by Rainbow School
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生きにくい時代を、生きぬくために

私は、すでに還暦を過ぎているのですが、今の時代に20代であったとしたら、果たして生きていけるだろうかとよく思うのです。昔が良かったとは言いません。28歳まで自分はフリーターでしたし、風呂なしトイレなしの掘っ建て小屋に住んでいて、食事はそうめんばっかり。自分の将来が見えずに、押し寄せる不安感と闘いながら、ただクラゲのように漂っていました。

 

未来が見えない不安感というものは、人間にとって、とりわけ若者にとって、いつの時代にあっても共通のものだと思います。でも自分が20代であった40年前と今とでは、明らかに違うものがある。それは、社会にレールが敷かれていたということ。自分の不安感は、そのレールに乗らないことを選択した際の、心の揺らぎと、生活苦でした。

 

でも今は違います。今は、レールなんてものはないんです。お若い方はご存知ないと思いますが、このレールという比喩的な言葉は、当時「社会のレールに乗る」といった言い方で、実際に使われていた言葉なんです。それほど、社会の基盤というものがしっかりしていた。いい大学を出て、いい企業に入れば、老後までの人生設計がバッチリ描けたのです。

 

「サラリーマンは〜、気楽なぁ稼業と来たもんだ、ホレ」で始まる植木等さんの『どんと節』。映画『気楽な稼業と来たもんだ』(大映)は、大学卒業を真近に控えた学生たち(クレージー・キャッツの面々)が、先生(ハナ肇さん)に卒業後の進路を問われて、全員が「サラリーマン!」と答えるところから始まります。それほど「サラリーマン」は花形だったのです。

 

ちなみに、この『どんと節』の作詞は、前東京都知事だった青島幸男さん。東宝でシリーズ化された「無責任シリーズ」で主役を務めた時の、植木等さんの役名は「たいら・ひとし」。早い話が「平均」です。それが当時の、まさに平均的な男の生きる道だったんです。ですから、社会の底に、いざとなれば「サラリーマンになる」というセーフティネットがあったんですよ。信じられます⁈

 

今はその底が抜けちゃっている。非正規雇用者が実に4割というのですから、正規の職を得るのが大変ですし、得たとしても終身雇用の保障はない。それでいて、国は若者に年金を納めろと言うんですが、年金財政は実質破綻状態。しかも国の借金1000兆円超で毎年増え続けているというのですから、いやはや、植木等さんの時代からすると、日本はもの凄い転落ぶりです。

 

ですから、今の「生きにくさ」を考えた時に、一つには「社会システム」のヒドさというものがあることは疑いありません。けれども、現行の「社会システム」というのは、決して放っておいてそうなったわけではなく、また一夜にして出来上がったわけでもなく、「そうしたい」と願った人間がいて、その結果として、今のような社会が実現して来たわけですね。

 

その頂点には、もちろん権力構造を握る者と、さらにそれを操る者がいる。ですが、それだけでは、彼らが望むような「社会システム」は実現しない。そのヒドい「社会システム」の実現に、賛同し、協力する大衆がいてこそ、はじめてそれが実現する。「そんな馬鹿な!」と思うかも知れませんが、一つの社会というものは、そこに属する人間たち全員の相互協力によって創られているのです。

 

先ずは、そこに気づかなくてはなりません。あのドイツ第三帝国でさえ、アドルフ・ヒトラーただ一人で実現できたわけではなく、ヒトラーに賛同し、協力する大衆がいたからこそ、あのような時代が出現したわけです。およそ、いつの時代でも、大衆は、自分の中に潜むエゴを刺戟し、誘導する指導者を大いに好み、そして自らを困難な状況に追い込むのです。

 

今の政治状況をご覧なさい。一体どこに「理想」がありますか? 赤組白組に分かれて、やっつけ合っているだけです。赤の利権を守るため、白の利権を守るためなら、互いになんだってやる。不正をしようが、嘘をつこうが、相手をやっつけてしまえば全て許される。船が沈みそうになれば、船長は真っ先に逃げ出し、日和見主義者たちは次の船長へとあっさりと寝返る。

 

ですからね、いつまでも旗を振ってちゃダメだってことなんです。「赤勝て、白勝て」と言い合ってる不毛から、いい加減に脱しなければならないのですよ、人間は。どうして自分の思いを他者に仮託するのですか? 誰かに預けちゃうんですか? どうして政治家に「期待」などするのですか? 「期待」するから裏切られるんじゃありませんか。

 

「生きにくさ」の根本には、結局、自ら「自由」を放棄しているということがあるのです。いいですか、誰かに「自由」を奪われているのではないんですよ、放棄しているんです、自分でね。「自由」を放棄させるような「社会システム」に、喜んで参加しているんです。自らの意志によって。そうとは気づかないまま。そうやって、ゾンビになっている。

 

「自由」とは「自らに由ること」だと、前に書きました。「魂」は「自由」を求めて止みません。なぜなら、それがあったればこそ、一つのものから分かれて飛び出して来たからです。つまり「自由」であることは、「魂」の本分なのです。あなたという「魂」は、自分を表現したくてしたくて堪らない。ですから、何らかの理由によって、それが制限された時には、自動的に「生きにくさ」を感じるのです。

 

BS1で『奇跡のレッスン』という番組をやっています。各分野で実績のある世界有数のコーチがやって来て、日本の子どもたちに一週間ほどの臨時レッスンを行うという趣向です。興味がある回を観ているのですが、これを観ていると、どのコーチにも共通している点があることに気づきます。それは、

 

 〇劼匹發燭舛法⊆分で考えるようにさせていること

 ⊆分で創造することは、楽しいことなんだと気づかせていること

 そして楽しく創造できた時に、自分という存在を自己肯定できるということ

 

