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クリント・イーストウッド監督の『HEREAFTER』

「死後の世界」の真実を知る者たちの邂逅

 

クリント・イーストウッド監督は、私の憧れの人です。1930年生まれの御年90歳でありながら、今も精力的に映画を作り、質の高い作品をコンスタントに生み出し続けています。

 

つねに新しいテーマに挑戦し、学習し続けている姿勢。穏やかな物腰、真摯さを失わない態度、そして茶目っ気とユーモア。老いを隠そうとはせず、自然に振る舞い、静かに語るその姿。頬の縦ジワと涼やかな眼の奥には、気高い「魂」が鎮座しているのが見えます。イーストウッドこそは、映画界に出現した「賢人(Wizard)」です。

 

*「魔法使い」と訳されることが多い英語の「wizard」。これは「wise(賢い)」に「大いに…する者」の接尾辞であるところの「- ard」が結びついた言葉で、「wise man」と同等の意味をそこに含んでいます。

 

でも、そんなイーストウッドも、最初から「賢人」であったわけではありません。「賢人」としての素養を、後に開花させたのです。下積み時代にはそれなりの苦労をし、多くの女性と浮き名を流したこともあります。俳優としてマカロニ・ウェスタンと『ダーティ・ハリー』で成功をつかんだ後に監督業に進出しましたが、当初はトラブル続きだったようです。けれども、1992年の『許されざる者』でオスカーを受賞。その後は作品の質も安定するようになり、今では業界関係者の誰もが敬愛する名映画監督となりました。

 

特に、俳優陣からの信頼は厚く、多くの俳優が、監督からのオファーを心待ちにしています。それは、イーストウッド監督が俳優出身だからという理由もあるのですが、どうやら独特の演出法の虜に全員がなってしまうようです。イーストウッド監督は、撮影でリハーサルをしないというのです。役について、演じる俳優と事前の話し合いは持つようですが、現場に行ったら完全に俳優まかせ。しかも、ほとんどファースト・テイクで撮り終えてしまうというのですから。

 

これを聞くと、日本の巨匠たちの演出法とは余りにも違うので驚きます。小津安二郎監督は、俳優をロボットのように動かしました。例えば、物憂げな表情と仕草を表現したい時に、小道具にリボンテープを用意して、指に巻きつける動作を右巻きに何回、そのあと左巻きに何回、そしてまた右巻きを何回と指定し、それが淀みなく見えるまで十数回ものテイクを繰り返しました。小津は、シンメトリーや相似形の構図に極端にこだわり、その絵の中に、俳優を嵌め込もうとしたのです。それが小津安二郎の美学でした。

 

また天皇と呼ばれた黒澤明は、現場でスタッフ・キャストを容赦なく怒鳴りまくって、自分の思い通りに従えるという方法を取りました。溝口健二は、リハーサルを徹底して行って、俳優には「違う」と言う以外、他に何も言いませんでした。そうやって何十回とやらせる中で、俳優を心理的にトコトン追い詰めて行き、役が憑依するまでカメラを回さずに何日も待つという方法を取ったのです。まあ、そういう時代だったんでしょうけれど、現場で威張って君臨しているというのが、日本映画の「巨匠」の条件だったのです。

 

クリント・イーストウッド監督が、どうしてそのような演出法に至ったかというと、自身が俳優だったので、俳優の心理がよく分かるということが一つ。リハーサルを何回もやったら疲れるし、最初のパッションが消えて、役を「演じる」ようになっていってしまう。それは、彼としては嫌いなのです。

 

それともう一つは、彼の口ぐせに秘密がある。イーストウッド監督は、「頭で考えるな、自分の内に聞け」ということをしょっちゅう語っています。あれ?、どこかで聞いたことがあるとは思いませんか? そう、彼は知っている。イーストウッドは、映画界に現れた「賢者」なのです。

 

そして、今回取り上げる映画の『HEREAFTER』(2010年公開)。タイトル名は「ここから後」ということで、これは「来世」という意味なんだそうです。しかし映画を観ますと、「来世」というよりも、むしろ死後の世界、つまり「今世」と「来世」との間の「中間世(生)」を扱った話になっています。英語の「hereafter」には、たぶん〈死んだ後〉という漠然としたニュアンスがあるのでしょう。

 

イーストウッド監督の映画はそのほとんどを観ていますが、『HEREAFTER』を観たのは今度の自粛期間中で、長らくその存在を知りませんでした。それもそのはず、2011年の公開時に3.11が起き、この映画の中にある津波シーンが問題視され、途中で公開が打ち切られていたというのです。ところが、この5月にたまたまこれを観てびっくりし、知人に紹介しようと思っていたところ、同じ自粛期間中に『HEREAFTER』を観たという人が、他に何人もいたのを知ってさらにびっくりでした。

 

さて、映画ですが、クリント・イーストウッド監督が、こんな際どい作品を撮っていたということに、先ずは驚かされました。時代が変わったと言いましょうか。一昔前ならば、これはキチガイとか変人のレッテルを貼られかねないような題材です。『死ぬ瞬間』を書いたエリザベス・キューブラー・ロスは、実際にもの凄い迫害に遭ったんですからね。それが今は、マット・デイモン主演で、ハリウッド映画として作られているのです。

 

*『HEREAFTER』には、ロス博士をモデルにしたと思われる「臨死」研究者の女性医師も登場します。

 

しかもアメリカは、今なお75パーセントがキリスト教徒ですから、明らかにキリスト教の教義に反しているこのような映画を、堂々と作ったということにも驚きです。時代は確実に変化しています。古くさい宗教教義と奇跡話にはもう納得いかず、「真実」を知りたいと思う人が増えているのでしょう。それに応えて、「真実」を語る人も世界同時に出現している。ということに大いに勇気づけられました。ということで、今日は、私から見た『HEREAFTER』の解説です。

 

考えてみれば、クリント・イーストウッド監督がこのような題材に手を染めることについては、何の不思議もないのです。というのは、「頭で考えるな、自分の内に聞け」という口ぐせが彼の口から出るのも、彼が40年以上に渡る瞑想習慣によって掴んだ自身の「感覚」に基づいた言葉だからです。

 

クリント・イーストウッド監督が「瞑想」を習慣にしているということを私が知ったのは、つい最近のことです。しかしそれが分かった時、私は「なるほど!」と膝を打ちました。ここ数十年のイーストウッド作品に、一貫して流れているテーマの根っ子が解ったからです。イーストウッド作品が一貫して語って来たことは、この世には「ヒーロー」など何処にもいないということです。

 

映画ですから「主人公」というのは当然いる。でも、その主人公は決して「ヒーロー」などではないということ。その人物を「ヒーロー」にしてしまうのは、メディアや、周囲の人間たちの身勝手な願望なのです。イーストウッド映画の主人公たちは、みな自分の内面から湧き上がるもの(それは「真我」の声なのですが)に、ただ忠実であろうとして行動しただけなのです。

 

