by Rainbow School
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後から来た者が先になる

今年の夏頃から、この『気づきの啓示板』へのアクセス数が急に増えました。と言っても、全部の数はやはり少ないのですけれど。宣伝っぽいことは何もしていないので(むしろ隠れるようにしているので)、影響力のあるどなたかが紹介してくださったのかも知れませんね。そのうちの何割かの方たちは、引き続きバックナンバーを熱心に読んで下さっているようです。ありがたいことです。

 

私はいつも、最後は排斥され、時に罵倒され、いじめられて孤立し、周囲の人たちの無理解というものに、子どもの頃から悲しい思いをして来ましたので、たとえ少人数でも、私の話に耳を傾けて下さったり、セミナーに来て下さったりする人がいることはとても嬉しいです。すべては、今あるための出来事であったと、その計らいに納得し、責任感に身が引き締まる思いでいます。

 

アクセス数のことは気にしないようにしています。ですが、投稿の際に、前日のアクセス数というものをイヤでも目にします。投稿スペースの横にそれが表示されるようになっていますので。それで時々、エッとびっくりすることがあるのです。これまでにも、そのようにして、階段を昇るように何段階かの突然の上昇というものがあり、読者が少しずつ増えていきました。

 

その突然の変化というのは、私にとっても同様で、ある日を境に、急に感覚的なものが変わるのです。その変化が、気持ち的にどんどん楽になって行けば良いのですが、ますます重苦しく、辛くなって来ています。以前は4、5時間で一篇が書けていたのですが、今は丸々2日、下手をすると3日を費やすこともあります。その間、集中力を切らさず、憑依状態を維持し続けるのは大変です。いつも逃げ出したい気持ちを半分抱きながら、なんとか凌いでいるというのが実情です。

 

なぜそんなに時間が掛かるのかと言いますと、一つには、一つ一つの言葉を選択するのに何回も試行錯誤を繰り返しているためです。自分は文章が下手なので、出来る限り破綻のないように、スッと読んで頂けるようにと、幾度も書き直しを行っています。ちょうど絵描きさんが、何度も筆を重ねるような感じでしょうか。「よし、これでいい」となるまでに、もの凄く時間が掛かってしまいます。

 

もう一つは、以前のようにはインスピレーションが入って来なくなったことです。左前頭部に感じていた、繋がっているという感覚が無くなってしまったのです。これには動揺しました。しかしこれまでにも、およそ半年スパンで次々と感覚的な変化が起きていたので、もしかしたら、入っては来ているのだけれど、その感覚が変わったというだけのことなのかも知れないと思い直し、勇気を鼓舞して続けました。

 

そのような時に、ホワイト・イーグルから、ずばり次のようなヒントを頂いたのです。「新しいことを知らせる時には、レコード板に新しい溝を刻まなければならないが、その者(霊媒)が既に理解している時には、われわれとしてはそちらの方向に針を押し出すだけでよい」と言うのです。そして、「霊媒を使えるようにするまでにはとても苦労する」とも語っていたのでした。

 

*レコード板を知らない世代には、この喩えは、聞いても解らないかもネ?

 

これには驚きました。私はずっと、自分がアクセスにあくせくしているのだと思っていました。ところが、そうじゃなかったのです。上の存在の方が苦労していたんですね。目を付けたこいつを、どうにか使えるようにしてやろうと、向こうが試行錯誤していたのです。それを知った時に、「なるほど」と深く納得し、指導に当たる存在の忍耐というものを知ったのでした。

 

とにかく、そんなこんなで、このワークを継続することが、自分にとって今は非常な難行苦行となっています。「苦行はダメだよ」と書きながら、自分では苦行にしちゃっているのですから情けないです。未熟です。ですが、そこを出来るだけ出さないように、今という時代における、自分の役割を信じて、爽やかな風と、暖かな光を、毎週お届けしたいと思っているのですが‥‥ネ。

 

さて、タイトルの「後から来た者が先になる」は、混んだエレベーターに乗り合わせた際によく見られる現象(先に乗り込んだ人は、後から来た人を入れてあげようと苦労しているのに、降りるに時は後から来た人の方がサッサと先に出て行く)‥‥を、別に言ってるわけじゃあないです。これは『マタイによる福音書』(19章30節)にある「多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」をもじったものです。

 

私としては、基本的には、旧約・新約の各『聖書』というものがどうしても好きにはなれません。歪みがあり過ぎるからです。ですが、このブログでも何度か『聖書』の中にある言葉を引用しています。それは、その言葉が、比較的よく知られているということと、中には真理を突いた言葉もあるからで、決して『聖書』に権威を置き、その内容を解説しようとしているわけではありません。念のため。

 

この『マタイによる福音書』(19-30)は、天国に行く(『虹の学校』流に言えばアセンションする)ことを目指して、以前からずーっと頑張ってきたような人の多くは、天国行きが後回しになってしまうのであり、そうではなくて、むしろぽっと出のような、new comer(新参者)の人の方が、先にアセンションすることになるだろうね、ということを言っているのです。

 

えーーーっ!と、ある意味で、これは衝撃的発言ですよね。これじゃまるで、本当に混雑時のエレベーターと同じことになってしまい、ひどく理不尽なように思えませんか? それで、『マタイによる福音書』では、それがどういう意味かということを解説するために、次の章に、喩えとしてぶどう園での日雇い仕事の話を持ち出して来るのです。

 

