by Rainbow School
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あなたは誰あれ? ―― 自己承認欲求の本質

あなたは誰なのか。

 

これが、この世に生きるあなたへの究極的な問いかけです。

 

あなたがいま在るということ、

生きているということ、

生きて様々な体験をするということ、

体験を通じて喜怒哀楽を味わうということ、

他者と接して愛憎の渦を経験するということ、

そして生きる意味はどこにあるのかと問うこと。

 

これらすべては、ただただ、この問いに対する答えを見つけるためにあるのです。

 

あなたは誰か。

 

さて、あなたはどう答えるでしょうか?

 

私は誰か。私は誰か。私は誰か。

私は誰か、と問いかけている、その私とはいったい誰なのか‥‥。

 

あなたは、自分の顔を、自分で直に見ることは出来ません。けれども、この事実はあまりにも日常的な体験となっているために、それが意識されることはほとんどありません。しかしこの事実は、「あなたは誰か」という根源的な問いかけに対する一つのメタファーを示しているのです。つまり、あなたは、自分の姿を見ることは出来ないけれども、自分が誰かと問うこともしないし、知らないということです。

 

でも、知らないまま、生きているのですよ! なんと。

それを許容しているのですよ! なんと。

疑問にも思わないのですよ! なんと、なんと。

これが、あなたの心から、不安や、劣等感や、嫉妬心が消えない根本原因だというのにねッ!

 

「自分が本当は誰か」を知らないあなたたちは、自分の存在意義というものを、ほとんど無意識のうちに外の世界に求めようとします。いわゆる「自己承認欲求」です。それはちょうど、鏡を見ることでしか自分の姿を把握することが出来ないのと同じように、自分の外側にあるものの評価によって、自分の「存在意義」を確認しようと、本能的に図るのです。

 

なぜなら、その欲求が満足させられなければ、たちまちにして不安や、劣等感や、嫉妬心が自分を襲い、甚だしい場合には、自分の生存の意義すらも見失ってしまうからです。そこで、外部に対して、絶えず「自己承認」を求めるという行動を人は無意識に取ろうとするのです。しかし、鏡に映った像が、実体ではなく虚像であるのと同じく、外側の評価もまた虚像であるということに、その本人は気づいていません。

 

「自己承認欲求」の出かたにはいくつかのパターンがあります。先ず第一には、自分を優秀者だと思いたいという欲求です。そのための罠は社会のいたる所に見られ、オギャーと生まれた瞬間から、人はこの優劣のスケールの中に叩き込まれるのです。赤ちゃんコンテストに始まり美人コンテスト、運動会の一等二等、書道コンクールの金銀銅、通知表に試験の点数、背が高いか低いか、金持ちか貧乏人か、有名大学出か三流大学出か、およそありとあらゆるところに優劣のスケールが存在する。

 

そして、親も学校も、「世の中には、優劣のスケールがあるんだよ」ということしか、究極的には子どもたちに教えていません。そして、「あなたは優秀者になるんだよ」「ガンバレ、ガンバレ」と吹き込みます。言い換えれば「劣等者になどなったら、大変な人生になるよ」というプレッシャーを与え続けるのです。そして、この競争に勝ち残った者たちだけが、地位、名誉、賞賛、財産を手にし、人々にそれを誇示するようになるのです。

 

しかし、この「自己承認」のパターンには大きな問題があります。どのスケールも、優秀者というのはほんの僅かな人間に過ぎず、大多数は劣等者の烙印を押されてしまうということ。これが広く社会通念になっているのですから抗いようがありません。結果、競争のプレッシャーに耐えかねて精神を病む人が激増しているのです。しかし精神を病む人というのは、実はまともな人間で、「もう、そんな時代じゃないよ」ということを、「魂」が察してSOSを発しているのです。

 

ここで私は、それぞれの能力の違いを認めたり、互いに切磋琢磨することまでも否定しようとしているわけではありません。自分の才能に気づき、それを伸ばすことは人生上の大きな喜びですし、互いに切磋琢磨することで「魂」をより向上させることが出来ます。しかしその才能の特質や能力の違いが、みな、他者の役に立つために備わっているのだ、という視点が決定的に欠けています。もしそれが理解されれば、素晴らしい社会が実現することは疑いなしです。

 

第二のパターンは、ある承認された集団に、自分が帰属するというものです。自分への直接的な承認というものがたとえ得られなくとも、ある集団に帰属することによって、自分が同じように承認されたと思い込めるわけです。これが、昔から、第一のパターンから落ちこぼれる人たちの受け皿として機能して来ました。宗教組織や、会社や、町内会や、趣味のサークルや、自助グループや、行きつけの飲み屋や、半グレ集団まで。

 

