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認知症の背後にある意味

Q.医療関係の仕事に従事している者です。私が勤務している病棟では、認知症になっておられる患者さんが多くいらっしゃいます。霊的学習に関する最近の私の理解では、人が怪我をしたり病気になったりすることや、またどのように死ぬかということも、究極的にはその人が自分で決めていることだと捉えております。こうした理解は正しいでしょうか? またそれが正しいとした場合、自分が認知症になることを選択し、人生を忘れていくということは、その人にとってどのような意味があるのでしょうか?

 

A.先ずは前半の質問に関してです。これには「運命論」ということを考えなくてはなりません。人の運命は、予めすべて決まっているのだという考え方です。人生の不条理に接した時に、そのような考えに至る人は大勢います。また人によっては、「宿命」と「運命」という言葉を分けて、「宿命」は変えられないものだが「運命」は変えられる、と言う人もいます。本当はどうなのでしょうか?

 

これらは半分は当たっているが、半分は間違っていると言えます。先ず、「人の運命は、予め決まっている」と言った場合、そこには、自分の外側にある、何らかの不可抗力によって〈決められている〉というニュアンスが多分に含まれているのではないでしょうか? だとすると、これは正しくはありません。外側から〈決められている〉ものはありません。あなたには、あなたの人生を生きる「自由意志」が与えられているのです。

 

これは、「魂」が持つ根本的な性質であって、この「自由意志」をどう使うかが、その「魂」にとっての個別の旅なのです。さて、「魂」は輪廻転生をします。その際に、中間生(あの世)において、次の転生の目的と、大まかな人生プランを、まさに自分の「自由意志」によって設計するのです。ですから、これをもし「運命」と呼ぶならば、「運命」は自分で〈決めている〉のです。

 

*この時には、自分のガイド役やマスターとの話し合いやアドバイスがあります。

 

問題は、現世(この世)に誕生し、物心がつくようになると、この世の知覚認識能力がだんだんと向上するのと入れ替わりに、中間生で自分がしてきた人生プランを忘れてしまうということです。その結果、自分で「運命」を〈決めている〉のに、外側からの不可抗力によって〈決められている〉と思い込んでしまうのです。しかしこの忘却には、とてもよい面があります。それは、人が大いに迷い、悩む、ということです。

 

えっ、迷い、悩むことが、どうしてよいことなの? と、首を傾げられる方が少なからずおられるでしょう。でも、人生の岐路において、大いに迷い、悩むからこそ、それをジャンピング・ボードにして、その「魂」の霊的な成長が図られるのです。そこで、これまでにもしばしば、それが「ギフト」だと言ってきたのです。あなたが出遭う試練は、言わば「魂」の「筋トレ」です。それは、あの世にいた時のあなたが、自分自身に贈っておいた「ギフト」なのです。

 

さて、以上を理解していただいた上で、改めて質問者の「怪我や、病気や、死ぬことも自分が決めている」という捉え方を見ますと、そこには若干の誤解があるようです。確かに、究極的には何もかも自分が〈決めている〉と言ってもよいのですが、怪我を未然に防いだり、病気にならぬように心身を鍛えたり労ったりすることは充分に可能ですし、またそうすべきです。何でもかんでも「運命論」に帰すべきではありません。

 

「死」に関しては、今回は深くは触れませんが、人は、自分で設計して来た目的を果たすまでは、この世で言うところの「死」を迎えることはありません。必ず目的を果たしてから死ぬのです。そう言うと、きっとたくさんの疑問が沸くでしょうが(特に個別の事例として)、今はそこまでで留めておきます。

 

次に「認知症」に関してです。ここで最初に考えなければいけないのは、「認知症」という言葉が、2004年になってから作られた、比較的新しい言葉だということです。それまでは、一般には「ボケ」とか「痴呆症」と言われていました。この言葉の置き換えには、それ以前の言葉に含まれていた差別的ニュアンスを払拭したいという考えがあったと思いますが、同時に、医学会の中で医学用語っぽくしたいという別のベクトルも大いに働いていたと思います。

 

そして、この試みは成功しました。今では「認知症」という言葉を誰もが知るところとなり、25歳以下では、おそらくそれが当たり前の言葉と認識になっていることでしょう。今日、それは堂々と「病気」の仲間入りをし、親が「認知症」になったら介護が大変とか、歳を取ったら自分も「認知症」になるかも?、という新たな「病気不安」を人々に植え付ける結果となりました。

 

ところが、「ボケ」とか「痴呆症」という言葉が使われるもっと以前には、別の言い方がされていたこともあったのです。今日、その言葉を知る人は少ないようですが、それは「二度わらし(童子)」と呼ばれていました。人生の最晩年期に、二度めの童子に還るという意味です。そしてこの意味は、今日「認知症」と呼ぶようになった症状の、最も適切な捉え方を示しています。

 

