by Rainbow School
<< June 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>
不正直であり続けることは、自分の身体を傷つける

正直に生きる。人間にとって、それは最も大切なことです。

 

でもここで言っている「正直」は、世間で言われているところの「正直」とは、ちょっと意味が違います。「嘘をつかない」「正直に生きる」ことが大切だと言うと、これを杓子定規に捉えて、たとえば他者に対して、自分が思っていること感じていることを何でもかんでもぶつけるのがいいのかという方もいらっしゃるのですが、そうではありません。

 

世間で言う「正直」「嘘をつかない」は、他者に対する態度として言っていることですが、ここで言う「正直」「嘘をつかない」は、自分に対して言っていることなのです。つまり、自分の「魂」に対して、「嘘をつかない」「正直に生きる」ことが、何よりも大切だと繰り返し言ってきたのです。そして、これを言い換えると、「自由」に生きるということになるのです。

 

自分の「魂」に「正直に生きる」とは、どういうことを言うのでしょうか? また、なぜそれが最も大切なのでしょうか?

 

あなたの本質は「魂」にあります。そして、そのコアを形成する部分は、宇宙意識から「自由」を求めて別れたものであり、別れた状態にあっても、なおテレパシーによって常に繋がっています。このことから、あなたが、自己の「魂」の純粋な部分にアクセスすれば、それは自動的に宇宙意識とのチャンネルを開くことになるのです。

 

このようにして繋がった宇宙意識は、「宇宙の真理」そのものなのですから、それと繋がっている自己の「魂」に「正直に生きる」ということは、「宇宙の真理」のまさに体現となるわけですね。ですから、自分の「魂」に嘘をつかず、日々を正直に生きれば、不安もなく、間違いもなく、「自由」そのものを生きられるということになるのです。

 

他者に対して「嘘をつく」ということと、自分に対して「嘘をつく」ということは、重なっている部分も多くあるのですが、意味合いは大いに違います。他者に対して「嘘をつく」ことは、道義的な責任を問われることがある一方で、バレなければ御の字だという発想も生んでいます。ところが自分に対して「嘘をつく」ことは、その責任と結果から誰も逃れようがないのです。

 

このことを、人間は解っていません。他人に対してついた「嘘」は、隠し通せることもあると、図々しい人たちは思っています。その時、自分に対しても「嘘」をついていることは、完全に忘れているのです。自分に対して「嘘」をついているという感覚が、そもそもないのです。自分という存在は、この肉体を持ち、思考している存在だと考えているからです。

 

そうではありません。何度も言うように、あなたの本質は「魂」にあるのです。では、「魂」に「正直に生きる」とは、どういう状態を言うのでしょうか? あなたが、充分にリラックスしていて、ホンワカとした温かな気持ちにある時、あなたは「正直」に生きています。逆に、緊張して、ギスギス、ザワザワしている時には、「正直」に生きてはいません。

 

さらに言うと、嬉しくも悲しくもないのに、つまり感情は動いていないのに、ただ涙が溢れてくる。このような感動が内部から押し寄せてきた時というのは、あなたの「魂」が、宇宙の真理を掴んだ時です。言い換えると、自分が、何者であったかを思い出した瞬間なのです。それは、五感で感じる感動とは、全く異質のものです。これは、「正直」に生きているがこその感動なのです。

 

さてそう考えると、日常生活の中で、緊張を強いられたり、気持ちがギスギスしたり、ザワザワしたりすることの、なんと多い社会に、現代人は暮らしていることでしょうか? これらはみな、「魂」に「正直」に生きていないということを、正直に物語っています。

 

その原因は、一体どこにあるのでしょう? 結局それは「〜ねばならない」という数多くの「信念」を、子どもの時からイヤというほど刷り込まれ、そのまま大人になり、今度は自分が言う番になって、また多くの人々をその「信念」に従わせるということが、何万年にも渡って続いてきたからです。そして恐ろしいことには、こうした歪んだ「信念」を、強固に持つ人ほど人間社会では高い地位につけるのです。

 

倫理、道徳、正義、善、富、これらを人間社会では尊びます。悪い社会というのは、これらが失われた社会だと、多くの人が考えています。でも、世の中をよく観察してみてください。そこには、異なる倫理、異なる道徳、異なる正義、異なる善、異なる富の基準があって、互いに非難の応酬をし合っているのが現実だということを。

 

Aさんは、倫理、道徳、正義、善、富に関する自分の「信念」を持っている。今の世の中は、それらのものが失われていてけしからんと思っている。でもそれは、一人の人間の思い込みに過ぎなくて、Bさん、Cさんは、全く別の倫理、道徳、正義感というものを持っているかもしれない。「信念」を持つ人たちからは、そうした発想が抜け落ちているのです。

 

政府やメディアが断定するテロリストだって、彼らの「正義」によって行動しているんですよ。仮に、私があなたに自爆テロを命じたとしましょう。当然、誰もそんな馬鹿なことはしないでしょう。でも「正義」のためならば、人殺しだって、自分の命を捨てることだって、人は厭わないのです。

 

そんなものが、本当に宇宙の理法だとお思いでしょうか? 神のご命令だと、あなたはお思いでしょうか? ところが、宗教的信念は、その矩(のり)を、簡単に乗り越えてしまうのです。世界は一握りの狂人によって操られている。このもの凄い歪みが、ただ「信念」だけによって、今の人間社会では簡単に起きてしまうのです。

 

人間はまだ、倫理、道徳、正義や、善や富に関する価値基準そのものが不要なんだということまでは気づいていません。実にこれこそが、人間がいつまでも覚醒できない理由なのです。しかし、そうした「信念」を、綺麗サッパリ捨て去ることが、真の「自由」というものへの目覚めであり、「幸福」への扉なのです。つまり、人間社会でふつう言われていることとは、真逆だということです。

 

そして「正直に生きる」ことには、あなた方が知らない、もう一つの重要な意味合いがあります。それは、健康の基本だということ。生命を繋ぐ基本だということ。逆に言えば、「不正直」に生きることは、自分の身体を傷つけることになるということ。深刻な病気になる可能性が高いということです。

 

これは因果応報ということで言っているのではありません。宇宙の理法からして、そうなる可能性が高いということなのです。

今日は、このメカニズムについてお話ししましょう。

 

あなた方の意識が、底の部分では宇宙意識と常に繋がっているということは、いま説明しました。人間以外の動植物は、この繋がっている「feel」という感覚を自然に持っているのですが、人間だけは著しく退化してしまったのです。それは、いわゆる五感と知能との連携プレーの部分のみを発達させ過ぎたために、「feel」に蓋をしてしまったからです。

 

一方、脳がつかさどる意識とは別に、身体上の細胞にもそれぞれの意識が存在します。このことは、現代科学ではまだ認めていませんが、子供時代の古傷が同じ箇所にずっとあるというのは、細胞が記憶を持つということの何よりの証拠ですし、過去世との絡みで、過去世に拷問を受けたとか、槍が突き刺さったなどの部位に斑紋があったり、痛みを覚えたりするという人もたくさんおられます。

 

