by Rainbow School
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須磨穂を捨てよ、町を出よう

本日のタイトルは、寺山修司(1935 - 1983)さんの『書を捨てよ、町へ出よう』をもじったものです。このアジテーションの言葉は、寺山修司さんの言わば代名詞のようなもので、1967年に出版された評論集のタイトルとして使われたのが最初の登場でした。そして同年、寺山修司さんは演劇実験室「天井桟敷」を旗揚げし、いわゆるアングラ演劇ブームの火付け役ともなったのです。

 

その後、映画も作るようになり、当時のヒッピー文化の盛り上がりと轍を一つにして、独特の寺山ワールドといったものを構築して行きました。それは、当時の若者にとっては文字通りの「劇薬」として作用し、極端な話、ゲバ棒を取るのか(政治的闘争へ)、それともアングラ演劇を観に行くのか(内なる闘争へ)、といった当時のムーブメントに強い影響を与えたのです。

 

『書を捨てよ、町へ出よう』は、それを焚きつける一種のスローガンのような位置づけとなり、評論集だけに留まらず、演劇にも映画にも同名のタイトルが使われ、若者たちをアジテーションし続けたのです。私も映画を観たのですが、始まってすぐに、東北訛りで話す主人公が「映画館の暗闇の中で、そうやって腰掛けて待ってたって何も始まらないよ…」と話し出すのには度肝を抜かれました。

 

それがあったからというわけではないのですが、当時の雰囲気として、田舎でごにょごにょやっている自分というものがどうしても我慢ができなくて、それで私は20歳の時に東京へ(つまり町へ)と出て行ったのです。それから半世紀が過ぎ、私は今の若者たちにこう言いたいです。『須磨穂を捨てよ、町を出よう』と。50年で世の中はすっかり変わりました。今こそ、ベクトルを真逆に戻すべき時が来たのではないでしょうか?

 

もちろん、高価な須磨穂を本当にゴミ箱に放り込め、と焚きつけているわけではありません。私だって、今のガラケーがいよいよ壊れたら、仕方なしにスマホを買うことになるかも知れません。老眼で画面が見えないけど(´_`; )。だから、大きなお世話を承知で「須磨穂中毒から脱した方がいいんじゃありません?」と言っているだけの話です。寺山修司さんとは違い、影響力は皆無でしょうけれど‥‥。

 

中毒というのは、自分では気がつかないのですよ。でも側から見ているとよく分かる。その目も心も、小さな画面の奥にある(バーチャルな)「須磨穂の国」に釘づけになっているから。ファミコンが登場した時代、その強い麻薬性に慄(おのの)いた親たちが、「一日に2時間だけ」といった規制を子どもたちに課しました。ところが今や、大人たちが24時間、須磨穂の虜というありさまです。

 

いや、ファミコンで育った子どもたちが、順当に(?)大人世代になったのだから、これは自然な流れかも知れません。

 

先日、TSUTAYAで『ラブレス』というロシア映画を借り、観ようとしたのですが、20分ほど経過したところでどうにも気持ちが悪くなって耐えられず、その先を観るのを止めました。10歳くらいの男の子がいる夫婦が離婚しようとしています。夫婦はすでに別居していて、互いに浮気相手がいるのですが、男の子と一緒に住んでいる母親が、わが子を邪魔くさい存在であるかのようにして疎んじているのです。

 

この男の子は、当然ながら寂しい。誰からも愛されることがない孤独な状態にあります。でも母親は、そんなわが子の気持ちを少しも察することなく、男の子に、今の自分の身勝手な思いを話しかけるのです。片時も離さずに持った、須磨穂の画面を見ながら! ああ、まさしく全世界須磨穂教のもの凄い影響力。「ちゃんと子どもの顔を見て話しろよ!」と、画面に向かって怒鳴りたくなりました。

 