しかし、このパターンにも大きな問題があります。それは、その集団への依存傾向を強化し、そこから脱け出せなくなってしまう人を作るということです。もし脱け出したら、せっかく満たされた(と思っていた)「自己承認欲求」が、たちまちにして崩壊してしまうからです。これは、嵌まり込んだ者にとっては大変な恐怖です。そのため、この恐怖を利用して、人々をコントロールするということが、宗教を中心に広く行われて来ましたし、今でも行われています。

 

さて、この第二の「自己承認欲求」パターンですが、ネット社会が加速したことによって、近年、様相が大きく様変わりしてしまいました。日本が高度成長期をひた走っていた頃、日本社会にはまだ家族縁、地域縁、会社縁の三つのコミュニティがあって併存していました。ところが1990年代までに、先ず家族縁や地域縁が失われ、2000年代に入ると残る職場縁も崩壊してしまったのです。会社はもはや疑似家族集団ではなく、使い捨ての労働力が集まる場となったのです。

 

代わって趣味縁に支えられたグループが立ち上がるようになりました。いわゆるタコ壷文化やオタク文化の登場です。しかしその後、ネット社会に急速に移行したことによって、人と人とが直接触れ合う濃密なコミュニケーションの場というものは、どんどん失われて行きました。多くの人が、自分が傷つくことを怖れて、他者と接するのを嫌がるようになり、コミュニケーション能力のリテラシーも著しく低下しました。

 

結果として、どの共同体にも属さない「根無し草」として生きる人たちが、全世代的に爆発的に増加したのです。

 

こうした社会傾向の広がりは、反動として、一部で濃密なコミュニケーションを希求する動きも見せています。ですが、コミュニケーション経験の不足につけ込む詐欺師もやたらと跋扈するようになり、まったく心の安まる時がない、ただ騒々しい、ギスギス・トゲトゲした人間関係が拡大するに至ったのです。このような状況の中で、第一の「優秀者」にもなれず、第二の「コミュニティ」にも属せない人は、どうやって「自己承認欲求」を満足させればよいのでしょうか。

 

その顕われが、「ヘイト」や「ディスる」という行動に、人々を駆り立てています。面と向かって、自分が先頭を切って、論陣を張るまでの勇気はないが、誰かが何かを「ヘイト」したり、誰かが誰かを「ディスる」話題には瞬間的に反応し、自分も一言ツイートして、それで取り敢えずの「自己承認欲求」を満足させる。今や誰も彼もが、デモ隊の後方から石を投げる行為に夢中になっています。それは、「共同体」幻想の瞬間風速版なのです。

 

こんなことは、やめた方がいいです。それは所詮「幻想」ですし、瞬間風速的に過ぎ去ってしまうものです。その風が止めば、その人はまた次の暴風雨を見つけようとするでしょう。そんなことを続けていて何になりますか。己の「承認欲求」が満たされないのは一体どうしてなのか、という根本命題に向き合う機会を後回しにして、一時の気晴らしの為に、ただ時を浪費しているだけです。その間に、その人の心と体は、ズタズタ、ボロボロになって行っているとも知らずに。

 

いいですか。「ヘイト」や「ディスる」行為に血眼になっている人というのは、その思いを、自分が特定の相手にぶつけていると思っています。相手をやっつけていると思っています。でも、その「思い」というのは、〈その人の〉創造物なのですよ。荷物を送った相手が、その受け取りを拒否したらどうなりますか。荷物は送り主に返ります。デモ隊の後方で石を投げている人の石を、いちいち相手が受け取ると思いますか? 全部がその人のところに返っているのですよ。

 

すると、どうなると思います? 自分で自分に石を投げつけているのですから、体はボロボロ、心はズタズタになるのは当たり前でしょう。でもそうやって、自分で自分の心身を傷つけているものですから、ちっとも癒されることがありません。そこで、そのイライラをぶつける次の攻撃対象をまた見いだし、瞬間風速的な「自己承認欲求」を満たそうとして、「ヘイト」や「ディスる」行為を繰り返すのです。そしてまた心身が傷つき、次の攻撃対象を探し‥‥。

 

嘆かわしいことに、そのネガティブなエネルギーが、まるでオーストラリアの森林火災のように地球に広がっています。もしもあなたが、その石つぶての攻撃に遭ったら、最善の策は受け取らないことです。投げ返すことも、防御もしないこと。そうすれば、石は投げた人に返ります。でも、その、メカニズムを知ったからと言って、「へへ、いい気味だ」などと思ったりしたらNGですよ。理由は分かりますね。その「思い」は、あなたの創造物だからです。自分への「ザマ〜見ろ」だからです。

 

あなたが、どれほど誠実に、純粋に、真摯に、また親切に生きようとしたところで、万人から好かれることは出来ません。性質も、系統も、経験も、理解度も、信念も、生き方も、価値観も、全員が異なるのです。あなたを嫌い、逆恨みし、嘲笑し、侮蔑し、攻撃し、罵倒する人は必ず出現します。それは、その人の中に沸き立つ、劣等感や嫉妬など制御できない感情を、あなたという相手を見つけて、そこに投影しているのです。投影することによって「自己承認欲求」を一時的に満たそうとしているのです。

