by Rainbow School
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4次元の川を超える

世に、霊能の強い人がいるということは否定しません。でもそれは、生まれつき絵や音楽の才能があったり、足が速かったり、手先が器用だったりするのと一緒で、単に一つの能力に過ぎません。その表れ方を観察してみれば分かるように、各分野の感受性と表現方法には多種多様なバリエーションがあって、能力にもピンからキリまであるのです。これは霊能とても同じです。

 

そして、ここが肝心なところですが、霊能と霊性の高さとには、何の相関関係もないのです。霊性の高さは、この世(物質界)においては、人間性の高さとして顕われます。では、絵が上手な人は、みな人間性も優れているでしょうか? 音楽的才能がある人は、みな人間性も優れているでしょうか? 足の速い人は、みな人間性も優れているでしょうか? そんなことはありません。金銭欲に取り憑かれた人もいれば、身内のゴタゴタを抱えた人もいます。

 

ただし、何であれ、その道を追求して来た人の中には、同時に優れた人間性に到達した人もいます。それは、能力がそうさせたのではなくて、その分野を借りて、「道」を追求する姿勢を持ち続けたからこそ顕れたものなのです。そこを混同してはなりません。それと同じことで、霊能者が即霊性も優れていると思い込むのは早計です。むしろ、霊性の高い霊能者は極めて稀にしか存在しない、と思った方がよいのです。

 

ところが、これがみな解らないのですね。なぜ解らないかと言えば、見分ける眼というものが、まだその人に備わっていないから。なぜ見分ける眼が備わっていないのか? 欲得で曇ったフィルターが、その人の眼の上に厚く覆い被さっているからです。この欲得フィルターが、ものごとをありのままに見るということ、ことの本質を見るということを妨げているのです。

 

足の速い人は、その人が走っている姿を見れば、その能力は誰にでも直ぐに解ります。でも芸術となると、もう大多数の人は解りません。そのため、素直でない人は、ブランド(作家名)を見て解ったような気になろうとする。ですから『なんでも鑑定団』のような番組も成り立つのです。土蔵に長年放ったらかしにしてあったゴミが「1000万円!」と知って人々はみな驚くわけですね。

 

でも、その「驚き」は、何に対する驚きなのでしょうか? 「お金」という世間が示しているスケールであって、芸術そのものではありません。結局のところ、芸術に感動したわけではなく、自分の欲得フィルターに引っ掛かった価値を見ているだけなのです。その人に、もし芸術を見る眼があれば、無名の作家の絵にも、河原の石ころの中にも、青空に浮かぶ雲の中にだって芸術を見出すことでしょう。

 

そしてこれが「霊能」ということになると、判断基準はさらに大甘となってしまうのです。なぜなら、そこには「絵」すらも介在しないから。ブランド価値を認めようもないから。いわゆる「見えない世界」のことだから。そこで人々は、それを「信じるか」「信じないか」というただ一点で捉えるしかなくなってしまう。そして「信じる」と決めたときには、細部の誤謬に眼を配る余裕もなくなり、人は完全に盲目となってしまうのです。

 

*ブランド価値をくっつけたい人は、自分を歴史上の有名人の生まれ変わりだと言って信用させようとする。

 

では、「信じる」背景にあるものとは何でしょうか? 突き詰めれば、それは無智と欲得です。無智と欲得が、人々を「信じる」行為へと駆り立てるのです。考えてみてください。もし、その人に宇宙の智恵が備わっていて、欲得も滅しているのであれば(この言い方は正確ではなく、智恵を得た人は欲得も滅しているのであり、欲得を滅した人は同時に智慧を得ている)、もはや「信じる」必要などは無いはずです。

 

ハッキリ申し上げて、自称「霊能者」の9割方(いやそれ以上かも?)はニセモノです。ここで言うニセモノというのは、「霊能が無い」という意味ではありません。本人が繋がっていると称している領域のことです。霊能がまったく無いのに「霊能者」の看板を掲げている確信的な詐欺師は、殆どいないと思います。なぜなら、あなたにだって霊能はあるわけですからね。人はみな人間であると同時に霊的存在なのですから。

 

ですから、自分を「霊能者」だと公言して憚らない人というのは、よっぽどズーズーしい人か、本当に自分がそうだと「信じ切っている」人です。ところが、こういう方たちの大半は、宇宙の真理や構造については殆ど何も知らないのです。知らないで、ただ自分の「霊能」の感覚だけでやっているのです。ですから、無智に基づく誤認や、自分が操作されているとは気づかずに、周囲を惑わす発言をしている人も多いのです。

 

問題は、そういうニセモノの「霊能者」のほうが、人々には、より刺激的かつ魅力的に見えることです。理由は、前に述べたように、人々の「欲得フィルター」に引っ掛かる可能性がそれだけ高くなるからです。ここに需要と供給がマッチし、そういうスピリチュアル・ワールド(しかしその実態は、真逆のエゴ・ワールド)が創られることになります。ニセモノを求める人々の強い願望が、ニセモノの「霊能者」を育てるのです。

 

