by Rainbow School
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戦争への構図

戦争は一人では出来ません。集団同士が争うことによって、戦争が「創られる」のです。それは、悲惨で大規模な破壊をもたらしますが、地球という惑星に降りた魂たちの、〈現段階における〉創造的行為の、一つのバリエーションとなっているのです。

 

人間、一人になった時には、誰もが友愛と平和と笑顔であることを望んでいるのです。でも集団になると、時に、この思いがあっさりと破られ戦争へと突き進む。そうやって、平和と戦争、言い換えれば、友愛と他者蔑視との間を行き来し、愛の学習とカルマの清算とを繰り返しているのです。それは、健康な時には健康のありがたみがちっとも分からず、大病をしてからやっと分かるのに似ています。

 

メディアの発達は、過去の戦争がもたらした被害や、民衆の生活への影響、戦争体験で生じたトラウマ、また戦争へと突き進んでいった時代の背景や要因について、様々な角度から分析的な映像を見せてくれるようになりました。しかし同時に、戦争の立役者を歴史的偉人として描いたり、殺戮者をヒーローとして賞賛するドラマやゲームなども、数多く産み出されています。

 

それは正に、地球人というものが、未だにその間を行ったり来たりしている学習段階にあるということを、如実に示しています。芸術家の一部は、小説や絵画や映画やドキュメンタリー作品などを通じて、「なぜ人間はこんなにも悲惨で、不条理なことを繰り返すのか?」と、ずっと訴え続けて来たし、今も訴えているのですが、その効果がまだ目に見える形としては現れていません。

 

私たちは、その背景にはどんな構図があるのか、という点について、もう一歩進んだ理解をして行く必要がありそうです。また、そのような段階に至ったと思います。そして、ここを超えられるか、超えられないかが、第三次世界大戦の勃発を未然に防止できるかどうかの鍵になると思います。

 

戦争は一人では出来ません。集団が戦争を起こすのです。ですから、そこには、集団を動かすある「力学」が作用していることは間違いありません。そしてこの点をつぶさに観察してみると、どんな戦争にも次の3つの要素が必ず存在して、この三つのエネルギーが回転し、増幅し合うことによって、戦争へと突き進んで行っているのです。

 

その3つの要素とは、

 

1.権力者とその統治システム

2.大衆の熱狂(闘争意識の鼓舞)

3.裏づけとしての(宗教的)正義

 

です。

 

この三つが、まるで巴紋のように影響を与えあって、グルグルと回転することにより、戦争へのエネルギーが増幅されて行くのです。

 

1番目の「権力者とその統治システム」ですが、戦争遂行を決定するのは、その集団を掌握している権力者です。ですから先ず、権力者に「戦争をしたい、しよう」という欲望があって戦争が起こる。しかしその欲望を実現化するためには、統治システムが、それが可能なように備わっていなくてはなりません。例えば軍隊や、武器や、諜報機関や、徴兵制や、法律や、指揮命令系統です。

 

また同時に、権力者への信頼というものを大衆の中に醸成しておかなくてはなりません。なぜなら、大衆が具体的な戦争の駒(使い捨ての)となるからです。そこで権力者は、これを悟られないように糊塗し、自分を地位や、扮装や、勲章などで偉大な存在に見せる一方で、メディアや教育機関を使って都合のよい思想を大衆に吹き込み、戦争が可能なように法律を変えて行きます。

 

ここで気をつけておかなくてはならないのは、一つには、こうした権力者に都合のよい改変というものは、徐々に成されるということです。そのため、大衆は改変の影響度といったことには気づきませんし、関心もほとんどないのです。そしてもっと注目されるべきは、権力者というものは、一人の人間として誰もが持つ友愛と平和への念というものを、最初から喪失している「魂」だということです。

 

ですから、「魂」の成長(=愛の完成、oneness)という点から見た場合には、このような学習段階にある「魂」がリーダーであるというのは、本来はおかしいわけです。ところが人間社会というのは、「分離」と「競争」が価値観の根本を成していて、このスケールを社会全体に当て嵌めていますから、一般大衆を蔑む権力者が、人々を騙して権力の座に座れるし、その御輿を担ぐ者もいるのです。

 

しかし、権力者がいかに「戦争だ!」と叫んでも、それに従う者がいなければ戦争は起きません。法律や恐怖政治を用いていくら縛ったとしても、従わない者が多数いれば、権力者の更迭や、クーデターや、内戦が起こる場合もあります。ですから、2番目として、権力者の「戦争だ!」という声に賛同する大衆の熱狂を、どうしても作り出さなくてはなりません。この役割を担っているのがメディアや教育機関です。

 

ヒトラーはその重要性を非常によく解っていて、レニ・リーフェンシュタールにオリンピックを撮らせたり、選挙活動では飛行機を使って遊説したり、自分の演説時のポーズを研究したり、また人々の意識を集めるためのシンボリックなデザインのフラッグを多数用いました。ドイツ軍の軍服が実用を超えたかっこよさを放つのも、ヒューゴ・ボス(後のメンズブランドのBoss)にデザインさせたからです。

 

さて、大衆がどうして権力者の呼びかけに熱狂してしまうのかということですが、これは誰の心にもある生活上の不満やイライラ感を、権力者は闘争心へと転化させてしまう術を持っているのです。

 

大抵の人は、自分の恵まれなさや辛い体験を、自分以外の、他の何ものかのせいにしたがります。身近な配偶者や家族や、上司や勤め先や、それらが無かった場合には社会や時代のせいにする。この、誰かのせいにしたいという欲求を利用して、ここにシンボリックな「敵」を提示するのです。「あなたが恵まれないのは、ぜーんぶあいつのせいだよ」というわけです。そうすれば、大衆の熱狂に火が着くし、そのエネルギーが一本に纏る。

