by Rainbow School
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組織宗教の賞味期限

戦後の日本を代表してきた教団がいくつか、ここに来て大きく揺れています。信者数随一を誇るある教団は、1964年、政治的野心を持って政界に進出し、数を背景に大成功を収めました。しかし、与党となっていざ権力を手にすると、宗教教義にも結党精神(中道主義、平和主義、原発ゼロ等)にも反する行動を露骨に取るようになって行きました。その結果、母体であった信者と政党、また信者と教団執行部との間で、内部紛争が沸き起こっています。

 

この教団は、もともとは日蓮宗系の一つの信徒団体だったのです。ところが、1991年に宗門から破門され、お坊さんを持たない教団として独立したという経緯を持つのです。それはいいとして、この時に、宗門から渡されていたご本尊(と言っても紙切れ)が入手出来なくなった。それで自分たちでこれをコピー印刷し、会員に配布するようになったのです。この事件が、さらに宗門の逆鱗に触れ、以来、宗門との間で激しい非難の応酬が続いているのです。

 

ということで、今の教団運営に疑問を持った信者さんの中には、元の宗門に還るという人も多く出ているようです。この、通称「本尊模刻事件」というのは、非常に象徴的で「宗教」というものが持つ性格をよく表しています。信徒団体は、破門された時点で「そんなものは不要!」と言えばよかったのですが、コピーして会員に渡してしまった。すると、宗門側からすれば、当然「それは偽物だ!」ということになるでしょう。

 

側から見ていると、「目くそ鼻くそを嗤う」といったレベルの争いにしか見えないのですが、当事者はそうではありません。これが大問題なのです。ここで判る通り、どちらも「ただの紙切れ」に過ぎないものに(と言うと、宗門は怒るでしょうが)、特別の価値を見出しているという点では変わらないのです。見出しているからこそ、信徒団体は、“似せもの”を刷ったのです。

 

それに対して宗門は「そんなの偽物だ」と言う。だから邪教だと言う。でも、本物のそれだって、同じように宗門側が刷った紙切れに過ぎないのではありませんか? じゃあ一体どこが違うのか? お寺でも神社でも、よく「御霊(みたま)を入れてある」とかと言うんですけど、御霊が入った紙切れと入っていない紙切れはどう違うのか? 御霊が入った紙切れを「信仰」の対象にして拝むのと、入っていない紙切れを拝むのとどういう違いがあるのでしょう?

 

そうかと思えば、一時は1000万人を超える会員がいると豪語していた某教団。そこの教祖の息子が教団を脱会し、ユーチューバーとして教団の内部事情を暴露するという事態が起きています。この教団も政治的な野心を燃やし、2009年の衆議院議員選挙には337人もの候補者を擁立しましたが、結果は全員が落選。これ以降、会員数1000万人超は本当なのか?、と疑念を持たれていたのです。

 

それが、教祖の長男が脱会し内部事情を暴露する事態となり、これも泥沼の争いの様相を呈しているのです。この教団にとっては、2012年の教祖夫婦の離婚騒動に続く大スキャンダルです。この他にも、跡継ぎ問題を巡ってやはり内紛が起きている真言密教系の教団があったり、血縁の教主を理事会が追放してしまったという教団も現れています。2017年には、相続を巡って、神道の宮司が別の宮司を日本刀で斬り殺すという事件まで起こりました。いやはや。

 

いったい、こんなものが「宗教」なのでしょうか、「宗教」だったのでしょうか? 私自身は、こうした争い事には関心がなく(と言いながら書いていますがけど)、今では「宗教」自体にも関心が無くなったので、さもありなんとしか思いません。しかし今進行している事態は、「組織宗教」そのものの〈賞味期限が、すでに来ている〉ことの顕れではないかと感じています。それも、日本だけの現象ではなくて、全世界的に見て。

 

跡目争いは、「組織宗教」のいわば宿命のようなもので、昔からあったものです。イスラム教のスンニとシーアの争いもそうですし、キリスト教のカトリックとプロテスタントもそうです。ローマ・カトリックとギリシャ正教は、互いに互いを破門しました。浄土真宗も、大きくは本願寺派と大谷派に分かれ、分派を数えれば30くらいもあります。岡田光玉が興した真光系は、光玉の死後に9つに分派しています。

 