余談ですが、以前、ご主人の浮気に関する相談をされたことがあります。私は個人的な相談事には応じていないのですが(というのは、そういう相談者の殆どが「判断」を求めて来るからで、私はその人に代わっての「判断」というものはいたしません)、たまに、出会い頭にそういう事態に出っくわしてしまうことがあります。その時、その女性は、こう言ったのです。この件について、信頼している霊能者に尋ねてみたのだと。

 

だったら、もう私に聞かなくてもいいじゃないか、とも思ったのですが、まあ黙っていました。すると、その霊能者から「ご主人は、未熟で幼い魂である。でもあなたはご主人と別れることは出来ない。なぜなら、それが今世の学びだから」と言われたというのです。それを聞きながら、私だったらそんなことは絶対に言わないな、と思いました。なぜって、その言葉は、その相談者の想いをそのまんま読んだものだからです。

 

だから「当たり!」となる。それで相談者としては一時的には溜飲が下がる。「やっぱりそうかぁ」と。でもそれで、その人が、その事件を、自分の成長の機会へと繋げられたのでしょうか。霊能者にはそう言われたものの、やっぱりモヤモヤ感が残る。葛藤状態が消えない。それで私に相談して来た。だから私は言ってやったんです、その人に。「離婚は出来ますよ」と。「役所に離婚届を出せばね」って。すっご〜く意地わるく。

 

さてここで、宇宙の構造についての話をしましょう。宇宙を形づくっているものは、詰まるところ、すべてがバイブレーション(波動)であると言ってよく、振動数の低いものから高いものまでが、連続的な階調をつくっています。ごく大ざっぱに言って、振動数が低くなれば物質化が起きて物質界をつくり、振動数が高くなれば非物質化して行き、その先に霊的世界をつくるのです。この全体構造を、宇宙鍵盤とか、オクターブと呼んでいます。

 

ピアノの鍵盤を見ますと、1オクターブ中に白鍵が7つ並んでいます、そして8つめになると、1オクターブ音階が上がります。しかしこの音階の振動数(波長)というのは、階段状に(つまり算術級数的に)等間隔で上下しているのではありません。ギターのフレット間の幅を見れば分かるように、幾何級数的(別の言葉で言えばスパイラル状に)に増減しているのです。

 

神秘学では、この宇宙を、振動数の違いから大きく7つに分けています。この7つの領域には明確な境界線があるわけではなく、虹色を7色で代表しているように、便宜上、大まかに7つに分け、それを振動数の低い領域から順番に、第1、第2、第3、・・・第7霊性密度と呼んでいるのです。「密度」というのは「振動数」と同じ意味の別名です。

 

紛らわしいのは、一般的にはこれを「次元」と呼ぶ習わしがあるので、殆どの人が数学的次元と混同してしまい、ワケが分からない状態に陥っています。例えば、「アセンションというのは、3次元から5次元にジャンプすることだ」と言うと、「はて?」ということになってしまうわけです。ですが、この「次元」という言葉は、数学的次元のことではなくて、振動数の違いによる階層を表しているのだと理解してください。

 

*この宇宙:〈この〉と付けているのは、実は、宇宙は〈この〉宇宙だけではないからです。〈この〉宇宙の7層をジャンプすれば、つまり1オクターブ上がれば、別の宇宙もあるということです。しかしながら、〈この〉宇宙内にいる以上、別の宇宙を知覚することは、我々には不可能です。

 

さて、この7層のうち、振動数の低い1〜3までが物質界、高い5〜7を一般的に霊界と呼んでいます。では、中間にある第4霊性密度(四次元)は何かと言いますと、文字通り中間の「半霊半物質界」なのです。これはどちらの性質も半分ずつ有するということで、中有と呼ばれたり、人によっては心霊界と言ったり、また西洋ではアストラル界と呼ばれたりしています。

 

この第4霊性密度(四次元)の領域を、物質界側(つまり「この世」)から見ますと、そこには霊界の性質の一部(それも最下層)が漏れ出てきているのが伺えるわけです。そしてこの領域を、古くは宗教で「地獄」と呼んで来たのです。スウェデンボルグやJ.S.ワードもそう呼んで、地獄の見聞記を著しました。この層を「地獄」と呼んだのは、そう言って脅した方が、宗教的ドグマを植え付ける際には単純で解りやすかったからです。

 

しかし20世紀に入って、ロバート・モンローがこの階層構造を再精緻化し、第4霊性密度に当たる領域を「信念体系領域(別名「囚われ領域」)」と名づけ直したのです。これは正に言い得て妙で、その階層の特徴を見事に表現していました。

 

「地獄」と言いますと、何か地の底にあるおどろおどろしい世界のようなイメージがするかと思いますが、実際にはそうではないということです。この領域は、第5霊性密度(つまり天国に向かう入り口)の手前にあります。そのため、第5霊性密度の領域に踏み込むためには、第4霊性密度(=囚われ領域=かつての地獄)の川を通過して行かなければならないのです。これがアセンションのジャンプの意味です。ところが、実に、これが至難の技なのです。

 

