by Rainbow School
<< July 2019 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
<< ロボット人間 vs 人間ロボット | main | 「信」が持つ力を、利用して生きる >>
信念を持った人は、必ず嘘をつく

キリスト教系(聖書系と言った方がいいのでしょうか?)の某教団の人たちが、また山奥の家まで勧誘にやって来ました。これで都合3回目です。しかし今回は、家の修繕作業の真っ最中だったので、手が離せないと言ってお引き取りを願いました。ですがその時に、余りにもしつこいので、ちょっと余計なことを言ってしまいました。

 

「あなたたちは、どうしていつも二人で来るんですか? 一人で来ればいいじゃないですか」と。

すると、相手のうちの一人がこう答えました。

「物騒ですからねぇ」

それを聞いて、なんてぇ真実味のない答えなんだ、と私は思いました。

それが嘘だということはすぐに判りました。顔が「嘘だよン」と言っていましたから。

 

もし「物騒だから」と言うのが理由なら、こっちは一人ですよ。そこへ、二人組でズカズカと敷地内へ入って来るんですからねぇ。一体どっちが物騒かということになるじゃありませんか。

その時、思わず口から、続けて次の言葉が出てしまったのです。

「そうじゃないでしょ。お互いに監視し合ってるんでしょ」

 

言った後で、しまったぁ、と思いました。私のイジワルな部分がポロっと出ました。それは、彼女たちが考えてみもしなかったことらしく、表情がサッと険しくなりました。(なんてこと言いやがるんだ、このおっさん)という怖い眼つきでした。どうやら、グサリ!とやってしまったようです。ま、これで、もう来てくれなくなればいいんですけどネ。

 

宗教の勧誘では、いやーな思い出があります。あれは確か18歳頃だったと思います。当時、私が通っていた学校は一クラス45人くらいだったのですが、毎年10人くらいが留年したり退学したりしていくのです。そうやって退学した一人に、K君がおりました。K君とは特別親しかった訳では無かったのですが、彼が退学してから一年ほど経ったある日、そのK君から電話が掛かって来ました。

 

「君にどうしても相談したいことがある」と言うのです。「何、相談って?」と訊くと「電話では話せないんだ」と。「直接会って相談したい」と言うのです。聞けば、「今は東京の原宿に居る。どうか来てくれないか」と、切羽詰まった様子で話すので、力になれるものならなってあげたい、という私の中の余計な親切心が動き出しました。

 

今と違って、新潟県の田舎から東京へ出掛けるのは大変です。まさに一大イベントという感じです。もちろん学生でしたから電車賃もありません。それをなんとか工面して、ようやく指定された日時に、彼のアパートまでたどり着きました。すると彼がこう言ったのです。「ここじゃ話せないから、別の場所へ行こう」と。そうか、喫茶店にでも行くのかなと思って、彼の後をくっついて行った先で、私は「あっ」という事態に遭遇するのです。

 

そこは広さ10畳ほどの和室の集会所で、私が入ると、後ろでバタンと扉が閉じられました。見ると、目の前には10人ほどの男女が円陣を作っていました。そして、その輪の中に入るようにと背中を押されました。(いったいこりゃなんだ?)と、目を白黒させる事態となったのですが、少しして、いくらおバカさんの私にも、それが何であるかがようやく呑み込めて来ました。

 

気が動転していたので、その時どんな会話があったのかはもう覚えていないのですが、冷や汗タラタラで、約2時間ほどをそこで過ごしたと思います。その間、教団のパンフレットやら、書籍やら、その教団の広告塔であった歌手のビデオやらを見せられ、こっちの方が「困っちゃうな」「どうしよう」「胸がドキドキしちゃう」という状態で、ただただ時の過ぎるのをじっと待ったのです。

 

