by Rainbow School
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男の課題、女の課題(1)LGBTの解放運動が示唆しているもの

なぜ、この世に男女の性別というものがあるのでしょうか。このことについて、これまでに深く考えてみたことがありますか? 最近になって、LGBTの問題が俄かにクロースアップされるようになり、当事者や関係者の方ならば、もしかしたらそのような問い掛けを自分自身になさった経験がお有りかも知れません。私たちは、この問いについて、もっと根源的な理由を知るべき段階に来たと思います。

 

男女の別があるのは、生殖をして子孫を残すためだと考える人たちがいます。確かに、それも答えの一つです。自然界を見れば、雌雄別の生命体のすべてが、基本的にはそのような在り方をしていますから。しかしこの考え方は、現象の表層しか見ていません。なぜならば、他の動物と違って、人間は輪廻転生を繰り返す生命体だからです。個々の魂は、その連続においては、男にも女にも生まれ変わるのです。

 

男女別があることを「子孫を残す」という視点でしか考えていない政治家がいて、時々、不穏当な発言をしてしまう様子を見かけます。抗議にあってから、慌てて釈明したりしているのですが、日ごろ考えていた本心がついポロッと出たということに過ぎません。彼らにとっては、人間というものは、単に人口(population)であって、個々の人間(human)存在ではないのです。彼らの意識の中に、ヒューマンへの共感はありません。

 

人が、この物質世界に生まれて来た理由には、それぞれ個別の課題があります。今世、男に生まれた、女に生まれたというのも、その課題の一側面であり、中間生(転生と転生の間)に滞在していた時に、自分でプランニングしてきたものなのです。「子孫を残す」という視点だけでは表層しか見ていないというのは、自分が今世、なぜ男に(あるいは女に)生まれて来たのかという、そもそも論が欠落しているからです。

 

個々の「魂」は、物質世界に何度も何度も転生しながら、少しずつ霊性を向上させていく旅を続けます。その際に、過去世で積んで来たカルマの解消と、真実の愛というものについての学習を、我が身に降りかかる経験(多くは辛く困難な体験)を通じて行なっていくのです。地球というのは、いわばそのための林間学校なのです。

 

「魂」のホームベースはあくまで霊界であり、自己の霊性の向上のために、意を決して出掛けて行く修行道場、それが地球です。それは、物質世界でしか味わえないハードなトレーニングをするためであり、自分で、筋トレならぬ「霊トレ」に「よし行って来るぞ!」と決めて、人は地球に誕生するのです。けれども、ちょっと油断をしていると、カルマを雪だるま式に増やすことにも成りかねないという、ここは案外厳しい学校なのです。

 

さて、そのようにして霊性が向上して行った暁には、個々の「魂」の性別は、どのようになって行くと思われますか? そう、性別が無くなります。中性になってしまうのです。あるいは、男性でもあるし、女性でもあるという言い方も出来ます。つまり両性を持っているということですす。神が、あるいは宇宙が、しばしば父性と母性の両方で語られるのは、それを示しています。

 

*キリスト教は、神を「父」に限定してしまいましたが‥‥。そこで、それを補完するために、聖母マリアをもう一つの信仰対象としてバランスを図りました。

 

仏像の弥勒菩薩や観音菩薩が中性的に描かれているのは、霊性が高いことを表しています。人間でも同じで、「魂」が完成に近づき、霊性が高くなった人物は、例外なく中性的な魅力を持っています。また、一人の人間の一生を見た場合でも、経験を積んで、それを消化して来た「魂」は、晩年になると、お爺さんなのか、お婆さんなのかが分からなくなってしまいます。

 

このように、輪廻転生の旅を「性別」という観点から眺めますと、それは「中性に限りなく近づいていく旅」だとも言えるのです。中庸の一つの表れです。しかしこのことを、大多数の人は知りません。そこで、世の中には、今もって男性性や女性性を強調するもので溢れ返っているのです。しかしそれは、金銭欲や物欲と同じことで、肉欲への執着を手離そうとしないということなのです。今のこの身体が、自分のアイデンティティだと思い込んでいるわけです。

