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重い病気から解放される道には二つある

物事には、必ず原因と結果があります。これを因果律と言います。因果律は絶対的なもので、これを無視した現象というものはありません。病気にも、当然原因があります。しかしこの原因というものは多段階になっていて、「ついに原因を突き止めた!」と思っても、それが別の原因の結果だったりします。さらにその原因すらも、別の原因の結果ということがあり得るのです。


このようにして、因果律というものは果てしなく続くのです。ですから病気の際に、この原因をどこまで遡るかという見解の差によって、対処法も違って来てしまうのです。


現代医療の主流は、これを生体内で起きる化学反応のメカニズムとして考えます。本来こう働くべきはずのものが、そのように正常に機能していない。たとえばインスリンが分泌されていない。だったら、インスリンを人工的に投与すればいいんだ、という考え方です。しかしこの考え方ですと、対処のための「薬」を、際限なく生み出すことになってしまいます。そしてよく知られたように、「薬」は毒にもなるのです。


けれども、この場合の例で言えば、インスリンが分泌されていないというのは、糖尿病の「原因」のようであって、しかしそれも何か別の原因の「結果」なんですね。それはいったい何なのか?


その奥を追究して行くと、病気の大部分の原因は、その人の「心」の問題に行き当たり、さらに奥を追究して行くと、「魂」の状態に行き当たるのです。これを逆から辿ると、「魂」が「心」を創り、「心」が「体」を創っているということがお解りでしょう。


さて、重い病気を患った場合に、その状態から解放される道には、二通りがあります。一つは治るという道です。そしてもう一つは、死を受け入れるという道です。「そんなバカな、死が解放だって?」と思われるでしょう。この両結果は、当事者にしてみれば大問題で、一見180度違うように見えます。しかし霊的に見た場合には、それほど違いはないのです。


先ず「治る」ということですが、「完治する」という結果が生じた場合、当然そこには治癒に至った原因があります。それは、病気をもたらしていた「原因」が、消滅したということです。身近な人をよく観察してみてください。その元を辿れば、結局その人の「心」が変わったということが発見できるはずです。そして「心」が変わったということは、取りも直さず「魂」が変化したということなのです。


他方「死ぬ」ということを考えてみましょう。なぜ死ぬのか? それは肉体を持っている間に、「心」の変化を充分起こせなかった、つまり「魂」の変化が生じなかったということです。それともう一つ、寿命の場合があります。あらかじめ設定した死期に達すれば、たとえ「心」の変化があったとしても「魂」は死を選びます。


けれども、死を受容する道を選んだ場合であっても、「魂」は肉体を離れると、しばらくして霊的感覚を取り戻し、因果律の深い構造を理解します。つまり、自分がなぜその病気を患って葛藤していたかという意味を、丸ごと知るのです。その時、よほどの執着がない限り、ほとんどの「魂」は病気の葛藤状態から解放されます。


この時、遺族は、悔しいとか、残念、無念といった感情を抱きがちですが、「魂」にとっては霊界の方が故郷ですから、死に逝く者にはそういう気持ちは起きません。それにこの移行過程は、呼吸停止と同時に起きるのではなく、「魂」が死期を悟った時期から始まります。これもよく観察していれば、死期を悟った人の「心」が、次第に安定してゆくのが解るはずです。


以上、結局のところ、「治る」道と「死を受け入れる」道とでは、180度違うようでいて、大した違いはないんですね。人間、いずれ死にわけですから。よく、病気に勝つとか負けるといった言い方を、多くの人がされていますが、「勝ち負け」という問題じゃないんですね。ただ後者の場合は、次の転生の時に、もう一度同じ課題を設定する可能性が大きいです。


さて、「重い病気」と言えば、現代社会は、まさに「重い病気」の状態にあります。この状態から人類が解放されるとしたら、やはり同じように二つの道があるということです。さあ、あなたは、どっちの道を選びたいですか? アトランティスで経験したことを、またやってみますか?