さて、そうした身体上の各細胞は、宇宙の真理に沿った生き方を、自動的に選ぼうとします。なぜならば、それが、自分が(つまり個々の細胞が)生きたい道だからです。それが理に適っていると、細胞は知っているからです。ところが、そこに、「脳が創る意識」が介入してくるのです。

 

自分の「意識」が現実を創るということは、これまでにも何度かお伝えしました。覚えておられるでしょうか? これは、何も周辺の環境のことだけを言っているのではないのです。あなたの身体も、あなたの「意識」が創り出します。あなたが「もっと食べたい、もっと食べたい」と意識し、そのように行動していれば、それに応じた身体が創り出されます。

 

その意味で、私がいま非常に懸念していることは、現代人が健康についての「脅し」を掛けられ過ぎているということです。やれ、◯◯障害じゃないか、精神疾患じゃないか、定期検診を受けないと癌で命を落とすぞ、新しいウィルスが蔓延してるぞ、というような不必要な情報で雁字搦めにされている。

 

しかも、「健康情報」と言って、新しい言葉がどんどん作られ、「最新の研究から、◯◯が発達障害の原因であることが分かりました」とか「癌の原因になることが分かりました」などという、更ななる「脅し」が、メディアを通じてバラまかれています。これらは、ある意図があって、故意に行われていると思いますが、人間の身体にとってはマイナスの作用しか及ぼしません。

 

話を戻します。身体の各細胞は、本来の状態で生きたいと思っているのですが、そこに「脳が創る意識」が介入してきます。その「意識」が、「魂」に「嘘をつく」生き方をしていますと、「正直」に生きたい身体の細胞と、脳が命じてくる「嘘をつく」生き方との間に、乖離が生じるのです。意識間の矛盾と葛藤です。これがよく言われる「ストレス」というものの正体なのです。

 

医者は、単に「ストレス」としか言いませんが(それは今のようなメカニズムを知らないために、その言葉で逃げているだけですが)、細胞レベルでは、今後の生き方に関して、激しい葛藤が続いているのです。特に「嘘をつく」ということは、奥深いところでの自己否定ですから、それが身体の細胞に伝われば、細胞の生き方否定にまで繋がってしまうのです。

 

ですから、一時的に葛藤が生じたとしても、早めに反省して修正し、充分リラックスして身体細胞をいたわってあげれば、元の元気を回復します。ところが、「嘘」をつき続けておりますと、こうした修復の時間がないばかりではなく、細胞否定をし続けることになってしまい、ついにはバランスの限界を超えて、重大な病気が発生します。

 

この、病気の発生箇所は、脊髄に沿ってある7箇所のエネルギーセンター(通称チャクラと呼ばれ、肉体上ではなく、アストラル体上にある)と、これにつながる経絡、および神経がおよぶ範囲の臓器や骨格、筋肉等に出現します。

 

各エネルギーセンターには、霊性上における課題がそれぞれ振り分けられているのですが、その課題に関して問題のある箇所に、病変が出現するのです。たとえば、常にカッカしているような人は、感情をつかさどるマニピューラチャクラに対応した部位である、胃腸に病変が出現します。逆に言えば、病気の箇所が分かれば、その人の霊性上の課題が分かります。

 

ということで、「正直に生きる」ということが、健康をつかさどる意味においても、いかに大切であるかがお解りでしょう。あなたの身体は、借り物です。借り物である身体を、自分のエゴによって傷つけないように、いつも大切に思って充分にケアしてあげることが必要です。食事、運動はもちろんですが、正直に、朗らかに、愛を持って、楽しく生きることが、健康のためにはいちばんなのです。

他者を攻撃する人の意識の奥にあるもの

5月28日、米インディアナポリスで行われた世界3大自動車レースの1つ、通称「インディ500」で、日本人の佐藤琢磨選手が優勝を果たしました。日本では「インディ500」と言っても、あまり知られていませんが、これってもの凄い快挙なんですよ。何しろ今年で101回目を数えるアメリカ伝統の耐久レース(800kmを時速350キロで3時間走る)。当日の観客数は35万人。日本人の優勝はもちろん初めてです。

 

かつて、F1に夢中になった者としては、佐藤琢磨選手のひたむきさ、誠実さ、朗らかさ、忍耐と努力の結晶がやっと実を結んだことを嬉しく思います。今は、スポーツ全般にまったく興味がなくなってしまい、(最後に見たオリンピックが、なにしろQちゃんのシドニーマラソン優勝ですから)佐藤琢磨選手の優勝にも血は騒がないのですが、生き方は大いに讃えたいのです。

 

さて、そんな晴れやかなシーンに関連して、一つの騒動が持ち上がりました。コロラド州デンバーの日刊紙『Denver Post』のあるベテラン記者が、自身のTwittter上で、佐藤琢磨選手の優勝に対して、次のようにコメントしてしまったのです。

 

“ Nothing specifically personal, but I am very uncomfortable with a Japanese driver winning the Indianapolis 500 during Memorial Day weekend. ”

「個人的に特に恨みがあるというわけじゃないが、メモリアルデー(戦没将兵追悼記念日)の週末に、日本人ドライバーがインディ500で勝利したのは、実に不愉快だ。」

 

これが人種差別的発言だとして波紋を呼び、しばらくして、この記者は「佐藤琢磨選手に謝罪します。メモリアルデーの週末ということで感情的になってしまい、第二次世界大戦の相手国の一つへの愚かな発言をしてしまいました。」と謝罪文を出したのですが、反応した『Denver Post』が、直ちにこの記者を解雇し、それで一件落着としてしまったのです。

 

この事件を知ったとき、私は、何もかもが極めて今日的だと感じました。先ず発端が Twitter だったことです。そして内容がヘイト発言だったことです。次に、このヘイト発言が過剰な反応を引き起こし、まるで制裁を課すようにして、この人物が解雇されてしまったことです。謝罪文を出したにもかかわらずです。当の佐藤琢磨選手が「意に介していない」と言っているにもかかわらずです。

 

何か「不寛容の精神」といった、今の時代の雰囲気がモロに出ているのを見るようで、胸が痛くなりました。人間というのは、過ちを犯します。でも、それを反省するところに成長があるわけです。当の本人とは何の関係もない人々が、一つの「ネタ」をもとに、非難の応酬をして傷つけ合うということが、今やネット社会では当たり前のように行われています。が、これはその典型例です。

 

その事の収め方が、「解雇」という、「問題記者は解雇しましたから、もう当社とは何の関係もありません」で果たしてよいのだろうか、ということです。確かに、これで「炎上」という事態は収まるでしょう。その意味では賢いやり方かも知れません。けれども、「不用意にせよ、人種差別的発言をした者には厳罰を与える」では、事の裏にある本質にまったく迫れないのではないでしょうか?

