by Rainbow School
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須磨穂を捨てよ、町を出よう

本日のタイトルは、寺山修司(1935 - 1983)さんの『書を捨てよ、町へ出よう』をもじったものです。このアジテーションの言葉は、寺山修司さんの言わば代名詞のようなもので、1967年に出版された評論集のタイトルとして使われたのが最初の登場でした。そして同年、寺山修司さんは演劇実験室「天井桟敷」を旗揚げし、いわゆるアングラ演劇ブームの火付け役ともなったのです。

 

その後、映画も作るようになり、当時のヒッピー文化の盛り上がりと轍を一つにして、独特の寺山ワールドといったものを構築して行きました。それは、当時の若者にとっては文字通りの「劇薬」として作用し、極端な話、ゲバ棒を取るのか(政治的闘争へ)、それともアングラ演劇を観に行くのか(内なる闘争へ)、といった当時のムーブメントに強い影響を与えたのです。

 

『書を捨てよ、町へ出よう』は、それを焚きつける一種のスローガンのような位置づけとなり、評論集だけに留まらず、演劇にも映画にも同名のタイトルが使われ、若者たちをアジテーションし続けたのです。私も映画を観たのですが、始まってすぐに、東北訛りで話す主人公が「映画館の暗闇の中で、そうやって腰掛けて待ってたって何も始まらないよ…」と話し出すのには度肝を抜かれました。

 

それがあったからというわけではないのですが、当時の雰囲気として、田舎でごにょごにょやっている自分というものがどうしても我慢ができなくて、それで私は20歳の時に東京へ(つまり町へ)と出て行ったのです。それから半世紀が過ぎ、私は今の若者たちにこう言いたいです。『須磨穂を捨てよ、町を出よう』と。50年で世の中はすっかり変わりました。今こそ、ベクトルを真逆に戻すべき時が来たのではないでしょうか?

 

もちろん、高価な須磨穂を本当にゴミ箱に放り込め、と焚きつけているわけではありません。私だって、今のガラケーがいよいよ壊れたら、仕方なしにスマホを買うことになるかも知れません。老眼で画面が見えないけど(´_`; )。だから、大きなお世話を承知で「須磨穂中毒から脱した方がいいんじゃありません?」と言っているだけの話です。寺山修司さんとは違い、影響力は皆無でしょうけれど‥‥。

 

中毒というのは、自分では気がつかないのですよ。でも側から見ているとよく分かる。その目も心も、小さな画面の奥にある(バーチャルな)「須磨穂の国」に釘づけになっているから。ファミコンが登場した時代、その強い麻薬性に慄(おのの)いた親たちが、「一日に2時間だけ」といった規制を子どもたちに課しました。ところが今や、大人たちが24時間、須磨穂の虜というありさまです。

 

いや、ファミコンで育った子どもたちが、順当に(?)大人世代になったのだから、これは自然な流れかも知れません。

 

先日、TSUTAYAで『ラブレス』というロシア映画を借り、観ようとしたのですが、20分ほど経過したところでどうにも気持ちが悪くなって耐えられず、その先を観るのを止めました。10歳くらいの男の子がいる夫婦が離婚しようとしています。夫婦はすでに別居していて、互いに浮気相手がいるのですが、男の子と一緒に住んでいる母親が、わが子を邪魔くさい存在であるかのようにして疎んじているのです。

 

この男の子は、当然ながら寂しい。誰からも愛されることがない孤独な状態にあります。でも母親は、そんなわが子の気持ちを少しも察することなく、男の子に、今の自分の身勝手な思いを話しかけるのです。片時も離さずに持った、須磨穂の画面を見ながら! ああ、まさしく全世界須磨穂教のもの凄い影響力。「ちゃんと子どもの顔を見て話しろよ!」と、画面に向かって怒鳴りたくなりました。

 

スマホは単なる道具です。ですが、今や道具を超えてしまっている。キリスト教、イスラム教よりも浸透力は強い。それはインターネット時代のご本尊。いつでもどこでも自分を導いてくれる、ありがた〜い伝道師であり守護霊。全世界須磨穂教のスマートなお札(ふだ)「須磨穂」大明神様です。困った時に、ちょっと手を(画面に)合わせて拝めば、たちどころにその人を「須磨穂の国」へと導いてくれる。今や、その魅力に誰も抗えない。

 

単なる道具に過ぎないスマホが、なぜそれほどに魅力的な「須磨穂」大明神に化けるのか? その秘密は、画面の小ささと、あの素早いページめくりにあります。それはあたかも、長い通路に掛かる幾重にもなった御簾(みす)を、ご神体に向かって次々とめくって行くようなもので、めくる度に、めくるめく世界に引き込まれて行ってしまう中毒性をそのアクション自体が有しているのです。

 

まったく凄い発明品だなと思います。宗教が何千年かかっても出来なかったこと(全世界布教)を、テクノロジーがわずか10年で成し遂げてしまったのですから。電車に乗ると、ほぼ9割の人が、すぐにその世界に没入しているのを見ます。まさに入我我入の状態。この時に合わさったエネルギーは凄まじいもので、車両全体が何かに取り憑かれてしまったかのようなバイブレーションを発しています。

 

夢中になって画面を見ている人には、勿論そんなことは分からないわけですが(分からないからこそ出来ることですが)、このエネルギーは、そこに居合わせた人たちの心身に、耐え難いほどのダメージを与えているんですよ。こんなバイブレーションに毎日接していたら、みんな心が殺伐として来て、頭がおかしくなってしまいますよ。映画『ラブレス』の登場人物たちのようにね。

 

波動の法則というのは、現象面で表れる結果に関しては至極シンプルなもので、同じ性質の波動は引き合うというただそれだけの話です。あなた方が、慈愛に溢れた心を持って集まり、一緒に瞑想をしたり祈りを捧げたりすれば、お互いの波動をさらに高め合うことが出来ます。

 

しかし反対に、低い、荒れた波動を出し合えば、互いに足の引っ張りっこをして、その場のバイブレーションはドーンと落ちるのです。つまり、そこにネガティブ・パワースポットが出来るのです。

 

これは検証できないことなので、信じなくても結構ですが、須磨穂教の虜になることが、心を荒れさせるということは確実に言えます。なぜなら、その分だけ、自分を内観する機会というものを、須磨穂が奪ってしまうから。

 

人が内観する機会を失えば、「自分は誰か」という基本的な問いに、きちんと向き合うことが出来ません。そこで糸の切れた凧のようになって、その不安を穴埋めするために、またしょっちゅう須磨穂を見続ける、という悪循環に陥ってしまうのです。須磨穂は一見、身近なセラピストのように思えますが、実態は、その人の心の隙間に入り込み、エネルギーを喰い尽くしてゆく怪物です。

 

あっちからもこっちからも風が吹き寄せて、常にザワザワとさざ波が立っている湖面には、自分の姿は映りません。明鏡止水。なにより、静謐で心安らかになっている時にだけ、湖面は凛として澄み、水の向こう側にあなたの真の姿を映し出すのです。この貴重さを、現代人は何も解っていません。情報に接していないときの時間は、すべて無駄だとさえ思っているのです。

 

そうやって、自分が発したものではない、外からやって来た、どうでもよいガラクタ情報で頭の中をいっぱいにして、その重みに押し潰されそうになっている。映画『ラブレス』で描かれた両親を見よ! 自業自得とは言え、現代人とはなんと憐れなものなのでしょう。

 

今から3日後に、自分は死ぬと仮定してください。

その日までの時を、あなたはどうやって過ごしますか?

それでも須磨穂を見続けますか?

 

人生は「今」の連続の軌跡なんですよ。

いいですか。「今」のあなたの思い、言葉、行動が、「あなた」を創造するんですよ。

創造してるんですよ! たった今も。

 

あなたとは何者か?

そのように思い、そのように語り、そのように行動する人間を、人は、「そのような」人間、と見るのです。

それが、あなただ!

 

私は、最近反省しているんです。自分の言い方が悪かったのかなと。この世の価値観に合わせる必要などない、と確かに言いましたよ。引きこもる時も、人には必要なんだと、それを推奨しましたよ。空海だって引きこもったんだぞ、と言いましたよ。でもそれを、「行動しない」ことのエクスキューズに使ってしまう人たちがいるらしい、ということに最近になって気がついた。

 

空海は、ある時期、確かに引きこもりましたよ。でもそれは、行動できないことの言い訳にそうしたわけじゃない。行として、そうすることを積極的に選んだんです、彼は。内観を徹底するために、世俗を離れて、敢えて洞窟に入った。つまり、引きこもるという「行動」を、自分の積極的な意思で選択したのです。その時それが必要だと思ったから。そうして、クンダリニーの覚醒(空海の表現で言えば、明星が口に入る)という体験を得た。

 

そこを考えて欲しいのです。動けないとか、外に出られないとか、電車に乗れないとかと言ったって、トイレには行ってるわけでしょう。ご飯だって食べているわけでしょう。風呂にだって入るわけでしょう。頸椎を損傷して、首から下がまったく動かないという人だっているんですよ。その人が、もしも自分の手で箸を掴んでご飯を食べたり、歩いてトイレに行ったり出来るようになったとしたら、きっと随喜の涙を流すことでしょうね。

 

早い話が、いま生かされていることへの感謝が足りない。五体が動いて、こんなにも恵まれていて、何を贅沢なことを言っているのだろうかと思う。トイレまで行ける足があるんだったら、あと数十歩たして、玄関から外へ出ればいいじゃないか。外へ出ることが出来たら、あと数百歩たして、公園まで行ってみればいいじゃないか。公園まで行けたら、今度は駅まで行ってみればいいじゃないか。死にものぐるいでやってみろ!

 

それを、私が「動け!」と言うと、「ネットで平和を訴えて行こうかなとは思ってるんですが」とかって言う。ああ、またネットか。結局は須磨穂の国に逆戻りか。そんなんじゃないんですよ! あなたが今、まっ先になすべきことは、「動く」ということの意味は。生活の「リアルな実体験」を積み上げて行くということなんだよ。あなたにいちばん欠けているのはそこ。つまり、「生活技術」を一から学習し直して行けってことなんだよ!

 

洗濯は出来るのかい? 自分のメシは作れるのかい? お茶碗は洗えるのかい? 部屋を片づけられるのかい? 箒や雑巾は使えるのかい? トイレ掃除や風呂掃除は出来るのかい? 決まった日のゴミ出しが出来るのかい? 庭の草取りが出来るのかい? 買い物には行けるのかい? ほうれん草が一把いくら位か見当はつくのかい? どういう魚が、鮮度がいいか見分けられるのかい? 

 

どうかな? いま上げたものに、今まで、何の関心も持っていなかっただろう。ただの面倒臭いもののようにしか、あなたには思えていなかっただろう。だがね、その面倒臭いものに向き合い、体験し、工夫し、味わうことが「生きる」ってことなんだよ。だから、それを全部他人まかせにして生きている人は、「自分を生きていない」ことになる。ああ、なんてもったいないことをしているんだ。実に、それが「生きる不安」をつくる元凶だと知れ!

 

いいかね。「生活力」というのは、どれくらいお金を稼げるか、ということじゃないんだよ。生活技術力を、その人がどれだけ持っているかということなんだ。金なんて、いざとなったら何の役にも立たない。札束を赤ちゃんのオシメにするわけにはいかないんだよ。だから先ずは生活技術。生活技術さえしっかりあれば生きられるし、生きるのが楽しくなる。きみが平和の貴さを訴えるのは、それが出来てからだ。

 

現代に生きる人間が可哀想だなと思うのは、「生活技術」を学習するより前に、先にコンビニと須磨穂の使い方を覚えてしまうということ。コンビニには取り敢えずのものは何でも揃っているし、須磨穂は別に図書館に行かなくたってあらゆる情報が取れるし買い物だって出来る。バーチャルな出会いも出来るし、お婆ちゃんの知恵(のようなもの)だって授けてくれる。すると、この二つさえ覚えれば「生きられる」と錯覚してしまう。

 

しかしそのことは、裏を返せば、コンビニと須磨穂がなければ生きられない、という状態に、いつの間にかさせられてしまっているということを意味しているのだ。

 

いま、10代と20代合わせて年間3万人超の若者が行方不明になっているそうです。ある日突然、家からいなくなってしまう。家出の準備をした形跡もない。この、ある日突然の失踪を可能にさせているインフラが、まさしくコンビニと須磨穂。少女が、SNSで「今晩泊めて?」と発信すれば、ものの1分もしないうちに、見ず知らずの男たちからたちまち十数件の申し出が集まるのだと言う。

 

いつの時代にも家出する若者はいるわけで、ある意味、勇気ある行動だとも言えるわけですが、今の時代の「お手軽さ」には、以前とはまったく違った様相を感じます。大志もなければ、逆に反抗も反逆もない。何となくフラッと家出するといった感じです。恐さを知らないと言いますか、すべてが希薄です。親が、学校がという時代じゃない。社会病理がもう何重にも重なっていて、このような社会現象を止める手立ては、もはやないのかも知れません。

 

別に家出が悪いと言っているわけではありません。また、社会からドロップアウトしてしまうことの危惧を述べようとしているのでもありません。みんな好きにしたらいいです、基本的には。でもね、自分という存在を見つめて、自分のコントロール意識を働かせて、自分をクリエイトできる体験が、それで出来るのかなと思うのです。結局は、自分も周囲も、傷つけるだけに終わってしまうのではないでしょうか?(ま、それも体験ですけれど‥‥)

 

今の時代は、お手軽なクリエイトが多過ぎるんです。レストランに行けば、食べる前にいきなりパシャパシャやる。動画を投稿して美味いとか不味いとか言う。旅に出れば、観光名所をバックに自撮りする。他の人が書いたブログには直ぐにケチをつける。動画の上に意味不明の自分の叫び声を書き込む。でも、そのどれもが、所詮は、他人のふんどしを借りた表現に過ぎない。

 

そうすることによって、あなたの中にある表現願望や、参加意識や、「私ってこういう人なのよ!」という自己実現願望(のようなもの)は、多少は満足するかも知れない。でもそんなものは、結局はニセモノなのだよ。借りものの、ニセモノの表現行為を続ければ続けるほど、あなたの本物は、外に出て行くチャンスを失ってしまう。

 

解らないかな? あなたたちはそれらを「自己表現」だと思っているが、その表現方法を保証する仕組みに、一元的に取り込まれてしまっているのだよ。早い話が、GAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)その他のIT企業の戦略に落とし込まれているわけだ。ゲージの中で、バタバタしている家畜の鶏のようなものなんだよ。

 

だからもう、他人のふんどしを借りることは止めたまえ。稚拙でもいい、あなたの表現をするんだ。あなた独自の、あなたにしか出来ない表現をするのだよ。価値はそこにあるのだ。いや逆に言おう。価値はそこにしかないのだよ。結果は問題じゃない。「いいね」の数が問題なのではない。そのクリエイティブな体験を通じて、あなたが何を味わったか、それだけなのだよ。

 

須磨穂を捨てよ、町を出よう。町を出て、もと来た森の中に帰るのだ。今の社会システムそのものを疑え。この世のすべては、しょせん幻に過ぎないが、人工物を通じた体験はバーチャルな幻しかあなたに見せない。一方、鬱蒼とした森の中に帰ることは、あなたに一時的な不安を与えるだろう。でも、自然が与える幻は、その先に神の姿を見せてくれるのだよ。

 

さあ、勇気を出せ。覚悟を決めよ。立ち上がって歩け。森の中に踏み込め。そして、それを楽しむんだ。そうすれば解るから。

須磨穂を捨てよ、町を出よう

今日のタイトルは、寺山修司さんの『書を捨てよ、町へ出よう』をもじったものです。1967年、かねてより詩人として注目されていた寺山修司(1935 - 1983)さんが、同名の評論集を出版しました。またこの年、演劇実験室「天井桟敷」を旗揚げして、いわゆるアングラ演劇ブームの火付け役となったのです。

 

この後、寺山修司さんは映画も監督するようになり、当時のヒッピー文化の盛り上がりと轍を一つにして、独特の寺山ワールドといったものを構築して行きました。それは、当時の若者にとっては文字通りの「劇薬」として作用し、極端な話、ゲバ棒を取るのか(政治的闘争へ)、それともアングラ演劇を観に行くのか(内なる闘争へ)、といった当時のムーブメントに強い影響を与えたのです。

 

『書を捨てよ、町へ出よう』は、それを焚きつける一種のスローガンのような位置づけとなり、寺山さんは評論集だけに留まらず、演劇にも映画にも同名のタイトルを使って、若者たちをアジテーションし続けたのです。私も当時映画を観たのですが、始まってすぐに、主人公が東北訛りで「映画館の暗闇の中でそうやって腰掛けて待ってたって何も始まらないよ…」と話し出すのには度肝を抜かれました。

 

それがあったからというわけではないのですが、田舎でごにょごにょやっている自分というものがどうしても我慢できなくて、それで私は20歳の時に東京へと出て行ったのです。その寺山修司さんのアジテーションから半世紀が過ぎて、私は今の若者たちにこう言いたいです。『須磨穂を捨てよ、町を出よう』と。今こそ、ベクトルを真逆に戻すべき時が来たのではないでしょうか?

