by Rainbow School
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“hate”ということについて

選挙戦が今たけなわです。選挙は短期決戦ですので、何者かへの「憎悪」を前面に打ち出し、人々の心に宿る「ヘイトしたい」という気持ちに火を点けた候補者が、一時的に多くの票を集めて勝利する場合があります。しかしこのような人物や政党は、長い目で見れば、目標を達成することは出来ません。

 

すべては「波動の法則」によります。「波動の法則」というのは、現象面で見た場合には極めてシンプルなもので、同じ波長どうしは共鳴し合うというものです。これは見近にあるギターなどの楽器を奏でればすぐに解る理屈です。弦を弾くとギターが鳴るのは、胴の共鳴箱が弦の振動を増幅してくれるからです。もし共鳴箱が無かったとしたら、弦を弾いても微かな音しか聞こえません。

 

さて、この理屈が解れば、「ヘイトしたい」という気持ちを集めたグループが、長期的には決してうまくは行かないという理由も解るでしょう。「○○をぶっ壊せ」とか「○○をやっつけろ」と言っている人たちは、同種の波動を持つ人たちを集めます。当初はよいのですが、熱が冷めて互いの温度差が見え始めると、最後は集まった者どうしが互いにぶっ壊したり、やっつけ合うことになるのです。

 

何かを改革し創造するためには、確かにその前提として「破壊」が必要です。しかしそれは、次の理想実現のための、やむを得ぬプロセスとして、でなければなりません。「破壊」を目的にした「破壊」では、後には荒廃しか残らないのです。ですから、改革を叫ぶその言葉の奥に、どんな「理想」が語られているかを鋭く見抜くことが大切です。

 

狡猾で、霊性の低い権力者たちは、人々のこの「ヘイトしたい」という気持ちをしょっちゅう利用します。特定の「敵」を作っては、それへの憎悪を煽ることによって、人々の共感を我が方に引きつけようとするのです。その最悪な結果が、言わずもがなの「戦争」です。残念ながら、今もって多くの人は、特に若者は、そうした企みに簡単に引っ掛かってしまいます。

 

でも、先の太平洋戦争で犠牲になったのは、結局は誰かを考えてみてください。「鬼畜米英」と言って戦争に駆り出されて行った若者たちです。軍人軍属は230万人が亡くなったと言われていますが、そのうちの実に60パーセントは、なんと戦闘ではなく、マラリヤなどの病気や飢えで亡くなっているのです。なんてひどい話でしょう。自軍の上層部が描いた無謀な作戦によって、前途ある命を落としたのです。

 

さらには、一般民間人も内外地合わせ80万人が亡くなっています。戦争法では(そもそも、ここまではやっていいというのもおかしな話ですが)民間人への攻撃は禁止されているのに、アメリカ軍は日本の主要都市を原爆と焼夷弾によって焼き尽くし、多数の一般市民を殺戮しました。アメリカでは、この行為は、地上戦の突入によって失われる兵士の命を未然に救ったものとして正当化されています。

 

同様に日本でも、このような悲惨な結果をもたらした戦争の当時の立案者や遂行者たちの多くは、戦後になって裁かれることもなく(戦勝者が行った『極東国際軍事裁判』はありましたが、国内法では裁かれていません)、また総括や反省もなく、手のひらを返すようにして今度はアメリカに媚を売ることによって、政治や経済や学問の分野に返り咲き、再び権力の座に就いているのです。

 

よく、「現在の政治状況は、満州事変からのその後の日本にそっくりだ」などと言われます。歴史は繰り返す。「ヘイト」を焚きつけられて、その気になって、割りを食うのは、結局は若者たちなのです。小泉・竹中改革の時にも、「郵政民営化」「自民党をぶっ壊す!」という言葉に人々は熱狂しました。はて、それでどうなったでしょうか? 日本社会がぶっ壊れ、その後の若者たちは、ロスジェネ世代にされてしまったではないですか。

 

そもそも、他者を「ヘイトしたい」気持ちとは何なのでしょうか? 一体どこからそれが沸いて来るのでしょうか? これは、「承認欲求」の歪んだ形の表現なのです。人は、自分がこの世に確かに「存在している価値がある」と思えなければ、非常に生きにくいものなのです。極端な話、「価値がない」と思った時には、消滅願望まで生じてしまいます。

 

そこで、「あなたには、生きている価値があるよ」と、周囲から承認して貰いたいのです。この「承認欲求」というものは、普通であれば、コミュニティの一員として何かしらに役立っていると思うことで満足させられるのですが、現代社会に端的なように、分断され、コミュニティを失った人間には、そうした手段がないのです。

 

一方で、情報発信ツールとしてのネットメディアには、誰もが非常に簡単に参入することが出来ます。ネットメディアが無かった時代には、自己主張を発表することには大変な努力を必要としました。新聞や雑誌への投稿に当たっては、文章スキルをきちんと磨いて、さらには内容もキラリと光るものでなければ決して採用されませんでした。

 

ところが、現在のネット環境はそうではありません。検閲なしに、内容が陳腐であろうと、文章がメチャクチャであろうと、たったの一言であろうと、wwwwwであろうと、自己主張が可能な環境になったのです。この二つの要因が結びついた時に、「承認欲求」としての「ヘイト」が、歪んだ形の自己表現として一気に拡大して行きました。

 

しかしそれは、やはり「歪み」に他なりません。本人は、一生懸命自己表現をしているつもりですが、「ヘイト」する相手の褌を借りて、相撲を取っているだけです。ですからこれは、形を変えた「依存(addiction)」なのです。「ヘイト」する相手に依存してるからこそ、自分が成り立っているのです。その意味では、相手に感謝しなければなりません。

 

でも、そこが本人には分かっていないのです。「依存」することでしか、自己表現をする方法を知らない。他者の表現にはすぐに心を騒がせてコメントするけれども、自分から「私はこう思う」という主張はしない。それは、本当の自己表現ではありません。その気づきが、「ヘイト」する人たちにはまだ育っていません。

 

「オレという存在がここにいるんだぞー」と叫びたい気持ちは解ります。でも「攻撃性」という槍を投げれば、その槍はブーメランのように返って来て、結局は自分自身を傷つけます。顕在意識に沸き上がった暴発的な感情と、魂の深奥にある宇宙意識とが強く引き裂かれてしまうので、心が不安定となりイライラや苦痛がより増大してゆくのです。

 

ここで、「これじゃいかん」と気づいて引き返せば、一つの学習機会ともなるのですが、イライラや苦痛の原因が自分の性向にあると認めたくない人は、苦痛を解消しようとして、さらに「ヘイト」することにエネルギーを費やしてしまう。こうなると、その人はストーカーまがいの行為にまで及び、自分がいま何をしているのかさえ分からなくなほどの病的な様相を呈して行きます。

 

ここに、宗教的観念や、政治的観念からの「正義」のお墨付きが与えられると、「ヘイト」の気持ちが、信じがたいほどの暴走を始めます。そうやって、この集合意識が、あらゆる戦争や紛争を形づくるのです。先にも言いましたが、権力者たちは、このエネルギーを利用して若者を戦争に駆り立てます。その結果、使い捨てにされるのは、いつも若い生命なのです。

 

いったい何度同じ過ちを繰り返せば、地球人類は気がつくのでしょう。「ヘイト」の気持ちが、幸福を創造することはありません。「ヘイト」は破壊しかもたらしません。相手だけではなく、自分をも破壊してしまうのです。このような愚かな行為に、人はなぜそれほどにまで心惹かれ、夢中になるのでしょうか?

 

若者たちよ、目を覚ましなさい。自分たちが利用されているのが分からないのですか? 未来を創るのはあなたたちなんですよ。狡猾な権力者や欲ボケした老人たちの餌食になってしまって、一体どうするんですか? あなただって人から愛されたいでしょう? だったら他者を愛しなさい。それを、何が「ヘイト」ですか!

 

韓国、北朝鮮、中国憎し? 外交というものは、表に出たニュースを聞いて解るほど、そんなに単純なものではありません。はっきり言って、ニュース報道は大衆を操作するためのニセ情報です。そこには裏があり、裏の奥には影があり、さらにその奥には闇がある。そしてその闇には、地上世界を超えた魔界がつながっている。

 

この多重構造が、これまでの長い期間、人々を盲目にさせ、互いに反目をさせて来ました。表のニュースしか知らない人、裏情報を知っている人、裏の裏の影まで分かる人、その奥の闇の存在に気づいている人とでは、世の中の動向に関する理解度がまるで違う。ですから容易にはコミュニケーションが成立しません。権力者や闇の存在は、それを隠れ蓑にして、大衆を好き放題に操って来たのです。

 

しかし、いま宇宙から強い光が当たるようになって、隠されていた闇の断片がどんどん表に出て来るようになっています。でもどんなに裏を調べても、裏の構図は超複雑で、また手の届く場所でもありませんから、誰にも真実のほどは分かりません。ですから、そこを追究し過ぎて、ラビリンスに迷い込まないようにした方がよいでしょう。

 

それよりも、あなた方に、何が本物の情報かを見破るポイントをお教えして起きます。表→裏→影→闇と、人類支配の構造は多段階になるほど、見えにくくかつ複雑化して行きます。ところが、闇のさらに奥にある「魔界」にまで話が及ぶと、事が一挙に単純化してしまうのです。それを説明する前に、闇と魔界との関係を言っておかなくてはなりません。

 

「魔界」という、この言葉だけを見ると、オカルティックなものを想像するかも知れませんが(実際に闇グループと「悪魔教」と結びつけて語っている論者もおられますが)、私が言うのはそういうことではありません。闇の支配者にせよ、その他の人々にせよ、人間というものは「意識的存在」なのだということ。それが人間の本質だということです。

 

私たちが何かの「行為」をする。それは地上という物理的世界における見え方なのであって、その「行為」には、必ずそうしたいという「意識」が伴っているのです。「行為」という物理的現象は、実は幻影にすぎず、「意識」の方が本質だということです。そして「意識」というものは、無形の振動するエネルギーですから、「波動の法則」によって同種のものが引き合い、強め合うのです。

 

いま「魔界」と書きましたが、「魔界」というものがあるかと言えば、あるとも言えるし、ないとも言える。どういうことかと言いますと、それは非物質的領域における、「悪さをしたいなー」「人間どもを奴隷にしてコキ使ってやりたいなー」という思念の集合場所なのです。そこと、闇の支配者たちの意識とが繋がって協同しているのです。

 

したがって、地上にいる者たちが、こうした思念を強め合う行為を一切しなくなれば、思念の集合体の場はいずれ消えてしまいます。

 

さて、人類の支配構造は、いま述べたように、にっちもさっちも行かないほど多段階かつ複雑な様相を呈しています。ですが、その根本にまで遡ってしまえば、意外にも、原因は極めてシンプルな形に落ち着くのです。それは何かと言うと、これまでにも繰り返し語って来たように、「合一」か「分離」かというベクトルの違いだけなのです。

 

あなた方の意識が、「合一」へと向かえば、その「魂」は霊性を進化させます。けれども「分離」へと向かえば、その「魂」がする地上での体験は、負のカルマの積み増しとなるのです。これは、一者のもとから分かれて個別化した「魂」が、再び一者のもとへ還るという、旅のプロセスの、今どの辺りを学習中かという違いによります。

 

一者から分かれた「魂」は、当初は個別化した自由を大いに謳歌しようとします。その際に、個別化した「われ(=自我)」という存在を、周囲に認めさせたいという欲求を持ちます。幼い子が、自分が今している行為を「ねえ、見て見て」とよく言うじゃありませんか。あれです。しかし、これが誤って用いられますと、他人よりも自分の方がずっと優れている、他者の上に君臨したい、劣った奴らは蹴散らしたい、といった差別の感情を育てて行くのです。

 

しかしそうであっても、「魂」の深奥の部分では、依然として一者と繋がっているわけですから、内なるこの声を聞く耳のある人は、やがてそれが間違いだと気づき、生き方を修正して行くことになります。ところが、人知を超えた世界があるということを信じない人や、聞く耳を全く持たない人は、「分離」意識をどんどん増幅させて行ってしまいます。

 

このような段階にまだある「魂」は、奥深い「真理」に触れる経験が少しもありません。そのため、葛藤に悩まされることも、良心の呵責に苦しむことも、自分がした行為を反省することもないのです。

 

残念ながら、地球という惑星では、このような「魂」が権力を欲しいままにし、人々を支配下に置いて隷属させています。しかし前回にも述べましたが、これは決してそういう権力者たちだけの責任ではありません。みんなでそのような社会、そのような構造体を作り上げているのです。地球人類は、未だに小学校入学も果たしていない、と言われるゆえんです。

 

誰の心にも、ちょっとした優越感や、他者を小馬鹿にしたい気持ちや、物を独り占めしたい気持ちや、自分だけが助かりたいという気持ちや、今の地位財産を失いたくない、といった気持ちがあります。当然です。なぜなら、一者から別れ、個別化した「魂」となったのですから‥‥。ですから、そこは否定しようとしてもできません。

 

でもそこで、考えていただきたいのです。あなたはどっちへ向かうのかと。「分離」意識の増幅への道を歩むのか、それとも「合一」への進化の道を選択するのかと。これが、この地上で、あなたに与えられた「自由」です。どのような選択も、あなたの自由意志に任されているのです。そして、罪も罰もそこにはありません。

 

しかし、「分離」意識の強化への道を選択した「魂」は、その分だけ、一者への帰還が遅くなります。そして今回が、地球という惑星におけるラストチャンスなのだということに心を砕いてください。

 

なぜ地球に、不平等や、差別や、虐待や、支配があるのか?

 

それは、それとは真反対にある、究極の「愛」を知るため。

あなたとわたしは同じだという真理に気づくため。

生命はすべてが繋がっていて、永遠の連続の上に生かされているということを思い出すため。

 

だから、そのために「分離」というチャンスが用意されているのですよ。

友よ、そのラストチャンスを今度こそものにしなさい。

 

あなたの目の前に、その時々で用意された行動の選択肢を選ぶ時、それが、自分の中の「分離」意識に基づくものなのか、「合一」意識に基づくものなのかを、いつもいつも意識して自分に問い掛けなさい。外からやって来る言葉に惑わされることのないように。自分の内に入り、深奥に潜む真実の言葉に耳を傾けなさい。そうすれば、道を誤ることは決してありません。

 

このセオリーは、あなた方が霊的なメッセージを耳にする時にも当てはまります。神からの言葉と称して、不安や恐怖心を煽ったり、闘いをけしかけるメッセージを下ろす霊能者が今も後を絶ちません。ですが、それらはみな「魔界」と繋がったメッセージを「神からの言葉」と偽って下ろしているのです。

 

一者とは、宇宙のすべてを統括する存在です。「者」と表現していますが、人格的存在ではなく、どちらかと言えば「法則」と言った方が近いです。それを仮に「神」と呼ぶことにすれば、「神」がそのようなメッセージを発することは、絶対に絶対にありません。「神」は一者です。ならば、どうして自分で自分に恐怖を与えたり、自分で自分に攻撃せよと命じることがあり得ましょうか?

