by Rainbow School
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「水子の霊」などない

私の子どもの頃は、小学校の高学年から幼児に至るまでの幅広い年齢の子たちが、よく一緒に遊んでいました。そうやって、年長の子が年下の子に遊びを教えていったわけです。その遊びの中で、かくれんぼや缶蹴りなど「鬼」が生じる遊びの時には、小学校に上がる前の子は捕まっても「ミズッコだから」と言って、これを免除されました。

「ミズッコってなに?」と訊いても、「小学校に上がる前の子をミズッコって言うんだ」という答えが返ってくるだけで、誰もその意味を知りませんでした。この「ミズッコ」は、おそらく「水子」の意味だったのでしょう。そして「水子」は、「水に流した子」「見ず子」「未ず子」の意味を含んでいるのではないかと思われます。
アメリカ大統領選挙の争点の一つに、「拳銃の所持」に並んで、必ず「中絶の是非」というものが入って来ます。これらは日本人の感覚からすると奇妙な感じがしますが、前者は武力によって他者を従属させて来た歴史の肯定、後者はアメリカ合衆国がキリスト教国(プロテスタントの一派である清教徒が、迫害を逃れて新天地に移住)であることが色濃く反映しています。
日本では、さすがに「中絶の是非」が選挙の争点になったりすることはありませんが、それでも「水子の霊」の供養をウリにする宗教団体が多く存在します。これは、堕胎や流産に伴う後ろめたさ、本来ならば生まれて来た子を自分は殺してしまったのではないか、という想いを払拭する手段として用意されていると言っていいと思います。
しかしそれは、まさに「想い」の問題、つまり「観念」の問題であって、「水子の霊」など存在しない、ということをここで申し上げておきます。
ここには、「命」とは何であるか、という根本的な問いが隠されていて、一般の人はその知識を持ちません。あいまいにした中で、生と死というものを考えているので、堕胎や流産に対して後ろめたさを感じたり、その延長として「水子の霊」といった概念を構築しているのです。
「命」とは、万物の流転、変化の循環のことを、全部ひっくるめてそう呼ぶのです。自然界はこの循環サイクルにしたがって、ある生物が、次の生物を生かすように使われて行きます。人間が生きるためには、他の生物を殺さなければ生きていけません。また逆に人間の肉体が死ねば、そこに蛆が沸き、分解され、他の生物に供されるのです。
つまり「命」とは、万物そのものであり、「命」の消滅などは決してあり得ないのです。人間に「命」を生み出すことは出来ず、「命」は生物から生物へ形を変えて運ばれるだけなのです。
この「命」を形づくっている要素には、大きく二つがあります。一つはその素となる物質的な要素、これを神秘学では「質料」と言っています。もう一つは、この「質料」によって構成された物質を稼働させるエネルギーで、「根源的生命力」と言っています。この「根源的生命力」が、呼気として入って来るものを特に「プラーナ」と呼んでいます。
息を吸った時に、この「プラーナ」が流入します。「息」はだから「生き」であり、呼吸こそがその生物の活動を支えている根本なのです。
しかし人間は、上記の二つの要素だけでは成り立ちません。ここに「魂」が宿ってこそ初めて人間となるのです(三位一体:さんみいったい)。上記の二つの要素だけがあって、「魂」が離れている場合には、いわゆる植物状態、生物体としての肉体の命は続いているが、精神活動は停止している状態となるわけです。(「魂」が元に戻れば、植物状態からは脱する)
さてそこで、新生児の「魂」は、いったいいつから宿るのかということになるのですが、これには受胎時を主張する一派と、誕生時を主張する一派があります。しかし神秘学が示すところによれば、そのどちらでもなく、最初に息をした瞬間に宿るのです。オギャーと泣いた瞬間に「魂」が入る。ですから、泣かなかった場合は「魂」が入らずに死産となってしまうのです。
中間世(あの世)に居て、次の転生を待つ「魂」は、マスターやガイドと相談して、いくつかの候補の中から次の自分に相応しいボディを決定し、受胎時にその予約をします。そして、予約から誕生まで(つまり妊娠期間中)は、母親に寄り添って、母親を胎教しながらマザーになることを応援するのです。(一般に信じられている「胎教」とは、実は逆なのです)
ですから、何らかのアクシデントによって、赤ちゃんの誕生が無かったとしても、その「魂」は、次の機会を待つだけだということなのです。お解りいただけましたでしょうか。
「水子の霊」などというものは、人間が作った想念の産物に過ぎないのです。