 

もちろん、高価な須磨穂を本当にゴミ箱に放り込め、と焚きつけているわけではありません。私だって、今のガラケーがいよいよ壊れたら、仕方なしにスマホを買うことになるかも知れません。だから、大きなお世話を承知で「須磨穂中毒から脱した方がいいんじゃない?」と言っているだけの話です。寺山修司さんとは違い、影響力は皆無でしょうけれど‥‥。

 

中毒というのは、自分では気がつかないのですよ。でも側から見ているとよく分かる。その目も心も、小さな画面の奥にある(バーチャルな)「須磨穂の国」に釘づけになっているから。ファミコンが登場した時代、その強い麻薬性に慄(おのの)いた親たちが、「一日に2時間だけ」といった規制を子どもたちに課しました。ところが今や、大人たちが24時間須磨穂の虜というありさまです。

 

いや、ファミコンで育った子どもたちが順調に(?)大人世代になったのだから、これは自然な流れかも知れません。

 

先日、TSUTAYAで『ラブレス』というロシア映画を借りて観ようとしたのですが、20分ほど経過したところで気持ちが悪くなり、その先を観るのを止めました。10歳くらいの男の子がいる夫婦が離婚しようとしています。夫婦はすでに別居していて、互いに浮気相手がいるのですが、男の子と一緒に住んでいる母親がわが子を邪魔くさい存在であるかのようにして疎んじているのです。

 

この男の子は、当然ながら寂しい。誰からも愛されることがない孤独な状態にあります。でも母親は、そんなわが子の気持ちを少しも察することなく、男の子に、今の自分の身勝手な思いだけを話しかけるのです。片時も離さずに持った須磨穂の画面を見ながら! ああ、まさしく全世界須磨穂教のもの凄い影響力。「ちゃんと子どもの顔を見て話しろよ!」と、画面に向かって怒鳴りたくなりました。

 

スマホは単なる道具です。ですが、今や道具を超えてしまっています。それはインターネット時代のご本尊。いつでもどこでも自分を導いてくれる、ありがた〜い伝道師であり守護霊。全世界須磨穂教のスマートなお札(ふだ)「須磨穂」大明神様です。困った時に、ちょっと手を(画面に)合わせて拝めば、たちどころにその人を「須磨穂の国」へと導いてくれる。今や、その魅力に誰も抗えない。

 

単なる道具に過ぎないスマホが、なぜそれほど魅力的な「須磨穂」大明神に化けるのか? その秘密は、画面の小ささと、あの素早いページめくりにあります。それはあたかも、長い通路に掛かる幾重にもなった御簾(みす)を、ご神体に向かって次々とめくって行くようなもので、めくる度に、めくるめく世界に引き込まれて行ってしまう中毒性を、そのアクション自体が有しているのです。

 

まったく凄い発明品だなと思います。電車に乗ると、ほぼ9割の人が、すぐにその世界に没入しているのを見ます。この時に合わさったエネルギーは凄まじいもので、車両全体が何かに取り憑かれてしまったかのようなカルト的バイブレーションを発しています。

 

夢中になって画面を見ている人には、勿論そんなことは分からないわけですが(分からないからこそ出来ることですが)、このエネルギーは、そこに居合わせた人たちの心身に、耐え難いほどのダメージを与えているんですよ。こんなバイブレーションに毎日接していたら、みんな心が殺伐として来て、頭がおかしくなってしまいますよ。映画『ラブレス』の登場人物たちのようにね。

 

波動の法則というのは、現象面で表れる結果についてはごくシンプルなもので、同じ性質の波動は引き合うというただそれだけの話です。あなた方が、慈愛に溢れた心を持って集まり、一緒に瞑想をしたり祈りを捧げたりすれば、お互いの波動をさらに高め合うことが出来ます。でも反対に、低い、荒れた波動を出し合えば、互いに引っ張りっこをして、その場の雰囲気はドーンと落ちるのです。

 

いま言ったことは、検証できないことなので信じなくても結構ですが、須磨穂教の虜になることが、心を荒れさせるということは確実に言えます。なぜなら、その分だけ、自分を内観する機会を須磨穂が奪ってしまうから。人が内観する機会を失えば、「自分は誰か」という基本的な問いに、きちんと向き合うことが出来ません。そこで糸の切れた凧のようになって、その不安を穴埋めするために、しょっちゅう須磨穂を見続けるという悪循環に陥ってしまうのです。

 

あっちからもこっちからも風が吹き寄せて、常にザワザワとさざ波が立っているような湖面には、自分の姿は映りません。明鏡止水。なにより、静謐で心安らかになっている時にだけ、湖面は凛として澄み、水の向こう側にあなたの真の姿を映し出すのです。この貴重さを、現代人は何も解っていません。情報に接していないときの時間は、すべて無駄だとさえ思っているのです。

 

そうやって、自分が発したものではない、外からやって来たどうでもよい情報で頭の中をいっぱいにして、それらに押し潰されそうになっている。自業自得とは言え、現代人とはなんと憐れなものなのでしょう。今から3日後に、自分は死ぬと仮定してください。あなたは何をしますか? それでも須磨穂を見続けますか?

 

人生は「今」の連続の軌跡なんですよ。

いいですか。「今」のあなたの思い、言葉、行動が、「あなた」を創造するんですよ。

創造してるんですよ! たった今も。

 

あなたとは何者か?

そのように思い、そのように語り、そのように行動する人間を、

人は、「そのような」人間、と見るのです。

 

私は、最近反省しているんです。誤解されるようなことを吹き込んじゃったのかなと。言い方が悪かったのかなと。この世の価値観に合わせる必要などない、と確かに言いましたよ。引きこもる時も人には必要なんだと、それを推奨しましたよ。空海だって引きこもったんだぞ、と言いましたよ。でもそれを、「行動しない」ことのエクスキューズに使ってしまう人たちがどうやらいるらしい、ということに気がついた。

 

空海は、ある時期、確かに引きこもりましたよ。でもそれは、行動できないことの言い訳にそうしたわけじゃない。行として、そうすることを積極的に選んだのです。世俗を離れて内観を徹底するために、敢えて洞窟に入った。つまり、引きこもるという「行動」を、自分の意思で選択したのです。そうやって、クンダリニーの覚醒(空海の表現で言えば、明星が口に入る体験)を見事に成就した。

 

そこを考えて欲しいのです。動けないとか、外に出られないとか、電車に乗れないとかと言ったって、トイレには行ってるわけでしょう。ご飯だって食べているわけでしょう。風呂にだって入るわけでしょう。頸椎を損傷して、首から下がまったく動かないという人だっているんですよ。その人が、もし自分の手で箸を掴んでご飯を食べたり、トイレに行ったり出来るようになったとしたら、きっと随喜の涙を流すに違いありません。

 

早い話が、いま生かされていることへの感謝が足りない。五体が動いて、こんなにも恵まれていて、何を贅沢なことを言っているのだろうかと思う。トイレまで行ける足があるんだったら、あと数十歩たして、玄関から外へ出ればいいじゃないか。外へ出ることが出来たら、あと数百歩たして、公園まで行ってみればいいじゃないか。公園まで行けたら、今度は駅まで行ってみればいいじゃないか。死にものぐるいでやってみろ!

 

それを、私が「動け!」と言うと、「ネットで平和を訴えて行こうかなとは思ってるんですが」とかって言う。ああ、またネットか。結局は須磨穂の国に逆戻りか。そんなんじゃないんですよ! あなたが今、まっ先になすべき「行動」というものは。生活の「リアルな実体験」を積み上げて行くことなんだよ。つまり、失われた生活技術を、一から学習し直して行くことなんだよ。

 

洗濯は出来るのかい? 調理は出来るのかい? お茶碗は洗えるのかい? 部屋を片づけられるのかい? 箒や雑巾は使えるのかい? トイレ掃除や風呂掃除は出来るのかい? 決まった日のゴミ出しが出来るのかい? 庭の草取りが出来るのかい? 買い物には行けるのかい? ほうれん草が一把いくら位か見当はつくのかい? どういう状態の魚が鮮度がいいか見分けられるのかい? 

 

どうかな? いま上げたものに、今まで、何の関心も持っていなかっただろう。ただの面倒臭いもののようにしか、あなたには思えていなかっただろう。でもね、その面倒臭いものに向き合い、体験し、工夫し、味わうことが「生きる」ってことなんだよ。だから、それを全部他人まかせにして生きている人は、「自分を生きていない」ことになる。実にそれが「生きる不安」をつくる元凶なのさ。

 

よいかね。「生活力」というのは、どれくらいお金を稼げるか、ということじゃないんだよ。生活技術力を、その人がどれだけ持っているかということなんだ。金なんて、いざとなったら何の役にも立たない。札束を赤ちゃんのオシメにするわけにはいかないんだよ。だから先ずは生活技術。生活技術さえしっかりあれば生きられるし、生きるのが楽しくなる。平和の貴さを訴えるのは、それが出来てからだ。

 

自分がまだ現役で仕事をしていたころ、マーケティングというものに携わっていたのですが、お恥ずかしい話に、いま言ったこととは真反対の生活をしていました。常に最新トレンドに眼を光らせ、いかにして次代のムーブメントを創るかということに血眼になっていたのです。パソコンの導入だって、自分がいちばん早かった。当時は、それが正しいことだとすっかり思い込んでいたわけです。

 

そんな折、ある調査データを見て、びっくりしたことがありました。若い人に「賃貸のお部屋選びの際に、重視する点は?」と聞いた答えの第一位。何だと思われますか? 一位は「コンビニが近いこと」だったのです。これには衝撃を受けました。間取りとか、日当たりとか、駅に近いことよりも「コンビニが近いこと」が最重要だと言うんですから。もう自分の時代は終わったなと思いました。

 

現代に生きる人間が可哀想だなと思うのは、生活技術を学習するより前に、コンビニの使い方と、須磨穂の使い方を覚えてしまうのです。そうすると、この二つさえ覚えれば「生きられる」と錯覚してしまう。しかし裏を返せば、コンビニと須磨穂がなければ生きられない、という状態にいつの間にかなっている。そういうロボットに仕立て上げられていることに、でも本人は全く気づかないのです。

 

いま、10代と20代合わせて年間3万人超の若者が行方不明者になっているそうです。ある日突然、家からいなくなってしまう。家出の準備をした形跡もない。この、ある日突然の失踪を可能にさせているインフラが、まさしくコンビニと須磨穂なのです。SNSで「今晩泊めて?」と発信すれば、ものの1分もしないうちにたちまち数十件の申し出がある。こういう繋がりに、いとも簡単に身を預けてしまう若者たちがいるらしいのです。

 

いつの時代にも家出する若者はいるわけで、ある意味、勇気ある行動だとも言えるわけですが、今の時代の「お手軽さ」には、以前とはまったく違った様相を感じます。大志もなければ、逆に反抗もない。何となくフラッと家出するといった感じなのです。恐さを知らないと言いますか、社会病理がもう何重にも重なっていて、このような社会現象を止める手立てはもはやないのかも知れません。

 

別に家出が悪いと言っているわけではありません。また、社会からドロップアウトしてしまうことの危惧を述べようとしているのでもありません。みんな好きにしたらいいです、基本的にはネ。でも、自分という存在を見つめて、自分のコントロール意識を働かせて、自分をクリエイトできる体験が、それで出来るのかなと思うのです。結局は、自分も、周囲も、傷つけるだけに終わってしまうのではないでしょうか?(まあ、それも体験ですけれど‥‥)

 

今の時代は、お手軽なクリエイトが多過ぎるんです。レストランに行けば、食べる前にいきなりパシャパシャやる。動画を投稿して美味いとか不味いとか言う。旅に出れば、観光名所をバックに自撮りする。他の人が書いたブログには直ぐにケチをつける。動画の上に意味不明の自分の叫び声を書き込む。しかしそのどれもが、他人のふんどしを借りた表現だ。

 

そうすることによって、あなたの中にある表現願望、「私ってこうなのよ!」という自己実現願望は、多少は満足するかも知れない。でもそんなものは、所詮はニセモノなのだよ。ニセモノの表現行為を続ければ続けるほど、あなたの本物は、外に出て行くチャンスを失ってしまう。

 

解らないかな? あなたたちはそれらを「自己表現」だと思っているが、その表現方法を保証する仕組みに、一元的に取り込まれてしまっているのだよ。早い話が、GAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)その他企業の戦略に落とし込まれているわけだ。ゲージの中で、バタバタしている家畜の鶏のようなものなんだよ。

 

だからもう、他人のふんどしを借りることは止めたまえ。稚拙でもいい、あなたの表現をするんだ。あなた独自の、あなたにしか出来ない表現をするのだよ。価値はそこにあるのだ。いや逆に言おう。価値はそこにしかないのだよ。結果は問題じゃない。「いいね」の数が問題なのではない。そのクリエイティブな体験を通じて、あなたが何を味わったか、だけなのだよ。

 

須磨穂を捨てよ、町を出よう。町を出て、もと来た森の中に帰るのだ。今の社会システムそのものを疑え。この世のすべては所詮、幻に過ぎないが、人工物を通じた体験はバーチャルな幻しかあなたに見せない。一方の鬱蒼とした森は、あなたに一時的な不安を与えるだろう。でも、自然が与える幻は、その先に神の姿を見せてくれるのだよ。

 

さあ、勇気を出せ。覚悟を決めよ。立ち上がって歩け。森の中に踏み込め。そして、それを楽しむんんだ。そうすれば解る。

根本にある不安感から解放されるには?

