by Rainbow School
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覚醒への試練

霊的成長という観点から眺めたとき、地球には三段階の人間が存在します。

 

先ず初めは、「人は身体だけの存在ではなく、同時に霊的な存在でもある」ということにまだ気づいていないか、もしくはそれを否定してしまっている人たち。いわゆる「無智」の段階にある人々です。二番めは、魂の存在、あるいは霊的世界の存在に多少なりとも気づきがあり、その本質に迫りたいと願うようになった人々です。そして三番めは、もはや宇宙の本質を我がものとし、霊的世界を下敷きに生きるようになった人間、いわゆる「覚醒」を成し遂げた人物です。

 

この三段階は、霊的成長の大まかな区分を示しているのですが、あるところで急に変わるというものではなく、徐々にグラデーション状に推移して行きます。この中で、「無智」の段階にある人というのは、たぶん3割ていどでしょう。ある調査によると、日本では「無宗教」だと答える人の割合が7割を占めるということですが、自然崇拝の文化的伝統があるので、「霊的世界というものは多分あるんだろうな」という感覚は、意外にも多数の人が持っているのです。

 

ところが、「霊的世界というものがあるんだろうな」と思ってはいても、それを突き詰めようとする人となると、数はグッと少なくなります。おそらく100人に1人程度でしょう。ですから99パーセントの人は、深く追求することなく、理解を曖昧にしたまま、なんとなく「霊的世界」を信じているといった状況です。しかし、その100人に1人の中でも、運よく覚醒(ascension)への最初の扉を開けることができ、その先を進もうと決意する人は、さらに1パーセントしかいないのです。

 

この「光への道」の最初の扉は、ある日、唐突にやって来ます。宇宙を支配している超越的存在があることに、突如、気がつくのです。それはむせるような歓喜とともにやって来て、理屈によるのでもなく、言葉でもなく、法や、愛や、生命の本質というものを、いきなりドカンと、丸ごとその人は受け取ることになるのです。これが、最初の目覚め(awakening)です。

 

しかしそれは、真の覚醒(ascension)ではありません。ここで夢々錯覚してはならないのです。それは、ただ最初のスタートを切ったというだけの話。最初の扉をこじ開けたというだけであって、ここからがいよいよ本番。真の覚醒に向けての、本格的な試練が始まるのです。それは、一体どんな試練なのか?

 

それを説明する前に、「アセンションする」ということを、人間の「意識」の観点から見てみることにしましょう。アセンションとは、その主体(意識的存在)が、第三霊性密度の領域から、第四を通過し、第五霊性密度の領域へとジャンプすることを言います。さて以前に、人間の意識は一重ではない、ということをお話ししたのを覚えておられるでしょうか? 潜在意識、顕在意識、超意識、超絶意識の四重になっているということを。

 

第三から第五へジャンプするというのは、「意識」で見た場合、「顕在意識」から「超意識」への飛躍を意味します。別の言葉で言うと、「自我」から「真我」へのジャンプです。「自我」というのは、「魂」が、この世に個別的肉体を持って誕生し物質世界を生きることになったため、それに適応するようにして形成されたところの「意識」です。一方の「真我」は、霊界にいた時から継続して所持している、本当のわたし、真のわたしの「意識」です。

 

この、本当のわたしの「意識」は、個別性はまだ有しているものの、カルマが解けて、極端な偏りや尖ったところが無くなった存在になっています。そしてさらに先に、「真我」が完全に「一なるもの」に融合した状態の「神我」(=超絶意識)があるのです。この最終領域への到達が、いわゆるニルヴァーナ(涅槃)です。さて、話をシンプルにするために、超絶意識や潜在意識のことには触れずに、「自我」から「真我」への上昇という点だけに話を絞って、論を進めて参りましょう。

 

この宇宙は、(こちら側から見て*1)何もない「無」の世界から先ず誕生しました。そして誕生するやいなや二極性を生じ、この二極性をフルに展開することによって、途方もない多様性を持った現在の宇宙が出来上がったのです。その名残りが、今もハッキリと刻印されています。あなたの周囲にあるものをよく観察してみてください。極小から極大のものまで、宇宙のあらゆるものは二極性を有しています。この二極性の間に新たな創造が生まれる、という法則性*2を、宇宙は持っているのです。