 

なぜ、そんなことをする必要があるのでしょう? もしそれが本当だとしたら、「神」はひどい分裂症を患っているということになってしまいます。

そうではありません。「神」は究極の「合一」です。だから「一者」と言われるのです。「神」は法則であり、愛であり、永遠の生命であり、全存在なのです。

 

実に簡単な理屈ではありませんか。それを人間たちはなぜ解らないのでしょうか? なぜ、自己保身や、忖度や、ヘイトや、暴力が、そんなに好きなのですか? それをすると楽しいのですか? 心がウキウキするのですか? 幸福感で満たされるのですか? そんなものよりも、真実の「愛」に触れた時の、「魂」の歓喜を求めなさい。

 

えっ、何のことか解らないですって? よろしい。その歓喜は、あらかじめインプットされているのですよ。あなたにも、他のあなたにもね。どの「魂」も、そのように造られているのです。ですから安心して、己が「魂」の素直な声に従いなさい。そこにわたしがいる。いつも、いつも、あなたを見守って。

 

だから、わたしの愛を受け取りなさい。そしてその愛を、周囲の人たちにも分け与えなさい。この世におけるあなたの承認欲求を、「ヘイト」などという馬鹿げた方向に向けるのではなく、周囲の人々を助けたり、役立ったり、喜ばせたりするものによって表現しなさい。それが、人類に多様性というものを与えた意味なのです。

 

あなたの健闘を祈ります。

良い人になることで乗り越えようとしても上手くはいかない

冬場は雪が深いので山を降りて東京で生活をしています。東京に戻り、散歩をしていてうんざりするのは、道端に投げ捨てられたゴミの多さです。特にコンビニ周辺がひどい。コンビニは買う便利さと捨てる安易さを教えましたね。時々、ゴミ袋を手にしては拾って歩くのですが、後から後から捨てる人が出てくるので、いつまで経っても気持ちのよい散歩というものが出来ません。

 

ある日、公園の茂みに、「鬼ころし」という日本酒の紙パックがストローが差し込まれた状態で捨てられているのを見つけ、それを拾いました。ところが、翌日もまた同じところに同じものが捨てられているのです。このイタチごっこがしばらく続いたある日、「鬼ころし」がついに捨てられなくなっているのに気がつきました。「ヤッター、オレの勝利だ! あいつも遂に根負けか」と、そう思いました。

 

数日後、その公園から5分ほど離れた空き地の隅っこに、懐かしい「鬼ころし」のパッケージが山になっているのを見つけました。あちゃー、その人は、捨てる場所を変えただけだったのですね。勤め帰りに、道端の自動販売機でそれを買い、自宅までの道すがらストローでチュウチュウやるのが、その人の何よりの楽しみだったのでしょう。居酒屋に立ち寄る心理的経済的余裕もないのかも知れません。

 

自分を取り巻く環境は、その人の心の現れです。その人の心の有り様が、それに応じた環境を、自分の周囲に出現させるのです。ですから、自分の不遇を環境のせいにすることは出来ません。その環境はその人が創っているのです。散歩道は、ゴミなど落ちていない清々しい雰囲気の方がいいと思う人もいれば、ゴミを撒き散らして汚しておいた方が、今の自分の心情にピッタリという人だっているのです。

 

東京の私の家は、永らくゴミ屋敷でした。物で溢れかえり足の踏み場もないという状態。台所には真っ黒な油汚れがベットリと付き、どこもかしこも埃が高く積み重なっていました。それは、当時の私と、私の家族の心の有り様をまさに表現していました。けれどもある日を境に、片づけに着手しました。突如としてそういう気になったのです。そうして、3年ほど掛かけてどうにか見られる状態にまでなりました。

 

自分でも驚くのは、その後です。その日から現在に至るまで、クリーンな状態をキープし続けることが出来ているのです。それは、自分の「心」が一変したことを意味していました。私は変わったのです。そして「心」の変化は、その他にも、様々な外面的変化、環境的変化を私の周囲に《具体的に》出現させて行きました。

 

住む場所も変わりましたし、家族もいなくなりました(一人、息子がおりましたが、彼は家を出て行きました)。仕事はやめましたし、ド貧乏になりました。世間的な動向や流行には何の関心もなくなり、オシャレをする気もなくなりました。友人関係も、全く一変してしまいました。ですから、「その人の意識が、その人の人生を創る」ということが、今の私にはよ〜く解るのです。

 

人間の「気づき」には、大きく2つの段階があります。先ず最初の気づきは、自分の至らなさ(未熟さ)に気づくという段階です。しかしそれとて、気づかない人は多い。あるいは、たとえ至らなさに気づいたとしても、認めようとしない人が多い。ここで、第一の関門をくぐる人と、くぐれないで門から追い返されてしまう人とが出て来るのです。

 

第一の関門をくぐれなかった人は、一見すると幸福な人です。なぜなら、その後に続いて起こる「葛藤に苛まれる」という苦しい状態が、取り敢えずは回避されているのですから。代わりに、その段階に留まった人は、「葛藤」に向き合うことなく「エゴ」を大いに謳歌する生活を送るのです。この時期は、その人に幸福と楽しさをもたらします。

 

しかしそれは、以前にも言ったように、まやかしのものに過ぎません。「エゴ」が与える幸福は決して長続きしませんし、カルマの法則によって、誰もが、いつかはその誤りに気づかされる時が来るのです。ですから、第一の関門を永遠にくぐらないということはあり得ないのであり、くぐろうとしない「魂」は、それだけ目覚めが遅れるということになってしまうのです。

 

*まや:摩耶(maya)とは、サンスクリット語で幻想のこと。摩耶化す→まやかし

 

一方、最初の気づきを得て、第一の関門をくぐった人には、それから長い試練の時期が訪れます。自分の未熟さ、至らなさを自覚し、それを何とか克服したいと願って、あの手この手の解決策を模索し始めるからです。仏教では、この段階で生じる出来事を、四つの苦と、さらに四つの苦の合計八苦に分類しました。これが「葛藤」状態をいう際の「四苦八苦する」の語源となりました。

 

さてここでも、人の対処法は大きく二手に分かれます。大多数は、葛藤を抱えながらも、また大いに悩みながらも、その時々をなんとか通過してやがて死に至るという道を歩んで行きます。もう一方は、その葛藤状態をあえて意識化し、乗り越える方策を積極的に模索しようと図る道を選びます。この後者の人たちが、宗教や哲学や精神世界へと歩みを進めてゆくのです。

 

前者の道を行く人は、自分のエゴや心グセにきちんと向き合おうとしないまま一生を終えてしまうので、一つの人生での霊的進化は、ほんの僅かしか進みません。そこで、せっかくの輪廻転生の機会を得ても、一つのカルマを一つの人生で充分に解消することが出来ずに、何度も何度も同じような人生パターンを繰り返すのです。しかしそれでも、最後の最後には、全ての「魂」がエッセンスへの帰還を果たします。

 

*エッセンス:精髄と訳されたりしている。神、あるいは光と同義。

 

では後者を選んだ場合はどうでしょうか? 驚いたことに、後者の道を選んだからといって、必ずしも霊的な進化が早く達成されるとは限らないのです。むしろ宗教や哲学や精神世界が提示するドグマ(独善的教義)に捕まって、歪んだ観念を構築してしまい、却って歩みを遅くする可能性も高いのです。これが、高僧よりも、田舎の普通に暮らしているお婆さんの方が霊的に進んだ人のように見える理由です。

 

それは、見えるだけではなくて、実際にそうなのです。よく「見た目だけでは人は判断できない」などと言いますが逆です。見た目にすべてが表れます。それは、身なりや服装ということではなくて、その人が発しているオーラ、そこに全部出ている。オーラは嘘をつけません。澄んだ目の色や、微笑みや、言葉づかいや、立ち居振る舞いに、その人の「霊性」がすべて表れているのです。

 

*オーラ(aura):その人が発している霊的バイブレーション。エーテル体、アストラル体、コーザル体の各振動が合わさって、その人固有のバイブレーションを発している。

 

ということで、第一の関門を通過した後に訪れる「葛藤」の時期を、一体どう過ごせばいいのかということが、次の第二の「気づき」を迎えられるかどうかに大きく関わって来るのです。ここで、第二の「気づき」とは何かを言いましょう。それは、それまで信じていた世界が、実は表裏が真逆だったと気づくことです。霊主体従が本当だったんだと、(頭だけではなく)全身全霊で感じるようになることが二番めの「気づき」です。

 

この「気づき」を得て、初めてその人は、第二の関門であるところの「光への道」へと入って行くのです。しかしそのためには、「葛藤」の時期を、少なくとも9割がたは終えていなくてはなりません。「葛藤」を抱えたままで「光への道」へと進むことは出来ないのです。なぜなら、「光への道」へ入るということは、「葛藤」を捨てるということでもあるのですから。両者は、卵と鶏の関係なのです。

 

さてそこで、どのようにして「葛藤」を捨てればよいかということになります。あなたは、第一の「気づき」を得て、ご自分のイヤな面や、エゴや、ネガティブな心グセに気がつきます。そして、「魂」の声が聞けるあなたは、それをなんとか克服したいと考えます。そこで、きっといろいろな取り組みに着手されることでしょう。

 

克服したい点のキーワードを大書して壁にペタペタ貼ったり、ノートに箇条書きにして朝夕に呪文のように唱えたり、指導者を求めて歩きまわったり、自分に戒律を課したり、柱におでこをガンガンぶつけたり、お百度を踏んだり、水垢離をしたり、ひたすらマントラを唱えたり、海に向かって「バカヤロー」と叫んでみたり、etc.。私もさんざんやりましたよ。およそ50年間も。

 

その期間は、私にとっては無駄ではなかったのですが(なぜなら、踏み石役として、その経験を話せるので)、これから後に続く人たちは、もう同じような轍を踏む必要はありません。50年間もウロウロしなくていい。「光への道」へ入るのに、近道はありませんが、あなたは速道を行けばいいのです。プロセスを省くことは出来ないけれども、プロセスをスムースに通過する方法があるということです。

 

先人たちが示してくれたものの殆どは、結局のところ、修善奉行・諸悪莫作(しゅぜんぶぎょう・しょあくまくさ:善い行いをしなさい、悪いことをしちゃダメよ)に尽きるのですね。私もそれで、良い人になりたい、良い人になろう、良い人にならなければ、とずっと長いことそう思っていました。ところが、これが上手くいかないのです。どうにもスッキリしない。50年間ずっと取り組んで来ても。

 

それで、そのような努力をすることを一切やめたのです。やめてから、やっと解りました。良い人になろうとすることで「葛藤」を乗り越えようとしても上手くはいかない。なぜかと言うと、それは、自分の「ありのままを是認する」というプロセスを省いてしまうからです。自分にはこういう欠点がある。だからそれを出さないように、いつも良い人であろう。それは、どこかで自分を誤魔化しているのであり、無理があるのですね。

 

でもなぜ、修善奉行・諸悪莫作が長年に渡って言われ続けて来たのでしょうか。結局のところ、それが大衆には理解しやすかったからです。具体的な行動指針に思えたわけですね。真理よりも権威、宇宙の法則よりもスーパースターの奇跡の方に心を動かされてしまう大衆にとっては、そうした「決め事」がフィットしたのです。しかし同時にそれは弊害も生みました。地球人類が、いつまで経っても目覚めないということです。

 

けれども、裏の世界ではちゃんと説かれていたんです。「こうするといいよ」という別の方法が。でも表の世界があまりにも強大だから、そして大衆はそれを信じ切っているから、マスターが示してくれていた方法は隅っこに隠れてしまい、大衆には発見できないようになっていたんですね。

 

しかしそんな時代ももうオシマイ。これからのみなさんは、そこで足踏みする必要はありません。急行列車でスッと行けばいいのです。

 

あなた方の「悩み」や「葛藤」が、全て、エゴ(我欲)に起因していることは確かです。しかし、「欲」を完全に無くすということが、人間に果たして出来るのかどうか。

 

偉いお坊さん方は、「無欲」だとか「無我の境地」だとか、自分でも達成出来ていない目標を平気で口にします。これが日本仏教のいけないところで、大衆からすると「う〜ん、凄い!」と思う反面、「自分には到底無理だ」という敗北感しか抱けない。つまり、言う方も聞かされる方も、虚飾に遊んでいるだけになっているのです。

 

でも考えてみてください。もし食欲が無かったら、あなたは餓死してしまうでしょうし、もし性欲が無かったら、子孫は生まれないでしょう。動物や植物を見ても同じで、自然界にあるものは、決して「無欲」なわけではないことが解ります。確かに、様々な「欲」が、その人に苦悩と葛藤を生じさせています。しかし、だからと言って「欲を無くせ」と言うことには、飛躍があり過ぎますし、そこには無理があるのです。

 

ではマスターは何と言っているのでしょうか? 「執着を捨てなさい」と言っているのです。「欲を無くせ」とは言っていません。「欲」と「執着」とを分けているのです。「欲」は持っても「執着」は持つなということです。

 

目の前に、一杯の美味しそうなラーメンがあって、湯気を立てているとしましょう。お腹が空いていたあなたは、それをむさぼるようにして口に運び、胃に入れます。食べ終わって「あー、美味しかったな」と。「これで、また半日生かせて貰えたな」と。それで終わりなら、よし。

 

でも、二日くらい経ったら、またあそこのラーメンが無性に食べたくなったと。あの店は、ダシにあれとこれを使っていて、中太の縮れ麺で、チャーシューは5枚載っかっていると。それを思い出すと、もう夜も眠れないんだと。腹が空いてしょうがないと。「あー、どうしてもあのラーメンが食べたい」と。もうこうなったら、「欲」が「執着」にまで化けている。

 

このことは、すべてについて言えるのです。親子関係、夫婦関係、その他の人間関係、お金、財産、仕事、身の回りの道具、コレクション、ペットetc.。そこで、想像してみてください。今あなたが所有している(と思っている)それらのものが、10分後に、もしも跡形もなく消え失せてしまったとしたら、あなたは果たして耐えられるでしょうか? 例えば、あなたの子ども、あなたのパートナー、あなたの家。

 

一つでも、耐えられないと思うものがあるうちは、あなたは、それについての「執着」を手離せていません。しかし、中にはこう言う方もおられることでしょう。いや、自分は「執着」を手離したくなんかないんだと。なぜなら、私のそれは「愛」なんだからと。家族や、恋人や、ペットや、コレクションに対峙している時の私の「心」は、「愛」の表現なんだと。

 

そう思っているあなたは、まだ「愛」の本質を理解していません。それは、所有欲、支配欲、相互依存を、「愛」という言葉に置き換えただけのもの。本当の「愛」とは、所有でも、支配でも、取引でもなく、無償のものだからです。無償の「愛」に至った者が、それを失うことを怖れたり、悲しんだりするはずがないではありませんか。無償なんですから。

 

では、この「愛」を、どこまでも拡大して行ってみてください。

どこまでも、どこまでも。

そう、それが神の「愛」なのですよ。

 

どの道、あなたは気づきます。「執着」し続けることの無意味さに。えっ、分からないかな? この世で、「死」と呼ぶプロセスを、あなたが迎える時にですよ。あなたは先ず、身体を手離し、その後に、心を手離します。そして物質界から離れる。であるならば、その日が来るずっと前に、苦しみの元である「執着」を手離してしまえばよいではありませんか。

 

実にこれが、「今を生きる(Be here now)」ということであり、アセンションへの扉を開くということなのです。

「今を生きる」ことに徹すれば、過去も未来もどうでもよく、よって何かを悔やんだり、逆に期待することもなく、自分の今を、自由に燃焼させて、ハッピーに生きられるのです。解りましたか?