今回お話することは、以前に、パニック障害や鬱病を患った人間が書いているということを先ず頭の隅に入れてください。ですから、その苦しさや辛さが痛いほど分かります。私がそうした状態から、本当の意味で解放されるまでには十数年間を要しました。その間に、段階的に少しづつ良くなって行ったのです。ですから、いまお苦しみになっている方も希望を捨てないでください。

 

先日、月末に開催しているサロンに、16年間向精神薬を飲み続けていたという男性が来られました。その方は、「16年間飲み続けていてダメなら、17年目もダメだろう」と思ってクスリを止めた、と話されていました。この『気づきの掲示板』は、いわゆる「心の病」を患っている方をサポートする目的で書いているわけではないのですが、きっとどこかに琴線に触れる部分があるのでしょう。

 

ただ、明確に意識しているのは、純粋であるがゆえに、傷つき、疲れてしまっている友人たちに「大丈夫だよ」と言ってあげたいということです。この世が、あまりにも粗雑で、汚れていて、悪意に満ちているために、純粋であり続けようとすることは、大変な生きにくさをもたらします。でもそれを決して曲げないでいただきたいのです。それは宇宙的に見て大きな価値であり、あなたに今の時期、大切な役割があるということを示しているのです。

 

つい一週間ほど前ですが、「自分を実験に使ったんだよ」という声が入って来ました。「ああ、なるほど‥‥」と納得が行きました。生まれてこのかたの苦しい経験、お恥ずかしい体験の数々は、すべて自分を使った人体実験だったと言うのです。その時にはもちろん分らなかったのですが、おかげで、それがいま役に立っている。成功物語を語ることは出来ませんが、どぶ板人生の方はこうして共感を持って語れる。結局それが、自分の役割だったということです。

 

さて、表題のテーマは、ある方からそのような質問を受けたからなのですが、その感じというのはよ〜く解るのです。私が、パニック障害と鬱から完全に抜けられたなと思えるようになったのは、ついこの間のことです。5年前には、まだパニックを起こしていました。

 

鬱症状はかなり改善していたのですが、それでも、質問者と同じように根本にある不安感というものがどうしても拭えないのですね。それが、何かのきっかけで調子を落とした時に、マグマのように下から沸き上がって来るわけです。すると、「いけない、またパニックを起こすんじゃないか」という気に襲われるのです。この辺りのことは、経験者なら多分みな首肯されることでしょう。

 

その状態から脱した今、言えるのは、先ず、「根本にある不安から解放されるにはどうしたらよいか?」という課題の設定、そのものをやめなければいけないということです。パニックや鬱になる人というのは、どちらかというと真面目な性格で、物事をとことん追求しようとする意識が強いのです。それ自体は悪いことではないのですが、ネガティブ方向にその性質が向けられると、思わぬ落とし穴に嵌ってしまいかねません。

 

別の方でしたが、以前に「アトピーを『完治』したが、どうすればいいでしょう?」という質問を受けたことがあったのですが、そのお気持ちもよ〜く解るのです。私にもそういう時期がありましたから。でも、このように「完全」を目標にするという設定は、物事を真面目に捉える傾向の人にとっては、自分を必要以上に追い詰めてしまうという結果になりやすいのです。

 

なぜならば、自分が想い描く「完全」と、それに比してあまりにも不完全な現状とのギャップが目について気になり、真面目な人は、「自分の努力が足りない、もっともっと努力しなければダメ」だと思ってしまうのです。ところが、そうやって、いろいろ手を尽くしても、思ったような成果が見られない。そこでさらに自分を追い込んで行き、ついには精神バランスを破壊してしまうのです。

 

これは男発想が陥りやすい罠で、男は、何をするにも「目標設定と努力が不可欠」とずっとそのように教育されて育ち、それがもう体に染み付いてしまっているのです。そうではなくて、もっと女発想を見習ってください。今ここを生きるということです。レース編みをひと針ひと針、根気よくやり、今日は少し進む。明日もまた少し進む。そうやって、半年後には大きなテーブルセンターが出来ているというように。

 

「根本にある不安から解放されるには?」といった大目標は捨てて、毎日を楽しく生きる工夫をなさってみてください。そうして、1年経ち、2年経ち、3年経ちしてふと思い出し、「そう言えば、最近は不安を気にかけなくなっていたな」と気づくというのが本当のあり方です。

 

これは何度も言っていることですが、「悩みが消えない」とか「不安が消えない」というのは、意識がそこに集中しっぱなしになっているからです。《ネガティブ+否定語》という語法もダメだと、これも何度も言って来ました。例えば、「病気を治す」「戦争に反対する」といった言い方です。「不安を解消する」も同じですし、「悩みが消えない」というのは、そもそもこの語法の罠に捕まっています。

 

この語法を、自分の中で繰り返し呪文のように唱えていると、絶えずそのネガティブが潜在意識に刻み込まれることになり、ついにはその潜在意識に支配されるようになるのです。その結果、ますます悩みが深まる、ますます不安が高まる、という神経症的な段階にまで至ってしまいます。真面目で完璧を求める人は、ここでさらに自分を追い込んでしまい、鬱の深みへと陥ってしまうわけです。

 

しかし、これを何度説明しても、そのループに嵌った人というのは、それがもう習い性(クセ)になってしまい、暫くするとまた「悩みが消えない」「不安が消えない」と同じことを言って来られるのです。そこで私としても、何度でも同じことをお話しするしかありません。そこで言います。神経症的な段階にある方は、完治とか完全解消といったことを求めずに、先ずは通常の不安、通常の悩みに戻すことを目標としてください。そのような、不完全な自分を許すのです。

 

根本的不安から解放された、という人は、おそらく1パーセントもいないのではないでしょうか。殆どの人が、ちょっぴりの不安を抱えながら、日常を遣り繰りして生きているのです。これは健康問題と同じことで、今日は肩がちょっと痛いとか腰が痛いとか、お腹の調子が悪いとか言いながら、みんなウェルネス(Wellness:Health と Sick の間)を生きているのです。

 

このことを、先ず認めることが大切です。要は程度問題であり、その中で、心の爽やかさ、楽しさ、喜びを増やしていく、身体の好調を増やしていく、それがよりよく生きるということです。

ではそのためには、何を心がければ良いのでしょうか?

 

数ヶ月前ですが、サロンに来られた方が、私に向かって「自分は、これまでずっとメンター(Mentor:指導者)を探し求めていました」と仰られたのです。その時に、思わず私の口から出た言葉は、「あなたの課題は、自分にはメンターなど必要なかったんだと知ることです」でした。言った後で、(ああ、自分はなんて冷たい人間なんだろう)とも思ったのですが、幸いにその方は、その意味を直ちに理解されたのです。

 

「虹の学校」の門を叩く方は、私が手取り足取りといったことは何もしないし、縛ることもしないし、その人に代わっての判断はしてあげないし、サイキックな能力はないし、ご託宣を授けたりもしないし、何よりも権威がない(*´-`)ので、みんな呆れて早々に去って行かれます。ですが、師というものは、崇拝の対象にしてはならないのです。師は、踏み台にして、蹴飛ばして、乗り越えていくものです。

 

そうでなければ進歩というものがありません。また、そうでなければ、本物の師は喜ばれないでしょう。自分をずっと崇拝の対象に置き続けておくような師、そんな人間は師とは呼べません。宗教のダメなところはそこで、信仰の名のもとに、人間の本来の自由を奪い、教義に縛りつけ、自分で考え判断することをさせなくしてしまうのです。そして、師を乗り越えることは決して許さない。宗教の怖さはそこです。

 

「杖を持てば、もっと楽に生きられるよ」と言う。そんなものかな?と思って持ってみると、なるほど何か楽に歩ける(ような気がする)。でも暫くすると、もっといい杖があるんじゃないかなと思い始めて、杖を取っ替え引っ替えしてみる。すると、あるとき出合った人が、「そんなやり方ダメよ、浮気しちゃダメ。一つの杖をもっとギュッと強く握るのがコツよ」と教えてくれる。

 

これも、そうかなと思って一つを選んで歩き続けていると、あまりにも強く握り過ぎて、今度はポッキリ折れたらどうしようとか、失くしてしまったらどうしようという不安に駆られるようになる。そこで先の先輩に相談すると「それはあなたが、まだまだ中途半端だからよ。心がフラフラしているからそんな迷いが起こるの。もっと杖を信頼して、全体重をここに掛けるの!」と言われてしまう。

 

あな恐ろしや。そして10年もすると、当たり前のことを、この人はすっかり忘れてしまうのです。

人間は、杖なしでも歩けるということを。

杖なしで、親の支えも振り切って、自分の足でしっかと歩き始めた日の瞬間が、この私にもあったということを。

 

あなたは叫ぶ。「杖、杖、杖をちょうだい」「私にもっとよい杖をちょうだい」「人間には杖が必要なのよ」。そして、杖なしで歩いている人を見かけると驚いて、「どうしてそんな無茶なことが出来るのよ。あなた、怖くないの? 杖を持てば一切の不安から解放されるのよ。この杖の良さがあなたには解らないの? あなたも絶対に持つべきよ!」と言う。

 

実に、これが「根本的な不安」というものの正体です。

 

頼るものを外側に求め続けているから、根本的な不安から逃れられないのです。そもそも、「頼りたい」気持ちが「不安」の裏返しです。ですが、何かに「頼りたい」人にとっては、それを失うことはもの凄い恐怖ですし、捨てることは大変な勇気を必要とします。でも、あなたは忘れてしまったでしょうが、ある日ハイハイからむっくりと立ち上がって、自分の足で歩いたのは、一体どうしてだったのでしょうか?

 

理由などありません。ただそうしたいから、そうしただけです。

その瞬間のあなたは。

ただ「魂」の命じるままに。

 

自然の中の動物たち、植物たちを見てください。杖を求めて生きているのでしょうか? 杖が無いと不安なのでしょうか? 自分が生きたいように生きているだけです。今ここ、この瞬間を、生きたいように生きているだけです。あなたが二足歩行を始めたあの日の感覚、その時の喜びを、ずっと継続して生きている。それなのに、人間だけが、それではいけないと思い始めるのです。

 

そんなことはない。断じてない。「今ここ」を生きた、その軌跡が人生になるのです。だから、喜びの瞬間々々を生き続ければ、その人の一生は喜びの人生になり、悲嘆と悩みの瞬間々々を生き続ければ、その人の一生は悲嘆と悩みの人生になるのです。さて、どちらをご希望でしょうか?

 

理想を追い求めることはよいことです。でもその理想と、今の自分とを比較して、ギャップに落胆してはなりません。理想は理想として置き、そこへ向けて走る「今」にフォーカスするのです。人間は、つねに「成ろう」としている存在です。つまり Being であることが当たり前なのです。だとしたら、これをもっと積極的にハンドリングして行った方が、よりよく生きられるということです。

 

理想の地に向かって、あなたは自転車に乗って走り出します。その時に、ペダルを漕ぎ続けるのを決して止めないこと。ペダルを漕ぐのをやめれば、自転車はフラつきますし、もし停止してしまったら、足を着かない限りパタンと倒れてしまいます。ですから、ペダルだけは漕ぎ続けること。言い知れぬ不安が沸き上がって来ている瞬間というのは、ペダルを漕ぐのを忘れてしまった時なのです。

 

ペダルを漕ぎ続けていれば、不安など忍び寄って来る隙がありません。毎日が忙しくて、不安になどなりようがありませんから。そのための一番よい方法は、「奉仕の人生をひたすら生きよう」と決めることです。一旦そう決めれば、周囲の評価など気にせず、誰に何と言われようと、己の喜びにのみ邁進できるのです。これが、持ち替えるということ。持ち替えれば、自動的に、前のものを手離しているのです。

 

そして、これが習い性になって数年した時、あなたは、ふと気づくはずです。「そう言えば、不安が消えている。いったいあれは何だったんだろう」って。

「衝動」はあなたを裏切るが、「直感」はあなたを裏切らない

ある時、セミナーの席上で「直感と衝動との違いは何でしょうか?」という質問を受けました。それを聞いて「ああ、そうか」と思いました。問われるまで、その違いというものを考えてみたことがなかったのです。考えたことがなかったのは、「衝動」を突き動かすということが、ここ何年も自分の中で無くなっていたからです。しかし言われてみれば、確かに両者は紛らわしいかも知れませんね。

 

しかし私も、前は決してそうではありませんでした。どちらかと言えば喜怒哀楽が激しい方で、すぐにカッとなっては後先見ずにちゃぶ台返しをしてしまう、というのが自分の最大の欠点でした。でも、そういうことも随分と治って来ました。今では、感情を動かすということがあまり有りません。人里離れて一人ぽつんと暮らしているということもありますが、もはや「枯れてしまった」という説もある。

 

「衝動」というものが、感情の発露であることについては論を待たないことでしょう。やっかいなのは、この「衝動」に突き動かされて行動した場合、その結果があまりよいものをもたらさないということです。衝動買いとか、衝動喰いとか、口より先に手が出るとか、果ては万引きとか、クスリとか。やった後になって「ああ、やめときゃよかった」と思う。一体これはどうしてなのでしょうか?

 

人間の「感情」は、外部刺激に対する一つのリアクションとして、心の中に生じる動きです。それ自体は、この物質世界を生きる上での、一種の「才能」とも言えるものです。「感情」があるからこそ、人はこの物質世界を豊かに捉えることが出来るのです。ですから、「感情」それ自体を否定してはなりません。問題は、人間がこの「感情」のコントロールに未だ習熟していないという点です。

 

「感情」には、ポジティブなものとネガティブなものがあります。しかしポジティブなものは、大抵〈そのまま楽しんで終わり〉となってしまうので、人が「感情」のコントロールについて考えるということが、通常の意識下では起きにくいのです。ところが、時にネガティブな「感情」も人には発生します。すると、普段コントロールなど考えたことがないので、途端にどうしていいか判らないという状態になってしまうのです。

 

ここで「感情」のコントロール法についてアドバイスをしますと、「出るままにして放って置け」ということです。それがポジティブなものであってもネガティブなものであっても、「感情」というものは、せいぜい一日、長くても三日しか持続しません。歓喜も、怒りも、悲しみも、それをずーっと抱き続けるということは不可能なのです。ですから、放っておけば消えて行ってしまいます。

 

ところが、しばしば、人はネガティブな「感情」がなかなか消えないと訴えます。しかしそれは、よく観察すると、最初の「感情」とは違うものなのです。「感情」は三日のうちに減衰して、すでに消滅してしまっているのですが、次に、その「感情」を引き起こした元の事件について、あれこれと解釈を考えるようになり、これがその人に「悩み」を起こさせるのです。

 

つまり、その人の心の内部では、初期の「感情」から、自己が生み出す「想念」へと既にステージが移行しているのです。しかし元の事件が一緒なものですから、その人は、それを拭い切れない「感情」の持続であり、「悩み」として捉えてしまうのです。これを私は、「感情の二次災害」と言っていますが、「二次災害」を創っているのは、元の事件ではなく、その人自身の「想念」なのだということです。これが、いわゆる「囚われ」ということなのです。

 

しかし、よく観察してみると、事に際して、その人はいつも同じ思考パターンを繰り返していることが分かるはずです。これが「心グセ」というものであり、大部分はその人のカルマに起因しています。ですから、ご自分の「心グセ」を把握することは、カルマ脱出への最初の糸口となります。しかし、これを野放しにしていたのでは、カルマ脱出は覚束ないということです。

 

さて、「衝動」なるものですが、初期の「感情」の動きの中でも、取り分け激しい反応が「衝動」です。外部からのインプット刺激よりも、自分のアウトプットのエネルギーが何倍も激しいという、感情の爆発的発露、それが「衝動」です。なぜこうしたことが起こるのかと言いますと、やはり、その人のカルマ(中でも非常に強い、深いカルマ)に関係しています。

 

過去世から持ち越している強いカルマ。これとよく似た状況の外部刺激が目の前に出現すると、ほんのちょっとのことでも、たちまちそれが思い出され「衝動」となってその人の心を動かすのです。これは、何もネガティブなことだけとは限りません。よく言う、運命の人との出会い、天職との出会い、場所との出会い、こうした際に起きる「衝動」も、過去世の縁が影響をしています。

 

ですから、「衝動」必ずしもいけないということではないのですが、ネガティブな「衝動」が起きた際には、やはり後で困る。そこで、どうすればいいのかと言いますと、これは前記の「感情」の対処法と基本的には同じになります。

●参考:イヤなことの忘れ方

 

しかし「衝動」は、通常の「感情」よりも数段強い心の動きですから、これを退治するのはかなり難しくなります。ですが、出方というものを見ればかえって解りやすい訳ですから、自分のカルマに気づきやすいとも言えます。要は、野放しにしないで、よく振り返るということです。

 

よく、「感情」に対しては「理性」ということが対比的に言われるのですが、「感情」を「理性」で抑えようとすることは、お勧めできません。なぜかと言いますと、「感情」も「理性」も、共にその人の「心」の動きだからです。つまり同じ土俵にある。ですから、自分の「感情」を自分の「理性」によって監視させようとすると、両者がケンカをして「心」が壊れてしまいかねません。

 

そもそも、これは無理なのです。「感情」と「理性」は、同時には働きません。「感情」が突出している時には「理性」は引っ込んでいますし、「理性」が前面に出ている時には「感情」は引っ込んでいるものです。ですから、一見、「理性」によって「感情」が抑えられているように見える時も、単に「理性」優位にあるというだけで、いったん「感情」に火が点けば、容易にそれが逆転してしまいます。

 

それが、人が「心」を治めることが難しい最大の理由なのです。これは盲点であり、みなさんは「理性」対「感情」というこれまでの不毛な枠組みを超えた、もっともっと大きな意識の構造に気がつく必要があるのです。人間の「意識」は、一つの領域で成り立っているのではありません。異なった意識レベルが、多層階を構成して成り立っています。

 

チャートを見てください。一人の人間の中に、潜在意識、顕在意識、超意識、超絶意識の、次元を異にした四つの意識が重なるようにしてあるのです。前回のブログで、人間は「多次元的存在」だということを述べましたね。多次元的に存在するということは、とりもなおさず、各次元に対応した「意識」があるということです。しかしそのことを殆どの人は知りませんし、意識したこともありません。

 

 