 

しかし、そう「思い込む」のも無理ありません。幼い頃からそう躾けられますし、思春期になればなったで、鏡に映った自分の姿を見て、他者と比較することを覚えて行くでしょう。でも、冷静なって考えてみれば、鏡を見ていない時の自分は、この「身体」なのではなくて、今の「意識」なのだと気づくはずです。あなたは、あなたの身体の全体像を、自分の眼で直接見て、外側から把握するということは絶対に出来ないのです。

 

つまり、それは「思い込み」にしかない。何かを通して(例えば写真に映った)自分と思われるものを見ることは出来ます。友人に「ここに映っている人はあなただよ」と言われれば、そうかなと思う。しかしそれは、あくまで「映ったもの」であって、あなたの身体ではありません。あなたは、自分の身体を、「着ている」という感覚でしか捉えられないのです。むしろ、それこそが真実なのです。

 

あなたの身体は、今世における、ドレスでしかありません。

ですから、「なぜこのドレスなのか?」を考えることは、あなたの今世における旅の、大きな手助けになります。

 

さて、霊性が高まれば中性的になって行くということを、別の角度から見てみましょう。前回のブログで、「魂」の輪廻転生の旅を、大海と一滴の雫に喩えてお話しました。大海から昇った蒸気が凝固し、一滴が生じて、雨となって地上に落ち、しだいに同類を集めながら元の海へ還るというお話です。では、この大海の性別は何でしょうか? そうです、中性です。では、最初に生じたという一滴は?

 

この一滴のことを、精神世界用語でエンティティ(entity)と言います。エンティティはIT用語にもなってしまったので、解りづらいかとも思いますが、最初の実体、やがて自我を持った「魂」に成長する霊的な種子のようなものだと思ってください。このエンティティには、もちろん性別は無いのです。大海の一滴ですから、まだ大海の性質を所持しているわけですね。

 

しかし、このエンティティが地上に落ちた時から、性別が始まるのです。なぜならば、物質界をあまねく貫く論理は、陰陽二極性にあるからです。これは、元をただすと電磁気的な性質で、プラスとマイナス、S極とN極に代表されます。およそ物質界では、あらゆるものが、この両極性の間に、物質化という現象を通して出現しているのです。そこで、人間も例外ではなく、オスとメスとに分かれるのです。

 

なぜ二極性があるかと言えば、二極の間にこそ、次の新しいものが生み出されて行くからです。これを、逆三角形(▽)を書いて『三角形の法則』と呼びます。上の両端が二極性で、間に新しいものが生み落とされるのです。この二極性は、通常、ポジティブとネガティブとか、プラスとマイナスのように言われることが多いのですが、そこに優劣というものはありません。それは単に反対の性質であって、両方ともが必要だということです。

 

*時に、私も「ネガティブ」という語を否定的な意味で使ったりすることがあるのですが、それは言葉の綾で、その時そう表現したと理解してください。

 

ですから、人間の男女ということを考えた時にも、そこに優劣があるのではなく、両方が必要であり、互いに補完し合っているということです。さらに言えば、霊魂の本体(=創造主)から、エンティティが出現した際には、これが地上へと降りる前に、バランスを取るために二つの極性に割れるのです。そして、各々が別々の「魂」として、成長の旅を開始して行くのです。これが、いわゆる「ツイン・ソウル」の関係です。

 

英語の「man」は、もともとは「人間」という意味でした。つまり、両性具有(androgynos)だったのです。しかし、そこから一つの極性が新たに生み出されました。神話で語るところのアダムの肋骨を1本取ったのです。それで、「man」から別の「man」を生み出す、生〜むman →「woman」が創られました。この分割によって、元の「man」の極性に偏りが生じ、「man」が「男性」の意味を持つようになったのです。

 