 

そこで最後に、「欲」は持っても「執着」を持たないようにしていく訓練法をお教えしましょう。これは「止まる瞑想」とか「歩く瞑想」と呼ばれているテクニックです。先ず「止まる瞑想」では、あなたが何かをしている時に、その行動を一時停止させ、いま自分は何をしていたかなと観察するのです。これによって、その行動に埋没していた自分を、その次元から引き剥がすのです。

 

もう一つの「歩く瞑想」は、動作を止めずに、もう一人の自分がいて、その動きを観察するようにします。いま左足を上げた。あ、地面にかかとをつけたぞ。重心移動をして、足を蹴ると同時に右足を上げたな。といった具合です。これを、生活の様々な分野で行うのです。料理をしている時にも、掃除をしている時にも。いま包丁を手に持った、自分の手が野菜を切っているぞ、という具合に。

 

このエクササイズを繰り返し行なってください。これによって、身体が自分なのではないという感覚がしだいに身について行きます。そうすれば、自分の「欲」を認めつつ、上手にコントロールできる自分になって行きます。自分のネガティブな部分を否定しようとしてはなりません。否定することは自分に嘘を課すことですし、その葛藤にかえって苦しみます。また、良い人であろうとすることも、所詮は仮面なのです。

 

そうではなく、ここでも重要なことは、やはり素直さです。自分の「心」の動きに逆らわず、先ず出してしまって、それを肯定も否定もせずに観察するのです。あ、いま自分は腹を立てているなとか、あの人に嫉妬心を燃やしているな、といった具合にです。これを繰り返し行なっていれば、数年のうちに、自分の暴れる感情や、思考パターンや、本能をコントロールできるようになっているはずです。

 

そして、あなたは気づきます。いつの間にか、自分の「欲」そのものも変化していることに。あれほど好きだった特定のものに、もはや前ほどには興味が持てなくなっていることに。流行を追いかけることがバカバカしいと感じ出していることに。テレビのニュースになんの関心も無くなっていることに。友人関係が激変していることに。食べ物への関心が以前とは様変わりしていることに。etc.。

 

代わりに、今までは全く無価値だと思っていた、ただウザいだけだと思っていた、何気ない、このド日常の中に、掛け替えのない喜びを発見するようになります。それは、太陽の暖かさであり、木々の緑の鮮やかさであり、吹く風の爽やかさであり、揺れる水面のきらめきであり、一杯のスープであり、自分を支えてくれる人たちの思いやりであり‥‥

 

そして、あなたの耳に届く、この地球の生命の讃歌。

 

やがて、あなたは知る。

もう、これで充分なのだということを。

すべてが最初から満たされていたんだということを。

Jump --- 次元を超えた飛躍めざして

このブログを訪れてくれる人はみんな、自己の霊的向上を目指そうと、日々努力されている方たちだと信じています。それは、「魂」に誕生前からインプットされていた行動原理ですので、心を落ち着かせて、素直になって、自分の内面を静かに見つめれば、誰もが、自然にそうした欲求を抱くようになっているのです。ですが、残念なことに、「光への道」を極めんとする人は、いつの時代でも極く極く少数でしかありません。

 

どうしてそうなってしまうかと言いますと、人間は、エゴをなかなか手離せないからです。大我に至らんと欲すれば、小我は捨てなくてはなりません。両者はトレードオフの関係なのです。ところが、人間は生まれた直後から、エゴへの道をひた走り始めます。そのように、社会が出来上がっていますし、あらゆる場でそれが推奨されていますし、親や教師もその道を行くことを強く願うからです。

 

*大我:=大霊=神。大我に至るとは、その意識と自己とが一体となること。

*小我;=自我=エゴ

*トレードオフ;片方が増えれば、もう片方が減るような関係。

 

その結果、エゴを前提に生きることが半ば常識化、習慣化してしまい、もはや誰も、それを「捨てる生活」というものがイメージできません。宗教界や精神世界ですら、エゴをくすぐること(幸運が訪れる人生や、この道だけが唯一最高の道)をエサにして、信者獲得を図っている始末です。

 

そのような状況ですので、エゴをなんとか手離そうと、地道な努力を続けている者は、周囲からは奇異な目で見られ、きっと肩身の狭い思いをしておられることでしょう。あるいは、そんな段階はとうに卒業して、我関せずとばかりに、大らかに、自分の道を歩んでいる方も、中にはおられるかも知れませんね。

 

そこで、友よ。あなたは決して一人ではないということに確信を持っていただきたいのです。同じ道を極めんとする真の友は必ずいます。すぐそばにはいなくても、このメッセージを通じて繋がっている友はいるのですよ。ですから、忍耐、忍耐。今は、中世の時代のように、異端のレッテルを貼られて処刑されるようなことはありません。目立たぬように、ひっそりと、己が道を歩きなさい。

 

エゴは、あなたに幸福感と満足感を与えます。ですから、その誘惑を、みな直ぐに信じてしまいます。まるで、巧妙な詐欺にあうようなものです。しかし、この幸福感と満足感は一時的なものであって、決して長続きはしません。一時的な幸福感が過ぎ去ってしまうと、それを再び味わいたくなって、あるいはもっと強く味わいたくなって、自分のエゴをさらに強化していく道へと人は進むのです。その一方で、一度得たものを失いたくないという恐怖心が首をもたげて来る。

 

人間の「悩み」の大半は、結局、これが原因なのです。自分の欲で、自分を苦しめている。それが、お金であっても、財産であっても、地位や名声であっても、名誉や栄誉であっても、恋人であっても、パートナーであっても、自分の子どもであっても、みんな出所は同じ。欲しいという気持ちと、得たものを失いたくないという両方の気持ち。これがある限り、生涯「悩み」は消えない。

 

誰かに自分の「悩み」を打ち明ける。カウンセラーや精神科医に自分の「悩み」について相談する。そうすることで、一時は気持ちが楽になったり、悩みが解消されたように感じることもあるかも知れません。しかしそれも、幸福感や満足感と同じで、やがては過ぎ去ってしまいます。そしてほとぼりが冷めると、その人はまた、自分のエゴをベースに、「悩み」を創造(クリエイト)することになるのです。人の一生は、その繰り返し。

 

ですから、その繰り返し状態から完全脱出するためには、自己の底辺に流れている、このエゴという川から外に出なければならないのです。エゴの川にどっぷり浸かっている限りは、そこでどんなにもがいたとしても、その流れの強さにたちまちにして押し流されてしまう。そこで、川から出て、陸に上がるということが必要になって来るわけです。それが「捨てる」ということ。川を離れるということです。

 

でも、エゴという川を捨てて陸に上がるためには、その前に、自分はいまエゴの川の中に浸かっている状態にあるんだ、ということに気がつかなければなりません。先ずそこに気づかなければ、出ようがない。結局、これがみな分からないのですね。川の中にいる人にとっては、そこがむしろ陸地に見え、陸の方が、落ちたら死ぬかもしれない危険な川に見えるのです。そこで、あっち側に一歩を踏み出すことをみな躊躇する。

 

ですから、ハイ・ジャンプが必要なのです。思い切って、ポーンと踏み出す勇気。とにかく先ず陸に上がってみる。しのごの言わず、先ず上がる。上がった直後は、服もまだビショビショに濡れていて、しっくり来ないかも知れません。でも自分の姿をじっくり観察してみれば、服の袖や裾から、エゴの滴がポタポタと落ちて行くのをあなたは目撃するはずです。そうして、服があらかた乾くようになるまでには、数年を要することでしょう。いやもっと、数十年かかるかも。

 

でもね、ここが肝心。最初の一歩がなければ、その後だってないのですよ。とにかく、第一歩。Jump、Jump、Jump! だから、思考をやめるのです。判断をやめるのです。他者にお墨付きを求めようとするのをやめるのです。損得勘定をやめるのです。アクセルとブレーキを一緒に踏むクセをやめるのです。過去を振り返ったり、将来を考えることをやめるのです。

 

今ここ。今ここのあなたがすべて。

そしてこの瞬間が、あなたを変えるパワーポイント。

 

「私は自由だ!」と叫びなさい。そしてジャンプするんです。

そこから、あなたの見る世界が変わる。

やがて何もかもがひっくり返る。まるでメビウスの輪のように。

表が裏に、裏が表に。

 

いつまでも川の中にいて叫んでいるようじゃあ、真理には到達できない。「光への道」へは進めない。なぜなら、川の流れ、つまりこの世で定めたスケールの中でしか、その人は動けないのだから。

そんなものじゃないのですよ。そこでは、次元を超えた飛躍が待ち受けているんです。常識人には、その飛躍の意味が解らない。

 

この『気づきの啓示板』では、信仰や戒律を否定しています。倫理、道徳も、そんなものは不要だと言っています。なんでもありだ、自由なんだと言っています。信仰の貴さを説いたり、倫理、道徳の必要性を説くのは、まだ川の中に浸かっている者たちの論理。その段階も経なければ、人類は気づけないのかも知れません。けれど、「光への道」は、その次元を、超越したところにあるのです。

 

本当にジャンプしてしまえば、真理をつかんでしまえば、そんなものは一切不要だということが解ります。なぜなら、大我=神我というものは、そもそもそうなのだから。あれこれ屁理屈も不要。しかし、屁理屈が不要ということを知るためには、先ず屁理屈をこね尽くさなければならない。次々と湧き上がる問いに答えを見い出さなければならない。それはちょうど、自分探しの旅は本当は必要なかったんだということを知るために、わざわざ長い旅に出ることと同じです。

 

次元を超えてジャンプした者の行動は、完全に道徳的なものになるし、その人の在り方は、宗教信仰者よりも信仰篤い人のように映ることになる。また、内なる声に従うことを徹底して生きる寡黙な人は、誰よりも強い信念を有する人に見えることでしょう。でもそれは、その人が、倫理的、道徳的であろうと努力しているわけではないし、特定の信仰心や信念を持って生きているわけでもないのです。

 

すべては自由。ただ、ありのまま。

 

同じように、利他だ、支援だと言っているうちはまだまだで、すべては自分のためにやっている、誰のためでもなく天に奉仕している、と極めて利己的に語る人の方が、真の奉仕とは何かということをずっとよく解っているのです。けれども、人々には、それが理解できない。エゴの川に浸かり続けている人には、そのスケールでしかものを見れない人には、ただの奇人変人にしか見えない。だから、そういう人には異端者の烙印を貼って、投獄するか処刑して来たのです。

 

ところがそれも、一度権威づけが為されれば、まるで手の平を返したように態度が変わる。その者は、神の代弁者だから絶対だとか、言行録に書かれてあることは全て正しい、などと言い出す。そして、今度はそれを疑う者たちを許さない。結局、大衆が求めているのは、いつの時代でも「権威」なのであって「真理」ではない。そのエゴの心理につけこんで支配を目論む者たちがいることに、人々はまったく気づかないのです。

 

だからね、「言葉」じゃないんですよ。言葉に惑わされる人が時々いますが、そうじゃないんです。「信仰」が大切なのか、不要なのか。「信念」を持つということが貴いものなのか、忌むべきものなのか。そんな議論など、どうだっていいんです。言葉は、単なるレッテルに過ぎない。問題は、その中身です。ホンモノには次元を超えた飛躍があるのですよ。

 

自分を縛り付ける、あらゆるものは不要なんです。ただただ素直で自由であればいい。それだけのこと。でも人間たちは、それでは決して満足しない。ありとあらゆる機会を通じて、自らを縛る方策を考え出す。そして、他者を縛り、自分も縛って、それによって互いに苦しみ、憎しみ合う。ああ、なんてお馬鹿さんたちなのでしょう。「今ここ」でジャンプして、宇宙に、このわたしに身を預げればいいだけなのに‥‥。

 

「気づき」の体験は、あなた固有のもの。他の誰にも、そこには介入できないし、まとめ上げて組織化することも出来ません。ですから、「この道しかないぞ、こっちへ来い」と主張する者はすべてニセモノです。どんな道だってあるんです。だから、もう、誰かに判断を仰ごうとすることはおやめなさい。あなたは、あなたの道を行きなさい。自分を信じて、自分の声に耳を傾けて、堂々と、力強く歩きなさい。

 

頂きは一つ。どんなルートを通っても、最後には到達するのです。

最初の一歩を、あなたが踏み出しさえすれば。

脱出したいのなら、なぜ自分を救ってあげようとはしないの?