ここで、これまでにも何度か触れてきた、心と脳と魂の関係についておさらいをしておきましょう。今日の科学では、心は脳の活動によって生じる、という考え方が主流を占めています。しかし、この考えは全くの誤りです。心のそれぞれの顕れ方によって、脳の特定部位が活動をしているというのは、観察に基づいた事実です。しかし、だからと言って、脳が心を生み出しているという理由にはなりません。

 

もし、脳が心を生み出しているのだとすれば、ではその脳は誰が動かしているのか、何が動かしているのか、心の真の支配者は誰なのか、という疑義が生じます。現行の「科学」と称するものは、この点には頰被りして、原因は脳だ脳だと言うばかりなのです。これも、心の問題を脳の機能障害に帰することで、「病気」にしてしまいたいという輩が、暗躍している結果の現象なのです。

 

しかし「脳」というものは、コンピュータでいうところのハードウェアに過ぎないのです。そして、みなさんがよくご存知のように、コンピュータはハードだけでは動きません。動かすにはソフトウェアが必要です。そのソフトに当たるものが「魂」なのです。「心」は、「魂」というソフトウェアが、「脳」というハードウェアを使って演算した結果の、この世におけるアウトプット(出力)なのです。

 

今の時代、「心」を病んでいる人が非常に多いと言われています。かく言う私も、過去に鬱病を経験いたしました。しかしそれは、「脳」の機能に障害があるのではありません。ハードではなくソフト、つまり「魂」の側が傷ついているのです。傷ついた「魂」が、「脳」の演算を狂わせているのです。ですから、脳機能を正常化しようとしていくら薬物を使っても、真の問題は解決しません。

 

真の問題解決のためには、傷ついた「魂」を癒やす必要があるのです。ではどうやって癒やすのか。それには先ず、なぜ「魂」が傷ついているのかを知らなくてはなりません。「魂」が傷つく理由は、自分の本体が「魂」にあるということを知らずに、肉体を持った自分が自分だと思い込み、この世の論理に合わせようとして無理をするからです。そこで、「魂」が持つ本来の「自由」が、阻害されてしまうのです。

 

けれども、自分は大河の一滴だと気づき、宇宙の流れに逆らうことなく、真理のままに生きていれば、本当の自分、つまり「真我」が発見でき、その奥の院は「神我」に繋がっているのだということを知るようになります。そうすれば、「魂」は癒やされ、この生きにくい世の中にあっても、明るく、朗らかに、楽しく生きることが出来るのです。このように、理屈は至ってシンプルなのですが、この世で受けた「洗脳」を解くのが、とても難しいのです。

 

「認知症」というものも、近年になってから作られた、そのような社会「洗脳」の一つです。一般に「心」の病いと言われている人々の中で、脳機能に本当に障害があるという人は、極めて稀です。大多数の人は、そう思い込まされているか、あるいは自分で思い込んでいるという状態です。ところが、認知症はそうではありません。老化に伴って、実際に脳機能(つまりハードウェア)が低下して行ってしまうのです。

 

脳も筋肉と同じで、使わなければだんだんと衰えて行ってしまいます。自分で考えたり、工夫したり、創造したりするということを止めて、生活を他人まかせにしてしまうと、脳の老化は一気に進んでしまいます。今の時代は、「他人まかせ」が横行している時代です。めんどくさいことは一切しない。そういう感覚に慣らされていますし、スマホやAIやロボットの登場で、この傾向はますます強くなっています。

 

現代社会というのは、「認知症」になるための危険なワナでいっぱいです。ですから、認知症になっている患者さんを大勢見るというのは、しごく当然の結果なのです。今の病院システムは、入院患者の自力を阻み、籠の中の鶏同様にしてしまっていますからね。認知症になるというのは、他の身体的病気と同様、身体のケア不足、この場合は「脳のケア不足」が原因ということになります。ここに、先ず、その人の今世で、新たに(あるいは再び)作った課題があります。

 

さて今、認知症は「脳」というハードウェアの機能的衰えだと書いたのですが、他者から見て、アウトプット(=心)がおかしいように見えても、ソフトウェア(=魂)に関しては、以前と変わらずに活発に活動しているのです。ただし、ハードウェアに支障が出てきているので、以前のようには思考したり行動したりするということが困難になり、本人は大層もどかしい思いをしているのです。

 

と、ここまでの説明を聞いて、ピン!と来た方はいらっしゃいませんか? あなたも過ごした、いつかのあの段階とそれは同じです。そう、乳幼児の段階です。ですから、昔の人は認知症のことを「二度わらし」と呼んだのです。紙に山形のカーブを描いてみてください。脳機能の発達のカーブです。生まれてから脳がどんどん発達し、そしてあるピークを迎えて、それからは徐々に低下して行く。

 