スマホは単なる道具です。ですが、今や道具を超えてしまっている。キリスト教、イスラム教よりも浸透力は強い。それはインターネット時代のご本尊。いつでもどこでも自分を導いてくれる、ありがた〜い伝道師であり守護霊。全世界須磨穂教のスマートなお札(ふだ)「須磨穂」大明神様です。困った時に、ちょっと手を(画面に)合わせて拝めば、たちどころにその人を「須磨穂の国」へと導いてくれる。今や、その魅力に誰も抗えない。

 

単なる道具に過ぎないスマホが、なぜそれほどに魅力的な「須磨穂」大明神に化けるのか? その秘密は、画面の小ささと、あの素早いページめくりにあります。それはあたかも、長い通路に掛かる幾重にもなった御簾(みす)を、ご神体に向かって次々とめくって行くようなもので、めくる度に、めくるめく世界に引き込まれて行ってしまう中毒性をそのアクション自体が有しているのです。

 

まったく凄い発明品だなと思います。宗教が何千年かかっても出来なかったこと(全世界布教)を、テクノロジーがわずか10年で成し遂げてしまったのですから。電車に乗ると、ほぼ9割の人が、すぐにその世界に没入しているのを見ます。まさに入我我入の状態。この時に合わさったエネルギーは凄まじいもので、車両全体が何かに取り憑かれてしまったかのようなバイブレーションを発しています。

 

夢中になって画面を見ている人には、勿論そんなことは分からないわけですが(分からないからこそ出来ることですが)、このエネルギーは、そこに居合わせた人たちの心身に、耐え難いほどのダメージを与えているんですよ。こんなバイブレーションに毎日接していたら、みんな心が殺伐として来て、頭がおかしくなってしまいますよ。映画『ラブレス』の登場人物たちのようにね。

 

波動の法則というのは、現象面で表れる結果に関しては至極シンプルなもので、同じ性質の波動は引き合うというただそれだけの話です。あなた方が、慈愛に溢れた心を持って集まり、一緒に瞑想をしたり祈りを捧げたりすれば、お互いの波動をさらに高め合うことが出来ます。

 

しかし反対に、低い、荒れた波動を出し合えば、互いに足の引っ張りっこをして、その場のバイブレーションはドーンと落ちるのです。つまり、そこにネガティブ・パワースポットが出来るのです。

 

これは検証できないことなので、信じなくても結構ですが、須磨穂教の虜になることが、心を荒れさせるということは確実に言えます。なぜなら、その分だけ、自分を内観する機会というものを、須磨穂が奪ってしまうから。

 

人が内観する機会を失えば、「自分は誰か」という基本的な問いに、きちんと向き合うことが出来ません。そこで糸の切れた凧のようになって、その不安を穴埋めするために、またしょっちゅう須磨穂を見続ける、という悪循環に陥ってしまうのです。須磨穂は一見、身近なセラピストのように思えますが、実態は、その人の心の隙間に入り込み、エネルギーを喰い尽くしてゆく怪物です。

 

あっちからもこっちからも風が吹き寄せて、常にザワザワとさざ波が立っている湖面には、自分の姿は映りません。明鏡止水。なにより、静謐で心安らかになっている時にだけ、湖面は凛として澄み、水の向こう側にあなたの真の姿を映し出すのです。この貴重さを、現代人は何も解っていません。情報に接していないときの時間は、すべて無駄だとさえ思っているのです。

 

そうやって、自分が発したものではない、外からやって来た、どうでもよいガラクタ情報で頭の中をいっぱいにして、その重みに押し潰されそうになっている。映画『ラブレス』で描かれた両親を見よ! 自業自得とは言え、現代人とはなんと憐れなものなのでしょう。

 

今から3日後に、自分は死ぬと仮定してください。

その日までの時を、あなたはどうやって過ごしますか?

それでも須磨穂を見続けますか?

 

人生は「今」の連続の軌跡なんですよ。

いいですか。「今」のあなたの思い、言葉、行動が、「あなた」を創造するんですよ。

創造してるんですよ! たった今も。

 

あなたとは何者か?

そのように思い、そのように語り、そのように行動する人間を、人は、「そのような」人間、と見るのです。

それが、あなただ!