跡目争いが起きる理由は、教祖あるいは先代が亡くなった際に、次に誰がいちばん「教祖(または先代)」に近いか、あるいは「教え」を体現している人か、という点が問われるようになるからです。それなしでは、教団の永続性が保証されないためです。そこで第一には、血脈(DNA)に受け継がれるはずだと考える。まるで競走馬のサラブレッドのようなものですが、神秘性を見出したい者にとっては魅力的な考え方です。

 

ところが、この考え方は一方でリスクも高いのです。先代とはモロに比較されますし、子息がボンクラであった場合には、幼少時からの側近が傀儡に利用し、裏で権力を握る可能性もある。そこで、高弟に受け継がれるべきだと考える一派とに分かれるのです。しかし、どうにも決着がつかない場合、そんな「誰が」ということが重要ではなくて、守るべきは聖書・聖典に記された「教義」であり、そこに還るべきだと主張する一派が出現するのです。

 

これに、人望や、統率力や、説法の上手さや、ルックスまでもが含まれて、跡目が選ばれる。そうした秀でたものが無い人は、金や政治力を使うということになります。問題は、そこで、なぜ「争い」が生じるのかという点です。組織宗教の場合は、その「組織」がそっくり財産の役割を果たしている。そこで、いちばんの目的(宗教的なものの伝承)以上に、財産を誰がどうやって引き継ぐかという点が、当事者には大きな問題となって来るわけです。

 

こうした争いは、外から見れば、みな「目くそ鼻くそを嗤う」がごときものに過ぎないのですが、内部にいる者はそうではありません。支柱が倒れて、ぽっかり空いた心の穴を、次に誰が埋めてくれるのかというのは、信者からしてみれば大問題です。そこで、跡を継ぐ者は自分の正当性をしっかりと見せなくてはなりません。例えば、血統の証明によって、霊能力によって、儀式によって、冠や指輪や豪華な衣装によって。

 

しかし、このような(伝統的?)跡目争いも、私には、もうそれ自体が古臭いものに感じられて仕方がありません。宗教の時代は、少なくとも組織宗教の時代は、もう終わったのではないでしょうか。戦後に隆盛を誇った教団も、今では二世・三世信者が「生まれた時から、うちではそれが当たり前だったから」というだけの理由で、惰性で信仰している人も多いと聞きます。ですから「教義を信じて」という人は、少なくなっているのではないでしょうか。

 

それ以上に、現在では、新たに「教義に惹かれて」飛び込んで来る人というのは、大幅に減っているのではないでしょうか。なぜなら、あらゆる情報が溢れ返ったこのインターネット時代に、一つの教義だけに、人を盲目的に縛り付けておくことは、もはや不可能だからです。インターネットが登場したことで、テレビはオワコン(終わったコンテンツ)になりましたが、宗教もオワシュウの時代に入ったように思います。

 

いつでもどこでもサッと取り出して拝めるモバイル神殿、世界須磨穂教に取って代わられて。その過程で、若い人たちは、組織宗教の胡散臭さをたくさん見て、ウラを知っていくことでしょう。一方で、根無し草のまま漂うことになった「魂」の大半は、時代に翻弄されて流され、一部のある者は非常に攻撃的になり、またある者は殻に閉じこもり、そしてごく少数の者だけが、真実を探し求めて、行動するようになって行くことでしょう。

 

先日、『エル(ELLE)』というフランス映画をDVDを借りて観ました。その中にこんなシーンがあるのです。主人公の女性が自宅でパーティを開き、知人を招待します。そこで手作りのご馳走を振る舞い、さあ食べようかとなった時に、お向かいの若夫婦が「ちょっと待って」と言って、二人で食前のお祈りを始めるのです。その途端、そこにいた全員がドッチラケーといった表情を浮かべて、二人の祈りの間、祈るフリのお付き合いをするのです。

 

この若夫婦は熱心なクリスチャンという設定なのですが、それを見て、「ああ、フランスでも宗教事情はこんなものなのか」と思いました。欧米文化がキリスト教の長い伝統を背景に成り立って来たことは確かです。ですが、こと「信仰」ということになると、以前とはだいぶ様変わりして、欧米でもかなり形骸化して来ているのかも知れません。

 

組織宗教がもはや時代遅れだと思うのは、まさにそれが「組織」であるという点です。「組織」は、指導者と指導される者、管理者と管理される者、先輩と後輩、優秀者と凡人、段位合格者と不合格者等のヒエラルキーを必然的に生み出します。すると、△形の上位に位置する者には優越意識が生じる一方で、底辺に位置する者たちには、「頑張って上に上がるぞ」というモチベーションが働くのです。

