by Rainbow School
<< December 2019 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
あなたは気球

あなたの本質は気球なんだよ。内側に、気をいっぱいに溜めた球なのさ。

ここで言う気は、Spirit(霊)のことだけどね。

自分の内側を、一度じっくり覗いてみてごらん。

天に上りたい、どうしても上りたい、

というあなたの切なる願いが見えないかな。

なに、見えない?

ああ、そこじゃない。もっと奥だよ。

目を閉じて、もっともっと深く見つめてごらん。

これは、地上に生まれた全員が、最初から持っているものなんだからね。

携えたまま、あなたも地上に生まれて来たんだからね。

この気は、天に充満する気と、実はまったく同じものなのさ。

だから、あなたはいつだって天とつながっているし、

望めば天に上れる(ascend)のだよ。

 

知らなかったのかい?

今まで考えたことも無かったのかい?

 

だとしたら‥‥

じゃあなんで自分は上れないのか、と今のあなたは言うだろう。

なぜ叡智にたどり着けないのか、と今のあなたは言うだろう。

いい質問だ。

今度は外を見てごらん。自分の外側だ。

あなたが乗っている気球のゴンドラの、足下を見て。

たくさんの砂袋が括り付けられてるのが見えないかい?

これじゃあ上れるわけがないじゃないか。

いいかい。

これはみーんな、あなたが自分で括り付けたものなんだよ。

 

え、そんな覚えはないって?

じゃあ、試しに第一の砂袋を開けてみようか。

おや、中身は砂じゃなかったね。お金だ! お金がいっぱい詰まっている。

うん、お金は魅力的だものね。お金がないと暮らせないしねぇ。

でも本当にそうだろうか。そう思って生きている動物は人間だけだよ。

第二の袋はどうだい?

名刺の束かぁ。ずいぶんと肩書きを集めたもんだねぇ。

こんなに大勢の人が、肩書きが自分を証明するものだって思っているんだね。

三つめはどうだい?

トロフィーに賞状か。誇らしいねぇ、さぞかし名誉なことだっただろうね。

四つめは?

わぁ凄い。よくもまあこんなに買ったもんだ。服と宝石と化粧品の山。

五つめは何かな?

写真かい? ああ、写っている人たちが忘れられないんだね。

おや、ペットの写真もある。なんたってかわいいものね。

六つめは?

うわぁ、なんだい、この薬の量は。

それにお守りだのお札だのがいっぱいじゃないか。不安なのかい?

七つめは?

うっ、こりゃ重い。なんだろう? ああ、教科書に答案用紙。

ふ〜ん、ずいぶん時間を使って来たんだね。大変だったねぇ。

で、役に立っているの?

八つめは?

今までとは‥‥これはちと毛色が違うね。

袋に「ねばならない」って書いてあるよ。この中身はなんだろうね。

九つめは?

こっちには「ヘイト」って書いてある。「ヘイト」ってなんのこと?

その隣の袋は?

あ、もう、切りがないからやめよう。

中には20個も30個もぶら下げている人がいるよ。

 

自分を縛り付けることが、よほど好きなんだねぇ。

あ、そうか。自分を縛り付けているなんてちっとも思っていないわけか。

 

でもね。そのままじゃあ、いつまで経っても天には上れないんだよ。

しごく簡単な理屈さ。

でもその重石を、一つずつ切り離して行くと、

自分には浮力が備わっているってことが、だんだんと分かって来る。

「そうなんだ、自分も上れるんだ」ってことに気づく。

そして、切り離す数がどんどん増えていくと、

ついには浮力の方が勝って、あなたは地上を離れてフワッと浮くのさ。

Ascend し始めるのさ。

その瞬間から、グングン天に向かって上り始めるのだよ。

なぜって、あなたは気球なのだから。もともとが気球なのだから。

 

これって、凄いことだと思わないかい?

あなたが、あれほどまでに希求して来たことが、

実は自分が気球だったと、気づくことだったんだからね。

ただそれだけでよかったんだからね。

 

だから、天に上るには、なんの努力も必要としないんだよ。

いいかい、もう一度言うよ。

あなたが、天に上るには、なんの努力も必要としない。

ただただ、自分の本質に「気づく」だけでいい。

そうすればフワリと浮くんだ。

 

でも‥‥

でも、重石の袋を捨てるには、大変な努力、いや決心が必要になる。

多くの人にとって、「捨てる」ことは恐怖だから。

 

これは最大級のパラドックスだ。

これこそが、今まであまり説かれることがなかった神秘。

なんら努力を必要としないことの実現のためには、

めちゃくちゃ努力が必要なんだよ。

特に、袋をより多く集めることが大人になることだと、よりよい人生だと、

固く信じ続けて来た人にはね。

 

さて、これを聞いて、勘のいい人は、

あれ、前にも同じようなことを聞いたぞと、ピン!と来たのではないかな?

そう。「あなたは、最終的に旅は必要なかったんだということを知るために、

自分探しの旅に出る」と前に言ったことがある。

あれとおんなじ。

あの言葉の答えが、「あなたは気球」ということなのさ。

解ったかな?

 

「捨てる」と言っても、

文字どおり「ゴミ箱に放り込め!」と言っているわけじゃないよ。

それへの執着を捨てるという意味だ。観念を手離せという意味だ。

あなた方が、物質界に生きているということはよ〜く解っている。

だから、物質界で生きるためのツールを捨てろ、とまでは言っていない。

でもそれはただのツールなんだ。ボードゲームの駒のようなものなんだよ。

駒を使って、人生を生きて、体験を充分味わって、でも一切執着しない。

どう? それだったら、出来るのじゃないかな?

 

あらゆる「執着」というものは、みな「怖れ」から生じているのだよ。

何かを失うということの「怖れ」が、「執着」に転化しているんだ。

その裏には、「必要」という根強い観念があるのだけれどね。

たとえばお金だ。お金を失いたくないと思うから強く執着するのだよ。

たとえば防衛意識。攻撃されたら大変と思うから、防衛を声高に叫ぶんだよ。

自分が「執着」するものをリストにして、よく見つめてごらん。

裏には必ず「怖れ」があることを発見できるから。

だから、「怖れ」が無くなれば、「執着」も消える。

 

それにね、

あなた方は、まもなく何もかもガラポンしなくてはならなくなるのだよ。

今までの考え方やシステムが、一度ぜーんぶひっくり返るのさ。

あ、でもこれを予言とは捉えないでくださいね。

わたしは予言はしない。ただ宇宙の法則を言ったまでだから。

自分が為したことは自分に返る。

振り子が右に大きく振れれば、振れた分だけ今度は左に返るのだよ。

 

というわけで、どのみち今の世界への「執着」などは無意味になる。

来たるべきガラポンする世界は、

既存システムに「執着」し続けようとする人にとっては大恐怖だけれど、

「執着」のない人にとっては、明るい希望なのだよ。

あなた方は、そのどっちの道を行くか、これから選ぶことになるのだよ。

 

アセンションというのは、見方を変えれば、

「怖れ」がいっさい無くなった状態だとも言える。

しかし、ここでもまたパラドックスだ。

アセンションすれば、いっさいの「怖れ」が消える。

でも、アセンションに至るには、「怖れ」を手離さなくてはならない。

まるで卵が先か、鶏が先か、みたいな話だよね。

さあ、どうする?

 

そこで、あなたに朗報だ。

ちょっと前から、強い光のエネルギーが、地球全体に降り注いでいるんだよ。

それは人類への、大いなる者からのプレゼントなんだ。

だから、この光のエネルギーを、推進力に利用させて貰えばいいんだよ。

素直になって、心を開いて、あなたの帆をいっぱいに広げて、

宇宙の流れに、すべてをゆだねてみて。

そうすれば、グングン前に進むから。

そうやって、前に進むことだけを考えていれば、

いつの間にか、

重石が一つずつ振り落とされていることに気づくことになるから。

 

考えてごらん。

宇宙のすべてを司るのは、ただ一者なんだよ。

その一者が、なにゆえに自らに予言をするというのだろうか?

その一者が、なにゆえに怖れる必要があるというのだろうか?

すべてを支配する者なのに。


だから、なんの心配もいらないんだよ。

あるがままに、ただ「今ここ」を生きればいいんだ。

どうか自分を信じて。あなたは気球なんだから。

人間関係において、自分の相手役をしてくれている「魂」が、そのせいでカルマを積み増ししてしまうという可能性はないのか?

次のようなご質問をいただきましたので、以下に回答いたします。

 

Q.(頼まれてやっている)カルマの人間関係と、カルマの上積みについての質問です。地球に生まれてくる段階で、事前に自分で決めていた課題があるかと思います。過去生で、なんらかの理由によりその課題をクリアできなかった場合に、同じような課題を再度設定して生まれてくることがあるかと思います。

 

その課題のために、交流のある霊(人)に困ったちゃん役を引き受けてもらい地球に転生してくる、ということがあるとします。困った人の役を引き受けてやっているとはいえ、それに伴う地上での立ち振る舞いでカルマを上乗せしてしまうことはないのだろうか・・?という疑問です。

 

頼まれてやっているとしても、波動の法則が存在する以上、自分が出した波動は自分で受けることになります。また、転生前に交流があったということは、霊界は純然たる階層社会なので、あまりに自分と波動が違う相手と交流することはないはずです。

 

そういう存在が困った役を引き受けることによって、結果、図らずともカルマを上乗せしてしまった的なことにならないのかな、とその点でもやもやしています。ご回答よろしくお願いします。

 

A.先ず、「カルマ」ということの意味なのですが、これはもともとサンスクリット語で「行為」を表す言葉であり、「行為」のプロセスと、その結果を同時に包含した概念を意味しています。ですから、人間は生きている以上、なんらかの「行為」を必ず為すのであり、その意味では、人生行動そのものが「カルマ」だとも言えるのです。

 

「カルマ」と言いますと、一般的には「宿命的な災い」のようにばかり捉えられがちですが、必ずしもそうではなくて、悪いことだけではなく、善いことにもみな「カルマの法則」が働いているのです。さて今、「悪いこと/善いこと」と書いたのですが、この「善悪」概念も、あくまで主観的なものに過ぎず、厳密に言えば、宇宙に「善悪」というものはないのです。

 

「善悪」概念が主観的なものに過ぎないということは、例えば、ジョージ・ブッシュのあの「悪の枢軸国」発言を思い起こしてみれば、直ぐに解ることでしょう。あの時ブッシュは、イラン、イラク、北朝鮮を「悪」の国家と断じる一方で、自国アメリカを「善」の国と位置づけて、諸国に「さあ、どっち側につくんだ」と迫ったのです。そして、日本もその「善」の側に加担しました。

 

その結果がどうなったのか、またそこに至るまでの裏側には何があったのか。これはもうみなさんが知る通りです。けれども、このような例を挙げても、「いいやそんなことはない。誰もが認める悪はある。たとえば殺人だ」と仰る向きもたぶんおられることでしょう。でも果たしてそうでしょうか? 人間は、戦争で人殺しをすることは、国際法で認めているではありませんか。

 

このように、「善悪」概念など、所詮は主観的なものに過ぎないのです。ただし、宇宙的にみて敢えて言えば、こういうことは言えます。〈分離〉意識に向かう行為は「悪」的であり、〈合一〉意識に向かう行為は「善」的である、と。しかしこれも、あくまで「的、ぽい」ということであって、「絶対」ではないのです。宇宙に「絶対善」や「絶対悪」はありません。

 

そもそも、個々の「魂」がなぜ一者(神)から分かれて生じたのかと考えますと、〈分離〉を、即「悪」だと決めつけることは出来ません。これを「悪」だと決めつけたものが、いわゆる「原罪論」です。しかし「原罪論」には矛盾があります。宇宙の一切合切を仕切るものを「神」だとすれば、個々の「魂」を〈分離〉させた存ものは「神」です。

 

すると、その行為を「罪」だとすると、「罪」を犯したものは「神」ということになり、そう断じるものは(原罪を有した)「人間」であるという逆転のパラドックスが生じてしまいます。さらに、「原罪」を持つ「人間」に「罰」を与えるとなると、「罪」を創ったのも、「罰」を与えるのも同じ「神」ということになり、非常におかしなことになってしまいます。

 

では、なにゆえに、個々の「魂」が一者のもとから〈分離〉したのでしょうか? あるいはさせられたのでしょうか? それは、〈合一〉を体験するためなのです。〈合一〉したままでは〈合一〉は体験できません。〈分離〉することによって初めて、〈合一〉に向かう「行為」というものが体験できるのです。実に、「カルマ」の意味はそこにあるのです。

 

ですから、「カルマの法則」というものが、決して「罪」や「罰」に起因した法則ではなく、それ自体が「神のギフト」であるということが、これでお解りになるでしょう。したがって、「カルマの法則」を恐れる必要はいささかもありません。「カルマ」というのは、あなた方の、瞬間々々での「生き方の選択」なのです。〈分離〉意識をより強めた体験をそこで選ぶのか、〈合一〉意識をそこに見い出すのか、という。

 

そのことを踏まえた上で、ご質問にお答えします。さて、質問者は、「交流のある霊(人)に困ったちゃん役を引き受けてもらい地球に転生してくる、ということがあるとします。」という仮定から、質問に至る論を展開されておられます。ですが、そのようなことはそもそもありません。ですから、ありえない仮定のもとに、疑問を投げかけておられるのです。

 

ではなぜ、質問者にそうした仮定が生じたのかと推理しますと、人間関係におけるこの世的な貸し借りを、「魂」の世界や輪廻転生の仕組みに、そのまま当てはめて見ている節があります。ですが、これは誤りです。霊的世界に貸し借りはありません。自分の本心を押し殺して、他者のために◯◯役を「演じる」というようなことは出来ないのです。何もかもがお見通しの世界なのです。

 

その「魂」の、素っ裸の霊性度合いに応じて、万事よろしく設計されて、次の転生計画が決められているのです。その際に、個々の「魂」は、全員が、自分の人生の主役なのです。その主役の周囲に、縁の濃い「魂」たちによって脇役が設定されます。主役から見れば、周囲の人たちは、あたかも自分の課題を助ける役を演じてくれているように見えるかも知れません。その見方はある意味で正しいのですが、それは、同時に相手側の人にも言えることなのです。

 

Aさん、Bさんという縁のある「魂」がいたとしましょう。Aさんにとって、Bさんは自分に何らかの気づきを与えてくれる存在です。しかし、人間関係というものは、つねに「間(あいだ)」に生じるものであり、そこで生じている「関係」に対しては、その関係者はすべてイーブンの影響を受けているのです。ですから、両方が互いに主役なのです。

