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エゴと人間性と霊性

地球人類は、いまだ小学生レベルにも達していない。これは地球人の霊性の発達度合いに関して、高次元の存在からしばしば指摘されている言葉です。あなたも、何かの本をお読みになって目にしたことがあるかも知れません。一体これはどういう意味なのでしょう? どうして地球人類は、小学生レベルにも達していないのでしょうか?

 

このことを考えるに当たっては、先ず人間の「意識」というもののあり方に着目しなければなりません。私たちは普段、自分の「意識」というものについて深く考えたことが殆どありません。自分の内側に湧き上がる、思考や感情や感覚やインスピレーションなどを、すべて「心」という、いわばオモチャ入れのBOXの中に放り込んで、それで済ましているのです。

 

これが、自分の「心」にどうにも治りがつけられない、ワケの分からないものにしてしまっている大きな原因なのです。自分が今ほしいオモチャを見つけようと思ったら、BOXの中を仕切って整理しておいた方が取り出しやすいでしょう? 全部を一緒くたにしていたら、表面上は整理されているように見えても、そのつど、箱の中を引っ掻き回さなくてはならなくなります。

 

私たちが普段「心」と呼んでいるものは、人間が持つ「意識」の中では、かなり限定的なものです。実際には、人間の「意識」というものはもっとずっと幅が広い。そのことは、「意識」の多層構造として前に紹介しました。多層構造の分類法と名称については各種がありますが、今回は「表層意識」「潜在意識」「深層意識」の三層で考えてみることにしましょう。

 

「表層意識」というのは、思考や感情や感覚などの、自分が普段意識している「意識」です。これがいわゆる「心」の大部分を形成しています。

 

しかしその奥に、普段は隠れているのですが、深く仕舞い込まれているもう一つの「意識」が眠っています。今は忘れてしまった幼少時の体験記憶や、過去世から引き摺っている恐怖、歓喜の感情、特殊な感覚などです。

 

これが「潜在意識」と呼ばれるものです。いわば塗装の際の下地のようなもので、表面的な意識はされていないのですが、下地として、知らず知らずのうちに「表層意識」に多大な影響を与えているのです。ですから広い意味では、「心」というものは「潜在意識」の支配下にあると言えます。五感が外部刺激を知覚した際に、その情報の解釈というものを、「潜在意識」が「表層意識」に与えているのです。

 

ところが、「深層意識」というものは、前の二つとはちょっと次元が違うのです。「深層意識」は「魂」レベルにある意識であって、「脳」とは関係がありません。肉体の有無に関係なく、あなたという「個」に備わっている、永続性を持った「意識」なのです。ですが、一般の人々にそのような知識はなく、想像もしていませんので、「潜在意識」よりもさらに無視される傾向にあります。

 

けれども、あなたの本質は「魂」にあると、これまで繰り返し言ってきたことを思い起こしていただければ、この次元における「意識」の重みもご解りいただけるのではないでしょうか? この「意識」は、常時「宇宙意識」と繋がっている意識であり、自己の深層に迫ることによって、あなたは自分が何者であるかということはもちろん、宇宙哲学の一切までをも知ることが出来るのです。

 

「地球人類は、いまだ小学生レベルにも達していない」ということの意味は、この「深層意識」の存在に、人々が全く注意を向けていないだけでなく、「潜在意識」からのネガティブな支配を、上手にコントロールする術すらも身につけていない、という段階にあるからなのです。しかし、いま地球に迫りつつある大転換は、人類の学習を一挙に飛躍させる大チャンスともなっているのです。

 

私たちの「表層意識」は、「エゴ(ego:自我)」を中心に動いています。この「エゴ」というのは、地上で肉体を持って生活する際に、「生き延びる」ということの必要性から、派生的に〈人間に〉誕生した性質です。ここで注目すべきは、人間以外の動物は「エゴ」を持っていないということです。「弱肉強食」と言われる肉食獣の世界ですら、「エゴ」に従って生きているわけではないのです。

 

自然界には食物連鎖という仕組みがありますが、食物連鎖の上位に位置する動物は、下位に位置する動物を必要以上に食べ尽くしたりはしません。そんなことをしたら、種(しゅ)を継続させていけなくなることを知っているからです。羊は弱いものの象徴ですが、旺盛な繁殖力を持つことで肉食獣に対抗しています。逆にトラやライオンや熊は、力は強くても繁殖力が弱く、個体数が増えません。

