った時に、この先、はたして自分に何が出来るだろうかと考えると焦りを感じる〉というものです。同じように感じられた方も、きっといらっしゃるのではないでしょうか。

 

私たちは、結局は「管理」されてしまう存在でしかないのか? 「管理」という言葉には様々な意味が含まれていますが、この方は、主として「コントロール」という意味合いで使われているのだと解釈しました。地球人類は、結局のところ、人智を超えた存在によってコントロールされて生きるしかないのか、と仰っているのではないでしょうか。間違っていたらごめんなさい。これは、概ねその通りだとも言えますし、そうではないとも言えるのです。はて、一体どういうことでしょう?

 

このご質問は、かなり本質を突いた問いです。というのは、結局は、「宇宙意識」と「自由意志」との関係の問題に帰着するからです。私たちは、誰もが「宇宙」の中にいる存在です。そこから逃れることは出来ません。はたして、「宇宙」に「意識」があるかどうか(「神」がいるかどうかと置き換えてもよいのですが)は別としても、存在の事実関係は曲げられません。ですから、その意味では、究極のところは「管理」されているわけです。でも一方で、あなた方は一人ひとりが「自由意志」を持ち、自由に行動することも出来るのです。

 

これは、視点をどちら側に持つかという違いであると同時に、「解釈」の問題でもあります。あなた方は「宇宙」のネット(網)からは逃れられません。これは事実です。仏陀の手のひらの上で、ただ忙しく動き回っていただけの孫悟空と同じです。しかし、いついかなる時もセーフティ・ネットから外れることは決してない、ともここで力強く言えるわけです。最初から(網に)救われているわけですね。

 

イエスが語った、人を漁(すなど)る網とはこれのことです。ですから、その状況にあることに先ずは感謝してください。その上で、なおかつ「自由意志」を行使する権限も与えられているわけですから、これほど恵まれたことはないのですよ。どんなに大冒険しても網から外れることはないんですからね。ですから、その恵まれた状況を大いに楽しんで、かつ大いに経験せよということです。それが、地球での人生を生きるということ。

 

ということで、本質を突いた問いには、究極の答えで応えました。

 

しかしみなさんは、目の前で展開される出来事にしょっちゅう振り回され、ついつい今言った本質を忘れてしまう傾向があるので、何度も同じことを言わなければならないというのは、こちらとしても辛いところです。ぜひとも、今度の「コロナ禍」を、二階級特進(第三霊性密度から第五霊性密度へ)のジャンピング・ボードに活用していただきたいと思います。迷ったら、いつでも、この究極の答えに戻ることです。

 

と、先ずは言ったところで、次にもう少し紐解いた話をいたしましょう。

 

あなた方を支配している構造は、これまでにも語って来たように、多段階から成り立っています。表 → 裏 → 影 → 闇 → 魔 です。これはある意味、宇宙の多段階構造(ハイアラーキ)を反映したもので、地上世界でも、この「ピラミッド構造」を人類支配の道具に活用できると考えた者たちがいるのです。しかしこれは、人間社会ではごく一般的な当たり前の認識です。会社組織だって、宗教だって、家元制度だって、みんな同じことをしているでしょう?

 

言い換えれば、「ピラミッド構造」による支配関係を、〈誰もが潜在的に知っている〉とも言えるのです。ですから、みんな無意識のうちにこれをやりたがるし、求めるし、支配・被支配の関係を容易に作り出しては、そのことで悦に入ったり、優越感を持ったり、逆に苦しんだり、劣等感に苛まれたりしているわけです。それは、霊的ハイアラーキの物質界への映し絵なのですが、誰もそんなこととはつゆ知らず、構造の中に巻き込まれて右往左往しているのです。

 

その時に、「気づき」というものが非常に重要になって来るのです。各人が、支配構造のどの段階までに気づいたか、ということです。そしてこれは、いま自分が見知っている世界にふとした疑問を抱かない限り(ひょっとしたら、これは本当の世界ではないのかも? と気づく)、次の段階には進みようがないのです。では、支配構造の各段階がどのような世界で構成されているかを、順番に見て行きましょう。

 

