by Rainbow School
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男の課題、女の課題(2)「枠組み発想」社会からの脱出

地上に男女の別があるのは、「物質界においては、あらゆる存在(表現物)が、必ず陰陽の極性を宿している」という、宇宙の根本原理に基づいた一つの在り方なのです。これまでにも何回か紹介した「陰陽太極図」は、万物が、この両極の渦(回転)によって成り立っているということを象徴的に表現しています。図中の二つの形は魚に見えなくもないので、「陰陽太極魚図」とも呼ばれています。

 

*西洋でも、これと同じく二匹の魚が向かい合う双魚宮の印があります。

 

さて、この両極の中に、反対色で目玉が描かれていることにお気づきでしょう。これはそれぞれ、陰中陽、陽中陰と言って、それぞれの極性の中にも、反対の極性の目(芽)が含まれているということを表しているのです。

 

ですから、これを性別に当てはめますと、女性の中にも男性的要素はあるのであり、男性の中にも女性的要素があるということを示してくれているのです。ということで、この点に注目すれば、男女が互いを理解し合う(それは「愛」の一つのあり方)ということの意味、そして、「魂」の完成形は中性になることという意味も、自ずと解って来るのです。

 

ところが地上では、男は男らしく、女は女らしく、といったことが必要以上に強調される傾向にあります。そして、これを実現すべく、互いの性を意識させるファッションやグッズや化粧品が大量に作られているのです。これらは人間の恋愛感情に作用し、ひいては子孫を残すことにも繋がってはいるのですが、反面、肉体美や行動様式にも特定の価値観が当てはめられるという傾向を強めて来たのです。

 

その結果、その価値観の枠組みから逸脱する者には「アブノーマル」のレッテルが貼られるようになりました。ですが、よくよく考えてみれば、自分は「マジョリティ」だと思い込んでいる人たちの方が、より縛りがキツいということでもあるのです。なぜなら、「ノーマル」という檻の中に入れられ、それが当然だと思い込んでいるわけですから。その洗脳状態に、まだ気がついていないということなのです。

 

男たるものこうあるべき、女たるものこうあるべき、と主張する。それは、自分が率先して、自分自身を縛り付けている縄(=ワナ)なのです。しかしこれは、宇宙における「魂」の進化という点から見ますと、そのような執着にいつまでも捉われている段階にあるということです。これが、地球人の次の霊的進化へのステップを、大きく阻害しています。

 

LGBTがいま社会問題として扱われるようになったのには、それへの「気づき」を促す意味があります。LGBTをきっかけとして、男性性、女性性に関するそれぞれの課題を、今一度考えてみなさいということなのです。単に生殖や子孫存続ということではなく、また男らしさや女らしさということでもなく、もっとその先をです。

 

総じて、男性はいま危機にあります。これは染色体レベル(Y染色体)で見ても崩壊が進んでいるのですが、今世、男性であるところの「魂」が、社会が提示し続ける男性的枠組みに、もはや耐え切れなくなって来ているのです。どういうことかと言いますと、時代環境変化と、人間の内面的変化との間に、著しい乖離と軋轢が生じて来ているのです。それが、現象面で見るところの、いわゆる「草食系男子」の増加に表れています。

 

「草食系男子」が増えるということは、「魂」の中性化ということで言えば、「退化」ではなくて「進化」なのですが、しかしそう捉える人は殆どいないのです。大多数の人が、これまでの延長上で「子孫の存続」を考えていますし、政治家は「population」の観点から「少子化対策」などということを言い出すものですから(実効はまったく上がっていませんが)、男性の「草食化」はむしろ由々しき問題のように捉えられています。

 

しかしここには、無理(宇宙の理に適っていない)があるのです。「草食系男子」の内面は、(宇宙的な)時代変化の兆候を、直感としてちゃんと捉えているのです。人類が、中性的に進化して行く段階に来ているということを。けれども、「それではマズい」「そんな傾向は承認できない」と考える人たちがいて、これまでの延長を、あの手この手を使って強いるのです。この同調圧力の強さに、「植草食系男子」たちはもはや耐えられないのです。

 

しかもそれは、マッチョイズムに冒された人たちから見ると「弱さ」に見えるのです。確かに、「草食系男子」には、ある種の「弱さ」が見られます。

 

でも、ここで考えてみてください。「強さ」とはいったい何でしょうか? 「強さ」とは、腕力のことでも、闘いに勝つことでもありません。究極の「強さ」とは、「怖れ」が一切ないことです。言い換えれば、自分を完全に解放し切っていること。いついかなる時にも Open Heart であり続けている人ほど、強い存在はないのです。闘争や防衛意識を駆り立てるものの正体は、逆に「怖れ」であり「弱さ」なのです。

 

もう時代はとっくに変化しているのに、その直感が働かずに、古色蒼然の価値観で、なおもあなたを縛り付けようと、たくさんのものがあなたに襲い掛かって来ます。「さあ、何してるんだ。お前もリングに上がれ」と。「そして闘え!」と。でも、そんな罠に引き摺り込まれる必要はありません。「いや、結構です」「興味がありません」と言えばいいのです。そして、自分に強く言い聞かせるのです。わたしはわたしだ、と。

 

しかしそのためには、先ずもって、世の男性たちは男性特有の「枠組み発想」という思考グセを打ち捨てなくてはなりません。男性というものは、自分のアイデンティティを、ある「特定の枠組み」への帰属意識の中に見出そうとする傾向があるのです。何かに所属している自分が自分だ、という考え方です。それは、男性性に元来そのような性質があったところに、しつけや教育がそれを強化する刷り込みを与え続けて来た結果です。

 

ですから、一般的に言って男性は、ひとたび「枠組み」に入れば馬車馬のように働く一方で、そこから外れると、たちまち元気を失くして鬱になってしまったりするのです。とりわけ、万事が「右にならえ」でやって来て、マイオピニオンを持つ訓練を積極的にして来なかった日本人男性は、この傾向が非常に強い。すると、「枠組み」から出されたり、そこに入れないことは、大変な恐怖となるのです。

 

この心理構造が、現在働き盛りの年代にある男性たちに、過重なストレスを与える大きな要因になっています。なぜなら、自分が受けて来たしつけや教育が、「特定の枠組み」へ帰属することを前提として目標が組み立てられていたのに、いざ就職の年齢に達した時には、求人がない、よい就職先がない、正社員になれない、賃金も安い、一度やめたら再就職が難しい、など前提そのものが崩壊していたからです。

 

いわゆる就職氷河期世代の人の中には、大学卒業時に就職できなくて、モラトリアム(猶予期間)のつもりで大学院に進んだけれども、大学院を卒業したら年齢のために更に就職が難しくなってしまった、以来、派遣労働者として働きながら正社員への道を探っているというような方がおられます。その境遇を見ると可哀想ではあるのですが、なぜそこまでして「就社」にこだわり続けるのか、という面も原点から考えてみる必要があるのではないでしょうか。

 

「就職」が即「就社」を意味するようになってから久しいですが、本来はそうではなかったはずです。「就職」というのは、文字通り「職」に「就く」ということであって、自分がどのような「職」を仕事として選び、身につけるかということを意味しています。それは、あくまで自分で自分をプロデュースするということであり、会社に選んで貰うということではなかったはずなのです。ここに、「就活」がシステム化したことによる壮大な錯覚があります。

 

けれども、女性たち一般には、男性のような「枠組み発想」は殆どありません。ですから、女性たちからすれば、男性のこの「枠組み発想」というものは理解不能の世界であって、実に下らないものに映るのです。そこで夫婦間では、このスレ違いを巡って、しばしば衝突が起きるのです。前近代には、男はそれを避けるために「男の仕事に女は口を出すな」と言っては防波堤にしていたものです。

 

*女性の男性化の悪い面として、「枠組み発想」に突き進む女性もいることはいます。

 

しかし、これからの男性たちは、それが本当に下らないことだと「気づく」必要があるのです。もはや時代にそぐわない上に、地球の進化としても、その段階に至ったということです。なぜかと言うと、権力者はこの男性の「枠組み発想」を利用して、男たちを上手にコントロールし、働き蜂や兵隊になるように仕向け、何世紀にも渡ってコキ使って来た歴史があるからです。それは、地球に残る集団のカルマであり、超えなければならないハードルなのです。

 

権力者たちは、今もなおもその仕組みを維持しようと躍起になっていますが、肝心の男たちの方は疲れ切って、もう着いていけなくなっている。ということで、今や男性陣は行き倒れになり掛かっているのです。そこで、男性のこれからの課題としては、女性たちに見習ってもっと自分を女性化して行く。そのことを肯定して、より中性に近づいて行くということが求められているのです。

 

それだけを聞くと、従来の思考でがんじがらめになっている人には、唐突に、また違和感をもって感じられるかも知れません。が、まさにそこ、その違和感。それこそがブレークスルー・ポイントなのです。

 

男の「枠組み発想」は、元々はメス獲得の願望から生じたものです。動物的な本能であるこのメス獲得の願望を達成するためには、ある時代から「枠組み」に入ることが有利に作用したのです。それは、原始的な果たし合いを男が止めてからです。でも、メスを獲得したい男は、本能として、自分以外の男性をたえず値踏みし、相手の力量を計るというクセが抜けません。無意識的に、他の男に勝ちたいという衝動を抑えられないのです。

 