通常、あなた方が知っていて、かつそれを意識しているのは、このうちの「顕在意識」だけです。意識が表に顕れているので「顕在意識」と言います。でもこれだけではありません。たぶん名前くらいは聞いたことがお有りだと思いますが、その奥には「潜在意識」がある。これは、地上世界で生きるためのベースとなっている意識で、本人が特別に意識せずとも自動的に働いてくれています。

 

例えば、心臓の拍動や、胃腸の消化作用、呼吸、発汗作用、新しい細胞を育成することなど、身体を維持するための基本機能を動かしています。一体これを動かしているのは誰か、ということを考えてみてください。そうすれば生命の秘密が解けます。しかしこの自動的な働きにも、「顕在意識」が一部影響を与えてしまうのです。そのため、「心」が動揺すると「身体」にも影響が顕れるのです。

 

普通、人が認めるのはせいぜいこの二つだけです。しかし人間には、この二つを超えた意識があるのです。それが「超意識」です。これは「魂」の意識であり、あなたの「心」の本体と言ってよいものです。「脳」が「心」を生み出すのではありません。「脳」というのは単なるハードウェアです。「魂」こそがソフトウェアで、「心」は地上世界向けに変換された、そのアウトプットなのです。

 

あなた方は、自分の「心」にしょっちゅう翻弄されていますが、それがどこからやって来ているのかを、まるで解っていません。「心」は、自分の「脳」が作っているのだと思っています。そこで、「理性」でなんとかならないだろうかと思ったり、それが無理なら「脳」を薬物によってコントロールしようとまでします。しかしハッキリ申し上げて、それらは無意味どころか危険ですらあります。

 

あなた方の「心」は「魂」の意識の所産なのです。「魂」は、カルマを携えて輪廻転生して行きますから、今のあなたの「心」のあり様は、あなたのカルマを反映しています。ですから、これをチャンスと捉えてください。「心」を野放しにしてしまっていてはダメです。良いところはますます伸ばし、悪いところはどこにその原因があるのか、ご自分のカルマに正しく向き合う姿勢を持つことです。

 

「衝動」は、このカルマより発しており、しかも分かり易いカタチを見せてくれているのですから、早くそこに気づき、その真の原因を探ることが大切です。今世および過去世でした何らかの体験の中に、宇宙の法則に逆らった、自分の解釈違い、心得違いが含まれています。今世で向き合わされる報いは、それに気づかせるためのギフトです。ですから、感謝して受け取ってください。

 

このようにして、カルマを一つ、また一つと解消して行くと、「魂」はしだいに浄化されていき、それに伴って「心」もだんだんと落ち着いて澄んでいきます。このようになると、もう「衝動」のような激しい感情の爆発は起こりません。しかし、そこへ至るのは一朝一夕というわけには参りません。自分が必ずそうなるということを信じて、倦まず弛まず一日一日を生きることが大切です。

 

次に、「直感」についてご説明しましょう。「直感」というのは、文字どおり、直(じか)に感じるです。何を、どう、直に感じるかと言いますと、自己の「魂」の意識に、高次元からのメッセージがダイレクトに届けられたのを感じる。その瞬間が「直感」です。したがって「衝動」との第一の大きな違いは、それが内発的なものではないということです。上から届いたメッセージなのです。

 

このメッセージがどういう瞬間に届くかと言いますと、「心」を滅していった時に入る。ですから、「感情」とか「衝動」を動かしている間は決して入らない。これが第二の大きな違いです。「心」を静かにしてリラックスしている時か、ルーティンの作業に没頭して「心」を忘れている時などにサッと入る。例えば、編み物をしたり、草取りをしたり、お茶碗を洗ったりしている時などに。

 

なぜ、そういうことが起きるかと言いますと、「魂」の意識(=超意識)は、その上位の「超絶意識」と、下位の「顕在意識」との仲立ちをする役割を担っています。しかし普段は、カルマを伴った「心」が、この領域で勢力的に活動をしているために、スペースが占領されてしまって、通路となる空きスペースがないのです。しかし「心」を滅すると、そこに空きが出来るので、スッと「直感」が入るのです。

 

ですから、「直感」が訪れた際には、すかさずメモを取ってください。これは夢と同様で、「心」の意識が立ち上った途端、それまでの意識状態が崩れ、ほんの数分で「直感」は消え去っていってしまいます。このため、「あれっ、気のせいか」などと思って、多くの人が、重要なメッセージを見過ごしたり、聞き逃したりしているのです。残念です。

 

この「直感」の送り手は、高次元の存在(高い霊性密度の領域にいる存在)で、あなたのガイド(守護霊や補助霊)や、マスター(大師がた)、スターピープルなどの他に、高次元のあなた自身(いわゆるハイヤーセルフ)もいるのです。「ハイヤーセルフ(Higher Self)」とは何かと言いますと、長い長い輪廻転生の旅を終えて、すでに卒業の域に達している、別のあなたの「魂」です。

 

そう聞いても、俄かには理解しがたいことでしょう。物質世界であるところの「時空間連続体」に住む人間からすれば、輪廻転生は、過去世から未来世への時間的連続としてしか捉えられないでしょうから。しかし霊的世界には時空間というものが存在しないのです。したがって、一つの「魂」の全部の輪廻転生が、すべて同時瞬間的に起きているのです。そして、それらは全部が一つに繋がっています。

 

どの人間にも、その霊的な背後には、今よりももっと未完成の「魂」もいれば、すでに卒業の域に達した「魂」がいて、全部が同時瞬間的に存在しているのです。ですから、この世の「優劣」などは全く意味がないよと、何度も申し上げて来たのです。このことを知れば、人間たちは、もう少し優しくなれるのではないでしょうか? 他者に対しても、自分に対しても。

 

「ハイヤーセルフ」から来る「直感」は、高次元のあなたが、今のあなたに送った援助の手なのです。さて、高次元の存在から届けられるメッセージを、ぜんぶ一括りにして「直感」と言って来たのですが、厳密にいえば、「直感」とは「ハイヤーセルフ」からのもののみを言い、それ以外は「インスピレーション」と言った方が適切でしょう。これは単に定義づけの問題ですが。

 

さて、ここで注意していただきたいのは、高次元の存在から届けられるメッセージと、アストラル界(心霊界、幽界、中有界とも言う)から来ているメッセージを混同しないように、ということです。あなた方は、どうしても未来予知とか、恐怖の予言とか、オカルティックなことばかりに眼を向けがちですが、高次元の存在がそのようなメッセージを下ろすことは、絶対にありません。

 

なぜならば、宇宙のすべては「波動」であり、すでに高い「波動」にある存在が、低い「波動」を発することなどあり得ないからです。よって、未来予知、恐怖の予言、オカルト等の情報は、すべてあなたを惑わそうとするニセモノです。これを判断基準としてください。高次元の存在から届けられるメッセージは、常に冷徹で、慈愛に満ち、偏りがなく、深い叡智を携えているものです。

 

それに、よくよく考えてみて欲しい。神は一者であると、あれほど言ったではありませんか。その神が、全智・全能・全存在である神が、なにゆえ自分自身に恐怖の予言をする必要があるでしょうか? また、高次元の存在たちが、そこに気づかないとでもお思いですか? バカバカしい限りです。こんな矛盾を、未だに大勢の人々が信じ、夢中になっているなんて。

 

それともう一つ。あなたは「直感」を大切にして毎日を生きるべきですが(何しろそれは、高次元のあなたが、自分自身を援助するために送ったものなのですから)、その示唆を、この世的な「よいこと」に繋がるものと捉えてはなりません。あなたにとって、真の「よいこと」とは、霊的成長あるのみなのです。そこには、試練も含まれるということを忘れないように。

 

ですから、たとえどんなことに出会っても、何事に接しても、つねに感謝の念を持って生きなさい。辛いことに遭えば遭うほど、悲しい想いや、悔しい想いをすればするほど。その機会が与えられたことに感謝しなさい。それが、今のあなたを助けるだけでなく、今この瞬間を、まさに同時に生きている、別のあなたをも助けることになるのですから。

善、偽善、罪悪感、悪

神の世界には、善も悪もありません。善も悪もないのですから、罪も罰もありません。善と悪。罪と罰。これらの概念は、みんな人間たちが考え出したことです。その証拠に、木々や草花、鳥や虫たち、魚や獣たちがどう生きているかを想像してみてください。彼らは、善と悪を想い、罪と罰を怖れて毎日を生きているのでしょうか? いいえ、ただ、その時を生きているだけです。

 

神の世界に、善も悪もないことは、論理的に考えてみてもすぐに解ることです。大宇宙の創造者、“それ” を、人は「神」と名づけました。“それ” が何であるかは、人知を超えたものですから判然とはしませんが、“それ” が一者であることだけは確かです。もし二者であったとすると、互いを創造したものは何者かという矛盾が生じてしまいます。結局、創造主は一者ということに落ち着かざるを得ません。

 

ならば、一者である「神」の中に、どうして善と悪が存在するでしょうか? 自己のこれが善、これが悪と、いったい誰が決めるのでしょうか? 一者であるはずの「神」を判定できる者は、他のどこにもおりません。よって、善も悪もありません。また、一者であるはずの「神」が、なにゆえ自己の内に罪と罰を創造するでしょうか? 悪さをした自分の左手を、右手で叩くとでも言うのでしょうか?

 

善と悪。罪と罰。これらは、これまでの人間たちが、ほぼ総意のもとに考え出した、壮大なるフィクションに過ぎないのです。ああ、それなのに‥‥。どれほど多くの人が、これまで、このドグマの牢獄の中で不自由な人生を送って来たことでしょう。あなた方は、もう真実の神学に目覚めなけばなりません。魚座の時代を超えて、水瓶座の時代に相応しい神学に。宇宙には善も悪もない。宇宙にあるのは、「分離」から「合一」に至るまでの、霊的進化の道だけなのです。

 

*魚座の時代は宗教の時代で、そのシンボル(双魚)が示していた通り、善悪二元の対立が表面化した。しかし、水瓶座の時代に移行したことで、星座図が示しているように(少年が水瓶に入っている水を地に注ぐ)地上に天からの真理が注がれる時代となった。

 

あなた方は全員、もともと一者だった霊的存在から、お餅をひねり出すようにして細かに分けられました。そして身体という物質的衣裳を纏うことによって、個別化した存在となり、地上に降り立ったのです。この個別化し、物質世界に適応した霊(Spirit)は、地上でそれぞれが独自の体験を重ねることにより、次第に個性が芽生えて行き、やがて自我を伴った「魂」へと成長したのです。

 

ですから、あなたの中には、一者と同じ霊的資質と、「魂」としての本来の自己と、身体的な自己の感覚とが、常に同居しているのです。「魂」は、一者と、身体的な自己との中間にあって、両者を仲立ちしています。そこで、そういうあなたを「多次元的存在」と言っています。あなたは、肉体だけの存在ではなく、多次元的に存在しており、常に多次元的な意識を有しているのです。

 

*この場合の多次元とは、数学的次元のことではなく、霊性密度のこと。別の言葉で言えば、複数の振動数の帯域を同時に持っているということ。

 

なぜ、このようなプロセスが生じたかと言いますと、「神」が、自分自身を把握し、自分自身を再創造するためです。「神」は一者です。そのままでは、自己を把握することが出来ません。白色だけの世界にいたのでは、白が白とは分からないのと同じです。黒があるからこそ白が分かるのです。そこで「神」は、自分自身を知るために、全智から、あえて霊(Spirit)を切り離し、自分に似せた存在を地上に創りました。それが人間です。

 

*姿かたちが似ているという意味ではなくて、存在構造の多次元性が似ているという意味。これが誤解され、「神」はしばしば、擬人化された白髭の老人として描かれるようになった。また人間は、全智から切り離された結果、「神」を〈想像〉することが可能となったが、代わりに(通常の意識下では)全智を失った。

 

あなた方は、身体的な「分離」という条件の下で、それぞれ個別の体験を積み重ねながら、自己の本質が実は「合一」の存在にあったのだと気づくまでの、長い長い旅を続けるのです。これが、いわゆる「自分探しの旅」です。その旅は、結局のところ、旅は必要なかったんだ、最初から自分の中に全てがあったんだと気づくまで、何度も輪廻転生の機会を与えられ続けられるのです。

 

ですから、霊的に見た場合、個々の「魂」の成長の差は、「分離」から「合一」への進化の程度ということでしかありません。それは進化の程度であって、優劣ということではないのです。どんな「魂」であっても、最後の最後は、例外なく「合一」を理解し、体現するところに至るのです。ところが、人間はこれを知らない上に、多次元的な意識を持った存在ですから、このことを、それぞれの意識段階で、異なった感覚として捉えてしまうのです。

 

チャートを見てください。宇宙には、「分離」から「合一」へと至る進化の道しかありません。

ところが、あなた方の「肉」の感じ方(つまり身体的、物質的感じ方)は、「分離」を「善」、「合一」を「悪」と感じてしまうのです。

 

これは、いちばん最初の、地上に降りて個別化した際の喜びが、その後もずっと継続していてそうさせるのであり、この結果、人間の大半は「分離」意識をくすぐるものには強く反応し、「合一」意識は無視するか、逆に排斥しようとまでするのです。

 

具体的には、優劣、競争、損得、貧富、美醜、差別、階級、闘争といったものを大半の人間が好み、社会のあらゆる場面でそれを推進する一方で、平和、融和、和合、平等、分配といった考え方は、これを嫌悪し、揶揄したり攻撃したりするのです。「平和ボケ」という用語があるのはその一つの表れです。アメリカでは、自己防衛のために銃を所持することは当然と考える人が多く、こういう人たちが政治的にも大きな力を持っています。

 

ですが、人間は多次元的な意識を持つ存在です。あなた方の本質はあくまで「魂」にあるのであって、「魂」は「合一」こそが「善」、「分離」意識は「未善(未だ善に至らない)」の段階なのだということを、ちゃんと知っているのです。なぜなら、「魂」は元々「合一」であったところの一者から分かれた存在だからです。しかしこれは、あくまで「感じ方」であり、冒頭に申し上げたように、宇宙には「善」も「悪」もありません。

 

このようにして、一人の人間の中に、「善」的なものに関する、相反する「感じ方」が同時に生じることになるのです。しかし、いま言った多次元的な意識構造を意識し、理解している人は、残念ながら極めて稀です。知識としてこれまでに教わったこともありませんし、内観することを習慣づけて生活している人(つまり日常的に「瞑想」を行なっている人)もほとんどいないためです。

 

その結果、大多数の人は、「肉」の感じ方(自我)と、「魂」の感じ方(真我)との間でいつも揺れ動き、葛藤を起こすことになるのです。これが、心がザワザワする際の、背景にある原因なのです。どっちが本当の自分の声なのかが判らない。「肉」の感じ方と、「魂」の感じ方との中間領域で、互いの意識が綱引きを行って、それがザワザワとした感覚をあなたの中に生じさせるのです。

 

さて、いつまでもザワザワした状態では気持ちが悪いですから、どこかで手打ちをしなければなりません。そこで、意識の根っ子では「分離」の方により気持ちが傾いているけれども、これを覆い隠して、「合一」的なことを言ったりやったりしてしまう。これが「偽善」的行動となるのです。反対に、言葉や行動では「分離」の考えに同調しながらも「なにか違うぞ」と思う。その時に、人は「罪悪感」を抱くのです。

 

「偽善」よりも「罪悪感」の方が、より本質に近づいて来てはいますが、どちらも、未だ葛藤状態の中にあることには変わりがありません。さてここで、人間社会の中に大きな問題が生じます。

 

肉欲が支配する物質世界と、霊的世界とでは価値観が逆転しているために、あなた方の世界では、「分離」を「善」だと主張する者がもてはやされ、崇拝され、ピラミッド構造の頂点に支配者として君臨することになります。すると、お金も産業もマスコミも教育も、全部がこれらの人たちの傘下に置かれますから、多くの人が「なにか違うぞ」と直感で思ってはいても、この構造の中に、仕方なしに巻き込まれて行ってしまうのです。

 

こうして繰り返される、最大の悲劇が「戦争」です。クリント・イーストウッド監督の作品に『アメリカン・スナイパー』という映画があるのですが、この作品は、一人の人間が(元々は普通の市民が)、いかにしてイラク戦争に巻き込まれて行ったのか、戦場に送られて大量殺人者となって行ったのかを、鮮明に描き出しています。

 

主人公の男性は、子どもの頃より、父親から徹底的にアメリカ式のマッチョイズムを叩き込まれます。これが染み付いた彼は、青年となってしばらくは荒馬を乗りこなすロデオに夢中になるのですが、アメリカ大使館爆破事件を契機に国家の役に立ちたいと考えるようになり、海軍に志願。そこで特殊部隊のシールズに配属され、優秀なスナイパー(狙撃手)となるのです。

 

イラクに派兵された彼は、都合4回、述べ1000日に及ぶ現地勤務の中で、160人もの “敵” を狙撃によって殺害し、軍隊内部で「レジェンド(伝説)」とまで呼ばれる存在になるのです。しかし、これがもし、アメリカ国内でアメリカ人に対して行われたことだとしたらどうなるのでしょう。5人殺せば殺人鬼、160人殺せばジェノサイド(大量殺戮)と言われるのではないでしょうか?