このブログに掲載しているメッセージは、何よりも先ず、人間が霊的存在であるということを自覚し、「今生で、もっともっと霊的な進化を遂げたい」と心底から希求する人たちに、少しでもお役に立てれば、というささやかな思いから発信しています。

 

しかし、ここでしていることは、古代からずっと変わらず言われ続けて来たことを、現代のツールを使って、現代の日本語で、現代人のハートにも届くようにしているだけのことで、内容的に新しいことは何一つありません。でもその試みを通じて、不変的、かつ普遍的で不偏的な真理が、宇宙には確かに存在するのだということに気づいてくれる人が増えれば、望外の喜びなのです。

 

そのために、みなさんが、これを踏み石にしてくださればそれでよいのです。いやむしろ、次世代を担う方には、これを踏み石にして、強く、大きく、ジャンプしていただきたい。そして、ご自分が出来ることを通じて、世の中に貢献し、明るいバイブレーションを周囲に広げてもらいたいのです。

 

この『気づきの啓示板』が創られた目的の一つは、日本全国に散らばっているユニバーサル・メンバーたちのエンジンを始動し、各人に、今生での役割を思い出してもらうよう奮起を促すことです。その目的は、最初から明確だったわけではないのですが、やって行くうちに、だんだんと私の中にそのような自覚が芽生えて来たのです。自分の役割は、そのための踏み石になるのだと。

 

そして、それを実行する過程で、自分がいかに愚劣で情けない、取るに足らない人間であるかということを曝け出して来ました。また、なかなか心を治められずに、心理的、精神的な葛藤にさいなまれ、パニックや鬱になったり、神経症になったりした体験も語って来ました。これは、ユニバーサル・メンバーの人たちが陥り易い傾向に関して、(先輩の?)私が「大丈夫だよ」と言ってあげたかったからです。

 

しかしそのことで、パニックや、鬱や、神経症を患っている人たちの中に、救いを求めてこのブログを訪れてくださっている方がいらっしゃるようです。そのお気持ちはよ〜く解ります。私にもそういう時期がありましたから。でも、その方たちに言ってあげたいんです。いつまでも救いを求め続けていてはダメですよと。なぜ、自分で自分を救ってあげようとはしないのですかと。

 

大海原で溺れかけている人がいます。その人は、「助けて〜、助けて〜」と、残った気力で必死に叫んでいます。そこへ、運よく救命ボートに乗った救助隊員が駆けつけて手を差し出す。「さあ、この手に捕まれ!」。でも、その溺れている本人に、ボートに這い上がる意思がなければ、いかに優秀な救助隊員だったとしても、その人は救えないのですよ。自分を救うのは、最後の最後は、自分の「這い上がろう」とする意思なのです。

 

自分が鬱だったころ、救いを求めて、ある自助グループの会合に参加したことがあります。参加してみて驚きました。交わされる会話の内容が、各種の薬剤の名前と、いま何mg飲んでいるかという話に終始していたのです。薬を飲んでいなかった私にはまるでチンプンカンプン。その雰囲気に、「ヤバい、こんなところに居たら、鬱病になっちまうぞ!」と直感が教え、それからもう二度と行くことはありませんでした。

 

そもそも、「自助」という言葉と、「グループ」という言葉が繋がるのは矛盾です。「グループ」を組んだら「自助」にはなりません。それは、ただの助かりたい人たちの慰め合いの場になってしまいます。そのうちに、そこに参加する人たちの間に、ある共通意識が芽生えて来る。「私を理解してくれる人は、この人たちしかいないんだ」。そうやって、しまいにはグループから脱けられなくなる。

 

こうなったら、いったい何のためのグループであったのか、解らなくなってしまいます。その状態から卒業することが、脱出することが、そもそもの目的ではなかったのでしょうか?

 

ですから、この『気づきの啓示板』も、いっときは慰めになったとしても、そこから出来る限り早く卒業することを考えて、今ここで、(自分が出来る)アクションを起こさなければ、結局は自助グループと同じような位置づけに終わってしまいますよ。2年も、3年も、4年も、慰めを求め続けていては、この先もラチが開かないのは明白ではありませんか?

 

『気づきの啓示板』は、慰めの目的に用意されているのではありません。あなたは蝶なのです。いつまでもサナギのままでいようとすることは、あなたにとって不自然極まりない。これまでのメッセージを振り返ってみれば、高次の存在からは、終始あなたをサナギから蝶へと羽化させるためのヒントが語られて来たということが、あなたにもお判りでしょう。

 

苦悩の状態から、いかに脱出すればいいかは、すでに語り尽くされているのです。あなたを縛っているのは、あなた自身の頑固な思い込みです。ですから、せっかく「自分が楽しいと思えば、楽しいんですよ」「自分が幸福だと思えば、幸福なんですよ」と言ってあげたとしても、自分を解放する意思のない人は、「そんなこと、とても思えない」「不可能だ、出来ない」とすぐに言う。

 

一度も、やってみようともしないで。

 

そういう人に掛ける言葉は、もうありません。溺れかかっている海から自力で這い上がろうとする意思のない人を、いかに神といえども、救ってあげることは出来ないのです。その海の、混沌の中に居続けることが心地よい人を(本人は、口では「苦しい」と言いますが)、無理やり引き上げることは出来ないのです。なぜなら、その決断は、その人の自由意志の範疇にあるのですから。

 

あなた方の大多数は、ご自分が、何者かに絶えずコントロールされているという事実に、全くと言っていいほど、気がついていません。あなたは、その者に完全に支配されているのです。その、いつも自分をコントロールしている者とは、いったい誰だと思いますか? あなたですよ。あなたのコントロール意識が、あなたの意識の大部分をつねに支配しているのです。

 

ところが、自分のコントロール意識と、それ以外の意識との区別がついていません。別の言い方をすれば、コントロール意識の中に、その他の意識がすっかり埋没してしまっている。まさにコントロール意識の海の中に、自分が溺れた状態です。すると、野放し状態のコントロール意識は、必然的に、その人特有の心グセを優先的に行使するようになるのです。

 

本能タイプの人は本能的に行動し、感情タイプの人は感情的に行動し、思考タイプの人は思考的に行動するのです。しかし、自分がそのような心グセのパターン、ひいては行動パターンを持っていて、始終これを繰り返しているということに、大多数の人は気がついていません。その状態に埋没しているからです。実は、これこそが、その人特有のカルマを表わしているのです。

 

同じような体験をしても、怒る人、悲しむ人、恨む人、理屈を述べる人、やり過ごせる人、と様々なのはそのためです。たとえ同じインプット情報に接しても、その人のカルマが、特有の思考と行動のパターンをアウトプットするのです。ですから、そこに気づくということが、カルマ脱出の糸口となるのです。

 

一方、その人の周囲には、その人の意識に影響を与えている様々な環境要因が存在します。自分が育ってきた環境、現在の家族、家、学校、職場、そこで出会う人々、メディアから流れるニュース、社会通念、SNSでやり取りする情報等々。今後は、これにAIとロボットが大きな影響力を持って加わります。その時、自分のコントロール意識を意識していない人は、外部環境の情報にいとも簡単に影響を受けてしまうのです。

 

これが、要するに「洗脳」です。「洗脳」と言いますと、普通は○○という団体に洗脳されているとか、ある人物に洗脳されたとか、特定思想に染まっているとかと言うのですが、厳密にはそうではなく、それらに染まった自分のコントロール意識によって、自分を支配するようになったということなのです。ですから、この部分での気づきがない限りは、いくら説得を試みても「洗脳」は解けません。

 

図を見てください。

あなたの意識は、一様なものではなく、多層構造から成り立っています。

 

普段、あなたが動かしている意識は、主に脳が情報を処理することによって形成したものです。しかし、あなたの意識全体を支えている本体(コア)は、実は「魂」にあるのです。なぜなら、脳というのは単なるハードウェア、演算処理装置に過ぎないからです。

 

ですが、多くの人はこのことを知識として知りませんし、「魂」レベルの意識を意識したこともあまりありません。でも、あなた方は、しょっちゅう意識的混乱(confuse)に陥っている自分というものを経験しているでしょう。これは、脳が創り出している意識と「魂」の意識とがぶつかって、綱引きをするためなのです。

 

「魂」の意識は、宇宙意識と常時つながっていて、その最奥では、実は誰もが「宇宙の真理」を既に知っているのです。ところが、この物質世界を生きるために用意された五感センサーが、あなたに物質世界で起こることの様々な幻想を見せます。すると、コントロール意識が影響を受けて、なにがしかの「観念(信念)」を創造し、意識全体をその支配下に置いてしまうのです。簡単にいえば、自分に特定のカラーの色メガネを掛けてしまうのです。

 

あなた方の多くは、身体を持つ自分こそが「私」であると固く信じ込んでいますので、こうして創造された「観念(信念)」で、自己の「魂」の意識にもフタをしてしまいます。霊界なんてものはないんだとか、たまに触れても、錯覚だとか妄想だとかと言って、切り捨ててしまいます。この結果、宇宙意識とのつながりが断たれ、幻想世界での右往左往を繰り返すという状態になってしまうのです。

 

また、それだけではなく、この特定の強い「観念」つまり囚われが、「魂」にその印を刻み込み、これがチャクラに堆積してカルマとなり、その「魂」特有の霊性や人格を作り上げるのです。しかし、いま言ったメカニズムを理解している人は殆どいませんので、カルマ解消のために、せっかくこの世という物質界に輪廻転生して来ても、またしても自分のカルマに縛られて、何度も何度も同じ過ちを繰り返してしまうのです。

 

けれども、コントロール意識が、自分の外側ではなく、ベクトルを反転させて内側に向かうと、つまり内観するようになると、コントロール意識は、この「魂」の意識をキャッチするようになります。すると、宇宙意識がしだいに目覚め、その人は、自然と霊主体從の思考と行動様式を取るようになっていくのです。そうなるための最高のツールが「瞑想」なのです。

 

*なお、この際には、先ずコントロール意識を、「観察者の意識」に変えるということがポイントです。それによって、本能や感情や思考に埋没している自分の意識を外側から眺め直し、ありのままを観察するのです。その後、意識を内側に向けます。しかしこれらのテクニックは、みな修養の途中段階のもので、最後は芯と表をひっくり返して、「魂」の最奥レベルの意識で、全体を一つに統一してしまうことになります。

 

このメカニズムを知れば、現代人が、今どれほどの脅威に晒されているかということが解るのではないでしょうか? 須磨穂教の熱心な信者となって、一日中画面を見続けているような人に、内観する時間は全く訪れません。そこにさらに、ロボットとAIが、これから無制限に加わって行くのです。これからの人間は、文字通りの「魂」の脱け殻、ただの奴隷ロボットと化して行くことでしょう。

 

ですから、あなたが、今後も「魂」を有した人間として、この惑星に生き続けたければ、まるで大津波のように押し寄せてくる、この時代の同調圧力に抗って、自分のコントロール意識というものを、今以上に意識し、それを点検し、そして内観し、内なる声に静かに耳を傾けて、本当の自分、真実の自分を思い出して行くしかないのです。すべては、そこに掛かっているのです。

 

もう、いつまでも同じ場に留まって、逡巡している場合ではありません。あなたは蝶なのです。サナギであり続けることを止めなければ、そして羽化しなければ、自分がどんな羽を持った蝶であるかは判らないのですよ。先ず、脱皮しなさい。あなたはあなたです。いったい何を怖れるのですか? 朝顔の種は朝顔を咲かせ、胡瓜の種は胡瓜を実らせる。そこに迷いがあるでしょうか?

 

自分が幸福だと思えば、その人は幸福。自分がいま楽しいと思えば、その人は楽しい。実に簡単なことです。これ以外の何の秘密があるというのでしょう? 幸福への秘訣は、全部ここに集約されているのです。それを、「そんなことは思えない」「不可能だ、絶対に出来ない」という人の頑固さを、さらに解かしてあげられる言葉を、わたしは持ちません。

 

それほどまでに救われたいのなら、どうして、自分で自分を救おうとはしないのでしょうか? ただ、ありのままの自分に還ればいいだけなのに。鎧や仮面を全部脱いでしまえばいいだけなのに。自分の中にある、素直さと、正直さと、普遍的な愛を、ただオープンにしてしまえばいいだけなのに‥‥。

 

何も持たなかったら、失うものだってないじゃないか

君は透明人間みたいなものなんだよ、だから隠す秘密も何もない

    ボブ・ディラン(Like a Rolling Stone)

 

いったい何に、いつまでもこだわっているの?

 

言ったでしょう。この世は劇場で、あなたのドラマは、つねにあなたが主役。それをどう演じるかは、あなた以外には決められないのですよ。待っていても、誰かが何とかしてくれることはないのですよ。本当に救われたいと思うのなら、ご自分を動かしなさい。自分で自分を救いなさい。

 

悩める人よ。

脱出(Exodus)したければ、

これ以上、しのごの言わず、とにかく先ず動け!

Move, Move, Move.

 

「信」が持つ力を、利用して生きる

前回のメッセージを読んで、こう思われた方はいないでしょうか?

じゃあ、「素直で、正直に生きよう」という「信念」を持って生きている人は、どうなるわけ? それだって一つの「信念」だよね。その人も、必ず「嘘」をつくということになるわけ? でもそれって、矛盾してやしませんか?

