by Rainbow School
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良い人になることで乗り越えようとしても上手くはいかない

冬場は雪が深いので山を降りて東京で生活をしています。東京に戻り、散歩をしていてうんざりするのは、道端に投げ捨てられたゴミの多さです。特にコンビニ周辺がひどい。コンビニは買う便利さと捨てる安易さを教えましたね。時々、ゴミ袋を手にしては拾って歩くのですが、後から後から捨てる人が出てくるので、いつまで経っても気持ちのよい散歩というものが出来ません。

 

ある日、公園の茂みに、「鬼ころし」という日本酒の紙パックがストローが差し込まれた状態で捨てられているのを見つけ、それを拾いました。ところが、翌日もまた同じところに同じものが捨てられているのです。このイタチごっこがしばらく続いたある日、「鬼ころし」がついに捨てられなくなっているのに気がつきました。「ヤッター、オレの勝利だ! あいつも遂に根負けか」と、そう思いました。

 

数日後、その公園から5分ほど離れた空き地の隅っこに、懐かしい「鬼ころし」のパッケージが山になっているのを見つけました。あちゃー、その人は、捨てる場所を変えただけだったのですね。勤め帰りに、道端の自動販売機でそれを買い、自宅までの道すがらストローでチュウチュウやるのが、その人の何よりの楽しみだったのでしょう。居酒屋に立ち寄る心理的経済的余裕もないのかも知れません。

 

自分を取り巻く環境は、その人の心の現れです。その人の心の有り様が、それに応じた環境を、自分の周囲に出現させるのです。ですから、自分の不遇を環境のせいにすることは出来ません。その環境はその人が創っているのです。散歩道は、ゴミなど落ちていない清々しい雰囲気の方がいいと思う人もいれば、ゴミを撒き散らして汚しておいた方が、今の自分の心情にピッタリという人だっているのです。

 

東京の私の家は、永らくゴミ屋敷でした。物で溢れかえり足の踏み場もないという状態。台所には真っ黒な油汚れがベットリと付き、どこもかしこも埃が高く積み重なっていました。それは、当時の私と、私の家族の心の有り様をまさに表現していました。けれどもある日を境に、片づけに着手しました。突如としてそういう気になったのです。そうして、3年ほど掛かけてどうにか見られる状態にまでなりました。

 

自分でも驚くのは、その後です。その日から現在に至るまで、クリーンな状態をキープし続けることが出来ているのです。それは、自分の「心」が一変したことを意味していました。私は変わったのです。そして「心」の変化は、その他にも、様々な外面的変化、環境的変化を私の周囲に《具体的に》出現させて行きました。

 

住む場所も変わりましたし、家族もいなくなりました(一人、息子がおりましたが、彼は家を出て行きました)。仕事はやめましたし、ド貧乏になりました。世間的な動向や流行には何の関心もなくなり、オシャレをする気もなくなりました。友人関係も、全く一変してしまいました。ですから、「その人の意識が、その人の人生を創る」ということが、今の私にはよ〜く解るのです。

 

人間の「気づき」には、大きく2つの段階があります。先ず最初の気づきは、自分の至らなさ(未熟さ)に気づくという段階です。しかしそれとて、気づかない人は多い。あるいは、たとえ至らなさに気づいたとしても、認めようとしない人が多い。ここで、第一の関門をくぐる人と、くぐれないで門から追い返されてしまう人とが出て来るのです。

 

第一の関門をくぐれなかった人は、一見すると幸福な人です。なぜなら、その後に続いて起こる「葛藤に苛まれる」という苦しい状態が、取り敢えずは回避されているのですから。代わりに、その段階に留まった人は、「葛藤」に向き合うことなく「エゴ」を大いに謳歌する生活を送るのです。この時期は、その人に幸福と楽しさをもたらします。

 

しかしそれは、以前にも言ったように、まやかしのものに過ぎません。「エゴ」が与える幸福は決して長続きしませんし、カルマの法則によって、誰もが、いつかはその誤りに気づかされる時が来るのです。ですから、第一の関門を永遠にくぐらないということはあり得ないのであり、くぐろうとしない「魂」は、それだけ目覚めが遅れるということになってしまうのです。

 

*まや:摩耶(maya)とは、サンスクリット語で幻想のこと。摩耶化す→まやかし

 