 

このように、自然の仕組みはすべて循環型で出来ており、循環の中にうまく調整されているのです。それは彼らが、「生命」というものの意味(つながって行くもの)を、本質的に理解しているということを示しています。ところが人間だけが理解していない。人間は、故意に、不必要な殺生までしてしまう。時には人間までをも殺す。人間は、そこに「エゴ(自我)」をプラスしてしまったのです。

 

「自然界はバランスのもとに自動調整される」ということを、今の人間はまるで信じていないのです。「この世に不足は何もない」「すべてが満たされている」ということを、ある時点から、信じることを止めたのです。その代わりに「全員には行き渡らない」「だから早い者勝ちだ」「そして、他人より多く溜めるんだ」ということを信じたのです。

 

ここから、独善、身内贔屓、他者排斥、攻撃、収奪欲、支配欲、功名心といったものが生じたのです。みなさん、そこで考えてみてください。今の世の中の根底に流れている価値観とは、どういったものでしょうか? 全部、いま上げたものです。結局、「エゴ」が溢れている社会では、「エゴ」に長けた人がもてはやされ、組織の上に君臨できるようになっているのです。これが今の地球人類です。

 

ところが、それを前面に出し続けておりますと、当然ながら社会に著しいアンバランスが生じます。これを、人類は未だにコントロール出来ていません。

 

ある人は、だから倫理や道徳を教える「徳育」というものが必要なのだと力説します。しかし「徳育」の中身は、(所詮は人間であるところの)施政者が考えるのですから、「エゴ」の上に、施政者の(それが正しいと信じる)思惑で蓋を被せるだけのことです。すると、今度は別の問題が生じて来ます。「徳育」が示す「観念」に、人々が縛られてしまうのです。

 

「徳育」と言うと、一見よいもののような感じがします。けれども、それに類するものは過去にもさんざん行われて来たのであって、社会体制が変わると、価値観が180度ひっくり返るということもよく起こりました。いい例が、戦後の教科書の墨塗りです。同じ教師が、戦前に自分が教えていたことを全否定した。生徒にしてみたら、正に青天の霹靂だったことでしょう。

 

人間が持つ「エゴ」を、いくら「教育」で抑えようと思っても無理なのです。社会が、政治が、金融が、企業が、マスコミが、教師が、親が、みんな「エゴ」に縛られ、「エゴ」の下に動き、「エゴ」をけしかけている今の世の中では、「徳育」など単にジョークでしかない。政治家やマスコミや大人が「いじめ」が大好きなのに、子どもたちに「いじめは止めようね」と言って、そんなもの効くものですか。

 

ですからね、視点をジャンプさせなければならないのですよ。先ずは自分の「エゴ」を認めること。「エゴ」のプールに浸りきっているから、自分の「エゴ」にみんな気づけないのです。いったん「エゴ」のプールから出て、自分を冷静に見つめ直すこと。「エゴ」への埋没状態から抜け出すのです。プールから上がるのです。タオルで濡れた体を拭くんです。そうやって、ようやく反省が起きる。

 

ことここに至って、人類はようやく小学校入学ていどには成長できるでしょう。そして次の段階へと進む。それが次の段階、「人間性(humanity)」の学習です。独善、身内贔屓、他者排斥、攻撃、収奪欲、支配欲、功名心といったものから脱して、代わりに、同情、共感、いたわり、慈しみ、思いやり、手助け、シェア精神、博愛、といった感情や思考や感覚を体験して行くのです。

 

あなた方が、この世に生まれてきた第一の目的は、これらの体験を積むことにあります。それまで野放し状態にしてきた「エゴ」からジャンプして、一段上の「人間性」を身につけて行くのです。この時、何より大切なことは素直さ。人は多くの観念体系に縛られて生きていますが、これらを持たない人ほど豊かな体験ができるのです。「信念を持たないように」と言っているのはそのためです。

 

自分に制限を設ける人は、それだけ体験できる感情や感覚の機会を遠ざけます。また、体験できる「意識」の広がりを減らした分、凝り固まった「信念」をますます強化させて行くので、これがカルマとなって、ちっとも成長が得られないまま、何度も輪廻転生を繰り返すことになるのです。イエスが「幼子のように」と言ったのはこのためであり、子どものような好奇心に返れという意味なのです。