 

人種差別発言はいけない。確かにいけないのですが、「おい、それは人種差別だぞ!」と、怒りの矛を向けるのも、また一つのレッテル貼りになってはいないでしょうか? 真の問題は、ポリティカル・コレクトネス(その発言が適切かどうかという、一種の言葉狩り)にあるのではありません。どうして人種差別はいけないのか、それなのにどうして人は差別をしてしまうのか、をもっと深く見つめることです。

 

それでこそ、事件が活きるというものです。反省の機会を、みなが持てるということです。本質に気づけるということです。マイナスをプラスに変えられるということです。すでに反省の弁を述べている記者一人を解雇して、「自業自得だ」と更に追い詰めても、集まったネガティブなエネルギーが行き場を失い、そのまま浮遊するだけで、誰にも、得るものは殆どありません。

 

この事件の本質はこうです。この記者は、なぜ不用意な差別的発言をしたのでしょうか? 重要なポイントは、記者と佐藤琢磨選手とは、何の関係もないということです。そればかりではありません。第二次世界大戦と佐藤琢磨選手も関係がありませんし、「インディ500」とメモリアルデー(戦没将兵追悼記念日)も関係がない。ただ同じ週だというだけ。要は、関係ないことばかりの組み合わせで出来上がっているということです。

 

この、互いに関係のないピースの接着剤となったのは、たまたま佐藤琢磨選手が日本人だったということ、ただそれだけ。その日本人が、これぞアメリカとも言うべき、伝統の「インディ500」レースに、なんと勝ちやがった。メモリアルデーの週末だというのに、敵国だった、しかも敗戦国の日本人にやられちまった。あー、胸くそ悪い。

 

と、これは、全部が、この記者の、実は「観念(信念)」が創り上げた、勝手な「想い」であったということです。この点に、すべての人が気づかなければいけません。それを、やれ「人種差別的発言だ」「新聞記者が人種差別なんてもってのほかだ」「絶対に許せない!」「クビ? ザマーみろだ」などとやっていたのでは、何の進歩もありません。

 

日本は島国であったために、たまたま、世界の中では、非常に特殊な、(ほぼ)単一の民族性というものを有しています。この特殊性というものを考慮せずに、最近、単純な国家主義を打ち出して、周辺国を小バカにする、貶める、脅威を強調するという態度が、とても目立つようになってきています。

 

特に日本は、多民族・多人種社会の経験がないために、差別的発言に関しては規制が非常に緩く、野放し状態になっています(決して規制すべきと、言っているわけではありませんので、誤解なきよう)。それらの奥にあるものも、結局は同じだということ。自分の「信念」が創り上げた、自分の「想い」に過ぎないということに気づいていただきたいのです。

 

それは、「信念」と、そこから生じた「想い」に過ぎないのですから、「信念」を変えれば、「想い」などいくらでも変わってしまうのです。人間はみな同じで、どの人も貴く、生きる価値があり、能力があり、愛があり、解り合えるという「信念」を持っていれば、全く別の「想い」と行動原理が生じて来るのです。そのようなものだということです。

 

そこで、いいですか、どんな戦争も「防衛」が口実になって行われているということに注意を向けてください。なんと「防衛」の為の「先制攻撃」というロジックまでもが大真面目に存在し、実際にそれが遂行されているのです。こんな奇妙な話があるでしょうか? 先制攻撃された側の一般市民は、その時、それをどう思うでしょうか?

 

戦争はいけない、でも防衛は必要だと、みんなそう思っています。けれども、「防衛」という意識そのものが、他国や他陣営との分離、差別意識が下敷きとなって生じている、ということまでは、さすがに誰も考えない。それが当たり前だと思っているから。(でも世界には、軍隊を持たない国だってあるんですよ)

 

このことは、個人に還元して考えてみればよく解るでしょう。あなたは、個人と個人の関係においても、根底に「防衛」意識を持つべきだと考えている人でしょうか? それとも、人類みなアミーゴだと考える人でしょうか?

 

実にこれこそが、人類が進歩できない、そして同じ過ちを何度でも繰り返す根本原因なのです。人間、みんな同じだということが解っていない。深いところで解っていない。人間は別々だと思う。優劣があると思う。宗教ですら、上下を作り、優劣を説き、誰かを崇め奉る一方で、分離意識をけしかけている。ご覧なさい。今日の戦争の大部分は、宗教が説く「信念」がもとになっています。

 

民衆レベルでは、「どの国の、どの民族の人も、同じなんだよね」「みんな、平和でハッピーに暮らしたいだけなんだよね」ということは、感覚的にけっこう解っています。『世界ふれあい街歩き』や『関口知宏の◯◯鉄道の旅』や『コウケンテツの世界幸せゴハン紀行』や『世界入りにくい居酒屋』を観れば、実にそれがよく解る。

 

ところが、政治指導者がそうではないのです。政治指導者が、故意に、周辺国の脅威を煽り、「防衛」を声高に主張し、メディアがそれを流し、民衆がそこに巻き込まれ、犠牲となって行くのです。それが戦争の歴史です。要は、政治指導者こそが、最も差別意識の高い「信念」に凝り固まっていて、そこから生じる「想い」を、自己の行動原理にしているということなのです。

 

彼らが、なぜ差別意識の権化になっているかと言えば、その思想を絶えず民衆に植え付けることによって、自分たちがその上に君臨するためなのです。ここに気づかなければ、民衆が、使い捨ての駒にされてきた長年の悲劇から抜け出すことは、永遠に出来ません。時代は今、そこに差し掛かっています。すべての嘘、すべてのカラクリ、そしてその根本原因を見抜くのです。

 

誰かが誰かを攻撃する。こういう場面を目撃した際、よく観察してみれば、そこには、表面上の問題の奥に隠れて、必ず二つの原因があることが見えるはずです。一つは、攻撃する側の人間の「心の投射」です。自分の中の、不安、不満、絶望感、やり切れなさ、怒りなどを他の人間に投射している。それが、結果として、表面的には他者攻撃に映るのです。

 

もう一つは、いま述べてきた「信念」です。自分の「信念」にそぐわない者は、自分の「信念」を犯す可能性があるので排除しようとする。それは「信念」ですから、その人は、自分が正しいことをしていると思っているのですが、根底には、他者との分離意識や優越感というものが色濃く横たわっているのです。

 

どのような他者攻撃も、基本的に、この「信念」と、自分の「心の投射」との組み合わせによって成り立っています。強固な「信念」を持つ人は、いつもそのフィルターを通して世の中を見ています。そのため、フィルターにちょっとでも引っ掛かるものがあるとすぐにイラッと来て、自分の感情の「想い」を、簡単に対象に「投射」してしまうのです。

 

その人は、相手がすべて悪いのだと思っています。そう信じ込んでいます。でも、そのようなフィルターを掛けて相手を見ているのは自分なのですし、そこで抱いた感情も、たくさんある選択肢の中から自分が選んだ感情です。要は、すべて自分が起こしている。しかしそのことに気づかないまま、適当な相手を探しては、それをぶつけているだけなのです。

 

このようなわけですから、その人が持っている「信念」が強ければ強いほど、攻撃的な性格を帯びることになります。それが宗教戦争であり、テロリズムであり、権力者による弾圧です。

 

アメリカはどうして戦争ばかりしているのか。それは、「自分たちは常に世界一でなければならない」「世界中に民主主義(という名の、実は属国化支配)を根付かせなければならない」「我こそが正義であり、悪は殲滅されねばならない」「行動に際しては、弱腰であってはならない」という、権力者によって刷り込まれた強固な「信念」を、アメリカ国民の大半が共有しているからなのです。