の3つを体験させているんですね。これは素晴らしいことで、「魂」の「自由」というものの本質をついています。ですから、子どもも親も、レッスンを受けた後は、みんな顔が輝いている。本当に目からウロコといった感じです。ということは、日本の教育現場に、いかにそういうものが無いかということを、逆説的に物語っているとも言えます。

 

自分が子どもの頃もそうでした。登校拒否というレジスタンスまでは、私はしませんでしたが(あ、逃亡は何度かあり)、授業時間は牢獄そのもので、退屈極まりなし。だから授業の予習復習なんてしたことは一度もなく、毎日工作ばっかりに明け暮れていました。

 

こと教育に限らず、今の日本の社会というものは、ぜーん部、上にあげた逆をやっているじゃありませんか。

 

 ー分で考えるという習慣をつけさせない(マニュアルに従え)

 我慢して乗り越えなければ、先はないぞと脅す

 人と比べて、劣っている自分というものに気づいては自己否定する

 

これらは全部「魂」が喜ばないことです。「魂」の本来のあり方や、希求とは真逆のあり方です。ですから「魂」は、自動的に拒否感のシグナルを発し、それが「心」に達した時には「生きにくさ」として感じ、身体細胞の意識とぶつかった時には、自律神経をかき乱し、パニックになったり鬱になったり、体が動かなくなったりするのです。

 

そこで、生きにくい時代を生きぬくためには、先ずこの「真理」を知った上で、「社会システム」に、自分を合わせる必要などない、と気づくことです。私の若い頃には、セーフティネットからこぼれ落ちるという恐怖がありました。でも今は、セーフティネットなどそもそもないのですから、腐った「社会システム」に適合しようとして、自分を痛めつける必要など、いささかもない!

 

「仕事ってのは辛いものなんだ」

「どこへ行ったところでみんな一緒」

「3年は少なくとも我慢しなければ社会人とは言えないね」

「この程度に耐えられなくてどうする?」

「働かなくちゃ喰っていけないんだぞ」

「ボーッとして休んでいる暇なんてないぞ」

「働け、働け!」

 

こんな圧力に屈しちゃダメだ。こんなものは全部ウソです。「魂」に正直に生きることをしなかった先輩たちが、自分への言い訳用に残した言葉に過ぎない。それは、後悔の念の自己正当化なんです。

 

このような「言い訳」をし続けた人たちは、死ぬ間際になってからやっと気づく。なんで自分は、あの時チャレンジしなかったんだろう。なんでもっと家族といる時間を大切にしなかったんだろう。なんで自由を謳歌し、もっと人生を楽しまなかったんだろう。

 

就社だけが仕事じゃないよ。「あなたのしたいことは?」「正社員になることです」って、違うでしょう? それは単に就業形態だ。私が訊いているのは、あなたの「魂」が望むこと。サラリーマンが気楽な稼業だった時代はもうとっくに終わっている。ブラックばかりの、奴隷労働しかない就業形態に、なんでいつまでもしがみつこうとしているのかな?

 

どうして農業に行かないの? どうして漁師にならないの? どうして職人を目指さないの? サラリーマンというセーフティネットは確かに失くなってしまったけれど、私の若い頃にはなかった良さだって逆にたくさんあるじゃないか。食べ物も家電品も家も有り余っているし、有用な情報はすぐに取れる。もっと智恵を働かせるんだ。

 

だいたい、パニックになったり、鬱になったり、自殺しようと思い詰めたりする人は(私もそうだったけど)、みんな真面目な人なのです。この真面目さ、責任感の強さというものを、会社のためにとか、同僚のためにとか、家族のためにではなく、自分のために、自分の「魂」が喜ぶことをするために、用いてもらいたいのです。そしてそれは、エゴではありません。

 

あなたが輝かずして、どうして周囲の人を幸福にできるでしょうか?

あなたが楽しそうに生きなくて、どうして周囲の人たちが喜ぶでしょうか?

 

真面目な人、責任感の強い人は、しばしば誤解をしています。周囲の人たちは、あなたをそれほど気にしていません。あなたの過重な責任感に、あなたが思うほどは頼っていません。みんなが、自分のことで手一杯なのです。そして、自分のことで手一杯の人を、責めることはできません。「魂」の学習とは、つまるところ、そういうことだからです。

 

あなたは、他の「魂」について責任を負うことは出来ません。あなたが負えるもの、責任を持てるものは、あなた自身だけなのです。ならば、責任をお持ちなさい。自分の「魂」を見つめなさい。「魂」の声に耳を澄ましなさい。そして、自分の「魂」が喜ぶことだけをしなさい。そういう自己に自信を持ちなさい。そして「魂」が拒絶するものについては、堂々と「私はイヤだ」と言いなさい。

 

社会システムを、あなた一人の力で変えることは困難です。ですから、自分が全くの無力のように思えます。しかし、あなたは選ぶことが出来るのです。灯りのない夜は怖いでしょうか? でも星空を眺めて、鈴虫の鳴き声に耳を澄ますことだって出来るんです。要は、あなたが何を選ぶかです。

 

たとえ同じものを見ても、人によって解釈はみな違います。その時に、どう見るかによって、その時の、あなたのリアリティというものが決定する。つまり、あなたの現実は、日々あなたが創っている。ですから、たとえ腐った「社会システム」の中に生きていても、あなたの物理的範囲内で、その現実を、あなたの「理想」に変えることは出来るのです。

 

そのことを学びなさい。そして日々の暮らしで実践して、こころ楽しく生きなさい。社会が提示する成功イメージなどは無視してしまいなさい。そうすれば解る。幸福というのは、「魂」が喜ぶ瞬間、そのひと時なのだということが。それ以外には、何もいらないということが。