 

*1こちら側から見て:「無」の反対側に別の宇宙がある可能性があります。

*2法則性:これを「三角形の法則」と言います。二極性の間に新しいものが生まれることを▽(正反合)で示し、これが末広がりに拡大することを△で示しています。

 

ちなみに、宇宙の創世に関して、『新約聖書』には次のような記述があります。「初めに言葉があった。言葉が『光あれ』と命じ、次に光と闇ができた」。この「言葉」は、ギリシャ語では「ロゴス」となっており、最初に日本語訳をした人が、悩んだ挙句に「言葉」と訳し、これが定着してしまったのです。しかし「ロゴス」は、英語の「logic」の語源ですから、むしろ「法」と訳した方が適切です。つまり、宇宙の法が、先ず二極性を産んだということを物語っています。

 

 

図1を見てください。人間の「意識」は、「真我」に迫るほど、一なるものに近づくことになるので、二極性は中央に収斂されて行きます。つまり二極の「分離」状態から「合一」へと向かうのです。

 

一方、物質世界を生きている「自我」は、まさに二極性そのものの中にあります。この結果、「自我」は、陰陽二極性の間を、絶えず、まるで振り子のように激しく揺れ動いてしまうことになるのです。右か左か、賛成か反対か、行くべきか止めるべきか、etc.。これが「心」の迷いの、実は正体なのです。

 

でも、それでは人間は気持ちが悪いので、大抵の人が心の安心を得ようとして、先ず、自分の立ち位置を決めたがるのです。これが、所属や肩書きを切望する認知欲求です。自分に鎖をつけ、柱に縛りつけることで、荒波にも絶対に流されまいと図るわけです。

 

しかし、そのようなポジションを、おいそれとは見い出せない人は、主義主張(の固定概念)にそれを仮託しようとします。そして、主義主張をより鮮明化するために、仮想敵を作って、それを攻撃するという手段に出るのです。

 

これが、現代の、国家主義や、ヘイト意識や、ディする意識の異常なまでの広がりなのです。例えば、保守を自認する人は、自分の保守思想と合致しない人たちには、みんな「左翼」のレッテル貼りをして攻撃をします。そのことで、自分が右側のポジションだということを示そうとするのです。しかし、ここにはもっと深い、「魂」レベルでの欲求が隠れているのです。

 

前に、ヘイトしたがる人の心の構造について話をしました。AさんはBさんが嫌いで、Bさんを憎んでいるとします。しかしその「思い」というのは、Aさんのものなのです。ですからAさんは、アンチBというポジションに自分を設定することで、Bさんへの思いと、アンチBという思いを、自分の中に同時に出現させているのです。そうすることで、無意識に心のバランスを取っているわけです。もちろん、本人はそんなことには気づいていません。相手をヘイトすることで、自分の承認欲求が満足させられると思っているのです。

 

これは、由々しき問題です。それは「無智」(頭の良し悪しはまったく関係なく、霊的に「無智」ということ)なるが故の行動で、実態は、自分の心の中にしじゅう股裂き状態を創造しているわけです。これが、その人の精神性にダメージを与えないわけがありません。甚だしい場合には、身体細胞にもそのアンビバレンツが及びます。そうした状態が繰り返し続けば、いつかは「病気」という形をとって、修正するよう気づきが図られることになります。

 

そのようなわけで、「無智」の段階にある人は、二極性の間を一生迷い続けて、その生涯を終えます。ところが、そのような一生の中でも、どんな人にも「真我」に触れる瞬間というものが、何度かは必ず訪れるのです。それは守護霊たちの計らいによるものなのですが、直感や、ビジョンや、言葉や、出来事としてそれが示されます。「真我」に触れた瞬間には、パーッと心が晴れたり、「感情」が動いているわけではないのに、ただただ涙が溢れ出て来たりします。

 