そこで、腕力の代わりに、権力で相手をギャフンと言わせたいという思考に変わって行ったのです。これが、男性が、所属や地位や肩書きに強いこだわりを持つ理由です。しかしこのことは、一方で過適応を生み、自分を規定する「枠組み」こそが自分だとの錯覚を創り出しました。その結果、先ほども述べたように、「枠組み」に入ることが目標、入れれば安心、そこから外れることは恐怖、という感情を抱くに至ったのです。

 

この「思い込み」が、どれほど、現代に生きる男性の解放を妨げていることでしょうか。これまでにも何度も言ってきた通り、それは、単なる「思い込み」に過ぎないのです。そういう「枠組み」を提示して「リングに上がれ」と言う方も、そして「枠組み」に嵌められて「そうしなくちゃな」と思う方も、ともに協力しあって、そのような錯覚の世界を創り上げているのです。

 

女性の一部は、それが男性特有の錯覚の世界であることに既に気づいています。しかし、男性はほとんど気づいていません。それは、男性というものが、どうしようもなく「枠組み発想」であり、幼少時からそれを徹底的に叩き込まれて来たからです。ですから男性は、知り合いが一人もいないような集会場所に、たった一人で出かけて行くということが出来ません。自分が値踏みされてしまうことが怖いのです。

 

男性たち、特に草食系と言われる人たちには、ここを乗り越えて行って欲しいのです。メスの獲得を巡って、もうカンガルーのボクシングのような殴り合いはしなくなった。その代わりに「権威」で横っ面を引っ叩くようになりました。これからは、それさえも乗り超えて行くべき時代が来たということです。大切なのは融和であり、そのためには自己の解放(Open Heart)が何より前提になるのです。

 

だから、

 

ありのままでいいのです。ありのままであれば、他者から値踏みされる恐怖も生じませんし、他者を値踏みする眼を持つ必要もありません。

自分をさらけ出す勇気を持ちなさい。そうすれば、肩の荷が下りて、楽になるから。なぁんだ、こんな簡単なことでよかったのかと、気づくから。

 

婚活産業は、年収がどうだとか、身長がどうだとか、容姿がどうだとかと言います。でもそんなことを条件に挙げる女性は、最初から相手にしないことです。だっておかしいでしょう? そういう女性は、いったい何と結婚したがっているのか、よ〜く考えてみてください。本質と付属物とが逆転していますよ。こんな罠に巻き込まれてしまったら大変、破綻は目に見えていますよ。

 

現代という時代は、婚姻関係が「生活を共にするベースキャンプ」という発想が強過ぎるのです。誰も彼もが損得を第一に考え、「ベースキャンプ」を得する場にしたい、またしようとする。でも、結婚で大事なのはそこではありません。婚姻生活という場で為す仕事を通じて、お互いが人間的、また霊的な成長を果たすということです。あなたが選ぶパートナーは、その覚悟に同意してくれる人であるべきです。

 

それに世の男性たちは、どうすれば女性にモテるかということについて大きな誤解をしています。婚活産業が、モテる基準というものを提示するものですから、それらをすっかり信じてしまい、自分が基準を達成できていないことに妙に萎縮してしまったり、逆に自分は基準を達成しているんだぞと見栄を張ったり。涙ぐましい努力をしている人たちを見かけます。

 

そういう人たちに言ってあげたい。あなたは、いったい何人の女性と結婚するつもりなのかと。底引き網に引っ掛かって来た中から、ベストの一人を選びたいのでしょうかしらねぇ。でもね。喩えは悪いですが、のんびり釣り糸を垂れている時に喰いついて来た魚も、一匹は一匹なんですよ。そして、次が肝心。どのような方策を取ったとしても、「縁」ある「魂」は最初から設定されているということです。出逢うものは出逢うのです。

 

あとは、「波動の法則」が「縁」を選ぶ。だからこそ、「Open Heart」が大事なのですよ。「Open Heart」に勝るものはない。あなたが、いつも「Open Heart」でいれば、同じように「Open Heart」である人が、その波動に惹かれてやって来ます。女性を敬い、出しゃばらずに、偉そうにせずに、周囲の人たちにただただ誠を尽くしなさい。それが、いちばんのモテるコツです。

 

さて、一方の女性たちの課題です。総じて、女性たちはこの半世紀で大きな進歩を遂げました。それは、もともと持っていた良好な性質に加えて、様々な社会的タブーが過去半世紀に一気に取り払われ、そこに聡明さがプラスされたからです。もともと持っていた性質というのは、身の廻りの細かな仕事に、倦まず弛まず取り組める粘り強さを持っているということです。

 

これは素晴らしい特質で、「倦まず弛まず」ということが、いちばんの霊的進化を約束してくれるのです。一方、男性はこれが苦手で、「大志」というロマンに惹かれ、日々の細々としたことには眼が向かないだけではなく、そんなものには価値がないとすら思っているのです。結局これが、男性が「枠組み発想」に流れやすいということに繋がり、逆に女性は「枠組み発想」に陥りにくい元になっているのです。

 

こうした結果、霊的進化という点においては、今や男性は、女性との間に大きく水を開けられてしまっているのです。その表れは、この「虹の学校」でも顕著に見られ、接触して来られる人の95パーセントが女性という、極端な女高男低が見られるのです。しかし、政治・経済の社会は、ふた回りも遅れていますから、未だに錯覚が解けない男性たちがウヨウヨいて、延命策を続けているのが実情です。

 

ところで、いま女高男低と書きましたが、あなたの現在の性に照らし合わせることは、ほどほどにしておいてください。何度も言うように、「魂」は輪廻転生するのです。今世、男性であった「魂」が次は女性に、女性であった「魂」が次は男性にということは、充分にあり得ます。両方を味わい尽くすのが輪廻転生の目的なのですから。ですから、女高男低という現象は、両者で考えなくてはならない課題なのです。

 

その上で、今後は、先行した女性が、男性を引っ張るという形になって行きます。しかしそれには、男性が、これまでの誤りを認め、反省し、素直になって、ハートを開くということが前提条件です。けれども、面子にこだわる男性には、なかなかそれが出来ません。しばらくは辛抱が必要です。焦ることなく、あなたが「Open Heart」になることで、周囲の男性たちを「Open Heart」に導いて上げてください。

 

さて、いま挙げたのは、霊的に先行している女性たちですが、もちろん女性全員がそうというわけではありません。女性の特質として、もう一方に、感情に流れやすいという点と、物欲に染まりやすいという面があります。今の社会は、これらをさらに刺激する方向へ動いていますので、その罠に簡単に嵌ってしまう人も、一方ではたくさん出現するということになります。

 

こうして今後は、霊的により進化する人たちと、低い波動に堕ちる人たちとが、極端に分かれて行きます。そのことによって、人間社会はますます混乱の様相を呈するようになりますが、そこを長い目で見て通過することが大切です。どのような段階にある「魂」であっても、その時に選んでいることは、その「魂」に取っての真実なのです。そこを汲み取ってあげてください。

 

すべては、たった一つの到達点へと続く旅です。どんな「魂」も、必ず、最後はそこへと行き着くのです。そこに希望を見出してください。そして、先ずあなたが「Open Heart」の心で、日々を生き抜いてください。それが、周囲の人々を明るく変え、ひいては地球全体を救うことに繋がります。あなたが明るくなることと、周囲が明るくなることはイコールなのです。

 

なぜなら、もともと一つだったのですから。

男の課題、女の課題(1)LGBTの解放運動が示唆しているもの

なぜ、この世に男女の性別というものがあるのでしょうか。このことについて、これまでに深く考えてみたことがありますか? 最近になって、LGBTの問題が俄かにクロースアップされるようになり、当事者や関係者の方ならば、もしかしたらそのような問い掛けを自分自身になさった経験がお有りかも知れません。私たちは、この問いについて、もっと根源的な理由を知るべき段階に来たと思います。

 

男女の別があるのは、生殖をして子孫を残すためだと考える人たちがいます。確かに、それも答えの一つです。自然界を見れば、雌雄別の生命体のすべてが、基本的にはそのような在り方をしていますから。しかしこの考え方は、現象の表層しか見ていません。なぜならば、他の動物と違って、人間は輪廻転生を繰り返す生命体だからです。個々の魂は、その連続においては、男にも女にも生まれ変わるのです。

 

男女別があることを「子孫を残す」という視点でしか考えていない政治家がいて、時々、不穏当な発言をしてしまう様子を見かけます。抗議にあってから、慌てて釈明したりしているのですが、日ごろ考えていた本心がついポロッと出たということに過ぎません。彼らにとっては、人間というものは、単に人口(population)であって、個々の人間(human)存在ではないのです。彼らの意識の中に、ヒューマンへの共感はありません。

 

人が、この物質世界に生まれて来た理由には、それぞれ個別の課題があります。今世、男に生まれた、女に生まれたというのも、その課題の一側面であり、中間生(転生と転生の間)に滞在していた時に、自分でプランニングしてきたものなのです。「子孫を残す」という視点だけでは表層しか見ていないというのは、自分が今世、なぜ男に(あるいは女に)生まれて来たのかという、そもそも論が欠落しているからです。

 

個々の「魂」は、物質世界に何度も何度も転生しながら、少しずつ霊性を向上させていく旅を続けます。その際に、過去世で積んで来たカルマの解消と、真実の愛というものについての学習を、我が身に降りかかる経験(多くは辛く困難な体験)を通じて行なっていくのです。地球というのは、いわばそのための林間学校なのです。

 