 

結局のところ、小学生が教室でやるイジメも、教育者が子どもに対してするイジメも、大人が職場でやるイジメも、権力者がメディアを使ってやるイジメも、国家が他国に対して行うイジメも、原因はみんな同じです。歪んだ「信念」と、その人の「心の投射」の組み合わせから成っている。

 

ですから、みなさんにお願いしたいのは、ここをよく観察して見抜いていただきたいということです。あ、今の発言は「心の投射」が30%で「信念」が70%だなとか、今度の行動は「心の投射」が90%は出ているな、という具合にです。攻撃的な人を、じっくり観察するのです。

 

相手が繰り出して来る「心の投射」に、こちらも「心」で反応してしまってはいけません。投げられたボールは受け取らないことです。もしキャッチボールなどしてしまったら、相手が作る土俵に入れられてしまいます。相手は、その返って来るボールをエネルギーとしているのですから。

 

そうではなくて、「心の投射」の原因となっている苦しい「想い」を見抜いて、憐れんであげてください。彼らにも、育って来た中で身につけてしまった原因があるのです。そして「信念」に関しては、その「信念」でガチガチになっている不自由さ、自分で自分を牢獄に閉じ込めている不毛状態から、早く脱することが出来るように、愛の波動を送ってあげてください。

 

心優しいあなたなら出来るはずです。先ずあなたから、この世界のひどい混乱状況を、ここで打ち切るのです。憎しみの連鎖、傷つけ合いの連鎖に終止符を打つのです。そうすれば、やがてあなたに感化される人も出て来ます。世界を覆い尽くす分離意識に、今こそストップをかけるのです。そして、さらにその先を行くのです。

 

すべての現実は、意識の具体化であるというセオリーを思い出してください。世界の現実は、人類全体の意識の具体化なのですよ。ですから、あなたが必要なのです。あなたの愛と能力が必要なのです。ともに頑張りましょう。そして、みながハッピーに暮らせる社会を創りましょう。

正直者は馬鹿を見ない

恐怖政治がまかり通る社会が、着々と進展しています。しかしそういう体制をむしろ好み、賛同している人も多くいるのですから、もうどうにもなりません。人類というものは、結局、賢くなれないのかなぁと考えてしまいます。過去に、何度も何度も同じ悲惨さを経験して来ているというのに、また同じ方向に進んで行くのですから‥‥。

 

そうさせているのは、つまるところ、人間が持つ「欲」です。株価のアップダウンを見れば一目瞭然。バブルが弾け、「◯◯ショック」というものが起きて、みんな「困った、困った」という事態になっても、「こういうシステムが、そもそもおかしいんじゃないか?」「もうやめようよ」という人はいない。事態が沈静化すると、またぞろバブルを期待する方向へとシフトして行く。

 

戦争だって、原発だって、みんな同じです。「もう二度とゴメンだ」「こんな危ないものはコリゴリだ」と一度は口にしても、しばらくすると、またそっちへ声高に誘導する人が現れて、いつの間にか多くの人が後をゾロゾロと着いて行く。反省とか、学習経験というものが、残念ながら人類には殆ど見られないのです。

 

どうしてこんな、不毛が繰り返されるのでしょう?

 

それは、誘導する人と、後を着いて行く人の、心の奥底に眠る「欲」が一致するからです。ただ、一致するといっても質が少し違う。扇動する人は、「欲」を、「これは大衆を誘導するための、いちばん有効なツール」と意識した上で使っています。でも大衆の側は、その意図を知らないで、ただ乗っかって行く。乗せられて行く。

 

結局は、「欲」というものが、人類にとっての猛毒なのですが、あまりにもシンプルな結論ですし、「欲」を否定してしまったら、今の経済活動が全部成り立たなくなってしまうわけですから、その奥の部分には触れないで、もっぱら上っ面の現象面についてだけ、あーでもない、こーでもないと議論をしているのです。

 

想像してみてください。もしも、経済学者や政治家が、「今の貧富の格差の原因は、一体どこにあるとお考えですか?」と問われて、「それは、人間の欲にあります」と答えたとしたら。たぶん、「こいつはアホか」と思われてしまうでしょう。そこは、宗教家が語る領域ということになっていて、でも宗教家が語ったとしても、実社会に反映されることは決してないのです。

 

つまり、今の人間社会では、真実というものが牢屋に入れられ、隔離されてしまっているのです。

 

一人ひとりの心の中に、みな「欲」が眠っていること、それ自体は責められません。しかし問題は、そこに気づけるかどうかということです。今の社会システムの中では、その「欲」が、人類の悲劇の根本原因だと気づくまでには、三重もの扉をくぐり抜けなくてならないのです。

 

第一の扉は、自分たちが、社会が提示する「欲望のシステム」に操られていたと気づくことです。

第二の扉は、「欲」こそが、人間の幸福を遠ざけているものの正体だと気づくことです。

そして第三の扉が、自分の中に眠る「欲」を冷静に見つめ、これをほじくり出し、認め、滅する方向へと梶を切ることです。

 

このように、三段階を経る必要がある。

ところが、今の日本人は、第一の扉さえ開けるまでには至っていません。

 

狭い部屋で、大勢が集まって、扇動者が開いた講演会にみな聞き入っている。空気が、もうすっかり淀んでいるのに誰も気づかない。そのうち一人が「ねぇ、息苦しくない?」と言い出す。そこで扉を開ける。その瞬間、フレッシュ・エアーがサーッと入り込んで、「そうか、俺たちはこんな淀んだ空気の中にいたのか」と、みんなやっと気づく。

 

結局、中にいる間というものは、分からないのです。自分たちが、その「空気」に、すっかり汚染されていたということに。でも、一度扉が開いた後は速い。今の政治指導者、経済指導者、宗教指導者、有識者という人たちが、いかに幼稚な霊性しか持たずに、また持たないがゆえに、社会に君臨して来たかということが、誰の目にもハッキリと分かるようになります。

 

まさに、ジョン・レノンが言った「世界は、狂人たちに操られている」ということが、白日のもとに晒されるようになる。でもそのためには、地球全体を覆い尽くした、第一の扉が、先ず開かれる必要があるのです。そして、それが出来た時、はじめて宇宙から地球に、フレッシュ・エアーがサーッと入って来る。その日のために、我々は辛抱強く努力しなくてはなりません。

 

現実というものは、人間の意識が創り出しています。このことはもう何度も言って来ました。あなたの現実は、あなたの意識が、そして人類全体の現実は、人類の総意が創っている。

そういう中で、人類に覆い被さった第一の扉がなかなか開かない。

 

でも考えてみてください。恐怖政治が台頭して来たということは、恐怖政治をもってしなければ、第一の扉を守り続けることが、もはや難しくなって来たということを意味しているんですよ。

そこで、あなたの、今後の生き方が問われるのです。

 

「正直者は馬鹿を見る、という世の中であってはいけない」などと、よく言われます。そう言われるのは、「馬鹿を見る」ことがあまりにも多い現実があるからです。人間が「嘘つき」になってしまう理由は、我が身かわいさのいわゆる「保身」と、この「正直者は馬鹿を見る」が、セットになって心に刷り込まれているからです。

 

でもそれは本当なのでしょうか? 本当に「正直者は馬鹿を見る」のでしょうか? この『気づきの啓示板』では、「素直」で「正直」であることがなによりも大切だと、何度も強調されています。もし本当に、「正直者は馬鹿を見る」のであれば、「素直」で「正直」であり続けようとすることは、「馬鹿を見」続けることになってしまいます。が、果たしてそうなのでしょうか?