 

それが、同じことをイラク人に対して行ったら、ヒーローになってしまうのです。彼も、子どもを殺さざるを得ない時には、さすがに躊躇する。でも信念に従うことを優先します。その信念とは、父親から徹底して叩き込まれたマッチョイズムであり、アメリカ国家への忠誠心であり、自分が信ずる神(キリスト教)の庇護のもとにあるという三位一体の「正義」なのです。

 

この三位一体は恐ろしい。家庭教育、国家教育、宗教教育が一つのものとなった際には、160人もの人間を殺害する殺人鬼に、容易に人間はなれる。4回の派兵の間に、彼も結婚し、二人の子どもにも恵まれ、家庭ではよきパパとなっている。それなのに、自分が殺した160人にも、同じように愛する家族がいて、日々の営みがあったということまでは想像が及ばない。この、もの凄い「分離」意識、「分離」感覚。結局、彼は、次第に息苦しさを覚え始めるのですが‥‥。

 

しかしここで、そうなったことの背景にある、人類史にいつも共通したある枠組みに、地球人は気づかなければなりません。彼を、そのような「信念」で染め上げた者たちが背後に存在するということ。そしてこの人たちは、「分離」が「善」なのだと、本気で信じているのです。自分自身が先ず、心底からそのように洗脳されている。ですから、多くの人たちとは違い、その信念に揺るぎがないのです。平気で嘘をつけるし、そこに罪悪感も生じない。

 

「分離」を「善」と信じ切る者は、「合一」を理想とは考えません。むしろそれは、自分たちが信じる世界を破壊しかねない危険思想。「合一」「平等」などという発想は、彼らにとっては「敗北」以外のなにものでもないのです。こんな人たちに絶対に負けるわけにはいかない。ですから、共通利益がある間は「仲間」であっても、最後は、裏切り、仲間割れ、罪のなすり付け合いで終わる。宗教組織や家元制度にしょっちゅう分派が起こるのも、みなこれと同じ理由です。

 

霊的進化から見れば、最も遅れている「魂」が、この世のあらゆる支配権を握っている地球人類。そして、大多数の人たちの中に潜む優越感や、差別意識や、支配欲や、所有欲や、攻撃性などの「分離」意識を、あの手この手で刺激してはこれを表に出させ、自分たちの世界に引き摺り込む。しかし大衆は、そのようにして支配され、隷属させらているということに少しも気づいていない。むしろ喜んで、その誘惑に着いて行く。

 

何度同じ悲劇を経験しようが、何度転生をしようが、人類は未だにこの構造に気づかない。支配者にとって、現場で戦う者は、単なる使い捨ての駒。戦場でも会社でも同じ。死んだら勲章を与えて、また騙して、自分たちだけはのうのうと生きて行く。心など痛まない。まだその段階にすら達していない未熟な「魂」だから。彼らにも守護霊がいて、一生懸命気づかせようとはしているのだが、本人が気づかないことには‥‥どうしようもない。

 

よいかな、ここが肝心要。人類は、いま瀬戸際にあるのですぞ。だから、みなさんが、支配者たちに気づきを与えてやって欲しいのだ。繰り返し言って来たように、騙される人が誰もいなくなれば、騙す人は成り立たなくなるのだよ。そこで、先ずはあなたたちが、善悪というものの背景にあるこの構造に気がつくこと。あなたの本質は身体にあるのではなく、「魂」にあるのだということ。「肉」が感じる「善」と、「魂」が感じる「善」とは、逆になっているのだということ。

 

そこをしっかり学習して、世に満ち溢れる情報を、見極める眼を養って欲しい。本物とニセモノ、どうでもよいことと肝心なこと、真実であることとそうでないこと。そして、闇に誘う道と、光へ続く道。この取捨選択が、あなたという人間の今後の「生き方」を決めるのだよ。それは、決してあなた一人の問題ではない。その集合意識が、人類の行く末を決めることになるのだからね。

 

だから、そのようにして、先ずはあなたたちが目覚め、次いで彼らにも気づいてもらい、人類が永らく置かれて来た奴隷状況から、そっくりジャンプして欲しいのです。お願いしますよ。

 

可哀想に‥‥。「分離」意識に凝り固まった人たちは、未だ「魂」の喜びを知らないのです。「肉」の喜びの段階に、ずっと埋没したままなのです。権力者たちの顔をよく見てごらんよ。楽しそうに見えますか?

 

でも、これを読んで下さっているあなたにはお解りでしょう。「肉」の喜びと、「魂」の喜びとは、全く異質であるということが。きっとこんな経験が、あなたにもあることでしょう。解り合えた、誠意が通じた、真心を受け取った、そう感じた瞬間、わけもなく涙が溢れ出てきたという経験が。それは「魂」の喜び。あなたの本質が、深いところで知っていた「善」の扉が開いた瞬間なのですよ。

 

なにものにも代えがたいこの喜び。物質世界を超越した「魂」のふるえ。あなたのこれからを、この喜びで満たしなさい。この喜びの中に生きなさい。そして、周囲の者たちにもこの喜びを分け与えなさい。友よ、光の道を進め。無償の愛の道を一心不乱に生きるのだ。

劣等意識と才能

アンデルセンの童話に、よく知られた『みにくいアヒルの子』という物語があります。自分と他のヒナたちとは姿形がどうも違う。他の子たちと較べて自分はみにくい。その劣等意識にさいなまれていた一羽が、ある日、湖面に映った成鳥した自分の姿を見て、実は自分が白鳥だったと気づくという物語です。みなさんも、きっと子どもの頃に聞かされたことがあるでしょう。

 

けれども、この教訓話は、私にはどうしても好きになれないのです。物語の核心は、自分を醜いと思い込んでいた子が、実はそうではなかったことに気づくというものです。しかしその結末は、自分が、アヒルよりももっと美しい白鳥だったというところに救いを見出している。これでは、最初の差別意識の逆転ということでしかありません。この子が、本当にアヒルの子で、アヒルのままだったとしたら、一体どこに救いがあるのでしょうか?

 

「実は、美しい白鳥だった」という結論は、あまり美しいとは言えないと思うのです。結局は、外見の Beauty というところに価値観を置いていますし、たとえ、これが内面を表した寓話だったとしても、ある日、降って湧いたように、自分の内面に「美しさ」を見出すということが、果たして人間に出来るのかどうか。アンデルセンのこの物語には、イジメられ、蔑まれて来たことへの、見返しの気持ちしか見出せないのです。

 

私は、まどみちおさんの『ぞうさん』という歌が好きです。子象は、周囲から自分の鼻が長いということをからかわれ、「みにくいアヒルの子」と同じように気に病んでいました。それに対する救いは「そうよ、母さんも長いのよ」です。子象は、決してライオンになったりはしません。あなたは象なのよ。象だから鼻が長いの。母さんも象だし、象であることを生きているのよ。そのままのあなたを私は愛しているし、それで充分じゃない。と、この歌は語っています。

 

自然界には、同じ形態のものはただの一つもありません。アサリの殻の模様だって、よく注意して見れば、一個一個がぜんぶ違います。実に驚くべき多様性であり、多様性は無限なのです。ここに、宇宙の神秘の構造が示されている。すなわち、全体は一つ、生命は一つであるのだけれども、生命の「表現」は無限の多様性を持つということです。このように、超シンプルと超複雑が同居する。それが宇宙というものなのです。

 

この多様性のことを「個性」と呼ぶのです。そこに優劣はありません。宇宙には無限の「個性」があるのみです。そして、全部の「個性」が、宇宙では必要だから、そこに存在するのであり、他の「個性」に役立つことで、全体の生命が維持されているのです。ですから、役立たない存在など、宇宙には一つもありません。人間だって同じです。一人ひとり全員が「個性」を持ち、役立つために存在しているのです。

 

ところが、当の人間はそのようには考えません。宇宙の真理、本当の生命の仕組みというものを知らないためです。人間は、何事も、自分たちにとって、あるいは自分個人にとって、有用かどうかという視点でしかものを考えません。あらゆるものを「有用」というふるいに掛けて選別し、レッテル貼りしてしまいます。

 

宇宙というものが、生命というものが、巨大な系(System)で構成されているという点を無視し、そうやって、部分を都合よくイジろうとするから、却って自然界のバランスを破壊してしまうのです。そして、その本当の怖さというものも、現代人は解っていません。自然界というものは、人間自身を育む揺りかごであり、生かしていく土壌であるのに。

 

自家焙煎をしているコーヒー店へ行くと、豆をていねいに選別しています。その作業は、美味しいコーヒーを飲むためには、そうすることが有用だからです。では、撥ねられた豆は全くの無用なのかと言えば、土に返せばまた他の作物を育てる栄養になりますし、基準に合わない種は、次の環境変化を生き残るための新種になる可能性だってあるのです。

 

このように、視点をちょっと変えれば、宇宙には無駄になるものは何もないということが解るでしょう。人間の身体も、90種類以上の元素から出来上がっているということが、今日の科学によって確かめられています。この点で、土をこねて造った人形に、魂を吹き込んだものが人間だ、という認識は間違っていません。宇宙という土壌から生まれたもの、それがまさしく人間なのです。

 

さて問題は、人間が、この「◯◯にとって有用であるかどうか」という視点を、あらゆるものに適用し、あまつさえ、人間自身にも当てはめてしまったことです。これによって、人間が、人間を選別するということを許してしまったのです。この人間は、職場にとって有用かどうか、会社にとって有用かどうか、産業にとって有用かどうか、社会にとって有用かどうか、etc.。

 

この考えを推し進めて行くと、ついには優生学による劣等種の切り捨てというところにまで行ってしまいます。そして過去に、実際にこれが行われました。

 

今日では、この考えは「当たり前」になってしまい、誰も疑問を抱く人がいません。みんな、唯々諾々(いいじゃくじゃく)としてその評価システムを受け入れています。それは、早くも幼児教育から始まって、一生をついて回る。そして、次の世代に丸ごと伝承される。ですから、もう誰も疑問を抱かない。しかしこれが、現代人に特有の苦悩の、元凶となっているのです。

 

あなた方は、あらゆるものにスケールを押し当てます。そして、これを3つに分ける。標準と、それよりも優秀、そして標準以下の劣等とにです。優秀者を賞賛するのはいいのです。しかし、スケールの右側に優秀者を置いたとすると、あなた方は必ずと言っていいほど、左側に劣等者を見出そうとします。見出さずにはおられないとでも言いましょうか。

 

これが、実は、大衆支配の構図を決定しているのです。大衆とは、スケールの標準内に収まっている大多数の人たちです。優秀者の中で、支配的な野望を抱くエリート層は、その地位を継続的に維持するために、大衆に対して、「私のようにすればあなたも上に上がれるかもよ」という憧れの餌を撒く一方で、「標準からもしもこぼれ落ちたら大変なことになるよ」という恐怖を同時に与えます。

 

これがモチベーションとなって、大衆支配が維持され続けているのです。自分たちに憧れを抱かせるということは、そのスケールを認めさせるということですし、こぼれ落ちる恐怖を与えることは、そのシステムにしがみ付かせることによって永続性を保証します。それだけではなく、恐怖は大衆のガス抜きにも使えるのです。努力しても上に行けない不満を、自分よりもさらに下を蔑むことに転化させることができるからです。

 

このようにして、あなた方の世界では、表向きは「差別はいけない」と言いながら、堂々と差別が是認されているのです。政治家の発言を、注意してごらんなさい。つねに、差別すべき敵(Enemy)を探していることが判るでしょう。自分たちに反対する勢力、特定の団体、イデオロギー、宗教、民族、果ては人種や国家にまでその対象が及ぶ。そうやって、大衆の不満を「敵」に横滑りさせては、内側の結束を強めようとするのです。

 

しかし、この「敵」を設定するというトリックを、エリートたちは、大衆支配の道具として解ってやっているわけではないのです。本気で「敵をやっつけなければ」と思っている。つまり、そのスケールに最も強く洗脳されているのは、他ならぬエリートたちだということ。ですから、彼らを目覚めさせるのは非常に難しく、大衆がこの構造に、もういいかげんに気づいて、巻き込まれないようにする、同調しないようにするということが大切になってきます。

 

ここで、みなさんに、これまで説かれたことがなかった、ある知識をお伝えしましょう。これまでにも、このブログでは「障害」というものはないのだと何度も語って来ました。あるのは「個性」だけなのだと。しかし世の中では、「障害」というものを何とかほじくり出しては細分し、そこに様々な名前を付けてレッテル貼りをすることが、まるで流行のようにさえなっています。しかも「支援(Support)」と称して。いったい、それで誰が得をしているのでしょうか?

 

自分がどういう人間であるかを知りたい。そういう思いに駆られる時は誰しもあります。特に病気になったり、弱気になったりした時には。しかし、そこにレッテルを貼られると、一時は「そういうワケだったのか」とそれでホッとするのですが、やがてその人は、そのレッテルを貼られたアイデンティティを無条件に生きるようになり、遂には脱け出すのが困難になってしまうのです。

 

あるのは「個性」だけです。自分のトータルを受け入れて、それを「個性」と思えば、その人は「個性」を生きることになります。ところが、「障害」というレッテルを貼り付ければ、まったく同じ自分を、今度は「障害者」として生きることになるのです。いったいどっちがいいでしょうか?

 

今の社会は、「個性」であることを認めようとはせずに、逆に「障害」の名は、社会的に認知されるのです。あまつさえ、そこに等級まで与えています。でも、よ〜く考えてみてください。それは、「健常」というスケールを、より強調する手段になっていることを。このように、一見、良いことをしているフリをして、差別と恐怖による支配が堂々と行われているのです。

 

さてここからが、これまで説かれていない知識です。標準から、自分がこぼれ落ちるのではないかという恐怖心や、標準外、規格外というレッテル貼りは、その人を深く傷つけます。時には、二度と立ち直れないほどに。それは、人間の身体というものが、その時の心のあり様によって常に再創造されているからです。しかしそのレッテル貼りは、いま言ったように、スケール維持のために創作されているのです。

 

ですから、くれぐれも、そのシステムの犠牲になどならないようにしてください。人間の本質は、身体にあるのでも、心にあるのでもなく、「魂」にあります。「魂」は、深いところではつねに宇宙と繋がっていて、真理を知っています。ですから、自分の「魂」の声に耳を傾けて、「魂」が命じるままに生きていれば、決して犠牲になることはないのです。

 

わたくしの真実の喜びは何か?