「魂」のホームベースはあくまで霊界であり、自己の霊性の向上のために、意を決して出掛けて行く修行道場、それが地球です。それは、物質世界でしか味わえないハードなトレーニングをするためであり、自分で、筋トレならぬ「霊トレ」に「よし行って来るぞ!」と決めて、人は地球に誕生するのです。けれども、ちょっと油断をしていると、カルマを雪だるま式に増やすことにも成りかねないという、ここは案外厳しい学校なのです。

 

さて、そのようにして霊性が向上して行った暁には、個々の「魂」の性別は、どのようになって行くと思われますか? そう、性別が無くなります。中性になってしまうのです。あるいは、男性でもあるし、女性でもあるという言い方も出来ます。つまり両性を持っているということですす。神が、あるいは宇宙が、しばしば父性と母性の両方で語られるのは、それを示しています。

 

*キリスト教は、神を「父」に限定してしまいましたが‥‥。そこで、それを補完するために、聖母マリアをもう一つの信仰対象としてバランスを図りました。

 

仏像の弥勒菩薩や観音菩薩が中性的に描かれているのは、霊性が高いことを表しています。人間でも同じで、「魂」が完成に近づき、霊性が高くなった人物は、例外なく中性的な魅力を持っています。また、一人の人間の一生を見た場合でも、経験を積んで、それを消化して来た「魂」は、晩年になると、お爺さんなのか、お婆さんなのかが分からなくなってしまいます。

 

このように、輪廻転生の旅を「性別」という観点から眺めますと、それは「中性に限りなく近づいていく旅」だとも言えるのです。中庸の一つの表れです。しかしこのことを、大多数の人は知りません。そこで、世の中には、今もって男性性や女性性を強調するもので溢れ返っているのです。しかしそれは、金銭欲や物欲と同じことで、肉欲への執着を手離そうとしないということなのです。今のこの身体が、自分のアイデンティティだと思い込んでいるわけです。

 

しかし、そう「思い込む」のも無理ありません。幼い頃からそう躾けられますし、思春期になればなったで、鏡に映った自分の姿を見て、他者と比較することを覚えて行くでしょう。でも、冷静なって考えてみれば、鏡を見ていない時の自分は、この「身体」なのではなくて、今の「意識」なのだと気づくはずです。あなたは、あなたの身体の全体像を、自分の眼で直接見て、外側から把握するということは絶対に出来ないのです。

 

つまり、それは「思い込み」にしかない。何かを通して(例えば写真に映った)自分と思われるものを見ることは出来ます。友人に「ここに映っている人はあなただよ」と言われれば、そうかなと思う。しかしそれは、あくまで「映ったもの」であって、あなたの身体ではありません。あなたは、自分の身体を、「着ている」という感覚でしか捉えられないのです。むしろ、それこそが真実なのです。

 

あなたの身体は、今世における、ドレスでしかありません。

ですから、「なぜこのドレスなのか?」を考えることは、あなたの今世における旅の、大きな手助けになります。

 

さて、霊性が高まれば中性的になって行くということを、別の角度から見てみましょう。前回のブログで、「魂」の輪廻転生の旅を、大海と一滴の雫に喩えてお話しました。大海から昇った蒸気が凝固し、一滴が生じて、雨となって地上に落ち、しだいに同類を集めながら元の海へ還るというお話です。では、この大海の性別は何でしょうか? そうです、中性です。では、最初に生じたという一滴は?

 

この一滴のことを、精神世界用語でエンティティ(entity)と言います。エンティティはIT用語にもなってしまったので、解りづらいかとも思いますが、最初の実体、やがて自我を持った「魂」に成長する霊的な種子のようなものだと思ってください。このエンティティには、もちろん性別は無いのです。大海の一滴ですから、まだ大海の性質を所持しているわけですね。

 

しかし、このエンティティが地上に落ちた時から、性別が始まるのです。なぜならば、物質界をあまねく貫く論理は、陰陽二極性にあるからです。これは、元をただすと電磁気的な性質で、プラスとマイナス、S極とN極に代表されます。およそ物質界では、あらゆるものが、この両極性の間に、物質化という現象を通して出現しているのです。そこで、人間も例外ではなく、オスとメスとに分かれるのです。

 

なぜ二極性があるかと言えば、二極の間にこそ、次の新しいものが生み出されて行くからです。これを、逆三角形(▽)を書いて『三角形の法則』と呼びます。上の両端が二極性で、間に新しいものが生み落とされるのです。この二極性は、通常、ポジティブとネガティブとか、プラスとマイナスのように言われることが多いのですが、そこに優劣というものはありません。それは単に反対の性質であって、両方ともが必要だということです。

 

*時に、私も「ネガティブ」という語を否定的な意味で使ったりすることがあるのですが、それは言葉の綾で、その時そう表現したと理解してください。

 

ですから、人間の男女ということを考えた時にも、そこに優劣があるのではなく、両方が必要であり、互いに補完し合っているということです。さらに言えば、霊魂の本体(=創造主)から、エンティティが出現した際には、これが地上へと降りる前に、バランスを取るために二つの極性に割れるのです。そして、各々が別々の「魂」として、成長の旅を開始して行くのです。これが、いわゆる「ツイン・ソウル」の関係です。

 

英語の「man」は、もともとは「人間」という意味でした。つまり、両性具有(androgynos)だったのです。しかし、そこから一つの極性が新たに生み出されました。神話で語るところのアダムの肋骨を1本取ったのです。それで、「man」から別の「man」を生み出す、生〜むman →「woman」が創られました。この分割によって、元の「man」の極性に偏りが生じ、「man」が「男性」の意味を持つようになったのです。

 

肉体を持って地上に降りるということは、言い換えれば、天国世界からの堕落を意味します。これは、イエスであろうとブッダであろうと同じことです。波動を下げなければ物質化することは出来ません。ですから、地上に生まれたということは、元のエンティティが、敢えてそうすることを選んだということなのです。なぜ? 好奇心によって。好奇心への誘惑に乗って。これが、聖書に書かれた、アダムとエヴァの失楽園の物語です。

 

こうして、好奇心から一度は物質界に堕ちた「魂」ですが、その後は、男女の極性を持つことでしか出来ない体験を重ねることによって、再び、霊性の向上を目指すようになって行ったのです。しかしそれを聞いて、「なぜ天国に居続けなかったのか?」「なぜ、そんな七面倒くさいムダな旅に出たのか」と、疑問を持たれた方もおられるでしょう? では、あなたは旅には出ませんか?

 

このようして、様々な困難に遭遇しながら、喜怒哀楽を味わい尽くし、少しずつ真実に目覚めて行く過程に、「愛のレッスン」があるのです。そして、霊性がいよいよ高まった「魂」は、遂に輪廻転生を止めます。地球学校を卒業して、もといた天国の存在となるのです。それは、「性別」の観点からみれば、中性となったがゆえに、男女いずれかにならなければいけない地上には、もう出て来れなくなった、という意味でもあるのです。

 

さて、いま説明したことを踏まえた上で、改めてLGBTの問題を考えてみましょう。一つの「魂」は、連続している輪廻転生の体験の中で、性差の両方を味わうために、男にも女にも転生します。その時に、ここしばらくは過去世でずっと男、男が続いていたのに、今世になって急に女のドレス(肉体)を纏ったことで大いに戸惑うということが、しばしば起こり得るのです。(もちろん逆パターンもありますし、個別の因果はもっと多種多様です)

 

これは、今回はそうすることが適切と判断して、自分で決めて誕生して来たことではあるのですが、いざ生まれてしまうと、前世までの肉体上の未練がまた復活して来てしまうのです。このメカニズムは、「性別」に限って見ているために、極めて特殊であるかのように思えますが、決して特殊なことではありません。今まであまり(全く?)触れられて来なかったというだけの話です。

 

次の転生で、自分をどのような境遇に置くか、また身体をどのように創造するかは、その「魂」の、それまでのカルマを元にして設計されます。「性別」は、そうしたカルマ上の、たくさんある選択因子の一つなのです。この設計は、地上での体験をし尽くすために、通常はバランスを取るように配慮されます。贅沢に溺れた者は次には最貧者に、他者を虐げた者は次には虐げられる側に、といったようにです。

 

ところが、そうして自ら設計したカルマ解消の機会を、有効に使っている「魂」というのは、それほど多くはないのです。その理由は、無智と、地上世界ならではの我欲に、大多数が捕まってしまうからです。この無智の中には、宗教的ドグマも含まれます。その結果、同じカルマをグルグルと辿り直す「魂」が、大勢出て来てしまうのです。それほど、カルマの解消というものは難しい。放っておけば、大多数の人が、自分のカルマに負けてしまうのです。

 

LGBTの問題に関しては、今は「人権」ということが盛んに言われています。これは、現状では致しかたない面もありますが、そこに留まるのではなく、出来ればその先を行って頂きたいと思います。差別と人権無視ということは、LGBTに限らず、あらゆる分野で起きていることです。人種や、民族や、出自や、貧富や、学歴や、背の高さや、体形や、果ては頭が禿げているか否かといったことまで。

 

LGBTと禿げとを一緒にするなと怒られるかも知れませんが、本人がそこに強い差別感を感じているのであれば、その人にとっての深刻さは同じなのです。問題は、LGBTだからということではなくて、人間というものは、そもそもが、ある決まりごと、定見や価値基準から外れる者を、差別し排斥しようとする性質を、大概の人が持っているということです。本質はそこです。そこにメスを入れなければ、根本は解決しません。