 

あれは26歳の時だったと思います。当時、私は東京の場末にある某映画館勤務の職に就いていました。支配人の下に私と50代の男性社員が一人、映写技師さんが一人、その他に売店を任されたアルバイトのおばちゃん二人という体制でした。今のようなシネコンの前の時代で、映画は完全な斜陽、経費を削減するために、私は映写技師の仕事も兼務していました。

 

ある時、映写技師の仕事をしていて、リール交換が終わった後で休憩に下へ降りて行くと、50代の男性社員が、チケットを発券せずに、割引値段にして客からお金を貰い、客をそのまま館内に入れているのを目撃しました。「あらあら」と私は思ったのですが、この人は、私がその職に就く前にも、同じことをして注意処分を受けていたとのことでした。

 

でも私は、それを支配人に言わないでいたのです。なぜかと言うと、前の時に、支配人の温情によって、その件が不問にされたという事情を知っていたからでした。ところがしばらくして、売店のおばちゃん二人が、やはり同じような現場を目撃したらしく、その件を本社に通報してしまったのです。ということで、えらい騒ぎになりました。

 

数日して、調査のために本社から役員がやって来て、私も聞き取り調査をされました。そこで私は「自分も、同じことを目撃したことがある」と正直に答えたのです。それから一週間ほどして、その件に関する裁定が下りました。どうなったと思います? なんとそのおばちゃん二人はクビ。私は辞職勧告を言い渡されたのです(クビには出来ないので)。もう最低の裁定ですよ。

 

唖然としましたが、それが組織というものなんでしょう。支配人にとっては、自分の面子を潰されたということが、相当のおかんむりだったようです。私はその職を失い、いろいろ考えた末に、東京での夢を諦め、田舎に帰ってカラオケスナックのボーイとなり、カミさんは旅館の仲居として働いて、まさに『昭和枯れすすき』を地でいくような生活をしばらく続けました。

 

その時は、「正直者は馬鹿を見る」とはこのことかと、失意のどん底にあったのです。その後も、誠実に生きようとはして来ましたが、繰り返し繰り返し「正直者は馬鹿を見る」を体験しました。極めつけは、最後の砦と思って足を踏み入れた精神世界です。しかしここも、一般社会と何ら変わりのない「欲」が渦巻く世界で、自分はそこでも正直さを誤解され、排撃されました。

 

ハッキリ言って、組織では「正直」であることは、通用しません。組織というものは、元々はある目的のために作られるのですが、いったん組織が出来上がると、いつの間にか目的が「組織の維持」にすり替わってしまい、その為なら「不正直」であることもいとわないようになるのです。必ずそうなる。なぜかというと、組織のヒエラルキーの中に「ポジション」という価値が出くるからです。

 

ですから、組織の中で「正直」であろうとすることは茨の道です。出世などは端から無理。サラリーは上がりません。ちょっと逆らえば左遷。悪くすれば濡れ衣を着せられ、逮捕・投獄されたり、場合によっては闇に葬られるということもあり得ます。でも、たとえそうだとしても、いや、だからこそ勇気を持たなくてはなりません。それが、これからの人類に示された課題です。

 

茨の道? そんなものが何だと言うのでしょうか?

あなたの本質は「魂」にある。このことを、忘れたのですか?

「魂」は永遠の存在で、カルマを背負って輪廻転生する。

このことを、忘れたのですか?

 

あなたの本質は「魂」なのですから、人生の岐路に面した時には、迷わず「魂」が成長する道を選ぶのは、当然ではありませんか。人類というのは、今までそれが出来なかったのです。目には目を、歯には歯をで、しょっちゅう報復を繰り返し、常に「魂」が喜ぶ道とは逆を選んで来たのです。もう、そのようなカルマの連鎖にストップする時がやって来ました。

 

恐怖政治を敷く者も、実は自分がいちばんの「恐怖」の塊だからなんですよ。自分の側近たちを常に疑い、歯向かう者は容赦なく片づける。そういう人物に、なおも近づいて来る者というのは、その権力が魅力なのであって、人物が魅力なんじゃない。だから、ひとたび形勢が悪いとなれば、さっさと船を降りて、一目散に逃げて行く。

 

一見、この世の春を謳歌しているように見えても、自分と同じ悪徳の波動を出す者を側近に集め、さらには多くの人の恨みを掻き集めているのですから、「魂」としてはたまったものではありません。事が大きくならないうちに、「正直」に帰っていればいいものを、嘘に嘘を重ねて生き、多くの人を陥れるカルマを作って、一体どうするのでしょう? 無智とは、本当に恐ろしいものです。

 

『虹の学校』を始めた当初、自分はまだ失意の中にありました。傷がまったく癒されていなかった。でも、こうなったら我が道を行くしかないと思ったのです。そして2年、3年が過ぎてからやっと気づいた。要は、自分の純粋さが足りなかったのです。中途半端だった。もっともっと、遥かにもっと純粋であらねばいけなかったのです。

 

「馬鹿を見る」という想いが生じたのは、まだ世間の物指しに当てて自分を見ていたということです。だから、「馬鹿を見た」という、嘆きや、怒りの想いが自分の中に沸いてきていた。物指しそのものを捨てるということが、出来ていなかった。要は、世間と同じ「欲」の物指しの中に、自分もいたということ。そこにやっと気づいた。

 

そこに気づいてから、パーッと霧が晴れて、入れ替わりに「宇宙の真理」がどんどん入って来るようになった。正確に言えば、メッセンジャーとして用いられるようになったのです。そうなって初めて、今までのことは、本当に恩寵だったんだなと、つくづく思いました。そのように、すべてが最初から計画されていたんだなと思いました。

 

「馬鹿を見る」ような思いをたくさんして来たからこそ、今そのような状態にある人にも「そうじゃないんだよ」と言ってあげられます。だとすれば、これは素晴らしい役割です。役に立つ仕事です。自分を活かせます。そして、みなさんに、「真の幸福とは何か」について気づいてもらえます。

 

私は60年掛かりました。でも今は時代が違う。みなさんが全身全霊で打ち込めば、4・5年で真理に出会えます。私が保証する。

 

世の中は、一見、ひどい混乱状態にあるように見えますが、これは何度も言っているように、人類のカルマが一斉に噴出しているからで、冷静に、そして客観的に受け止める必要があります。

 

みなさんは今、そこで、重要な選択をする岐路に立たされているのです。このまま世の中の物指しに翻弄され続けるか、それともそれを捨て、自分の道を「正直に」歩むかどうかです。そしてあなたが、後者を選んで捨てた時、あなたは、故郷であるこの地球を厚く覆ったベールを一枚剥がし、第一の扉が開くことに貢献することになるのです。

 