しかし人々は、その結果だけを見て、そこに「正義」や「信念」を見い出し(要は、自分の正義感や信念を投影し)、「ヒーロー」に仕立て上げようとするのです。しかしこれは、危険な衝動です。その衝動が、もしも逆に働けば、同じ人間を、今度は「断罪すべき人間」に仕立て上げてしまうことになります。『父親たちの星条旗』も、『ハドソン川の奇跡』も、『リチャード・ジュエル』も、みなその残酷さを描いている。

 

世の中には、我が内なる声(真我)に忠実に生きようとする少数の人間と、声を無視して、世間的価値観やエゴの衝動に生きようとする圧倒的な多数者とがいます。数だけを見たら、内なる声に忠実に生きようとする者は、ひっそりと隠れるようにして生きるか、または絶えず世間の動向に翻弄され、ある時には阻害され、またある時には非難や断罪を受けて生きるしかありません。

 

アメリカン・スナイパー』や『チェンジリング』では、世間や社会に翻弄されてしまう人物が描かれていますし、FBI長官だったフーヴァーの生涯を描いた『J・エドガー』では、内なる声にあらがって生きようとした人間の、尊大さの裏に隠された小心さが表現されています。かと思えば、『グラン・トリノ』や『15時17分、パリ行き』のように、周囲の雑音を無視して生きる力強さが示された作品もあります。『HEREAFTER』は、その極めつけかも知れません。

 

『HEREAFTER』は、互いに何の接点もない3人の物語が、入れ替わりで進行していきます。たぶん多くの人が戸惑うと思うのですが、この形式はずいぶん後まで続き、最後の20分になってからやっと3人の物語が一つになる。しかしここで、俄然この形式が効いて来るのです。最後になって繋がるというところに、この映画の隠れた主題が表現されています。つまり、一見、何の接点もないと思われた状況の奥に、実は最初から互いを引き寄せ合う糸が存在していたということです。

 

3人の人物の一人めは、フランス在住の女性ジャーナリスト、マリー・ルレ。彼女はテレビ局のニュース報道でキャスターを勤めているという花形です。二人めは、イギリスはロンドンに住むマーカス少年。彼にはジェイソンという双子の兄がいるのですが、父親はおらず、母親はヘロイン中毒で育児放棄という悲惨な家庭環境にいます。三人めはアメリカ人のジョージで、彼には「霊能者」としての特異な才能があったのですが、それを封印して、今は工場でフォークリフトを運転する職に就いています。

 

やがて、3人それぞれに転機が訪れます。マリーは、休暇で訪れた東南アジアのリゾート地で、運悪く、スマトラ島沖地震で発生したあの大津波に呑み込まれてしまうのです。幸いにも彼女は救い上げられるのですが、人工呼吸を施しても意識が戻りません。しかし、救助した人がもうダメかとあきらめた時、奇跡的にも彼女は息を吹き返すのです。その間、マリーは、いわゆる「臨死体験」のビジョンの中にいたのでした。

 

奇跡の生還を果たし、フランスに戻ったマリーは、一躍「時の人」となります。回復期を経て、彼女はテレビの仕事に復帰しようとするのですが、もう以前のようには上手くいかなくなってしまいます。ディレクターからは休養を言い渡され、ではその間にミッテラン大統領に関する本を書き上げようと出版社と契約をするのですが、いざやろうとすると、どうしても身が入らない。あの時の「臨死体験」のことばかりが脳裏に浮かび、あれは何だったのかと、確かめたい欲求に次第に駆られていくのです。

 

マーカス少年のところには、窮状を見かねて福祉局の職員がしょっちゅうやって来ます。しかし兄弟は、母親がなんとか自力で更生してくれることを望んでいます。ある日、母親はついにそうした日々から脱け出そうと決心し、中毒を中和させる薬を買いに行ってくれるようマーカスに頼むのです。兄弟としてはやっと希望が見えた瞬間です。しかし、その日の宿題をまだ終えていないマーカスを気遣った兄は、代わりに自分が行くことを申し出るのです。

 

ところが、ジェイソンは薬局を出た後で不良少年たちに取り囲まれ、それを振り切ろうと道路に飛び出したところを、クルマに跳ねられ即死してしまうのです。まったくもって理不尽な死です。希望が見えた矢先の兄の死。不良少年たちが現れたことも、クルマがぶつかって来ることも予想はできなかった。マーカス少年にしてみれば、兄は、自分の身代わりになったようなものです。どうして自分ではなくて兄だったのか。この偶然の重なりにどんな意味があるのか。彼は猛然とそれを知りたくなるのです。

 

ジョージは、幼い頃に患った病気の高熱とその時の手術がもとで、回復した後に優れた霊能力を発揮するようになります。そして一時期は、愛する人を失って悲しむ人のために、亡くなった霊と交信する仕事をしていたのですが、今ではすっかり足を洗っています。それは、誰かの手にちょっとでも触れた途端、「見えてしまう」自分に疲れ切ってしまったからでした。

 

何でも「見えてしまう」ということは、相手の傷や、痛みや、触れられたくない部分をも抉り出し、そこにジョージ自身を付き合わせることになってしまいます。そうなれば、もはや普通の人間関係を営むことなど出来ません。恋人も出来ずに、孤独の中で生活するしかないのです。ジョージにとっては、霊能などを持ってしまったことは、もはや呪いでしかなく、彼は誰にも注目されることなく、ひっそりと生きたいのでした。

 

ところが、不景気の煽りを受けて、独身であった彼はリストラ対象者に入れられてしまいます。すると、それを聞きつけた兄が、また霊能者の仕事に復帰すればいいじゃないかと近寄って来るのです。彼は、弟の苦悩などつゆ知らず、また一儲けしようと企むのです。そして勝手にクライアントを見つけて来ては、嫌がる弟に交信をさせるのでした。久々に、仕方なくやってみたジョージでしたが、兄やクライアントたちの身勝手さを見て、やっぱり嫌気が刺してしまうのでした。

 

この3人は、表面的なそれぞれの問題とは別に、みな共通した苦しみ(「悲しみ」と言った方が適切でしょうか)を抱えています。それは、周囲に「理解者がいない」ということです。マリーは、「臨死体験」以降、政治やジャーナリズムに対する興味を急速に失って行きます。そんなことよりも、彼女にとっては、「臨死体験」の意味を追究することの方がよほど重要な課題になるのです。しかし、周囲の者たちは、現実離れしていくマリーを次第に厄介者扱いするようになります。

 

マーカス少年に対しては、「保護」という観点から、その道の大人たちが親切心を発揮して接して来るのですが、マーカスが求めているのは、そんなことではないのです。彼は、なぜ兄が自分の身代わりとして死ぬことになり、自分は生かされる運命になったのか。その理由が知りたいのです。ジョージはジョージで、なぜ自分が「霊能」など持つに至ってしまったのか。その厄介さからもう逃れたいのに、いつまでも追いかけられてしまうという苦悩を背負っています。

 

その3人が、最後にロンドンで出逢うことになるのですが、ここでイギリスという場所が意味を持って来るのです。イギリスは心霊主義(オカルティズム)の本場で、古くから降霊会などが盛んに行われて来ました。その過程で、1970年くらいまでは『シルバーバーチ』や『ホワイトイーグル』を始めとした優れたメッセージが数多く降ろされていたのですが、70年代に入ると、新しいムーブメント(いわゆる「ニューエイジ」の台頭)はアメリカに移ったのです。その結果、イギリスの霊的進歩はそこで止まり、古いオカルティズムの伝統だけが残ったのです。