 

なぜ、人が差別意識を持つのか? 一つの答えを言えば、地上の人間たちは、他者を「魂」で見ようとしていないからです。そういう習慣や、そのための訓練が出来ていないのです。およそみんなが、身体に(つまりドレスに)貼りついた属性をもって他者を値踏みする。そこで、美人とかブスとか、デブとか、チビとか、禿げとか、ゲイだとか、いろんなことを言い出すわけです。

 

さて、このような「視点」に対抗する手段は、「人権」しかないのでしょうか? 出発点としては、確かにそれも一つです。しかし「人権」アプローチは、メガネ自体は変わっていないのに、そのメガネで見えたことを言うのはタブーだよ、という社会認識を創造しているに過ぎません。その結果、自由な表現活動にも支障を欠くような、非常に息苦しい状況が生まれています。

 

真の問題は「人権」にあるのではなく、人々がいま掛けているメガネこそが問題なのです。その人が、身体レベルの意識をもって他者を見れば、その人には相手の身体が発する情報しか見えません。でも、心のレベルの意識をもって他者を見れば、その人には、相手の心が見えるのです。さらに一歩進んで、「魂」レベルの意識をもって他者を見るようにすれば、相手の「魂」までが見えるのです。

 

人類は、もうその段階に進むべき時が来ているのに、由々しきことに、心の眼で見ることすらも止めてしまいました。

 

「○○マイノリティ」という言葉を聞いたときに、私がいつも違和感を持つのは、自分たちで「マイノリティ」と言っておきながら、同時に「自分たちを差別しないで欲しい」と主張することの矛盾です。「差別するな」と言うのであれば、「マイノリティ」という言葉は撤廃しなくてはなりません。そもそも、カテゴリー分けというものは(つまり名称を持つものは)、すべてが「区別」の上にあるのです。

 

その「区別」に、優劣のスケールを当てると、それが「差別」になる。この関係を認識することが大切です。言葉は、そもそもが、何かと何かの「区別」したものの組み合わせなのです。犬と猫は違うというように。ですから、「区別」がなければ、会話も文章も成り立ちません。それを知った上で、言葉の上には、容易に「差別」意識が乗っかる危険性が常にあるということを、注意して欲しいのです。ですから、単純な言葉狩りに意味はありません。

 

そうではなくて、あらゆるものの本質は「個性」だということなのです。「区別」を「差別」にするのではなく、「区別」の前には「個性」があるということです。その「個性」が集まって、平均的な妥協点にカテゴリーが出来ている。その意味では、LGBTというカテゴリーも、またそれを細分化したLとGとBとTというカテゴリーも、ただの便宜上のレッテルに過ぎない。

 

重要なのは、Aさん、Bさん、Cさんが、それぞれ、みんな「個性」を持っているということです。そして、この「個性」を尊重する、また敬愛するということが、これからの社会においては非常に大切になっていくし、今後、人類が乗り越えなくてはならない、一つの大きなハードルであるとも言えるのです。

 

人は、例えば「性同一性障害」といったレッテルを、自分にも、そして他者にも貼りたがります。でもそのレッテル貼りに何の意味があるでしょうか? レッテルがあなたなのでしょうか? 宇宙からみれば、「障害」などというものは、何一つだってないのです。すべてが「個性」です。「個性」の集合体が宇宙なのですから。この本質が解ったとき、あなたは真の「愛」に目覚めます。ですから、あなたには、どこまでも「個性」の表現の中に生きて欲しいのです。

 

「人権」などというものは、別のレッテル貼りに過ぎません。そんなもので、またもや自分の身体をグルグル巻きにしますか? よーく考えてみてください。「魂」の世界から見れば、LGBTであるということは、その課題を通して、より中性に近づくチャンスを与えられているということなのですよ。ですから、喜ぶべきことなのです。プラトンだってそれを言っています。

 

どの世界にも無理解はあります。罵倒する人もいます。そんなものは放っておきなさい。無理解な人々は、今その段階を学習中ということなのです。説得しようとしても無駄なエネルギーを使うだけで、本人の気づきを待つしかないのです。それよりも、あなたは、あなたの個性を堂々と表現して生きるのです。そのようにして、自分を解放しなさい。

 

自由に、もっと自由に。もっともっと自由に。

 

(次回につづく)

LGBTとレインボーフラッグ

LGBTというのは、Lesbian, Gay, Bisexual, Transgender の頭文字をとった用語です。10年ほど前からこの言葉が徐々に浸透し始め、今日では、性的マイノリティの代名詞のようにして使われるようになりました。でも私は、このマイノリティという考え方は好きではありません。マイノリティなど、この世にはいないと思っています。あるのは個性だけだと思っておりますから。


さて、このLGBTのシンボルがレインボーカラーなのをご存知ですか? アピール行進の時には、たくさんの人が虹色のフラッグを掲げたり、虹色のTシャツを着ているのを見ます。なぜレインボーフラッグがLGBTのシンボルになっているかと言いますと「いろんな色があるよ」ということで、個性というものを強調しているのです。そしてこれは、「虹の学校」の理念と全く一緒なのですね。

 

ご存知のように、虹色は、白色光がプリズム効果によって波長の長短別に色分解された際に得られます。雨後の空に虹の架け橋が見られるのは、空気中の水滴内に光が入り、その反射光が波長の屈折率の違いによって虹色に姿を表すのです。「虹の学校」という名は、分解されたこの様々な色が集まることによって、元の白色光に還る、という意味合いを持っています。その「光への道」を歩む学習を、互いの個性を補い合いながら、共にここでして行こうというわけです。

 

LGBTの方たちは、これまで、何かと肩身の狭い思いを経験されて来たことと思います。けれども、「虹の学校」はみなさんを歓迎します。それは、理念が同じということもありますが、それだけではありません。今日は、「愛」のかたちの多様性ということに関して、一般にはあまり言われていない、霊的世界からの話、「魂」の世界からの話をすることにいたしましょう。

 

先ず最初に申し上げたいのは、相手を傷つけたりすることでない限り、どんな性的な愛し方も、あり方も自由だということです。あなたには、恋愛に関して、宇宙から自由意志が与えられています。ところが、この点をめぐって、最も強いタブー的視線を投げ掛けるのが、他ならぬ「神」を扱っている筈の宗教なのです。しかしそれらは、歪んだ宗教的なドグマに過ぎません。この一点を見ただけでも、宗教というものが、いかに人間を抑圧して来たかが分かります。

 

また、LGBTに関連づけて、男女が結婚しないと子どもが生まれないとか、このまま少子化が続けば国力が衰退するといったことを言う人もいるのですが、人間は、子ども製造マシンではありません。また、労働ロボットでもありません。しかもこれらの発言は、その立場にいる人たちによるご都合主義なのです。子どもが生まれないのは、希望のない社会だからですし、地球環境と、人類にとっての大問題の一つは、以前から言われて来たように人口爆発です。

 

いま上げた二つの問題視視点は、どちらもLGBTというものを表面的にしか捉えていません。しかし、奥にはもっと普遍的な課題があるのです。その課題が解れば、LGBTというものが、単に個性に過ぎないということが解ります。そして、もっと奥には、すべての人間に共通した「愛」の学習という大テーマがあるということも解って行くでしょう。

 

次に言うことは、LGBTを嫌悪する人たちにとっては、トンデモ話に聞こえるかも知れません。しかし、これが人間の本質なのです。人間とは、輪廻転生するものなのです。その人の本体は、あくまで「霊魂」にあり、肉体は、転生のたびに着替えるドレスのようなものです。このドレスは、次にどの両親を選ぶか、どういう境涯を選ぶかを含めて、中間生(霊界)にある間に、前世のカルマを考慮した上で、指導霊と相談しながら、自分で決めて誕生して来るのです。

 

ですから、その中にはジェンダー(性別)の選択も含まれています。霊的な完成とは、男性性も女性性も充分に体験し尽くした先にあるのです。そうすることによって、両方の性が解り、一つの「霊魂」のバランス、中庸が図られて行くのです。ですから、過去世の体験から、どんな男性にも女性っぽい面はありますし、どんな女性にも男性っぽい面があります。そして、今世で選んだ性別については、普通は、しぶしぶであっても受け入れて行くのです。

 

ところが、こういう場合はどうでしょう。ずーっと男、男、男で生きて来て、今度こそは女性も経験しなくちゃなと、一大決心して生まれて来たものの、いざ生まれてみると、どうもドレス(身体)の感じがしっくり来ない。あるいは、その逆パターン。こんな場合には、その人は自分のジェンダーに強い違和感を持つかも知れません。また、前世でもレズビアンやゲイだった人の中には、今世でもそれを継続したいと思う人がいるかも知れません。

 

いずれにしても、そこには過去世から引き継いだ原因があるのであり、LGBTの方たちは、そこを掘り下げて考えてみることが大切です。必ず、今世での大切な学びがあるはずです。ただしその時、今のご自分を否定なさらないでください。いろんな道があるのです。最後の最後は、どんな「霊魂」も中庸に行き着くのです。だとすれば、最初から真ん中付近を行く道があってもよいわけですね。

 

LGBTの方たちの中には、芸術面や美的センスにおいて、特異な才能を発揮される方が多くいらっしゃいます。これはなぜかと言いますと、普通の人よりも、それだけ宇宙的感覚が解るということなのです。地上的な男女別を超えているので、宇宙感覚(全部は一つ)により近いのです。だから、芸術的センスがあるのです。もしかしたら、それを伝えるのが、その人の使命なのかも知れません。