そう、自分に尋ねてみてください。そこから返って来るものが答えです。

 

人間が、五感を持ち、感情を抱き、心を動かし、思考をするのは、この物質世界を知覚し、そこでの出来事を体験するためです。それは、この世に誕生した目的、物質的世界でしか味わえない体験をするために、あなたが自ら望んでしたことです。しかし、あなたの本質はあくまで「魂」ですから、依然として、「魂」が知覚する世界のことを、超意識の分野では知っているのです。

 

ただ、脳が発達して成長するに連れて、五感刺激の罠につかまり、五感優位の世界に生きる(つまりは心を中心に生きる)ようになって行くために、本来持っていた六感以上の能力を次第に失って行き、やがては「魂」の世界のことはすっかり忘れてしまうのです。つまり、あの世を知覚する能力と、この世を知覚する能力は、通常はトレードオフ(入れ替わり)の関係になっているのです。

 

ですから、脳の発達がまだ未熟な7歳くらいまでの幼児は、霊界のことをとてもよく覚えていますし、ゴッコ遊び(見えない世界に浸りきる)ということが、実に楽しそうに生き生きと出来るのです。また、死期が近くなった人も、脳の活動が弱まって来ると、入れ替わりに「魂」の感覚を取り戻し、「魂」の世界を生きるようになって行きます。そこで「お迎え」などを見るようになるのです。

 

ところが、人間の知識はこのようなことを知りません。また、ほとんどの人が、物質主義を基盤に置いた唯脳論に染まっているために、脳の発達が不充分であったり、機能が低下したり、失われたりした人に対しては、「病気」とか「障害」とレッテル貼りをして、それでみんな納得しているのです。これは、五感による知覚と脳機能に、ここまでは「標準」というスケールを当てて、そこからこぼれ落ちる状態を、「病気」や「障害」と見なしているのです。

 

しかしそれは、全くの一方的な見方です。脳機能が相対的に弱まった時には、トレードオフ関係によって、「魂」は、逆に第六感以上の知覚を大いに働かせていきます。「アール・ブリュット(生の芸術)」というジャンルがありますが、一般に障害者と言われている人たちが、驚異的なセンスのアートを表現するのは、そのためです。彼らには、実際に、自分が表現している世界が鮮やかに知覚できているのです。

 

反対に、健常者と言われている人の大多数は、五感が知覚する世界のみに落ち込んでいて、またそれを「正常」だと思い込んでいるために、第六感以上の世界を知覚することがなかなかできません。そこで、テクニックとして、通常の脳機能を人為的に低下させることによって、第六感以上の世界を知覚するしかないのです。この人為的なテクニックが、いわゆる「瞑想」なのです。

 

認知症とか、自閉症とか、サヴァン症候群と言われる人たちも同じです。この人たちは、通常の人よりも、脳機能が低下した分だけ「魂」の世界にずっと近づいた「生」を生きているのです。それまで「普通」に生活できていたのに、アクシデントによって五感機能や知覚に異常が生じた際には、さすがに本人も周囲の人もショックを受けることでしょう。それは、スケールの標準からこぼれ落ちた、正常では無くなったのではないか、と考えるためです。

 

しかし人間というものを、もっとトータルな存在として見た場合には、「魂」が主体の生き方への転換、次のステージへのジャンプという意味があるのです。そして、そうなったのには、ちゃんと理由があります。その新しく生じた才能を使って、「魂」の世界のことを、また宇宙の真理というものを、人々に伝えるメッセンジャーとしての役割が、その人に新たに与えられたのです。

 

一般の人は、「スピリチュアル」というと、どうしても超常現象や不思議現象や予言などに興味を抱きがちなのですが、そんなものは出会い頭の交通事故に遭った程度のこと。本当の「スピリチュアル」は、むしろ、数学、科学、芸術分野の中に表現されているのです。なぜなら、真の「スピリチュアル」とは、あの世とこの世の中間領域のことではなく、あの世とこの世を全部包含するものだから。

 

だから、「魂」の世界により近づいた「生」を生きるようになった人たちが、数学、科学、芸術の分野で、驚異的なパフォーマンスを見せるのです。それは真実の宇宙の表現。数学者のジョン・ナッシュさんや、アーティストの草間彌生さんもそうした典型的な一人です。そうやって、みなメッセンジャーとしての仕事を遂行しているのです。人々に、宇宙を、真理を、愛を、気づかせるために。

 

えっ、数学、科学、芸術、どれも苦手だってぇ? あ、そう。

じゃあ、もっと言おうか。この3つは、どれも自然の中に完璧に表現されているのだよ。

 

そこで、みなさんにお願いしたいのは、先ずは、劣等意識の罠にハマらないで欲しいということ。自分を犠牲者にしてはいけないよ。劣等意識の罠は、必ず、憧れと脅しの両端のスケールを携えてやって来るから。その時には、「お、来たな」と思って、引っ掛からないようにするんだよ。あなたは、あなたでいるだけで、すでに素晴らしい人間なんだよ。なぜって、そのように作られのだから。ぞうさんが、ぞうさんであるように。

 

何事も全てパーフェクトにこなせる人間なんて、この世に一人も居ないんだよ。誰にも、得意なことと不得意なことがある。それが「個性」であり、同時に「才能」というものなんだよ。身の周りを見渡してごらん。あなたが、いかに他者の助けを借りて生きているか。まさしく、これが自然界の姿を映したものじゃないか。多様な才能によって、生命の輪廻が営まれているという証拠じゃないか。

 

だから、あなたも、自分の個性を光り輝かせて生きるのだよ。その生き方は、さっき言ったように、自分の「魂」に訊いてみればいい。いいかい、他の人の良いところを賞賛するクセをつけなさい。そして同様に、自分の良いところを誉めてあげるクセを付けなさい。この二つは同じことだから。そうすれば、あなたは、もっともっと喜びの中に生きられるようになるから。

トンネルを脱け出す時

鬱の長い長いトンネルに迷い込んでいた頃のことです。出口を求めて必死になって読んでいた本の中に「いつか必ず、天から一本のロープが下りてくる」という一文を見つけました。そこに私は傍線を引き、何度も読み返しては、心に言い聞かせました。ロープ、ロープ、ロープをちょうだい。お願い、ロープを下ろして、今すぐに。もうそれしか、すがるものがないんだよ。ねえ、助けて!

 

鬱の期間は、結局、5年くらい続きました。もともと痩せた体型なのに体重がさらに5キロも減り、食べ物の味が全くしなくなったのにはびっくりしました。食欲はないし、当然性欲もない。とにかく意欲がない。朝、部屋が明るくなって目覚めると、「ああ、今日もまた生きなくちゃならないのか‥‥」と思い、ガッカリしました。そして夕方、暗くなって来るともうたまらず、お酒を呑んでは早く酩酊したく毎日でした。

 

さて、期待のロープは下りて来たのでしょうか? いいえ、下りて来ませんでした。求めても求めても、下りて来ませんでした。やがて、そんな一文などとうに忘れてしまった頃になって、私は徐々に、鬱々とした気分から解放されている自分を発見しました。そして、今頃になってやっと気づくのです。あの一文との出合いこそが、まさに天からのロープだったのだと。

 

天の計らいはまことに奥深く、通常の人智を超えたものです。ですから、それが示された時には、人は気づかないし、気づけない。でも、一年経ち、二年経ち、五年経ち、十年経ち‥‥した時に、「そうか、あの時のあれは、こういう意味だったのか」と、パッと気づく瞬間が訪れます。そうなった時に、あなたは、ご自分の成長というものを、深く実感できることでしょう。

 

そして、さらに言えば、その全てが、天(神)のご計画のうちにあるのです。そこで、しばしば、「全ては完璧」と言われているのです。

 

と聞いても、おそらくはチンプンカンプンでしょう。何か騙されたような気がするでしょう。私が、ロープが欲しくて欲しくて、悶え苦しんでいた時には、ロープはやって来なかった。けれども、忘れてしまった頃になって、実はそこにロープがあったのだと気づいた。ここに、その魔法の、答えがあります。

 

救いを求めていた時の自分は、「悶え苦しんでいる自分」というアイデンティティに、しっかりと抱きついていて離れなかったのです。自分では、必死になって救いを求めているつもりでした。でもその両手は、自分を抱きしめるためにふさがっていたのです。ですから、ロープなんて掴めなかった。いいえ、そこにロープがあったのに、眼に入らなかったのです。

 

ですから、苦しい自分を抱き続けることを止めた時に、一切を諦めた時に、もうどうでもよいと思った時に、自分と闘うのを止めた時に、全てはなすがまま、あるがままだと思った時に、両手が空いて、まるで電車の吊り革を掴むように、無意識のうちに、その手にロープを持たされていたのです。これが、何度も言ってきた「持ち替える」ということの意味です。

 

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バンジージャンプに挑戦するときのように、全てをお任せする気分で、空中に飛び出してご覧なさい。あなたは落ちない。決して落ちない。それどころか、自由に、イキイキと、あなたは飛行する。全てが、「神のご計画」というセーフティネットの上に載っかっているから。そこから落ちることは絶対にない。あり得ない。もし落ちることがあるとすれば、別の宇宙があるという矛盾だから。

 

他人に話せない「悩み」というものを、あなたは持っていますか? いくつですか? 一つ、二つ、三つ? いや、もっとかな? 鍵のついた箱の中に大事にしまっているのかな? それを解いて、その「悩み」とやらを、思い切って誰かに打ち明けてご覧なさい。他人に言えないようなことが言えるようになった時、それはもう解けているということだから。「持ち替えた」ということだから。

 

何もかも、大したことではない。あの時こうであればという思いも、死ぬほど恥ずかしい体験も、屈辱にじっと耐え忍んだ日々も、冒したことの罪の意識も、全ては Passing。Bashing されたことも Passing。重要なのは、今のあなたの思いだけ。それらの体験は、あなたの「思い」が、どのように変化し、成長していくかを計るための、テーマパークとしてあるだけのことだから。

 

そう聞いても、納得がいかないでしょう。中には怒りだす人もいるかも知れないね。それは、あなたの今の「思い」だから、それでもいい。

 

でも大事なことを言っておくよ。よく「この罪を、一生背負っていく」という人がいるのだけれど、そんな必要はないのだよ。冒したことは冒したこと。それによって、誰かを傷つけたり、自分が傷ついたりすることがあったとしても、その体験から学び得たものを、次には愛のエネルギーに変えて、周囲に与え歩く自分に変身すればいいのだよ。アングリマーラのように。

 

そんな馬鹿な。それじゃあ、どんな極悪人でも、罪を許されると言うのか。私利私欲のために、市民から富を奪い、傷つけ、嘘をつき、それでもなおのさばっている権力者も、罪を問われないでいいと言うのか。たとえ人を殺しても、罪の意識を持つ必要などなく、平気な顔をして世間を歩いていりゃいいと言うのか。それじゃあ、殺された者の遺族の気持ちはどうなるんだ!

 

「平気な顔をして歩いてりゃいい」とは言っていないよ。「愛の人に変わればいいのだ」と言っているのだよ。そして、それこそが、生きている目的なのだよ。

 

でも、あなた方の社会ではそうしない。罪を冒した者は、罰を受けるべきだと言う。しかし、長年そうやって来て、うまく行ったのかな? 殺人者に死刑を執行することは、罪には当たらないのかな? 市中で人を殺したら殺人鬼で、戦争で人を殺したらヒーローになれるというのは、一体どういう理屈なのかな? 戦争を早く終結させるために、原爆を使用したという理屈は、ありなのかな?

 

あなた方の「罪」と「罰」の考え方は、ご都合主義でしかない。いいかい、宇宙には「罪」も「罰」も無いのだよ。よく考えてごらん。あなた方を創ったのは神なのだよ。あのあなたも、このあなたも、全部がわたしなのだよ。そのわたしが、片方で「罪」を冒し、もう片方でそれを「罰」するなんてことがあるだろうか? もしあるとしたら、何のためにそんなことをするんだい?

 

馬鹿げているよ。「罪」と「罰」の考え方は、あなた方が、「感情」というものの落としどころを考えた際の、発明品だよ。あんまりいい発明じゃないがね。それは、神の発想ではなく、人間の発想さ。そしてあなた方は、その発明品を、神が考えたものとして、文字通り、神に「罪」をなすりつけたのだよ。「原罪」という名でね。しかし、そんなものは無い。あるはずがない。

 

いいかい、何度でも言うよ。あなたも、あのあなたも、このあなたも、全部がわたしなのだよ。みな愛しいわが子なのだよ。いつも全部を見ているのだよ。愛さない者は、この宇宙に一人もいないのだよ。だから、その根源に気づきなさいと言っているのさ。愛の人に変わりなさい、と言っているのだよ。それが、本来のあなたなのだから。

 

この者(私)も、鬱でどん底にある時に、追い打ちをかけるようにして妻が死に、妻を死なせてしまったのは、自分のせいではないかと、しばらくは「罪」の意識にとらわれていたのだよ。だから、わたしが喝を入れて、怒鳴りつけてやったのさ。「何をグズグズしている!」って。そうやって、ビンタで叩き起こして目覚めさせたんだよ。そうでなければ、わたしの手足として用いることが出来なかったからね。

 

その時は、彼もショックの様子だったがね。でもわたしは、耐えられない試練は与えないのだよ。どんな人にも、決して。彼が耐えられると知っていたから、そうしたのだよ。どうしてかって? そうすることを、あらかじめ決めて来たのは、彼自身だからさ。それでも彼は信じなかった。なかなか自分を信じようとはしなかったよ。つまりそれは、わたしを信じなかったということに他ならない。

 

だから、ここに至るまでに、何年も何年も掛かってしまったよ。何度もメッセージを送っていたのにね。でも最近になって、ようやくちょっとは分かって来たようだがね。わたしが、常に傍にいたということと、自分の役割というものを。あの辛い体験、屈辱に耐えた日々、それらが全部、自分自身による計画だったことが。つまりは、神の計画だったことが。

 

贖罪の気持ちを持ち続けることは、一見、貴いことのように思えて、でもそれは、ある種のエゴなんだよ。なぜかというと、自分が引き受けなくてもよいものを、自分が「引き受けねばならない」と思う独善に陥っているから。いいかい、誰もが、等しく、わが愛する子たちなんだよ。その一人ひとりが、自分の生き方を、自分で選んでいるのだよ。あなたも、あのあなたも、そのあなたも。

 

そこでは、どのように死ぬかということも、その人の生き方なんだよ。あなた方の世界では、死んだら終わりという思想が深く染み付いているので、それが、Re-born だということが理解できない。でも、Re-born しない人は、一人もいないのだよ。誰もが、死ぬことを〈自分で〉選択して、生き直すことを選んでいるのだよ。だから、そこに介入する必要はないし、そもそも介入することなど不可能だ。

 

けれども、人間の世界では、「感情」が支配的だから、そのような無意味なことに、意味を見出そうとして、自分が創造した「思い」をいつまでも抱き続けているのだよ。でもね、その人の死は、その人のものなんだよ。あなたのものじゃない。その人が、Re-born することを選ぶことによって、完結したんだよ。だから、親しい人の死に接した時、あなたがするべきことは別にある。

 

それは、その体験から学んで、新しいあなたを生きることだ。生きながらにして Re-born することなんだよ。全き愛の人に生まれ変わることなんだよ。

 

そして、それは、あなたなら出来る。

 

信じられないって? 信じなくていい。でもね、こうして、あなたは今このメッセージを読んでくれているね。他のコメントにも、熱心に眼を向けてくれていたことを知っているよ。わたしのメッセージに出合い、かつ受け留めてくれる人は極めて少ないのだよ。その少ない出合いが、どうして起きたんだろうね。全ては、計画通りに進んでいるということさ。

 

言葉は、与えられ時には、その意味が解らないものなんだよ。あんまりいい喩えじゃないが、オレオレ詐欺だって、後から、その言葉の真の意味が判るわけだろう? だから、今はメッセージの意味が解らなくても、また暗いトンネルの中にいたとしても、決して希望を失っちゃいけないよ。あなたの努力は、絶対に徒労には終わらないから。

 

天の計画は、あまりに精緻で深遠で、求めていた答えは、あなたが思いもよらない方法でやって来るから。そして、気がついた時には、いつの間にかトンネルを脱け出ていた自分を発見する。そういうものなんだよ。その時になって、あなたはハタと膝を打つ。

 

そうか、あの時の言葉の意味はこれだったのか、と。

自分と「闘う」のを止めれば楽になる

なぜこのような目に遭うのだろう。どうして思うようにいかないのだろう。

深い苦悩に、今まさに落ち込んでいる人たちに、言ってあげたいです。

自分と「闘う」のを止めれば、楽になるよと。

えっ、闘う? 自分と?