 

真実をどうしても知りたいマーカス少年は、「霊能者」に狙いを定めます。そしてあちこちを探し回るのですが、残念ながら、出逢うのはインチキ霊能者ばかり。この辺りの事情は、たぶんどこの国も違わないのでしょう。しかもインチキ霊能者の方が、大勢の人々を集めている。これは、お互いの波長が合うためです。求めているものと、与えるものとがピッタリ合う。

 

ピラミッドの三角形は、下へ行くほど底辺が広く、上へ行くほど底辺は狭い。ですから、この状況を嘆いても仕方がありません。人間とは、所詮そういうものだということです。

 

こと霊的学習に限らず、あらゆる学習において言えることなのですが、人は、今の自分の学習段階から、飛び抜けて上のものを一挙に受け取るということは出来ません。ほんのちょっとの上にしか、気づくことはないのです。ですから、倦まず弛まず日々努力することが大切なのですし、解る人には解るものだし、解らない人には解らないのです。

 

さてそうして、マーカス少年は、最後の最後になって、やっとジョージという本物に出逢えることになります。本物は、イギリスではなくアメリカからやって来たのです。ここで、マーカス少年が、インチキ霊能者に捕まらなかったという点が重要です。彼には波長が合わなかった。言い換えれば、マーカス少年には、本物とニセモノを見抜く力が備わっていたということになります。そしてこれが、「えっ?」というラストの伏線になっているのです。

 

その結末はお楽しみとして、全体を振り返れば、この3人は出逢うべくして出逢ったと言えます。そうして、初めて互いに「理解者」を得た。この3人にとっては、お互いに喜ばしい結末となったのですが、しかし別の見方をすると、「解る人」というのは最初から決まっていて、解らない人には解らないという状況はやはり変わらないのだ、とも読めるのです。すると、あんまりハッピーエンドでもないのかなぁと‥‥。

 

最後に、マーカス少年がジョージから知らされた交信の、普遍的意味について言及しておきます。

 

身近な人の「理不尽な死」というものに出会われた方は、決して少なくないと思います。しかし、そのような「理不尽な死」にも必ず「意味」があるということです。「亡くなった意味」ということを言っているのではありません。人は、亡くなった意味を知りたいと思うものですが、霊的な観点から言えば、生き死にというのは、それほど大きな問題ではないのです。これを納得するのはなかなか難しいとは思いますが、理由は簡単で、霊魂は不滅だからです。

 

「意味」というのは、周囲の人にとって意味があるということです。〈意味を見い出せる〉と言った方がよいかも知れません。人間は、関係性の中に生きています。ですから、身近な人の「理不尽な死」という出来事も、周囲の人たちにとっては、その人からのメッセージの一つなのです。周囲の人たちは、その「理不尽な死」から、自分に向けられたどのようなメッセージでも引き出すことが出来ます。別に霊能者の助けを借りなくても、感じればいいだけなのですから。

 

そして、亡くなった人というのは、まさしく、そのメッセージのスイッチを押すために亡くなったのです。それが、今世での最後の役割だったのです。この映画を観れば、それが解るはずです。ですから、愛する人を失っても、いつまでもメソメソしていてはいけません。自分に向けられたメッセージをしっかり受け取って、新たな気づきを得て成長を果たし、次の段階へと力強く歩み出すことが大切です。

 

また、それこそが、先に亡くなった人の願いなのですから。

アール・ブリュットは、人が「自由」であることの意味を教えてくれる

アール・ブリュット(art brut)」とは、フランス語で「生の芸術」の意味。正規の美術教育を受けていない人たちが創り出す、自発的で、ありのままの表現活動を総称してそう呼ばれています。これを英語に訳した言葉が「アウトサイダー・アート(outsider art)」です。「アール・ブリュット」というと、障害者が創る芸術のように思われていますが、元来はもっと幅広い意味のようです。

 

日本では、戦中・戦後にかけて、裸の大将こと山下清さんが注目されましたが、今日のような開かれた状況を創った嚆矢は、なんといっても「ねむの木学園」の宮城まり子さんであったと思います。今では、同様の取り組みをしている施設が全国にいくつかありますが、宮城まり子さんが始められたころは、本当に異端の取り組みという感じでした。

 

先日、草間彌生さんの『わが永遠の魂』展を観に行って来たのですが、宮城まり子さんも草間彌生さんも、昔はもの凄く叩かれたんですよ。他人と違ったことをする人、しかも今までになかったことをする人(特に女性)は、日本では必ず叩かれるんです。「和」や「空気」を乱すものは決して許さないぞ!というのが日本の風土。そこで、「忖度」という制度?が自然と誕生しちゃう。

 

でも少しずつですが、変わって来ているのはいいことです。ただ草間彌生展が大盛況だったのも、結局は有名人になったからというのがあるのかなぁ? 展覧会場で、あっちでもこっちでも、草間彌生作品をバックに、スマホでパシャパシャ自撮りする人が居るのには、全く閉口しました。うるさくって鑑賞どころじゃない。みんな、いったい何しに来てるのかな?

 

私は「障害者」という言葉が嫌いです。「支援」という言葉も嫌いです。ですから、〈世の中には「障害者」という人がいて、そういう人は「支援」してあげなければいけない〉という、今の社会の風潮や常識にはウンザリするし、クソくらえと思っています。「良いことの押し付け」が、人間を不自由にさせ、幸福を奪っているということに、人はなぜ気づかないのだろうと思います。

 

私は、「障害者」など、どこにもいないと思っています。あるのは「個性」だけです。もし、どうしても「障害者」という言葉を使いたいのであれば、人間は全員が「障害者」だと思います。

 

私だって、目がよく見えない。一日中、激しい耳鳴りがしている。アレルギー体質で、花粉症とアトピー性皮膚炎とリウマチがある。右肩が痛くて腕が背中に回らない。人混みにいると吐き気がする。友だちがいない。パーティーでは隅っこでお地蔵さん状態。市役所の申請書がうまく書けない。高い所が怖い。スピードが怖い。そして何より変な人! 宇宙人。

 

でも、これって「障害」なんでしょうかねぇ? 怒りんぼだったし、ひとりぼっちだし、パニック症候群にもなったし、鬱病にもなったし、金欠病にもなった。あ、金欠病は今もだ。これって「障害」なんでしょうか? 

 

もし「障害」というものがあるのだとすれば、その基準を定めなくてはならなくなります。腕が背中に回らない。それのどこまでが「正常」で、どこからが「障害」になるのでしょうか? 背中の中段くらいまで上がればいいのでしょうか? それとも背中で反対の手の指先と触れなければ「正常」とは言えないのでしょうか? いったいその基準は、誰がどうやって決めるのでしょうか?