 

そう思った人は鋭い! えっ、そんなこと全然考えもしなかったって? う〜ん、その人はあんまり鋭くないですねぇ。いつも言っているじゃありませんか。このブログに書かれてあることを含めて、外から来る情報は一切「信じ」てはダメだって。鵜呑みにしてはダメなんだって。疑って、疑って、自分の「直観」の中に答えを見出すんです。それだけが、あなたが信じていい唯一のこと。

 

もしもその人が、「素直で、正直に生きる」という「信念」を固く胸に抱きつつ生きていたとしたら、その人は、やっぱり苦しむでしょうね。「信念」というのは、結局のところ、自分を縛る鎧ですから。つまりそれはぜーんぜん「素直」じゃない。素直なフリをしようとしているだけ。そう演じることで、本当の自分に、真実の自分に、やっぱり「嘘」をついているんですね。

 

例えば、これを正直に言ったら、明らかに相手を傷つけてしまうと分かっていることがあるとしましょう。あなたはそれを、ただ「正直であるべきだ」と金科玉条的に考えて、その通り告げることを選びますか? ルールを決めれば、確かにそれは楽かも知れません。でも、人間関係の学びにはならない。告げた方がいい場合もあれば、告げない方がいい場合もある。だからこそ、学習機会になるのです。

 

「素直さ」というのは、特定のどんな信念も保持し続けないということです。たとえ直前まで何かの信念を持っていたとしても、「気づき」が起きた瞬間に、それをパッと捨てられるということ。改められるということ。いつでも自分を変えられるということ。自分が間違っていたということに気づいたら、すぐに謝れるということ。それが「素直さ」というものです。

 

「素直で、正直に生きよう」と心掛けることと、それを特別意識しないでも実現できていることとは、次元が違うのです。「意識」の置き場所がちょっと違うんですね。「素直で正直」というのは、いったい誰に対してのことだと思いますか? 自分ですよ。己れに「素直で正直」である人は、結果的に、他者に対しても「素直で正直」になれるし、周囲にもそのように映るんです。ただ、それだけのこと。

 

でも、言うは易し行うは難しで、素直で正直に生きることを、意識しなくても実現できているようになるまでには、何年も掛かる。いつも言っているように、「解る」には三段階がある。先ずは全然解らないし気づかない。次に、あることにパッと気づく。そしてストンと腑(体の内)に落ちる。その後に、自分の中の細胞が少しずつ変わり始め、何年かすると、遂には新しく芽生えた意識と自分とが一体化してしまう。これが、本当に「解った」ということ。

 

ですから、何にも増して、その人に「気づき」の瞬間が訪れなければ、その先の三段階めはないのですよ。そしてその瞬間は、その人が、それを受け取る準備が出来た時にだけ、グッドタイミングでもたらされるのです。だからなおのこと、「素直で正直」であることが重要だというわけ。「信念」という盾で凝り固まった人たちは、自分に贈られたせっかくのメッセージを、みんな撥ね退けてしまいますからね。

 

さあ、解ったかな? あなたが、ただ「素直で正直」でありさえすれば、メッセージはどんどんもたらされるのだよ。真理の知恵は、いわば大海のようなもので、それはいつもあなたの周囲に流れているのです。それを、気づかずに素通りして生きるのか、欠けた小さな盃に受けるのか、大きな鉢でたっぷり受け取るのか、穴の空いたザルで汲みに来るのか、その違いだけなのです。

 

あなたの上にこぼれ落ちたしずくが、たとえ一滴だったとしても、それを見逃さずに、心底ありがたいと思って飲み干せば、あなたの器はどんどん大きくなるのだよ。それは、幾何級数的な発達をもってね。その発達段階を、上手に乗り切る方法を、今日のこのタイミングで特別にあなたにお教えしよう。それは、「信」が持つ力をうまく利用するとよいのだよ。

 

先ほども言ったように、たとえ瞬間的に何かの「気づき」を得たとしても、その先に進んで、本当に「解る」という段階に至るまでには何年も掛かる。焦る必要は全くないのですが(というのは、宇宙は永遠の無時間だから)、多くの人はせっかくの「気づき」を得ても、直ぐに、これまで吹き込まれて来た価値観で、まるで黒板消しを走らせるようにサッとそれを打ち消してしまう。

 

これが、地球人の覚醒がなかなか進まぬ大きな原因なのですね。ですから、一つの「気づき」を得たら、次にはそれを意識に上げて、留め置くことが大切です。このようにして、自分の意識を意識することによって、顕在意識の奥にある超意識の扉が少しずつ開かれて行くのです。そして、これを習い(習慣)にすれば、あなたの霊性は、やがて幾何級数的な発達を見せるようになるのです。

 

その際に、途中段階にある間は、また葛藤で苦悩する間は、「信」が持つ力を利用すればよいのです。「信」は、自分を変身させる強力なツール。「信」が、あなたという人間を育て、あなたの個性を形づくっていると言っても過言ではありません。試しに、私が「あなたは誰ですか?」と訊いたとしましょう。あなたは、あれこれと説明をします。それは、あなたが自分に対して持っている「信」に他ならないのです。

 

けれど、普通の人は、そんなことを考えたこともありません。自分の意識を意識することもなく、まるで夢遊病者のように暮らしているのです。ですから、古来より「目覚めよ」とか「眠りから目を覚ませ」と言い続けられているのです。多くの人は、自分がちゃんと目を覚まして活動していると思っています。でも実際には、集団催眠術に掛かっていることを知らないのです。

 

ここで「思念」というものが、あなたが形づくる世界に、どう働いているかを改めて考えて見ましょう。この例は前にも書きましたが、あなたが今晩の夕食を作って食べたとしましょう。それは、あなたが献立のプランを描き、実際に材料を買い求め、それを手順を考えて調理し、皿に盛ってテーブルの上に並べたから、それが夕食として現実化したのです。

 

このように、現実化しているものの前には、それに先立つ「思念」が必ず作動しているのです。あなた方は物質界に生きているので、物質界で起きていることのみを「現実」と捉えていますが、そうではなくて、数ある思念のうちの、特定の物質化された世界を、選択的に生きて、それを確かな「現実」だと思い込んでいるだけなのです。

 

でも、このことを、「本当にそうだなぁ」と思えるようになるまでは、先ほども言ったように至難の業で、取り敢えずは「そんなものなのかなぁ」という程度のものを、頭の片隅に意識して置いておくしかありません。がしかし、思ったものが(少なくとも思ったものの一部が)現実化している、という法則がそこに働いているということには注目して欲しいのです。

 

*至難の業:それを獲得するのが難しいのではなく、それまでを捨てることが難しい。一種のパラドックスです。

 

さてそこで、この世界には今、あまりにも多くのネガティブな「思念」が飛び交い、これらで全世界が溢れ返っています。日増しに空気がトゲトゲしくなっている。でも、「波動」というものを峻別することが出来ない大多数の人たちには、勿論そんなことは分かりません。でもこれが、人々に影響を与えないわけがないのです。それぞれの人の深部では深刻な影響を与えているのです。

 

敏感で内向的な人たちは、今の荒れた「波動」が渦巻く社会に息苦しさを覚え、自然と他人との接触を避けるようになっています。さらに、それが昂じると「精神疾患」のレッテルまで貼られ、二重に苦しんでいるのです。一方の鈍感で外交的な人たちは、無意識的に、粗い「波動」に同調することによって生き残りを図ろうとし、ますます威圧的に、差別的に、暴力的に振る舞う傾向を強めているのです。

 

はっきり言って、社会全体が病んでいます。しかしその病んだ社会に、なおも同調するように仕向けられているのが、現代というものが持つ社会病理なのです。こうして、病んだ人たちが多数生み出され、その人たちがまたさらに病んだ社会を創り、その社会がさらに病んだ人を生み出す、という悪循環がエスカレートしているのです。これが、地球人類全体が催眠術に掛かり、まるで夢遊病者のように暮らしていると言うゆえんです。

 

どうして、この悪循環をストップできないのでしょうか? それは、地球人類が未だに無智なためです。この宇宙の成り立ちを知らない。この世を動かしている本当の道理を知らない。ただ宇宙の真理について無智なだけではなく、外から来る情報には直ぐに心を動かされ、夢中になり、これを「信じ」てしまう。ですから、この世を操ろうとする者たちの術中に、簡単に落ちてしまうのです。

 

ですがここで、「思念」が現実を創造するという法則を思い出してください。あなたが、歳をとってから生活に困るぞ、とまるで呪文のように思い続けていたとしたら、実際に困るようになりますし、健康診断を受けなければ病気なるぞ、と思っていれば病気になります。少なくともその可能性が高くなる。そういう「思念」が現実を創造するからです。

 

同じように、第三次世界大戦が起こる思っていれば、世界大戦になりますし、大地震が来るぞと思っていれば、大地震が来ます。そう思う人々の意識が集まって、臨界量を越えれば、それが現実化します。そう思って、今の世の中を改めて見てください。いかに人々の不安を掻き立て、心を粗げさせ、欲望を刺激するものばかりで溢れ返っているか。政治も、経済も、ニュースも、広告も、それらで埋め尽くされていることが分かるでしょう。

 

でもここで考えてみてください。そのようにメディアを通じて発信されている社会通念と、あなたの人生とに、いったい何の関係があるというのでしょうか。そんなつまらない、くだらない、意図的に操作された、どうでもいい情報を仕入れなくても、あなたは生きられる。いや、むしろ、その方が生き生きとあなた自身を生きられる。これが、再三言っている「あなたはあなた」ということなのです。

 

あなたは、あなたの人生を生きれば、それでよいということ。何も、病んだ社会に適合する必要も無ければ、自分からわざわざ巻き込まれに行くこともないのです。しかし周囲は、また洗脳された人々は、それでもなお、腐った社会に同調するように、プレッシャーを与えて来るでしょう。でもそんなものは、勇気を持って撥ね退けなさい。街角で差し出されたティッシュペーパーを「結構です」と断るように。

 

代わりに、「信」が持つこの力を逆利用するのです。ネガティブな「信念」が、いかにその人に悪影響を与えているかということが解ったなら、その力を活用してポジティブな「信」に変えてしまうのです。私はすこぶる健康だと思えば、その人は健康ですし、いつも元気だと思えば元気いっぱいです。やることなすことみんな楽しいと思えば、毎日が楽しく送れるのです。これが、いつも言っている「持ち替える」ということ。

 

ゴールまでの道程は遠いかも知れません。でも、その遠さに圧倒されて、今日の一歩を踏み出さなければ、あなたの進歩は永遠にないのです。どんなに遠い道であっても、今日一日という時間を、明るく、楽しく、元気よく歩けば、そう思い込めば、道々で出会うものの意味が違って来るのです。そのために、「信」の力をポジティブに活用しなさい。

 

この世は、所詮は幻なのですよ。幻だと知った上で、取り敢えずのポジティブな「信」を生きるのです。木々の緑の中に、生命の輝きを見ようとしてご覧なさい。湖上の水のきらめきに、妖精が踊っているのを見ようとしてご覧なさい。憎い相手の心の奥にも守護霊の愛があることを見ようとしてご覧なさい。それを習慣づければ、少しずつ少しずつ、あなたは真実の自分に近づく。

 

そして、やがて気づく。もはや「信」など必要ないことを。

ただ、ありのままの自分で、よかったのだということを。

人はいつでも変われるが、変わる意志を持たなければ変われない

「人の性格は変わらんよ」と言う人と、「いや、人間はいつでも変われるんだ」と言う人がいます。私はもちろん後者です。人は、いつでも変われます。たとえ、死ぬ1秒前であっても。「性格は変えられない」というのは、長年、自分の周囲を観察して来た結果、その人が悟った嘆き節と言えるでしょう。確かに、そう思わせる面が人間にはあります。でも、それで一括りには出来ないのです。

 

世の中には、自分を「変えたい」と強く思っている人と、「変わりたくない」と思っている人、その両方が共存している人、そして、そもそもそんなことは考えたことがないという人がいます。このブログを読んでくださっているみなさんは、少なくとも「変えたい」「変わりたい」思っている人たちだと私は信じます。そうでなければ、ここへは足を向けてくださらなかったでしょうから。

 

なぜ、自分を「変えたい」と思うのか。それは、ひとことで言えば向上心があるからです。今の自分に満足していない。もっと違う世界や、体験や、到達できる心境があるのではないかという好奇心が、その人たちの内部では優っているのです。でもこの向上心は、世間で言うところの向上心とはちょっと違う。それをあなたも分かっていらっしゃいますよね。

 

多くの人は、なりたい自分というものを、自分の外側のもので規定します。スタイルや、外見や、服装や、宝飾品や、家や、一緒に腕を組んで歩く人や、クルマや、財産や、肩書きや、名声です。でも次のシーンを想像してみてください。今あなたは死の床にあります。そして、これまでの人生を静かに振り返っています。さて、今度の人生で、どういう自分にあなたは「成った」のでしょうか?

 

あなたを規定してくれていた外側のものは全て、すでに効力を失っています。では、死の床にいるあなたはいったい誰なのか? もう内なる自分しかないではありませんか。その内なる自分、本当の自分、真の自分は、今度の人生を通じてどこまで「成った」のか? それが今世における成果です。そして、あなたは息が絶えても死なない。その内なる成果だけが、次の人生へと受け継がれるのです。

 

そのことを、あなたの「魂」は直感で知っています。あなたは、ご自分の「魂」の声に素直な人です。ですから、あなたは自分を「変えたい」と思うのです。私も、若いころから、自分を「変えたい」とずっと思い続けて来ました。今でもそれは変わりません。欠点だらけの自分、心をコントロールできない自分、他者とうまく付き合えない自分、引っ込み思案の自分、etc.。

 

若い時には、みんながよくやるように、自分の欠点と克服すべき課題をノートに書き出して、いつもそれをチェックしては戒めにしていました。いま振り返ると、自分を見つめるということではそれらは意味があったのですが、「欠点」克服というアプローチ方法は誉められたものではありませんでした。それで、ずいぶん回り道をしてしまったし、いささか神経症的にもなりました。

 

でも、そうじゃなかったんです。「欠点」を克服しようとするのではなくて、自分が思い描く「理想」に近づくことを目指していれば、もっと早道だったんです。しかも楽しんでね。「理想」に近づいて行けば、その分だけ「欠点」は自動的に減って行ったわけです。当時はそこに気づかなかった。そのため、「こうすべき」や「ねばならない」を連発する習慣に陥り、それで神経症になってしまいました。

 

結局、何がいけないかと言うと、そういう戒めは、いちばん大切な「自由」というものを、自分自身で拘束してしまうのです。それで、本来「自由」でありたい「魂」と、頭で考えた「意識」とが葛藤を起こして、それで苦しくなってしまうのです。ところが、そういうメカニズムを知らないものですから、まだまだ戒めが足りないと思い込み、ますます強化しては苦しみに拍車をかけてしまっていたのです。

 

ですから、なりたい「理想」を鮮やかに想い描くということが、とても大切です。「理想」なしに「欠点」ばかりを克服しても、じゃあいったいどこへ向かうのか、ということになってしまいますからね。「こういう人に私はなりた〜い」「こういう人に、まさに自分はなっている」という理想像を、ありありと想い描くというところから、自分を変える生き方が始まるのです。

 

さてそこで、「理想」の描き方ということが問題になって来ます。先にも書いたように、「理想」を外側のあり方ばかりに求めていたら、それは「魂」の成長というものに繋がって行きません。若い時には、変なものに憧れて随分とヤンチャをしたりしても、齢を経るに従って、普通は、しだいに内側の成長に目を向けるようになって行くものです。またそれが、よき人生のあり方というものです。

 

ところが、そういう外側から内側への意識変化というものに、ほとんど興味のない人たちが大勢いるのです。幸福とは、自分の外にあるなにがしかを手に入れることだと固く信じて生きて、ついにそれを手にする。例えば、財産や、地位や、名声や、愛人です。すると、今度はそれを失うことが怖くなっていきます。その結果、現状維持に血眼となり、いくら齢を重ねても、自分を「変えたい」などとは少しも思わなくなってしまうのです。

 

なんと憐れな人生でしょう。えっ、お前に言われたくないよ、ですって。まあ、そうでしょうねぇ。その人からすれば、自分がなぜ変わらなくちゃいけないのか、自分のいったい何を変えろと言うのか、そもそも「人が変わる」ということにどんな意味があるのか、と思うでしょうからね。でもね、だから憐れだって言うんですよ。今世のせっかくの機会を、なぜ活かさないのかなって思ってね。

 

自分を「変える」ということは、本当の自分、真の自分に近づいて行くということです。この地上に生を受けた目的は、それしかありません。地上で出遭う様々な体験は、すべてその「気づき」のために用意された道具に過ぎないのです。ですから、先ずは「気づき」というものに気づく必要があるのです。「気づき」にすら気づけないようでは、霊性向上の出発点にも立てません。ですから、そういう人たちが憐れなのです。

 

みなさんの中には、逆だと思っていた方もきっとおられるでしょう。やりたい放題、我が物顔でノッシノッシと歩き、ちっとも反省のない人たちを見て、怒りとともにこの世の不条理を嘆く人たちもさぞかし多いことでしょう。「それに比べて自分は‥‥」と、惨めさを呪う人もおられるでしょう。誰あろう、かつての私がそうでした。でも、そう考えてはなりません。あなたに訪れる苦難は、全てあなたという種子をはぐくみ育てる手段なのです。

 

元プロ野球選手だったKさんは、覚醒剤使用で逮捕され44日間を獄で過ごしました。人気者であっただけに、その反動は数十倍にもなって彼の心を深く抉ったことでしょう。表面的に見れば、彼にとって、それは人生最悪の災厄だったと言えるかも知れません。でもそうなったことで、彼は自分を「変える」機会を与えられたのです。これは天の配慮です。後は、Kさんがそれをしっかりとものにするかどうかです。

 

一方、最高権力者であるAさんは、嘘に嘘を重ね、破綻をきたしてもなお居直り、我欲のために、省庁も、日銀も、警察も、検察も、裁判所も、マスコミすらも抱き込んで、独裁体制をひた走っています。もはや民主主義もなく、三権分立もないので、たとえ違法行為をしたとしても、自分やお仲間たちが逮捕されるということはありません。これはAさんたちにとって、果たしてよいことなのでしょうか?