 

さて次に、人間としての普遍的な課題です。ノン気(ストレート)の人たちは、LGBTの人たちを見る際には、どうしても性愛の面ばかりに注目してしまいがちです。そして、違和感を持たれるでしょう。しかし、ノーマルと言われている人も、身体的な愛情表現のみを「愛」と言っているわけではないことに気づいていただきたいのです。つまり、その先にあるものは、LGBTの人たちもそうでない人たちも、何ら変わりがないのです。

 

「愛」にも、大きく三段階があるのです。性愛、情愛、そして真の愛です。これは、人間というものが、霊・魂・体の三層で成り立っている多次元的な存在であることから、それぞれに対応した「愛」のかたちというものがあるのです。

 

図を見てください。肉体的な愛が「性愛」、魂的な愛が「情愛」、そして霊的な愛が「(真の)愛」です。以前にも書きましたが、古代ギリシャではこれを明確に区別していて、それぞれエロス、フィリア、アガペーと名づけていました。

 

(図の補足説明:地上世界(3次元)では、人間は霊・魂・体を同時に有する多次元的存在として生きている。しかし、霊・魂を意識していない人は、体を持つ自分のみが自分だと思い込んでしまっている。けれども、魂の意識や、霊性が向上していけば、地上にあっても、その人は、霊・魂・体それぞれに応じた「愛」の認識に至れるのである。)

 

若い男女が出会って結婚したとしましょう。最初は「性愛」に大いに興味があって、この経験を重ねて行くでしょう。そのうちに子どもが生まれて家族が出来ると、今度は「情愛」がしだいに深まって行くでしょう。そしてもっと歳を取って、子どもが独立してしまうと、しだいに博愛的なものが芽生えて来て、遂には自然の何にでも愛おしさを感じるという「真の愛」の心境にまで達するでしょう。

 

もちろん、そうならない人もいます。というか、残念なことに、そうならないで一生を終わる人の方が圧倒的に多いです。だからこそ、そこに「愛」の学習が隠されているのですね。最初は、「性愛」の関係だけだったかも知れないけれども、しだいに「情愛」が芽生え、遂にはそこから「情」が取れて「愛」だけになる。「真愛」という言い方はあまりしませんが、これがさらに進むと、「真愛」が「神愛」と合体してしまうのです。これが「愛」の最終ゴールです。

 

ということで、フィリアからアガペー段階への「愛」の学習については、ストレートの人も、LGBTの人たちも、何ら変わりがないわけです。ただちょっと違うのは、最初のエロス段階だけ。霊的世界から見れば、地上でしか経験できないエロス体験も十分にした上で、さらにフィリア、アガペーへと昇華して行くことが最も重要なことなのです。何度も言うように、あの世に持って行くのは、また持って行かされるのは、その人がした経験に伴う心情と理解だけなのですから。

 

みなさん方は、学校で、アリストテレスやプラトンやピュタゴラスらの古代ギリシャの賢人たちを「哲学者」と習われたと思います。ですが、これは誤りです。彼ら賢人たちは哲学者ではなく、あの時代の「メッセンジャー」でした。賢人たちは、秘教学校を作って、「宇宙の真理」を弟子たちに教えていたのです。けれども、後の時代になって、その奥義を理解できない人たちが、「ギリシャ哲学」の名称で括ってしまったのです。

 

ですから、そこで説かれていたことは、現代に合わない、古臭い、カビの生えた理論なのではなく、時を超えた、宇宙の普遍的真理であることを知っていただきたいと思います。「性愛」を伴わない精神的な恋愛を「プラトニック・ラブ」と言っていますが、これも誤解です。「Platonic love」とは、「プラトン的愛」という意味。つまりは、エロス(体)、フィリア(魂)、アガペー(霊)へと昇華して行く「愛」のことです。これを、プラトンが正しく説いたのです。

 

さて、これまで言ったことが解れば、LGBTの方たちを指して、宗教的倫理に照らしてどうとか、人口減少がどうとかといった問題視発言を行うことが、まったくうわべしか見ていないということが解ったでしょう。誰かが誰かを裁く、などということがあってはなりません。神は誰も裁きません。全員に、等しく、自由意志が与えられているのです。その自由意志を、どう使うかはあなたしだい。

 

多様な「愛」のかたちがあることを先ず認めて、そして、ご自分の「愛」の機会を通じて、各人が各様のエロス、フィリア、アガペーを経験、学習して行けば良いのです。その先に、虹色の個性が集まって、白色光となって輝く、全き「愛」の理想世界があることを信じ、思い描いて、どの人も、今日一日を元気よく生きていただけたらなと願っています。

結婚とはチームワーク

未婚や独身の人が増えています。私の周囲にも大勢いるし、私も独身です。(ついでに言っておきますと、ただいま変人募集中。ただし当方、財産、収入ともに殆ど無しです。あ、間違えた。変人ではなくて恋人です。女性の、)

 

未婚や独身者が増えているというのも、地球に現れた「変化の一つ」で、それにはやはり理由があります。しかし私は、そういう「変化」を問題だとは思っていません。「変化」は必ず起きるものです。けれどもこれを問題視する人がいるんですねぇ。政府も「少子化対策」と言っていて、まったく実効が上がらないのに、そういう大臣ポストをずーっと設けています。

 

問題視するワケは、年金システムが成り立たなくなるとか、高齢者福祉のための財源確保ができないとか、経済が縮小するとか、過疎地が増えるとか、活力が失われるといったことで、その反対側であり続けることを、「よいこと」と考える人たちにとっては、それが即「問題」だということになってしまうわけですね。

 

でも、宇宙の悠久を考えれば、そんなものは一瞬の「変化」に過ぎません。人類の歴史を見たって、滅亡した都市や文明や島はたくさんあるでしょう。ですから「変化」に抵抗したってムダなんです。それよりも、理由を見なくちゃいけない。「変化」というものは、みんな何かの「理由」の結果なんです。ですから「理由」を変えれば、自ずと「変化」の方向も変わって行きます。

 

政府の「少子化対策」に実効性がないのは、この「理由」を、すべて物理的なものに還元してしまおうとするからです。確かに、収入の減少は「結婚できないこと」の大きな要因になっています。しかし、「結婚できないこと」と「結婚しないこと」は別です。「結婚しないこと」の理由は、多分に心理的なもので、政府はその領域までは入り込めない。そこを全く解っていないと思います。

 

結婚しないこと、また子どもを生まないこと(両者は一体ではありませんが)の理由は、それで果たして「幸福」になれるのかという疑問が、適齢期にある人に浸透しているためなのです。一昔前なら、「結婚は女の幸せ」とか「子宝に恵まれる」といった言葉が、なんの疑問もなく語られていました。でも今は、果たしてそうなの?という疑問を、多くの人が持つようになったのです。

 

もう無条件に、「結婚は女の幸せ」とか「子は宝」とは言えない。つまりそれは、条件付きになってしまったのです。「条件付き賛成派」が多くなってしまったのです。自分の親や、周囲の友だちや、自身が育って来た家族体験などを考えると、「幸福」とはとても思えないような人がいっぱいいる。だから、もはや結婚や家庭を築くことに対して、無条件での「幸福」イメージなどは持てないのです。

 

これは、何事をするにしても、バーター取引や、損得をいちばんに考えるという風潮が蔓延してしまったということが一つ。その一方で、結婚して幸せを手に入れたい、ずっと一緒に居たいと思えるような人と結婚したい、というバーチャルな願望だけが肥大してしまい、(結婚後の)生活のリアリティが描けない中で、願望と失望とのギャップが大きくなっているのです。

 

そこに、現代の「婚活産業」というものが成立する条件が生まれて来ます。今の「婚活産業」は、お互いの希望条件のマッチングというものをコンピュータを使って行います。つまり、相手の値踏みを、コンピュータの助けを借りてやるわけです。こんな風にして、結婚することで「幸福」を「手に入れる」という発想が非常に強くなって来ていると思います。

 

だから、結婚しない人が増えているのです。リスク要因を考え始めたら、必ず一つや二つは上がりますから。でも60年、70年前には、写真だけを見て結婚したという人も大勢いました。それでも仲のいい夫婦がいっぱい誕生した。今は、情報がはるかに豊富になって、審査も厳しくなっているのに、離婚率は3組に1組にまで上昇している。これは一体どういうことなのか?