 

こんな例を考えてみましょう。Aさんは寝たきりで、自分一人では身の回りのことが何ひとつ出来ません。Bさんは、このAさんに付きっ切りでずっと看護をしています。果たして、Aさんは貰うばっかり、Bさんは与えるばっかりなのでしょうか? この世的に見れば、そう見えるかも知れません。けれども、霊的に見れば、そのような一方的なことはまったくないのです。

 

このAさんとBさんとの「間」に、看護という「行為(=カルマ)」が行われた時、両者はそれぞれの視点で、この体験を分け合っているのです。ここには貸し借りはありません。それは両者にとって、互いに自分のカルマを解消するための絶好のチャンスとしておとずれた体験なのであり、その出逢いは完璧に設計されています。ですから、質問者のような心配は、する必要がないのです。

 

AさんとBさんとの「間」に生じた出来事は、AさんはAさんの視点で自分の学習課題として捉えるのであり、BさんはBさんの視点で自分の学習課題として捉えるのです。この時、両者で協力して為した体験を、〈分離〉意識的に捉えるか、はたまた〈合一〉意識的に捉えるかは、それぞれの人の自由意志によるのです。

 

Aさんは〈合一〉意識的に捉えたのに、Bさんは〈分離〉意識的に捉えたとしましょう。Aさんは、その体験を通じてちょこっとだけ霊性の向上を図ることができました。でもBさんは、体験を通じても気づきがなく、ネガティブな「カルマ」をかえって強化してしまいました。このBさんの「カルマ(行為)」に対して、Aさんには何の責任もありません。そもそも責任の取りようがありません。

 

これは、Bさん自身の体験学習であって、そこにはなんぴとも介入することは出来ないのです。人間の思考からすれば、これはクール過ぎて、いささか冷たい感じがするかも知れませんが、法則とは元来がそのようなものです。でも、もっと大きな視点で見て欲しいのです。個々の「魂」は、どれほどすったもんだがあったとしても、全部がいつかは一者のもとに還るのです。

 

何度も何度も輪廻転生を重ねる中での、たった一つの人生の、さらに瞬間の出来事に対して、責任論で思い悩む必要などありません。「カルマの法則」全体がギフトなのであり、それぞれの場面での選択は、その「魂」が、その成長段階において、その時に正しいと思って下した選択です。その結果が、この世的に見て、善い悪いの差があったとしても、常にそれは、その「魂」にとって、「神のギフト」であり続けるのです。

 

最後に「カルマの積み増し」ということについて述べておきましょう。どういう時に、カルマ(ここでは負のカルマ)の積み増しになるのかということです。これも極めてシンプルなことで、〈合一〉に向かう「行為」が為されればそのカルマが消え、〈分離〉に向かう「行為」が為されればカルマが積み増しされるということです。

 

トラックの荷台を思い浮かべてください。そこには、今世で荷下ろししなければならないあなたへの課題が積まれています。あなたが苦しみに遭遇する時、その根本原因に気づいて、エゴを反省し、〈合一〉への気づきを得れば、その荷を下ろすことが出来ます。でも、過去世でしたことと同じような衝動で、今世また行動してしまえば、荷は雪だるまのように膨らんでしまうわけです。

 

また仮に、〈合一〉への気づきをなんとか得たとしても、その過程で為した「行為」に、別の〈分離〉意識行動が含まれていれば、今度はまた違う荷を荷台に引き入れるのです。こうして、載せたり下ろしたりを繰り返しながら、最終的にはすっかりネガティブな荷を下ろし終わり、そこで輪廻転生が止むのです。

 

ということで、あなたもそこを目指して、瞬間々々を、どうか伸び伸びと生きていってください。

 

参考:善、偽善、罪悪感、悪

アセンションとは? ーーー アセンションに関してのメッセージ

アセンション(ascension)は、「昇る」という意味の動詞である“ascend”の名詞形で、精神世界では一般に「次元上昇」と訳されています。ここで注意が必要なのですが、ここで言っている「次元」は、数学で言うところの「次元(Dimension)」とは全く別の概念を意味しているのです。

 

ところが、この両者が混同され、今まで多くの人に混乱を与えて来ました。ここで言う「次元」は、宇宙を構成している全存在を、バイブレーション(振動数)の高さによって大きく7段階に分けた際のレベルを意味しています。正式には「霊性密度(Spiritual Density)」と言い、「次元」はその通称として使われている言葉なのです。

 

それを先ず解っていただいた上で、「アセンション(次元上昇)」というのは、三次元から五次元へ、つまり第三霊性密度から、第四霊性密度を飛び越え、第五霊性密度へと上昇することを意味します。いったい何が? さて、それが問題です。ここには二つの対象物があるのです。人間と地球です。

 

人間の「アセンション」というのは、これまで「解脱」とか「覚醒」と呼ばれていたことと基本的には同じことを意味しています。それがなぜ、近年になって急に「アセンション」と言われるようになったかと言えば、もう一つの対象物であるところの地球の「アセンション」と、それが大いに関係しているためです。

 

これは、古来より言われて来たことですが、地球というのは、第三霊性密度の学習段階にある「魂」の、学習のための受け皿として、物理空間に用意された惑星でした。この惑星が、アトランティス文明の成立後、そこに住む人間たちに対して、2万6千年ごとに第五霊性密度への上昇の機会というものを与えられていたのです。

 

しかし、伝説として残されているように、今よりも遥かに高度な文明を誇ったアトランティス人でしたが、霊性の堕落によって、過去2回のチャンスを逸したばかりでなく、アトランティス文明そのものも海中に没して跡形もなく消えてしまったのです。そして今回が、3回目のチャンスとなるのです。

 

しかし、今度のチャンスは、前の2回とは大きく違った点があるのです。それは、今回は、地球そのものが「アセンション」してしまうということです。「アセンション」が、人間よりも前に、地球に対して起こることが、予め決められているのです。地球という惑星が、宇宙の中での第三霊性密度の受け皿としての役目を終了して、第五霊性密度へと移行するということです。

 

ですから、主役は地球なのです。これに伴って、今度の機会に「アセンション」出来なかった人間は、これ以降は、もう地球に輪廻転生して来ることが出来なくなるという点が、過去の2回とは大いに異なる点なのです。つまり、地球学校に来ている「魂」にとっては、これが卒業のラストチャンスだということです。

 

そう思って、現代という時代をよくよく眺めて見れば、その兆しがいたるところに現れているのを、あなたもお感じになることでしょう。AIやゲノム編集などの科学技術が急速に発達していることや、人間を奴隷ロボットにするシステムがますます巧妙になっているのは、アトランティスを滅亡に導いた当時の科学技術者たちが、現代にも一斉に転生しているからです。また、金融やグローバル経済に見られる強欲さは、アトランティス末期のカルマをそのまま映し出しています。

 

そして、これまで長きに渡って秘匿されて来た「闇の支配者」の実態が、ここに来て急に炙り出されて来たのは、宇宙からの強い光が当たっていることもさることながら、地球がすでに第四霊性密度のバイブレーションに突入したことを示しています。つまり第四の領域に入ったので、第四に隠れていた実態が見えるようになったのです。

 

もちろん、異常気象や自然災害に見られる極端化現象も、これらと大いに関係があります。それらは天罰ということではなく(宇宙には、そもそも罪も罰もありません)、今の人間意識の総体としてあり方が、それらを物質化させているのです。そしてこれも、アトランティス人の末期が辿った道と、そっくりになりつつあります。

 

多くの予言や霊言が、みな共通して語って来たように、これからの時代は大転換を迎えます。それは、地球が第五霊性密度の惑星へと移行するということなのですが、同じ場所に新しい家を建てる際には古い家を壊さなければならないのと同じように、古いシステムと古いシステムを作り出している人間の意識のあり方が、一掃される時期が目前に迫りつつあります。

 

これを、怖れることなく、冷静に見守って行ってください。そして、あなた自身のアセンションを目指してください。

 

これも、多くの予言や霊言が語って来たことですが、戦争に明け暮れして右往左往する多くの人たちと、小規模で平和に暮らすコミュニティとに、世の中が真っ二つに割れます。それは一見すると、闇と光との闘争、悪と善との凌ぎ合いに見えますが、これらを煽る者に巻き込まれないようにしてください。それこそが、闇の戦略なのです。二元性の真理は「闘争」にあるのではありません。両者が揃っての「合一」にあるのです。

 

また、センセーショナルなことを語りたい人たちは、「生き残り」ということにスポットを当てるでしょうが、「生き残り」は大した問題ではありません。地上では、人はみな、遅かれ早かれ全員が死ぬからです。しかし一方で、「魂」は永遠だということに注目してください。だからこそ、この機会にアセンションするのです。その意味をしっかり捉えて、この機会にお臨みください。

4次元の川を超える

世に、霊能の強い人がいるということは否定しません。でもそれは、生まれつき絵や音楽の才能があったり、足が速かったり、手先が器用だったりするのと一緒で、単に一つの能力に過ぎません。その表れ方を観察してみれば分かるように、各分野の感受性と表現方法には多種多様なバリエーションがあって、能力にもピンからキリまであるのです。これは霊能とても同じです。

 

そして、ここが肝心なところですが、霊能と霊性の高さとには、何の相関関係もないのです。霊性の高さは、この世(物質界)においては、人間性の高さとして顕われます。では、絵が上手な人は、みな人間性も優れているでしょうか? 音楽的才能がある人は、みな人間性も優れているでしょうか? 足の速い人は、みな人間性も優れているでしょうか? そんなことはありません。金銭欲に取り憑かれた人もいれば、身内のゴタゴタを抱えた人もいます。

 

ただし、何であれ、その道を追求して来た人の中には、同時に優れた人間性に到達した人もいます。それは、能力がそうさせたのではなくて、その分野を借りて、「道」を追求する姿勢を持ち続けたからこそ顕れたものなのです。そこを混同してはなりません。それと同じことで、霊能者が即霊性も優れていると思い込むのは早計です。むしろ、霊性の高い霊能者は極めて稀にしか存在しない、と思った方がよいのです。

 

ところが、これがみな解らないのですね。なぜ解らないかと言えば、見分ける眼というものが、まだその人に備わっていないから。なぜ見分ける眼が備わっていないのか? 欲得で曇ったフィルターが、その人の眼の上に厚く覆い被さっているからです。この欲得フィルターが、ものごとをありのままに見るということ、ことの本質を見るということを妨げているのです。

 

足の速い人は、その人が走っている姿を見れば、その能力は誰にでも直ぐに解ります。でも芸術となると、もう大多数の人は解りません。そのため、素直でない人は、ブランド(作家名)を見て解ったような気になろうとする。ですから『なんでも鑑定団』のような番組も成り立つのです。土蔵に長年放ったらかしにしてあったゴミが「1000万円!」と知って人々はみな驚くわけですね。

 

でも、その「驚き」は、何に対する驚きなのでしょうか? 「お金」という世間が示しているスケールであって、芸術そのものではありません。結局のところ、芸術に感動したわけではなく、自分の欲得フィルターに引っ掛かった価値を見ているだけなのです。その人に、もし芸術を見る眼があれば、無名の作家の絵にも、河原の石ころの中にも、青空に浮かぶ雲の中にだって芸術を見出すことでしょう。

 

そしてこれが「霊能」ということになると、判断基準はさらに大甘となってしまうのです。なぜなら、そこには「絵」すらも介在しないから。ブランド価値を認めようもないから。いわゆる「見えない世界」のことだから。そこで人々は、それを「信じるか」「信じないか」というただ一点で捉えるしかなくなってしまう。そして「信じる」と決めたときには、細部の誤謬に眼を配る余裕もなくなり、人は完全に盲目となってしまうのです。

 

*ブランド価値をくっつけたい人は、自分を歴史上の有名人の生まれ変わりだと言って信用させようとする。

 

では、「信じる」背景にあるものとは何でしょうか? 突き詰めれば、それは無智と欲得です。無智と欲得が、人々を「信じる」行為へと駆り立てるのです。考えてみてください。もし、その人に宇宙の智恵が備わっていて、欲得も滅しているのであれば(この言い方は正確ではなく、智恵を得た人は欲得も滅しているのであり、欲得を滅した人は同時に智慧を得ている)、もはや「信じる」必要などは無いはずです。

 

ハッキリ申し上げて、自称「霊能者」の9割方(いやそれ以上かも?)はニセモノです。ここで言うニセモノというのは、「霊能が無い」という意味ではありません。本人が繋がっていると称している領域のことです。霊能がまったく無いのに「霊能者」の看板を掲げている確信的な詐欺師は、殆どいないと思います。なぜなら、あなたにだって霊能はあるわけですからね。人はみな人間であると同時に霊的存在なのですから。

 

ですから、自分を「霊能者」だと公言して憚らない人というのは、よっぽどズーズーしい人か、本当に自分がそうだと「信じ切っている」人です。ところが、こういう方たちの大半は、宇宙の真理や構造については殆ど何も知らないのです。知らないで、ただ自分の「霊能」の感覚だけでやっているのです。ですから、無智に基づく誤認や、自分が操作されているとは気づかずに、周囲を惑わす発言をしている人も多いのです。

 

問題は、そういうニセモノの「霊能者」のほうが、人々には、より刺激的かつ魅力的に見えることです。理由は、前に述べたように、人々の「欲得フィルター」に引っ掛かる可能性がそれだけ高くなるからです。ここに需要と供給がマッチし、そういうスピリチュアル・ワールド(しかしその実態は、真逆のエゴ・ワールド)が創られることになります。ニセモノを求める人々の強い願望が、ニセモノの「霊能者」を育てるのです。

 

余談ですが、以前、ご主人の浮気に関する相談をされたことがあります。私は個人的な相談事には応じていないのですが(というのは、そういう相談者の殆どが「判断」を求めて来るからで、私はその人に代わっての「判断」というものはいたしません)、たまに、出会い頭にそういう事態に出っくわしてしまうことがあります。その時、その女性は、こう言ったのです。この件について、信頼している霊能者に尋ねてみたのだと。

 

だったら、もう私に聞かなくてもいいじゃないか、とも思ったのですが、まあ黙っていました。すると、その霊能者から「ご主人は、未熟で幼い魂である。でもあなたはご主人と別れることは出来ない。なぜなら、それが今世の学びだから」と言われたというのです。それを聞きながら、私だったらそんなことは絶対に言わないな、と思いました。なぜって、その言葉は、その相談者の想いをそのまんま読んだものだからです。

