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「神」を自分の外に置くことが、なぜダメなのか
“それ”を仮に「神」と呼ぶならば、「神」は自分の内にある。このことは、当ブログで一貫して主張して来たことです。ロシアの文豪トルストイは、同様の主張を胸に秘め、ひっそりと暮らしていたドゥホボルの人々を支援するために1899年に『復活』を書き、1893年にはその名もズバリ『神の国は汝らのうちにあり』を執筆しています。

これらは、堕落した政府・社会・宗教への痛烈な批判の書となり、そのせいで政府からは危険人物視され、ロシア正教からは破門にされています。今の時代では、もうそんな迫害を受けることはないでしょうが、政府・社会・宗教の堕落は、今も何も変わっていないと思います。

さて、18日に、イエスが「わたしが、父に至る唯一の道」と語った意味について書いたのですが、それに関連してもう一つの重要なポイントをお伝えしましょう。なぜ、「神」を自分の外に置くことがいけないのか、という問題です。

「神」を自分の外側に置いて、その対象を拝んだり、祈ったりすることは、「神」と「我」とを分離するということに他なりません。「神」を畏れ多い存在と考えた場合には、分離は当然のように思うかも知れませんが、自己の霊性を高めて「神の国」へ至ることを目標とする人にとっては、その道は、遠い道になってしまいます。

そうではなくて、この「分離意識」を失くして一体化してしまえば、道と到達点は一致し、一つになってしまいます。これが、「神」は我が内にあり、という最大の理由なのです。この時の心境、状態を「神我一如」(しんがいちにょ:神と我は一つの如し)と言います。つまり、「神我一如」にたどり着けば、即ゴールなのだということです。

それが解ったところで、イエスが何と言ったかをもう一度振り返ってみてください。
「わたしは道であり、真理であり、命である。」と言った。続けて、
「だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」と言いました。
これが、まさしく「神我一如」を語った言葉であることにお気づきでしょう。