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体罰の是非(1)

巨人軍のエースとして一時代を築き、大活躍された元プロ野球選手の桑田真澄さん。この方は、生まれながらにして高い徳を持った人だと、私は確信します。

 

合理性を重んじる独自の野球理論もさることながら、何より野球を愛し、野球を単なるスポーツを超えた人間形成の場として捉えているところが素晴らしい。指導者として、一段も二段も高いところに居て、野球界全体の向上と、野球に携わる人すべての幸福を考えている。いずれは、野球界でそれなりの役職を要請されることになるでしょう。

 

その桑田真澄さんが「体罰」について語っています。しかし大多数の人は、彼の深い考えを理解できないことでしょう。桑田さんの考えでは、もちろん「体罰」は100パーセントNOです。それは、コーチング技術の合理性から言っても意味がないというだけではなく、たぶん、もっと根源的な問題を彼は問うていると私は思います。

 

桑田さんは、この問題に関する論文を書くために、プロ野球選手300人に独自のアンケートをしました。すると、なんと83パーセントの人が「体罰」を容認するという結果が出たのです。指導のためには、時には「体罰」も許されるし有効だという考えが、プロ野球界に広く浸透しているのです。

 

これは野球に限らず、あらゆるスポーツがそのようです。現指導者のほとんどは、選手時代に「体罰」を受けた経験があり、「自分はそれを乗り越えて来て今があるわけで、「体罰」も時に有効である」と考えているようです。その結果、次の世代に、また「体罰」をともなった指導法が引き継がれて行っているのです。

 

さて、次の行為は「体罰」に当たるでしょうか? あなたはどう考えますか?

・集合時間に遅れたので、罰としてグランド3周を命じた。

・やる気のない態度に、言葉で、徹底的に人格をなじった。

・不甲斐ない成績に、愛情のこもったビンタをくらわせた。

 

おそらく、「体罰」の「体」という文字の意味する範囲について、悩まれることでしょう。桑田さんは、これらは全部「体罰」だと言います。私もまったく同感です。同感ですが、理由は、もしかしたら違っているかも知れません(たぶん同じだと思う)。私の考えでは、そもそも「罰」という考え自体が NG です。

 

なぜ世間では、「体罰」の是非が、しばしば問題になるのでしょうか? そこには「罰」は容認するけれども、「体罰」は容認できるのか、という線引きが、暗黙のうちに敷かれているように思えます。ですから、わざわざ「体」の字をくっつけて「体罰」と呼んでいるのです。

 

人間社会では、「罪」を犯せば「罰」を受ける、という考え方が当たり前になっています。法治国家はそれが前提となっていて、それゆえ人々は、「罰」を与えるという考えに抵抗がありません。しかし、そもそも「罰」とは何でしょうか? 立場の強い者が、立場の弱い者を、自分の価値観に強制的に従わせる行為です。「罪」を犯したからと言うが、「罪」の定義は多分に恣意的なものです。

 

強者は、自分が正しいと思い込んでいるので、その行為自体にはなんら疑問を持ちません。私は、幼少期に両親から「体罰」を受けました。そのときの両親は、そうすることが正しいことだと信じていたわけです。立場の弱い者が、その時にどんな気持ちになるかなんてことは考えていない。後々、それがどんな傷になるかなんて考えていない。

 

それどころか、世間では、それが教育である、しつけである、愛情である、と豪語する人もたくさんいるのです。

 

ここで、宇宙の法則から言及してみましょう。宇宙の法則では、「他者にしたことは、自分にしたことと同じ」です。なぜなら、全てが一つだからです。ということは、他者に「罰」を与えることは、自分に「罰」を与えることと同じということです。なぜそんなことをする必要があるのでしょうか? なぜそんなことをしなければならないのでしょうか?

 

結局、自分を敬っていないのです。人間を敬っていないのです。愛の鞭などと言いながら、本当の愛を知らない。実体は、愛の無智なのです。

 

神は「罰」を与えません。「罪」と「罰」という概念を作ったのは人間です。神とは宇宙の全て。もし、神が「罰」を与えるのだとしたら、自分で自分に「罰」を与えるということになってしまいます。「罪」を犯したのも自分なら、「罰」を与えるのも自分。そんな馬鹿な話はありません。

 

立場の弱い者からすれば、また子どもたちからすれば、真実の愛を注いで欲しいのではないでしょうか? だったらなんで「罰」など与えるのでしょうか? 「他者にしたことは、自分にしたことと同じ」なんですよ。どうして無条件の愛を注いでやろうとはしないのでしょうか。無条件の愛を注げば、無条件の愛が返って来るというのに‥‥。

 

おそらく桑田真澄さんも、同じように考えておられると思います。