 

だから「当たり!」となる。それで相談者としては一時的には溜飲が下がる。「やっぱりそうかぁ」と。でもそれで、その人が、その事件を、自分の成長の機会へと繋げられたのでしょうか。霊能者にはそう言われたものの、やっぱりモヤモヤ感が残る。葛藤状態が消えない。それで私に相談して来た。だから私は言ってやったんです、その人に。「離婚は出来ますよ」と。「役所に離婚届を出せばね」って。すっご〜く意地わるく。

 

さてここで、宇宙の構造についての話をしましょう。宇宙を形づくっているものは、詰まるところ、すべてがバイブレーション(波動)であると言ってよく、振動数の低いものから高いものまでが、連続的な階調をつくっています。ごく大ざっぱに言って、振動数が低くなれば物質化が起きて物質界をつくり、振動数が高くなれば非物質化して行き、その先に霊的世界をつくるのです。この全体構造を、宇宙鍵盤とか、オクターブと呼んでいます。

 

ピアノの鍵盤を見ますと、1オクターブ中に白鍵が7つ並んでいます、そして8つめになると、1オクターブ音階が上がります。しかしこの音階の振動数(波長)というのは、階段状に(つまり算術級数的に)等間隔で上下しているのではありません。ギターのフレット間の幅を見れば分かるように、幾何級数的(別の言葉で言えばスパイラル状に)に増減しているのです。

 

神秘学では、この宇宙を、振動数の違いから大きく7つに分けています。この7つの領域には明確な境界線があるわけではなく、虹色を7色で代表しているように、便宜上、大まかに7つに分け、それを振動数の低い領域から順番に、第1、第2、第3、・・・第7霊性密度と呼んでいるのです。「密度」というのは「振動数」と同じ意味の別名です。

 

紛らわしいのは、一般的にはこれを「次元」と呼ぶ習わしがあるので、殆どの人が数学的次元と混同してしまい、ワケが分からない状態に陥っています。例えば、「アセンションというのは、3次元から5次元にジャンプすることだ」と言うと、「はて?」ということになってしまうわけです。ですが、この「次元」という言葉は、数学的次元のことではなくて、振動数の違いによる階層を表しているのだと理解してください。

 

*この宇宙:〈この〉と付けているのは、実は、宇宙は〈この〉宇宙だけではないからです。〈この〉宇宙の7層をジャンプすれば、つまり1オクターブ上がれば、別の宇宙もあるということです。しかしながら、〈この〉宇宙内にいる以上、別の宇宙を知覚することは、我々には不可能です。

 

さて、この7層のうち、振動数の低い1〜3までが物質界、高い5〜7を一般的に霊界と呼んでいます。では、中間にある第4霊性密度(四次元)は何かと言いますと、文字通り中間の「半霊半物質界」なのです。これはどちらの性質も半分ずつ有するということで、中有と呼ばれたり、人によっては心霊界と言ったり、また西洋ではアストラル界と呼ばれたりしています。

 

この第4霊性密度(四次元)の領域を、物質界側(つまり「この世」)から見ますと、そこには霊界の性質の一部(それも最下層)が漏れ出てきているのが伺えるわけです。そしてこの領域を、古くは宗教で「地獄」と呼んで来たのです。スウェデンボルグやJ.S.ワードもそう呼んで、地獄の見聞記を著しました。この層を「地獄」と呼んだのは、そう言って脅した方が、宗教的ドグマを植え付ける際には単純で解りやすかったからです。

 

しかし20世紀に入って、ロバート・モンローがこの階層構造を再精緻化し、第4霊性密度に当たる領域を「信念体系領域(別名「囚われ領域」)」と名づけ直したのです。これは正に言い得て妙で、その階層の特徴を見事に表現していました。

 

「地獄」と言いますと、何か地の底にあるおどろおどろしい世界のようなイメージがするかと思いますが、実際にはそうではないということです。この領域は、第5霊性密度(つまり天国に向かう入り口)の手前にあります。そのため、第5霊性密度の領域に踏み込むためには、第4霊性密度(=囚われ領域=かつての地獄)の川を通過して行かなければならないのです。これがアセンションのジャンプの意味です。ところが、実に、これが至難の技なのです。

 

なぜ至難かと言いますと、宇宙には絶対的とも言える「波動の法則」なるものがあって、同種のバイブレーションしか引き合えないからです。ですから、高次元の存在と出会うためには、先ずは自分の波動を、第5霊性密度の領域に引き上げる必要があるのです。一方、高次元の存在は、敢えて振動数を低下させて第5霊性密度まで降りて来ます。そのようにして出会えた場合にのみ、高い波動とのチャンネルが開かれるのです。

 

ではどうすれば、第4霊性密度の川を超えて、第5霊性密度の領域に入って行けるのでしょうか? 答えは簡単です。ですが、それを実行するとなると極めて難しいのです。思い出してください。第4霊性密度というのは、どんな領域だったでしょうか。そうです。「信念体系領域」または「囚われ領域」と呼ばれる場所です。ですから、「信念」や「囚われ」を持っていては、ここを通過できないのです。

 

少しでも、自分にそうしたものが残っていると、それと同じ波長を有した第4霊性密度の領域に捕まって、川に落ちてしまうのです。そこで、古来より「執着を捨てよ」ということが繰り返し言われて来たのです。ところが、ウケ狙いの自称「霊能者」が言うことは、そうではありません。聴き手のエゴを刺激したり、優越意識を持たせたり、恐怖心を与えたり、さも有り難みのあるような言葉を吐いて、それがホンモノだと錯覚させていくのです。

 

しかし、その「霊能者」本人にはそうした自覚はありません。騙しているという意識はないのです。本当に自分はホンモノだと思っている。でもそれは、第4霊性密度特有の「囚われ」や「執着」や「信念」から拾って来た言葉を、自分で「神の言葉」だと思い込んで語っているのです。こうした理屈を、一般の人は何も知りません。実はそのようにして、「霊能者」を代理人に仕立てて、人々を操っている「存在」が、そこにいるのです。

 

ですから、私は「信じるな」といつも言っているのです。「信仰」はダメだよと言っているのです。もし「信じ」てしまうと、「欲得フィルター」の上に、さらにもう一枚「信仰フィルター」というものが掛かってしまう。こうなると、操る者の思う壺で、執着を手離すことがさらに難しくなってしまいます。信仰者たちは、みな喜んで鎖に繋がれ「牢獄の中にいる安全」に身を委ねるようになって行くのです。

 

この『気づきの啓示板』とて、もちろん例外ではありません。一切を「信じ」てはなりません。他人の言葉を信じるのではなくて、それを刺激に、ご自分の中に、メッセージを「発見」して欲しいのです。あなたを成長させる要素は、究極的にはあなたの「気づき」の中にしかありません。外にあるものはみな、あなたの背景でしかないのです。外から来るものを「信じ」たら、あなたはそのロボットにされてしまうことでしょう。


メッセージとは何でしょうか? このブログは、あなた宛に書かれたものではありません。でも、「うん、正にドンピシャ。これは今の自分へのメッセージだ!」と読むのは、まったく正しい読み方です。それは、その瞬間、あなたが、本当に自分に贈ったメッセージなのです。このブログに限りません。あなたの周囲はメッセージで溢れかえっています。その中で、あなた自身が「発見」したことだけが、自分へのメッセージとなるのです。

 

ですが、次が肝心。あなたは、今の自分の「純粋さ」に応じたメッセージしか受け取ることが出来ないのです。目の粗いフルイには、エゴというゴツゴツした石しか引っ掛からないのですよ。執着を手離せていない人に、どんなに光り輝く宝石を降らせてみても、みんな粗い網目から零れ落ちてしまう。ただ「純粋さ」のみが、同じ「純粋さ」の精妙な波動をキャッチ出来るのです。

 

神はお節介を焼きません。お節介を焼いたところで、「純粋さ」のフルイがその人の中に育っていなければ、何んの役にも立たないのです。ですから、神は、あなたから欲得の皮がすっかり剥げ落ちて、「純粋さ」の青々とした新芽が顔を出すのを、今か今かとじっと待っているのです。ここを、しっかりと理解しなくてはなりません。すべては、あなたの今の「あり様」に掛かっているということです。

 

ですから、「自分は霊能者だ」と言って、近寄って来る者には気をつけなさい。特に、善意の忠告をして来る者にはね。本物は、自分の役割を解っていますし、自分の言動の下に誰かを従わせようとすることなど絶対にありません。本物とニセモノを見分けてください。目覚めた者が、他者の上に君臨することなど不可能なのです。なぜって目覚めているのですから。

 

目覚めているということは、「あなたとわたしは同じである」ということを、知っているということです。そのような極みに達した人間が、どうして自分と他の人を分けて、自分を王様の地位に置けるものでしょうか? 霊能者を先生と呼んでありがたがったり、霊能者もそう呼ばれることに満足しているようなあり方は、互いの「分離」意識を強めて行くだけです。それはonenessではありません。

 

霊能者のご託宣を聞きたい。そう思っている間は、まだ自分が「分離」意識の中にあるということです。そういう段階も、確かに学びの一つには違いありません。でも、いつまでもいつまでもそのままであっては進歩がありません。そんなことをしなくても、それぞれが、自分の内なる声を聞けばよいのです。また、究極的には、それしかないのです。

 

なぜなら、

 

あなたも神の一部なのですから。

霊能と霊能者について

世間には、様々な霊能(超能力)を主張する、自称「霊能者」がたくさんいらっしゃいます。しかし、「霊能」とはどういうものかということについても、また「霊能者」にもピンからキリまでいるということについても、その実体や詳細についてはあまり知られておりません。いや、まったく知られていないと言った方がよいくらいでしょう。そのため、この分野には、21世紀に入っても、未だに中世と同レベルの混乱状況が続いています。

 

20世紀の後半から、理論物理学や宇宙天文学が急速な発展を見せ、今や超ミクロの世界と超マクロの世界が一体のものとして明らかにされつつあります。これまでの「現象を追う科学」が、いよいよ「因の科学」に迫ろうかという段階に至っているのです。もう中世の時代ではありません。宇宙の構造について本当の知識が必要な時期にきているのと同様に、この分野にも本当の知識が必要となっているのです。

 

先ず、「霊能」というものは特殊な能力ではない、ということを知っていただきたいと思います。それは、誰にも備わっているものなのです。人間は本来、誰もが超能力者なのです。なぜなら、そのようにして創造されたのですから。ただしその能力には、人によって差があります。駆けっこを思い浮かべてください。早い人、遅い人、いろいろいるでしょう。それらと何も変わりがありません。

 

生まれつき足が早く、子どもの頃から大会に出場すればいつも一等という人もいれば、高校までの部活ではそれほど目立たなかったのに、その後よき指導者についてオリンピック選手にまでなったという人だっています。また、将来を嘱望されていたのに、悪い連中に捕まってしまい、曲がった道へ入ったという人だっています。それと、何ら変わりがありません。

 

つまり「霊能」は、人間がいろいろ持っている能力の一分野に過ぎないのです。それなのに、「霊能」だけが特別扱いされているのは、他の能力の多くが、いわゆる「五感」に基づいて構築されているのに対して、「霊能」は「五感」を超えた能力(いわゆる「第六感」以上)であるためです。大半の人々は、この分野についての知識が全くと言っていいほどありません。そこで、特殊な感じがするというだけなのです。

 

ところが、これは知られていないことですが、本人が通常の能力だと思ってやっていることでも、実は「第六感」以上の助けを借りてやっているという場面が少なくないのです。最近では「Zone に入る」という言い方をするようですが、いわゆる「神懸かり」という心境です。何かに没頭して作業をしている時に、信じられない力が湧く。ふとした瞬間に光が射したようにインスピレーションが入る。これらはみな、あなたが超能力者になった瞬間です。

 

超能力を意味する、英語の「psychic(サイキック)」、略して「PSY(サイ)」などと使われることも多いですが、この語源は、古代ギリシア語の「Ψυχή:Psyche(プシュケー)」から来ています。プシューというのは、息を吐く時の擬声語で、元々は「呼吸」を意味しました。それが、以前にも書いたように、息→生き→生命→魂→精神→心、といった概念にまで拡大使用されて行ったのです。

 

このような、言葉の成り立ちを見ても、「霊能」は決して特殊能力ではないということがお解りいただけるでしょう。泥(それは宇宙にあまねく存在する元素)をこねた(組み合わせた)人形に、息(SOUL 及び生命エネルギー)を吹き込んで人間が出来たという「神話」は、本当のことを模写したものなのです。ですから、人間は本来、誰もが超能力者なのです。

 

それなのに、なぜ、能力差が存在するのでしょうか? これには三つの理由があります。一つは先天的なものです。先天的ですから、DNAに秘密があります。しかし、そういうDNAの配列を、両親を選んで、組み合わせを決めて誕生して来たのはその人自身、つまりその人の「魂」です。ですから、先天的な違いというのは、元を辿れば、「魂」の成長段階や役割に違いがあったということになります。

 

同じ人間であるのに、DNAの配列に「霊能」差が生じているのは、人類の創生にその秘密があります。多くの人類学者が主張し、教科書で教えられている「人類誕生の物語」は正しくはありません。人間は、類人猿から進化したのではありません。これも神話に書かれているとおり、霊魂が堕落し(振動数を下げ)、楽園から追放された(流刑にあった)ことによって物質化し、肉体を持った「人間」というものが誕生したのです。

 

これは、わずか数世代で成し遂げられ、五色人(それぞれ黒、白、黄、赤、青色の肌を持つ人類)が、ほぼ同時期に地球上に誕生しました。しかしその後、人類を奴隷にして支配したい者が現れ、そのために「第六感」以上を切断された改造人間が、支配者層によって新たに創造されたのです。やがて「第六感」を持つ者と、持たない者との混血が進み、今のような能力差が生じるに至ったのです。

 

さて、二番めの理由は、今も少し触れたように、その人の「魂」の、成長度合いと役割に違いがあるためです。すべての「魂」は、ただ一者から生じ、地球人として地上に誕生した「魂」は、ここで「愛」についての実地学習体験を重ねながら、元の一者へと還る旅を続けます。その際に、輪廻転生を何度も繰り返す中で、先を歩む者、早く行く者と、遅れる者、遅い者との差がしだいに出て来るのです。

 

そして、三番めは、訓練です。いま言ったことを、自覚しながら生きるのと、知らないで生きるのとでは、「魂」の進み方が違って来るのです。今の自分にサイキックな能力は何もないと感じておられる方でも、訓練によって、切断された「第六感」を回復させることは可能です。ただし、これを「超能力開発」とは捉えないでください。実体は、「本来の自分に帰る」というただそれだけのことなのです。