一方、最初の気づきを得て、第一の関門をくぐった人には、それから長い試練の時期が訪れます。自分の未熟さ、至らなさを自覚し、それを何とか克服したいと願って、あの手この手の解決策を模索し始めるからです。仏教では、この段階で生じる出来事を、四つの苦と、さらに四つの苦の合計八苦に分類しました。これが「葛藤」状態をいう際の「四苦八苦する」の語源となりました。

 

さてここでも、人の対処法は大きく二手に分かれます。大多数は、葛藤を抱えながらも、また大いに悩みながらも、その時々をなんとか通過してやがて死に至るという道を歩んで行きます。もう一方は、その葛藤状態をあえて意識化し、乗り越える方策を積極的に模索しようと図る道を選びます。この後者の人たちが、宗教や哲学や精神世界へと歩みを進めてゆくのです。

 

前者の道を行く人は、自分のエゴや心グセにきちんと向き合おうとしないまま一生を終えてしまうので、一つの人生での霊的進化は、ほんの僅かしか進みません。そこで、せっかくの輪廻転生の機会を得ても、一つのカルマを一つの人生で充分に解消することが出来ずに、何度も何度も同じような人生パターンを繰り返すのです。しかしそれでも、最後の最後には、全ての「魂」がエッセンスへの帰還を果たします。

 

*エッセンス:精髄と訳されたりしている。神、あるいは光と同義。

 

では後者を選んだ場合はどうでしょうか? 驚いたことに、後者の道を選んだからといって、必ずしも霊的な進化が早く達成されるとは限らないのです。むしろ宗教や哲学や精神世界が提示するドグマ(独善的教義)に捕まって、歪んだ観念を構築してしまい、却って歩みを遅くする可能性も高いのです。これが、高僧よりも、田舎の普通に暮らしているお婆さんの方が霊的に進んだ人のように見える理由です。

 

それは、見えるだけではなくて、実際にそうなのです。よく「見た目だけでは人は判断できない」などと言いますが逆です。見た目にすべてが表れます。それは、身なりや服装ということではなくて、その人が発しているオーラ、そこに全部出ている。オーラは嘘をつけません。澄んだ目の色や、微笑みや、言葉づかいや、立ち居振る舞いに、その人の「霊性」がすべて表れているのです。

 

*オーラ(aura):その人が発している霊的バイブレーション。エーテル体、アストラル体、コーザル体の各振動が合わさって、その人固有のバイブレーションを発している。

 

ということで、第一の関門を通過した後に訪れる「葛藤」の時期を、一体どう過ごせばいいのかということが、次の第二の「気づき」を迎えられるかどうかに大きく関わって来るのです。ここで、第二の「気づき」とは何かを言いましょう。それは、それまで信じていた世界が、実は表裏が真逆だったと気づくことです。霊主体従が本当だったんだと、(頭だけではなく)全身全霊で感じるようになることが二番めの「気づき」です。

 

この「気づき」を得て、初めてその人は、第二の関門であるところの「光への道」へと入って行くのです。しかしそのためには、「葛藤」の時期を、少なくとも9割がたは終えていなくてはなりません。「葛藤」を抱えたままで「光への道」へと進むことは出来ないのです。なぜなら、「光への道」へ入るということは、「葛藤」を捨てるということでもあるのですから。両者は、卵と鶏の関係なのです。

 

さてそこで、どのようにして「葛藤」を捨てればよいかということになります。あなたは、第一の「気づき」を得て、ご自分のイヤな面や、エゴや、ネガティブな心グセに気がつきます。そして、「魂」の声が聞けるあなたは、それをなんとか克服したいと考えます。そこで、きっといろいろな取り組みに着手されることでしょう。

 

克服したい点のキーワードを大書して壁にペタペタ貼ったり、ノートに箇条書きにして朝夕に呪文のように唱えたり、指導者を求めて歩きまわったり、自分に戒律を課したり、柱におでこをガンガンぶつけたり、お百度を踏んだり、水垢離をしたり、ひたすらマントラを唱えたり、海に向かって「バカヤロー」と叫んでみたり、etc.。私もさんざんやりましたよ。およそ50年間も。

 

その期間は、私にとっては無駄ではなかったのですが(なぜなら、踏み石役として、その経験を話せるので)、これから後に続く人たちは、もう同じような轍を踏む必要はありません。50年間もウロウロしなくていい。「光への道」へ入るのに、近道はありませんが、あなたは速道を行けばいいのです。プロセスを省くことは出来ないけれども、プロセスをスムースに通過する方法があるということです。