だから今、私は、自信を持ってあなたに言います。

正直者は決して馬鹿を見ない。

代わりに、正直者は、自分の内に神を見る、と。

わたしはわたし、あなたはあなた

嘘つきは政治家の始まり。

 

もし政治家になりたかったら、先ず、平気で嘘をつける技能を身につけることだ。例の格言を、変更せねばならないほどの事態が、今やこの国では当たり前になっている。もちろん、その前にちゃんと泥棒もしている。巨額の税金泥棒。泥棒が、副業で政治家というものをやっているのだ。

 

私が解らないのは、こういう泥棒を「支持する」という人が大勢いるということ。20年前なら、政治の不正や腐敗というのは、当然糾弾すべき対象としてあったはずなのに、今はそうではありません。不正をちょっとでも暴こうとする人が出ると、すぐにその人の人格を貶めるような情報を流す人間が反対側に現れて、メディアを使って血祭りに挙げようとする。

 

いったい何が楽しいのかナ、と思います。それで著しく人格を落としているのは、その人自身なのに‥‥。自分はなにも「正義」ということを言いたいんじゃないんです。「正義」なんて、ただの観念の一つに過ぎません。そうじゃなくて、シェア・プレイ精神(私の造語)の全くない政治が横行していて、さらにそれを「支持する」人々が大勢いるということに驚いているんです。

 

今の子どもたちに、政治家や、大人や、社会は、一体どう見えているのかなと思います。政治やマスコミだけでなく、もう警察も、検察も、裁判所もまともに機能していない。三権分立など、あって無きが如し。「嘘をついてはいけません」と教えている現場の教育者までもが、いじめ問題が表面化すると、平気で嘘をつく世の中。嘘つきの相互保険協同組合が出来上がっちゃっている。

 

もしかしたら、子どもたちは、もう「大人はすべて信用できない」と拡大解釈しちゃっているかも知れません。あるいは、「この先、偉い人になるためには、嘘つきのやり方を見習わないといけないな」と考えているかも知れません。

 

ねぇ、なんのための「嘘」つき?

 

世間では、「保身」のため、とよく言われるのですが、私にはこの感覚がどうしても解りません。「おしん」というテレビドラマがあったことなら知っているのですがねぇ。元々、守らねばならない地位に就いたことなど、ただの一度もない(エヘン!)というせいもあるのでしょうが、自分に嘘をつくことが、どうして「保身」になるというのか、この発想が私には全く解らない。

 

自分の身を保つとは、正直であり続けること、に決まっているじゃありませんか。いいですか、人間の本質は「魂」なんですよ。それなのに、その「魂」の生き方に逆らい、真の喜びに逆らい、自分を騙して嘘をつくことが、どうして「保身」なんですか? まったくの真逆じゃないですか。自分を否定し、傷つけ、葛藤の中に自らを追い込んで、苦しめて、何が「保身」ですか。

 

地位、名誉、財産なんてものは、みんなイリュージョンに過ぎないんですよ。なにも、プリンセス天功だけがイリュージョンなんじゃない。あなたの周囲にあるものすべてがイリュージョンなんです。その証拠に、地位、名誉、財産、すべてのものを一度ひっぺがしてご覧なさい。まるで、生まれたての赤ん坊のようにネ。それがあなただ。この世におけるあなたの本質なんです。オギャー。

 

さあ、その時、自分は何ものだと、あなたは言うのでしょうか?

 

そう「わたしはわたし」。それが答えです。そうしか言いようがないでしょう?

 

何々の地位にあるわたし、これこれの名誉を得たわたし、これだけの財産を持っているわたし。そこに拘泥する者たちは、だから「わたしはわたし」と言えるものを、まだ発見できていない、イリュージョンのラビリンス(迷宮)に迷い込んだままの、未熟な「魂」だということなのです。そう思って、彼らの言動を眺めてご覧なさい。彼らの心の動きが、まるで手に取るように分かるから。

 

地位、名誉、財産。何一つ、墓場の先へは運べないのですよ。唯一、運べるもの、いや運ばれるものがある。それが「わたしはわたし」ということ。

 

あなたは、どんなわたしなのか?

どんなわたしでありたいのか?

どんなわたしになろうとして来たのか?

そのため、これまでどんなチャレンジをして来たのか?

そして、そこで何を経験し想ったのか?

 

その意識の軌跡のみが、来世に運ばれる。

 

あなたは自由だ。それを認めなさい。噛み締めなさい。もう誰からの束縛も受けない。社会の言いなりにはならない。それを今この場で誓いなさい。つねに正直でありなさい。心地よいフィーリングと沸き立つ気持ちをいつも大切にしなさい。直感を信じて行動しなさい。自分を信頼しなさい。深く愛しなさい。他の人に親切でありなさい。そして人生を楽しみなさい。

 

あなたは素晴らしい能力を持った人間なんだから。

 

自由を生きて、その生きる姿で、子どもたちに手本を示すのです。生きることって、こんなにも素晴らしいことなんだよと。

 

あなたはあなたなのですから。

自分の波動が上がるということと、そうなった時の対処法

最近、続けざまにお二人の方から、体調および身体感覚の急激な変化や、周辺環境の激変といった事態に関しての、ご相談を受けました。

 

お二人とも、最近、急にスピリチュアルなことに興味が湧きだして、特段、「行(ぎょう)」をしているというわけでもないのに、それ以来、どうも体調が優れず、心が不安定になったり、家庭や職場環境が大きく変わったりし出して、「いったいこれは何だろう?」と思い、不安になって相談に見えられたのです。

 

それを聞いて、私自身が「なるほど」と気づかされ、そういう方は、もしかしたら他にもいらっしゃるのではないかと思いました。そこで今日は、なぜそのような体調や心や環境の激変が起きるのかということと、そうなった場合の対処法や注意点について、お話しておきたいと思います。

 

地球は今、非常に大きな転換期を迎えていて、その転換を促すために、地球には、宇宙からとても強いエネルギーが大量に注がれています。このエネルギーは、もちろん人間の目には見えませんし、今ある機器で観測することもできません。これは、非常に精妙な、振動するエネルギー体で、象徴的に「光」と呼ばれることが多いのですが、高い周波数を持った、いわゆる「波動」です。

 

*「アセンション」のこと。地球の霊的次元が、三次元から五次元に移行する。

 

「光」「波動」と聞いて、きっと眉をしかめる方もおられるでしょう。けれども、地上に降り掛かるエネルギーが非常に高まっていることは確実です。

みなさんは、その影響が及ぼす「結果の世界」を見ています。社会の混乱、人心の荒廃、そして気候の極端現象というかたちで。

 

先に書いた、ご相談に見えられた方というのは、この「波動」の追い風をいっぱいに受けて、心身の覚醒が、特段の「行」をせずとも、ナチュラルに進んでいるものと思われます。もちろん、そうなる資質があったからこそなのですが、このブログの読者には、同様の感じを抱かれている人もきっと少なくないと思いますので、今日の話をよく読んで、対処していただきたいと思います。

 

先ず、みなさんに知っておいていただきたいのは、この高い「波動」のエネルギーは、どの人にも満遍なく注がれているということです。

 