 

昔とは何が違うのかと言いますと、昔の結婚は「共に協力して家庭を築く」ということが、暗黙のうちに、目的としてあったのです。つまり結婚は、チームを作ることだったのです。ですから、結婚式はオマケのようなものに過ぎず簡素なものでした。ところが今は、タレントと見紛うばかりのド派手な演出の式を挙げて、それで生活をし始めると「こんな筈じゃなかった」と言ってあっさり離婚してしまう。

 

何か勘違いしていませんか?と言ってあげたいです。結婚とはチームワークなんです。一緒に「生活」を創っていく行為なのです。ですから欧米では、一緒に「生活」していける相手かどうかを見極めるために、結婚前にいわばインターンシップ期間を前提としている国も多い。早い話が、同棲ですな。私は、これは非常に合理的な考えだと思います。

 

加えて、「魂」的に言えば、結婚生活というものは一つの学習機会なんです。家族や家庭もそうです。そういうクラスに入ることで、そこでしか体験できないこと(主として「愛」というもの)を学習する。ですから、そういう学習が今世において必要だと直感した人は、そこに飛び込まないと、その学習機会を失って、また来世に持ち越しとなってしまいます。

 

それは「生活」ですから、世間的に言う良いことも悪いことも起こります。様々な困難や軋轢にも遭遇します。でもそういうものを全部ひっくるめて「魂」の学習機会になっているのだということを、知っておいて欲しいのです。そうしたら、生活はかつかつで苦しいが、赤ん坊の寝顔に無上の喜びを感じた、などという至福体験を味わうことだってあるかも知れない。

 

結局、そういうものが「魂」の成長ということであって、これは、政府も婚活産業もハンドリング出来ないものなのです。ですから、ご自分の内なる声に従って、結婚したいと思う人はすればいいし、そう思わない人はしなくたっていい。要は、今世の自分の学習課題は何かを思い出せということです。そして思い出したら、つべこべ言わずに、それを存分に味わえということです。

Q.「無償の愛」の人になるには?

Q.私には「無償の愛」の人になるためにはどうすればよいのか、どこまでがそれなのかよく理解できません。子どもや家族への愛、職場の部下との関わり方など、見返りを求めないことは、すべて面倒を見てやるということなのでしょうか。どのように考えれば「無償の愛」の人になれるのでしょうか。

 

A.これはもう核心を突く質問で、これが解れば、人類はもうちょっとマシな道を歩んで来ただろうと思います。過去2600年くらいは宗教の時代でしたが、宗教ですらこれを間違って捉えて来ました。いや、故意に歪めて大衆に伝えて来たのです。

 

この問いに対する答えの大部分は、すでに過去の記事の中で書いています。けれどもバラバラに散ってしまっているので、全体像が見えにくいことは否めません。そこで改めて、この問いに答えてみたいと思います。

 

先ず「愛」ということなのですが、この「愛」にもいくつかの段階があります。人間がふだん「愛」と言う場合には、それは「情愛(愛情)」を指している場合が多いのです。そして「愛情」が深いことは、人間社会では、通常よいこととされています。

 

動物はみな、習わなくても生殖をし、自然と子育てをします。それは本能に基づくからなのですが、人間だけは「感情」をつねに働かせて生きていますので、ここに「感情」を絡めます。その結果、本能を超えた「愛情」という意識が生まれてゆくのです。これには功罪があります。

 

「感情」は人間を成長させるための一つのツールですから、人間に「愛情」があること自体は、「愛」の学習にとっては必要な段階なのだと言えます。しかし「情愛」深きことは、しばしばネガティブに作用してしまう場合もあるのです。本人がその感情を「愛情」だと思っていても、実は「支配」の変形であることに気づかないケースが多いのです。

 

多くの動物では、子育て期を終えると、子は後腐れなく巣立って行ってしまいます。しかし人間の親子関係は、その後も長く続きます。また子育て期に、「あなたの為を思って」と言って、子どもをコントロールしようとする親も多いです。恋人関係や夫婦関係においても、見返りを要求する「愛情」行為が頻繁に見られます。

 

このように、人間が普通「愛」という場合には、殆どが「情愛」絡みの感情を「愛」と捉えているのです。そこで組織宗教は、これを神との関係にも当てはめ、神の「愛」を語ったのです。しかしここでハッキリ言っておきますが、神の「愛」は、通常の人間の「愛(情愛)」とはレベルの違うものです。

 

そこに行き着く段階の中に「無償の愛」がある。しかし本来ならば、この言い方はおかしいわけですね。なぜなら「愛」は「愛」だからです。それをわざわざ「無償の愛」と言っているのは、人間が語る「愛」が、あまりにも「有償」だらけ、バーター取引のようになっているために、それに先ず気づいていただく必要があり、「無償」を強調しているのです。

 

さて、「愛」の段階とは何か? これには大きく言って三段階があります。「情愛」→「博愛」→「神の愛」です。他にもいろんな言い方がありますが、意味しているところは、みなこの三段階です。古代ギリシャでは、これを、エロス(ερως, eros)、フィリア(φιλια, philia)、アガペー(αγαπη, agapee)と言って、区別していました。

 

ご質問の「無償の愛」の人になるとは、先ず「博愛」の人を目指すということになります。もちろん「神の愛」も「無償の愛」なのですが、先ほども書きましたように、そのレベルに至れば、わざわざ「無償の愛」と断ることもない。「愛」は「愛」で、Universal Love(宇宙愛)に行き着いているわけです。

 

ではどうしたら「無償の愛」の人になれるのか、「博愛」の人になれるのか、という問いかけです。ここでじっくり考えてみてください。なぜ、多くの人間が「情愛」レベルに留まっているのでしょうか? そこには、先ほど書いたように「支配」の錯覚もあるのですが、根本的な問題は「情」が捨てられない、また捨てようとしないからです。

 

わが子が可愛い。これは親としては当たり前です。しかし「情」が強く入りますと、わが子以外はそれほど可愛くない、となってしまいます。しかし、もし「情」を捨てれば、子どもはみな可愛いとなり、その人は「博愛」の人に近づくのです。この理屈が分かりますか?

 

「情愛」から「情」を取れば、文字通り「愛」だけになるのですよ。

言われてみれば簡単なこと。

でも人間には、これがなかなか出来ないんですねぇ。

 

どうしてでしょうか? 人間社会では、「愛情」深きことが、よいこととして推奨されているからです。ですから、「博愛」の人は、しばしば激しい非難の的となります。一般の人には、「博愛」が理解できないのです。「博愛」の人は「情」のない人、「薄情」の人に見える。一般の人というのは、エゴの裏返しで「私だけを愛して欲しい」のです。

 

ですから、「博愛」の人となるためには、こうした非難覚悟で「薄情」の人とならなければならない。「博愛」と「薄情」とは、ちょうどトレードオフの関係になっているんですね。でも、それでもなお、あなたは「博愛」の人を目指すべきだ。それが道なのだから。

 

「博愛」は、何も困難ばかりではありません。「博愛」の人には「博愛」の人にしか解らない幸福感がある。これこそ光。至福への道。

 

「無償の愛」という言葉から、「見返りを求めない」という部分に、どうしてもひっかかりが出てくることは否めません。私も誤解を与えたかも知れません。しかし今ご説明したように、そこがポイントなのではないのです。「情」を捨てれば、自動的に「見返り」などは求めなくなっている。だからこそ「博愛」の人なのです。

 

しかしこれも、「愛情」を信じている人からは、誤解や反発を生むかも知れませんね。「情」を捨てるというよりも、「情」を超えると言った方がいいでしょうか?

 

ですから、「すべて面倒を見てやる」ことが、「博愛」ではないということは明白です。もし逆の立場だったら、あなたはひとから「すべて面倒を見て貰いたい」でしょうか? それが、あなたという個性を活かす道へと通じることなのでしょうか?

 

あなたがもし誰かを援助したいと思ったら、相手の状態をよく見極めて、適切に判断することが必要です。心に深い傷を負った人には、先ず寄り添って癒してあげることが必要でしょう。けれども、自分の足で歩み始めた人にまで過干渉してしまったら、自立の道を絶ってしまいかねません。

 

どうしたらいいかに迷った時には、お手本を見習えばよいのです。これ以上ない、最高のお手本‥‥。それは「神の愛」です。

 

「神」は、手取り足取り何かしてくれたでしょうか? 「神」は、ああしろこうしろと、あなたに迫ったでしょうか? 「神」は、これが出来ないとお前を罰するぞ、と脅したでしょうか? 「神」は、私がこうしてやるからその分お前はこう返せ、と迫ったでしょうか?

 

何も言わない。ただ、あなたに限りない自由を与えて、静かに自立を見守っているだけだ。それは、この上なく「薄情」だとは言えないでしょうか? でも全部を掌握している。なぜなら、「神」は創造された全部であり、かつ創造者自身でもあるからです。この「愛」。「愛」しかない「愛」。これが「神の愛」。

 

困っている人を前にして、あなたが全部を見てあげようと思い詰めなくても、あなたに専任の守護霊が居て、背後には「神」の存在があるのと同じように、相手にも守護霊が居て、背後には「神」の存在があるのです。すべては一つ。その人には、その人の学びがあり、その人は、その学びの瞬間を、いま生きているのです。

 

ですから、大いなる安心の上に立って、相手の状態をよく見極めて、あなたがいま出来ることを、した方がよいと思われることを、相手が喜び、そしてあなたも喜びながら行えば、それで充分なのです。そして、その一歩々々が、「博愛」への道へと通じているのです。

 

●参考

Universal Love

エロスの愛について

仏教が「愛」を説かない理由

「我」という意識の進化

博愛の人は、薄情な人のように見える

「博愛」を Wikipedia で引くと、《「博(ひろ)く愛すること」の意であり、「平等愛」のこと》と出ています。しかしこれは、私に言わせると、ちょっと違うんですね。「博く愛する」はその通りですが、「平等愛」というのは、結果としてそうなるということです。「平等愛」を目指して「博愛」を実現しようと思っても、それは無理というもので、下手をすれば偽善に流れてしまいます。

 

そうではなくて、「博愛」の前には、「無条件の愛」が無ければならないのです。「無条件の愛」であるからこそ、それは自然と「博く愛する」ことになり、結果として「平等愛」になるわけです。

 

