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事実と真実、そして真実の見分け方
「事実」と「真実」。似ているようですが、これが大いに違うのです。「事実」というのは起きた出来事のことで、たとえば、何月何日にどこそこで地震が起きたとか、自分の乗った列車が事故を起こした、といったことです。それは一つのことで、宇宙のどこかに記憶されています。ところが私たちは、この「事実」を客観的に記述するということが出来ないのです。

「事実」はあくまで一つなんですけれども、それは個々人の「認識」ということでしか記述できないのです。事故や事件の目撃証言というものが、みんなバラバラになるのはそのためです。自分の乗った列車が事故を起こした。その事実は一つだとしても、乗っていた車両も座席も違いますし、当然、視点も個々人でみな異なりますから、体験がすべて異なるのです。

私たちはよく「ものごとを客観的に見なさい」などと言っていますが、その意味では、純粋な「客観性」など、どこにも存在しないと言えます。事故の目撃談というものを拾い集めて、共通していることがらを積み重ねていくと、そこで起こった「事実」に迫ることが出来ます。しかしそれとて、ある一つの「認識」に過ぎないのであって、やはり「事実」ではないのです。

このように、人間がすることには自ずと限界があり、純粋な意味では「客観性」を持ちようがなく、本当の意味では「事実」も記述しようがないのです。ところが私たちは、そこを曖昧にして「客観的に見ろ」とか「これは事実だ」とかと言っているわけですね。

「事実」をめぐってしばしば論争が起きるのはそのためです。互いに「こっちこそが事実だ」と言い合っています。たった一つの「事実」というものは確かにあるのですが、それを一つのものに記述することは不可能なのです。歴史教科書をめぐってよく歴史認識というものが争われますが、まさにそれは「認識」の問題、つまり主観の差ということなのです。

では「真実」とは何でしょうか? 「事実」は、ありのままのものとしては取り出しようがない。そこには必ず「認識」、つまりその人の見方が入り込む。それは言い換えれば、「事実」に「意味」を与えているということなんですね。そして「意味」の与え方には様々があるけれども、そこに「真(まこと)」を見た場合が「真実」なのです。

あなたが様々な情報に接する。本を読む、映画を観る、このブログを読む。何でもいいのですが、そこに「真(まこと)」を発見する。これは「真」だと思ったとき、それが「真実」だということです。ではどうすれば、それが「真実」だと見分けられるのでしょうか? これはすぐに分かります。「真実」に出会ったときには、まるで自分が、最初から知っていたかのように感じられるから。

そして実際に、あなたは知っていたのです。「真実」に、新しいことは何もありません。新しいことなど、所詮はすべてどうでもよいこと。「真実」は「真理」を映したものですから、いつまでも古くならず、普遍性があるのです。すでに知っていたことを、あなたが見つけた瞬間、閉じていた記憶の扉がパッと開く。そのとき、「ああ、これは真実だ」と、あなたは確信するのです。