それはこんな話。夕方近くになっても仕事にありつけない人がいた。ぶどう園の主人は、その人を雇い入れ、作業終了後にみんなと同じように1デナリオンの報酬を支払ったというのです。これで、朝から働いていた人は怒っちゃった。「そんなの不公平じゃないか!」って。すると主人が言うのです。「私のお金を私がどうしようと、私の自由じゃないか。それをあなたは妬むのか」と。

 

この喩え話をした上で、もう一回「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(20-16)とわざわざ強調しているのです。

 

う〜ん、でもこの喩え話は、うまくいっているとは思えませんねぇ。一応、最初に「これは天国の喩え話だよ」と断ってはいるのですが、「仕事」と「報酬」ということを、(それは、誰もが解る身近な概念に置き換えて、ということだったのでしょうけれど)どうしても地上世界の論理で見てしまいますから、喩え話を聞くほど、却って訳が解らなくなっていってしまいます。

 

あなた、解ります?

 

ぶどう園というのは「天国」の喩えですから、そこの主人というのは「神」のことです。その「神」は、「みんなに等しく1デナリオンを与えることを、私は決めているんだよ」というわけです。この場合の「お金」とは、もちろん、愛とか救いとか祝福ということを言っています。ですから、そこに一切の不平等は無いのです。でもそれを不公平だと感じるのは、先に「仕事」に着いた者が、「報酬」を「労働」の対価だと考えていたからです。つまりは「契約」です。

 

早くから来た人は、「朝から夕方までちゃんと働くから、その分の報酬はきちんと頂きますからね」と思っている。そこへ、夕刻近くに来て、たった1時間くらいしか働かない人も同じ報酬を受け取ったものだから、「神」に文句を言ったわけですね。「よう、神さんよ。そりゃ、ねえだろう。俺は、朝からずっと働いていたのによ。後からちょこっと来たこいつにも同じ金額だなんて」。

 

もう、なぜ「多くの先の者が後になる」かがお解りでしょう。決して全員がそうなるとは言っていないのです。(多くの)と言っている。そうなりがちな傾向があるよ、というわけです。熱心な信仰者ほど、「自分はこれだけ信じているんだから、これほど熱心にやっているんだから、きっと神の祝福を貰える」と考える。そして、後から来る新参者には、先輩風を吹かす。

 

でも、ぶどう園の主人は、つまり「神」は、そんなの関係ないよ、というわけです。「私は、誰にも同じ報酬を(つまり祝福を)与えるんだよ」と。でも、その「受け取り方」に違いが出て来てしまうということです。同じ1デナリオンでも、「ああ、ありがたい」と思う者もいれば、「これほど信仰しているのに、これじゃ少ない」と思う者もいれば、「あの人に比べて、自分は損をしている」と思う者さえもいる。

 

もし、あなたが「神」の立場だったら、より熱心な人に、より古株の人に、より多くの報酬を与えますか? だとしたら、随分と狭量な神様ですねぇ。

 

でも、あなたなら、きっとそんなことはしないでしょう。どの人にも、分け隔てなく、慈愛の目を向けることでしょう。そして、人間社会を見て「おやおや、まあなんと、困ったものだねぇ」と、時々こぼすのではないでしょうか。さて、今度は地上にいるあなたです。そんな「神」の想いを汲むには、どう生きたらいいと、あなたなら考えますか? そう、その通り。いつも言っているそれですよ。

 

最近になって、「後から来た者が先になる」には、もう一つの意味があることに気づきました。これはインスピレーションで入って来ました。すべては波動です。波動の法則です。『虹の学校』だって、5年前よりは大きく成長しているのですよ。宇宙の真理への理解が、ずっと深まっているのです。ということは、後から来た人は、今のこの波動を受け取る用意が出来ている人、合っている人ということになります。

 

ですから、「後から来た者が先」になってしまうのです。先日、初期の頃からずっと残っていて下さるごくごく少数の方の前で(99パーセントの方は、早々に去って行かれます 。•́︿•̀。 )その話をしたら、「じゃあ、あたしたちはどうなんだ」と突っ込まれ、「それは‥‥、共に成長して来たということです」と、冷や汗をかく想いをしたんですけれどネ。あ、イヤ、それは本心ですよ。

 

結局、生きることが、すでに学校なんです。何も、必ず『虹の学校』に来て学ばなくちゃならない、な〜んてことは微塵もない。日々、体験する出来事、苦悩、辛さ、そういったものが激しければ激しいほど、あなたの「心」というものが耕やされ、鍛えられていっているわけです。そんな時に、どういうわけか『虹の学校』に縁が生じて、モヤモヤしていたことの理由が、まるでパッと灯りが点ったように解る。

 

それで、いいわけなんです。その一瞬でいい。そこに価値がある。

その後、また別の道に行ったっていいんです。

 

結局、時間というものは無いのです。

言い古されたことですけれど‥‥。

そして、相変わらず意味が解らないでしょうけれども‥‥。

 

「後から来た者が先になる」というのは、この世の時間軸概念の中で見た時に、そう見えることもある、というだけのこと。周囲に起こる出来事は、すべて、あなたにとってのグッドタイミングで動いているのです。でもその意味は、受け取る側のあなた自身のあり方と、解釈によって変わってしまうということ。グッドタイミングを、生かすも殺すもあなた次第。

 

ですから、捕球の仕方を、日頃からよく練習して起きなさい。

ふいに来た豪速球も、しっかりと受けとめられるように。

今この瞬間の気づきが、あなたを変えるんですからね!