ところが、一般に「愛」と言った場合には、それは「情愛」のことを差しています。「私だけを愛して欲しい」「あなただけを愛する」という具合に、それは限定的で、しかも「条件付き愛」(私がこうして上げるから、あなたはこう返してくれ)である場合が、大半なのです。

 

これは悪いことではありません。動物を見ても、親子愛、家族愛というのは、そこから出発しています。ペンギンやアホウドリなど、群れを作って繁殖する鳥がいますが、あれほど大きなコロニーを作っていても、餌を取りに行った親鳥は、ちゃんと我が子を見つけます。人間から見たら、全部同じに見えてしまうのに、凄い能力です。

 

ですから「情愛」というのは、繁殖と生き残りのためには必要なものです。けれども、この「情愛」を拡大していって、周囲の人々を平等に愛せば「博愛」になるかというと、それは無理なんです。「情愛」というのは、そもそも限定的なものですから、これを拡大して「博愛」を目指そうとすると、矛盾から葛藤が生じてしまいます。結果として、それは偽善的になる。

 

ですから、「博愛」の人となるためには、いつも言っているようにジャンプが必要になるのです。「無条件の愛」の人に、変身しなければならないのです。ある意味、それは「情愛」を捨てて行くということでもあります。

 

楽しみにしていた韓国ドラマの『ホジュン』が終わってしまい、ちと寂しいのですが、この『ホジュン』は、イ・ビョンフン監督の作品の中でも最高のものだと思います。だからこそ、その後2回もリメイクされているのでしょう。

 

『ホジュン』では、他のイ・ビョンフン作品にはある復讐譚といった要素がなく、徹底した「博愛」と、それに対する「迫害」というものが描かれています。連続ドラマを引っ張って行く主軸を、復讐劇ではなくて、「博愛」と「迫害」という対比に据えているんですね。そこが、『チャングムの誓い』『トンイ』『イサン』『馬医』『商道』などとは違う。

 

『ホジュン』の主人公であるホ・ジュンと、その医術の師であるユ・ウィテは、共に医療を通じて「博愛」を目指しているのですが、これが周囲の人たちからは殆ど理解されません。ユ・ウィテは妻や息子からは薄情な親と思われて軽蔑され、ホ・ジュンもまた、息子からは家族のことを考えない薄情な親と思われ、非難されています。

 

宮廷の両班たちは、ホ・ジュンの才能の妬み、「博愛」が理解できずに、「裏に何か策略があるのではないか」と邪推して、ホ・ジュンを引き摺り落とそうとしたり、逆に利用しようとしたりします。ホ・ジュンの評判を聞いて押し寄せる患者たちに至っては、ただ己の病気を治して貰いたいだけで、「治せなければ罪を償って貰うぞ」と脅す始末です。

 

これらの「分からず屋」の迫害にひたすら耐えながら、ホ・ジュンは「博愛」の人であり続けようとするんですね。ここに、迫害・弾圧というものが起きる典型的な要因が示されています。要は、人は自分の眼鏡でしかものを見られない、ということです。

 

ジャンプしていない者にジャンプした者は理解できない。まさに「準備ができた者だけに、それは与えられる」と言われる通りです。普通の人には、「博愛」と「偽善」の区別すらつきません。むしろ「偽善」の方が、ストレートで解りやすい分、好まれるのです。

 

ですから、「博愛」の人というのは、「分からず屋」さんたちから見れば「薄情」に見えます。〈自分だけを愛して〉はくれないからです。もっとすると「無情」にすら思える。そこで、蔑み、小馬鹿にし、罵声を浴びせる。「博愛」であり続けようとする人は、それでもなお、そういう人たちにも「無条件の愛」を降り注いでいかなければならないのです。

 

でもね、「神」の愛というものを考えてみてくださいよ。それが、〈あなただけ〉を愛するものなのでしょうか?

 

あなたには、これまで生きて来て、「神も仏もあるものか!」と思った瞬間が、一度ならずなかったでしょうか? 一生懸命お頼みしたのに、呼びかけにちっとも応えてくれないじゃないか。なんて「薄情」なんだ。「無情」な奴なんだ。どうして苦しみばかり自分に与えるんだ。神様のバカヤロウ!

 

そう、罵声を浴びせたことがなかったでしょうか? 同じじゃありませんか。それが「博愛」、つまり「無条件の愛」の発露ということなんですよ。

草食化
ある調査によると、今の大学生の中で Steady(決まった交際相手)のいる割合は、男性でも1割、女性ではわずか3パーセントに留まるのだそうです。この数値は、10年前と比べて3分の1ということで、昨今「草食化」していると言われるのにも無理はないなと納得させられました。

背景にあるのは、どうも「怖さ」のようです。言葉は悪いですが、「がっつく」気持ちよりも「怖さ」の方が勝ってしまっているということですね。それだけ、動物としての本能が弱まっているということでしょう。

そして、一時は下火だった「三高(高学歴、高収入、高身長)」のような、ふるい落としのための条件付けがまた復活しているというのです。ただし経済不況を反映してか「三平(平均的年収、平凡な外見、平穏な性格)」とか、「4低(低姿勢、低依存、低リスク、低燃費)」といったショボンとしたものに、条件が変わっているということなのですが‥‥。

いずれにしろスペック重視になっていて、そのスペックを満たしている相手でなければ、怖くて怖くて、とてもじゃないが恋愛も結婚もできないということらしいです。こういう傾向は随分前から見られてはいたのですが、最近はより顕著になっている。その理由は、同性の仲間内で「えっ、あいつとあいつが? ありえねぇー」などと、簡単に断じられてしまうからなのだそうです。それが怖い。

そうなると、そのグループ内での承認が得られる相手とでなければ付き合えないということになってしまい、ますます異性との接触の可能性は低くなっていく。そして代わりに、スペックがますます重要視されていくわけです。このスパイラルがグルグルと回って、それが先に上げたような数字の激減となって表れている、ということのようです。

そうなる理由というのもよく解ります。雇用が不安定になって、10年先、20年先の将来設計など、今は全く描けない。そうなれば、できるだけリスクテイクを避けて安定を選ぼうとするのは人の常です。しかしそこで、むしろそういう時代だからこそ、「幸福とは何か」ということを、原点に帰って考える必要があると思うのです。

すでにこうなってしまった世の中を、すぐに変えることは出来ませんが、自分の意識を変えることはすぐにでも出来ます。前にも何度か書きましたが、「幸福」というものは、その時の「心」の状態をいうのです。ある条件が満たされれば「幸福」ということではなくて、いついかなる時でも「幸福感」を抱きさえすれば、それがすなわち「幸福」なのです。

問題は、大多数の人々が、「幸福」というものと、そのために必要な「条件」とを結びつけて考えているところにあります。長年そのように教育されて来たし、周囲を見て育っているし、あらゆる広告がそのようなメッセージを毎日送り続けて来ている。「三高」「三平」といった条件も、婚活産業というところが、そういうキーワードを作っているわけです。

ですから、ジャンプが必要だと、繰り返し言っているのです。こういう一切合切の構造やシステムから自由になるためには、それらを無視するしかない。ここまで歪んだ社会になってしまっては、通常の範囲内で「幸福」を求めようとしても、格差社会の現実に打ちひしがれるだけです。ですから原点に帰って、「幸福」というものを見つめ直す必要があるのです。

「がっつく」のがなぜいけないのでしょうか? がっついたっていいじゃありませんか。他の動物を見てください。恋の季節にはみんながっついて、オス同士が喧嘩までしてるじゃありませんか。それが動物として、人間として、自然なことだとは思いませんか? なぜスペックなどにこだわるのでしょうか? ピン!と来た相手と、どんどん「がっつく」恋愛をすればいいじゃありませんか。

「魂」の世界では、体験がすべてなのです。体験しないことには、なにしろ成長は図れないのです。結果など問題ではなく、体験にこそ意義があるのです。この世にせっかく生まれて来たことを、ムダにしないようにしてくださいね。それに「魂」の世界では、「ピン!」と来ることには深〜い意味があるのですよ。そのチャンスもムダにしないように。

スペックよりもピン!を重視して。さあ、どんどんがっつけ! 男も女も。
結婚、出産は女の幸せ?
年ごろになって、「いつ結婚するんだ」「子どもはまだか」と、周囲から何かと責められてウンザリしている人も多いことでしょう。特に女性に対しては、出産年齢に限りがあるため、この圧力が非常に強い。何より政府が無責任にそれをほざいています。子育てが困難な社会状況を、自分たちで作っておきながらねぇ。

でもどうして、こういう紋切り型の圧力言葉が横行するのでしょうか? 適齢期の人が親から責められるのは、それぞれの「家」の事情や、DNAを継続させたいという本能的欲望もあるのかも知れません。しかし一番の理由は、その人が「両親」から生まれたということにあると思います。

えっ、意味が解らないですって? その人が、いまこの世に存在しているということは、両親がいて、結婚して、Sex したからです。ですから親は、そういう経験を経て来た自分を、潜在意識下で肯定したいし、それが最も自然だと思い込んでいるのです。そこであまり深く考えずに、冒頭のような発言になるのです。

けれども、「結婚、出産は女の幸せ」という単純な思いの中には、次元を異にした複数の問題が、一緒くたにして放り込まれています。そのことに当の発言者たちは気づいていません。それに人間は、他の動物とは違って、社会システムを随時変革しながら生きているので、この変革の影響を非常に強く受けます。

先ず「結婚」ということですが、これは単なる制度に過ぎません。そのため、国や民族によって、また時代によって、定義が異なります。日本で今「結婚」と言ったとき、それは何を意味するのでしょうか?