ようやく解放された時、K君を含めたその場に居た人たちは、みんな一様に沈んだ表情をしていました。それは、「東京までわざわざ足を運ばせてしまって申し訳なかったね」というものでは、勿論ありません。「あーあ、落とせなかったナ」という顔です。でも今にして思えば、その不愉快な経験も、私には必然だったのでしょう。40人近くいた元同級生の中で、私をなぜ標的に選んだのかということですから。

 

それが、宗教であれ、倫理道徳であれ、政治であれ、国家意識であれ、防衛意識であれ、金儲けであれ、出世であれ、美意識であれ、科学信仰であれ、発展という考えであれ、人間関係のあり方であれ、何であれ、「信念」を持った人というのは、必ず他人にも自分にも嘘をつきます。なぜかと言えば、その「信念」を基軸に生きることが、絶えず優先されるからです。それは、自分が「素直で正直」であるということを、いとも簡単に凌駕してしまうのです。

 

素直で正直であるということは、結果的に、瞬間瞬間で絶えず自分を変えていくということを意味します。変わること、変えることを少しも厭わないということです。でも、考えてみてください。自分が変わることを厭わないからこそ、その人間の進歩というものがあるわけですね。そしてこれは、宇宙の諸行無常、生々流転の真理に、まさに合致した生き方でもあるのです。

 

ところが、この世の価値観は真逆です。朝令暮改を非難し、「ブレる」を悪いことの代名詞のように語り、強い「信念」を持つ人間が、各界で先生と呼ばれて崇め奉られ、持てはやされるのです。そして、人々は、自分もそうでなければいけない、と思い込む。それは、諸行無常の真理を解ろうとはせずに、「手離す」ということがなかなか出来ない人間が背負った、浅はかな業です。

 

でも、感情や思考の、さらに奥にあるものを見つめて、捉えて、それに従えば、人は、本来の「素直で正直」な自分に帰れるのです。

 

松田優作さんと桃井かおりさんが出演したテレビドラマに『春が来た』(向田邦子原作、1982年)という作品があります。お二人は、意外にも共に文学座出身で(文学座カラーをまるで感じさせません)、話が通じ合うかなりの仲良しだったそうです。このドラマは、松田優作さんにとっては、それまでのアクションスターからの脱皮を促すことになる、重要な節目の作品でした。

 

ところが、収録現場に入っても、優作さんがちっともやる気を見せず、その態度を見た桃井かおりさんが、優作さんに「なめてんのか」と怒ったというのです。さてそれからです。その日の夜すぐに、かおりさんのところに、優作さんから電話が掛かって来たそうです。そして「家に帰って、脚本をじっくり読み直して見たら、もっと深い部分があることが解った」と優作さんが語ったというのです。

 

この時に、桃井かおりさんはえらく感動したそうです。松田優作さんという人間のその「素直さ」に。優作さんのイメージは、どちらかと言えば、ちょっと粗暴で、わがままっぽい感じがします。でも実際には、どこまでも素直な人だったんですね。素直だからこそ、貪欲に、演技の質の向上を求め、今日の自分を変えることを模索し続けたのです。

 

もう一つエピソードを紹介しましょう。私の好きな映画に『無法松の一生』があります。九州小倉生まれの荒くれ男の人力車夫、富島松五郎(通称無法松)の生き様を描いたドラマです。この映画は何度もリメイクされ、三船敏郎さん主演の1958年(昭和33年)版は、第19回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞しました。この1958年版の中に、こんなシーンがあるのです。

 

乱暴者として世間から一目置かれていた松五郎が、いつものように芝居小屋へ行くと、その日に限って、木戸銭を払わなければ入場させないと言われてしまいます。いつも顔パスで入場していた松五郎としてはこの扱いが腑に落ちません。腹を立てた松五郎は、仕返しに一計を案じます。芝居小屋の升席を買って、その中に七輪と鍋を持ち込み、そこでモツ鍋をこさえるのです。

 