 

*「超能力開発」は、決して誉められたものではありません。むしろ避けるべきもの、慎重に取り組むべきものです。その理由は、次に書くことから解っていただけるでしょう。

 

私たちの大半は、いま生きている、この物質世界が宇宙のすべてだと思い込んでいます。ところが、最新の研究成果によれば、物質的宇宙は、全宇宙のたった5パーセントに過ぎないという結論が導き出されているのです。あとの95パーセントは、どうやら物質ではないもので構成されているらしい、というところまで来ているのです。このことは、もっと詳しい数字で、前回にも触れました。

 

この「物質ではないもの」が何かについては、現代科学の学問上では未だ「謎」とされているのですが、「霊的な世界」と言って間違いはありません。その際に、注意しなければならないのは、この「霊的な世界」なるものは、決して「物質世界」と対峙するような形で存在しているわけではないということです。コインの裏表のような、「この世」に対する「あの世」ではないということですね。

 

実際には、宇宙全体が「霊的な世界」によって包含されているのです。それは無時間、無空間の、非局所的な世界です。その宇宙の中に、振動数の揺らぎが生じ、それによって塊りが生まれ、さらに振動数が下がることによって半霊半物質化して行き、ついには物質が現れるという、振動数によるヒエラルキーが構成されているのです。そういう全体構造の中で、物質化したものはたったの5パーセントに過ぎないということなのです。

 

ちょっと専門的になりますが、非局所的な、振動するエネルギーの海の中に、局所的な場が誕生するのです。私たちが「物」だと思って目にしているものは、局所的に出現した原子が、主張する縄張りのようなもので、物質の間はスカスカであり、その間にも実は「霊的な世界」が満ちているのです。これらの総量を計算すると、ざっと物質が5パーセント、半霊半物が25パーセント、霊的エネルギーが70パーセントになるということです。

 

さて、前回までの話を思い出してください。半霊半物界というのは、第4霊性密度(4次元)の領域(この振動数の帯域)です。そしてここは、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈する世界、別名「地獄」だということを申し上げたと思います。しかしこれは方便であり、実際には「地獄」というものはありません。これは、ロバート・モンローが言ったように、様々な「信念」体系を持ったグループが集まる帯域となっているのです。

 

サイキックな能力が出て来た(あるいは生まれつきある)と主張する人の大半は、この第4霊性密度(4次元)領域に波長を合わせることが出来るのです。それは、第3霊性密度(3次元)の領域にいる人間から見れば、通常の人にはない「超能力」のように見えます。そこで、「超能力」を有り難がる人と、「超能力」をウリにしたい人との需要と供給がガッチリ噛み合い、オカルティック・ワールドが、商売としてあちこちに成立するのです。

 

その中には、法外なお金を取って「霊視して上げるよ」と言ったり、「あなたには悪い霊が憑いているから」と言っては、「除霊して上げますから、ハイ、○万円」と言ったり、「この石を持てば幸福になれるよ」と説いたりする人もいるのです。また、「何月何日に大地震が来るぞ」「巨大隕石が衝突するぞ」などど言っては、大衆を震え上がらせる人もいます。

 

しかし、これも何度も言いましたが、高次元(第5、第6霊性密度)の存在が、そのような脅しをしたり、悪さをしたりすることは、絶対に絶対にありません。なぜ「絶対に」と言い切れるのか? 脅しや悪さをするようなレベルにある「魂」が、第5、第6霊性密度に上がることは、そもそも不可能だからです。霊界というところは、純然たる階層構造(その階層は、振動数=霊性の違いによる)から成り立っているのです。

 

あなた方に認識していただきたいのは、霊能の有無と、霊性の高さとは何の関係もないということです。ここを間違ってはいけません。駆けっこの早い人がみんな人間性が高いのかと言えば、決してそうじゃない。それと一緒です。霊能は、単なる一能力に過ぎないのです。けれども、アスリートとして抜群の能力を持ち、かつ人間性も高いという人が稀にいるように、霊能と霊性の高さが一致した人がごく稀にいるというだけの話です。

 

では、先の例に挙げたような霊能者は、いったい何とつながって、どんな情報を下ろしているのでしょうか。多くの霊能者は、第4霊性密度の存在とつながって、その言葉を下ろしています。第4霊性密度には、地上世界と同じように、ある「信念」を持った特定グループや宗教団体が数多くあって、こことコンタクトした霊能者が、それを「神」の言葉として称して、信者さんたちに下ろしているのです。

 

それは、その霊能者に、そういう自覚がないから出来ることです。本当に「神」の言葉だと思っているのです。驚くべきことに、自称「霊能者」の大半は、霊界の構造のことも、真理の法則についても、何も知識がありません。ましてや、人間の心理やそのケアについての技量も習熟しているわけではありません。ただただ、自分の感覚だけでやっているのです。けれども、一般の人も同様な無智の中にありますから、それでお互いが成り立っているのです。

 

こうした現象がちっとも是正されないのは、やはり、人々がまだ、「この世」に意識を留めたまま、「この世」の視点から、物資的世界を超えた不思議世界を垣間みようとする意識が抜けないためです。そうすると、このような人たちにとっては、第4も、第5も、第6霊性密度も、まったく区別がつかないわけですね。全部をひっくるめて不思議ワールドなわけです。

 

むしろ、高い次元の言葉ほど、当たり前に見えてつまらなく思え、素通りしてしまう。それよりも、4次元の話の方がずっとエキサイティングだし刺激的です。大地震とか、株価とか、UFOとか、古代ロマンとか、憑依とか、スプーン曲げとか、夢を叶えるとか、お肌スベスベとか。それで、残念ながら「光への道」を本当に歩もうとする人は、極めて少数になってしまうのです。

 

これで、なぜ「超能力開発」が誉められたものではないのか、もうお解りでしょう。オカルティックなものに興味を持った人は、すぐにその領域の虜にされてしまいます。それは、その帯域の波長(振動数)に、自分の波長を合わせてしまうということです。そのように誘導することで、支配を目論む輩がいるのですよ。彼らは、そうして集まる人々のエネルギーを吸い取って生活しているのです。

 

しかし、21世紀という時代、新しい神学が必要とされる時代に既に入ったのですから、これからは逆に見て欲しいということです。宇宙のすべては、先ず「霊的世界」というものが先にあり、そこに包含される形で、半霊半物界と、物質界がちょこっとだけある。その全体構造が俯瞰して見えれば、半霊半物界(オカルト世界)とつながって下ろされた言葉が、いかに中途半端なものであるかが、想像できるのではないでしょうか。

 

高次元の存在たちは、つねに、自分たちの手足となって働いてくれるメッセンジャーを求めています。そして、一人ひとりの成長を見守りながら、早くパイプ役になってくれないかなぁと期待しています。

 

そう、それはパイプ役。パイプに成り切るには、いかに「自分」を滅するかが問われるのです。エゴや、特定の信念や、オカルト的興味やらが残っていたのでは、先ずもってまったくお話になりません。それらを滅した上で、メッセンジャーにはさらに二つの資質が問われるのです。その人の「霊性進化」の度合いと、ツール(パイプ役)としての技量です。

 

「霊性進化」の度合いは、伝える内容のレベルを決定づけます。パイプ役になる者は、自分の振動数を上げて上に近づき、他方、高次元の存在たちは、振動数を下げてこちらと握手しようとして来ます。その握手地点を出来るだけ高いポイントで行うためには、パイプ役となる者が、つねに高い霊性を目指し、かつそれを保つように、自分を律して生きなければならないのです。

 

一方、技量というのは、例えば、言葉でメッセージを伝える役ならば、語彙の豊富さや、構成力、文章力、語り口などの影響が、メッセージに如実に反映されてしまうのです。ある「概念」が下りて来たときに、それを地上の言葉に置き換える方法は何百、何千通りとある。それをどうするかによって、個性が出てしまうわけですね。同様に、絵描きならば絵の技量、音楽家ならば音楽の技量、料理人ならば料理の技量に表現が左右されてしまうということです。

 

そこで常々、「完全なる奉仕の人となれ」と言っているわけです。しかし、いかに厳しく律したとしても、地上にある者は、所詮は「人間」であることを、メッセージを送る者も自覚し、メッセージを受け取る者も考慮することが大切です。いま述べたようなメカニズムから、どんなメッセージにも、必ず「歪み」が入るのです。ですから、どんなメッセージも、これを単純に絶対視したり、丸呑みしたりしてはいけません。

 

また、メッセンジャー本人を神格化してもいけません。イエスにしろ、ブッダにしろ、(決して貶めようというわけではないのですが)その時代のメッセンジャーの一人に過ぎないのです。同様に、言行録やリーディングによって書かれた聖書や聖典の類も、決して絶対視してはなりません。後世、人によってまとめられた書物というものは、「歪み」だらけなのです。なぜなら、それは「組織」の合意を経て表されたものなのですから。

 

あなた方には、先ず、本物と偽物を見分ける眼、霊的に高いものと低いものを嗅ぎ分ける鼻が必要です。どんなメッセージも、「これは、いま自分のために、自分に向けて届けられたものである」と読むことが大切です。実際にそうなのですから。すべてはグッド・タイミング。これを、あなたはまだ不思議現象だと捉えますか? いま言ったばかりでしょう。私たちのベースにあるものは、非局所的、無時間、無空間の世界なのだと。

 

それを、「この世」的に見ると、グッド・タイミングに見えるというだけの話です。この理屈が、解りますか? すべては、自分が創造しているのですよ。あなたの創造の瞬間に、いま必要な言葉が、オーダーメイドで用意されるのです。ああ、なんて素敵なのでしょう。だから、あなたは自分を信じて、より善き人となりなさい。瞬間、瞬間で受け取るギフトを、余すところなく受け取りなさい。

 

それが、あなたを成長させる。友よ、待っているよ。あなたの活躍を。

オクターブの法則

物質的なものから非物質的なものまで含めて、「宇宙」というものが階層構造からなるということは、いにしえの時代より繰り返し指摘されて来たことでした。ところが、この階層構造の分け方や名称というものに、まったく統一性がないのです。残念なことに、これが霊的な世界、とりわけ「真理の法則」への理解を阻む大きな要因となってしまっています。

 

例えば、このブログを読んでくださっている方なら、現界、幽界、霊界、神界といった名称を、多分どこかでお聞きになったことがあると思います。これは全体を4層に分けています。しかし、ひとによっては、神界を仏界と呼んだり、幽界を冥界と呼んだりもしています。また幽界と現界との間に幽現界を設ける人もあり、それですと5層ということになります。

 

仏教の方ですと、霊的世界を上品、中品、下品(品は “ぼん” と読む)の大きく3つに分け、さらにそれを上生、中生、下生に分ける分け方(これですと9層、現界を含めれば10層になる)や、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏陀という段階を設定した「十界論」が知られています。また親鸞は、霊界の上部を、化身土、真仏土、無上仏に分類しました。

 

『シャーロック・ホームズ』で有名なアーサー・コナン・ドイルは、霊界の研究家でもあったのですが、両端に地上界と天界を置き、その間を三品(さんぼん)と同じように大きく3×3の9層に分ける見方をとっています。神智学を顕したマダム・ブラヴァツキーは、全体を7層に分けていますが、最下層に物質界を置き、上の6層全部は霊的世界とし、各層に特殊な名称を付与しています。

 

また、神秘学やヨーガの方では、エーテル界、アストラル界、カラーナ界、プルシャ界といった名称を使うことが多く(英語とヒンディー語がごちゃまぜ)、ひとによっては、カラーナ界をコーザル界と言ったり、さらにはそれらを日本語訳した、原因、微細、粗大といった言葉もあって、とにかくもうバラバラ。何が何やらさっぱり解らないという混乱状態が今もって続いているのです。

 

さて、そうしますと、初めて三品説を聞かされた人は「ああ、そうなのか」と思うでしょうし、4層説を聞かされた人は「そういうものかなぁ」と思うでしょう。「十界論」を聞かされた人は「なるほど」と思うかも知れません。そして、ただ思うだけではなく、これこそが真実だと言って周囲に吹聴する人も現れるでしょう。

 

すると、宇宙が階層構造であるという考え方はみな共通しているのに、その理解を巡っては議論百出。下手をすると、争いが生じるということにも成りかねないのです。現に、宗教間ではそのような問題が生じています。そういうことがあるために、外から教えられた情報は何も「信じるな」と、私は言っているわけです。もちろん、ここで私が書いてることも「信じ」てはいけません。最後の最後は、あなたが自分に問うて欲しいのです。

 

けれども私は、この混乱状態をなんとかしたいと思いました。なぜならば、私自身が、初期においてこの混乱に巻き込まれ、大変な苦労をしたからです。およそ20年の回り道をしたと言ってもよいでしょう。前回も触れたように、アセンションというものがなぜ3次元から5次元へのジャンプなのか、ということすらも解らなかったのです。

 

そこで、この無用の混乱を解いて、もっとシンプルで解りやすい、普遍的な構造体系を示せれば、後に続く人たちは、自分と同じような回り道はせずに、すーっと「宇宙の真理」「宇宙の法則」「光への道」へと入って行けるだろうと考えました。またそれが、私に示された役割なのだろうと、後に思うようになりました。

 

その後、(それが、いつ、どのようにしてだったかは忘れてしまったのですが)電撃的に、前回に書いた「霊性密度(Spiritual Density)」の概念と、構造とを理解するに至ったのです。その結果、7つのチャクラとの関係性や、宇宙と人体が相似形であることや、ヘルメスの言った「下なるものは上なるもののごとく」の意味も、まるで明かりがポッと灯ったように解ったのです。無明からの脱出です。

 

ヒントになったのは、ロバート・モンローの「Focus」という概念とその数え方でした。「Focus」というのは「焦点」という意味であり、モンローは、霊的世界の階層構造に番号を付けて、瞑想を行う際に、この番号に意識を絞る(焦点を当てる)という技法を用いて、各階層への旅を恣意的に実現する道を開いたのです。それは、まさに画期的と言ってよい偉業でした。

 

このモンローの「Focus」番号が、1〜49番まで付けらているのです。49という数字は、7×7です。階層を大きく7つに分けて、さらにそれを7分するという考え方は、すでに有ったのですが、ロバート・モンローはこれを科学的かつ論理的に示した最初の人でした。

 

