by Rainbow School
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Q . 一体「霊的成長」とはなんでしょうか?

次のようなご質問をいただきました。きっと同じ疑問を持たれている方も多くいらっしゃるのではないかと推察します。そこで、今回はこの疑問にお応えしたいと思います。

 

Q .生きているということ、生きて様々な体験をするということは、「自分は誰か」に対する答えを見つけるためのものという記事や、その他、最近の記事について、特に興味深く、何度も拝読しています。ですが、未だに肝心なところがわかりません。すべては魂の成長、霊的成長、気づきのために用意されたもの、という表現もあったかと思いますが、「何のために?」と思えて仕方ないのです。

 

私たちは「それ」、「それ」は私であり、あなたであり、あれやこれやすべて、ひとつ。なんのために成長するのか、何をもって成長というのか。もともと「それ」であり、今でも「それ」であるワタシが、見かけ上、いろいろな制限がある物質世界で「学ん」だり、自分は「それ」だと「気づいた」ところで、だからといって何になるのでしょうか?

 

きっと答えは「何にもならない」だとは思いますが、見習い神様が、自由に何でもできるのは、あまりにもつまらないから、神様学校をサボって、物質化、分化させた自分の部分(ニンゲン)が、いろいろな喜怒哀楽の体験をするのを手をたたいて面白がっている、そんな感じに思えるのです。 一体「霊的成長」とはなんなのでしょうか?

 

A . とてもよい質問であり、深いところを突いておられます。あなたが投げかけられた問いは、究極の問いの一つです。これは、「私は誰か」という問いと、ちょうど対をなしており、ですからそのことにインスパイアされて、深い疑問を抱かれたということも、当然過ぎるくらい当然なのです。

 

いったい何のために? という究極の疑問については、いくつかの見解があります。しかし今日は、それを紹介することはやめておこうと思います。書くと、それを信じる人が出て来る可能性があるからです。それよりも重要なのは、あなたがどう思われるかであり、質問の最後のところで、すでにあなたはご自身の(今の)見解をお書きになっています。確かにそれも一つの見解であり、どう思おうがあなたのまったくの自由なのです。

 

なぜ、こんなことを言うかといいますと、もっとも適切だと思われる回答は、「それは、分からない」と言うしかないからです。本当に、分からないのです。私だけではなく、今までにそれを分かった人は誰もいない。あなたご自身も、それを直感して「きっと答えは何にもならない、だとは思いますが、」とお書きになっているじゃありませんか。もし、あなたの方が、先にその答えを見つけたとしたら、ぜひとも教えて欲しいと心底から願っているくらいです。

 

宇宙が在る(とする)。すると、どうして在るのか、またはどうして出来たのか、という疑問が当然ながら湧きます。それは、ある日、勝手に出来たのだろうか? もし勝手に出来たとすると、どこから、どのような理由で、勝手に出来たのか? 「在る」の反対は「無い」だ。だから、宇宙が「出来た」のだとすると、その前は何もなかった、「無」だったということになる。じゃあ「無」とは何なのか? どうしたら「無」から「有」が生じるというのか?

 

そもそも、「どこから、どのような理由で」と考えた時点で、それはもう「勝手に」ということではなくなってしまうではないか? だとしたら、他の造作物と同じように、ある意図から、この宇宙、および全存在が造られたのではないのか? その意図もしくは意図を有する存在を、仮に「創造主」と呼ぶことにしよう。では、その「創造主」自体は、どこから、どのような理由で顕現したのだろうか?

 

「創造主」が顕現したことにも、きっと何らかの意図があったはずだ。だとすれば、「創造主」の創造者がいるということになる。じゃあ、その創造者は、どこから、どのような理由で顕現したのか? ‥‥というようなワケで、この推論にはキリがありません。そこで、「創造主」を創った存在は、「絶対者」なのだということにして、この推論を打ち止めにします。では「絶対者」とは何でしょう? 絶対であって永遠不変のものです。それは「無」以外にはありません。

 

だとすると、「創造主」を設定しようがしまいが、宇宙は「無」から生じたということになります。違いは、中間に、「創造主」という意識的存在を組み込んでいるかどうかだけです。万物は「無」から生じた、という考え方と、万物が出現する前に、先ず非物質である意識的存在が生まれ、それが万物をかたち創った、と考えるかどうかの違いです。

 

物質科学は、当然ながら、前者の立場をとっており、この論を教育やメディアを通じて繰り返し主張しています。ところが実際には、大半の人々は、その説明に満足してはいません。では、いま言った後者によりシンパシーを感じているのかと言えば、これも、そこまで思索している人はほとんどおりません。結局のところ、大多数の人々の結論はこれです。なんや、よう分からん! そして、私も、やはり分からないのです。

 

「無」の〈意図〉を、どうやれば説明できるでしょうか? 「無」なのに‥‥。あるいはその前段階の「空(意識が消滅した世界)」を、どのように説明できるというのでしょうか? 意識が消えた世界なのに‥‥ネ。

それに、いま重ねて来た論は、最初の「宇宙が在る(とする)」に始まって、全部が仮定の話でしかない。つまりは、単なる「概念」の言葉遊びに過ぎない。

 

ですから、釈迦も言ったのです。

「汝、ニルヴァーナを知りたくば、ニルヴァーナに至れ」と。

それは言葉でなんかとても説明できない世界なんだ。とにかく行くしかないんだよ、ということです。

 

ということで、肩透かしのようで申し訳ないのですが、

これだけは確実に言えます。

「気づいたところで、何にもならない」と思ったにせよ、〈「魂」は霊的成長を希求することを止めない〉ということ。現にあなたも、こうして質問を発することで、それを証明しています。

霊的成長を図ることを、「魂」が止めることは、決してないのです。

 

そこで、みなさんに宿題です。

どうして、「魂が、霊的成長を図ることを止めることはない」のでしょうか?

そう、言い切れるのでしょうか?

このテーマについて、お時間のある時に、瞑想を行ってみてください。今日取り上げたテーマについて、もしかしたら別の見解が見出されるかも知れません。

 

今のあなたの見解は、あくまで「今の」見解なのです。

そして、この見解は、どんどん変わって行きます。なぜだと思いますか?

それが、気づきによる「霊的成長」というものだからです。