 

これも、表面的に見ればよいことのように思えます。実際、Aさんやお仲間たちもそう思っているからこそ、国民に嘘をつき続けることを止めないのでしょう。けれども、そうすることで、この人たちは自分を「変える」せっかくの機会を失っているのです。獄に繋がれたKさんと、逃げおおせるAさんたちと、どちらが不幸なのでしょう? 一体どちらが憐れなのでしょう?

 

罪や罰というのは、すべてこの世の論理です。何度も言って来たように、真理の世界には罪も罰もありません。自分が為したことは、自分に返るという鉄壁の法則があるだけです。ですから、他者を騙すことは自分を騙すことであり、他者に嘘をつくことは、自分に嘘をつくことになるのです。その真意を知らないものだから、自分を「変える」機会を、先延ばし先延ばしして行ってしまうのです。

 

ああ、憐れなり。でも、人はいつだって自分を変えられるのです。その気になりさえすれば、死ぬ間際だって人は変われる。それが聖なる救い。でも、その人が「変わろう」と言う意志を持たない限り、人は変われないのです。ですから今、あなたが、自分を「変えたい」「変わりたい」と心底願っていることは良いことです。それでこそ「魂」の成長があるのですからね。

 

でも、今の自分を抹殺してはいけないよ。反省はいいが完全否定してしまってはダメだ。己の中に巣食う利己心をジャンピング・ボードにし、未熟さを教師にするのだよ。それらは、あなたに何かを気づかせようと与えられたものだから。だから感謝しなさい。自分の未熟さ、至らなさに。そして、力強く飛躍するんだ。サナギから蝶へと。

 

ご自分の意志の力を信じなさい。あなたを規定するのは、あなたの外側にあるものではなく、あなたの意志が、明日のあなたという人間を創り育てるのです。善なる意志は健康をもたらし心を平安に導きます。不善なる意志は細胞を傷つけ心を荒げます。だから善なる理想をお持ちなさい。あなたは変われる。変われます。サナギから、この上なく美しい蝶へと。

「完全なる奉仕の人となる」とは?

7月2日掲載の『パワースポット』の内容に関連して、次のようなご質問を頂きました。

 

Q.前回のメッセージ中に、〈完全なる奉仕の人となるように〉という言葉がありましたが、「完全なる奉仕の人となる」とは、一体どのような状態を指しているのでしょうか? また、どのように行動すれば、完全なる奉仕の人に近づけるのでしょうか? 私の考えでは、どんな些細な事であってもよいから、自分がされて嬉しいと思う事を、気が付いたらどんどんやるという習慣を身につければよいのかな、と思っているのですが、それでよいでしょうか。

 

A.先ずあなたが、その言葉に眼をお留めになり、ご自分も「完全なる奉仕の人」を目指そうとなされていることをとても嬉しく思います。その勇気、寛大さ、誠実さは、何ものにも代え難いものです。すべての人が、もしもあなたのようであったなら、地球は変わるでしょう。そして、人類は救われるでしょう。

 

さて、「完全なる奉仕の人」とあるということは、それがあなたの心に引っ掛かったように、そして既にお気づきのように、「不完全な奉仕」という段階もあるということを示唆しています。なぜ、わざわざ「完全なる」という形容動詞が付けられているのでしょうか? なぜ、そのように強調されているのでしょうか? それは、いわゆる「奉仕」とは違うものなのでしょうか?

 

「奉仕」とは、普通、他者のために出来るなにがしかを自分がする、という行為を指しています。それはそれで、立派な心掛けです。あなたが仰る「どんな些細な事であってもよいから、自分がされて嬉しいと思う事を、気が付いたらどんどんやる」ということも、「奉仕」の素晴らしい行動原理です。では、それを徹底して行っていけば、「完全なる奉仕の人」に近づけるのでしょうか?

 

近づけるかも知れません。でもそのアプローチは、どこか無理をしていないでしょうか? 「エイッ!」と気合いを入れないと、継続はなかなか難しいのではないでしょうか? そして、そのように無理し続けていたら、きっと疲れてしまうと思うのです。すると、その「疲れた」心の状態、義務感のようにしてやっている心の状態が、相手に伝わります。

 

形の上では「奉仕」をしていても、自分が喜んで行っていない行為というものは、本当の「奉仕」にはならないのです。いわゆる「支援」と称する活動の多くが、息苦しさを感じるのはそれが理由です。

 

実に、ポイントはそこです。「行動」のあり方や、あり様ではないのです。それを為す人の、「心」のあり方、あり様が肝心なのです。「心」のあり方、あり様が、つねに愛に溢れ、喜びに満たされていれば、その人が為すことは、すべて自動的に「奉仕」となるのです。これが、「完全なる奉仕の人」になる、ということです。

 

しかしこれだけでは、何を言っているのか、たぶんお解りにならないでしょう。以前に、善と偽善のことをお話ししましたね。これと同様のことが、「愛」の学習についても、また「奉仕」についても言えるのです。人は、誰しもが、中途半端な「善」、中途半端な「愛」、中途半端な「奉仕」という段階を経て、完全なる「善」、完全なる「愛」、完全なる「奉仕」の人に至るのです。

 

未だ「善」を知らない → 「善」に気づく → 完全なる「善」の人になる

未だ「愛」を知らない → 「愛」に気づく → 完全なる「愛」の人になる

未だ「奉仕」を知らない → 「奉仕」に気づく → 完全なる「奉仕」の人になる

 

大きく言って三段階。この中間段階にある時(大多数の人がそうですが)に、人は心が定まらずに悩みを抱えるのです。しかしそれは「学習途上」ということであって、心の葛藤や悩みは、その人に贈られたテストとなっているわけです。そして少数の、未だ「善」を知らない者が悪を為し、未だ「愛」を知らない者が他者を支配しようとし、未だ「奉仕」を知らない者が私利私欲に走るのです。

 

これは「魂」の成長のプロセスであって、完全でない人間がダメだと言っているわけではありません。誰もがこうした道を通って、いつかは完全に至るのです。そう思って見れば、悪を為す人の心理も解るでしょうし、その人を許すことも可能でしょう。そして、完全なる「善」の人となった暁には、その人は、同時に完全なる「愛」の人にもなっており、完全なる「奉仕」の人にもなっているのです。

 

以前、『高僧と言われる人よりも、農村で暮らすお婆さんの方が人間的にずっと先を行っているように思えるのはなぜか?』という、長〜いタイトルのメッセージを掲載したことがあります。自然とともに生き、自然を敬い、欲得を忘れ、毎日を穏やかに過ごす人は、自ずと、完全なる「善」、完全なる「愛」、完全なる「奉仕」の人に近づいて行くわけですね。

 

では、そのような人は、何が違うのでしょうか。想像してみてください。「よしッ!これからは善を為すぞ」と誓ったり、「愛に生きるぞ!」と決意したり、「人々に奉仕しよう」と努力したのでしょうか? もしそうであれば、まだまだ本物ではありません。誓いや、決意や、努力なしに、自然にそれらが出来ている人こそが本物の聖者です。いったい、どこがどう違うのでしょうか?

 

「喜び」の質が違うのです。先ほど言った三段階。これを喜びの質から見ると、肉の喜び、心(魂)の喜び、魂の奥(霊)の喜びへと、進化して行っているのです。ですから、内なる「霊」の喜びに生きる人は、まったく自然に、「善」「愛」「奉仕」に生きることが出来るのです。そして、この心境に至った暁には、その人は「全ては我がためにあり」との感慨を得るのです。

 

これを聞いて「えっ!」と思われた方も多分お在りでしょう。一見すると、これは驚くべき結論であるかも知れません。また、大いなる誤解をもたらすかもしれません。なにしろ、「他者のため」ではなくて、「全ては我がためにあり」と思えるようになることが、「完全なる奉仕の人」「完全なる愛の人」「完全なる善の人」になることだと言うのですから。

 

それは、エゴの最たるものではないのか? 違うのです。「全ては我がためにある」のですから、どんな災難も苦悩も「我がためにある」と受け入れるということですし、何を為しても見返りを求めるということがありません。また、自分にとって都合の悪い出来事を、他人のせいにするということもないのです。

 

ちなみに、釈迦の誕生時の言葉として知られる「天上天下唯我独尊」は、これと同じ境地を語ったものです。

 

「奉仕」活動を、「誰かのために」と思ってしている間はまだまだ浅く、「すべては自分のために」と思えた時に、それは本物になるのです。だからこそ、その人は、毎日を、この瞬間々々を、喜びの中に生きることが出来るのです。

 

その人にとっては、「奉仕」する対象がもはや違うのですね。「他者」にではなくて、「神」に奉仕する人間になっている。エゴを完全に滅して、自分を「神」の通り道にしてしまったのです。自分は単なるパイプ役に過ぎない。そうやって全部を「神」に委ねてしまう。そうなると、その人がする行動はどんなものであっても、全部が自動的に「完全なる奉仕」になってしまうのです。解りますか?

 

「神」とは何でしょうか? 「全宇宙」の別名です。ですから、「神」に奉仕するということは、取りも直さず、全ての人々、全ての自然、全ての生き物に奉仕することと同義なのです。そして、そのように生きることが、「光への道」の歩みなのです。

 

しかし、この道は決して平坦ではありません。批判や、誹謗中傷、時には攻撃も覚悟しなくてはなりません。なぜかと言えば、普通の人々には、その心境や感覚が理解できないからです。大多数の人は、未だ中途半端な「奉仕」の中に生きています。そこではスケール(物差し)が当てられ、量の多寡で「奉仕」が測られます(たとえば、寄進額や貢ぎ物で)。ですから、それを超越した「神」への奉仕は、その人たちからすれば、単なる独善にしか見えないのです。

 

ですから、マザー・テレサも独善的だと批判されましたし、『死ぬ瞬間』を書いたエリザベス・キューブラー・ロス医師などは、自分が設立したホスピスのコミュニティを、二度にまで渡って焼き討ちにされてしまいました(一度建てて焼かれ、再建してまた焼かれた)。このように、「光への道」を生きることは、人々の無理解を覚悟しなければならないのです。

 

しかし、でも歩まねばなりません。いいえ、こんな時代だからこそ、一人でも多くの人に歩んでいただきたいのです。権力者の不正や嘘が大っぴらにまかり通り、それを咎め立てする機関もなければ、内部告発する者もいない。みんなが、低我の満足のために、自己の「魂」の、真我の声を裏切って行動し、仲間以外の人たちを奴隷のように扱って支配しようとする。未だ善、愛、奉仕を知らない憐れな権力者たち。無明の中に生きる人たち。

 

これらの「魂」たちに、内なる気づきを与えてあげてください。それには、みなさんが「光」を発することです。「光」の輝きで、硬く凝り固まった「魂」の扉を溶かしてあげることです。だから、友よ。完全なる奉仕の人を目指せ。そして、わが使徒となりなさい。わたしとあなたはつねに共にある。

光への道に、早道はあっても近道はない

「光への道」とは、人が、霊的完成へと至る道のことです。霊的完成が解りにくければ、人間完成への道と言い換えてもよいでしょう。人間、誰もが霊的存在なのですから、結局は同じことです。人は、それを意識するしないに関わらず、すべての「魂」が「光への道」を歩んでいるのです。

 

「光」は、「魂」が目指す最終ゴール。人は、何度も輪廻転生を繰り返しては、ちょっとずつ成長し、そこを目指すのです。「解脱」とか「覚り」というのは、その過程で通過する一つの段階。ニルヴァーナ(涅槃)は、そこに至った際に味わう感覚世界です。そして、ここに至るプロセスを強調したものが、老子が説くところの「Tao(道)」です。

 

このように、宗教は、どれもが基本的には「光への道」を案内しようとするものだったのです。けれども、組織化する中で、しだいに人間のエゴが膨らみ、全体像を見失う中で一部分だけをとらえた教義に固執し、ついには我のみが正しいという、歪んだ主張を互いにするようになって行ったのです。

 

あなた方の社会は、古い寓話や古い教えを過大評価する傾向があります。これだけの長期間、言い伝えられて来たのだから、きっと意味があるのだろうと思うのです。しかし、古さと真理とはイコールではありません。霊的世界には時間がありません。無時間かつ永遠です。ですから、どの時代にあっても真理への扉は開かれています。そしてそれは、不変かつ不偏かつ普遍なのです。

 

考えてみてください。いついかなる時代にあっても、どんな肌の色であっても、どんな民族でも、どんな言語でも、またそれを信じようが信じまいが、変わらず通用する法則こそが、「真理」の筈ではありませんか? 我が教えだけが正しくて、他はみんな邪宗、邪教。我が教えを信じる者だけが救われて、不信心者はみな地獄行き。そんなものが「真理」である筈がないではありませんか。

 