 

基本的に、「組織」というものは何であれ、この内部力学を利用して維持拡大するように図られています。組織宗教はこのスタイルを応用したのです。さて今「ヒエラルキー(ハイアラーキ)」と言ったのですが、これは元々霊的な階層(つまりバイブレーションの段階的違い)を説明した言葉だったものが、地上にある宗教組織にも転用されるようになったのです。しかし両者には、似ているようでいて決定的な違いがありました。

 

それは、霊的階層においては、高次元の存在(高級霊)が、下位のもの(魂)を、管理したり、思い通りに動かそうとしたり、恐怖を与えて脅したり、貢物を迫ったり、収奪したりすることは絶対にないということです。なぜないかと言えば、それらはみなエゴから生じる行為ですから、そもそも高次元の存在にはあり得ないことですし、エゴを抱えていたのでは高次元の存在にもなり得ないのです。この単純な理屈をみな知らないのです。

 

一神教の宗教は、ここに「契約」の概念を持ち込んで、「ちゃんと信仰していれば恩寵を与えるぞ」「天国にも行けるぞ」「でも教えに叛き、罪を犯したら神は罰を与えるぞ」「地獄行きだぞ」という教義を編み出して、これを浸透させて行ったのです。しかし、繰り返し言いますが、宇宙(神)があなた方の一挙手一投足すべてを見ていることは確かであっても、宇宙(神)には罪も罰もありません。罪と罰は人間の創造物なのです。

 

組織宗教というのは、ですから、一般社会で見かけられる上下のスケール(物差し)の概念を、そのまま宗教にも当てはめて、ありがたがったり、良いとか悪いとかと言っているのです。実にこれが、人間が長年かけても超えられなかった盲点なのです。神の下僕として生きるのではなく、己のエゴのために神を利用しようとしているのが、大方の組織宗教なのです。

 

あなた方は幸福を求めます。そして、霊験あらたかと言われる紙切れを貰ったり、ご祈念メダルを購入したり、秘密のマントラを授けて貰ったり、霊能者にどうしたら良いかという判断を求めます。

 

幸福を求めることが悪いとは言いません。それは、地上に生きる者の当然の希求です。しかし問題は、何が良いあり方で、何を悪いと考えているか、ということなのです。例えば、入学試験を受けた。合格が良くて、不合格は悪いと考える。普通はみんなそうです。でも真理の世界はそうではありません。良いことも悪いことも、みんな良いことなのです。あなたの身の上に起こることは、すべてが良いことなのです。

 

なぜなら、そこに、「真のあなた」という存在に向けられた、学習機会、成長機会のギフトが用意されているのですから。しかし、そう聞いても、とうてい納得がいかないでしょう。仮に、頭で分かったとしても、「本当にそうだなぁ」と思えるようになるまでには、何年も何年もの歳月が掛かる。だから、人々は「真理」には見向きもしない。そして、ニセモノの「教え」の方を信じるのです。

 

組織宗教は、一般社会のエゴのスケールをそのまま組織に持ち込んで、そこにオカルティックな味付けを施した特製ふりかけをパラパラっと掛けて、あなた方に幸福の幻想を提示します。当面の結果が自分の思い通りになれば、「さすがだ、ありがたい神様だ」となり、思い通りにならなければ、「信仰心が足りない、まだお布施が足りない」となるのです。

 

しかし、このような詐欺的テクニックが、いつまでも通用するはずはありません。冒頭に書いたような一連の出来事は、時代変化の大きな流れの中で起きています。これは何度も言って来たように、社会のあらゆる分野において、隠れていた闇に強い光が当たり、白日の下に晒されるようになって来たことから起きている現象なのです。

 

そしてそうなれば、後は、自分が為した行為は自分に還って来るという「カルマの法則」が適用されるだけなのです。そのようにして一連の出来事が起きている。しかし、内部にいる当事者たちにはそのことが解りません。「カルマの法則」のことも、たぶん知っているはずなのに‥‥。人は、洗脳から脱して、外に出て初めて、自分が洗脳されていたと気づけるのです。

 