 

私は、最近反省しているんです。自分の言い方が悪かったのかなと。この世の価値観に合わせる必要などない、と確かに言いましたよ。引きこもる時も、人には必要なんだと、それを推奨しましたよ。空海だって引きこもったんだぞ、と言いましたよ。でもそれを、「行動しない」ことのエクスキューズに使ってしまう人たちがいるらしい、ということに最近になって気がついた。

 

空海は、ある時期、確かに引きこもりましたよ。でもそれは、行動できないことの言い訳にそうしたわけじゃない。行として、そうすることを積極的に選んだんです、彼は。内観を徹底するために、世俗を離れて、敢えて洞窟に入った。つまり、引きこもるという「行動」を、自分の積極的な意思で選択したのです。その時それが必要だと思ったから。そうして、クンダリニーの覚醒(空海の表現で言えば、明星が口に入る)という体験を得た。

 

そこを考えて欲しいのです。動けないとか、外に出られないとか、電車に乗れないとかと言ったって、トイレには行ってるわけでしょう。ご飯だって食べているわけでしょう。風呂にだって入るわけでしょう。頸椎を損傷して、首から下がまったく動かないという人だっているんですよ。その人が、もしも自分の手で箸を掴んでご飯を食べたり、歩いてトイレに行ったり出来るようになったとしたら、きっと随喜の涙を流すことでしょうね。

 

早い話が、いま生かされていることへの感謝が足りない。五体が動いて、こんなにも恵まれていて、何を贅沢なことを言っているのだろうかと思う。トイレまで行ける足があるんだったら、あと数十歩たして、玄関から外へ出ればいいじゃないか。外へ出ることが出来たら、あと数百歩たして、公園まで行ってみればいいじゃないか。公園まで行けたら、今度は駅まで行ってみればいいじゃないか。死にものぐるいでやってみろ!

 

それを、私が「動け!」と言うと、「ネットで平和を訴えて行こうかなとは思ってるんですが」とかって言う。ああ、またネットか。結局は須磨穂の国に逆戻りか。そんなんじゃないんですよ! あなたが今、まっ先になすべきことは、「動く」ということの意味は。生活の「リアルな実体験」を積み上げて行くということなんだよ。あなたにいちばん欠けているのはそこ。つまり、「生活技術」を一から学習し直して行けってことなんだよ!

 

洗濯は出来るのかい? 自分のメシは作れるのかい? お茶碗は洗えるのかい? 部屋を片づけられるのかい? 箒や雑巾は使えるのかい? トイレ掃除や風呂掃除は出来るのかい? 決まった日のゴミ出しが出来るのかい? 庭の草取りが出来るのかい? 買い物には行けるのかい? ほうれん草が一把いくら位か見当はつくのかい? どういう魚が、鮮度がいいか見分けられるのかい? 

 

どうかな? いま上げたものに、今まで、何の関心も持っていなかっただろう。ただの面倒臭いもののようにしか、あなたには思えていなかっただろう。だがね、その面倒臭いものに向き合い、体験し、工夫し、味わうことが「生きる」ってことなんだよ。だから、それを全部他人まかせにして生きている人は、「自分を生きていない」ことになる。ああ、なんてもったいないことをしているんだ。実に、それが「生きる不安」をつくる元凶だと知れ!

 

いいかね。「生活力」というのは、どれくらいお金を稼げるか、ということじゃないんだよ。生活技術力を、その人がどれだけ持っているかということなんだ。金なんて、いざとなったら何の役にも立たない。札束を赤ちゃんのオシメにするわけにはいかないんだよ。だから先ずは生活技術。生活技術さえしっかりあれば生きられるし、生きるのが楽しくなる。きみが平和の貴さを訴えるのは、それが出来てからだ。

 