注意していれば、それは「思考」や「本能」や「感情」を超えた、別の「意識」であることに気づくのですが、いま書いているような知識は殆ど誰も持っていませんので、99パーセントの人が注目することなく、これをやり過ごしてしまうのです。またそれだけではなく、この世は「自我」というものを肯定する世界ですので、それを超えた「意識」については、幻覚とか錯覚とか幻聴といったレッテルを貼って、排除までしている始末なのです。

 

しかし、このような見なし方は正しくありません。それは、幼い子どもや、臨死にある人たちを観察していれば、自ずと解ることです。

 

幼い子どもの場合は、脳が未発達なために、まだ「自我」が充分に育っておらず、したがって「真我」が優位に立った状態で生きています。子どもの一人遊びは、大人から見れば「空想」の世界で遊んでいるように見えますが、子どもたちからすれば、大人の世界こそが「空想」で、自分が遊んでいる世界の方が本物なのです。7歳くらいまでの子に、「どうして我が家に生まれて来たの?」と聞けば、ちゃんと答えてくれます。

 

一方、事故などにあって臨死状態にある人が、意識不明だと聞くと、関係者は例外なく心配し、早く意識を回復して欲しいと願います。そして意識が戻ると「あぁ、よかった」と言って安心するのです。しかし、この「意識が戻る」というのは、「自我」意識のことであり、昏睡状態にある際には、幼児とは逆プロセスで、その人は「真我」を取り戻す準備に入っているのです。この時に、「魂」はいわゆる臨死体験というものをしているのです。ですから、何の心配も要りません。

 

このように、「真我」は、そもそもその人に備わっているものです。ところが、「自我」が育つ過程で、入れ替わりに忘れ去られてしまうのです。そして遂には、これがまったく顧みられなくなり、存在自体を自分で否定してしまうのです。その結果、多くの人が「無智」に陥って、代わりに嘘の情報で頭をパンパンに膨らませ、二極性の間をフラフラしたり、意識構造の中を堂々巡りしたりして、(図2)悩み続けるのです。

 

この世は、霊的世界とは価値観がひっくり返った世界です。試しに、図1の三角形をひっくり返してみましょう(図3)。ここでは「自我」が前面に出ていて、「真我」は底深くに沈んでいます。

 

あなた方の世界では、「自我」を誇示することが礼賛され、それを人生の目標とし、またそうすることが当然だと思うように教育されます。社会全体がそうですので、誰もその価値観を疑わないし、「真我」を見い出そうとする人は、全くと言っていいほどいません。

 

けれども、「真我」は失われてしまったわけではありません。「真我」はいつも、その人と共にあるのです。ただ、衣装ケースの奥深くしまい込んで、忘れてしまったというだけです。なぜ忘れてしまったのか? 「自我」が芽生えると子ども心を失くし、大人になるに従って、流行ファッションばかりを追い求めるようになったからです。自分の外にある様々な刺激的な話題が気になり、衣装ケースの表面だけを取っ替え引っ替えするので忙しい。子ども時代の一人遊びは、もう出来なくなったのです。

 

でも、この表面をすっかり取っ払ってしまったら、忘れていた「真我」は必ず現れ、その中にストンと落ちることになるのです(図3)。これが、真理の世界で、「努力は要らない」「そのままでいい」「最初から救われている」と、繰り返し説かれて来たことの理由なのです。その言葉だけを聞いたら、まるで意味が解らない。でも、とうとうこれで解ったでしょう? 「真我」は、到達すべき目標などではなく、あなたの内に最初からあるのです。今この瞬間もね。

 

Be Here Now !

努力は要らない。

そのままでいい。

 

実にシンプルです。あまりにもシンプル過ぎて、きっと拍子抜けしてしまったことでしょう。ところが、これが超難関なんですね。何がそんなに難しいかというと、「自我」を捨て切ることが、みんな出来ないのです。アセンションの難しさというのは、到達することの難しさではなく、捨て去ることの難しさなのです。でも、この逆転現象を誰も知らない。知らないまま、みんな到達に向けて必死に努力しようとしている。だから、成就できない。

 