 

エベレストは富士山よりも高いから、それだけ優秀なのでしょうか? 全国にある、通称「◯◯富士」は、富士山のまがいものだから、それは「障害者」なのでしょうか? 四つ葉のクローバーは三つ葉じゃないから、「支援」すべき「障害者」なのでしょうか? そんな区別は、みんな人間がしていることであって、それぞれは、ただ自分を生きているだけです。

 

宇宙には、「障害」など何ひとつありません。みんな、ただあるようにしてある。金星や火星は樹木一つないからといって、ではそれは(地球と比べて)「障害者」惑星なのでしょうか? そんなバカな話はありません。ものに基準を設け、物差しを作り、判定し、優劣をつけ、優が劣を支配して当然、などと考えているのは、宇宙の中で人間だけです。

 

「アール・ブリュット」は素晴らしい。胸を打つ感動があります。でもその素晴らしさを、「障害者なのに、あれほどの作品を生み出せる」と、みんな捉えてはいないでしょうか? この前半部分は要らないのですよ。ただ「素晴らしい作品だ」だけでいいんですよ。「感動した」「凄い!」だけでいいんですよ。それがアートというものだから。

 

前半部分をどうしてもくっつけたい人というのは、結局、ピカソだ、ゴッホだ、マティスだ、草間彌生だと、ブランド名をくっつけてからアートを観たい人と同じなんですよね。自分の中に湧き上がる感動を味わいたいんじゃない。有名なものに触れて、ただパシャパシャやりたいだけなんだよね。つまり、自分というものを信じていないんだ。

 

アートとは何か? それは「宇宙の真理」の表現。そこに「宇宙の真理」を表したものです。ですから、「宇宙の真理」を、言葉や、音楽や、色や、形や、身体を使って表現しようとする人、表現したいという欲求を持つ人は、みんなアーティストです。年齢も性別も、ましてや知能など、なんの関係もない。ただ個性があり、そして個性的表現があるだけ。

 

その最高の個性的表現が、皆さんが見ている宇宙であり、自然であり、生命なんです。宇宙も自然も生命も、「そうしたい」という何ものかの「意識」が創ったものです。あなたがそこに、もし「美」を見出すとすれば、あなたは忘れていないということ。自分も、それを創った一員であることを覚えているということ。だから、あなたはアーティストにもなれるし、アートに感動もするのです。

 

「アール・ブリュット」のアーティストたちは、作品を通じて、ふだん私たちが忘れている素晴らしいメッセージを、私たちに伝えてくれているんですよ。それは、「自由」とは何かということ。「自由に生きる」とは、どういうことなのかということ。そして「自由に生きる」と、どんなに素晴らしい世界が現れるかということを。

 

私が生きてきた半世紀。振り返ると、子ども時代には、いま障害者とか自閉症と言われている人たちは、社会からは隔離されていました。その後、社会に順応させよう、社会的基準の人間に少しでも近づけようという動きが起こりました。そして今、反省に立ち、彼らの「自由」にしてあげようという発想がようやく定着しつつあります。でもまだ、全部じゃない。

 

総体では、やはり、何にでもレッテル貼りをした上で、「支援」が必要という発想が、ますます酷くなっています。それを「良いこと」だ「正義」だと考える人たちがいて、社会のスタンダードに押し上げているからです。しかも、そこに商売と利権が絡む。ですから、この人たちは、よもや自分たちが、人間を檻に閉じ込めているとは思っていません。

 

「アール・ブリュット」は、その発想に見事に風穴を空けている、と私は思います。それまでの「こうしなさい」を止めて、「自由に表現していいよ」と言ってから、「アール・ブリュット」は一気に開花した。特徴的な繰り返しパターンや、いつ終わるかと思うほどの延々と続く緻密な作り込みも、ただ楽しい瞬間を、連続させているからこそ出来ることです。

 

これぞ、まさに “ Be Here Now(今ここ)” ではありませんか? 誰にもコントロールされず、自分のインスピレーションのおもむくままに、無計画に、ただ瞬間々々を、夢中になって楽しんで、表現に打ち込んでいると、いつの間にか、もの凄い、壮大な「表現物」が出来上がっているのです。そのあり方は、何かとそっくりだとは思いませんか? そう、自然であり、宇宙であり、生命です。

 

私たちの多くは、なんと自然に逆らった生き方をしているのでしょうか? 誰かの命令に従い、目標を与えられて、計画的に、手順を踏んで、ミスのないように、確実に仕上げることが「よいこと」とされている。そして、神経をすり減らし、自分の楽しみや、家族との交流を減らしてまでも、競争をし、ライバルに勝つのが、デキる人間の生き方だと思い込まされている。

 

それで得をしているのは、いったい誰なんでしょうねぇ?

 

それでも、このように言う人がいるかも知れません。アートなんて、役に立たないじゃないか。彼らだって「支援」を受けているからこそ、そんな生き方が出来るんじゃないか。俺は、働かなきゃ喰えん、と。だとしたら、そんな価値観は古過ぎるし、洗脳がまだ解けていない。私は、アートのない世界なんて想像できないし、アートから日々、生きることの喜びを教えてもらっているよ。

 

それに、「支援」を受けていると言うけど、なんでも自分で出来る人なんて、この世にいないんですよ。あなたは、自分の食べ物を全部自分で作っていますか? 水を汲みに行っていますか? 糞尿を自分で始末していますか? 電気を起こしていますか? 布を織っていますか? 糸を紡いでいますか? 生活に必要な道具は、全部自分で作っていますか?

 

誰もが、常に誰かのお世話になって生きているんです。ことさら「支援」などと言わなくても、困っている人がいるなら助けてあげるのは当たり前です。私は茄子を作れないけど、スーパーが私を助けてくれます。そうやって、助けたり、助けられたりしながら、社会が成り立っている。それは、大自然の営みというものを見れば、明らかなこと。

 

誰にも役割があり、素晴らしい能力があるのです。その能力を、思いのままに、自由に、素直に活かせば、あなたは喜びの中に生きられるし、周囲の人々を喜ばせることも出来るのです。気負って、誰かのために何かをしよう、と考えなくてもいいのです。すべて自分のためにやっていれば、自動的に、それが周囲の人々のためにもなるのです。自然を見なさい。神はそのように宇宙を創った。

 

そうじゃないと思う人。人には優劣があり、優が劣を支配してもよいのであり、劣は矯正されるべきものであり、競争に勝たなければ優のポジションにはつけないのであり、そのためには努力が必要であり、他者を蹴落とす必要があり、嘘をついてでも、歯向かう者を謀略に嵌める必要があり、そうやって勝ってこそ、幸福になれる。

 

こう、強く信じる人によって、今の社会が作られ、その思想を吹き込まれ、運営され、自由を奪われ、奴隷にされてコキ使われ、歪められ、著しい不平等、不公平、富の偏在が起こされている。そんなふうに、神は宇宙を創らなかった。それは、自然を見れば明らかです。足りないものなど実は何もない。すべての人に分け与えられるだけのものはあるのです。

 

だから、競争などする必要もない。自分の「魂」が喜ぶことだけを、“ Be Here Now ” でやっていれば、すべての人がハッピーでいられるのです。

「アール・ブリュット」のアーティストたちは、その真理を、先取りして、現代の人々に示してくれているのです。

人は、本来的に「自由」なんだと。あなたも、私たちに続きなさいと。

本物とニセモノ

昨日書いた伊藤若冲の『鳥獣花木図屏風』には、実は真贋論争があるのです。この絵の題材と同じ物が2幅あると書きましたが、ある美術史家がプライス・コレクションの方に「これは若冲の作ではない」とケチをつけた。それでプライスさんが怒って、この美術史家が企画する展覧会には自分のコレクションを出さないということにまでなったようです。

 

本物とニセモノ。

本物とは何で、ニセモノとは何か? 私もよく「この人は本物だ」と言ったりしています。その時に、自分はどういう意味で言っているのか?