跡目争いや、教団の分裂騒ぎや、邪宗・邪教といった罵り合いは、冷静になって眺めてみれば、実に下らない、宗教の本質からズレた話だということがすぐに分かるはずです。ところが、わが身大事、わが派大事、わが宗大事にハマってしまっていますから、それが見えません。こんなものが、神に仕える宗教なのか、真実を追求しようとする宗教なのか、と嘆かずにはいられません。

 

個人である時には、人はみな同じように平和を願う一人の人間なのです。ところが、集団となった時の人間のどうしようもない愚かさ。エゴを集めた際の人間の狂気。そうした中では、平和のための戦争、防衛のための先制攻撃、豊かさのための自然破壊、神に捧げるための人殺しまでもが、堂々と正当化して許されるのです。まったくもって、なんという愚かさでしょう。

 

けれども、嘆いてばかりもいられません。今のこの〈闇が暴かれて行く〉機会を上手に利用して、これを追い風にして、ジャンプを図るべき時が、人類に訪れました。なんと言っても、世界人口の85パーセントは何らかの宗教を持ち、一神教のキリスト教とイスラム教だけで、人類の過半数を占めているのです。もしもこの両者が争って、全面戦争にでもなったら、人類は間違いなく破滅です。

 

そうならないようにするには、伝統的な系譜を超えた先にある、真の「自由」に、各宗教および各教団が気づくよう進歩して行かねばなりません。系譜は系譜です。どんな人にも好き嫌いはありますし、背負って来た文化的背景も違います。でも、それぞれの人が、真の「自由」を求めようとすれば、たとえどんなルートを辿ろうとも、ゴールは必ず一つに行き着くのです。そこに、フォーカスを当てるべきではありませんか?

 

我が宗の跡目争い? 小ちぇ〜。教団の分裂騒動? 小ちぇ〜。我が宗のみが正宗? 小ちぇ〜。他はみな邪宗・邪教? あ〜、小ちぇ、小ちぇ。そんなものは、コーヒー豆の選別をしているようなものなんだよ。なぜ、豆は豆はだという視点に立てないんだ。なぜ、色んな豆があるかを考えないんだ。いいかい、「自由」は、いのちあるものに、平等に贈られたギフトなんだよ!

 

あなた方は、真の「自由」というものを知りません。代わりに、幾世代にも渡って、ニセモノの「自由」ばかりを追いかけて来ました。その不毛に疲れ果てて、何かが根本的に間違っていたんじゃないかとやっと気づき始めているのに、社会の支配層は修正を図ろうとはしていません。

 

宗教は、本来は、こうした社会的構造の矛盾に喘ぐ人たちを救い上げるための機能として存在していました。ところが、宗教も、脱宗教であった筈のスピリチュアル世界も、やっていることは、結局は一般社会の構造と同じか、それをさらに激しくしたものになっています。欲望の奴隷状態にあり続けることを承認し(あるいは推奨し)、見せかけの幸福をチラつかせているのです。

 

こんなものが、欲望のヒエラルキー(その結果が格差社会)に疲れ果てて、根無し草となってしまった現代人の心を、救えるはずがないではありませんか。それ自体が、同じヒエラルキー構造で迫って来るのですから。

 

真の「自由」とは何か? それは、束縛が何もない状態。言い換えれば、すべての執着を捨てた状態です。すべての執着を捨てた時、その魂は、完全な「自由」となれるのです。しかしそのためには、欲望の「自由」を滅しなければなりません。欲望の「自由」と、魂の「自由」とは、真逆にある「自由」なのです。だから古来より、「あるがままに生きよ」と、繰り返し説かれて来たのです。

 

自然界を見てご覧なさい。生きものたちはみな、ただあるがままに生きているのが解るでしょう。ところが、人間だけが、そうしようとはしないのです。ヒエラルキーのスケールを作っては、競い合い、そのことで、自分たち自身が苦しんでいる。そればかりでなく、他のいのちにもこの思想をもって介入し、蹂躙し、ついには自分たちの棲家である生態系を壊し、自滅しようとしているのです。それを、人間社会では「進歩」と呼ぶ。

 

もはや、矮小なセクト主義をどうこう言っている場合ではありません。

愛国? 領土問題?

あ〜、小ちぇ、小ちぇ。超小ちぇ。臍が茶を沸かすほど小ちぇ。

なぜ、愛世界、愛人類、愛地球、愛生命、愛宇宙になれないのか?

神は、そのような存在に、あなたを造ったというのに。