さあ大変。芝居小屋の中はモツ鍋の臭いが充満して、もう芝居を観るどころの騒ぎじゃない。当然、松五郎は咎められるのですが、「俺の金で升席を買ったんだから、その中で何をしようが俺の勝手じゃないか」と言い放って、もう場内はてんやわんやの騒ぎに。その時に事を収めるのが、街の顔役の重蔵親分(笠智衆)です。(この頃は、任侠道やヤクザがまだ尊敬されていた)

 

重蔵親分は、「顔パスを急に断られて、腹を立てた松五郎の気持ちも解る。しかし、だからと言って、なんの関係もない他の観客の迷惑になることをしていいのか。その人たちへの責任をどう取るつもりだ」と松五郎を叱責します。さて、その後で松五郎が何と言ったか。「あー、わしゃ、そこに気がつかんかった」と。自分の怒りに任せて、そこまで配慮することを忘れていたと、素直に謝ったのです。

 

この素直さこそが、「無法」とまで呼ばれた松五郎という人物の、魅力の根源になっているんですね。順法者よりも、無法者の松五郎の方が、むしろ素直で正直に生きている。まさに、先ほど言った、この世界での価値観の逆転現象がそこに示されています。素直で正直であるからこそ、松五郎は自分の非にパッと気がついて、たちまち自分を改めることが出来たのです。松五郎という人間の、成長の瞬間です。

 

逆に言えば、いかに素直でない人の方が、また素直になれない人の方が、この世界では圧倒的に多いかということです。素直で正直であること、たったこれだけのことすら、今の人間には難しい。みんな、何らかの「信念」の虜になって生きている。そして、素直さや、正直さが馬鹿を見て、嘘つきや、ゴリ押しや、居直りが、ますます得をする時代になって来ています。

 

さてあなたは、この先、どっちの道を行きますか? 行きたいですか? どっちの道を歩んでも、別に咎め立てはしません。でもあなたに、訊いておきたいことがある。あなたは、ご自分を成長させたいですか? 進化させたいですか? そうだとしたら、その成長や進化は、何を意味していますか? どこへあなたは行こうとしているのですか? そして、そもそも、あなたとは何者ですか?

 

自分に嘘をつくのは、結局は恐れからです。ありのままの自分を曝け出すということが出来ないのです。自分を規定した(と思い込んでいる)枠組みから外れてしまうのが怖い。それが壊れてしまうのが怖い。それで「信念」の塔を立てて、その中に逃げ込むことで、これを逆に正当化するのです。ですから、「信念」を強調する者は、みな目がつり上がり、拳に力が入ってしまう。

 

ああ、憐れな人たちよ。自分の周囲に、自分で檻を拵えて、自分の自由を奪って、さらに仮面まで被って、自分がもう誰だか分からなくなってしまって、それで自己矛盾に苦しんでいる。ただ、素直で正直でありさえすれば、それがいちばん楽なのに。枠組みなど何も必要ないのに。ありのままのあなたでいいのに。つまらぬ「信念」など、一切捨ててしまえばいいのに。

 

そして何よりも、とても熱心に学んでおられるみなさんだからこそ、また理解力のあるみなさんだからこそ、ここで強調しておきたいのは、素直で正直でない限り、光の道へ入ることは決して敵わないということです。なぜなら、曇った眼鏡を掛けていたのでは、道を照らす、その光が見えないから。

 

素直さと正直さは、あなたに贈られた宝石です。この石を、懐から取り出しなさい。そして、慈しんで、それを磨きなさい。人間は誤りを犯すものですし、すべての人間が発展途上にあり、日々進化しているのです。ですから朝令暮改でいいのです。自分を変えることを怖がるのではなく、喜びとするように。

 

失敗を怖がらずにチャレンジしなさい。問題は結果ではないのです。あなたという「魂」の進化なのです。ですから、ご自分の「魂」に、進化のチャンスを与えてあげなさい。今日の喜び、次の今日の喜び、次の次の今日の喜びを紡ぎなさい。優作さんのように、そして無法松のように。素直さという宝物を胸に、毎日を力強く生きるのです。