 

世間で言う「本物」とは、たとえば伊藤若冲作と思われる絵があった時に、それが本当に若冲が描いたものなのか、それとも他の人が描いた「似せもの」なのかを問うていると思います。なぜそれを問題にするかというと、伊藤若冲というブランドがすでに権威になっていて、その権威に対して巨額の値が付くからです。

 

「似せもの」が跋扈することは、この権威の希少性というものを犯すことになり、コレクター市場を掻き乱すことになりかねません。そこで真贋が厳しく問われるわけです。これは人間社会においては、ある意味仕方のないことで、そのため真贋を鑑定するいわゆる目利きという人も存在するのです。そういう人にとっては、真贋の鑑定というのは仕事です。

 

でも私にとっては、そんなことはどうでもよい。と、そう思っています。物事を見る時に、いったい何を見るのか、見ているのかということです。骨董屋でふと見つけた絵が素晴らしいと思い、大枚をはたいてそれを購入した。署名を見るとどうも有名な作者のものらしい。そこで『なんでも鑑定団』に出した。そうしたら「似せもの」と鑑定されちゃった。あちゃー。

 

その瞬間、自分が「素晴らしい」と思った絵は、突如ガラクタに変わってしまうというのでしょうか? おそらく大多数の人はそうなのでしょう。『なんでも鑑定団』で見せる反応を見るとそうですから。でもだとしたら、その人は、何を見ていたのか、ということです。絵を見ていたのでしょうか、それとも権威を見ていたのでしょうか?

 

目の前に飾られている絵という「物」自体には、作者に関する真贋もあるし、権威がたっぷり上乗せされているというものだって確かにあります。けれども、それを見るあなたの見方、感じ方は自由だということ。どのように見ても、感じてもいい。それはあなたのもので、その時点で、絵という「物」からは離れた、あなたの固有の思念なのです。

 

私が「この人は本物だ」と言ったりするのは、相手の真贋を言っているわけではありません。その人の言動や存在感から感じる、自分の思念が「本物」だと思うから「本物」と言っているわけで、相手の権威や肩書きなど、関係ないのです。そんなものはどうだっていい。

 

相手が大会社の社長や有名人だったら媚びへつらうようにし、相手が市井の無名の人であったら尊大な態度を取るのか? (そういう人は多いですけれども)そういう人は、結局、自分がニセモノだということです。自分がニセモノだから、ニセモノしか発見できない。それで、相手の真贋、つまり肩書きや権威の方をつねに気にするのです。

 

よく、アートを見て「さっぱり意味が解らない」という人がおられるのですが(それも反応の一つではありますが)、解るとか解らないというのは本来どうでもよいことで、〈自分が〉何を感じたか、思ったかが、すべてなのです。要は鑑賞者の問題。アートはクイズじゃない。作者の意図を知ることが目的なら、わざわざアートにする必要などないわけですからね。

 

自然を見る。その時と一緒です。自然のどこをどう見て、何を感じるかは、あなたの自由。同じ旅をしても、たっぷり感じる人と、何も感じない人がいる。後者の人は、景色を見ているんだけれども、実は何も見ていないのです。

 

見るということは、結局、自分を見ることなんですね。だから、自分をたっぷり見られる人は、豊かな人です。でもそのためには、人は何よりも自由でなければならないのです。

 

若冲のいのちの讃歌

 

伊藤若冲(いとう じゃくちゅう:1716 - 1800年)に関する番組は殆ど観たと思っていたのですが、17日に再放送があった『若冲 いのちのミステリー』は、どうやら見逃していたらしく、新しい若冲像を知ってとても感銘を受けました。

 

若冲と言えば、これまではその描写力の凄さや超絶技巧にばかりスポットが当てられていました。私も主にその部分に惹き付けられていたのですが、番組を見て、若冲が一貫して「いのちの讃歌」をテーマにしていたことを知り、見方が変わりました。なるほど、そう思って見ると、確かに若冲のどの絵にも「いのちの讃歌」が歌われているのです。

 

10年の歳月を掛けた代表作、全30幅の『動植綵絵(さいえ)』シリーズには、『群魚図』『池辺群虫図』『貝甲図』といった、まるで図鑑のように多種多様な生き物を一枚の中に収めた絵があるのですが、単にたくさんの生き物を並べたというのではない、多様なものが仲よく揃ってそれで世界が成り立っているというメッセージが、ユーモアとともに示されているのをはっきりと感じます。

 

極めつけは『鳥獣花木図屏風』。例の枡目描きという技法で描かれた異色作です。これと同様のモチーフの絵はもう一幅あって『樹花鳥獣図屏風』と名付けられています。前者はプライス・コレクション、後者は静岡県美術館所蔵で、私は両方とも観ています。

 

この枡目描きという技法は、西陣織の下絵から着想を得たのではないかと言われていますが、私は単純に、モザイクタイルを模して、タイルの立体感を平面で表現することに挑戦したのではないかと考えています。なぜかというと、『鳥獣花木図屏風』の周囲に描かれた文様はペルシャ柄で、そうであれば、若冲がペルシャタイルを見た可能性があると思うからです。

 

と、それは私の推論なのですが、今回の番組では、実に驚くべきことが指摘されていました。この『鳥獣花木図屏風』は、なんと『創世記』の天地創造にインスパイアされて描かれたのではないかというのです。江戸時代、蘭学の勃興期にゴットフリートの『史的年代記』が舶来し、その挿絵に殆ど同じ構図の絵があり、若冲の知人がこの本を持っていて、若冲はそれを見たのだろうというのです。

 

そうだとしたら、『鳥獣花木図屏風』『樹花鳥獣図屏風』が示している「いのちの讃歌」というものが非常によく解るのです。若冲には空白の2年間というのがあって、その間は丹波に行き自然を徹底的に観察したらしい。そういう下地があって、『動植綵絵』を手掛け、そして70歳を超える晩年になって、西洋からやって来た書物の中に天地創造の挿絵を見た。その時、若冲は「あ、俺と同じだ」と思ったのではないでしょうか?

 

多種多様な動物が、争うことなく、楽園に寄り集い、「いのちの讃歌」を歌っている。それが、地上の生命の始まりだと言っている。そのワクワクするような喜び、子どものような視線を、まるで動物の絵本のようなタッチと、枡目描きの遊び心に込めているように、私には思えるのです。

現代に「商道」はあるのか?