このモンローが示した「Focus」概念と、その他で示されていた情報を付き合わせると、ほぼ合理的な一致が見出せることを私は突き止めました。以来、「虹の学校」では、この7つの階層をチャート化したものをベースに、宇宙の構造をお話ししています。そして、このチャートを見れば、アセンションがなぜ3次元から5次元へのジャンプなのかということも、すんなり理解ができるのです。

 

*チャートは、それに関係したセミナーを行った際に、参加者にお渡ししています。

 

さて、以上が前置きです。この、宇宙が7×7の階層になっていること、そしてこの階層を決めているものは、ただ一つ「振動数(=密度)」の違いによるということを示したものが「オクターブの法則」です。オクターブ(octave)と聞いて、音楽用語にそれがあることを、みなさんすぐに思い浮かべられるでしょう。この語源は、ラテン語で8番めを意味する “octavus” です。ちなみに足が8本ある蛸は、英語で “Octopus” と言いますよね。

 

ハテ? 7階層なのに、なぜ8番めを意味する「オクターブ」なのか。とここで、疑問に思われた方もきっとおられるでしょう。そこで、解りやすくドレミファで示しますと、7番め(シ)の次の音階(つまり8番め)は、次のドの音となります。この時、1オクターブ上がったという言い方をします。その音の振動数は、元の1オクータブ下のドのちょうど2倍になるのです。これを「倍音」と言います。

 

つまり、振動数が1から2に至るまでの間を、7つに分けた階層が「オクターブ」なのです。ではこれを、いつ、誰が、どのようにして、何を理由に、7つに分けることを決めたのでしょうか? この「7音階」を定めた人が、誰あろう、みなさんよくご存知のピュタゴラスなのです。ピュタゴラスは、今日では数学者ということにされていますが、実際には「宇宙の真理」を届けるメッセンジャーでした。

 

ピュタゴラスは、振動数が1〜2倍に変化する間に、協和する振動数がないかを探ろうとしました。斉唱を男女混成で行いますと、普通は男女で1オクターブの音程差があります。場合によっては2オクターブ(3倍)、3オクターブ(4倍)の開きがあることもあります。でも、n倍音の差で斉唱を行っている場合には、まったく違和感がなく、協和しているように人は感じます。

 

そこでピュタゴラスは、1から2の間で、他に協和する音を探るために、3倍音に注目しました。これは倍音ですから無条件に協和します。しかしこのままでは2を超えていますので、3を2で割ったのです(3倍音を2倍音と考えてその半分にすればよいから)。こうして元の音に対して、1.5という数字が導き出されました。ドを1とすると、1.5の振動数に当たる音、それがソです。

 

次に、このソの振動数を元にして、再び3倍し、また2以下に収まるまで2で割るという繰り返し作業を行い、3×3=9、割ることの2×2×2=8、つまり9/8=1.125という数字が導き出されました。この音が、レに相当します。以下、同様にして、次々と音階を求め、この作業を12回行ったところで打ち止めにしたのです。

 

*ただしピュタゴラスのこの方法では、3のn乗/2のn乗=2に相当する数が、3も2もともに素数であるために存在しません。いちばん近い値は、3の11乗/2の18乗で、2.02729...と端数が出てきてしまうのです。そこで現在は、次に述べる¹²√‾2の周波数比をとった「平均律」が採用されています。これによって、響きは多少犠牲になるのですが、移調というものが可能になりました。

 

こうした結果、1オクターブ間に12の音階が並ぶことになりました。ピアノの鍵盤を見ますと、白鍵、黒鍵合わせて、1オクターブ間に12個の鍵盤があります。このうち白鍵の数は7個です。12個は周波数比で、¹²√‾2=1.0594...の間隔に配置されており、これが半音。半音2つの幅をとったものが全音となります。そして、全・全・全・半・全・全・半の間隔を選んでいった音が、ドレミファアソラシという白鍵の7音階なのです。

 

さて、12と7という数字が出てきましたね。これは別の回にも書きましたが、ともに神秘数であり、12は量的な総数を表し、7は段階的な総数を表しています。12は円形を分けるのに便利なのです。丸いケーキを思い浮かべてください。2にも、3にも、4にも、6にもすぐに分けられます。そこで、時計、1年、星座、方位など、円環を描くものが12分割されているのです。

 

一方の7という数字は、ドレミファだけでなく、一週間がそうですし、電子の軌道も7つです。また結晶構造の数も7つあることが知られています。このように7という数字は段階的なものを表している数なのです。では、「虹の七色」というのはどうなのでしょうか?

 

白色光をプリズムで分解しますと、波長別に屈折率の違いが出るために、いわゆる虹色が見えます。雨が上がった空に虹が見えるのは、空気中の水滴がプリズム効果をもたらすためです。

 

さて、「虹の七色」と言って、この言葉を何の疑問もなく使っているのですが、スペクトルをよく見ますと、虹色は実際にはグラデーション状に変化しており、決して七色の帯ではないことが判ります。つまり、「虹の七色」というのは、実際にはグラデーション状に連なっている色の変化を、人為的に7つに分けたものなのです。

 

さあ、これで冒頭に書いた、宇宙の階層構造には様々な異論がある、ということの理由がお解りでしょう。まったく同じ理由によります。実際には、振動数というものはグラデーション状に変化しているのですが、それをどう分けるか、切るかという見方の違いにより様々な説が生じているのです。当の「虹の七色」も、日本以外では6色に数えるところも多いんですよ。

 

さらに言いますと、このグラデーション状の振動数変化というのは、冪乗(べきじょう)で変化しているのです。これを示してくれたのが、大橋正雄さんとイームズです。この振動数の連続的変化を図示すると、対数螺旋(ベルヌーイカーブ)となり、結局、渦巻き状に無限縮小、無限拡大しているという構造になります。また、対数螺旋を部分で切り取ると、いわゆる黄金比(1:1.618)が現れます。それで神殿建築(神が宿る場所)には黄金比が多用されているのです。

 

では、なぜ7つに分けるのか、ということです。これも人為的に7つに切ったわけですが(7つに刀で分けたのが「切」という文字)、7つに分けると、7段階をそれぞれ象徴している意味が、非常に明快に解釈出来るためです。また、人体上のチャクラの数が7つであり(12説もある)その関連性も極めて明快に説明できるのです。もちろん7が神秘数であるということもあります。

 

さて、宇宙というものは、ただ一つの「振動するエネルギー体」が素となり、これが振動数を下げていくことで塊りをつくり、魂(Soul)となり、また他方では物質化という現象が起こっているということを前回に述べました。別の言い方をすれば、物質的なものも、非物質的なものも、宇宙のすべては「振動するエネルギー体」が変化したものだということです。

 

その時、7つの階層に対して下(振動数の低いもの)から番号を付けていくと、第1、第2、第3霊性密度が物質界、第5、第6、第7霊性密度が非物質界(霊界)となるのです。そして中間にある第4霊性密度は、文字どおり中間の、半霊半物質界ということになります。ですから、「アセンション」というものが3から5にジャンプするというのは、この領域を超えてしまうということを意味します。

 

ところで、最新の宇宙物理学では、今まで、それが宇宙のすべてであると思っていた「物質」(星々に代表されるもの)が、実際には、全宇宙のたった4.9%に過ぎないということが計算上から弾き出されています。そして、26.8%がダークマター(dark matter:暗黒物質)、68.3%がダークエネルギー(dark energy:暗黒エネルギー)であると、(今のところ)結論づけられているのです。

 

このダーク(暗黒)というのは、「悪いやつ」という意味ではなく、光学的に観測できない(遠くの星を観察するには、光を見ることになるのですが、その光が見えない)ために、その名がつけられています。それが何であるかは判らないけれども、宇宙には、見えな物質らしきものが26.8%あり、見えないし物質でもないエネルギーが、さらに68.3%あるというのです。

 

これも、これまで現象面をずっと追いかけて来た現代科学が、因の世界にグッと近づいた一つの例です。神秘学では、物質的世界など、全宇宙からすればほんの僅かなものであるということは、ずっと言い続けてきたことです。ダークマターが第4霊性密度の世界、ダークエネルギーが第5、第6、第7霊性密度の非物質界(霊界)のことだと考えてみてください。すんなり理解が出来るのではないでしょうか。

 

ではここで、第1から第7までの霊性密度にドレミファソラシを当てはめてみましょう。そうすると、第3から第4に移行する時に半音階、第7からその上の第8に移行する時に、また半音階が来ていることがお解りでしょう。ゲオルギイ・グルジエフは、これを「ショック」と呼びました。ミ→ファと、シ→ドへの移行部分に半音階の「ショック」があるのです。

 

*ゲオルギイ・グルジエフ:エニアグラムを世に紹介したことで有名。

 

さて、どんな「ショック」なのでしょうか? ミ→ファのショックは、物質界から非物質界へと突入するというショックです。シ→ドは、この宇宙の最高のもの、つまり創造神から、それよりも高い「何か」へとジャンプするというショックです。さて、創造神よりも高い次元のもの(第8霊性密度)とはいったい何なのでしょうか?

 

言うなれば、それが絶対神です。宇宙の創造神と、絶対神とは違う。宇宙の創造主は、現にこうして被創造物である宇宙がある以上、その創造者も、論理的に考えれば有る(在る)はずです。しかし有る(在る)ものは変化しますから、それは「絶対」とは呼べません。では「絶対」と呼べるものが、果たして宇宙にはあるのでしょうか? もしあるとすれば、それは「無」だけです。「無」は変化しませんから。そのような結論に至ります。

 

しかし、この論理は矛盾を孕んでいます。「無」が「有る」と言ってしまうと、それは「無」ではなくて「有」になってしまいます。ですから、「無」はどこまでいっても「無」です。「無」が何かと言われても答えようがない。「無」は「無」としか言いようがありません。しかし、「無」以外に変化しないもの、つまり「絶対」はないのです。

 

すると、私たちとしては、こう考えるしかありません。この「宇宙」の創造主すらも超えた、「絶対」なる何かがきっとおわすのだろう。しかしそれは「無」なのだから、あるとは言えない。結局、私たちがどう考えようが、その問題には結論が出ない。だから「無」だ。つまり考えても「無駄」(シャレです)。となってしまうのです。どうも、お後がよろしいようで。

 

今日のところはそこまでにしましょう。この第8霊性密度については、別の考えもあります。それはまた機会があればお話することにいたしましょう。

地球のアセンション

アセンション(Ascension)とは上昇すること。何が上昇するのかというと、いわゆる「次元」です。この「次元」が、三次元から、四を跳び越して、一気に五次元にジャンプする。それが「アセンション」です。

 

さて、この「次元」という言い方なのですが、この名称が多くの人に誤解を与え、「宇宙」の構造に関する理解を難しくさせてしまっています。私も時に、通例に倣って「人間は多次元的存在」などと書いたりしているのですが、誤解を増幅させてしまっているかも知れません。そこでこの際、ちゃんとしたことを書いておこうと思います。

 

これからお話することについては、簡単にですが、今までにも何回か触れたことがあります。けれども、数学や物理学に関連した話をちょっとでもすると、どうもドン引きする人が多くて、今までキチンとお伝えすることは遠慮していました。でも、今回はちゃんと話しますので、頑張って着いて来てくださいね。

 

そもそも、「アセンション」で言っているところの「次元」というのは、数学で言うところの「次元」とは、全く異なる概念なのです。これは「アセンション」に限らず、今後は、神秘学において「次元」という言葉を目にした際には、すべてそうだと考えてください。そうすれば、基本的な謎の一つが解けます。

 

数学で言うところの「次元(Dimension)」というのは、移動できる方向の数(自由度)を表しています。点は0次元(どの方向にも動けないため)、直線は1次元(直線上をどちらか一方向に動ける)、平面は2次元(タテ、ヨコの二方向に動ける)、立体は3次元(これに高さが加わり三方向に動ける)となるのです。ということは、私たちがいま住む物質世界は、数学的には3次元世界ということになります。

 

これに時間軸をプラスして、この世は4次元だとする考えもあります。ただし、時間軸は片方向にしか進めません。いわゆる「時間の矢」というものが存在するのです。しかも私たちは、“今” しか知覚・体験できません。“時間” という幅を見ることは出来ないのです。なぜ時間軸が逆行できないかは、今も物理学上の大きな謎とされています。

 

一方の神秘学で言うところの「次元」は、正しくは「霊性密度(Spiritual Density)」と言い、宇宙を構成するあらゆるものを、その振動数の違いによって七階層に分類したものなのです。さてここで、先ず「振動数」という言葉が出て来ました。非物質的なものも含めて、宇宙のあらゆるものが振動しており、霊性の高いものほど微細で精妙な振動数を持ち、低くなるほど大まかで粗雑になっていくのです。

 

この説明にピンと来られない方も多分いらっしゃるでしょう。目の前にあるコーヒーカップが振動しているようには見えないからです。あるいは空気が振動しているようには見えない(空気そのものが見えない)からです。またあるいは、銀河系が振動しているようには、宇宙全体が振動しているようには思えない(観測できない)からです。

 

しかしみなさんは、物質を構成しているものが分子であることをご存知でしょう。そして、その分子を構成しているものが原子であることもご存知でしょう。これら物体を形成している粒子は、目には見えないのですが、みな細かな振動をしているのです。みなさんがよく知っている「熱」というのは、この粒子の振動状態なのです。そこで、この粒子振動を熱運動と呼びます。

 

粒子の振動が激しくなるとその物は高温となり、振動が小さくなると低温となります。一例を挙げましょう。水は、温度が0度から100度までの間に、固体、液体、気体へと変化します。気化した水であるところの水蒸気が膨張圧力を生むのは、水分子が液体時よりも激しく振動するためです。逆に自由度があまり無くなっていくと、水は氷という固体になるのです。

 

さて、最新の物理学は、原子核を構成する陽子や中性子よりもさらに微小な素粒子を発見し、今ではクォークに代表される17個の素粒子からなる「標準モデル」が確立されています。そして、自然界にある四つの力の大統一理論を探る過程で、「標準モデル」の素粒子よりもさらに微細な「素」が存在し、それは「振動するひも」である(超弦理論)という説が主流を占めるに至っているのです。

 

しかしこの「振動するひも」は、理論物理学から出て来たもので、あまりにも微小なために、大型ハドロン衝突型加速器を使っても、実験で確かめることが(今のところ)不可能とされています。一方、神秘学では、古来より、宇宙を構成する「素」は、振動するエネルギー体であるとし、それを「霊(Spirit)」と言って来たのです。つまり現代物理学は、古来より連なる神秘学に、やっと追いついて来たというわけです。

 