肉体を持って地上に降りるということは、言い換えれば、天国世界からの堕落を意味します。これは、イエスであろうとブッダであろうと同じことです。波動を下げなければ物質化することは出来ません。ですから、地上に生まれたということは、元のエンティティが、敢えてそうすることを選んだということなのです。なぜ? 好奇心によって。好奇心への誘惑に乗って。これが、聖書に書かれた、アダムとエヴァの失楽園の物語です。

 

こうして、好奇心から一度は物質界に堕ちた「魂」ですが、その後は、男女の極性を持つことでしか出来ない体験を重ねることによって、再び、霊性の向上を目指すようになって行ったのです。しかしそれを聞いて、「なぜ天国に居続けなかったのか?」「なぜ、そんな七面倒くさいムダな旅に出たのか」と、疑問を持たれた方もおられるでしょう? では、あなたは旅には出ませんか?

 

このようして、様々な困難に遭遇しながら、喜怒哀楽を味わい尽くし、少しずつ真実に目覚めて行く過程に、「愛のレッスン」があるのです。そして、霊性がいよいよ高まった「魂」は、遂に輪廻転生を止めます。地球学校を卒業して、もといた天国の存在となるのです。それは、「性別」の観点からみれば、中性となったがゆえに、男女いずれかにならなければいけない地上には、もう出て来れなくなった、という意味でもあるのです。

 

さて、いま説明したことを踏まえた上で、改めてLGBTの問題を考えてみましょう。一つの「魂」は、連続している輪廻転生の体験の中で、性差の両方を味わうために、男にも女にも転生します。その時に、ここしばらくは過去世でずっと男、男が続いていたのに、今世になって急に女のドレス(肉体)を纏ったことで大いに戸惑うということが、しばしば起こり得るのです。(もちろん逆パターンもありますし、個別の因果はもっと多種多様です)

 

これは、今回はそうすることが適切と判断して、自分で決めて誕生して来たことではあるのですが、いざ生まれてしまうと、前世までの肉体上の未練がまた復活して来てしまうのです。このメカニズムは、「性別」に限って見ているために、極めて特殊であるかのように思えますが、決して特殊なことではありません。今まであまり(全く?)触れられて来なかったというだけの話です。

 

次の転生で、自分をどのような境遇に置くか、また身体をどのように創造するかは、その「魂」の、それまでのカルマを元にして設計されます。「性別」は、そうしたカルマ上の、たくさんある選択因子の一つなのです。この設計は、地上での体験をし尽くすために、通常はバランスを取るように配慮されます。贅沢に溺れた者は次には最貧者に、他者を虐げた者は次には虐げられる側に、といったようにです。

 

ところが、そうして自ら設計したカルマ解消の機会を、有効に使っている「魂」というのは、それほど多くはないのです。その理由は、無智と、地上世界ならではの我欲に、大多数が捕まってしまうからです。この無智の中には、宗教的ドグマも含まれます。その結果、同じカルマをグルグルと辿り直す「魂」が、大勢出て来てしまうのです。それほど、カルマの解消というものは難しい。放っておけば、大多数の人が、自分のカルマに負けてしまうのです。

 

LGBTの問題に関しては、今は「人権」ということが盛んに言われています。これは、現状では致しかたない面もありますが、そこに留まるのではなく、出来ればその先を行って頂きたいと思います。差別と人権無視ということは、LGBTに限らず、あらゆる分野で起きていることです。人種や、民族や、出自や、貧富や、学歴や、背の高さや、体形や、果ては頭が禿げているか否かといったことまで。

 

LGBTと禿げとを一緒にするなと怒られるかも知れませんが、本人がそこに強い差別感を感じているのであれば、その人にとっての深刻さは同じなのです。問題は、LGBTだからということではなくて、人間というものは、そもそもが、ある決まりごと、定見や価値基準から外れる者を、差別し排斥しようとする性質を、大概の人が持っているということです。本質はそこです。そこにメスを入れなければ、根本は解決しません。

 

なぜ、人が差別意識を持つのか? 一つの答えを言えば、地上の人間たちは、他者を「魂」で見ようとしていないからです。そういう習慣や、そのための訓練が出来ていないのです。およそみんなが、身体に(つまりドレスに)貼りついた属性をもって他者を値踏みする。そこで、美人とかブスとか、デブとか、チビとか、禿げとか、ゲイだとか、いろんなことを言い出すわけです。