現代に生きる人間が可哀想だなと思うのは、「生活技術」を学習するより前に、先にコンビニと須磨穂の使い方を覚えてしまうということ。コンビニには取り敢えずのものは何でも揃っているし、須磨穂は別に図書館に行かなくたってあらゆる情報が取れるし買い物だって出来る。バーチャルな出会いも出来るし、お婆ちゃんの知恵(のようなもの)だって授けてくれる。すると、この二つさえ覚えれば「生きられる」と錯覚してしまう。

 

しかしそのことは、裏を返せば、コンビニと須磨穂がなければ生きられない、という状態に、いつの間にかさせられてしまっているということを意味しているのだ。

 

いま、10代と20代合わせて年間3万人超の若者が行方不明になっているそうです。ある日突然、家からいなくなってしまう。家出の準備をした形跡もない。この、ある日突然の失踪を可能にさせているインフラが、まさしくコンビニと須磨穂。少女が、SNSで「今晩泊めて?」と発信すれば、ものの1分もしないうちに、見ず知らずの男たちからたちまち十数件の申し出が集まるのだと言う。

 

いつの時代にも家出する若者はいるわけで、ある意味、勇気ある行動だとも言えるわけですが、今の時代の「お手軽さ」には、以前とはまったく違った様相を感じます。大志もなければ、逆に反抗も反逆もない。何となくフラッと家出するといった感じです。恐さを知らないと言いますか、すべてが希薄です。親が、学校がという時代じゃない。社会病理がもう何重にも重なっていて、このような社会現象を止める手立ては、もはやないのかも知れません。

 

別に家出が悪いと言っているわけではありません。また、社会からドロップアウトしてしまうことの危惧を述べようとしているのでもありません。みんな好きにしたらいいです、基本的には。でもね、自分という存在を見つめて、自分のコントロール意識を働かせて、自分をクリエイトできる体験が、それで出来るのかなと思うのです。結局は、自分も周囲も、傷つけるだけに終わってしまうのではないでしょうか?(ま、それも体験ですけれど‥‥)

 

今の時代は、お手軽なクリエイトが多過ぎるんです。レストランに行けば、食べる前にいきなりパシャパシャやる。動画を投稿して美味いとか不味いとか言う。旅に出れば、観光名所をバックに自撮りする。他の人が書いたブログには直ぐにケチをつける。動画の上に意味不明の自分の叫び声を書き込む。でも、そのどれもが、所詮は、他人のふんどしを借りた表現に過ぎない。

 

そうすることによって、あなたの中にある表現願望や、参加意識や、「私ってこういう人なのよ!」という自己実現願望(のようなもの)は、多少は満足するかも知れない。でもそんなものは、結局はニセモノなのだよ。借りものの、ニセモノの表現行為を続ければ続けるほど、あなたの本物は、外に出て行くチャンスを失ってしまう。

 

解らないかな? あなたたちはそれらを「自己表現」だと思っているが、その表現方法を保証する仕組みに、一元的に取り込まれてしまっているのだよ。早い話が、GAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)その他のIT企業の戦略に落とし込まれているわけだ。ゲージの中で、バタバタしている家畜の鶏のようなものなんだよ。

 

だからもう、他人のふんどしを借りることは止めたまえ。稚拙でもいい、あなたの表現をするんだ。あなた独自の、あなたにしか出来ない表現をするのだよ。価値はそこにあるのだ。いや逆に言おう。価値はそこにしかないのだよ。結果は問題じゃない。「いいね」の数が問題なのではない。そのクリエイティブな体験を通じて、あなたが何を味わったか、それだけなのだよ。

 

須磨穂を捨てよ、町を出よう。町を出て、もと来た森の中に帰るのだ。今の社会システムそのものを疑え。この世のすべては、しょせん幻に過ぎないが、人工物を通じた体験はバーチャルな幻しかあなたに見せない。一方、鬱蒼とした森の中に帰ることは、あなたに一時的な不安を与えるだろう。でも、自然が与える幻は、その先に神の姿を見せてくれるのだよ。

 

さあ、勇気を出せ。覚悟を決めよ。立ち上がって歩け。森の中に踏み込め。そして、それを楽しむんだ。そうすれば解るから。