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仏教が「愛」を説かない理由
10年前までの私はというと、まだ「愛」という言葉を語るのに強い抵抗感を持っていました。ハリウッド映画を観た日ときたらエンディングは決まって「愛」で、「なんだまたかよ。離婚率が5割を超してる国が、よく言うよ」と、スクリーンに向かって、舌打ちしながら毒づいていたりしたわけです。

というのも、当時の私は(頭の固い)仏教徒でしたので、西洋人、とりわけキリスト教徒が言うところの「愛」を全く信用していなかったのです。ご承知のように、仏教では「愛」を、苦を生じる元になるとして、否定的に扱っています。正確に言うと、仏教で言うところの「愛」は、「渇愛(タンハー)」という情動的な「愛」を指します。

そしてまさに、西洋的な「愛」はこの「渇愛(タンハー)」を超えるものではない。だからこそ、「愛」の裏側には常に「憎しみ」が隠れていて、これが二元対立思想(さらには戦争)の引き金にすらなっている、と考えたわけです。そういう意味で、当時の私は、仏教の方がずっと上を行っていると思っていました。(西洋人のインテリ層にも東洋思想の方が上と考えた人が多くいた)

しかしその後、日本の仏教は釈迦の説いた教えではないという衝撃の事実を知り、さらにはキリスト教もイエスの教えではないということを知るに至って、宗教というものの不毛にやっと目覚めたわけです。そこには「真理」などなかったのです。(「真理」の一端はあります。ただし相当に歪められた形で)

さて「愛」に話を戻しますと、実は「愛」にも大きく三段階があって、本来はこれを区別して捉えなければならなかったのです。ところがみんな一緒くたにして「愛」と語っているために、混乱が生じているのです。しかし古代ギリシャ人はこれを明確に区別していました。それが、エロス(ερως, eros)、フィリア(φιλια, philia)、アガペー(αγαπη, agapee)です。

この三つは、エロス(性愛)、フィリア(隣人愛・博愛)、アガペー(真の愛・神の愛)のように訳されることが多いようです。訳語から、それぞれの意味の違いが何となくお解りかと思いますが、実はこれは「霊性密度(次元)」でいうところの、第三、第四、第五にそれぞれ対応しているのです。

そして、第三霊性密度(次元)の愛である「性愛」は、感情を司る第三チャクラ(マニピューラ)と対応しており、第四霊性密度の「隣人愛・博愛」はまさにハート、つまり第四チャクラ(アナハタ)と対応し、第五霊性密度の「真の愛・神の愛」は、本当の智の獲得を意味する第五チャクラ(ヴィシュダー)とそれぞれ対応しているのです。

このことから察しられますように、最初は「感情」をたっぷり含んだ情動的な「愛」だったものが、霊性が向上するに従って、しだいに博愛的なものに変化してゆき、最後にはそれさえも超え、善悪二元論的対立からついに脱して、本当の「愛」の完成を見るというわけなのです。

これは個人としても、また人類全体としても、「魂」の進化にとっての大きな課題であり、今日世界から戦争が絶えないのは、人類の大多数が未だに第三段階の未熟な「愛」に留まっているということなのです。

さて以上を通じて、仏教が言うところの「愛」は、どちらかというとエロス的な「愛」を語っており、キリスト教が説くところの「愛」は、フィリアからアガペーへの「愛」を語っているということがお解りいただけるでしょう。(実際には、それをエロス的な「愛」と混同している人が多いということになりますが、目指しているのはアガペーです)

ですから、一緒くたにして「愛」と言ってしまうために、仏教とキリスト教での捉え方の違いが目立ってしまうのですが、その違いは、三段階ある「愛」のどこにフォーカスを当てているかという違いから来ているのです。さらに言えば、仏教は自力を重んじ、キリスト教は他力を重んじていますので、そういう視点の違いが生じているのです。

では、このエロス → フィリア → アガペーへの進化段階を決定づけるものとはなんでしょうか? それは「感情」を手放していくということなのです。そう言うと、きっとびっくりされる方がいらっしゃると思います。なぜなら「愛情」というものが、一般常識では尊いものだとされているからです。

でもこんな例を考えてみてください。親の過剰な「愛情」に翻弄されてしまった子がたくさんいるんですよ。確かに赤ちゃんは一人では生きられませんから、幼少時にはたっぷり「愛情」を注いであげることが必要です。しかし、子どもの成長に合わせて、親の「愛」も、エロスからフィリアへと向上させていかなければならないのです。いつまでもエロス的な「愛」では、子のためにならないのです。

ですからそのためには、「感情」主体の主観的な意識から、より客観的な意識を多く獲得するように自己を鍛錬していく必要があります。そしてそれが出来たとき、「渇愛(タンハー)」は普遍的な「博愛」へと変わり、「同情心」もより普遍的な「慈悲心」へと変わっていくのです。