イ・ビョンフン監督の韓国歴史ドラマが好きで、楽しみに観ています。特段、韓流ドラマのファンというわけではないので、放送日をチェックしたりはしないし、内容に関しても詳しくありません。でも再放送を、どこかしらの局でしょっちゅうやっているんですよね。

 

チャンネルを切り替えた際にたまたま目にして、「うっ、これは?」と思ってその後、観続けるというパターン。ですから、ぜ〜んぶ、最初の数話を見逃しているの。(ノ_・。) なぜ、イ・ビョンフン監督のドラマにだけ惹かれるかというと、主人公の生き方の中に、「理想社会の実現」という意思が同時に込められているから。


韓流ドラマといえば、裏切りとか、策略とか、恨み、妬み、怒りという人間が持つネガティブな感情と、恋物語を、これでもかとてんこ盛りにして引っ張って行くというのがお決まり。ですが、そういう部分には、もう私は興味がないのです。


イ・ビョンフン監督のドラマにも、そういうドラマを引っ張っていく要素はたっぷり散りばめられてはいますが、それを超える「理想社会の実現」という意思が、全体に貫かれていることが、他のものとはちょっと違うなと思っています。


さて、いま観ている「商道(サンド)」は、イ・ビョンフン監督作品の中では視聴率がよくなく、ご本人が失敗に終わったと仰っておられるのですが、やっぱり「華がないかなぁ」と感じます。登場する女性陣に魅力的なところがなくて、恋物語がなにかとってつけたよう。ですからその部分に来ると、盛り上がるどころかガクンと下がるんです。


まあ批評はともかく、このドラマでは、後に湾商というグループを率いることになる主人公、イム・サンオクの「商道」に対する考え方と、対立する松商グループのパク・チュミョン、チョン・チスの「商道」に対する考え方の違いがドラマを運ぶ基軸になっています。


サンオクは師であるホン・ドクチュから、「商いは人なり」ということを教えられます。人の役に立ち、人を活かし、人を育てることこそが「商道」なのだという考え方です。その下では、商取引というものは、それらを動かす血管経路で、お金はそこを流れる血液のようなものなんですね。つまり、商売は手段に過ぎない、でも無くてはならないものという考え方です。


一方、松商グループのパク・チュミョンやチョン・チスの考え方はまるで違う。目標は韓国全土の制覇にあって、商売を大きくしていくことにしか関心がない。ですから商売敵に勝ってのし上がるためにはなんだってする。あらゆる謀略を企て、政治家へは賄賂を渡し、他人の財産を乗っ取り、そして必要とあれば殺人まで行う。


この松商グループの人たちにとっては、商売のプラン、今の言葉で言えば「マーケティング戦略」というものは、つねに謀略を練ることなんですね。ですから、いつもセカセカと慌ただしくしている。一方のサンオクの方も常に機を見る戦略を立ててはいて、時には松商グループの謀略を跳ね返す成果を見せるのですが、ほとんどは痛めつけられるといった苦悩の連続です。


両者は、戦略を立てるということでは同じように見え、その駆け引きがストーリーを引っ張っていくのですが、同じように見えて実は全然違う。何が違うかというと、意思決定の際の基準となるものです。サンオクには「商即人」という哲学がありますから、迷った時にはこれに照らして決定していく。そうすると、明らかに損失を出すという場面でも、決断に悔いがないのです。


これが、謀略を主体に考えているチュミョンやチスには理解できません。自分たちの思考パターンを超えているから。そのため、サンオクの行動の裏には、自分たちが窺い知らない謀略がきっとあるに違いないと考え、その対応を練って右往左往する。その結果、墓穴を掘って自滅していくのです。発想や思考方法が、自分のパターンから一歩も出られないんですね。


結局ここが、このドラマの肝だと思うのです。私も、迷った時には「この行動は、無条件の愛と共鳴するだろうか?」と考えてください、と前に書きました。それは、目の前の損得を超えた普遍的な指針なんです。でもそれに疑いを持つ人は、そのような行動は、決して取れない。


ひるがえって今の経済界で、「商即人」という考えをもった経営者が、果たしてどれだけいるでしょうか? 経済がグローバル化し、多国籍企業が世界を席巻するようになって、他者に先んじてもっと大きくもっと儲ける、他を蹴散らして市場を独占する、という松商グループと同じ考え方が際限なく広がっています。


その過程で、人がないがしろにされ、もはや財産を奪う対象としか見なされず、労働者は使い捨てにされている。いったいこれは、誰のためのものなのでしょうか? わずか1パーセントの者たちのために人々が奴隷にされているのです。

 

癌は宿主を殺してしまったら、それ以上は生きられません。そのことを、現代の経済人は果たして知っているのでしょうか? 人間というのは、つくづく馬鹿な生き物だと思います。

空間の「居心地のよさ」を構成するもの

居心地のよい空間というものを、あなたはどう考えるでしょうか? 明るい陽射しが差し込む広々とした空間でしょうか。あるいはIKEAで調達したおしゃれな家具調度品で統一された空間でしょうか。それとも一見ゴチャゴチャしているように見えるけれど、お気に入りのグッズに囲まれた空間でしょうか。

 

いずれにせよ、現代では主観を第一に「居心地のよさ」を決めているであろうことは間違いありません。「居心地のよさ」というのは、その空間から感じる自分の主観なのだから、主観を第一に考えて何の不都合があろうか。そのように考えられるかも知れません。しかし、一昔前はそうではなかったのです。

 

今は、なんでもデジタル発想ですが、昔の設計はアナログでした。アナログということは、幾何学をベースにして図面を書いていたということです。この幾何学の中に、すでに「美」の追究というものが、繰り返し徹底して試されて来たのです。

 

今や世界標準となった7音階(半音で12階)の発見者が、ピュタゴラスだということをご存知でしょうか? 心地よく感じる和音を追究していった結果、倍音が鍵であることを掴み、これを計算と実験によって、1オクターブを12分割する振動数についての法則性を導き出したのです。

 

ピュタゴラスは「美」は幾何学に還元できると考えました。なぜならば、そこには大宇宙を構成している統一的な法則が表れているはずであり、それは数学的にシンプルな形で証明されるはずだと考えたわけです。結果的にこの「音階」も、神秘学でいうところの、量的全体数12(半音の数)と、段階的全体数7(ドレミ音階)に還元されたことは注目に値します。

 

話を戻して、空間においては、小空間は大空間(つまり宇宙)を映したものでなければならず、その鍵は「黄金比」にあると考えました。

 

「黄金比(golden ratio)」の作図は、図のように、正方形abcdの一辺bcの中点oを基点に、odの長さの円を描き、bcの延長上と交わる点eを設定した時の長方形によって得られます。この短辺と長辺の比が「黄金比」です。この値は、終わりのない無限小数で、近似値は1:1.618となっています。

 

古代の建築(とりわけ神殿)は、この「黄金比」を基に各部が設計されていました。黄金比の美の特徴は、黄金比図形から正方形を取り除いた後に残る長方形もまた「黄金比」を示しているところにあります。ここからさらに正方形を取り除いて残る長方形もまた「黄金比」を示すということで、この関係が永遠に続きます。

 