 

先人たちが示してくれたものの殆どは、結局のところ、修善奉行・諸悪莫作(しゅぜんぶぎょう・しょあくまくさ:善い行いをしなさい、悪いことをしちゃダメよ)に尽きるのですね。私もそれで、良い人になりたい、良い人になろう、良い人にならなければ、とずっと長いことそう思っていました。ところが、これが上手くいかないのです。どうにもスッキリしない。50年間ずっと取り組んで来ても。

 

それで、そのような努力をすることを一切やめたのです。やめてから、やっと解りました。良い人になろうとすることで「葛藤」を乗り越えようとしても上手くはいかない。なぜかと言うと、それは、自分の「ありのままを是認する」というプロセスを省いてしまうからです。自分にはこういう欠点がある。だからそれを出さないように、いつも良い人であろう。それは、どこかで自分を誤魔化しているのであり、無理があるのですね。

 

でもなぜ、修善奉行・諸悪莫作が長年に渡って言われ続けて来たのでしょうか。結局のところ、それが大衆には理解しやすかったからです。具体的な行動指針に思えたわけですね。真理よりも権威、宇宙の法則よりもスーパースターの奇跡の方に心を動かされてしまう大衆にとっては、そうした「決め事」がフィットしたのです。しかし同時にそれは弊害も生みました。地球人類が、いつまで経っても目覚めないということです。

 

けれども、裏の世界ではちゃんと説かれていたんです。「こうするといいよ」という別の方法が。でも表の世界があまりにも強大だから、そして大衆はそれを信じ切っているから、マスターが示してくれていた方法は隅っこに隠れてしまい、大衆には発見できないようになっていたんですね。

 

しかしそんな時代ももうオシマイ。これからのみなさんは、そこで足踏みする必要はありません。急行列車でスッと行けばいいのです。

 

あなた方の「悩み」や「葛藤」が、全て、エゴ(我欲)に起因していることは確かです。しかし、「欲」を完全に無くすということが、人間に果たして出来るのかどうか。

 

偉いお坊さん方は、「無欲」だとか「無我の境地」だとか、自分でも達成出来ていない目標を平気で口にします。これが日本仏教のいけないところで、大衆からすると「う〜ん、凄い!」と思う反面、「自分には到底無理だ」という敗北感しか抱けない。つまり、言う方も聞かされる方も、虚飾に遊んでいるだけになっているのです。

 

でも考えてみてください。もし食欲が無かったら、あなたは餓死してしまうでしょうし、もし性欲が無かったら、子孫は生まれないでしょう。動物や植物を見ても同じで、自然界にあるものは、決して「無欲」なわけではないことが解ります。確かに、様々な「欲」が、その人に苦悩と葛藤を生じさせています。しかし、だからと言って「欲を無くせ」と言うことには、飛躍があり過ぎますし、そこには無理があるのです。

 

ではマスターは何と言っているのでしょうか? 「執着を捨てなさい」と言っているのです。「欲を無くせ」とは言っていません。「欲」と「執着」とを分けているのです。「欲」は持っても「執着」は持つなということです。

 

目の前に、一杯の美味しそうなラーメンがあって、湯気を立てているとしましょう。お腹が空いていたあなたは、それをむさぼるようにして口に運び、胃に入れます。食べ終わって「あー、美味しかったな」と。「これで、また半日生かせて貰えたな」と。それで終わりなら、よし。

 

でも、二日くらい経ったら、またあそこのラーメンが無性に食べたくなったと。あの店は、ダシにあれとこれを使っていて、中太の縮れ麺で、チャーシューは5枚載っかっていると。それを思い出すと、もう夜も眠れないんだと。腹が空いてしょうがないと。「あー、どうしてもあのラーメンが食べたい」と。もうこうなったら、「欲」が「執着」にまで化けている。

 

このことは、すべてについて言えるのです。親子関係、夫婦関係、その他の人間関係、お金、財産、仕事、身の回りの道具、コレクション、ペットetc.。そこで、想像してみてください。今あなたが所有している(と思っている)それらのものが、10分後に、もしも跡形もなく消え失せてしまったとしたら、あなたは果たして耐えられるでしょうか? 例えば、あなたの子ども、あなたのパートナー、あなたの家。