 

さて、「人間性」を向上させることは、人がこの世に生まれて来たことの第一の目的ではあるのですが、「魂」の成長の観点からすれば、これでもまだ充分ではありません。豊かな「人間性」を持つということは、なるほど素晴らしいことです。ですが、それだけでは人間が抱えている本質的な矛盾に、答えを見いだすことは出来ません。次の「霊性(spirituality)」の段階にまで進まなくてはならないのです。

 

なぜかと言いますと、「人間性」というものは、「エゴ」に対する反省から生じたもので、いまだ肉(脳)に留まった感覚に過ぎないからです。この段階では、人はまだ「善悪二元対立」の中に解決策を見出そうとします。

 

そして、悪を憎み自分を善的なものであろうとする。それは「エゴ」に比べれば、確かに一歩進んだ状態ではあるのですが、二元対立から生じる「葛藤」から抜け出ることまではできません。そこには、根本的な錯覚があるのです。

 

先日、ルワンダの虐殺事件の、その後に関するドキュメンタリーを観ました。ルワンダでは1994年にフツ族とツチ族との間で内戦が起き、推定では80万人ほどが亡くなったと言われています。このとき攻撃に使われた武器が、ふだん農耕用に使用していたナタで、これで人を次々と叩き殺したのです。しかもこの信じがたい規模の虐殺は、隣人間で起きた。

 

この事件は、人間が持つ「観念」と、それが集合体となった際のエネルギーが、間違った方向に使われた場合、すさまじい破壊力になるということの一つの実例です。お隣さんをナタで殺すなんてことは、人としてあるまじき残虐さだとみんな分かっている。でも「そうすることが正義」とアジる人がいて、同調圧力が一気に高まった時には、このような信じがたいことが実際に起きるのです。

 

その虐殺を行った加害者が、20年の刑期を終えて出所し、村に続々と戻って来ている。その結果、加害者と被害者遺族が、再びお隣さん同士として生活していかなければならないのです。どちらも大変な苦しみを背負っています。一体なぜそんなことになってしまったのか。ここで、「エゴ」と「人間性」との間に、もの凄い葛藤が生じることになります。(それが成長の機会なのですけれど‥‥)

 

そもそも、人間に「エゴ(自我)」がどうして生じたかと言いますと、「魂」の独立というところに原因があるのです。これは、例のアダムとイブの楽園追放という物語の中に、象徴的に表されています。アダムとイブは蛇にそそのかされて、禁断の木の実(それは「智恵」の果実なのですが)を食べたことによって、楽園から追放されてしまいます。

 

この時に、木の実を食べたアダムとイブは、互いが裸であることに気づいて、慌ててイチジクの葉っぱで陰部を隠しました。これが「自我(ego)」の芽生えということを表しています。それまでは、裸であるということをべつだん意識していなかったわけですね。さて、この時の「智恵」とは何だったのでしょうか? それは「分ける」ということだったのです。

 

このブログでは、「三角形の法則」として何度か紹介していますが、もともと一つだったものを、△の左右の辺のように二つに分けた。ご承知のように、イブはアダムの肋骨から創られました。つまり元々一つだったものが、「智恵」を獲得した途端、「分離」という概念が生じ、男と女という「二元性」を意識するようになったのです。

 

この「二元性」は、プラスとマイナス、上と下、大と小、東と西、S極とN極、昼と夜、白と黒、左スピンと右スピン、オスとメスといったように、万物すべてに見ることができ、その一環として、「善と悪」という概念も生じたのです。このようにして、末広がりに万物が生じて行った。そこで、末広がりの「八」を「刀」で切るという文字が「分」になっているのです。

 

さて、アダムとイブの物語では、「智恵」の木の実を食べたから「善悪」の概念が生じたということになっています。がしかし「神」は全てですので、アダムとイブも「神」の内側ですし、蛇も「神」の一部です。ですから、蛇がそそのかしたのではなく、「神」が自ら希望して自己の一部を宇宙に解き放ったのです。その時に、副産物として「善と悪」という果実が実った。人に、自由意志が与えられた結果として。これが真相です。

 