ここに、宇宙の法則が完全に示されています。すなわち「下なるものは上なるもののごとく、上なるものは下なるもののごとし(As above, so below)」。(ヘルメス・トリスメギストスの『エメラルド・タブレット』に書かれてある有名な一句で、万物が相似形を為しているということを言っている)

 

だからこそ、それは美しく、心地よく感じることができるのです。そこには小宇宙が示されているからです。今日では、それはフィボナッチ数列との関係から、自然界(たとえば植物の葉っぱの付き方)に多く見られる現象であることも解っています。次のサイトに詳しい説明がありますので、ご興味のある方はご覧ください。

 

http://gakuen.gifu-net.ed.jp/~contents/museum/golden/page62.html

 

さて、現代の建築家で、このようなことを考えている人が、いったいどれだけいるでしょうか。大都市に建つ建築物の大半が、奇を衒った、醜怪な塊になっています。国際コンペが盛んとなって、他とは違う自分のオリジナリティと、名声獲得を重んじるアーティストばかりが出現した結果です。こうして、世界中に居心地の悪いビルばかりがどんどん造られているのです。

 

 

近代建築では、フランスの建築家ル・コルビュジエが、モデュロール(Modulor)という基準寸法を作りました。コルビュジエの名は、家具デザインでもよく知られていますが(あなたも過去どこかで必ず眼にしたことがあるはず:右上写真)、人体寸法に黄金比を組み合わせてこの基準を作ったのです。

 

そして人体寸法といえば、天才レオナルド・ダ・ヴィンチの、円と方形を組み合わせた中に人体を描いた「人体図(Vitruvian Man)」を思い浮かべられるでしょう。

 

実はこの「人体図」は、紀元前の共和政ローマ期に活動した建築家ウィトルウィウスの『建築について』という理論書(現存する最古の建築理論書)の記述をもとに、ダ・ヴィンチが描き起こしたものなのです。

 

コルビジェは、このダ・ヴィンチ、そしてウィトルウィウスの人体寸法の考えに、さらに黄金比の神秘を見出したわけです。これは非常に理に適った考え方と言えます。

 

これまでにも何度も書いて来たように、人間というのは、小宇宙(マイクロコスモス)です。大宇宙(マクロコスモス)を映したものなのです。

 

ここで、両者が一致します。空間も、人間も、共に “As above, so below” という法則の上にあるということがお解りでしょう。ですから、それに逆らわずに表現されたものが、美しく、居心地がよいものとなるのです。ちなみに、「起きて半畳、寝て一畳」という日本の畳サイズも、優れた人体モデュールから出来上がっていると言えるでしょう。

『大地の子』と上川隆也さん
BSプレミアムで、山崎豊子さん原作のドラマ『大地の子』がアンコール放送され、近ごろ骨太のドラマがなかったので、これを楽しみに観ています。このドラマの最初の放送は1995年。なんと、それからもう20年が経っているんですね。

『大地の子』には、ちょっとした思いがあります。この時期、私は、巣鴨で中国人兄弟がやっていた整体院に足繁く通っていて、彼らと『大地の子』について話し合ったのです。その時に、主演の上川隆也さんが日本人俳優だと言うと、彼らは目を丸くして驚いた。それほど、上川さんの中国語が完璧だったということです。

この役は当初は本木雅弘さんが予定されていたそうですが、長期に渡る中国ロケで有名俳優を拘束することは難しい。そこで、劇団「キャラメルボックス」の上川隆也さんに白羽の矢が当たったのだそうです。

この上川隆也さんを見つけて来た慧眼というのは、凄いと思う。私も当時、もの凄い新人俳優が居たものだと驚きました。もしこの主役が、名の知れた日本人俳優であったなら、ドラマは全く違ったものになっていたと思う。中国に取り残された戦争孤児のリアリティは、やはり無名の新人でなければ出なかったと思います。

加えて、陸一心という人物の純粋さ、ひたむきさを、上川隆也さんが完全に一体となって、全身で表現し尽くしている。陸一心はとにかくよく泣く。一つのドラマで、こんなに泣いてばかりいる主役という設定も珍しいですが、それが少しも嫌味のない感情表現になっていたのは、大したものだと思います。

最終話では、原作のタイトルにもなっている「大地の子です」という言葉が、陸一心の口から述べられ、これにも非常に感動しました。これは、陸一心(日本名:松本勝男)に、父である松本耕次が「日本に来て一緒に住まないか?」と遠慮がちに誘った際に、陸一心が答えた言葉です。そう言って、息子は父の申し出を婉曲に断り、中国に留まる決意を明らかにするのです。

でも、当時は気づかなかったのですが、この「大地の子」には、もっと大きな意味があったのだと思い至りました。この「大地」は、中国大陸ということではなくて、地球の「大地」だったのだということ。だから、中国と日本と、国は離れていても繋がっているという意味だったんですね。
上手い役者論
他の人の「心」が解る。これは何も特殊能力ではなくて、誰にでも出来ることです。ただ普通の人は、<他人の「心」の内は解らないもんだ>と思い込んでいることと、観察眼が足りないために、バイブレーションのほんのちょっとした違いを読み取ることが出来ないのです。

嘘はつけない。これは本当のことです。国会議員がしている答弁や、記者会見などをテレビで見ていると、言っていることが本当か嘘かはすぐに判る。あまりにも嘘だらけなので、私はもうそういうものを見るのを止めたほどです。しかし普通の人は、文言にとらわれて、そこを見抜こうとしない。だから騙されるし、平気で騙そうとする人も出て来るわけなのです。

しかし私にも、こういう人だけは、さすがに見抜けないだろうなぁと思う凄い人をたまに見る。それは、本当に上手い役者さん。

役者というのは、人を騙すのが商売だと言いますが、そこまで到達できる人は、本当のところは非常に少ないと思います。役者にも二種類があって、演じる役者と、成り切る役者がいる。もし100人の役者がいたとしたら、99人は演じる役者。成り切る役者は果たして1人いるかどうかといったところでしょう。

普通、上手い役者というと、みな「演技が上手い」ということを誉めます。しかし「演技が上手い」などというのは、まだその「演技」が見えているということであって、成り切るところまでは到達していないという、これは証明なのです。ところが、そこを役者も錯覚していて、一生懸命「演技」術を磨こうとするのです。

誰だったか忘れてしまいましたが(溝口健二だったかな?)、日本映画の巨匠で、自分の作品に初めて出ることになった役者に、いきなりこう言ったというエピソードが伝えられています。「君は舞台の人だったね。お願いだから、演技しないでね」。スペイン映画の巨匠、ペドロ・アルモドバルも、同じことを言っている。「観客は30m先に居るんじゃないんだからね」。

これは映画と舞台の違いということもあるでしょうが、根本にあるのは、やはり「演じる」ということに対する考え方の違いだと思うのです。役者の方でも、とことん追求するタイプの人は、最初は「演技」をしようとしていても、そのうち「演技しない演技」に目覚めて行く。こうなって初めて、「成り切る」役者になって行くわけです。

映画監督の中には、「演技」しようとする役者の芝居クササにイヤ気がさして、「素人の方がむしろいい」と考える人もいる。それはそれで、いわゆるナチュラルな演技というものを上手く引き出せた時には、成功する場合がある。