しかしそこで、大きく二つの生き方に分かれるのです。このエネルギーを追い風にする生き方と、向かい風にしてしまう生き方です。風はどの人にも公平に吹いている。でも進む方向が違えば、同じ風が、追い風にも、向かい風にもなってしまうのです。さあ、どっちへ行くか。選ぶのは自分です。

 

このエネルギーを「光」だと考えてみてください。ふんわりした暖かさを求めている人にとっては、縁側でうたた寝している時のような、それはとても心地よいものでしょう。でも、日陰のじめじめしたところが好きな人にとっては、眩し過ぎて、すぐに立ち去ってしまいたくなるでしょう。それに、隠しておきたかった部分に「光」が当たってしまうので、大いに困る人も出てきます。

 

ここで、その人の今までの生き方や、理想に対する想いの違いが、はっきりと影響を持って出てきてしまうのです。これは何度も言ってきたことですが、いま世の中に見られる混乱というものは、地球に、宇宙からの強い「光」が注がれるようになったことで、今まで「闇」に隠されていたものが表にあぶり出されるようになったことから、それが見えているのです。

 

これは、宇宙の非常に長いサイクルの中の上昇期、季節で言えば夏に当たっていて、すぐに秋や冬になるということはありません。しかし、今まで「闇」に居たものは、また「闇」で栄華を誇っていたものは、変化に抵抗を示して、今までの権勢をなんとか維持し続けようとするでしょう。しかしそれは、宇宙の自然な流れに逆らうことですから、そこで様々な混乱状態が起きて来るのです。

 

みなさんもきっと不思議に思っていることでしょう。権力者が、まるで幼稚園児かと思うような、誰が聞いてもすぐに嘘だと分かるような嘘を平気で言う。そうかと思えば、まるで駄々っ子のように、我儘を言い、相手を脅しつけ、癇癪を起こしてオモチャ(それは人の命までも奪ってしまうものですが)を投げつける権力者もいる。それはみな、今までの権勢を維持したいという焦りからの行動なのです。

 

はっきり申し上げて、人や物に対する支配欲が強大だからこそ、権力者になれるのです。人や物に対する搾取欲が強大だからこそ、大資本家やグローバル企業の経営者になれるのです。名声欲や名誉欲が強大だからこそ、大先生や時代の寵児(ちょうじ)になれるのです。そしてこれが、人間社会に特有の、霊性とは真逆の、狂った尺度なのです。

 

今までの世の中というのは、そういう上下の物差しの中に、人間の価値というものが規定されるのだとみんなが信じ、そこで頑張ったごく少数の者が、権力やお金や名声を得て来ました。でもその構造が維持され続けるためには、みんながその価値観を共有しなければなりません。そしてそれを信じ続けなければなりません。

 

そこで、学校教育や、マスコミや、著名人の講演会などを通して、繰り返しその価値観が植え付けられて来たのです。そして、幼い頃から他人と自分とを比較させられ、みんなとちょっとでも違っていれば「障害者」のレッテルを貼られ、競争をさせられ、優劣の判定を下され、大多数の人が「私は社会にとって価値のない人間」と思い込まされて来たのです。

 

ある意味、権力者や大資本家や時代の寵児というのは、その価値観に最も洗脳された人たちだとも言えます。でもそれが、ひっくり返ってしまったらどうなるのでしょう。1パーセントを生み出すために、99パーセントが奴隷としてコキ使われ、搾取され、嘘を吹き込まれ、幸福になることすらも破壊されていると、民衆が気づいてしまったらどうなるのでしょう。

 

当然ですが、成り立ちません。いま地球に起きている大変化というのは、まさにその過程にあるのです。一般の民衆からすれば、今まで気づいていなかったこと(社会の裏にある支配の構造)にだんだんと気づく。権力者や大資本家や時代の寵児にとっては、その構造基盤が揺らぎ始める。その変化の過程を、今まさにみなさんが見ているのです。

 

ここで大事なことは、目の前で展開されていく変化に、いちいち反応しないことです。マスコミなどは、どうせ嘘八百の話を捏造して流し、いっときある話題で盛り上げても、賞味期限が過ぎれば全部を尻切れとんぼのままスッと終わらせ、また次のネタを流すだけです。こんなものに付き合って一喜一憂していたら、世の中の変化の裏側にある真実が全く解らなくなってしまいます。

 

そうではなく、そういう個々の現象の裏に、どういう意味が隠れているのか、どうしてそんなことがいま起きているのかを俯瞰して見るのです。宇宙の視点から見るのです。そうすれば、個々の事件が、いま言った大変化の過程で噴き出している膿(うみ)のようなものだということが解るでしょう。これが、これまでに何度も言ってきた「カルマの浄化」なのです。

 

「カルマの浄化」とは、「受けること」だということは前にも申し上げました。誰かにカルマを取って貰うということは出来ません。自分が撒いた種は自分で刈り取る。これが「カルマの法則」であり、誰もこの法則から逃れることは出来ません。自分が為したことは、必ず自分に返って来るのです。片方に振られた振り子が必ず逆振れするように、そうやって宇宙のバランスが保たれるのです。

 

この「カルマの浄化」が、地球に注がれるエネルギーが強くなったことで、今まで隠れていた暗闇にも光が当たるようになり、表にどんどん出て来ているのです。このため、闇に生きて来た人たちは苦しくなって、苦し紛れの、破れかぶれの行動をエスカレートさせているのです。ですから、みなさんは、それらに巻き込まれることのないようにしなければなりません。

 

そこでもまた、起きている現象をちょっと離れて見るということが大切です。そうすれば、彼らがいかに幼稚な、馬鹿げたことをしているかが容易に解るはずです。

 

実は、当たった光がみんなに公平であるのと同じく、「カルマの浄化」もみんなに公平に起きているのです。公平に起きてはいるのですが、二つの点で、その顕われ方に差が出て来ます。一つは、それまでに自分が何を為してきたかということ。「カルマ」というのは、何も悪いことばかりとは限らないのです。そしてもう一つは、噴き出した「カルマ」に対して、自分がどのように対処したかです。

 

「カルマの浄化」は、自分が為したことの清算であり、そこには何らかの建設的な意味が必ず含まれています。自分の周囲に起きる物事に意味を与えているのは、常にその人自身なのです。ですから、どんな意味を見出すかによって、同じ起きた出来事を、生かすことも殺すことも出来るのです。霊的成長というのは、そこに気づきを見出して、反省すべき点は反省するというところから起こります。

 

そのためには、噴き出した「カルマ」にきちんと向き合って、そこに示されているメッセージをしっかりと掴むことです。これを日々心がけて生きているかいないかによって、その人の霊性の成長度合いというものは大きく違って来ます。ただし、そうするためには、何よりも先ず素直で、正直でなくてはなりません。これがなかなか出来ないのです。エリートと言われる人ほど出来ないのです。

 

なぜかと言いますと、素直で正直になって自分を見つめることは、今までの自分を形づくって来た価値観および環境が根底からひっくり返ることになってしまうために、恐怖が先走るのです。そのため、とっさに嘘をつく。本人は、それが自分を守るためだと思っているのですが、自分の「魂」に嘘をつくのですから、実は自分をますます痛めつけているということになるのです。

