by Rainbow School
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神はかくも雄弁に語る

このブログを書き始めたころは、まだ「神(God)」という言葉を使うことに抵抗があって、かなり慎重になっていました。というのも、人によって「神」という言葉から受けるイメージや定義は様々ですし、各宗教・宗派がこの言葉に込めて教えて来た手垢がたっぷりと付いているからです。そこで、最初のころは「それ(It)」と言うように心がけていました。

 

実際、「それ」には名前というものが無いからです。なんでもかんでも名前を付けずにはいられないというのは人間の性(サガ)で、人間以外の動物は、物や概念にいちいち名前を付けたりはしません。自分が産んだ子どもに「ミーちゃん、モモちゃん」なんて名前を付ける親猫は、たとえ『世界ネコ歩き』をしたって見つからない。人間だけが、つねに名前を欲し、名前を付けているのです。

 

それは人間が、思考やコミュニケーションというものの大半を「言葉」を主体としたものに頼るようになってしまったからです。このことは、他の動物には出来ない複雑な思考や想像力というものを発達させていった一方で、本来誰にでも備わっていたテレパシー能力、直観力といったものを著しく後退させてしまうことにもなりました。

 

その意味で、現代人の「意識」は酷くバランスを欠いた状態にあり、ますますこの傾向が強まっているというのが実情です。本当は、顕在意識(心)と深層意識(魂)を融合させなければならないんですけれど‥‥。まあ「あの世」へ逝ってしまえば、みんなテレパシーで会話できるということが解るわけですが、できれば「この世」にいるうちに訓練して、思い出していただきたいんですよね。

 

でももう何年も書いてきて、「それ」とは宇宙全体を指すということ、また宇宙を創った「意識」でもあるということ、さらには宇宙を創った「意識(創造主)」と創られた宇宙(被創造物)とは同一であること、を充分ご理解いただけたと思い、最近ではシンプルに「神」という言葉を使うようになっています。そこには、使い古された「神」概念を改めたいという思いも、ちょこっとあったりします。

 

さて、前回『沈黙』という映画のことを少し書きましたが、この「沈黙する神」というテーマは、「一神教」にとっては大問題であったのです。

 

*三大一神教:ユダヤ教、キリスト教、イスラム教。これらの宗教が奉じている「神」は基本的には同一で、解釈がちょっとずつ違うのです。ですから、これら宗教間の対立というのは、いわば「神(父)」の取り合いをしている兄弟喧嘩、近親憎悪のようなものなのです。

 

あなたも、今までにこんなふうに思ったりしたことはありませんか? 自分がもの凄く困っている時に、どうして神様は助けてくれないんだろう。こんなにも祈っているのに、どうして優しい声を掛けてくれないんだろう。ちゃんと姿を現して自分を救ってはくださらないんだろう。

 

古代の人々もそう考えました。そして神が「沈黙」しているのは、自分の祈りが足りないせいだ、帰依への決意が充分ではないからだ、と考えたのです。そこで、絶対的な帰依と熱心な信仰をする代わりに、自分を天国に救い上げてくれることの保証を「神」に求めたのです。これが「一神教」同様、日本人には馴染みのない「契約」という概念なのです。

 

よく知られたキリスト教の『新約聖書』、ユダヤ教の『旧約聖書』というのは、これら「神」との新旧二つの「契約」についての内容を語った書物なのです。(『旧約聖書』というのはキリスト教徒から見た場合の、ユダヤ教教典に対する蔑称で、ユダヤ教徒はもちろん「旧」は付けません。これは仏教でも、新興の大乗仏教がそれまでの仏教を小乗仏教と呼んだのと同じです。)

 

西洋がよく「契約社会」と言われる背景には、思考の根本にこうした「神」との「契約」の概念がデンと横たわっているからなのです。人間同士が取り決めをする政治や法律というものは、その下部(Under The God)にあるという考え方になっている。そして、そのさらに下に自然界がある。ですから自然界というものは、人間が好きなようにコントロールしてよい(産業革命以降は特に)という考えがあるのです。

 