 

ですから、それを解ってあげた上で、無視してください。関わらないことが、その人に対するいちばんの親切です。なぜなら、いま言ったことを、その人が自分で理解するようになるまでは、つまりその人に「気づき」が訪れるまでは、そうした批評グセ、批判グセ、嘲笑グセ、攻撃グセが止むことはないのです。その「気づき」を早めてあげる最善の方法は、無視して、一切を取り合わないことです。決して同調しないことです。

 

さて、このような時代の中で、一番めのエリート意識でもなく、二番めの帰属意識にも頼らず、三番めの「ヘイト」や「ディスる」行為に走るでもなく、「自己承認欲求」が満たされるにはどうしたらよいのでしょうか。あなたが、自分の存在を認め、生きていてもいいんだ、この世には生きる喜びがあるんだ、と心底から思えるようになるためには、です。これは、今日の宿題にしておきましょう。

 

ヒントは、「あなたは誰か」ということです。

あなたの外見は、鏡に映さなければ、自分で見ることは出来ない。この事実は、自分は誰かということのメタファーになっていると言いましたね。

いま挙げた三つの「自己承認欲求」パターンは、いずれも、外の鏡に自分を映そうとしているということにお気づきではないでしょうか?

でも、逆の探索ルートもあるということです。それは、内側を見るのです。

 

私は誰か。私は誰か。私は誰か。

私は誰か、と問いかけている私とは誰か。

 

もしもこれが解ったら、(頭ではなく)心底から解ってそれと一体化したら、あなたはもう、自分の外側に「自己承認欲求」を持つことはありません。なぜなら、「私は誰か」ということをすでに知っているからです。すでに知っているものを、どうしてなおも外側に答えを見つけたいと思うでしょうか。ですから、これが「自己承認欲求」に対する究極の答えなのです。「私は誰か」がもしも解れば、「自己承認欲求」などは、そもそも起こりようがないのです。

 

幼少時に、親からの愛情をたっぷり受けたという経験のなかった人たちは、概して、大人になってからも強い「自己承認欲求」を引きずりがちです。他方、よい家庭に育った人たちは気持ちが大らかで、そのような欲求を示すことはほとんどありません。それは、自分は「周囲からちゃんと承認されていた」という記憶を、意識の底に持っているからです。ですから、今をガツガツすることがないのです。

 

ここに注目してください。つまり、「自己承認欲求」の強さというのは、自分が創り出している「想念」に過ぎないのだということです。ですから、この「想念」を満足させようとして努力を重ねることは、葛藤の苦しみしかもたらしません。その努力の結果、運よく望む地位や賞賛を手にしたとしましょう。その時には苦しみが消える。でもそれは、望むものを手に入れたからではなく、苦しみの元であった「想念」が消えたからなのです。

 

だとすれば、最初からそんなものは持たなければよいのではありませんか?

 

そもそも、「自己承認」の欲求など、うたかた(泡沫)のものです。「ねぇ、私ってかわいい?」と恋人に訊く。「ああ、かわいいよ」という答えが返って来る。でも翌日になったら、その人はまた「ねぇ、私ってかわいい?」と同じことを訊くことでしょう。なんど承認したところで、その人が満足することはありません。なぜって、本人が絶対に認めないのですからね。認めることができない自分像にずっと拘り続けているのですからね。

 

「自己承認欲求」の拘りから自由になれないという人は、自分が「要求」ばかりしていたということに気づきませんか? 以前にも書きましたが、愛を乞う人ではなく、愛を与える人になって欲しいのです。みなさんは大きな勘違いをしておられます。自分が認められない、自分を認めて欲しいという「想念」ばかりが肥大して、与えることを忘れています。だから、自分が愛を与える人になれば、自動的に「承認」が得られるという、宇宙の真理に気づけないのです。

 

与えたら返ってくる。それは、ご祝儀の半返しのようなことではありません。宇宙の本質は意識だけの世界だということを思い出してください。あなたが与える。与えたいと思う、役立ちたいと思う。その思いは、誰のものでしょうか? あなたのものです。ですから、与えた瞬間に、その人は同時にそれを得ているのです。自分が送った自分の思いをね。先ずは、ここから始めてください。そうすれば、その果てに、あなたは究極の真理を理解することになるでしょう。

 

私は誰か? 私はわたしだ。

あの人は誰か? あの人もわたしだ。

私もあの人も、同じわたしだ。

だから、あの人にすることは、私にすることであり、

私にすることは、あの人にすることと同じなのだ。

そして、すべては、一つに溶け込む。

 

これ以上の、何を求めると言うのでしょうか?

すべての答えがここにあるではありませんか。

 

さて、あなたは誰あれ?