今まで、いろんな喩えを使って、このことを表現して来ました。梯子をすべて降り切れば自動的に引っ張り上げられるとか、思い切ってバンジージャンプをすればいいとか、砂袋を捨てれば気球は自然に浮かぶとか。それらは全部、同じことを語って来たのです。逆三角形で示した図の「自我」部分をぜんぶ取っ払ってしまえば、その人は、難なく「真我」に転げ落ちる。だから努力は必要ない。しかし、「自我」にしがみついている間は、底に転げ落ちることは大変な「恐怖」に映るわけです。

 

最初の目覚めを経験したとしても、「自我」を捨てる道に進む決意をする人は、100人に1人しかいません。残りの99人は、「自我」にホームポジションを置いたまま、「スピリチュアル」という言葉に惹かれ、泉に水を汲みにやって来る。ザルで水を汲みに来ても持って帰ることは出来ないんだよ。水で満たすためには、ザルごと沈めるしかないんだよ、と言っても、「ザルごと水に沈めるんですよね」とただおうむ返しに言うだけであって、本当にそれを実行しようとする人は、まずいない。

 

そんなわけで、あなた方の大半は、「真理」の世界に触れてみたいと願いながらも、「なにがなんでも」といった強い情熱がないために、毎日その試みに失敗しているのです。受け取る器がザルだから。そして、100分の1のそのまた100分の1の、1万人に1人くらいが、ようやく「光への道」へと進んで行く。でも、その人たちの行く手に待ち受けるものは、避けて通ることの出来ない、またその段階に至った人にしか解らない、厳しい試練なのです。

 

その試練は大きく三つある。

 

第一の試練は、いわゆる「ヴァイブレーション(波動)」が知覚できるようになることです。これだけを聞くと、知らない人はよいことのように思えるかも知れません。しかし、この能力が開花すると、波動に敏感になる余り、粗雑な波動に接した際には、槍で突き刺されるような痛みや、めまいや、吐き気に悩まされることになるのです。人混みは耐え難く、買い物にもなかなか行けない。ニュースもドラマも見ることが出来ない。耳鳴りは凄まじく、自分の心臓の拍動すら知覚してしまう有り様。

 

いやはや、この世の波動の粗雑さといったら、まるでガード下で暮らしているような凄まじさです。生まれつき、こうした敏感な知覚能力を持っている人というのも、相当数いるのですが、周囲の人を見るとみんな平気な顔をしている。そこで、自分の頭がおかしいのでは?とみんな思うのです。そして精神科を受診すると、適当な病名を付けられてクスリを渡され、それを服用しているうちに、本格的な精神病に移行してしまうという人が、いーっぱいいる。まったく、何てことでしょうか。

 

第二の試練は、未だ捨てきれないエゴの残りカスが、後から後から湧いて来ることです。一つ克服できたかなと思うと、直ぐに次がやって来る。これは、外からの誘惑という形によってもたらされます。それはお試しで、そのことによって自分のエゴというものに気づかされるのですが、うっかり誘惑に乗ってしまったら、たちまちにして「自我」の世界に逆戻りです。一方、ここで適切な処理を誤れば、自分の未熟さや、不安定さや、卑小さに苛まれるということになってしまうのです。

 

そして第三の試練は、カルマの総ざらいをしなければならなくなるということです。カルマというのは、その人の前世で、うまく清算できていなかった「思い」です。この「思い」が残っているために、いま一度それと向き合い、きちんと清算するチャンスを欲して人は輪廻転生して来るのです。ですから、今世でアセンションを達成しようとした場合には、残っているカルマを総ざらいしなければならなくなってしまう。従って、その人の今世は、ずいぶんと辛いものになります。

 

別に脅しているわけではないのですが、以上の三つが避けては通れない試練で、これらは「Dark Night(暗夜)」とか「四次元(第四霊性密度)の河」などと呼ばれています。加えて、「四次元の河」を渡る途中で、河に落ち、溺れてしまうという場合もある。「信仰」や「オカルトへの興味」が誘う罠がそれです。宗教を入り口にして、「信仰」を経験した後に、これを捨てるという道はある。しかし、教義や戒律を「信じ」続けている限りアセンションは不可能です。なぜって、それを手離せてないのですから。

 