つまり、一つだった「宇宙意識」から、個々の「意識」=「魂」が分離した瞬間、その「魂」に自由意志が与えられたのです。このことは、後に「魂」に決定的な二律背反の感情をもたらしました。それは、分離状態を謳歌して、自由意志をとことん行使したいという欲求と、元の一つの状態に帰りたい、つながりを回復して安心したいという欲求です。

 

この「分離」と「合一」という二つの相反する欲求は、どんな人の中にもあります。その中で、「エゴ」の強い人というのは、「分離」意識が非常に強くて、万物は一つという「合一」の感覚を、殆ど忘れてしまった「魂」なのです。言うなれば、地上に降りて来てからの成長が遅れている。しかしそのような「魂」であっても、いつかは成長を果たして帰るのですから、無闇に排斥したり攻撃してはなりません。

 

それよりも、人類全体としての大問題は、実は「魂」としては成長の遅れている「分離」主義者が繰り出す扇動に、(ルワンダの例を見ても解るように)大衆がいとも簡単に引っ張られてしまうということです。どんな人間の中にも「分離」と「合一」という相反する欲求が同居しています。けれども、「エゴ」に長けた「分離」主義者は、巧みに敵を設定し、人々に恐怖心を植え付けては「分離」意識の高揚の中へと大衆を引き込むのです。

 

なぜだか解りますか? そうすれば、自分がそのピラミッド構造の頂点に立てるからです。自分の「エゴ」を満足させられるからです。

 

兵隊がいなければ、戦争は出来ません。甘言に引っ掛かる人が誰もいなければ、詐欺師は成り立ちません。こうした構造は、みんな両者の協力によって成り立っているのです。このカラクリに、いまだに気づけないということが、地球人類の大きな課題です。つまり、地球人類は、与えられた「自由意志」の、よき使い方を知らない。その結果として、人類は、何度も何度も同じ過ちを繰り返しているのです。

 

「戦争」が悲劇しかもたらさないということは、みんな知っています。「環境破壊」が人類の生存そのものを脅かすことも、みんな知っています。「お金」の魔力が時に人を堕落させることも、みんな知っています。それでも、「戦争だ」「テロだ」「原発推進だ」「経済成長だ」「金融資産だ」と言う指導層の声に刺激されて、人々は導かれて行くのです。自分の中に眠る「エゴ」が、同調して喜ぶから。

 

ここで明確に述べておきますが、人は、あきらかに誤りだと認識したものを、何度も何度も経験する必要はありません。体験は重要ですが、宇宙に残るものは結局は「思念」だということを前に申し上げました。ですから、たとえば原爆というものの悲惨さをとことん認識すれば、その「思念」は、体験したことと同じものとなり、その痛みを思えば、再び「核戦争」をする必要など全くないのです。

 

これは全てのことについて言え、環境破壊も、原発事故も、テクノロジーの暴走も、貧困も、金融システムの崩壊も、一度経験すれば、それでもう充分なのです。それなのに、人類が何度も何度も同じ誤ちを重ねるのは、人類全体として見た場合の学習効果が、ほとんど見られないということです。いまだに、幼稚園レベルを行ったり来たりしている情けない状態だということです。

 

その根本原因はどこにあるのでしょうか? それは、地球人類の大多数が「因の世界」を知らないということ、これに尽きるのです。結果を見て、「結果の世界」を論じているに過ぎないということ。ですから、その奥にある「真理」が理解できずに何度も馬鹿げた騒動を繰り返しているのです。そしてその度に、苦悩し、涙を流し、「もう二度とゴメンだ」と固く誓い、しばらくすると、その誓いを忘れる。

 

「因の世界」の「真理」とは実にシンプルなものです。全部は一つ、一つが全部ということ。輪廻の背後にあるものは、「分離」と「合一」の繰り返しであって、私たちには、その間において、創造的体験を積むために「自由意志」が与えられました。ですから私たちとしては、その与えられた「自由意志」というものを、「真理」に沿って行使し、生きるだけなのです。

 

「自由」とは何か? それは束縛から逃れることではありません。「自らに由る」という意志を示すこと。それが真の「自由」。つまり「ありのまま」です。あなたの「ありのまま」とは何でしょうか? あなたの本質であるところの「魂」が、万物とつながっているという感覚を取り戻すことです。あなたが先ず、それを取り戻してください。そうすれば、人類は変わります。