エンヤ(Enya)さんというアイルランドの女性歌手がおられますよね。最初に「Orinoco Flow」を聴いた時には、不思議な感覚の歌だなぁと思ったのですが、なにか妙にピタっと来たんですね。あとになって調べてみて、ケルト民族というものが、ローマ帝国の支配に追われて今のアイルランド地方に生き延びた民族だということが判った。

 

このケルト民族というのは元々は太陽崇拝で、ということは天照大神を崇拝して来た古代の日本人と同じ。そして自然にはすべて神性が宿っているという考え方なんですね。ですから日本人の心にピタッと響くものがある。5世紀ころになってカトリック教会がこの地を制圧すると、それ以後はキリスト教と融合してしまいます。そのためアイルランドの十字架は、太陽神の◯とキリスト教の+が合体したケルト十字というものになっています。

 

この自然崇拝や太陽崇拝(自然は太陽からエネルギーを得ているから)の感覚は、「アニミズム(animism)」といって、古代信仰の典型的なものですが、世界各地で見受けられます。ところが「一神教」は、これらを本当の「神」を知らない原始的な信仰であると見なし、領土を乗っ取っては自分たちが信じる「一神教」に改宗させて行ったわけです。このようにして、今日に見る宗教世界が出来たのです。

 

ここで今日、考えていただきたいのは、自然崇拝というものが本当に低級で原始的な宗教なのか、ということです。

 

一神教の「神は一つ」という考え方は、別段、間違ってはいません。創造主は一つのはずですからね。ところが、その「一つの神」を、三大一神教はみんな「我が神」にアレンジしてしまったのです。これは、大いなる矛盾です。「我が神」にした途端、普遍性が無くなってしまいますから。あっちにもこっちにも「我が神」ができ、「神は一つ」では無くなる。こうして、「一神教」同士が争うようになってしまったのです。さて改めて、

 

自然とは何でしょうか? 万物とは何でしょうか?

 

それは、この世に形として現れたもの。つまりは「結果」の世界です。あなたが今晩の夕食を作る時、作る前には必ずアイデアというものがあるでしょう。アイデアなしで、突如テーブルの上に夕食が出現したりはしません。実現化に先立っては、必ず「こうしよう」という意思がある。じゃあ、今あなたが居る部屋の中にあるものを見回してみてください。果たして、アイデアなしに創られたものが一つでもあるでしょうか? ないはずです。

 

ではあなた自身はどうでしょう? あなたは、誰のどのような「意思」によって創られたのでしょうか? もちろん父母の意思はありました。でも「自己意識的に活動するあなた」を、父母は前もって計画することは出来ません。出来ないのに、時々そうしようと想う親がいるので、そこで親子問題が起きるのです。では「自己意識的に活動するあなた」を創ったのは誰なのか? どこにそのアイデアがあったのでしょうか?

 

唯脳論者は、脳の発達に従って、あなたという自我を持つ意識的存在がしだいに形成されていったのだと主張します。生殖によって生じた物体が、その後に「意識」を持つようになったと言うのです。これこそトンデモ理論です。だとしたら、あなたという個性が生じた理由はなんでしょうか?

 

全ての理由を遺伝子に帰することは可能なのでしょうか? もし父母の遺伝子の合体が、あなたという個性を創ったのだとしたら、そもそもあなたという存在、およびそういう意識体が存在する理由は、どこにあるのでしょうか? あなたという意識体は、単なる脳の操り人形だとでも言うのでしょうか? それを認めたとして、ではあなたを操る脳、その脳を動かしているものは、何なのでしょうか?