表:学校矯育で教わったり、マスコミが報道しているような日常的世界。

裏:そうした事象の背後にある裏側の意図。週刊誌ネタが暴く世界。

影:その裏を操っている権力者の世界。時たま単行本で暴かれることがある。

闇:その権力者たちを束ねている真の実力者の世界。表には出て来ない。

魔:闇が信仰対象とする世界。その霊的意識が闇を手足として使っている。

 

この構造の中で、「表」の世界しか知らずに、それが全てで真実だと思っているような人は、「裏」以深の世界については何も知らないわけです。そうしますと、「裏」の話を聞いた時には「え、本当?」と思うわけですし、「影」に至ってはまったくチンプンカンプンでしょうし、「闇」に至っては「バカげた陰謀論」だということになってしまうわけです。ましてや「魔」となると、悪魔教とかといったオカルト話としてしか理解しようとはしません。

 

しかし「魔」というのは、実は誰の心にもある「心の好き魔」「悪心」「魔が刺す」意識のことなのです。「魔」は、これを集めてエネルギー源にしている。「闇」はそのメカニズムをよく知っていて、それを利用しているのです。繰り返し言っているように、詐欺に遭う人がいなければ、詐欺師は成り立たないのです。詐欺に遭う人は、詐欺師が提示する文言に惹かれるので詐欺に遭う。つまり、波長が合うから詐欺に遭うわけであり、両者が協力してその関係を成し遂げているのです。

 

参照:人類支配の構造と、支配からの脱却 →

 

ここで、「ひょっとして、これは本当の世界ではないのかも?」と気づく人の歩留まりを、仮に1割としてみましょう。すると、

 

「表」の世界を信じ切っている人:90%

「裏」以深の世界に気づいた人:10%

「影」以深の世界に気づいた人:1%(100人に1人)

「闇」以深の世界に気づいた人:0.1%(1000人に1人)

「魔」の世界までを理解した人:0.01%(1万人に1人)

 

となって、人類のアセンションなど、絶望的に思えます。しかしこれが、地球がアセンション期に入ったことで、その追い風を受けて3割に上昇したとしましょう。すると、

 

「表」の世界を信じ切っている人:70%

「裏」以深の世界に気づいた人:30%

「影」以深の世界に気づいた人:9%(約10人に1人)

「闇」以深の世界に気づいた人:2.7%(約100人に3人)

「魔」の世界までを理解した人:0.81%(約100人に1人)

 

となって、俄然、アセンションする可能性のある人が増えるのです。もちろん、ダークサイドを理解することだけがアセンションの条件ではないのですが(むしろ深入りする必要はなく、しない方がよいのですが)、「光への道」は「闇」とパラレルに走っていますので、可能性はグッと上がることになるのです。『幼年期の終わり』を紹介した回で申し上げたのは、「魔」の世界のさらに奥に、実はもう一段あるよ、ということです。覚えておられますか?

 

それは何か? なんとビックリ仰天の「神々」の世界だったということ。「魔」が「神々」に変わる。「ルシファー」が「天使」に変わる。でも、「闇」ルートから直接そこへ行くことは出来ない。なぜなら「分離」が基本意識だから。「光」ルートに吸収合併されることによってしか、「神々」の世界に駒を進めることは出来ないのです。調和、中庸、中道、統合への道です。

 

それを知った上で、今後の世界を見て行ってください。筋トレと同じように、霊トレにも負荷が必要であり、それがアフター・コロナの世界にプレゼントとしてやって来ます。知らない人は、「何がプレゼントか」と思うでしょうが、あなたには是非ともジャンプ台に活用して欲しいのです。

 

アーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』では、地球が黄金期に入った際の人類の行方を3タイプに分類しています。一つは、世界政府によって与えられたパラダイスに、従順にハマって家畜化されて生きる人々です。もう一つは、そのような世界政府の樹立に対して反旗を翻し、抵抗する人々です。そして三つめは、社会システムの良いところは取り入れて、でも「魂」は売り渡さんぞという感じで、芸術村のコミュニティに暮らす人々です。おそらく現実世界も、クラークの予言通りに進むことでしょう。

 

よく「社会主義は嫌いだ!」と公言して、社会主義的に見えるもの全てを毛嫌いする人がおられるのですが、いかにも狭量で凝り固まった考え方です。そこに「主義」を付けようがどうしようが、人間は個別の存在であるのと同時に社会的な存在でもあります。無人島にでも行かない限り、「社会」から離脱するすべはありません。また何でも自分ひとりで出来るわけでもありません。交通インフラや、水道設備や、ゴミ処理や、宅配便のお世話になって、みな生活しているのです。