なぜ「光」なのかと言いますと、目指す先にあるものを、「光」として知覚するからです。しかしこれは、眼で見る「光」とは違います。こういった経験がありませんか? 眼を閉じていたのに瞬間的に眩い「光」が見えた。眠っている時に夢で「光」を見た。これらはみな、眼球という感覚器を経ずに知覚した「光」です。このように、五感を超えた感覚器(第六感)が、“あるもの” を「光」として感じるのです。

 

この “あるもの” は、中心太陽とか、Essenceとか、根源などと呼ばれています。しかし、みなさんに馴染みの言葉を使えば、それは「神」です。「神」を光として感じるのです。個々の「魂」は、「神」から別れて、地上世界を含む様々な旅を経験し、最後の最後にはまた「神」の許へと帰ります。こうして「魂」は「光」と合体し、それ自身が「光」となるのです。

 

*アマテラス(天照大神)というのは、その意味

 

さて、この「光への道」が、人生の本質だと解る(それも頭で解るのはなく、心身の隅々まで浸透し、完全に一体となってしまう境地に至る)までにはたいへんな時間が掛かります。しかも、そこに至るまでには、二つの大きなハードルを乗り越えなくてはならないのです。最初のハードルが「低級我の放棄」、そして二つめのハードルが「カルマの受容」です。

 

「低級我」というのは、いわゆるエゴのことで、地位や名声や金品を欲する気持ち、また他者を支配したり傷つけたり馬鹿にしたりする気持ちを起こす我(われ)です。これは、根源から離れて、「魂」が個別化した際に獲得した、意思と行動の自由を、先ずそのように使い出したということであり、霊性の発達段階では未だ幼稚園児の段階にあります。

 

しかし、あなた方の社会は、このエゴをベースに動いており、ほとんどあらゆるシーンにおいて、エゴを刺激し、揺り動かし、これを集めることに、実に多くの人たちが心血を注いでいます。そして、政治の世界でも、経済の世界でも、より強いエゴを発揮する人が、各分野の頂点に立つような仕組みを創り出し、これを肯定して憚りません。

 

人間は、本来的に悪人というわけではなく、すべての「魂」の奥には、例外なく「根源」の意識を宿しています。けれども、一握りの極めて強いエゴを持つ人々が、政治、経済、金融、マスコミ、教育、医療などの各分野の頂点に君臨し、世の中を支配しているので、一般の人々はその価値観の中に否応なく巻き込まれて、自分を見失っているのです。

 

視点を宇宙に移して地球を眺めれば、それは、人類の奴隷化、家畜化への道に他ならないのですが、支配者の巧妙な策によって、その企みに気づくことなく、人々は自ら進んで奴隷化、家畜化への道を歩んでいるのです。そして、その状況にどうにも耐えられなくなった「魂」たちが、いわゆる心の病に罹ったり、自暴自棄になったり、自殺したりしているのです。

 

これは「地球のカルマ」と言ってよく、このために、あなた方地球人は、一面では進化しながらも、それを霊性の向上に振り向けることが出来ず、同じ過ちを何度も何度も繰り返しているのです。しかし、今度という今度こそは正念場です。今の世の中がメチャクチャに見えるのは、隠されていた闇、見過ごされて来た矛盾が光に照らされ、吹き出しているからに他なりません。

 

あなた方は、この全体の構造をしっかりと把握しなくてはいけません。どんなことにも原因があります。いま起きていることの、目の前の些事にばかり囚われてはなりません。そんなものは所詮うたかた。消えていく泡沫。それらは、支配者のめくらましです。視点を宇宙に置きなさい。宇宙から地球を眺めてみれば、事の裏の、裏の裏の、その奥の、そのまた奥の因が解るから。

 

何度も言ったでしょう。自ら進んで騙される人がいるから、騙す人が君臨できるのです。どうして、そんな人間を信奉するのでしょう? どうして、わざわざ低い霊性に近づき、自分の中に在る「根源」を欺くのでしょう? われわれには理解できません。なぜ、自分を信頼しないのですか? なぜ、自分の内なる「神」の声に耳を傾けようとはしないのですか?

 

「地球のカルマ」に振り回され続けるのは、もういいかげんに止める時です。そのためには、先ず気づいた人から、このレールを降りるのです。視点を宇宙に上げなさい。不安と混乱の中で、われを忘れて、ちょこまかと忙しく動き回っている人々の姿が見えませんか? 地球人というのは、なんと馬鹿げたシステムを創り出し、その中で右往左往していることでしょう?

 

この「地球のカルマ」というのは、個々人のカルマや、土地々々に染み付いたカルマの集合体なのです。ですから、レールから降りる人が増えれば(つまり、霊的次元にまで遡るこの因果の構造に気がつき、素朴な生き方に回帰する人が増えれば)、「地球のカルマ」も変わるのです。そこに希望を見出してください。

 

「カルマ」というものは、宇宙の法則ですから、誰もそれから逃れることは出来ません。しかし、恐れる必要はありません。自分が蒔いた種は自分が刈る。ただそれだけのことです。善い種を蒔けば、善い実りを得て、悪い種を蒔けば、それ相応の償いをすることになる。このことで、宇宙を支配している因果の法則が解り、霊的成長の機会となるのです。

 

みなさんが誤解している言葉に「浄化」というものがあります。「浄化」とは「カルマ」を受けることなのです。払うことではありません。受けることで「浄化」するのです。ですから、よくカルマを取ってあげるとか、払い清めてあげるとか、守護霊を授けてあげるとか、チャクラを開いてあげるといったことを言う人がいるのですが、そんな芸当は誰にも出来ません。

 

すべては、自分が体験することによってのみ、掴んでいくのです。だってそうでしょう。自分が体験しなければ、自分の学びにならないじゃないですか。けれども、多くの人がそれを避けようとする。悪事を働いても言い逃れをしたり、カルマを誰かに取って貰おうとしたり、ありがたい何かを授けて貰おうとしたり、いつも近道を行こうとする。

 

でもね、はっきり申し上げて、「光への道」に近道などありません。自分が蒔いた種は、自分が刈り取って進む以外にないのです。それが「神」の愛というものです。全き公平なる愛です。この意味が解りますか? 宇宙にえこひいきはないんですよ。授けて貰わなくたって、守護霊はちゃんと最初から全員についています。その守護霊さえも、えこひいきはしませんよ。なぜって、それが愛だから。

 

「光への道」に、近道はないのです。でも早道はある。早道とは何でしょうか? 「カルマ」を一つ一つきちんと受けていくことです。それが早道になる。だから、「カルマ」を受けることが「浄化」なんですよ。それなのに、「カルマ」を恐れたり、逃れようとしたり、無視したりして、自分が蒔いた種の意味に気づこうとしなかったら、どうなるでしょうか?

 

ゴールはますます遠くなります。近道を行こうとすればするほど、「カルマ」は積み増しされ、まるで雪だるまのように膨れ、その重さでヨッチラヨッチラ、近道どころか逆に遅道になってしまうのですよ。そしていつかは、その重い「カルマ」を一気に清算しなければならない時が来ます。

 

バブル崩壊とは何ですか? 欲得に駆られた人が、そのエゴを雪だるまのように膨らませてしまったから、いちどきに清算しなければならない瞬間が訪れるということでしょう? 毎日毎日、つましく少額を清算していれば、バブル崩壊などあり得ないわけです。

 

これと同じで、あなたが日々の生活を、自分のエゴに気づきながら、そのつど修正し、そして来た「カルマ」清算の機会はしっかりと受け止め、背後にある意味を考え納得し、それにめげることなく、素直に、正直に、朗らかに、親切に過ごしていけば、それがいちばんの早道なのです。「真の聖者は、素朴に生きる人の中にいる」と言われるゆえんです。

 

近道はみちくさの道。倦まず弛まずコツコツと行くのが、結局は早道なのです。

人類が、歴史から学ぶこと

記憶力が人一倍劣っている私にとって、小中学校時代の地理・歴史の授業は、苦痛、拷問以外の何物でもありませんでした。人の名前や年月日が覚えられないのです。カミさんの誕生日すら覚えられず、当てずっぽうで言ったところ違っていて、もの凄く怒られたことがあります。命日がいつだったかも、もう覚えていない。その理由が最近になってやっと分かりました。そういうものに関心がない!

 

歴史教育が大切だと言います。確かに、歴史から学ぶことには大いに意味があります。でも、世の識者が「歴史教育が大切だ」と言っていることについては、異議を唱えたいです。ロゴスとしての歴史(記述された歴史)に、所詮真実などありません。というよりも、そもそもこの世に真実などない。ですから、「歴史教育が大切だ」と言った場合、それらは例外なく、ある特定方向に思想を導きたいということを意味しています。

 

よいですか、大切なのは「教育」ではなく、自分が「学ぶ」ことなのですよ。これは全ての分野について言えます。「教育」と「学ぶ」とでは、180度も違う。「教育」とは人間をロボットにすることであり、「学ぶ」とはロボット状態から脱することです。ところが、「教育基本法」なるものが定められているのを見ても分かる通り、誰もが「教育」を無条件で是として考え、これをベースにどうあるべきかを語っているのです。

 

こうした思考法が、人類に、どれほどの歪みをもたらして来たことか。「教育」と言えば、即よいことと思ってしまう。これだけじゃありません。「倫理・道徳」と言えば、即よいこと。「経済発展」と言えば、即よいこと。「防衛」と言えば、即よいこと。「愛国」と言えば、即よいこと。「薬」と言えば、即よいこと。etc.。これらはみんな、そう思わせたいと願った支配者が作った、プラットフォームなのですよ。

 

歴史は大の苦手という私でしたが、NHKの大河ドラマや、戦国武将ものや、三国志といったものにも、全く興味が持てませんでした。一体どこが面白いのか、さっぱり解りませんでした。でもそれを口に出して言えない。多くの人が熱狂する中で、自分は歴史が苦手だし、教養はないし、ずっとコンプレックスになっていました。でもこれも、最近になって、やっとその理由が分かりました。

 

これから100年、200年経た時に、歴史の教科書に、今の政治を司っている宰相たちの名前は載るのだろうかと考えてみたのです。そして、その権力の攻防史を学習することに、果たしてどんな意味があるのかと考えてみました。結論はひとこと。バカバカしい。でも、そうならないとも限りませんよね。時が経つにつれて、寓話化され、銅像が建立され、遺品が博物館に納められ、記念小学校が造られ、郷土が誇る偉人に奉りあげられるかも知れません。

 

今やっている過去の歴史教育といったものも、これと大差がないのではないでしょうか。よく言われることですが、History というのは his story であると。つまりは男の物語、もっと言えば支配者、権力者の物語です。A国とB国が戦争をして、A国が勝ったとしましょう。すると、A国の視点から都合よく作られた「歴史」だけが残るのです。私たちは、こうした権力者の攻防史を、それが「歴史」だと言われて覚え込まされていくわけです。

 

大事な合戦で、いかなる策略を持って敵に勝利したか。どこで誰を味方につけ、誰が裏切ったのか。忠誠心の篤い優秀な家来がどれだけ適材適所されていたのか。それらを紐解くことが歴史研究ということになっています。でも、前線で槍を持って戦った足軽のC助はどうなったのでしょうか? 日報を点けていたけれど無かったことにされてしまったD作はどうなったのでしょうか?

 

歴史の藻屑と消えてしまって、語られることはありません。考えてみてください。これほど理不尽なことがあるでしょうか? 同じ人間なのに、同じ生命を宿しているのに、みんな同じ神の子なのに‥‥。戦争でどれだけ大勢の人が死のうとも、原発事故でどれだけの人が故郷を追われようとも、また生活苦でどれだけ自殺者が出ようとも、その人たちの名前が、歴史で語られることはありません。

 

いつの時代でも、歴史に名を残すのは、人々をまるで消耗品のように扱った、支配者であり、権力者であり、お金の亡者なのです。もっと言えば、非道の殺人者をヒーローとして教え込むことが「歴史教育」になってしまっている。こんな歴史など、別に、私は知りたいとは思いません。私は、今の権力者たちの顔を見るよりは、普通の人、名もなき(本当はあるんだけど)人、我が愛する友たちの方がずっと好きです。

 

歴史学習で大切なことは、そこに(自分が)何を見出すかなのです。言い換えれば、自分がその歴史に、どんな意味を与えるか、です。それが、歴史から「学ぶ」ということの意味です。これ以外に、歴史から「学ぶ」意義はありません。客観的事実などは幻想に過ぎません。「客観」も誰かの主観に過ぎませんから。ですから、誰かが意図的に与えた意味に習うのではなく、自分が意味を与えてこそ、初めて「学んだ」ということになるのです。

 

例を上げましょう。ご存知のように、日本は広島と長崎で、あの悲惨な原爆の被害を体験しました。ここで起こったことをよく知れば、またどういう経緯でそうなったのか、そして体験者がその後どうなったのかをよく知れば、同じことを、自分が再び体験して味わう必要はありません。「こんなことは、もう絶対に嫌だ」と思うだけでよいのです。そこに、歴史から「学ぶ」ことの意義がある。

 

ところが、そう思わない人もいるのです。戦争の抑止のためには「核」が必要だ。自分たちに敵対する国を時々「核」で脅してやることも必要だ。場合によっては、小型の「核」を使ってもいい。あるいは、史上最悪の原発事故を経験しても、日本には原発が必要だ、再稼働を急げ、と言う人もいる。こういう人は、いったい歴史の、どこに、何を学んでいるのでしょうか?