 

ナチスは、ご承知のように「ユダヤ人」をこれに当てました。第二次世界大戦中の日本軍は「鬼畜米英」と言っていました。ジョージ・ブッシュは「悪の枢軸国」と言い、テロとの戦いを宣言しました。権力者のこの常套手段は、今もまったく変わっていません。大衆は、一人の時には友愛と平和がいちばんと思っているのですが、心の奥に眠る闘争心に火が着けられると、パッと燃え上がって、友愛や平和はたちまちにして溶かされてしまうのです。

 

しかし、これだけでは戦争には突き進めないし、開戦したとしても継続することが出来ません。なぜかと言うと、戦争が残虐な殺戮を伴うものだということは、みなうすうす解っているからです。そのため、その「イヤだな」という気持ちを乗り超える何かがなくてはならないのです。これが「戦争の大義」というもので、多くは、(宗教的)正義がここに当て嵌められるのです。

 

そもそも戦争に「大義」などあるわけはないのですが、「大義」を設定しようとするのは、心の後ろめたさを和らげるためです。(宗教的)と括弧して書いたのは、別に宗教でなくても、共産主義でも、民族主義でも、愛国主義でも何でも構わないのですが、しかしそこに問答無用の宗教的信念が備わっていないと、力が弱い。そこでみな「正義」を強調するのです。あとは、その正義に反する奴らはみんな「敵」だということになる。

 

そして、いま挙げた3つが揃うと、権力者としては、戦争をしたいバックボーンがきれいに整って、さらに発言がし易くなるのです。こうして、(戦争屋にとっての)好循環がグルグル生まれて、エネルギーが増幅され、戦争へと突き進むことが可能となるのです。この「戦争への構図」は、どんな戦争であっても、また地域紛争であっても、内戦であっても、まったく変わりがありません。全部が、この構図によって生じているのです。

 

ですから、もしあなたが戦争を回避したいと思うのであれば、この構図が悪回転しないような楔をどこかで打ち込むことが大切です。回る扇風機の羽に、棒を突っ込むようにして。そうすれば、この回転は止まります。

 

権力者の発言や、メディアの報道が「敵」を強調し出したら要注意。そんな時には「ああ、またやってるな」と思えばいいし、次の選挙ではその人間に投票をしなければいい。自分の中で「くっそー、あいつらぁ」という気持ちが沸いて来たら、「でも待てよ」と気持ちをなだめて、「彼らにも同じように愛する家族がいるんだよな」と想像してみればいい。もし「正義だ!」と叫ぶ声が聞こえて来たら、あのブッシュの顔を思い出してみればいい。

 

そして、すべてを冷静に、なるべく客観的に見て、人間というものの、懲りない愚かさに気づいて欲しいのです。その視点だけが、全体のこの構図からの飛躍を実現させてくれます。

 

愚かな宰相がいるのは、あなたが見る景色の中で、愚かな宰相という役割を演じてくれているのです。さて、じゃあどうするか? それを今、あなたが問われているのです。「隣国の連中はひどい奴らだ」と、メディアが思わせようとしているのは、それによって、あなたの「愛の成長度」を試してくれているのです。「こうすることが正義だ!」と言うのは、「信用できる正義など、実は何もない」ということを教えてくれているのです。

 

何度も、何度も、同じ手口に引っ掛かるようでは、輪廻転生の学習効果というものがなさ過ぎます。一度、ぜーんぶの物理的形は無いものと想像してみてください。意識の世界だけしかないと想像してみるのです。そうすれば、よく解ります。

 

愚かな宰相の演じ手も、大衆を操っているつもりが、実は奥の院の存在に操られているのです。その奥の院の存在も、もっと奥にある闇に操られている。そしてさらにその奥にも‥‥。意識の世界から見れば、ただそれだけの話。大衆が熱狂するのは、自分の中にあるネガティブ意識が、共鳴して揺さぶられるためです。この時、サッと魔が刺す。普段は、友愛と平和と笑いを愛する一人の人間であるのに、ちょっとした拍子に「魔」が刺してしまう。

 

そして、今まで育って来るなかで教えられたことや、吹き込まれた信念、さらには今日も育ててつつある信念によって、あなたは自分の中に入って来た「魔」を育て上げる。そして、この「魔」を、自分に完全に憑依させる。このようにして、ゾンビとなった人たちが大結集し、互いに殴り合い、殺し合うという一大スペクタクルを演じる集団的「創造行為」、それが地球劇場で繰り返される世界大戦です。

 

そして、僅かな人たちだけが生き残り、ゾンビから人間に戻って、

我に返って言うのです。

「いっけねぇ、またやっちまったみたいだぜ」。

今度こそ、それはやめにしませんか?

 

あなたが、自分の中のネガティブに火を点けるのをやめて、友愛に生きようとすれば、世の中にある信念は変わります。ネガティブな信念が効力を持たなくなるからです。

 

そうすれば、愛と平和を求めるエネルギーが生まれて、そのような考えを代表するリーダーが誕生します。そしてリーダーたちは、人々が暮らしやすいような、分かち合うことを基盤とした新たな社会システムを創りあげて行くことでしょう。

 

そうなれば、人々は、その社会システムによって、争うことなく、みな平和で楽しく暮らせるようになります。奴隷的労働は一切なくなり、誰もが、各個性を認めて、自己を表現しつつ、なおかつ他者にも役立つような仕事をするようになります。まるで夢のような話に聞こえるかも知れませんが、話は簡単です。最初のボタンの掛け違えを正せばいい。そうすれば悪循環が善循環に変わるのです。

 

あの人も、この人も、私と同じ人間なんだと思うだけで。

みな等しく、ともに宇宙に生かされている存在なのだ、と思うだけで。