「オカルトへの興味」というのも、これは「四次元(第四霊性密度)」世界への執着そのものであり、これに強い興味を抱き続けることは、その人の意識を「四次元(第四霊性密度)」世界に固定してしまいます。すると、何度転生して来ても、またそこに惹かれて河に落ち、結果として輪廻転生の回数を倍化してしまうことになるのです。

 

不思議現象を不思議だと思っている間は、箸にも棒にもかからない。「不思議現象などどこにもない」と思えて、初めて「四次元の河」を渡り切れるのです。

 

このように、エゴ、宗教、オカルトの三つは、アセンションの三大タブーであり、この三つをすべて手離さない限り、「四次元の河」を渡り切ることは、絶対に出来ない。要は、これらの試練を乗り越えるだけの「自由への欲求(Disire to freedom:「自我」の拘束から完全に脱却する)」の炎を、それはそれは激しく燃やすことがない限り、乗り越えられるものではない、ということです。ですから、このブログでも「覚悟しなさい」ということを、繰り返し言って来たのです。

 

日本に生まれたみなさんは、とても恵まれているのですよ。貧しくても、今日のご飯に困るという人はいないでしょう。街も比較的きれいですし、街中でドンパチ騒ぎもありません。自然が豊かで、水は豊富にあります。お店にはたくさんの商品が並んでいます。医療保険制度だってある。何を発言しようと自由ですし、また発言のせいで逮捕されたり処刑されたりということもありません。信教の自由は保証されていますし、女性もスカーフを着用する義務はありません。

 

これらの恵みは、前世までに積んだ、あなたの「徳」の賜物です。人間として生まれることだって、実は大変なことなんですよ。地球にはいま77億人がいて、人口増加がまだ続いています。この人口爆発が、今なぜ起こっていると思いますか? 今度の「地球のアセンション」の機会に、自分もあやかりたい、経過を体験したい、という「魂」が、大挙して押し寄せているからなのですよ。ま、例によって、本人はすっかり忘れてしまったみたいですけれどね。

 

それなのに、これほど恵まれた環境にあるあなたが、「よし、なにがなんでもアセンションしてやるぞ!」と決意しないでどうするのですか? この次の「転生」があるという保証は、今のところ提示されていないんですよ。この先、地球がアセンションしてしまった暁には、修行中の「魂」が生まれ変われる惑星はもうないのです。その「魂」は、数千年、ひょっとしたら数万年も、第四霊性密度に留め置かれる可能性がある。人間に生まれるというのは、それほど大変なことなのですよ。

 

地球という惑星は、第三霊性密度下にある二極性を体験学習するために、宇宙に用意された特別な星です。この惑星上では、二極性の引っ張り合いに巻き込まれるために、人間は数多くの苦悩を体験します。それは、その成長段階にある「魂」のために用意されたもので、言うなれば「気づき」を得るための「愛の鞭」なのです。あるメッセンジャーは、地球を「流刑地」と呼び、あるメッセンジャーは地球を「監獄」に喩えました。

 

*コリーヌ・セロー監督の『美しき緑の星(La Belle verte)』というコメディ映画があります。この映画は、霊性の進んだ星に暮らす宇宙人たちが、他の惑星を表敬訪問する人を定期選抜するというシーンから始まります。司会役が候補地の名を順番に上げて行くと、希望者の手が次々と挙がります。ところが「地球!」と言ったとたん、みんなショボンと下を向いてしまい、手を挙げる人が誰〜れもいなくなってしまうのです。

 

地球は、「自我」によって「自由」を奪われた、正に「監獄」です。ここでは価値観が逆転していて、ずる賢い牢名主のような人間が、他の人々の「自我」を操ることで、社会を支配しているのです。人々は、働き蜂や兵隊蜂やパシリとして支配者にコキ使われているのですが、支配されているということに全く気づいていません。それどころか、自ら進んで、働き蜂や兵隊蜂やパシリになるのです。それは、人々の「自我」が、支配者が繰り出す引っ掛けに、簡単に同調してしまうためなのです。

 