*霊(Spirit)については、あまりにも多くの解釈や定義づけが存在し、それぞれの人がそれぞれの説を語っておりますが、ここでは、万物を形成する唯一根源の「素」を霊(Spirit)と定義づけます。

 

よく、霊界の話をすると「そんなもの科学的じゃない」とか「トンデモ話だ」といった決めつけをなさる方がおられるのですが、現代科学は、もはやそのレベルではありません。天文学、物理学、数学が融合し、超微小世界と超巨大世界への観測技術が共に発達したこともあって、この2・30年ほどで急速な進歩を遂げています。そして、そこで得られた推論は、因の科学(現象面の裏にある本当の原因科学)が示して来たものに、どんどん近づいて来ているのです。

 

「Spirit」と「振動するひも」が、同じものだと結論づけるにはまだ早計かも知れません。ですが、『超弦理論』が、この世の常識を超える世界に踏み込んだことは、これまでの科学(現象から現象の法則性を探る)の一線を超えたと言えます。その『超弦理論』は、私たちが住む世界が実は3次元なのではなく、9次元(時間軸を含めると10次元)であるという説を立てています。残りの6次元分は畳み込まれていて観測できないだけだと言うのです。

 

さて神秘学に話を戻しましょう。神秘学では、万物を構成する素は「Spirit」であると言います。しかしこれは、大本の「振動するエネルギー体」が有する機能面の一つであり、他に「根源的生命力」と「宇宙意識」なるものを、この「振動するエネルギー体」は併せ持っているのです。この、三つの要素が、たった一つのものから成るということが、真の「三位一体」の意味なのです。

 

さてその時、元はたった一つのこの「振動するエネルギー体」が、振動数を次第に下げて行きます。すると、水で示した例と同じ様に「Spirit」の自由度がだんだんと減って行き、同種の振動数を持ったエネルギー体が塊りを形成するようになるのです。こうして、非物質であったところの「Spirit」が、半霊半物質状となり、さらに振動数を下げると、遂には物質化という現象が起こるのです。

 

ですから、人間の肉体も、「Spirit」が振動数を下げて物質化して行き、原子となり、それが分子となり、細胞を形づくって肉体を形成したものなのです。ここに、同じく「宇宙意識」の振動数を下げた「魂(Soul)」が結びつき、さらに「根源的生命力」の振動数を下げたプラーナ(気)が供給されて、あなたという一人の人間が、この地上で、この宇宙に生かされているのです。

 

このように、元々は非物質的な「振動するエネルギー体」が、振動を下げることによって、半霊半物質化、さらには物質化という現象が起き、その物質も、様々な化合を経て巨大化し、この大宇宙が出来上がっているのです。宇宙のすべては「波動」であるという言い方は、ここから来ています。ですから、「波動の法則」が「真理」であると言えるのです。それは、たった一つのものから生じているのです。

 

この時、振動数の高低差を、便宜上、七つに分けたものが、よく言われる「次元」、正しく言えば「霊性密度(Spiritual Density)」なのです。密度と、振動数と、波長は、同じことを違った視点から述べたものです。ですから、俗に言う「次元」とは、数学的次元を指しているのではなく、「振動するエネルギー体」の密度、あるいは振動数、あるいは波長を述べたものだということを、しっかり覚えてください。

 

さて、なぜ七つに分けられるのかということなのですが、振動数の違いからなる七つの領域が所持するそれぞれの性質に、大きく七つの特徴があるためなのです。そしてこの特徴をそっくり人体に移したものが、いわゆるチャクラ(中枢)の各働きであり、スシュムナー管上(背骨に重なる場所)に、七カ所に分かれて位置しているのです。

 

このことから、大宇宙(マクロコスモス)と、人体(ミクロコスモス)の相似形が言われ、人間は「神」に似せて創られたという言い方が為されているのです。また、七つの「霊性密度(次元)」を、人体が最初から所持しているという意味から、人間は「多次元的存在」であるという言い方もされるのです。

 

ところが残念なことに、地球に生まれた人間は、このチャクラが充分に目覚めていません。そこでこのチャクラを、眠りから目覚めさせ、活性化させることが求められます。これが、いわゆる「覚醒」の意味であり、完全に目覚めた人を「ブッダ」と呼ぶのです。(この七つの階層については、次回に『オクターブの法則』と題して、詳しい説明をします。えっ、もう結構ですって? まあ、そう言わずに。)

 

七つの階層のうち、上の三つが非物質界(霊界)、下の三つが物質界、そして中間の四番めに位置しているのが半霊半物質界です。地上に生活している人間は、下から三番めの「第三霊性密度」の領域に暮らしているのですが、四番めの半霊半物質界を跳び越えて、非物質界の一番下である五番めの「第五霊性密度」にジャンプすることを「アセンション」と言うのです。しかも、この肉体を持ったまま、地上に現に生活をしながら。

 

*本当はそうではないのに、そこに捕まっている状態。物質を知覚するための五感刺激に嵌まり込み、第六感以上が塞がっている。当然、チャクラも閉じたまま。

 

ややこしいのは、「第三霊性密度」を「次元」と言ってしまうと、これが「三次元」となり、数学的に言うところの「3次元」とちょうど重なり、区別がつかなくなってしまうだけでなく、英語の「Dimension」も「Density」も共に頭文字が「D」ですから、同じ「3D」と表記される場合があるのです。

 

そうしますと、「はて、3次元から5次元にジャンプするとはどういう意味なのだろうか?」「5次元世界とは何なのか?」という話になり、まるでワケが分からなくなってしまうのです。たまたま、そういうものが一致したために、多くの人に混乱を与えてしまっているのです。ということで、今日、その点を解説いたしました。

 

では、「霊性密度」上、なぜ四番めを超えるのか、また超えなくてはならないかと言いますと、半霊半物質界である「第四霊性密度」というのは、いわゆる魑魅魍魎がいる世界なのです。地上に思いを残して死んだ魂や、悪意を持った霊たちがウジャウジャいる世界です。オカルティックなことに興味を持ってはダメだよ、というのはそこです。興味を持った途端、実は、その波動の領域に捕まっているのです。

 

すると、その領域にいるタチの良くない霊たちが、「神」の名を語っていろんなことを伝えて来るのです。それはみな、人間を不安と恐怖と混乱に陥れるためのもので、その理屈を知らない霊媒が、それをそのまま下ろしてしまうのです。人間というのは、残念ながら、宇宙の「真理」を求める人よりも、恐怖の「予言」に興味を抱く人の方が圧倒的に多い。そこで、需要と供給が一致するというわけです。

 

「第四霊性密度」の領域を怖れる必要は、いささかもないのですが(むしろ怖れない方がいい)、オカルティックな興味を抱き続けている限り、アセンションすることは不可能です。なぜなら、それ以上には、自分の波動が(振動数が)上がらないということですから。ここが盲点であり、この「第四霊性密度」の川を渡るということが至難の技なのです。

 

と、以上が前置きです。う〜ん、ずいぶん長い前置きになってしまいましたが、今日お話ししたいことは、別のことなのです。これも以前に書いたことがあると思いますが、今この時期にアセンションすることが運命づけられているのは、実は人間ではなく、地球なのです。地球のアセンションというものが、地球の誕生時から計画されていて、そのタイミングに、既に入ったということ申し上げたいのです。

 

地球というのは、宇宙的に見てどういう惑星であったかと言いますと、「愛の惑星」だったのです。そう聞くと、何か素晴らしい星のように思うでしょうが(実際、ある意味で素晴らしいのですが)、もう少し正確に言うと、「愛を学ぶための惑星」でした。「愛を学ぶための惑星」ということは、裏を返せば、未だ「愛」を知らないレベルの、霊的に低い星だったということです。

 

地球人というのは、私を含めてみな、霊的レベルが低い「魂」が集まっているのであり、この惑星の上に誕生することで、「愛」を学習する機会を与えられたということです。そのために、「分離」意識の非常に強い、エゴと闘争が闊歩する惑星が、太陽系の中に用意されたということなのです。一種の愛のムチと言いますか、実地体験して学びなさいという配慮です。

 

「愛」というのは、別名キリスト精神とも言って、宇宙的に見れば当たり前のものです。地球人からしますと、「愛」はホットな感じがすると思いますが、むしろクールなものです。なぜなら、それは「法則」ですから。ところが地球人は、これに「情」をつけて、「愛情」にしてしまうものですから、ホットな感じになるのです。しかし「愛情」というものは、よく見れば、煩悩そのものなのです。

 

憎悪や支配的感情よりは、「愛情」の方が一歩進んではいます。しかし、家族愛とか、民族愛とか、愛国とか、限定されたものに「愛情」を向けますと、まかり間違えば、それ以外は敵視する、排斥するということになりかねません。そこを超えて、隣人愛、博愛、全地球愛、全宇宙愛となって行けば、本当のキリスト精神に到達するのです。しかしながら、人間はなかなかそこに到達できません。

 

到達できない主原因は、前回のブログで述べました。地球のアセンションというのは、地球という惑星が、「第三霊性密度」から「第五霊性密度」にジャンプする時期にいよいよ入ったということ。それはどういうことかと言いますと、地球が「愛を学ぶための惑星」としての役割を、これで終了するということです。そして、もっと霊性の高い星へと生まれ変わる時がやって来たということです。

 

*正確に言えば、既に60年ほど前から移行期に入っており、その前半の最終章への扉が開いたという段階です。

 

さて、これから書くことを、次の点を頭に刻み込んだ上で、聞いてください。どれもみな言い古されたことですが。

・真の宇宙には、時間も空間もないのだということ

・人間の本質は「霊」にあり、肉体の消滅後も「霊」は生き続けるということ

・地上世界は、そこでしか出来ない体験をするためのものであり、霊的世界から見れば幻に過ぎないのだということ

 

この言い古された真理を、頭で理解するだけでなく、心底そうだなぁと思えるようになるまでには、長い時間がかかるかも知れません。けれども、これを前提とした上で、次にする話を聞くのと、知らないで聞くのとでは、受け取り方がまるで違って来てしまうことでしょう。

 

以上を頭に刻み込んでいただいた上で、地球がアセンションするとはどういうことかと言いますと、この地球のアセンション時期に合わせて、アセンション出来なかった「魂」は、アセンション後の地球には、もはや居られなくなるということを意味します。惑星地球からは一掃されるということです。地球に輪廻転生して来ることも、もはや出来なくなるということです。つまり、この機会が、地球学校におけるラストチャンスということになります。

 

また、これも言い古されたことですが(言い古されたということは、万事「神」のご計画どおり進んでいるという証明でもありますが)、アセンションまでの途中には、地球に大変革が起こるということです。いわゆる「浄化」です。新しいものを生み出す前の産みの苦しみの時期です。そして、これも以前に書きましたが、「浄化」とは、カルマを受けることを意味します。

 

受けることによって、「浄化」が為されるのです。個人にとっても、人類全体にとってもそれは同じです。そして、より広範囲なカルマの方が優先されますから、人類全体で作って来たカルマは、人類全体で受けることになります。このカルマの「浄化」から、自分だけ逃れて助かろうと思ってもそうは参りません。そもそも「助かる」ということが、地上的な欲であり、宇宙的には最初から全部の「魂」は救われているのです。

 

賢明なみなさんは、今後の数十年をどう過ごしていけばよいか、既にお解りでしょう。いつも言っている通りです。素直に、元気で、朗らかに、周囲に親切を尽くして生きなさい。もはや、個人的な悩みがどうのこうのと言っている段階ではないのです。個人的なカルマ、社会的・政治的なカルマ、地球環境的なカルマは全部一直線に繋がっているのです。そのことに思いを馳せなさい。じっくり瞑想してみなさい。

 

人類の集合意識とは、一人ひとりの意識の集合体です。あなたの意識もそこに影響を与えています。この機会を、ワープ航法のように使って、自分がアセンションするためのチャンスとしてください。

 

既に、アセンション後の次の人類(第五原人種)の先遣隊が50年ほど前からポツポツと誕生し、各地で成長しています。あなたもそのお一人かも知れません。この人たちが、次の地球の礎(いしずえ)を創ることになっています。今日のこのメッセージは、そういう「魂」にリーチすることを目的に書かれました。役割を思い出していただくためです。

 

一方で今、旧人類の、エゴを剥き出しにする人々の活動が、一層エスカレートしています。この最終段階に現出する二極化現象も、言い古された預言です。これは彼らの危機意識の顕れとも取れますが、より長い視点から見れば、アセンション前の「浄化」を促進させてくれているとも言えるのです。彼らも、そうやって「神」のご計画に参加しているのです。皮肉なことですが。

 

ということで、みなさんには、この地球のアセンションの機会を、ぜひ上手に使っていただきたいと思います。

生まれ変わりとカルマの法則を知れば、人を倫理・道徳で縛る必要はなくなる

NHK放送文化研究所が参加している国際調査機関、International Social Survey Programme(45カ国が加盟)が、2008年に「宗教意識(10年毎に行っており、2008年は3回目)」に関する調査を行いました。この中で「生まれ変わりはあると思うか?」という問いに対して、日本人は42%が「ある」と回答しています。「ない」と答えた人は33%、残り25%は「わからない」です。

 

ちなみに、アメリカでは31%が「ある」と回答。教義上は否定しているキリスト教圏の国でも「生まれ変わり」を認める人が増えているのです。ただしこの内実は、日米でかなり違うと思います。日本人がそう思うのは、長年培われて来た自然観から。アメリカ人が認め出したのは、ニューエイジ思想などの広がりによって、キリスト教教義の不自然さを自覚する人が多くなっているのだと思います。

 

「生まれ変わりはあるか・ないか」という問いは、「死後世界はあるか・ないか」に次いでポピュラーな問いでしょう。死後世界の存在を認めない人が、生まれ変わりを認めるわけがありませんから。でも、死後世界の存在は認めても、生まれ変わりは認めないという人はいます。三つの一神教はいずれもそうであり、仏教でも「釈迦は生まれ変わりを説かなかった」と、それを強調して言う人もいます。

 

この問い掛けを巡っては、過去半世紀くらいの間に、急激に(それはメディアの発達のおかげが大きい)、多くの情報が蓄積されて来ました。70年代までは、まだ霊媒がもたらした心霊主義的な情報が大部分だったのですが、イアン・スティーヴンソンが1987年に『前世を記憶する子供たち』を出版すると、こうした学術的、実証的なアプローチ方法が採られるようになりました。

 