 

まったく馬鹿げた理屈です。ところがこの馬鹿げた理屈が堂々と世間一般でまかり通り、脳科学者と称する人々がテレビなどで自説をしきりと展開しています。断じて言っておきますが、意識を先にせずに生まれるものは、宇宙になに一つありません。意識が体を創るのであり、体が意識を生み出すのではないのです。あなたという身体は、あなたの意識が創ったのであり、今もあなたを創造し続けています。

 

では、自然はどうして出来たのでしょうか? 宇宙はどうして出来たのでしょうか? 全く同様です。それに先立って、そういうものを生み出したいという意識があったからです。これが「宇宙意識(Cosmic Consciousness)」です。「宇宙意識」は、「神」なるものが示す多様な性質の一つで、古くには「全智」と呼ばれていました。

 

唯物論の宇宙物理学者は、138億年前のある日、突然、無からビッグバンという大爆発によって今の宇宙が誕生したのだと主張します。では「無」とは何なのでしょうか? どうして「無」から、とてつもないエナルギー量の「有」が一気に出現したのしょうか? 「ある日」と言いますが、「無」には時間も空間もないのですから、どうやって突如「ある日」が誕生したのしょうか?

 

全く説明のつかない矛盾だらけです。その矛盾を、ひとこと「無」という言葉に全部おっかぶせている。「犯人はお前だ!」と。「無」って便利な言葉だなぁ。誰もそれを見たことがないのに。「無」が聞いたら、きっと「ムッ」とすると思うんですけれど。

 

そうじゃないんですよ。もの凄く簡単なこと。夕食のプランを巡らすのと同じように、今見ている宇宙や自然という「結果の世界」を創る前には、ちゃんとプランがあったということなんです。これが「因の世界」です。「意識」の先行なしに、宇宙に物や出来事が生じることは絶対にありません。

 

さあ、ここまで聞いて、ピン!と来た方もおられることでしょう。「神」は果たして「沈黙」しているのでしょうか? いえいえ、とんでもない。「宇宙」こそが、そして「自然」こそが、結果の世界における「神」の表現物なのだということです。「神」は決して、隠れてなどいない。全身全霊をもって表現しているのです。

 

私たちが見るもの、触れるもの、聴くもの全てが「神」の表現だということ。「神」はいつでも雄弁に物語っているとのです。もちろん、あなたとて例外ではありません。あなたも「神」の表現の一部分を担っているということなのです。いいですか、あなたは「神」の落とし子なのですよ。だからこそ、あなたは自分が何者であるかを知るために、「表現」せずにはいられないのです。

 

ですから、勇気をもって、日々表現をしなさい。自分の喜びを他者の喜びに変えなさい。他者の喜びを自分の喜びとして掴みなさい。才能は使わなければ何の価値もないのですよ。自分なんて、私なんて‥‥。そんなことはない。梅は桜になろうとはしません。桜は梅になろうとはしません。梅は梅の花を咲かせようとして生き、桜は桜の花を咲かせようとして生きているだけです。

 

前に私はこう言いましたね。そのことが「宇宙の法則」に適っているかどうかは、「自然」に照らして見ればいいと。実に「自然」こそは、「神」の完全なる表現なのであり、ゆえに「宇宙の法則」を余すところなく映しているのです。ひまわりの花をじっくり観察したことがありますか? ひまわりの種の螺旋状の配列は、フィボナッチ数列に完全に従っています。なぜでしょう? 数式、音楽、芸術は、いずれも「神」の言葉なのです。

 

なのに、どうして人間は、これまでずっと「神」が「沈黙」し続けていると思って来たのでしょうか? それは、人間が「因の世界」を見ようとして来なかったからです。「結果の世界」しか見て来なかったからです。今ある「結果」の答えを、同じ「結果の世界」の中に見つけようとあがいて来たからです。「宇宙」創造の理由を、物質世界の中にいくら探しても、見つからないのと同じように。

 

今日から、周囲の物事の、また身の上に起きた出来事の、奥にあるものをいつも意識して見るようにしてご覧なさい。そうすれば、「因の世界」が見えるようになりますから。路傍に咲く花や、街路樹の命の輝きが見えるようになりますから。一見、不愉快に思える出来事の裏に示された、実は愛に溢れたあなたへのメッセージが、理解できるようになりますから。

 

「神」は「沈黙」などしていません。これほど雄弁に語りかけてくれているものはないのに。人間の方がいつもそっぽを向いているのです。差し出された手を振り払っているのです。ああ、なんてもったいないことでしょう。