 

それは、相互扶助の関係を学ぶ機会(広く捉えれば「愛」の学習実践機会)にもなっているのですが、どのような社会のあり方が良いのか、また社会と人間の関係のあり方が良いのかは、時代とともに、また意識変化とともに変わるにせよ、人はどこかで社会との折り合いを付けなければならないのです。ですから、それは「主義」というものではないのです。これまでの歴史では「主義」に引っ張られたこともあったかも知れませんが、これからは普遍的な「愛」の観点から再構築されるべきものです。

 

例えば、交通信号機です。交通信号機が設置され、それを守るという社会的ルールが一般化される。それは、トラフィックを円滑を進めるという点で、社会的に意味のあることです。世界には、信号機が無くて大渋滞を起こしている都市や、たとえ信号機があっても社会的ルールが育たなくてやはり大渋滞を起こしている都市がいくらでもあります。

 

それと比べれば日本人の従順さは社会的に大いに機能しています。けれども、見通しのきく横断歩道で、クルマが来ないのにも関わらず赤信号だったと。その時にも、信号が青に変わるまでずっと待ち続けるのか、と問われたらどうでしょう? う〜ん、私ならば信号無視してサッサと渡っちゃいますね。信号機の目的は、安全・円滑なトラフィックの実現にあるわけで、ルールの順守にあるわけではありませんからね。

 

社会と自分との関係(広く言えば、周囲の一切合切と自分との関係)を考えた際に、大切なポイントは、いつも「自分自身をドライブして生きる」ということです。「支配」とか「コントロール」という言葉を使ってもよいのですが、ネガティブに受け取られる可能性があるので、一応「ドライブ」としておきます。この意識を、常時立ち上げっぱなしにして生きるようにするのです。これだけで、あなたの生き方は、それ以前とはまるで違ったものになります。

 

例えば、いま外に出ると、あらゆる場所でソーシャル・ディスタンスというものを強いられるでしょう。「この位置で待て」という具合に、フロアに足型が描いてあったりします。それに対して、あなたはいろんな態度を選べます。従うことも従わないことも出来ますし、従うにしてもどういう考えで従うのか、従わないにしてもどういう考えで従わないのかをあれこれ選ぶことが出来ます。

 

その時に、表面的にはただ従順に従っているように見えたとしても、自分の意思で、そうすることを選んでいる、と確実に意識して行動することが大切なのです。理由などは要りません。とにかく、自分がドライブして、自分の足をそこに踏み出す。逆らったところで多勢に無勢ですし、そうすることが今は円滑な仕組みであるなら、従うことはわけないことです。しかし、そう「させられている」と思うのではなく、「自分がそれを選択する」と思い込むのです。

 

でも、仮にいま私が「戦争に行って敵を殺して来い」と国から言われたとしたら、私は従いません。たとえ投獄されようが死刑になろうが、拒絶します。それは人道的な理由からではありません。今の自分の霊的成長にとって不必要かつ有害なことだからです。同じように、私が「お金はもういい」と言うのは、不要と言っているわけではありません。いくらかはやはり必要です。でも「お金」にまつわる学習は終えてしまったので、もう興味がなく、あとは煩わしいだけなのです。

 

同じ行動をしていても、「やらされている」と思えば、その瞬間から「奴隷」になってしまいます。ですが、つねに自分自身を自分でドライブしていれば、いつでもあなた(の意識)は「自由」なのです。

 

やらされている、コントロールされていると思っている限り、あなたから不安や恐怖は消えません。自分が自分自身をドライブして生きる、という習慣を身につけることによってのみ、不安や恐怖から脱出することが出来るのです。そして、来たるべきアフター・コロナの世界は、まさにそう思うかどうかが、家畜化されてしまうか、真の「自由」に目覚めてアセンションするのか、の分かれ道になります。

 

*詐欺に遭う人が、自ら望んで、喜んで詐欺に遭うのと同じで、家畜化される人も、喜んで家畜化される道を選びます。

 