なぜ至難かと言いますと、宇宙には絶対的とも言える「波動の法則」なるものがあって、同種のバイブレーションしか引き合えないからです。ですから、高次元の存在と出会うためには、先ずは自分の波動を、第5霊性密度の領域に引き上げる必要があるのです。一方、高次元の存在は、敢えて振動数を低下させて第5霊性密度まで降りて来ます。そのようにして出会えた場合にのみ、高い波動とのチャンネルが開かれるのです。

 

ではどうすれば、第4霊性密度の川を超えて、第5霊性密度の領域に入って行けるのでしょうか? 答えは簡単です。ですが、それを実行するとなると極めて難しいのです。思い出してください。第4霊性密度というのは、どんな領域だったでしょうか。そうです。「信念体系領域」または「囚われ領域」と呼ばれる場所です。ですから、「信念」や「囚われ」を持っていては、ここを通過できないのです。

 

少しでも、自分にそうしたものが残っていると、それと同じ波長を有した第4霊性密度の領域に捕まって、川に落ちてしまうのです。そこで、古来より「執着を捨てよ」ということが繰り返し言われて来たのです。ところが、ウケ狙いの自称「霊能者」が言うことは、そうではありません。聴き手のエゴを刺激したり、優越意識を持たせたり、恐怖心を与えたり、さも有り難みのあるような言葉を吐いて、それがホンモノだと錯覚させていくのです。

 

しかし、その「霊能者」本人にはそうした自覚はありません。騙しているという意識はないのです。本当に自分はホンモノだと思っている。でもそれは、第4霊性密度特有の「囚われ」や「執着」や「信念」から拾って来た言葉を、自分で「神の言葉」だと思い込んで語っているのです。こうした理屈を、一般の人は何も知りません。実はそのようにして、「霊能者」を代理人に仕立てて、人々を操っている「存在」が、そこにいるのです。

 

ですから、私は「信じるな」といつも言っているのです。「信仰」はダメだよと言っているのです。もし「信じ」てしまうと、「欲得フィルター」の上に、さらにもう一枚「信仰フィルター」というものが掛かってしまう。こうなると、操る者の思う壺で、執着を手離すことがさらに難しくなってしまいます。信仰者たちは、みな喜んで鎖に繋がれ「牢獄の中にいる安全」に身を委ねるようになって行くのです。

 

この『気づきの啓示板』とて、もちろん例外ではありません。一切を「信じ」てはなりません。他人の言葉を信じるのではなくて、それを刺激に、ご自分の中に、メッセージを「発見」して欲しいのです。あなたを成長させる要素は、究極的にはあなたの「気づき」の中にしかありません。外にあるものはみな、あなたの背景でしかないのです。外から来るものを「信じ」たら、あなたはそのロボットにされてしまうことでしょう。


メッセージとは何でしょうか? このブログは、あなた宛に書かれたものではありません。でも、「うん、正にドンピシャ。これは今の自分へのメッセージだ!」と読むのは、まったく正しい読み方です。それは、その瞬間、あなたが、本当に自分に贈ったメッセージなのです。このブログに限りません。あなたの周囲はメッセージで溢れかえっています。その中で、あなた自身が「発見」したことだけが、自分へのメッセージとなるのです。

 

ですが、次が肝心。あなたは、今の自分の「純粋さ」に応じたメッセージしか受け取ることが出来ないのです。目の粗いフルイには、エゴというゴツゴツした石しか引っ掛からないのですよ。執着を手離せていない人に、どんなに光り輝く宝石を降らせてみても、みんな粗い網目から零れ落ちてしまう。ただ「純粋さ」のみが、同じ「純粋さ」の精妙な波動をキャッチ出来るのです。

 

神はお節介を焼きません。お節介を焼いたところで、「純粋さ」のフルイがその人の中に育っていなければ、何んの役にも立たないのです。ですから、神は、あなたから欲得の皮がすっかり剥げ落ちて、「純粋さ」の青々とした新芽が顔を出すのを、今か今かとじっと待っているのです。ここを、しっかりと理解しなくてはなりません。すべては、あなたの今の「あり様」に掛かっているということです。

 

ですから、「自分は霊能者だ」と言って、近寄って来る者には気をつけなさい。特に、善意の忠告をして来る者にはね。本物は、自分の役割を解っていますし、自分の言動の下に誰かを従わせようとすることなど絶対にありません。本物とニセモノを見分けてください。目覚めた者が、他者の上に君臨することなど不可能なのです。なぜって目覚めているのですから。

 

目覚めているということは、「あなたとわたしは同じである」ということを、知っているということです。そのような極みに達した人間が、どうして自分と他の人を分けて、自分を王様の地位に置けるものでしょうか? 霊能者を先生と呼んでありがたがったり、霊能者もそう呼ばれることに満足しているようなあり方は、互いの「分離」意識を強めて行くだけです。それはonenessではありません。

 

霊能者のご託宣を聞きたい。そう思っている間は、まだ自分が「分離」意識の中にあるということです。そういう段階も、確かに学びの一つには違いありません。でも、いつまでもいつまでもそのままであっては進歩がありません。そんなことをしなくても、それぞれが、自分の内なる声を聞けばよいのです。また、究極的には、それしかないのです。

 

なぜなら、

 

あなたも神の一部なのですから。