 

この数年で、歴史の裏側や、闇の勢力の存在について、多くの人が本当のことを知るようになりました。このブログを書き始めた当初は、私もかなりぼかした言い方をしていたのですが、もうそんな必要もないかも知れません。これは、既に何度か語って来たように、地球に対して、宇宙から今、アセンションの強い光が注がれているために、隠されていた闇がどんどん明るみに出ているのです。

 

そして、これも何度も書きましたが、ジョン・レノンが「世界は狂人によって操られている」と言いました。今の日米を見れば、「本当にそうだなぁ」と思うのではないでしょうか。世界史は謀略の歴史です。謀略に次ぐ謀略で、人々が表で信じ込まされて来たことと、裏側はまるで違うのです。日本でも、明治維新にまつわる闇や、日露戦争開戦の裏側などを知る人が随分と増えて来ましたね。

 

しかしこの謀略が、以前ほどは、すんなりとは通らなくなっているのです。「シリアが化学兵器を使用した」と言って、トランプ大統領は国連決議も経ずに、また米国議会の承認も得ずにシリアを爆撃しました。これに日本は、精査もせずに、直ちに支持を表明しました。しかし、この化学兵器使用の証拠とされる映像が、ヤラセの演出であったことがすぐにバレてしまいました。

 

謀略が拙速なのです。すぐにバレるような嘘をつかざるを得なくなっているのです。ケネディ暗殺の闇は50年間もちました。ベトナム戦争の闇は40年間もちました。でもイラク戦争の闇は10年間しかもたなかった。そして今は、一週間ももたない。だから、嘘に嘘を塗り重ねるしかなくなっている。それほど彼らは追い詰められているのです。強い光が、闇を照らし出すようになって。

 

いったい何の権利があって、デッチ上げを「正義」と偽り、他国に爆弾を落とせるのでしょうか? 人の命を、人々の生活を、何と思っているのでしょうか? 米英仏は、いったい何様のつもりなのでしょうか? そして日本は、国際的な信用をどこまで落とすつもりなのでしょうか? 歴史に決して学ぼうとしない者たちが、そろって歪んだ「歴史教育」を説くのです! ああ、この人類の終わりなき錯誤。カルマの連鎖。

 

今の世界がメチャクチャなのは、陣痛の時を見ているのです。それは、来るべき世界への産みの苦しみ。今までの秩序(のように見えていたもの)の大崩壊。世界史は謀略の歴史であり、それは闇の勢力が仕組んだものであり、時の権力者たちは、ただの操り人形。その操り人形に、さらに大衆が操られ、奴隷にされ、搾取され、戦争に駆り出され、ぼろ雑巾のように使い捨てにされてしまうことの悲劇。

 

この悲劇の原因は、一体どこにあるのかを、人類はよくよく見つめねばなりません。今の権力者たちを叩いたところで、どうにもなりません。政権が別のパーティーにスイッチしたところで、どうにもなりません。戦争を武力によって無くそうと思っても、どうにもなりません。紙幣が仮想通貨に替わっても、どうにもなりません。そういう「仕組み(System)」そのものに、欠陥があると気づかない限りは。

 

実に、ここが人類の分かれ道。何もかもが信じられない「Post-truth」の時代に、それでも「真理」を探し求める人たちに言おう。全ての因は洗脳にある。深い深い洗脳に。あまりにも深い洗脳に。

 

洗脳とは、洗脳されている間は、それが洗脳とは気づかないものだ。大衆を洗脳しているマスコミや教育が、すでに洗脳されている。そしてそれらをコントロールしている政府もまた洗脳されている。さらには、それらを陰で操っている闇の支配者たちも、実は洗脳されているのだよ。何によってか? 一なるものからの「分離」意識によって。人々はバラバラであり、人間には、優れた者とそうでない者とがいるという意識によって。

 

ゆえに、彼らは、大衆支配という道を選んだのだ。そうすることが当然だと考えたのだ。だから、平等に分配しない仕組みを創ったのだよ。そして、富者になるイメージをチラつかせて、欲望に火を点け、このシステムの俎上にあげて互いを競わせ、そのリングから落ちる恐怖を与えて自由を奪い、馬車馬のように働かせ、その後で富を奪い取る壮大な仕組みを構築したのだよ。

 

しかも始末の悪いことに、多くの宗教は、この「分離」意識の構造に、「善と悪の戦い」という図式を与えて、これを容認どころか、なお一層強化してしまったのだ。この世には善と悪があって、悪を叩くことが善を保証するのだと言って。寛容を教えるべきはずの宗教が、こぞって真反対のことを教えたのだよ。これが、今日、地球文明を破滅させかねないほどの火種となって燻っているのだ。なんと愚かな人々であろうか。

 

神の名を語って戦争をすることは、もういい加減にしてもらいたいものだ。本当に、神がそんなものを望んでいると思っているのかね。人々が流す血をわたしが見たいと、本気で思っているのかね。いいかい、善も悪もないのだよ。みんな我が子なのだよ。あるのは、「分離」という意識から、「合一」という意識に至る、意識の発達度合いの違い、つまりは霊性の向上度合いの違いだけなのだ。

 

そして、この学習の機会は、つまり霊性向上の機会は、全部の「魂」に等しく与えられているのだよ。そこに差別は一切ない! 以前に、保母さん保父さんの視点に立って世の人々を見て欲しいと言ったよね。実にいろんな人がいるんだよ。「分離」意識と、そこから派生する敵対意識、被害者意識でまだガチガチの人から、「合一」意識を体現するに至った人まで。

 

未だ幼稚園の年少レベルという甘えん坊しゃん。年中レベル、年長レベルにまでちょっとだけ進歩した人。そこを終えて小学生に上がった人。そしてごく稀に中学生レベルに達した人も。と、ここまでが地上の義務教育。これ以上は、肉体を持っている間は行けない。だが、ついでに言っておく。まだまだ道は続くんだよ。高校、大学、大学院とね。

 

幼稚園の年少組の霊性にある「魂」の横暴に、いつまでも引っ掻き回されたままでいて、どうするんだい? そして、それが許せないと言って、今度は年少組をやっつけるのかい? 違うだろう。あなたの課題は、自分がステップアップすることじゃないのかい? 自分がステップアップするとはどういうことなんだろうね。また言わせるのかい? 無条件の愛の人を目指すということなんだよ。

 

愛を与えれば、愛が返ってくる。疑いの目で見れば、疑いの目が返ってくる。敵視すれば、敵視が返ってくる。ヘイトスピーチをすればヘイトスピーチが返ってくる。異次元の圧力を加えれば、異次元の圧力が返ってくる。簡単なことだよ。みなさんが今、見ているままさ。なのに、なぜこんな簡単なことが解らないのかねぇ。いいかい、人を助けることで自分が助けられ、人を癒すことで自分が癒されるのだよ。

 

だから、わき目を振らず、ひたすらここを目指しなさい。無条件の愛に生きる人が、一人でも二人でも増えれば、洗脳に騙される人がそれだけいなくなる。何度も同じ過ちを繰り返していてはダメだ。歴史の裏、裏の裏、裏の奥、奥の奥を見るのだよ。光が射している今がチャンスだ。「魂」の世界からのみ歴史を見なさい。そして、歴史に学んで、自己の「魂」の糧としなさい。

 

あなたの健闘を祈る。

正直に生きるということ

今の国会で行われていることを見ていると、つくづく、これが人間なんだなと思わされます。「地球人は、霊的レベルからみれば、未だ小学校入学の域にも達していない」。これは、霊界のマスターたちがしばしば漏らす嘆き節です。ですから、今の国会を、大人たちがやっていることではなくて、幼稚園内での出来事だと思えば、この尋常ではないドタバタ劇も理解ができます。

 

どの人が嘘をついているかなど、ピュアな視線で見れば、誰にでも直ぐに分かること。ところが、嘘が見逃されるどころか、嘘がバレているというのに、嘘に嘘を重ねることが是認されてしまうという異常さです。駄々っ子のグループにくっついていけば飴玉が貰え、逆らったらイジメられる。みなさんは、これを園児としてではなくて、保母さん保父さんの視点に立って見てくださいよ。

 

何度も言って来ましたが、騙す人と騙される人は、持ちつ持たれつの関係です。騙される人がもしも一人もいなければ、詐欺師という商売は成り立ちません。人が詐欺の被害に遭ってしまうのは、詐欺師が繰り出す甘言に、心惹かれる部分があるからです。つまりは、自分の中に眠るエゴが刺激され活性化されるからこそ、そこに同調というものが起こり、持ちつ持たれつの関係が成立するのです。

 

今の国会を見て驚くのは、嘘を是認してしまう人の、あまりの多さ。この人たちは「嘘をつく」ことの過ちよりも、もっと大切なものがあると考えているのです。「正直である」ということを、単に方便のようなものとしか捉えていません。「正直」は単なるポーズでしかありませんから、「真摯に受け止め」とか「丁寧に説明する」とかの紋切り型の「嘘」を、平気でまた言えるのですね。

 

あなた方の殆どは、「嘘をつく」ということを、もっぱら他者に対しての作為として捉えています。けれども、霊的世界から見た場合はそうではありません。霊的世界から見た場合、その人の生き方として最もしてはいけないことは、「自分に嘘をつく」ことなのです。何より、これが最悪。そして、その怖さというものを、殆どの人が知りません。ですから、嘘に嘘を重ねて、自分を裏切り続けても平気でいられるのです。

 

多くの場合、「自分に嘘をつく」ことは、「他者に嘘をつく」ことと同時に行われています。しかし、他者についた嘘の場合には、他者の誰かがその嘘を見抜いたり、無視したりすれば、嘘は暴かれてしまって成立しません。ところが、自分についた嘘はそういうわけにはいかない。この嘘を暴く方法は一つしかないのです。それは、自分自身で暴くこと。つまり懺悔することです。

 

これが、未だ幼稚園の域にいる人には出来ない。「嘘をつきました。ごめんなさい」この一言が言えない。こんな簡単なことが、今の霊的レベルの人間には難しいのです。一度ついた嘘がバレるのが(それこそ自殺することよりも)怖い。そこで、嘘に嘘を重ねて雪だるまのようにして自分を保護しようとする。でもそれは、自分を自分で縛り付ける手枷足枷になってしまっているということに、本人は全く気がついていないのです。

 

この人は嘘をついている。大抵の人なら誰でも判ります。ところが有識者の中にも国民の中にも、これを是認してしまう人たちが大勢います。なぜでしょう? この人たちもまた「嘘をつく」よりも大切なことがある、との信念を持っているのです。それは、今の内閣が打ち出している、特定の国や集団に対する敵視政策です。これが、同じように、誰かを敵視し、貶めたいと願っている人々の感情面に火を点けて、燃え上がらせているのです。

 

つまり、その部分で、波長がぴったりと合っている。ですが、霊的に見てこれほど低いレベルの生き方はありません。人が、この物質世界に生まれて来た目的は、「分離」を超えた「融合」を再体験するためである、と繰り返し語って来ました。けれども、そのスタートラインにすら着けない人たちがいるのです。分離、敵視、闘争という感覚から、いつまでも脱け出ることが出来ない。

 

そして、最も倫理道徳観の薄い者が道徳教育の必要性を叫び、私利私欲で国を私物化しようとしている者たちが愛国を叫んでいる。ここまで来ると、もうジョークとしか思えません。ですから、倫理道徳も、愛国も、正義も、無用だと何度も言ってきたのです。そんなものは、為政者の道具に都合よく使われてしまうだけ。問題は、霊性にあるのです。霊性が高くなれば、そのような縛りは自ずと不必要になるのです。

 

「お前らは敵だ、圧力を掛けるんだ」と隣国に言い続ける。ですが、考えてみてください。そこにも同じ人間が暮らしているんですよ。「敵だ」「圧力だ」とずっと言われ続けた側は、そう言われてどう思うでしょうか? 「このヤロー」と思うのではありませんか。そこに同じ人がいるという想像力もなければ、相手の心理も考えていない。カルマの法則も、生まれ変わりの法則も知らない。全くの無知蒙昧。まさにマスターが嘆く幼稚園レベルです。

 

宇宙の法則は、究極的には次の一言しかありません。「全部が一つ、一つが全部」。何かに迷ったら、いつでもこの原点に返りなさい。そこに答えがあります。全部が一つなのですから、誰かを傷つけることは、自分を傷つけることです。誰かを貶めることは、自分を貶めることです。誰かを敵視することは、自分を敵視することです。そんなことが、人間たちには、なせそれほどまでに楽しいのですか?

 

ここで、これを読んで下さっているみなさんには、やさしい保母さん保父さんの視点に立ってみて欲しいのです。攻撃的にふるまう人たちを、攻撃によってやっつけようとしてはなりません。攻撃を反撃によって制圧できると思っているのは、あなた方に根強く浸透した幻想です。それでは、あなたも同じ土俵の上に落ちることになってしまいます。そうして、またしてもカルマが巡るのです。

 

いつもいつも闘争に身を置いている人の「魂」は、何年経っても成長が見られません。特定のセクトに先ず身を置き、その立場からものを語るクセをお辞めなさい。それは、真のあなた自身を捨てること。自分で自分を騙し続けていくことです。土俵を上から眺めて、保母さん保父さんになりなさい。未だ気づけない、幼いAくん、Bくん、Cくんらに、あなたならどういう声をかけてあげますか? どんな愛を示してあげられますか?

 

あなた方の意識は、一つの層だけで成り立っているのではありません。「心」が創る意識の奥には、「魂」の意識があります。この「魂」の意識は、さらに奥の部分で大宇宙(つまり神)と繋がっているのです。よく「神はすべてお見通しだ」と言うでしょう。それは本当です。あなたの思考も行動も、全部神は知っている。なぜ、お見通しなのかが、解りますか? 他ならぬ、あなたが「神」だからなのですよ。

 

「神」が、あなたの中に鎮座しているから。だから、あなたがしたことは、自動的に、すべてお見通しとなるのです。ですから、なんぴとも「神」を騙すことは出来ません。不可能です。それなのに、愚かな人間は、本当の自分である「魂」の声を無視して、「心」が創るエゴによって、自分の「魂」を騙そうとします。騙すことが出来ていると思い込んでいます。そうやって、自分に「嘘」をつくのです。

 

でもこれが、どんな結果になるかを、その人は知りません。あなたの左足が左へ行きたいと思っているのに、右足が右へ行けばどうなりますか? 股が裂けてしまうでしょう。自分に「嘘」をつくということは、日々、自分に股裂きの刑を課していることと同じです。それを、身体が、脳が、細胞が、苦痛として感じないわけはありません。顔つきも、どんどん悪人顏になっていってしまいます。

 

反対に、「魂」の意識と、「心」の意識がピタッと揃った時にだけ、人はピュアになり、大霊が流れ込むので「幸福」をしみじみと実感できるのです。そうすれば、顔つきも自ずと穏やかなものになり、周囲に明るい雰囲気をもたらすようになります。それが、正直に生きるということの本当の意味であり、意義です。

 

宇宙に罰はありません。罰のように思えることも、みんな、あなたがあなたに課していることなのです。そのことを知りなさい。自分が蒔いた種は自分が刈る。これは、冷徹な法則です。例外はありません。だとすれば、よい種を蒔いてみてはどうでしょうか。よい種から、よい花を咲かせてみてはどうでしょうか。

 

このあなたも、あのあなたも、みなが、かけがえのない種を持っているのですよ。なぜって、そのように創られたのだから。その種を、陽の当たるところに置きなさい。なぜ、わざわざ、陽の当たらない影の世界に身を置こうとするのですか? まるで成長のない、エゴでまみれた世界に、なぜいつまでも夢中になるのですか?

 

今の世界を、反面教師にしなさい。ダークな世界が発する誘惑には決して屈しないように。ご自分を信じなさい。自己の「魂」の成長を目指しなさい。力強く、そして限りなく。

 

あなたは生きている。今この瞬間をまごうことなく生きている。わたしと共に。