さて、もう一つの質問。〈この先、はたして自分に何が出来るだろうかと考えると焦りを感じる〉ですが、「自分に何ができるだろうか」と考える必要はありませんし、「焦る」こともありません。これも以前に言ったことの繰り返しになりますが、課題は「行為」の内容にあるのではないのです。どのような「意識」をもってでそれを為すか、ということです。

 

これは「適職」とか「天職」といったことでもそうなのですが、みんな「業種」ばかりを問題にしていますねぇ。確かに向き不向きはあります。けれども、自分は「適職」にありつけないとか、どうしても「天職」を見いだせない、などと始終考えていたとしたら、大多数の人が幸福感のない人生を送ってしまいますよ。「業種」など、思いつきや、はずみや、ふとしたきっかけで決めて構わないのです。大切なのは、それを、自分が「適職」にするか、「天職」に出来るか、ということです。出来なければ、変えればよいのです。

 

それと同じで、「自分に何ができるか」と考え続けていたら、日が暮れてしまいますよ。なぜって、それはまだ経験がないことなのですから。あなたは「自分に何が出来るか」と考えながら、きっと出来ない理由を、100も1000も探すことでしょう。まさしく、人は「I can’t」の理由をクリエイトすることにかけては天才です。そうではなくて、「今したい」と思ったことを直ちにすればよいのです。それが成功するか失敗するかなんてことはどうでもいい。失敗したら、そこから学んで次の「今したい」を探せばよいのですから。

 

この点で、ぜひ見習いたいのが、かつてプロ野球界で活躍された新庄剛志さん。この方は「宇宙人」と言われて来たのですが、まさに、人々に、直感力に従った生き方と、朗らかさと、宇宙的な「愛」を、身をもって示すことを使命として派遣された、類稀なる「魂」です。直感に従ってパッと行動し、やめる時もパッとやめる。そして、後に思いを残さない。この方の「愛」は、普通の人々には理解できないほどの大きさなので、時に小馬鹿にされたり、騙されたりすることもある。でも、めげずに使命を果たしておられるのは本当に素晴らしい。

 

話を戻して、大切なのは「何が出来るか」ではなくて、どういう「意識」でそれをするかです。大きなことは考えずに、小さなことから始めてください。ケーキを焼きたいと思ったらケーキを焼けばいいし、草取りをしたいと思ったら草取りをすればいい(と、これは私の日常ですが)。その時に、宇宙的な「愛」と寄り添ってそれをする。宇宙の「生命」を感じながらそれをする。自分が今それが出来ることの「幸福」を感じながらそれをする。そのことが重要であり、そうなることこそが、まさにアセンションなのです。

 

この感覚に至るまでには時間が掛かります。最初は、そう感じている「フリ」をするところから始めてください。それを何度も何度も繰り返していると、その「フリ」がだんだんと少しずつ本当になっていきます。そうなるまで、諦めずに続けてください。「何が出来るか」を考え続けて、時間をムダにすることのないように。「I can’t」の理由をひねり出してチャンスをムダにすることのないように。

 

いつもいつも「直感」に従うのです。「直感」は、高次元のあなたから今のあなたへのプレゼントなんですよ。その受け取りを拒絶する理由が、どうしてあるというのでしょうか?

 

それと、これも以前に語ったことですが、今回の地球のアセンション機会と、あなたのアセンションとを無理繰り結びつけて考える必要はありません。今回の地球のアセンションは、確かに二階級特進のチャンスであり、またそれを狙ってたくさんの「魂」が地球に降りるという人口爆発現象も起きています。ですが、この機会にたとえ成就できなかったとしても、究極的にはどの「魂」も必ずアセンションを成し遂げるのです。

 

それを、未来のどこかの時点で成し遂げた存在が、いわゆる「ハイヤーセルフ」です。ですから「焦る」必要などはまったくありません。地球は今回のサイクルで「幼年期」としての役割を終えます。そうなると、「幼年期」のままの「魂」は、アセンション後の地球にはもう転生して来ることが出来なくなります。けれども、宇宙のどこかに、また「幼年期」用の惑星がちゃんと用意され、集団移住となるのです。そしてそこで、またいがみ合いやドンパチの続きをおっ始める。

 

ですが、今回の地球のようなチャンスは、宇宙でも滅多に無いことですから、あなたには、是非ともモノにして欲しいところです。

 