しかしこれをもって、支配者だけを糾弾するわけには行きません。よく、儲け話に引っ掛かったという話を聞くでしょう。どうして儲け話に引っ掛かるのでしょう? それは、引っ掛かった人の「自我」にも、「儲けたい」というエゴがあったからです。そこで、類は友を呼ぶ「波動の法則」によって、〈儲け話に騙される〉という現実が、両者の一致協力のもとにそこに「創造」されたのです。もしもその人に、「儲けたい」というエゴが無かったとしたら、この現実は起きないのです。

 

このようにして、地球という惑星は、エゴの突っ張り合いが社会の根底を為してしまっているのです。他ならぬ「スピリチュアル」という業界にしろ、「宗教」にしろ、所詮はエゴの塊です。「自我」を捨てる気などさらさら無く、「自我」のエゴの上に、ありがたそうな「スピリチュアル」という付加価値をくっつけて、高く売りつけているだけです。しかしそれも、それをありがたがる人がいるからで、両者の波動が合うから成立しているのです。

 

ということで、このような環境にいる以上、いくら「努力は必要ない」と言っても、「自我」の誘惑を断ち切ることは非常に難しい。だから一気には切れない。少しずつ手離して行って、ほぼ抜けたかなという心境になるまで、最低でも4・5年は掛かる。そうやって、やっとのことでアセンションが達成される。しかし、ここまで到達するには、途中99人が脱落する。

 

結局、100分の1の100分の1のそのまた100分の1で、1000000万に1人という程度しかアセンションできないということになってしまう。‥‥今まではね。今、このような活動をしているわけは、隠されたダイヤモンドの原石を掘り起こし、これを磨く手助けをして「アセンション」する人間をもっと増やせ、という司令を受けたから。私に出来ることはそこまで。

 

でも、「光への道」は、これが最終というわけではありません。その先に、真の合一(神我、ニルヴァーナ)という段階がまだ控えているのです。しかし、地上に生きながらにして、この段階に至る「魂」は極めて稀だとされ、同時代に地球上に二人は存在しないと言われています。

 

元の三角形△の形に戻りましょう。(図1)「自我」は、第三霊性密度(物質界)に対応した「意識」で、三角形の底辺部にあります。しかし、普段は意識していなくても、「真我」の意識は同時につねにあるのです。静かな環境に身を置き、心を静かにしていると、この「真我」が、あなたにメッセージを送って来ることがあります。それは、本当のあなたからの、あなた自身へのメッセージなのです。そこには重要な示唆が含まれています。ですから、これを無視しないようにしてください。

 

ただし「重要な」というのは、あくまで「魂の成長にとって」という意味ですので、これを「損得」で捉えないでください。魂の成長のために「こっちの道を行け!」というアドバイスは、「自我」の尺度では「損」に見える場合が往々にしてあります。ここで、考えたり迷ったりしていてはダメなのです。多くの人が、考えた末に「自我」に負けてしまいます。しかし、行く時には行かねばなりません。Go Go! だから、バンジージャンプをせよ、としつこく言っているわけです。

 

このようにして、「自我」を少しずつ手離して行き、四次元の河もどうやらこうやら抜けて、「真我」をホームベースに置いて生きるようになると、かつてあれほど興奮や興味を覚えたことにも、ことごとく関心がなくなってしまいます。この世界が、所詮はうたかた、幻だということが、頭だけの理解ではなく、実感として、真実だと悟るようになるのです。

 

ことここに至ると、日常生活でたとえ今までと同じことをしていたとしても、あなたの生き方は、それまでとはまったく違ったものになってしまいます。(図4)意識が「真我」に上がると、二極性の幅がグッと狭まるので、心はあまり揺れなくなります。そして、万物が、この二極性の調和の下に創造されているということが、実感として解るようになります。

 

これがよく言うところの「中道」です。「中道」というのは、どちらか一方に偏らないという意味だけではなく、両極があって一つのバランスがあるということを示しています。それは、二元対立の学習が、その時点で止むということです。そして、かつて自分が通って来た道と同じ旅の途中を、「無智」であるがゆえに同じように苦しんでいる人たちを、手助けしないではいられなくなるのです。

 

このブログが、どれほどの役に立つかは判りませんが、私は私の使命を果たすだけです。「地球に行ってくれる人はいませんか?」と、かつて言われた時に、ついうっかり「ハーイ」と手を挙げてしまったものですから。