そう言われても、何のことやら解らないでしょう。

そう、まさにその解らなさ、見えなさこそが、苦悩の正体なのです。

 

苦悩の種は尽きません。子どものこと、親のこと、夫婦のこと。職場における人間関係。愛する人への思い。学業成績。仕事の進み具合とその評価。お金の無いこと、借金があること。容姿や体型コンプレックス。体調不良に病気。将来不安や鬱、独りぼっち感。突如身に降り掛かった事故や災難。生きるということは、まこと、苦悩の種と同居し続けているようなものです。

 

でもそれは、「種」なのですよ。全部が「苦悩」に育つわけじゃない。水を与えなければ、「種」は育たない。同じ「種」に遭遇したとしても、立派に「苦悩」に育て上げる人もいれば、ほったらかしにして枯らしてしまう人もいるのです。よく、「次から次へと苦悩が自分を襲う」と仰る方がおられるのですが、その人は、ほったらかしになど出来ない性分なのですね。

 

生きるということは、日々体験をするということです。ですから、体験を怖がっていては「よく生きる」ことは出来ません。そして体験をする以上、予期せぬ事件、事故、災難が起きるということは、もう当たり前なのです。問題は、あなた方人間が、体験の内容を「善いこと、悪いこと」に線引きし、区別してしまうこと。この善悪の区別が、あなた方に偏った視点を与えてしまうのです。

 

例えば、赤ちゃんが生まれれば、人は「おめでとう」と言い、誰かが亡くなれば、みんなが「ご愁傷さま」と言いますね。それがもう当たり前になっている。でもこの区別は、あなた方に極端に偏った視点を与えています。スパゲティ状態になろうが何であろうが、延命させることが善いことで、死んだら人間はもう終わりなんだと。それが「生命」とは何かを、却って解らなくしています。

 

こうした視点は、現代人に共通の認識を育て上げ、「死」はただ忌むべきものであり、できるだけ遠ざけるものであり、なるたけ直視しないようにする、と多くの人が思うようになっています。ですから、親族の誰かが大病を患って入院をすると、多くの人が躊躇なくこう言っています。「先生に、全部お任せします!」 それは、いったい何をお任せするというのでしょうか?

 

一方、こういうこともあります。この例は前にも挙げましたが、朝起きて窓を開けたら雨降りだったと。それまでは晴天が続いていたのに、今日の遠足を心待ちにしていた人にとっては、それはひどくガッカリする出来事です。でも、ずっと雨が降らずに困っていた農家にとっては、それはまさに恵みの雨です。つまり同じ出来事でも、「視点」が変われば、「認識」も変わってしまうということです。

 

さて、いま挙げた二つの例にはどういう違いがあるのでしょう? それは、善悪に対する固着化の度合いが、だいぶ違うということです。生を尊び死を忌み嫌う。この固着化は、かなり強く今の人類に共通して起きています(古代はそうでもなかったのですが)。しかし晴れが善くて雨振りが悪い、という固着化の程度は、それよりもずっとゆるいです。このことから、何かが見えて来ませんか?

 

一つは、この前でも述べたように、「認識」は「視点」の持ち方によって変わるのであり、それは変えられるということです。生死の概念も、人類に普遍的なことのように思われるかもしれませんが、あの世を知っている者からすれば、実は真逆です。この世で言う死は「お帰りなさい。お疲れさまぁ」という祝福ですし、誕生は「ご愁傷さま」とまでは言わないにしても、「自分で決めたことなんだから、しっかり頑張ってね。では、行ってらっしゃい」という感じです。

 

二つめに、善悪に関する固着化した概念を、より多く持てば持つほど、また強く持てば持つほど、それは、その人の自由度を失わせ、苦しくさせるということです。ところが人間社会では、この「宇宙の常識」が通じないどころか、善悪概念の固着化を推奨し、あまつさえ賞賛する風潮すらあるのです。それが、信念であり、正義であり、倫理であり、道徳であり、法律です。

 

そして、それらから逸脱することは、誤りであり、罪であり、責められるべきものであり、罰せられるべきものであるという、これまた固着化した概念を、ほぼ共通のものとして創り上げているのです。これが、あなた方の中に「苦悩」というものを育てる、肥料たっぷりの土壌となっているのです。ですから、賢人たちは、古代よりみな共通のことを語って来たのです。それら一切を手放しなさいと。

 

これが人間には解らない。手放すということが、一体どういうことなのかが解らない。もし手放してしまったら、糸の切れた風船のようになるのではないかという恐怖心が顔をもたげる。その結果、ますます信念を強く抱きしめようとして、多くの人が、再び自分と「闘う」道に帰って行く‥‥。ああ、もったいない。せっかくのチャンスだったのに。

 

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よいかな、あなたが闘っている相手は自分自身なのだよ。そんなものは、本来、全く不必要なものなのだよ。

 

生きている以上、あなたは、様々な事件や事故や災難に直面する。その中には、「まさか!」と目を疑うようなものもあれば、あなたにとってネガティブな要素が多々含まれていることもよく解っている。そして時々「神も仏もあるもんか!」と悪態をついていることも知っている。それらが起きた瞬間、あなたは動揺し、何らかの感情を抱く。衝撃、落胆、悲嘆、憤怒、苛立ち、etc.。

 

これらは、起きた出来事の反作用で、感情の自然の発露だから、抑えようとしてはいけない。むしろ、存分に味わうのだよ。でもその感情も、早くて3時間、遅くとも3日のうちには減衰して行く。問題はその後だ。あなたは、たった今、自分の感情を大きく揺さぶった出来事に対して「解釈」を開始する。この時、スイッチが切り替わるのだよ。

 

自分が「解釈」を開始したことはすぐに判る。「感情」が「言葉」に置き換わるから。今のこの出来事は何を示しているのだろう? 警告なのか、それとも何かの学びなのか? この後、どっちへ進めばいいのだろうか? あの人は、どんな真意でそれを言ったのか? 相手は私をどう思っただろう? 私は誰かを傷つけなかっただろうか? 等々、人は次々に「言葉」を紡ぎ出して行く。

 

よいかな、そうして紡ぎ出した「言葉」は、全部あなたの「思い」なのだよ。それはもう、最初の事件とは関係がない。あなたが、新たに創出したエネルギーパターンなのだよ。最初の事件は、そのエネルギーパターンを生み出すための、ただの触媒として機能しただけ。あなたがする「体験」の、きっかけを与えたトリガー(引き金)に過ぎないのだよ。

 

解ったかな? これが「感情の二次災害」と呼んでいるもので、その災害は、あなたが創り出したものなのだよ。そして創り上げた瞬間から、あなたの内部でこれとの闘いが始まる。だから、そんなものは不必要だと言っているわけさ。ところが、この切り替えが起きたことが判らずに、自分が創造した「思い」を、いつまでも事件と関連づけて記憶してしまうものだから、ずっと苦しみがとれないのだよ。

 

ここで、もっと衝撃的な話をしてあげよう。その事件そのものも、実はあなたが創造したものなのだよ。あなたの「アジェンダ(課題)」に従って。と聞いても、おそらく納得がいかないだろう。そんな馬鹿なことがあるかと、中には怒りを覚える人もいるだろう。今は解らなくてもいい。だが、それが宇宙の常識なのだよ。

 

さて、「事件」が起こり、あなたは先ず「感情」を動かし、次いで「解釈」を始める。この一連の流れが、実はこれまで「体験」と呼んで来たものなのだ。最初の「感情」は、「事件」に対する純粋な反応。でも次の「解釈」に移った時、あなたは、自分というものの生き方を、新たに創造し始める。そしてこれが、中間世(あの世)に居た時に、自ら設定し、誕生して来た「アジェンダ(課題)」なのだよ。

 

どうかね、凄いだろう。一連の流れには全く無駄がなく、だからよく、総てが「完璧」と言われるのだよ。あなたは、自分の身の上に起こる総てのことを、実は自分で創造しているのさ。その創造の方向性については、完全な自由裁量権が与えられている。あなたが自分で意図せずに起こることは、実は何もないのだよ。よって、自分が創り出した状態の「犠牲者」になることなど、あり得ない!

 

これが解れば、出来事に対する身の処し方がみんな変わって来るだろうね。あなたは、身の上に起きた出来事に、先ず感情を揺さぶられる。それを充分に味わい尽くした後に、事件のありのままを静かに受け止める。そして、これを忘れる。これがコツだ。ネガティブな「解釈」などには決して進まない。そんなことをしても全く益がないと知りなさい。自分と「闘う」ことになるだけだから。

 

繰り返し言うよ。あなたの「視点」が、あなたの「認識(解釈)」を生み、あなたの「認識」があなたの「行動」生み、あなたの「行動」があなたの「体験」となり、「体験」の軌跡が「人生」となり、それがあなたのアイデンティティを決めるのだよ。いま書いたことを、何度も辿ってみなさい。このメカニズムに納得がいったかな? だとすれば、

 

どうかな? いつも朗らかで、穏やかで、オープンハートでいる人になりたくはないかな?

 

だったら、もう自分との闘いは止めるんだね。いつも言っているように、朗らかで、素直で、誠実に、今この瞬間を、ただ熱く生きれば、それだけで、あなたの理想が実現されるのだよ。なぜって、あなたの「思い」が、日々のあなたを創るのだから。

 

最後に、ここで一つ注意をしておこう。真面目な人は、自分を追い込む癖がどうしても抜けないようだね。わたしが言った言葉を、朗らかでなければいけない、素直でなければいけない、正直でなければいけない、誠実でなければいけない、親切でなければいけない、と「解釈」してしまう人がいる。でもそれをやったら、新たな倫理規程を自分の中に入れてしまうことになるよ。

 

もっと力を抜こうよ。社会で起きる不正や理不尽なことに、真面目なあなたは憤り、こうすべき、こうであるべきだ、と思うかも知れない。「もっとよい社会を創りたいんだ!」その「思い」はステキだよ。でも闘争にしてしまっては、結局、自分と「闘う」ことになってしまうし、自分では気づかずに、周囲にもその低いバイブレーションを撒き散らすことになってしまうのだよ。

 

闘争とは、自分の「思い」を〈通そう〉とする歪みなんだよ。

 

「ねばならない」は禁句だよ。NEVER ねばならない! ◯◯を脱する、◯◯を正す、◯◯を治す、といった<ネガティブ+否定語>の思考も止めることだね。それは◯◯部分を認めることになってしまうから。自分を責めたり、罪の意識を持ったりすることもよくない。要は、なんでもありだから、気楽に行こうぜ、ということ。

 

何かと「闘う」必要など、何もないのだよ。自分が楽しいと思うこと、楽しいと思って出来ること。それを、意欲を持って行えば、それでいいのさ。意欲さえあれば、他の人が「とても真似できない」ということですら、結果的には達成できるのだよ。それも楽しみながらね。そして、これこそが、次の社会革命につながることになるのだよ。

Q.摂食障害(過食嘔吐)との付き合い方について

Q.現在30歳。一人暮らしを始めた18歳の頃から、過食嘔吐を毎日繰り返すようになり、今に至るまで続いています。思えば、幼少時から小太りな体型をからかわれることが多く、自分の体型にコンプレックスを抱いていました。そのため、とにかく痩せたいとの思いが強く、小学生の頃にはすでにダイエットを色々と試していました。

 

そのような時に、『気づきの啓示板』のバックナンバーを読み、過食は心の問題、愛への渇望感が原因と指摘されていることを知りました。頷ける部分もあり、今は、自分なりに愛を乞う側から、愛を与える側になろうと意識転換を図っているところです。過食嘔吐に対するお考えや、この先の改善に向けた心の在り方など、ご教授頂ければ幸いです。

 

*質問者からは、もっと詳しい経緯等もお聞きしていますが、差し支えない範囲で、質問内容を整理させていただきました。今回のご相談は「摂食障害」に関するものでしたが、回答は「心」のトラブル全般について言えるものになっています。文中にもありますが、「摂食障害」というのは、「心」のトラブル全般の、顕れ方の一つなのです。ですから、別の顕れ方で悩まれている方も、そのように置き換えて読んでいただければ、きっと役立つヒントが得られると思います。

 

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A.先ず、あなたが、ご自分がいま置かれている状況の背後には、霊的な課題があると考えていらっしゃることに対して、敬意を払い、感謝申し上げます。そうでなければ、上記のテーマについて、わざわざこの『気づきの啓示板』に、質問をお寄せいただくことはなかったでしょうから。

 

霊的な課題。確かにその通りなのです。しかしそれは、過去世がどうとか、何かに取り憑かれているといったオカルティックな話ではありません。あなたとは何か、あなたが生きるとはどういうことか、といった本質的な問い掛けがそこに含まれているのです。あなたは、「摂食障害」という体験の機会を得たことによって、今、その扉を開けたのです。ですから、いつも言うように、そのギフトに感謝してください。私も、あなたが下さったギフトに感謝します。

 

「心」のトラブルの原因はその奥にある

あなた方、人間は、ご自分がどういう存在であるかということを、よく解っていません。たとえ専門家と称する人であっても(例えば、医者、心理学者、哲学者、宗教家、カウンセラー等)、非常に限定的なところでしか人間というものを捉えていないのです。人間は、多次元的存在であるということを、多くの人は知りません。中には気づいている人もいるのですが、大勢の声に掻き消されてしまっているというのが現状です。

 

多次元的存在とは、(解りやすい言い方と範囲で言えば)あなた方が「魂」と「心」と「身体」が合わさった存在だということです。この3つは(地上界においては)互いに密接に関連し合っているのですが、そのように捉えている人は、まず殆どおりません。現代の主流的な考えは、「脳」が「心」と「身体」を支配しているのであり、「魂」の存在などは認めない、という立場に立っています。

 

そのため、「心」のトラブルを、物質的器官である「脳」の機能障害と捉え、これを薬(という同じく物質)によって治療しようという試みがなされています。しかし、よく考えてみてください。「心」は物質でしょうか? 物質ではない「心」を、物質によって果たして治療できるものなのでしょうか? ここには、本末転倒があります。解決策としては、本質からあまりにも遠すぎます。

 

そうではなく、「心」のトラブルなのだから、「心」に直にアプローチしようという考えも当然ながらあります。カウンセリングや自助グループなどの試みです。薬物治療よりは、これで本丸にグッと近寄りました。しかしそれとても、効果が上がっているとはとても思えません。なぜなのでしょうか? この視点では、「心」のトラブルは「心」に問題があると捉えています。ですが、そうではないのです。

 

その奥に、もう一段階ある。いかにも問題を起こしているように見えている「心」は、実は「原因」ではなくて「結果」なのです。

どんな問題も、問題を起こしているその根本原因を突き止めて、これに向けて対処しなければ解決はしません。今回は、その視点を提供しています。

 

あなたが問題視しているものは、あなたの表現

「過食/嘔吐」を繰り返す型の摂食障害のメカニズムについては、たくさんの書物も出ておりますし、あなた自身も、既に分析されて解っていらっしゃると思います。簡単に言えば、心に満たされないものがあるので、その代替行為として、食べ物で満たそうとする衝動が生じるのです。しかし一方で、このまま「過食」を続けていては、健康に悪いとか、太って醜くなるという強迫観念もあり、そこで、食べた物を吐くということで、帳尻合わせをしようとしているのです。

 

ここで、先ず把握していただきたいのは、抑えきれない心の衝動というものが、あなたの奥底にある「今の満たされなさを、満たしたい」という叫びの、実は「代替行為」として生じているということです。解りやすく言えば、心がいつも空腹なので、とりあえずお腹をいっぱいにすることで、仮の満足を得ようとするのです。いわゆる中毒症(addiction)は、みなこうした手っ取り早い行為の中に生じています。

 

あなたの場合、それが「過食/嘔吐」という表現に出ているために、どうしてもそこに注目が行ってしまうとは思うのですが、真の問題はそこではないということです。それは、「表現行為」のバリエーションの一つであって、人によっては、〈買い物をし続ける〉とか、〈ビデオゲームにはまる〉とか、〈自分の身体を傷つける〉とか、〈刺激物や薬物の虜になる〉とか、色々な出方をして来るのです。

 

さて、それを聞いて、どう思われたでしょうか? 実にありふれたことだとは思いませんか? あなたは、今ご自分が「摂食障害」というところにフォーカスを絞っているために、そのことで頭の中がいっぱいになっていると思います。ですが、人間というものは、多かれ少なかれ、このような傾向をみな持っています。ただそれが、度を超して、普通の生活にすら支障が出て来たときに、世間では「◯◯障害」とか「◯◯病」といったレッテル貼りをしているのです。

 

ですから、そこで第一番めに気づいていただきたいことは、あなたが「◯◯障害」だと思っていることは、みな程度問題なのであって、あなたが「障害」のレッテルを貼らなければ、それは「障害」ではないということです。逆に言うと、あなたが「障害」にしてしまえば、何だって「障害」になり得る。例えば「猫舌障害」とか、「異性にモテない障害」とか、「前屈して手が床に届かない障害」とか。私などは、さしづめ「障害のデパート」でしょう。生涯が障害です。

 

現代人の不幸は、人間どうしの「ふれあい」がますます希薄になっていく一方で、膨大な「情報」だけが飛び交い、人々が、知らず知らずのうちに、これがスタンダードだという「情報」を「信じ込む」ようになってしまったことです。そこでは、人間には「◯◯障害」というものがあり、誰もがこれを発症している恐れがあり、それは治療すべきものであり、支援すべきものだ、という了解事項がすでに出来上がってしまいました。

 

しかし、それが何をもたらすかということを、この際に、よく考えていただきたいと思います。あなたが、「◯◯障害」についての知識を深めれば深めるほど、あなたの視点とレッテル貼りはますます強化されていきます。その陰で、そのトラブルを「市場化」したい人たち、「産業化」したい人たちにとっては、目論見通りの社会が実現していくのです。

 

百歩譲って、それが正しいことだとしましょう。ではなぜ、「◯◯障害」の人が減らないのでしょうか? なぜ、次から次へと、新しい「障害」が作り続けられているのでしょうか? 同様に、医療の高度化と言いながら、なぜ病気が減らないのでしょうか? なぜ、毎年々々、医療費が増え続けるのでしょうか?