また、若い時から「演技」を出来るだけしないという役者もたまにいる。こういう人は「存在感のある役者」と言われて、いっときは評価を受けるのですが、それを続けていると、やがて行き詰まる。なぜかというと、どんな役をやってもみな同じで、その役者の「○○節」というものが鼻につくようになってしまうのです。

ですから、「成り切る」ということと「演技術」というものの両輪を、共に磨いて向上させていかない限りは、本当に一流の役者というものには到達し得ないのです。

さてそこまで行くと、一流と二流との差がどこに顕われるかと言いますと、実は「声」なのです。現代人というのは、情報を視覚に頼り切っていて、音をあまり気にしない傾向があります。ですから視覚にすぐに騙されてしまうのですが、「声」に耳を傾けていれば、嘘か本当かはすぐに見抜けるのです。

NHK BSの人気番組に『世界ふれあい街歩き』というものがあるのですが、ナレーションの「声」に耳を傾けていると、一流と二流の差が歴然と判ります。二流の人は、スタジオで台本片手にセリフを読んでいる姿までがハッキリ見える。そして一流の人は本当に少ない。自分が行ったわけでもない旅を、一人称で語ろうというのですから、こんなに難しい仕事はないでしょう。

冨田勲さん作曲のミキシングを長年やっていたという音響技術者の方と出会った際に「音というのはゴマカシが利かないものですね」と訊いてみたことがあります。すると、「いや、そうでもないよ」という答えが返って来ました。「だから、オレオレ詐欺が成立するんですよ」
なるほどねぇ。

私の家にも時々、「こいつを落としてやろう、引っ掛けてやろう」と目論む詐欺師たちから電話が掛かって来るのですが、自分の場合は第一声からもう詐欺師だと判る。ところが、この音響技術者の話によると、前提条件で「思い込み」が生じた場合は、音であってもゴマカシが利くというのです。たとえば、息子と思い込んだり、銀行マンや警察署員だと思い込んだり。

ということで、視覚に頼らず、思い込みを外して、「声」に耳を傾けてください。本当か嘘かが判ります。
週に一度は、Art Day を
Art というのは、言葉によらない物語だと思います。言葉というのは、時系列に単語を並べて行くことで初めて意味が浮かび上がる。それはある意味、言葉を駆使する者(作者)の意図に乗せられるということでもある。しかし Art はもっとずっと自由度が高い。どう見ようと、どこから見ようと勝手だし、そこから何を感じるかについても制約を受けない。

だから Art というのは、鑑賞する者の内部に化学反応を起こさせる、一種の触媒のようなものだと思うのです。そしてそれは、観る人の感受性に大きく左右される。しかし解るとか解らないというのはどうでもいいことで、要はそれを観た人の、その時の感覚に「何か」がスパークして、新たな感受性が磨かれればそれでいいと思うのです。

Art のよさは、そのようにして、自分を思いがけない感覚へと誘ってくれることにあります。私たちは毎日を、ほとんどルーティンで過ごしています。毎日ほぼ決まった時間に起床し、食事をし、学校や会社に行く。そうすることで、一種の効率化を実現しているわけですが、効率化にばかり身を晒していると、思考や感情や感覚までもが平坦になっていってしまいます。

私なども、現実的なことばかりに携わっていると、一種の「Art 欠乏症」のような感覚になって、無性に Art を観たくなって来る。

現実的なことばかり考えている人にとっては、Art というのは無価値であるという考え方があり、逆に価値を量ろうとした場合には、作者が誰だとか、時価○億円だとか、金銭に置き換えて判断するという、極端なことになっているわけですが、それはどちらも俗物根性の為せる技だと思う。

どんな物であっても風化し、やがては姿を変えてしまうのですから、何が価値かと言えば、瞬間瞬間の、その人の「心の感受性」にしか価値はないのです。ですから最低、週に一度は Art に触れて、ご自分の感性を刺激し、大いに磨いて欲しい。Art に親しむ人は、心が豊かであり、自分の内部に輝く宝石をいっぱい持っている人です。
『クートラスの思い出』にインスパイアされて
ロベール・クートラスの展覧会を観に行ってから、この人のことがとても気になって、画集2冊と、クートラス最後の恋人だった岸真理子・モリアさんがお書きになった『クートラスの思い出』と題する伝記を読みました。

『日曜美術館』のアートシーンで、岸真理子さんがクートラスのことを語る姿を見た時に、「この人には何かある」と直感しましたが、果たして、詩情豊かな文章はたちまち私を虜にし、クートラスのカルタと岸真理子さんの伝記のダブルパンチでここ数日間、ボーッとしているあり様です。

クートラスには200人以上もの、彼が言うところの「フィアンセ」が居たという。キャンバス地も買えないし、その日の食事も満足に得られないほど貧しかったけれど、Make Love を自由に生きて、また多くの女たちも彼を放っておかなかった。それは、彼の純粋さが、女たちを引きつけたのだと思う。

55歳で亡くなる数年前から、たびたび不安発作に襲われていたらしく、詳しく書かれてはいませんが、おそらく心臓に難があって急死してしまったのでしょう。こう言うと白けるかも知れませんが、彼はハート(つまり愛)に、課題があったのだろうと思うのです。それが、継父と「くそババァ」の母親と過ごした生い立ち、対する200人の「フィアンセ」という物語を紡いだのではないでしょうか。

それと、1930年生まれということもあって、戦争体験も大きく彼を左右した。フランスはドイツの占領下にあったため、生き延びるために家族は転々としなければならなず、娼婦のようにして生活する母親や、ドイツ人とフランス人とういう差別、金持ちと貧乏人という差別をイヤというほど経験し、彼には絵を描くことしか残らなかったのです。

しかしクートラスは、その葛藤を解消できたわけではありませんでした。絵に没頭することでしか、自分を生きさせるものはない。けれども、画廊の主人たちは絵を単なる商売の道具としてしか考えていない。そんな奴らに自分の絵を一枚だって売るものか。彼は、純粋さの一方で、嫉妬深くて癇癪持ちという自分を処理できなかったようです。

解るなぁ。自分もそうでした。自殺願望が止んだのはつい3年前くらいのこと。もう死のうとは思わない。たぶん以前に戻ることはない。自分の役割が解ったし、心を耕すことができるようになったから。死んだカミさんは、20代のころの私を「カミソリのようだった」と言っていた。今は刃こぼれした上に、すっかりなまくら(鈍)になっちまった! いいのか悪いのか。

クートラスだって、なまくらになる道はあったと思う。たとえなまくらになったとしても、アーティストとしての純粋性はいささかも失われなかっただろうと思う。彼には「黒い孤独の太陽」と「見えない太陽」の二つが同居していたというが、「黒い孤独の太陽」のお出ましを控えさせて、ただ「見えない太陽」の方をもっと輝かせるだけでよかったのだ。

本当はクートラスのことを書こうと思ったのじゃなくて、彼にインスパイアされ「心やさしき魂の持ち主」に対して、エールを送りたくなったのだけれど、前置きで疲れてしまったので、それは明日に回します。