「自分に何が出来るか」ということの中には、他の人々への貢献のことも含まれていると思います。ですが、これも「行為」が重要なのではなく、あなたがアセンションすれば、あなたの高い波動が周囲に影響を与えることになるので、あなたが何をしていようと、自動的に、つねに人類の霊的成長に貢献していることに繋がるのです。

 

ここで重要なのは、あなたがアセンションすれば、人類全体の霊的成長というものに大いに貢献することになります。がしかし、人類全体の霊的成長という課題と、あなたのアセンションという課題には、直接的な関係がないということです。つまり、人類全体のためを思って、自分のアセンションを考える必要はないということです。あなたは、ご自分のアセンションのことだけを考えて邁進していけばそれでよいのです。

 

これは一見、身勝手なことように思えるかも知れませんが、いわゆる「個人主義」とは違います。霊的課題や霊的成長というものは、あくまで個々の「魂」のものであって、他の「魂」の課題や成長に、他の「魂」が介入したり肩代わりしたりすることは出来ません。出来るとすれば、その「魂」の成長機会が奪われることになってしまいます。ですから、それはありません。ある「魂」にとって、それがどんなに辛そうに、また苦しそうに見えようとも、霊的に言えば、それらは全部がギフトなのです。

 

辛さや苦しさに喘いでいる人を手助け出来ない、と言っているわけではありません。手助けすることは出来ますし、手助けすることはよいことです。しかしそれは、互いにとっての経験、いわば互いにとっての風景として働くのであって、苦しんでいる人の身代わりになることは出来ないのです。この点を、しっかり押さえておくことが大切です。同情のあまり、課題の区別という原理を忘れてしまうことのないようにしなければなりません。

 

どうすれば人を助けられるのか、どのように人を助けてあげたらよいのか、と考えあぐねておられる方も多いでしょう。また、あの時、なぜあの人を助けられなかったのだろうと、過去の出来事を悔やみ続けておられる方も多いことでしょう。これらはみんな、霊的課題や霊的成長ということに関して無知なために起きる悩みなのです。

 

キリスト教的な「原罪論」に嵌った人たちにありがちなのですが、他者を救えなかった経験を、あまりにも真摯に見詰め過ぎて、自分を「罪深き者」としてひたすら責めている方がおられます。見ていて痛々しいくらいです。この人たちが知らないのは、他者を救うものはテクニックでもなければ、罪意識でもないということです。それは、ひとえに高い波動によるのです。人は高い波動に接した時に癒され、高い波動をもたらした時にだけ他者を癒すことが出来るのです。すべては「波動」の問題なのです。

 

ですから、他者を救えなかったという罪意識に縛られて、自分を過剰に責めたり、罪意識を克服しようとしてあまりにも真摯に他者に向き合うことは、すべて逆効果でしかないのです。なぜなら、その時、その人は非常に低い波動を発しているからです。そして、その低い波動で、周囲にいる人たちを巻き添えにしているからなのです。ですから、いわゆる「自助グループ」などの集まりは、多くは逆効果しかもたらしていません。互いが、低い波動を持ち寄って、それに同調し合って慰めとしているだけなのです。

 

他者を癒せる力は、高い波動以外にはありません。テクニックも言葉も知識も必要ないのです。ただただ高いバイブレーションです。それは一瞬にして伝わり、一瞬にしてその人を癒します。ですから、あなたの目標は、ただそこに居るだけで、あなたという存在が居るというだけで、高い波動を周囲に出し続ける存在になることです。それがアセンションの意義です。あなたがアセンションすれば、あなたは自動的に、他の人々を手助けする存在に変身するのです。

 

ということで、何も焦る必要はありません。「自分に何が出来るだろうか」と悩む必要もありません。ただただアセンションを目指してください。最初は「フリ」をすればいい。出来ない「フリ」をするのではなく、出来る「フリ」をするのです。勇気を持ってその一歩を踏み出しなさい。大きな一歩でなくてよいのです。大きな一歩ばかり考えていたら、壁に圧倒されてしまいます。今日できる確実な一歩を進むのです。日常の中の何気ない出来事の中に、すべて「フリ」を見い出しなさい。そして、少しずつ少しずつ感じ取るのです。

 

永遠の時を、生命の輝きを、宇宙の愛を。そしてすべてが一つであることを。