脳機能は、他の身体機関と同じように、発達と衰退の時を経るのですが、その間、ソフトウェアとしての「魂」は、連続的に活動しているのです。しかし、赤ちゃんの時には、脳だけではなく、身体の骨格や筋肉組織も充分には発達していないので、全面的に誰かのお世話にならなければ生きて行くことは出来ません。ところが老人の場合は、身体機能はまだそこそこ動くので、いわゆる徘徊やその他の困った問題が起こるのです。

 

けれども、今言ったこの認識に従って、赤ちゃんと老人とを比べると、今の社会の人間が、老人に対していかに冷淡であるかが解るのです。なぜなら、赤ちゃんと老人は、人生サイクルの上昇期と下降期の一局面を示していて、同じような状態にあるのにも関わらず、身の回りのことを自分で出来ずに、時々むずかったりする赤ちゃんに対しては、「認知症」とは言わないのはどうしてでしょうか?

 

それは、今はそうであっても、その後にはやがて「成長」するだろうという暗黙の希望があるからです。ところが、その逆回路は、「衰退」と「死」をイメージさせるので、反対に忌み嫌われるのです。これは、人間が「死」の本当の意味を知らない、「生命」の本当の意味を知らないところから来ているのです。「人生死んだら終わり。生きているうちが花なのよ」と、ほとんどの人がそう思っているのです。

 

ですがこれは、この半世紀で、急速に広まった考え方です。身近なところで「死」を見るという機会がほとんど無くなってしまい、大多数の人々は「死」を出来るだけ遠ざけるようにして、ただ享楽的に今を生きています。ですが、「死に方」が解らない人には、「生き方」も解らないのです。現代社会が息苦しい(生き苦しい)のは、その部分をみんな避けて生きようとしているからです。

 

先ほど書いていただいた山形のカーブの端と端を、下部に円を描くようにして結んでください。指輪のような形になるでしょう。これが輪廻転生のサイクルです。山形の部分が、いわゆる「この世」での活動期間。しかしこれを終えても、あの世での生が続き、ぐるっと廻ってまた次の誕生へと繋がっているのです。「魂」は、この円環状を連続的に生き、少しずつ霊的成長を遂げながら、スパイラル状に旅を続けて行くのです。

 

乳幼児期と認知症期では、「脳」がうまく機能していませんので、その「魂」の霊性の発達の度合いというものがもろに出ます。乳児はまだ自分ひとりでは動けませんが、幼児を観察していますと、2歳くらいから個性が見え始めます。それは、その「魂」が今世に持ち越して来た自分なのです。

 

一方、認知症の人の中には、暴言を吐いたりする人もいるかと思えば、終始ニコニコしている人もいます。それは、その「魂」の、現在の霊的な発達段階を示しているのです。社会の中で取り繕って来た蓋の部分が外れてしまったので、今の「魂」のあり方そのものが表出しているのです。

 

周囲にいる人たちは、そのメカニズムをよく理解した上で、どの「魂」にも同じ労わりの心を持って接してあげてください。なぜなら、発達段階に違いがあるとは言え、どの「魂」もみな等しく神の子なのですから。それが神の視点なのですから。そして、その「魂」が、少しでも霊的に向上して行けるように手助けしてあげてください。それがあなたの役割です。存在意義です。

 

具体的には、もどかしい気持ちをなだめてあげて、本当の自分(魂の自分=真我)を見つめ直すように促すこと。そしてその奥には「神我」が繋がっていることを繰り返し話してあげてください。遅くはありません。「魂」には、いつでも聞く耳があるのです。ヒーリング・ミュージックをお聞かせするのもよいです。

 

そのようにして、その人にチャンスを与えてください。真理を理解しようとせずに人生を過ごし、霊的な学習をずっと避けて来たからこそ、その人は今そうなっているのです。人間、いよいよとならなければ、簡単には目を覚まそうとはしないものです。その人は、認知症というギフトを頂いて、認知症のもどかしさを経験する中で、ようやく「魂」の学習を始めようとしているのです。

 

また、このチャンスは、本人だけではなく、周囲にいる人たちにも与えられています。何度も書いて来たように、人間関係とは、つねに両者の間にあるものであり、どちらか一方ということは無いのです。認知症を患っている人は、そのもとでの課題を生きることになりますが、それをお世話してあげる人も、お世話してあげるところに自分の課題があるのです。これは認知症だけではなく、すべての看護、介護についても同じことが言えます。

 

そして、「How Can I Help ?」という課題を、あなたは、ご自分の意思で、自由に選び、行動することが出来るのです。たとえば、

 

・いやだから、やらない。

・いやだけれど、まあやってみる。

・あれこれ考えずに普通にやる。

・喜んで、楽しんで、やる。

 

目標をどこに置くかも、あなたの自由です。

宇宙には、罪も罰もありません。

すべてが、あなたの自由意志。あなたに任されているのです。

 

さて、あなたの自由意志は、どうすることを選びますか?

静かに内観をして、自分があの世でして来た約束を思い出してみてください。

そう、それですよ。では、行ってらっしゃい。