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「自力」と「他力」と「一体力」
「自力」が正しいのか、「他力」が正しいのか。仏教に深く接したことのある人なら、一度は悩まれたことがあるかもしれませんね。「自力」を強調する宗派は「他力」を否定し、「他力」を強調する宗派は「他力」に頼むのが究極だと主張する。このような対立があること自体、私は、宗派仏教が完成されたものではないことを示していると思います。

仏教の最終目標は解脱です。「自力」というのは、文字通り自分の力でそこに至るように努力するという考え方です。だから解りやすい。しかし「他力」については少し説明が必要とされます。よく、他人任せのことを「そんな他力本願じゃだめ」などどと言って注意したりするのですが、これは本来の意味が歪められて伝わったものです。

「他力」というのは、〈この全宇宙を支配している力というものは、我々にはとうてい抗い難いものなのであるから、最後はすべてお任せすればよい。そうすれば万事よいようにしてくださる。〉という考え方を言います。ですから「他力」であるためには、この大いなる存在に対する絶対的信仰が前提となります。ある意味、勇気を必要とするわけです。

「他力」の代表は親鸞が興した浄土真宗で、日本では圧倒的な信者数を誇っています。これはあくまで私見ですが、日本でなぜキリスト教が広まらなかったかというと、浄土真宗があったからだと思うのです。キリスト教も「他力」の代表ですが、日本にはそれ以前に浄土真宗という「他力」が既に存在していたことが、韓国との大きな違いになったと思います。

さて、「他力」の意味を知ると、「他力」の方が本当という気がして来ませんか? いくら努力を重ねても、最後は救って下さる存在の胸三寸だということになれば、「自力」の意味などないではないか、となってしまいます。しかしそこでまた考える。救ってくださる方はいったい何を基準に考えているのだろう。やっぱり「自力」が大切だ。

このようにして「自力」か「他力」かという議論は、堂々巡りを繰り返しながら今日まで来ているわけです。さてあなたは、どっちが本当だと考えますか?

答えは、どっちも本当です。ただし、両者は視点の置き所が違うということと、どっちも共通した誤りを犯しているのです。それは、救って下さる大いなる存在(神仏)が、自分の外側に居ると考えたことです(これが「偶像崇拝」の本当の意味)。そうした上で、自分を中心に見れば「自力」となり、神仏側に立てば「他力」となるのです。

しかしこれは根本的な間違いなのです。神仏は外側ではなく、自分の内側に在る。神仏(真我)と自分(自我)を別物と考えてしまったこと、神仏と自己とを分離してしまったことが、今日の人間の不幸と混乱を作り出してしまったのです。そうではありません。真我と自我とは一体なのです。自分の中に真我が眠っているのです。

「自力」の果てに「他力」が有るのであり、「他力」の中に「自力」があるのです。両者は対立概念ではなく、元々一体なのです。ですから真理では、古来より、上なるものの如く下なるものあり、αでありω、梵我一如、万教帰一、等々、このことが示されて来たのです。

そこで私は、この論争に終止符を打つ提案をしたい。「自力」も「他力」もない。これからは「一体力(いったいりき)」で行きませんかと。