 

一つでも、耐えられないと思うものがあるうちは、あなたは、それについての「執着」を手離せていません。しかし、中にはこう言う方もおられることでしょう。いや、自分は「執着」を手離したくなんかないんだと。なぜなら、私のそれは「愛」なんだからと。家族や、恋人や、ペットや、コレクションに対峙している時の私の「心」は、「愛」の表現なんだと。

 

そう思っているあなたは、まだ「愛」の本質を理解していません。それは、所有欲、支配欲、相互依存を、「愛」という言葉に置き換えただけのもの。本当の「愛」とは、所有でも、支配でも、取引でもなく、無償のものだからです。無償の「愛」に至った者が、それを失うことを怖れたり、悲しんだりするはずがないではありませんか。無償なんですから。

 

では、この「愛」を、どこまでも拡大して行ってみてください。

どこまでも、どこまでも。

そう、それが神の「愛」なのですよ。

 

どの道、あなたは気づきます。「執着」し続けることの無意味さに。えっ、分からないかな? この世で、「死」と呼ぶプロセスを、あなたが迎える時にですよ。あなたは先ず、身体を手離し、その後に、心を手離します。そして物質界から離れる。であるならば、その日が来るずっと前に、苦しみの元である「執着」を手離してしまえばよいではありませんか。

 

実にこれが、「今を生きる(Be here now)」ということであり、アセンションへの扉を開くということなのです。

「今を生きる」ことに徹すれば、過去も未来もどうでもよく、よって何かを悔やんだり、逆に期待することもなく、自分の今を、自由に燃焼させて、ハッピーに生きられるのです。解りましたか?

 

そこで最後に、「欲」は持っても「執着」を持たないようにしていく訓練法をお教えしましょう。これは「止まる瞑想」とか「歩く瞑想」と呼ばれているテクニックです。先ず「止まる瞑想」では、あなたが何かをしている時に、その行動を一時停止させ、いま自分は何をしていたかなと観察するのです。これによって、その行動に埋没していた自分を、その次元から引き剥がすのです。

 

もう一つの「歩く瞑想」は、動作を止めずに、もう一人の自分がいて、その動きを観察するようにします。いま左足を上げた。あ、地面にかかとをつけたぞ。重心移動をして、足を蹴ると同時に右足を上げたな。といった具合です。これを、生活の様々な分野で行うのです。料理をしている時にも、掃除をしている時にも。いま包丁を手に持った、自分の手が野菜を切っているぞ、という具合に。

 

このエクササイズを繰り返し行なってください。これによって、身体が自分なのではないという感覚がしだいに身について行きます。そうすれば、自分の「欲」を認めつつ、上手にコントロールできる自分になって行きます。自分のネガティブな部分を否定しようとしてはなりません。否定することは自分に嘘を課すことですし、その葛藤にかえって苦しみます。また、良い人であろうとすることも、所詮は仮面なのです。

 

そうではなく、ここでも重要なことは、やはり素直さです。自分の「心」の動きに逆らわず、先ず出してしまって、それを肯定も否定もせずに観察するのです。あ、いま自分は腹を立てているなとか、あの人に嫉妬心を燃やしているな、といった具合にです。これを繰り返し行なっていれば、数年のうちに、自分の暴れる感情や、思考パターンや、本能をコントロールできるようになっているはずです。

 

そして、あなたは気づきます。いつの間にか、自分の「欲」そのものも変化していることに。あれほど好きだった特定のものに、もはや前ほどには興味が持てなくなっていることに。流行を追いかけることがバカバカしいと感じ出していることに。テレビのニュースになんの関心も無くなっていることに。友人関係が激変していることに。食べ物への関心が以前とは様変わりしていることに。etc.。

 

代わりに、今までは全く無価値だと思っていた、ただウザいだけだと思っていた、何気ない、このド日常の中に、掛け替えのない喜びを発見するようになります。それは、太陽の暖かさであり、木々の緑の鮮やかさであり、吹く風の爽やかさであり、揺れる水面のきらめきであり、一杯のスープであり、自分を支えてくれる人たちの思いやりであり‥‥

 

そして、あなたの耳に届く、この地球の生命の讃歌。

 

やがて、あなたは知る。

もう、これで充分なのだということを。

すべてが最初から満たされていたんだということを。