生活の実体があろうがなかろうが、書類を役所に提出すれば「結婚」と認められるのでしょうか? それとも結婚式を挙げれば「結婚」なのでしょうか? あるいは初夜を迎えた時なのでしょうか? では同棲しているカップルは「結婚」したことにはならないのでしょうか? 同性のカップルは「結婚」とは言えないのでしょうか?

動物には「結婚」はありません。動物番組を観ていると、繁殖のためにカップルが出来たとき、それを「結婚」と言ったりしていますが、それは人間のアナロジーを動物に当てはめて言っているだけです。動物は本能に生きていて、繁殖のためにつがいを作るだけです。

人間にも、繁殖して子孫を残すという動物的側面は確かにあります。しかし人間は社会の影響を強く受けるので、自ら変革する社会システムによって、この繁殖行動は大きく変化させられて来ました。特にこの半世紀の変化は凄まじく、一世代違えば、考え方も感覚も行動も大きく異なり、親の結婚観を子に押し付けることなど、もはや不可能です。

ですから、「結婚、出産は女の幸せ」などと、もう単純に言える状況下にはありません。さてそこで、もう一つの問題が絡んで来ます。それは「幸福感」と「幸福観」です。一般論として、「結婚、出産」は本能的な「幸福感」を女性にもたらしてくれるかも知れませんが、人間は同時に社会的な生き物ですから、「幸福観」というものが各人に育っています。

この「幸福感」「幸福観」というものは、大脳が感じているものであって、大脳を発達させてきた人間は、単なる本能を超えた感情を持つのです。ですからそこには、育って来た環境や、教育や、社会システムが何重にも影響を与えていて、個人それぞれの「幸福感」「幸福観」を形成しているのです。そのことを、先ず認めてあげなければなりません。

ここでいったん整理しますと、人間というものは、他の動物と同じように繁殖行動の本能を有してはいるけれども、それが(近年特に)弱まっており、代わりに大脳が発達して、本能に勝る「幸福感」「幸福観」を個人個人が抱くようになった。ですから一括りにすることはもはや出来ず、個々人の考え方を、先ずは認めてあげなくてならないということです。

政府が「希望出生率1.8」などと言うのは、出産というものを、マクロな観点から、単純に「国力」に結びつけて考えているわけで、私などはそういう発想があることにびっくりです。社会環境の変化と、個人の「幸福感」「幸福観」の変化を最初から無視して語っているわけですから、まったくお話になりません。

ではここで、「結婚、出産」問題を、「魂」の観点から見たらどうなるかをお話しましょう。政府がどんなに熱烈に「希望」をしようが、社会変化は止められないのですから、いま置かれた状況の意味をもっと大きく捉えるためには、やはり「魂」の観点から見なければならないということです。

先ず「魂」は、輪廻転生するということを思い起こしてください。「魂」は、性別や立場を替えて、何度も輪廻転生を重ねながら、様々な感情体験を経ることによって成長して行きます。ですから今世、結婚・出産を経験しないからといって、誰からも責められる理由はないし、本来的にそれはあなたの自由なのです。

過去世ですでに充分経験して来たかもしれませんし、来世に経験することにして、今世では違う人生経験を「魂」が希求したのかも知れません。子どもが大好きなのに赤ちゃんが出来ないという人は、もっと博愛的な愛の学習機会が用意されているのかも知れません。このようにして、「魂」の学習経験は人それぞれですし、一概に何かを断じることはできないのです。

また「幸福感」「幸福観」というものも、(まさにそれが学習テーマなのですが)何を選ぶかは、あなたの完全な自由なのです。その自由意志の行使の仕方が、今世におけるあなたという人間を最終的に創り上げます。ですから重要なのは、何がいいとか悪いとかではなくて、いつも自分が意識的に行動することなのです。社会通念や親の期待などは無視して構わないのです。

さて、マクロで見た場合、人口動態の変化には、やはりそれなりの意味というものがあります。目の前の「結果」というものは、すべて背後にある意志の繁栄ですから、社会全体の結果には、集合した意識が関係しています。日本を含めて先進国で出生数が低下しているのは、やはりそれなりの意味があるということです。

それが何であるかは、各人で考えていただきたいと思いますが、国力だけの観点から「希望出生率1.8」などと言っても、どうにもならないということだけは申し述べておきます。それよりも、少子高齢化を悪いことだとは思わないでください。そこにも意味があるのです。それを感じ取って、少子高齢化の中で素晴らしい社会を創るために、自分が出来ることをなさって行ってください。
不倫? どんどんやれ!
セミナーが終わって懇親会をしている最中、「そういえば、ジカ熱って今どうなったの?」と訊いてみました。すると「不倫に変わった」という答えが返って来ました。今は不倫につぐ不倫で、「不倫の連鎖」なんだそうです。そうなんですか? だとすれば、パンデミックの恐怖を煽ることと不倫とは、テレビ局にとって同レベルのネタなんですね。

「不倫ってそんなに悪いことなんですか? 不倫も文化ですから」と、かつて石田純一さんが語ったとされているのですが、私はその発言に、全面的に賛同します。

動物を見てください。動物たちは「不倫」でギャーギャー騒いでいるのでしょうか? 騒いでいるのは人間だけです。「倫理」に反するから「不倫」だという。しかしその「倫理」は、民族や宗教や価値観によってみんな違うじゃありませんか。そんなものが人類にとって普遍的な、守らなければいけない掟だとでもいうのでしょうか? 馬鹿げています。

飽きの虫、リンリリンリと やかましい

なぜもっと本質を見ようとしないのでしょうか? 「不倫」だって、「愛」の学習じゃありませんか。くっ付いたり離れたり、傷ついたり傷つけたり、反省したり無償の愛に目覚めたり、そうやって成長していくんじゃありませんか。それをなぜ、咎め立てしようとするんでしょうかねぇ?

私は、そんなことで騒ぐのは、みんな「羨ましい」からだと思います。私はすごーーーーく「羨ましい」です。(長音をあと10個くらい追加しても可)
「羨ましい」んだったら、「羨ましい」と言って、自分に出来ないことが出来る人を、賞賛すればいいじゃありませんか。

賞賛しないから、自分の中に壁を作って、モテない人間になってしまって、モテる人を見ると嫉妬に狂って、自分がますます魅力を失うんじゃありませんか?
Make Love にタブーなんかありませんよ。動物を見習え!ですよ。

還暦過ぎた私だって、やれば出来る! 現在「恋人募集中」ですから、われと思わん人はどんどん来てください。ただし言っておきます。私にだって、選ぶ権利はありますから。
同棲のすすめ
身近な人で結婚適齢期を迎えている人がいたら、結婚を決める前に、ぜひ同棲することをすすめていただきたいと思う。特に親御さんたちは。そうすれば、結婚後に生じる夫婦間の不和や離婚は、かなりのていど減らせるのではないかと思うのです。

前にも書いたのですが、NHKの『COOL JAPAN』を観ていた時にこの問題が取り上げられ、結婚前に同棲を経験しないというのは、世界の中ではどうやら少数派だということを知りました。もっとも番組に出演していた20カ国くらいの中での話ですが。

結婚前の同棲がタブー視されているのは日本と韓国くらい。韓国は儒教が根づいているために倫理にうるさい。日本は、戦前の家制度的なものはさすがに無くなりましたが、でもまだ、結婚前に同棲することは、女性にとってかなり勇気を必要とするのではないでしょうか。

世間や親に「ふしだら」という感覚がいまだ残っている感じがします。でも、恋愛して付き合ってみて、結婚を意識し始めたら、互いに「お試し期間」を置くというのは自然なことだし、とても合理的だと思います。

そして合理的なだけでなく、もっと大きなメリットがある。それは、「愛」というものの変化を実体験できること。いちばん最初は惹かれる「愛」。これを一般的には「恋」と言っているわけですが、この背景にあるものは、実は所有願望です。ですから「愛」と言ってもまだ未熟で、錯覚が多分にある。

同棲を経験すれば、これが、分かち合う「愛」、いたわり合う「愛」、育てる「愛」にしだいに変わって行きます。その変化を経験することで、最初の錯覚に気づかされるかも知れません。

そうやって、変化を通じてお互いに成長していければ、大きな学習になるのですが、どちらか一方、あるいは両方が所有願望のまま(つまり支配欲の段階)に留まっていると、一緒にいても癒されることがなく、関係はだんだんと冷えて行ってしまいます。そういうことが「お試し期間」で発見できます。

これが同棲経験なしに結婚して、子どもが生まれ、後から錯覚に気づいて離婚したりすれば、そのしわ寄せが子どもにも及んでしまいます。実際、そういう例が後をたたないわけですね。それで得をする人は誰もいません。

ですから、「愛」というものは「変わる」ということを、先ず念頭に置く必要があるのです。「変わらない」「変わらないでいて欲しい」と思うから、自分が望むような変化でなかった場合に、裏切られただの、心が離れただのと言って、相手を非難することになるのです。

そうではなくて、「変わる」ことを前提にして、どのような方向に変えて行くかということが「愛」の学習です。そのように捉え、恋愛関係という経験を通じて、人としての成長を図っていって欲しいものです。その合理的な手段として、同棲経験を上手に使っていただきたいと思います。