その後、「臨死体験」をした人たちの証言が集められるようになり(それまでは、体験をしても口をつぐんでいる人が多かった)、臨死体験者がほぼ共通した体験を語ることがしだいに明らかにされて行きました。また同時期に、「退行催眠」という手法を用いて、被験者から、中間世にいた時の「あの世」の状況や、前世の記憶を聴きだすという調査も数多く行われるようになりました。

 

*しかしいずれの方法にも一短があります。前世を記憶する子どもたちの例は、前世で突然死を遂げた特殊例が多く、そのために次の生まれ変わりまでに要する期間が極端に短い。また7歳を過ぎると記憶が消えてしまうという問題点があります。「臨死体験」は死に切れずに戻って来た人の体験談であり、死んでしまった後のことが分からない。「退行催眠」は本人の想像が混じることを避けられません。

 

このようなことが総合されて、「生まれ変わり」に関しての考え方、捉え方は、以前とは大きな様変わりを見せています。しかし、そのような状況になっても、一般の人々の間に届いている情報は、いずれも断片的なものに過ぎず、総合的な知識を持たないというのが実情です。これは宗教者でも同様であり、それだからこそ、宗教者が語る古臭いドグマが、真実味を持たなくなって来ているように感じます。

 

「虹の学校」としては、「生まれ変わり」の証拠を探し求めることにはもはや関心がなく、あまり意味がないと考えています。「認めない」という人は、どんな証拠(に見えるもの)を提示したとこで、認めませんからね。先ず「否定」ありきから論理を構築していきますから。

 

それに、いくら探査したところで、客観性と観察を重んじる今の「科学」的常識においては、所詮は不確かな証拠しか得られません。たった一例を探査するにしても、ある一つの「魂」の、前世から中間世を経て今世に至るまでの経緯を、他の観察者が横にいて観察・記録し続けてみなければ、本当の意味での証拠とは認められないでしょうから。ですが、そんなことは不可能です。

 

それよりも「生まれ変わり」を認めた上で、そのようなメカニズムがなぜ存在するのかという理由や、またメカニズムが働く原因とプロセスを知ること、つまり「因の科学」にダイレクトに迫った方がずっと意義があります。なぜなら、「生まれ変わり」を前提とした上で、人生をどう生きるかを考えた際には、生き方がまるで違って来ますから。

 

それは信じるとか、信じないというレベルの問題では、もはやないのです。新しい神学や、因の科学(現象から法則性を導く今の科学ではなく、もっと裏にある真の原因を探る科学)の領域に、足を踏み入れるかどうかという、人類にとっての転換点の問題なのです。そしてこれは、実は新しくも何ともない。古代から変わらぬ「真理」の叡智を、ようやく出せる環境と時期が整ったから出すというだけの話です。

 

それに否定派も、どうせご自分が死ぬ時には、死んでも死なないということを知るのですから。その日のために、今から言っておきます。死んだ後は、自分が思っていた世界に行き着くということ。それは、そういう世界が在るというのではなく、自分が創造に加担するということです。ですから、死後は「無」だと思っていた人は、ご希望通りに「無」の世界に入って生き続けるのですぞ。

 

想像できますか? 真っ暗闇の「無」の世界で、なんの手応えもなく、永遠に生き続けることになる自分を。

 

さて、「生まれ変わり」というのは、一面から見れば、大層しんどいシステムのように思えます。ですが、冷静になって考えて見れば、また霊性になって見れば、「魂」の救済システムであることが容易に解ると思います。何しろ、やり直しが効くわけですから。人生を振り返って、「ああ、あれとこれはどうも間違えちゃったかな」というところを、再び、時には逆の立場を通じて再挑戦できるのですから。

 

この時に「カルマの法則」というものが働く。それは、前世で未消化に終わってしまったものを、つまりは落第・留年になってしまった課題を、もう一度学び直せるというチャンスの再提供であり、自分が自分に贈ったギフトなのです。ところが、そうやって「生まれ変わり」を果たしても、7歳を過ぎると、人はそんな決意を忘れてしまい、またもやエゴをむき出しにした人生を送るようになってしまうのです。

 

このようにして、大半の人が、一つの人生をあまり進化することなく終えてしまう。そして、また同じところをグルグル回る輪廻転生を繰り返しているわけです。それもこれも、「生まれ変わり」と「カルマの法則」について、人々が無智だからです。ただ無智なだけではありません。間違った知識を、宗教者やオカルト信者や哲学者や科学者からてんでバラバラに吹き込まれているからです。

 

しかし、「生まれ変わり」と「カルマの法則」のことを、みなが当たり前のように知るようになれば、そしてそれが体に染み通れば、世界は一変します。いま生きていることの意義や、生き方が全く変わってしまいますから。

 

先ず人生の目標が、様々な体験を通じて、普遍的な「愛」を身に付けることだと知ります。そうすれば、人生上で起こる様々な困難も、自分への何らかの「気づき」がそこには隠されているのだということが解り、不平・不満がなくなります。また「カルマの法則」が念頭にあれば、エゴを剥き出しにしたり、陰で悪事を働くといったこともなくなるでしょう。そうして、一生涯が学習なんだということも解る。

 

そうすれば、職業やお金や地位なんてものは、単なる舞台装置や道具に過ぎないということも解り、いま置かれた状況の中で、無条件の愛の人になることを目指し、今この瞬間を、クリエイティブに、楽しく生きれば、それでよいということも解るでしょう。このようにして、あなたの「魂」が、明るく艶やかなものに磨かれていくこと。それが、霊的進化なのです。

 

人生の目的はこれしかありません。こうして、一段進化した「魂」が、肉体の死後も生き続け、あの世へ行って癒された後、次の学年へ進級するのです。このようなメカニズムを理解した上で、一生涯学習を続けようと決意した「魂」は、自己制御のもとにそれを行うようになります。ですから、「倫理・道徳」によって、外側から考え方や行動を縛る必要など、一切無くなってしまうのです。

 

逆に言えば、「倫理・道徳」教育の必要性が叫ばれるのは、外側から行動を抑えつけなければ人間は正常にコントロールできない、放っておいたら人は何を仕出かすか分からない、と思っている人がいるからであり、また、無智であるがために自己制御が出来ない段階に、未だ人類があるということを指し示しています。

 

けれども、以前にも言いましたが、「倫理・道徳」や「正義」は、結局は為政者の支配の道具としていいように使われてしまうのです。しかし世の人々は「倫理・道徳」も「正義」も、ともにアプリオリに良い事と信じて疑いません。実際には、「倫理・道徳」を語る者ほど裏では倫理・道徳観に乏しく、「正義」を語る者ほど悪を為している例が多いのですが。

 

ともあれ、そのようなことで、「生まれ変わり」と「カルマの法則」を、みなが当たり前のように知れば、地球は一変してしまうのです。そして、それこそが、求められる「地球のアセンション」に他ならないのです。

 

果たして、その日が、いつになることか。

個人のカルマと人類のカルマ

カルマというのは、宇宙を支配する法であり、最も基本的な法則の一つです。法則ですから、宇宙のすべてのものがこの法の支配下にあり、誰もこの法則から逃れることは出来ません。では「カルマの法則」とは何か? 一言で言えば、それは「自分が為したことは自分に返る」ということです。よく言われるところの、善行善果、悪行悪果です。

 

善い行いをすれば善い結果が返って来るし、悪い行いをすれば悪い結果が返って来るということ。けれども、今ここに書いた「善・悪」という言葉には注意が必要です。地上で「善・悪」と言っているものと、宇宙でのそれとでは、重なっている部分もあるけれども、実はかなり違うということです。

 

地上では、対立する二つの概念があるとき、片方が「善」を主張すれば、もう片方は自動的に「悪」ということにされてしまいます。実際、そのような「決め付け」がまかり通っているのが地上世界です。ジョージ・ブッシュのあの「悪の枢軸国」発言を思い出してみてください。でもこの「善・悪」の決め付けは、反対側の立場に立つ者にも同様に言えてしまいます。

 

ですから、地上では、「善・悪」をめぐって、国家間の対立や、宗教間の争いが絶えないのです。そして互いに「正義」を主張しては、殺し合いをしているというのが戦争です。テレビも映画も、「正義」を掲げる〈人殺し〉をヒーローにしている作品のいかに多いことか。皮肉なことに、我は「善」なりと主張する者ほど、「悪」を為すというのが、地上での論理になってしまっています。

 

しかし、宇宙で「善・悪」と言った場合には、このような相対的なものではなく、そこにはたった一つの基準しかありません。それは、友愛、許容、統合、という oneness の方向へ向かっているか、支配、排斥、分離、という anti-oneness に向かっているか、だけです。本当は、「善・悪」という言葉すら無く、進化しているかどうかだけなのですが、便宜上そう言っているまでです。

 

*「進化しているかどうか」という基準が民衆には解りにくいために、便宜上、宗教が「善・悪」という地上の言葉を使って語って来たことが、逆に人間に大きな混乱をもたらしました。

 

いま言ったことは非常に重要で、人間が今後、正しい神学に脱皮できるかどうかの一つの試金石となっています。善行善果、悪行悪果、という法則については間違いはありません。けれども宗教は、このうちの「善・悪」概念を、自分たち教団に都合のよい論理にすり替えて、戒律にしては信者に従わせて来ました。ですが、宇宙基準からすれば、「正義の戦争」などあり得ないことが容易に解るのではないでしょうか。

 

さて、カルマというものが、どのようなメカニズムで生じ、地上にある人間にとって、それがどのような意味を持っているかについては、これまでにも何度かお話しして来ました。が、ここで別の視点も加えて、おさらいをしておきましょう。

 

宇宙の本質というのは、物質世界を超えた、目に見えない世界(霊界)にあります。そこは振動する微細なエネルギー体によって形成された世界で、いわゆる「波動の法則」というものが厳然と作用しています。このことから、振動数の違いによって、霊界には階層が生じています(同レベルの振動が引き合うため)。一方、振動数の高低というのは、霊性の高低を表しており、「魂」がこの階層を上に登って行くことを、霊性の進化・向上と言っているのです。

 

階層の上下を決めているのは、先に書いた、統合と分離という、相反する意識の割合によります。あなたという存在は、まず「個別化した霊(Spirit)」から生じました。臼の中にある大きなお餅から、お団子を一つひねり出すようにして生じたのです。この時点ではまだ振動数は高いままですが、その後振動数を下げて行き、より個性化を強めた「魂(Soul)」となって行ったのです。

 

そして「魂」が、さらに低い波動を出し、その波動を鋳型として、一つの受精卵(その精子と卵子の組み合わせも自分で選び)から作り上げて行ったものが、今あなたが纏っている「肉体(Body)」なのです。このようにして、あなたという存在は、大きく霊・魂・体の三重構造を持ったうえで、いま地上にあるのです。これが、人間が「多次元的存在」だと言われるゆえんです。

 

あなたの「心」、その本体は「魂」です。「脳」は単なるハードウェア(肉体の機能的一部)に過ぎません。「魂」がソフトウェアであり、「脳」という機能を使って「心」というアウトプットを生じさせているのです。しかし、地上の科学は頑としてこれを認めません。そのため、いくら心理学や大脳生理学や精神医学を駆使しても、「心」をつかめず、よって「心の病」も治せないのです。

 

さて、霊・魂・体の三重構造となって地上に降り立った人間は、それぞれ、そこで個別の体験をします。体験とは、視点を変えれば、その人の「行為」です。この「行為」には、必ず思考と感情が付随します。行ったことそのものの記憶は、その人の死後は地上に留め置かれてしまうのですが、体験を通じて獲得した思考パターンや感情のクセは、死後も「魂」と共に運ばれることになるのです。

 

これが、その人固有のカルマを形成する元になるのです。そして、分離から合一へという霊的進化を、その「魂」がちゃんと果たしていけるように、言い換えれば、無条件の愛の人にいつかはなれるように、前世で体験した行為の内容が点検され、間違ったところは修正を促され、もう一度学び直せるよう次の人生をマスターらと相談して基本設計し、その上でまた地上に降り立つのです。

 

一方、地上に残された記憶は、同種のものが集合すれば、それなりの力を有するようになります。これが、土地のカルマ、家系のカルマ、民族のカルマ、そしてもっと大きく地球のカルマ、人類のカルマまでをも形成して行くのです。すると人は、個人的なカルマの他にも、外的なカルマを何重にも背追い込んでいるということになります。

 

その際に、重大なことは、より広範囲のカルマの方が優先されるということです。例えば、私はいま日本という国に所属して、日本列島に住んでいるわけですが、それは日本国および日本列島が有するカルマの上に乗っかっているということであり、ここから逃れる術はないということです。同様に、人類全体が創って来たカルマ、地球のカルマからも逃れる術はないということを意味します。

 

そして今、地球および人類は、これまでに積み重ねたカルマの一大清算の時期に突入しています。これは皆さんも、日ごろ重々お感じになっておられることでしょう。そのために、異常気象は苛烈さを極め、強欲が際限なく拡大し、暴力が世界中に蔓延し、政治は信じがたいほどの幼稚さを露呈し、個々人の健康や幸せが脅かされるという、ますます醜い世の中へとどんどん向かっています。

 

いま「醜い」と書いたのですが、人類全体としてそちらへ向かっているということは、この現状を「醜い」とは思わない人たちが多いということです。そしてまさに、それがカルマの発現です。為したことは返ってくる、いま返って来ているということです。しかしこれは、何度も言いましたが、強い光が当たっているからこそ、隠れていたものが炙り出されて来ているということです。

 

よく言われることですが、これは産みの前の苦しみ。地球は、来るべき世界の、陣痛の時代に入っているのです。ここをしっかり抑えることが大切です。そのことをよく理解した上で、現在の世の中の動き、世界の動きを俯瞰的に見てください。

 

さて個人は、自分を包む、より広範囲なもののカルマからは逃れる術はないと書きました。だとしたら、個人のカルマに向き合い、これを乗り越えるという努力、霊性向上への取り組みは、やってもムダなことになってしまうのでしょうか? いいえ、そうではありません。全体は全体、個人は個人です。それに、今あなたが現に地上にあるということは、個人的なカルマ清算の機会を与えられているという何よりの証拠です。

 

ただ、一昔前とは、その意義が違って来ているということです。より、重要度を増して来ている。人類全体のカルマ清算の機会が増大したことによって、あなた個人のカルマ清算というテーマが、もはや単独の、全体とは無関係のものとしてはあり得ず、リンクの重要度をいや増ししているということです。そして、ここからが重要なところであり、あなたに是非ともお願いしたいことなのです。

 