 

話が横道に逸れたので戻します。第一の視点は、あなたが、ご自分を「障害」視しているからこそ、「障害」が発生しているということです。そしてこのことは、解決のための第一の視点であると同時に、実は究極的な回答をも示しているのです。ただ、そう言ってしまうと、現在、問題の渦中にある人にとっては空を突くような話なので、今は、ご自分の思い込みが、症状を悪化させてしまうことになる、ということを覚えてください。

 

しかしこの見解には、納得がいかない方もきっと大勢おられると思います。でも私も、パニック障害になりましたし、鬱病にもなりました。それは、確かに、具体的な不調が心身に現れていたのですが、いま考えると、やはり自分でそれを強化していたという点があったことは否めません。ですから、先ずはそこに気づくということが、こうした問題を手放すきっかけを与えてくれることになります。

 

意識化していない意識の働き

次に、いま起きている心身の実際の不調と、あなたが、自分ではあまり意識化していない意識、つまり潜在意識に畳み込まれた、心の飢え、渇きとの関係を見てみましょう。人間の身体というものは、非常に複雑な機構を持ったいわば化学工場であり、電子回路であり、動力機関でもあります。これらはすべて、特別に意識せずとも、普段は、潜在意識がその活動をコントロールしてくれています。

 

ところが、潜在意識には、顕在意識(自分が意識している意識)のもとでの経験も、蓄積されていくのです。その中に、強い不安や、怒りや、悲しみや、自己否定感などがあった場合には、潜在意識の自動コントロール機構(ホメオスタシス)がそれらのノイズによって狂わされてしまい、微少ホルモンの分泌や神経回路の正常な働きを阻害してしまうのです。

 

この結果、体調がなんとなくおかしいという感じになり、最初は「なにか変だな?」と思う程度だったものが、この情報が心にフィードバックされて、今度はしだいに心が塞ぐようになり、この塞いだ心がさらに体調を悪化させるということで、スパイラル状の下降が生じてしまうのです。ここでお気づきのように、「障害」という名の思い込みは、この下降局面にターボを掛けることになってしまいます。

 

では、どうしたらよいのでしょうか? これも、勘のいい方はすぐにお分りでしょう。そうです、ターボを逆向きに掛ければよいのです。自分はすこぶる健康だ。今日も清々しい。寝床があって、食べるものがあって、これ以上何が必要だろう。足りないものなんて何もない。私は私だし、宇宙は私という存在を認めている。だから私は生かされている。ああ、なんてハッピーなんだろう。

 

そう思い込めば、思い込めれば、心と身体とのフィードバックが、上昇方向に回転し始めることになります。つまり、スイッチを逆方向に入れ替えればよい。と、理屈は極めて簡単なことなのですが、ところがこれがなかなか出来ない。なぜ出来ないのか? それをトコトン突き詰めて考えてみれば、今の自分が、いかに幾重もの「とらわれ」に縛られているかに気づけるのではないでしょうか?

 

・元気ハツラツとしている自分の姿など、とても想像できない。

・自分の容姿や体型はお世辞にもいいとは言えないし、自分は劣っている。

・他の人と比べて、自分には特別な才能など何もない。

・自分には、経済力もなく、将来がまったく見えない。

・自分は、誰からも認められないし、誰からも愛された経験がない。

・生きている意味というものが、何も見出せない。

 

自己表現の転換をめざす

この不足感、未充足感、自己否定感の強い「とらわれ」が、すなわち、心の渇き、飢えなのですよ。解りますか? なぜなら、あなたの本質(魂)は、自分が「自由」であることを知っているから。「魂」は「私は自由だ!」って叫んでいるのに、それが檻の中に閉じ込められた状態にあるから。だから、あなたは叫ぶ。そして「私はこうよ!」と「表現」する。あまり誉められたものではない「表現」方法によって。

 

過食という行動に出たり、買い物をしまくったり、アルコールをガンガン飲んだり、パチンコにハマったりして。「ねえ、見て見て!」「ここに私がいるのよ!」って。「誰か、私を愛して」って。「こんな私を理解して」って。でもね、あなたを檻の中に閉じ込めているのは、いったい誰なんだってことに気がつかなくちゃいけないね。それは、あなた自身なんだよ。あなたが創った「とらわれ」なんだよ。

 

今まで、いろいろなことがあっただろう。辛い体験もしただろう。悔しい思いもしてきただろう。そのことはみんな知っているよ。理解者がいないって? 冗談じゃない。あなたは一人ぼっちじゃない。それどころか、一人ぼっちであったことなど、いまだかつて一度もない。そのことは、わたしがいちばんよく知っている。なぜなら、わたしがあなたを創ったのだから。

 

いいかい? 錯覚しちゃいけないよ。以前に、「人間とは、表現せずにはいられない存在だ」と書いたことがあるけれど、覚えている人はいるかな? 「表現」活動とは、地上で生きること、そのものなんだよ。花だって、虫だって、空だって「表現」しているじゃないか。つまり「表現」=あなたの「体験」だ。あなたは、どのみち「表現」せずにはいられない。だから、どんな「表現」をしているかが、あなたという存在を自己規定するのだよ。

 

それは、周囲が認めるとか認めないとかといったことじゃない。そんなものは関係ない。あなたが、今の自分を、どうしたいか、どうでありたいか、を決めるということなんだよ。だから、過食と嘔吐を繰り返す自分でありたいなら、それを続けたっていい。買い物をし続ける自分でありたいなら、そうしたっていい。アルコールや薬物に浸り切っている自分でありたいなら、それも止めはしない。

 

でも、もったいないとは思わないかい? どうせなら、他の「体験」、つまり「表現」をした方が、あなたの「魂」の成長につながるとは思わないかい? それに、わたしから見て不思議なのは、人間は、どうしてわざわざ自分を苦しめる体験をチョイスするのかということなんだ。人は、「魂」の世界を不思議だと言うけれど、人間の行動の方がよっぽどストレンジで不思議だよ。これこそ、宇宙で永遠に解けぬ謎! なんてね、冗談だよ。

 

さあ、もう解ったのではないかな? あなたは、自分で自分を拘束している「とらわれ」は何で、どこから生じているものなのかを、一度じっくりと内省して、炙り出してみるといい。繰り返しになるけれど、過食/嘔吐が「問題」なのではなく、それは「表現」なのだということ。そしてそれは、潜在意識の底にある「とらわれ」という真の問題の、リアクションだということ。

 

だから、この「とらわれ」を、ゆるし(ゆるすとは緩めるということ)、手放せばいいのだよ。あのとき誰かにああされた、こうされた。消えない傷、怒り、悲しみ、悔しさ。こうであらねばならない、こうあるべきという思い。不足感、未充足感、劣等感、自己卑下、自己否定。よくいうトラウマ。それらはみんな、あなたの「想い」でしかないのだよ。そして「想い」は、自由に選べるのだよ。

 

お勧めしたい具体的なアクション

ここで、あなたに、具体的なアクションをお勧めしよう。そう、まさにアクションであることがポイント。いつもいつもリアクションに終始していた、あなたの「表現」癖を、これからはアクションに変えるのだよ。あなたが、自分からアクションを仕掛けるんだ。これからは、自分の意思で、意識的に行動を選ぶ癖をつけなさい。それによって、今までの、まるで夢遊病者のような、潜在意識のリアクション癖に、ストップをかけるのだ。

 

同様に、ただ「手放せ」と言っても、今のあなたには難しいだろうね。だから、持つものを「持ち替える」ことを目指してごらん。うまく「持ち替え」られたら、前の「とらわれ」は、自動的に「手放して」いることになるから。そのために、自分がいつも「自由」であることを自覚し、これを表現しなさい。自分を解放し、「魂」の喜びの表現を見つけ出しなさい。誰にでも才能があります。そのように、あなたたちは創られたのだから。

 

ご自分をもっと信じなさい。喜びに生きなさい。朝、目覚めたら、太陽の光を浴びて深呼吸をしなさい。食事は、楽しく、美味しくいただきましょう。楽しくない食事は身になりません。そして自然の中を、身体が心地よい疲れに包まれるまでひたすら歩きなさい。「心」のトラブルを、「心」をいじってなんとかしようと思っても、その「心」自体がトラブルを起こしているのだから、うまくはいかないよ。

 

それよりも、「心」と「身体」がつねに情報をフィードバックしていることに着目しなさい。「心」はひとまず忘れて、忙しく「身体」を動かすことに活路を見出すんだ。そして、風呂掃除をする時でも、台所で洗い物をする時でも、また職場で仕事をする時でも、たとえどんな些細なことでも、自分がそれを「表現」として為し、心から楽しんでいることをイメージしていつも行動しなさい。

 

また、たとえどんな出来事に遭遇したとしても、心の中で「ハッピー、ハッピー」と唱えて、微笑んでそれを受け取りなさい。そして、それらのアクション癖がすっかり身についたら、その先に、こうご自分に問いかけてみてね。

「私は、誰なの?」

「私は、何をしたいの?」

 

それが見出せた時、あなたは、それまで、自分がとんでもない誤解をし続けてきたことに、きっと気づくでしょう。

満足は、与えられるものではなく、与えるものであるということに。

与えることで受け取ることができ、癒すことで癒されるのだから。

“絶対的” なものなど、どこにもない

自分で自分を客観視することは、完全にはできません。自分の行動や思考プロセスを、時に内省することは出来ますし、それは自己の成長にとって必要かつ大切なことですが、それでも「内省している今の私」というものから逃れることはできません。そこで、人はしばしば、客観的に見ようとしている自分と、見られている自分がゴッチャになり訳が分からなくなってしまう時があります。

 

えっ、しょっちゅうそうだって? それはいけませんなぁ。そんな時には、誰か権威ある人にジャッジして貰いたくなったり、倫理道徳の規定や、聖なる書物の一節に従いたくなったり、霊能者のご託宣を仰ぎたくなったりするものです。私にもそういう時があります。でもその時に大切なことは、外から来る情報に対しては、いつも、「私にとっての真実」をそこに見つける、という姿勢で臨むことです。

 

これまで「外から来るものは信じないように」「つねに自分自身に頼りなさい」と、何度も語って来ました。しかしそれは、外から来るものを完全にシャットアウトしなさいということではないのです。そもそも、それは不可能ですし、それを目指したら、地上で生活する意味がなくなってしまいます。そうではなくて、外から来るものを「自分で選んだ」という意識を、つねに持って接することが大切なのです。そして、実際にそうなのです。

 

たとえばこの『気づきの啓示板』にしても、自分の中にパッと明かりが灯ったように感じるセンテンスが時にあろうことかと思います。それはその瞬間に、あなたという個が、自分の中に元々あった、封印された小箱の蓋を開けたのです。それで、光がサッと射し込む。ですからそのとき眼にした言葉、それは単に鍵の役割を果たしたに過ぎないのです。

 

このようにして、あなたは、「真の自分」を、その段階に応じて徐々に思い出して行っているのです。外から来る情報は、一見偶然のように見えて、実は天によって周到に手配されたものです。しかし「気づき」となる情報は、その準備が出来た者にしかもたらされません。同じ情報を見ても、準備が出来ていない人には、自分にとっての価値が見出せず、それは素通りして行ってしまうのです。

 

ですから、「これは私に向けて書かれた言葉だ!」と読むことが大切なのです。これは文章だけに限ったことではありません。友人が発した言葉、街を歩いていてふと耳にした会話、人々の仕草や行動、足を止めて眺めた絵やオブジェ、音楽、景色、すべてがそうです。自分の周囲に展開されるすべてを師として眺め、そして自分の発見とする。これが、自分でハンドリングするということであり、「自分に頼む」ということなのです。

 

冒頭に書いたように、外に頼みたくなる気持ちも解ります。でもそれを、自分自身の選択に変えていかないと、人は外部にあるものの奴隷として生きることになってしまいます。「魂」が本来有している「自由」の放棄です。

 

人はよく「聖書には、真実がすべて書かれてある」とか、「誰々という過去の偉人はまるで神のような人だ」とか、「わが師である◯◯先生は、この世で最高の人物だ」などと言います。そして、「神」の言葉が記された書物なのだから、この聖書・聖典は「絶対」なのだ、あの先生の仰ることは「絶対」なのだというロジックを使いたがります。

 

けれども、その聖書・聖典を記して編纂したのは、紛れもなく人間です。その「先生」と言われる人物も、人間なのです。最高のチャネラーといえども、同じ不完全な人間なのです。「神」は自らペンを取りません。誰かを通して語らせる。その誰かとは人間です。そこをよく考えなくてはいけません。

 

さらに、言葉そのものが不完全なものです。だからこそ、同じ聖書・聖典類を奉じていながら、言葉の解釈をめぐって異論が百出するのです。そして、たくさんの宗派に分かれ、どっちが本物かと言って不毛な争いをしている。それがどれほど馬鹿げたことであるか、なぜ気がつかないのか。一体なんのための、スピリチュアルな世界への参入なのでしょうか?

 

何事にも「絶対」などはありません。もし「絶対」なるものがあったとしたら、活動がそこで停止するということです。いま有る「絶対」が、少しでも動いたら、それはたちまちにして「絶対」でなくなるからです。宇宙は、決して活動を停止しません。あえて言えば、「絶対」でないことののみが「絶対」である、と言えるでしょうか。すべては、至高を目指して「今、成ろうとしている」存在なのです。

 

それは「神」ですらも。

ですから、神に似せて造られた人間、不完全な我々がいるのです。

 

何かを “絶対的” と認めた瞬間から、それを基に自分の行動を規定してしまうという(つまり自分には「自由」はないと信じる)逆転が始まります。あの先生が言ったことだから、それに従順に従う。聖書・聖典にこう書かれているから、それを信じる。戒律でこう言われているから、それを固く守る。本人は、そうすることが “絶対的” に正しいことだと信じている。

 

そして、その状態に埋没して生きることが、「聖」なる領域に生きることだと信じ込んでいる。でもこれが、「奴隷」でなくしてなんだと言うのでしょうか? この宇宙に、あなたという「個」が生み出されたのは一体なぜなのでしょうか? 自分というものを失くして、奴隷的人生に身を捧げるために、わざわざこの世に誕生してきたとでも言うのでしょうか?

 

ご覧なさい。今の世の中を、そして世界を。宗教でも、お金でも、政治でも、科学でも、“絶対的” と信じる「何ものか」に、自分を売り渡してしまったロボット人間たちが、世界を大混乱へと、生命を大破壊へと導いているこの現実を。なぜ誰かの後を付いて行こうとするのでしょうか? なぜ、自分で自分を縛る道の方を選ぶのでしょうか? なぜ、「自由」であろうとはしないのでしょうか?

 

あなた方の最高の権威は自分自身なのですよ。そのことに自信を持ちなさい。あなたの代替は、他にいないのですよ。あなたという「魂」は、一兵卒でも、駒でも、歯車でも、部品でもありません。この広い宇宙の中に、たった一つの、個性を持った独立した存在です。コントロールされる自分ではなく、自分をコントロールできる自分を見出しなさい。

 

「魂」は生きないではいられません。「魂」には、この世でいう死はないのです。ですから、人間にとっては、生き残ることが問題なのではなく、どう生きるかが問題なのです。この意味をよく考えなさい。あなたはどう生きたいですか? 生き残りのために、自分の「自由」を押し殺して生きる人生と、「自由」を謳歌して、生き残りなど考えずに瞬間瞬間を燃焼させる人生と。

 

いいですか。幸福とは、その時々の「気持ち」なのですよ。