 

さて、このような「視点」に対抗する手段は、「人権」しかないのでしょうか? 出発点としては、確かにそれも一つです。しかし「人権」アプローチは、メガネ自体は変わっていないのに、そのメガネで見えたことを言うのはタブーだよ、という社会認識を創造しているに過ぎません。その結果、自由な表現活動にも支障を欠くような、非常に息苦しい状況が生まれています。

 

真の問題は「人権」にあるのではなく、人々がいま掛けているメガネこそが問題なのです。その人が、身体レベルの意識をもって他者を見れば、その人には相手の身体が発する情報しか見えません。でも、心のレベルの意識をもって他者を見れば、その人には、相手の心が見えるのです。さらに一歩進んで、「魂」レベルの意識をもって他者を見るようにすれば、相手の「魂」までが見えるのです。

 

人類は、もうその段階に進むべき時が来ているのに、由々しきことに、心の眼で見ることすらも止めてしまいました。

 

「○○マイノリティ」という言葉を聞いたときに、私がいつも違和感を持つのは、自分たちで「マイノリティ」と言っておきながら、同時に「自分たちを差別しないで欲しい」と主張することの矛盾です。「差別するな」と言うのであれば、「マイノリティ」という言葉は撤廃しなくてはなりません。そもそも、カテゴリー分けというものは(つまり名称を持つものは)、すべてが「区別」の上にあるのです。

 

その「区別」に、優劣のスケールを当てると、それが「差別」になる。この関係を認識することが大切です。言葉は、そもそもが、何かと何かの「区別」したものの組み合わせなのです。犬と猫は違うというように。ですから、「区別」がなければ、会話も文章も成り立ちません。それを知った上で、言葉の上には、容易に「差別」意識が乗っかる危険性が常にあるということを、注意して欲しいのです。ですから、単純な言葉狩りに意味はありません。

 

そうではなくて、あらゆるものの本質は「個性」だということなのです。「区別」を「差別」にするのではなく、「区別」の前には「個性」があるということです。その「個性」が集まって、平均的な妥協点にカテゴリーが出来ている。その意味では、LGBTというカテゴリーも、またそれを細分化したLとGとBとTというカテゴリーも、ただの便宜上のレッテルに過ぎない。

 

重要なのは、Aさん、Bさん、Cさんが、それぞれ、みんな「個性」を持っているということです。そして、この「個性」を尊重する、また敬愛するということが、これからの社会においては非常に大切になっていくし、今後、人類が乗り越えなくてはならない、一つの大きなハードルであるとも言えるのです。

 

人は、例えば「性同一性障害」といったレッテルを、自分にも、そして他者にも貼りたがります。でもそのレッテル貼りに何の意味があるでしょうか? レッテルがあなたなのでしょうか? 宇宙からみれば、「障害」などというものは、何一つだってないのです。すべてが「個性」です。「個性」の集合体が宇宙なのですから。この本質が解ったとき、あなたは真の「愛」に目覚めます。ですから、あなたには、どこまでも「個性」の表現の中に生きて欲しいのです。

 

「人権」などというものは、別のレッテル貼りに過ぎません。そんなもので、またもや自分の身体をグルグル巻きにしますか? よーく考えてみてください。「魂」の世界から見れば、LGBTであるということは、その課題を通して、より中性に近づくチャンスを与えられているということなのですよ。ですから、喜ぶべきことなのです。プラトンだってそれを言っています。

 

どの世界にも無理解はあります。罵倒する人もいます。そんなものは放っておきなさい。無理解な人々は、今その段階を学習中ということなのです。説得しようとしても無駄なエネルギーを使うだけで、本人の気づきを待つしかないのです。それよりも、あなたは、あなたの個性を堂々と表現して生きるのです。そのようにして、自分を解放しなさい。

 

自由に、もっと自由に。もっともっと自由に。

 

(次回につづく)