今まで、人類が積み重ねて来た負のカルマには、環境破壊や、戦争や、奴隷制度を初めとして様々なものがありますが、その出発点にあるものを問えば、結局のところ次の三つに集約されます。一つは富への執着、二つめは他者支配への欲望、そして三つめが生命の成り立ちへの誤解です。この三つが組み合わさって、様々な現象面での問題を引き起こして来ました。

 

言い換えれば、人類がそれらのカルマを背負っているということは、いま挙げた三つのことへの気づきが、何千年何万年の時を経ても、人間たちにちっともないということなのです。進化していないということなのです。だからこそ、あなた個人のカルマ清算というテーマが大きな意義を持ってくるのです。

 

つまり、あなたが先ずこれらの清算を果たせば、他の人々のお手本になれるということです。そんなことに、一体どれほどのパワーがあるのかと思われるかも知れません。個人に比して、人類全体というのはあまりにも巨大に思えますから。けれども、見えないエネルギー世界では、「波動の法則」というものが厳然たるセオリーとして働いているのです。

 

あなた方の中には、「正義の殺人者」を賞賛する文化があるのと同様に、武力が平和を実現すると硬く信じている人たちが、未だに大勢います。核兵器禁止条約に賛成することは、核なき世界につながらないとまで主張する人がいる。けれども、未だかって、武力を以って恒久平和が実現されたためしなど一度もありません。それは、カルマの法則のことを考えればお解りでしょう。

 

一見、夢物語のようで、悠長な道に見えることが、結局はいちばんの早道なのです。健全で、素直で、明るくて、愛に満ち溢れた波動をあなたが出せるようになれば、周囲の人々はその影響を受けます。そして、そういう人たちがあちこちに増えれば、百匹目の猿現象で、ある時期からは雪崩を打ったように、人類全体が変わって行くことになるのです。その灯台に、あなたになっていただきたい。

 

よいですか、これは予め設定された宇宙の計画なのですよ。だから友よ。あなたにも是非ともその一員になって欲しいのです。先ずあなたが、無条件の愛の人にお成りなさい。完全なる奉仕の人と成りなさい。そして周囲の人々に、その愛を分けてあげるのです。さあ、歩め。友よ。栄光の道に向かって。

思考が現実化するということ

思い(想い)は現実化する。スピリチュアルなことに関心の強い方なら、多分どこかで、このことをお聞きになったことがあるでしょう。それって本当なのなの? いや、そんなこと信じられない。自分など、しょっちゅうある事を想い続けているけど、ちっとも実現しやしないよ。それとも、隠されたもっと深い意味でもあるのだろうか? 反応は、きっと様々でしょう。

 

想いが現実化する。これは、一面において確かです。けれども、この言葉を正しく理解するためには、いくつかの関門を通らなければなりません。普通に考えていたのでは、これをちゃんと理解することは出来ません。ところが、前回のブログでも述べたように、不思議現象としてこれを捉え、そこに付加価値を与えては人々を誘い込み、金銭を巻き上げようとする業界人?が後を絶ちません。

 

これは人の弱み(この場合は、誰しもがエゴを持っていること)につけこんだ商法です。エゴの誘いにエゴが反応してしまうのですね。そういう意味では、ここでも「想いは現実化する」という法則が、皮肉なことに立派に?生きているわけです。そうやって、手痛い失敗を何度か経験すれば、そのうちに次の気づきへと進めることになるでしょう。ま、懲りない人というのもたまにおられますがね。

 

先ず、「現実化」ということを考えなくてはなりません。「現実化」というのは、いったい何を指して言っていることなのか? これは重要なポイントで、この前提条件が違えば、「想いは現実化する」という言葉が持つ意味そのものが違ってきてしまいますから。しかしそこに踏み込むのは後回しにして、ひとまずは、これを普通に「目の前に展開される物質的世界」のことだとしておきましょう。

 

その上で、「想いは現実化する」というメカニズムを考えてみましょう。想えば、何でも現実化するのか? しません。えっ、さっき言ったことと違うじゃないか、ですって? 想っただけでは現実化しないことは明らかです。いまメロンを無性に食べたいと強く思う。そうすれば、目の前にメロンがパッと現れるのか? 現れません。少なくとも、買いに行かなければメロンは食せない。

 

けれども、こういうことは言えます。行動を起こすには、「想い」が先ず必要だということです。あいにくメロンを売っているお店が、歩いて15分のところにしかない。しかも外はカンカン照りだ。さて、どうしよう? ここで「想い」の強さというものが影響して来ます。メロンを食べた〜いという「想い」が、障碍を上回るほど強ければ、食卓の上にメロンが現れる可能性が高くなります。

 

ですから、第一の関門は、

・想っただけでは実現しない。

・想うと同時に、行動が伴わなければ、実現はしない。

・さらに、降り掛かる困難も、何するものぞとの強い想いを抱き、行動し続けていれば、実現する可能性が高くなる。

と言えます。

 

しかしこれでは、「なぁんだ、そんなことか」と思われるでしょう。これじゃあ、よくある自己実現方法のレクチャーとほとんど変わりがない。それを信じて必死に努力を重ねても、夢を叶えることが出来ないから、多くの人が落胆し、挫折感を味わったりしているわけですよね。かく言う私もそうでした。もうその連続でした。これはどうしてなのでしょう?

 

そこに、第二の関門として、人知を超えたセオリーが存在するのです。それは次のようなものです。人は、中間世にある時に、次の人生における課題と、誕生する場を決めてから転生します。すると、いくら自由意志を保証されていると言っても、初期設定の環境要因は、誕生後にはもう変えられませんし、課題から大きく外れるということもないのです。(課題に気づかないということはあります)

 

*中間世(生);前世と今世との中間にある、霊界に戻って生きているいる期間

 

そこから、宿命論、運命論といったものが巷間言われたりするわけですが、宿命論や運命論が間違っているのは、「人生は変えられないもの」とする捉え方です。いま言ったように、確かに初期設定の環境要因を変えることは出来ませんし、課題から外れることもありません。しかしその中で、課題を達成し、幸福に生きることは誰もが出来るのです。そして、まさにそれこそが魂の “課題” なのです。

 

さて、そうしますと、いくら強い願望と意志を持っていたとしても、また必死に努力を重ねたとしても、その課題から大きく逸脱するようなことは決して実現しない、ということになるのです。これが、実に盲点なのです。

 

今、私はこんなことをしておりますが、これは自分が願ったことではなく、思ってもみないことでした。複数のチャンネルを通じて、将来の役割というものを言われてはおりましたが、全く信じていませんでした。しかし、子ども時代から幾度となく続いた、不運、失敗、挫折、屈辱、病気と、他方、首の皮一枚で拾い上げられた経験が、全部、今やっていることに結果的に役立っているのです。

 

「なるほど、こういうことだったのか」「このためだったのか」と、つくづく思わずにはいられません。全てが完璧。それは本当のことでした。そして最近になって、やっと自分の課題と役割が見えて来ました。さて、「盲点」というのはここです。若い時には気づかないし、気づけないのですね。自分が実現したいと想う外面的な願望でいっぱいで。

 

ですから、それに挫折すると当然ながらガックリ来ますし、そういうことが何度も何度も続けば、もういい加減、腐ってしまうわけですね。それで破れかぶれになったり、クスリやアルコールに溺れたり、自己否定に向かうということになってしまう。ところが、もっと長い目で人生を見ると、それらは全部、天がくれたギフトになっていて、自分が設定して来た課題からは少しも逸れていないということが解るのです。

 

問題は、「いつ気づくか」ということです。気づくのが先か、腐るのが先なのか。あなたを応援する天の存在たちは、同じ過ちを何度冒したとしても、実に辛抱強く、またあなたに気づきと修正を促して来ます。その転換、つまり、自己実現とは、職業や外面や形にあるのではなく、自己の意識の変化、もっと言えば「魂」の成長にあるのだと悟ったその瞬間、その人にパッと光が射すのです。

 

若い時には、外面的、物質的に何かを獲得することが自己実現だとみな考えています。しかし、願望も含めて、そうしたものは全部、その人を「課題」に向き合わせるための材料に過ぎないのです。ですから、初期設定という縦糸と、誕生後に自由意志で選んだ横糸を組み合わせて、その人が、自分独自の「課題」に向き合う人生を、周囲の協力のもとに編み上げて行くのです。

 

現実は、不公平に見えます。大金持ちもいれば、着の身着のままの貧乏に泣く人もいます。名家に生まれる人がいれば、ひどい親の下に生まれる子もいます。名声を獲得する人もいれば、一生うだつが上がらず底辺で暮らす人もいます。この差に、目をくらまされてはなりません。それらはみんな、今度の人生における、単なるキャスティングに過ぎないのです。

 

そう、それはまさに配役によるお芝居であって、お芝居のテーマは、あなたという主人公に、自分自身の今世の「課題」に気づかせ、それを達成するよう促すことです。名家の出や、イケメンや美女だけが主人公なのではありません。全員が自分の人生ドラマの主人公であり、同時に全員が他の人の脇役をこなし、複雑なタペストリーをこの世で織り上げているのです。

 

今度の配役は、今世がそうであるということだけであって、何十回、何百回と繰り返す輪廻転生のドラマにあっては、王子になったり乞食になったり、男になったり女になったり、実に様々な境遇を、「魂」の霊的完成に至るまで経験していくのです。ですから、ご自分の出自や、境遇や、容姿や、病気や、傷害を呪ってはいけません。呪ったところで何にもなりません。かえって自分を辛くさせるだけです。

 

いま言ったことが解れば、幸福とはどういうことなのか? 幸福を実現するにはどうすればいいのか、も同時に解るはずです。全てはあなたの「思い」しだい。あなたが今この瞬間を幸福だと思えば、幸福なのです。なぜなら、幸福とは条件ではなく、自分の感じ方なのですから。一杯のお茶、一皿のカレーライス、窓に広がる景色、小川のせせらぎ、小鳥のさえずり、全てが幸福のハーモニーを奏でてくれるのです。

 

さてそこで、第三の関門に近づきました。冒頭に語った「現実化」とは何かということです。最初の仮定では「目の前に展開される物質的世界」を、一応「現実」だとみなしました。これは多くの人が考えている一般的な解釈です。しかし論を進める中で、重要なのは、自分の感じ方や思いなのだということになって来ました。

 

知らない土地を、旅人のあなたが歩いていると、だんだん腹が空いて来た。すると疲れた顔の旅人を見て、ある家のご主人が、休んで飯でも食べていきなさいと声を掛けてくれた。いや、ありがたい。ところが、出された食事は薄いスープ一椀と硬いパンが一切れだった。ここであなたは、「なんだ、こんなもの!」と思うことも出来るし、「いやいや、本当に助かりました」と思うことも出来る。

 

結局、「現実」というものは、また自分が「現実」だと思っているものは、あなたの「認識」でしかないということです。そこでこのブログでは、これを「リアリティ」と言って、区別して来ました。いわゆる「現実」というものは、多分あるのでしょう。けれども、これが「現実」だと言える確かなものは、実際にはどこにもないのです。あるのは、各人それぞれの「リアリティ」だけなのです。

 

これは奇妙な話に聞こえるかも知れませんが、量子力学においては常識です。あなたが夜空を見上げて、いま出ている月を見ない限りは、つまり見ていない間は、月が実際にそこにあるかどうかは判らないのです。見て初めて、「あ、今夜は月が出ているな」と判る。しかしそれも、突き詰めれば、あなたの「認識」がそう認めたというだけに過ぎないのです。

 

そこで、よく言われる次の言葉が出てくるのです。この世は幻に過ぎない。これは真理です。ですが、多くの人は、そう聞いてもピンと来ないでしょう。なぜなら、この「現実」だと思っている世界に、肉体を持って現に存在し、五感を使って知覚しているものに、確かな手応えを感じているのですから。ですから、前回も言ったように、「霊主体従」の感覚に至らなければこの言葉は解りません。

 

「霊主体従」に生きて、それが身体の隅々にまで染み通って、この世とあの世が逆転した時に初めて、この世は幻に過ぎないと解るのです。さてそうなった時に、じゃあ生きる意味は何なのか、という疑問が当然わくでしょう。この世が幻と言うのであれば、その幻の世界を生きることに、一体どんな意味があると言うのか? あまりにも虚し過ぎる話ではないのか?

 

そう、実にそこなのです。ですから、みんなこの物質世界になんとか手応えを見出したくて、物資的価値、物質的満足を必死になって求めようとするのです。ところが、そこにどうしても超えられない壁が立ちはだかる。人はいずれ、みんな死んでしまうということです。死んだら一巻の終わり。だとしたら、人生の意味とは何なのだ。そこで、哲学というものをひねり出すのですが、いくら考えても答えが出ない‥‥。

 

やあ、なんだか振り出しに戻っちゃいましたねぇ。この世が幻だと言っても虚しいし、物質世界を追い求めてもやっぱり虚しい。そんな人生に、果たして意味はあるのか。

 

人生に、意味などない。でも目的はある。この世のすべてが幻であっても、あなたは死なない。あなたの本質である霊魂は、肉体の死後もずっと生き続ける。その時、あなたの「魂」が携えて行くのは、この世でした体験から得られた感情と解釈と技能というソフトウェアだけなのです。ハードウェアは一切持っていけない。このソフトウェアを、輪廻転生するたびに、何度も磨きながら、あなたという「魂」は霊的完成を目指すのです。それが人生の目的。

 

これで解ったでしょう。人生劇場というものの成り立ちが。

幻の世界を生きることは、決して虚しいことではありません。自己の本質と、裏側にある真実の世界をつねに意識しながら、なおかつ幻の世界を生きるのです。

 

あなたが「現実」だと思っているものは、あなたが認識する「リアリティ」に過ぎない。言い換えれば、あなたが創る「現実」です。あなたの人生は、初期設定による境遇や、いま置かれている環境や、周囲の人間関係によって、制約された世界の中にあります。けれども、その制約された世界の中で、あなたは、自由に「想う(思う)」ことは出来るのです。そこに一切の制約はありません。

 

実に素晴らしいことだとは思いませんか? だから、善なる「リアリティ」をお創りなさい。木々の緑の中に、生命の輝きを見なさい。青空の中に、精霊たちが飛び交うのを見つめなさい。鳥のさえずり、虫たちの声に、命への讃歌を聴きなさい。水面の輝きに、永遠の光を見出しなさい。そして、出会う人々の心に、等しく神性が宿っていることを発見しなさい。

 

あなたが想えば、それは現実化するのです。想像は創造。さあ、お行きなさい。あなた自身の道を。