 

これも無智なるがゆえです。 もし「カルマの法則」というものを知っていたら、カルマの雪だるまを転がすような、そんな馬鹿なことは決してしないでしょう。結局のところ、社会の刷り込みによって出来たエリート意識の価値観にガチガチに染まっていて、それ以外の生き方というものを全く知らないのです。憐れには思いますが、本人がそれを選択したのですから仕方ありません。

 

さて、冒頭の話に戻ります。心身の急激な変調に関しては、いま申し上げたような「カルマの浄化」というものが一つには影響しています。しかし、みなさんの場合には、その影響はそれほど大きくはありません。なぜかといえば、みなさんは、きちんと向き合おうとされる人たちだからです。むしろ、向き合い過ぎて、考えす過ぎないようにした方がよいかも知れません。

 

「カルマの浄化」に際しては、起きている出来事に対して、いちいち「これはカルマなんだろうか?」と詮索して、あれこれネガティブなことを考えるよりも、「これによって、自分にいま示されているメッセージはなんだろうか?」と建設的に考えて、反省して、次の行動に向かった方がずっとよいのです。「カルマの浄化」は、過去の自分が送った、自分へのギフトだと思ってください。

 

みなさんの場合は、「カルマの浄化」によって心身に変調を来しているのではなく、ご自身の波動が上がったことによって、変調が訪れている可能性の方が、むしろ高いと思います。

 

これを聞いて、「えっ、波動が高くなるのにどうして?」とたぶん不思議に思われるでしょう。これはどういうことかと言いますと、宇宙から来ている高い波動に対して、先ず自分の奥にある霊性が反応を起こします。そして興味を持つだけでなく、心をピュアに保つ努力をしていると、高い波動との同調が起き、高い波動に引っ張られて、自分の波動の振動数が上がるのです。

 

そうしますと、宇宙エネルギーの受容器官であるチャクラ(頭頂部から尾骶骨にかけて、背骨に沿って7箇所ある)が、それに対応して高い波動にも反応するようになるために、その過程において心身のバランスが一時的に崩れるのです。これは、それまで低い波動レベルでそれなりに安定していたものが、自分が出す波動が高くなるために、バランスが崩れてしまうことから起こります。

 

このバランスの崩れ(実際は上昇であり覚醒)が、どのように出るかは人によって違い、その人のウィークポイント(課題)であったチャクラの部位に対応した箇所に、変調が起こります。痛みを覚えたり、マグマの噴火のような感じがあったり、頭痛がしたり、肩や腰が重くなったり、気持ちが不安定になったり、イライラしたりと、症状はいろいろです。

 

これらの変調ないし不調の期間は、長くとも1年半くらい続き、それからしだいに終息に向かいます。しかしこれは1回で終わりなのではなく、一つのチャクラが覚醒し終わると、また別の部位に変調が来るといった感じで段階的に進みます。ですから、全部のバランスが整って来るまでには4・5年は掛かることを覚悟しなければなりません。

 

この間は、長いですしちょっと辛いです。私の場合は、誰も指導してくれる人がいなかったので、病気にでもなったのかと思って、とても苦労しました。しかし、そのような変調は、自分の波動が上がって行く過程で起きる一時的なものだということをよく理解して、慌てたり、心配したりしないようにしてください。過程の調整期間が過ぎれば、以前よりも体調がグッと良くなって来ます。

 

ここで、大切な注意点を二つ言っておきます。一つは、その調整期間における変調や感覚的なものの変化を、不安に思ったり、怖れたりしないようにしていただきたいということです。

 

自分の波動が上がりますと、以前には感じなかった波動が敏感に感じ取れるようになります。先ず、聴覚が極端に敏感となり、冷蔵庫のモーター音や、蛍光灯のフリッカー音、外で吠えている犬の鳴き声、自分の心臓の鼓動や血の流れなどの音が聞こえて来ることがあります。これを気にしだすとノイローゼになってしまいます。また、ひどい耳鳴り状態がずっと続くかもしれません。

 

他にも、身体の特定の部位に、今までとは違った感覚が走ったり、声が聞こえたり、光が見えたりすることがあります。自分が接した物や、人間や、テレビや、インターネットなどが出す波動にも非常に敏感になり、低い波動を出している存在に対しては、吐き気のような嫌悪感が生じて来ます。特に今は、社会全体にカルマが噴き出しているので、敏感な人は辛いと思います。

 

いわゆる「波動に敏感になる」という状態ですが、この時に、低い波動を出して来る存在に対して恐怖感を持ったりしてはダメなのです。恐怖感を持つということは、自分の波動を一気に下げるということですから、その隙を突いて、心霊界(第四霊性密度)にいる、動物霊や浮遊霊や闇の宇宙人グループなどの存在がスッと入って来てしまいます。

 

これが、要するに「魔が刺す」ということで、イエスにしろ釈迦にしろ、みんなそういう経験を経ているのです。私もノイローゼになりましたし、何度か憑依されたこともあります。この時は、心がズブズブに沈みますし、肩が異常に重いのでそれと分かります。ですからみなさんには、そういうことのないように、あらかじめよく理解しておいていただきたいのです。

 

要は「怖れるな」ということです。それを「怖いもの」にしているのは、その人の「思い」です。対象物ではありません。闇というのは「光」が嫌いなわけですから、自分の波動を下げないようにして、いつも元気に、正直に、朗らかにを心掛けていれば、それらに入られることはありません。そうやって楽しく生きることが、自分を魔から守ることにもなるのです。

 

霊能を持っておられる方の多くは、この理屈が解っていないのです。自分の感覚だけを頼りにしているので、闇を怖いと思い、その恐怖心から自分の波動を下げ、反対に闇と同調してしまい、そこが発する「恐怖の予言」を、天からのものだと錯覚して降ろしている。そういう人が大半です。早い話が、そうやって闇の手先となってしまっているのです。

 

ここでハッキリ言っておきますが、高次元の存在が「恐怖の予言」などをしてくることは、絶対にありません。なぜだか解りますか? 高次元の存在というのは、すでに波動を高いところに固定化させた存在です。だからこそ高次元の存在なのです。ですから、何を今さら「恐怖の予言」など出しましょうか? そのような低い波動を出すことは、彼らにはもはや出来ないのです。

 

それと、闇の者たちも、同じく神が創った魂なのだということを、よく考えてみてください。なにゆえ、それを怖れる必要があるでしょうか? 彼らは、ちょっと寄り道をしているだけなのです。地上の人間にも、いっぱいいるじゃありませんか。悪さをしたり、からかったり、いたずらをして喜んだりと、寄り道している人間が。

 

それと、もう一つ気をつけていただきたいことは、ご自分の波動が上がるにつれて、いわゆる霊能というものが、いろいろと発現してまいります。その時に、くれぐれも錯覚しないようにしていただきたいのです。霊能というものはオマケのようなものであって、あなたがすべきことは、あくまでご自分の霊性を高めて行くことです。

 

それを、ちょっと霊能が出たからといって、自分を特別だなどと思ったり、商売のネタにしたり、それをエサにして誰かを取り込もうなどとしたりしては、その人の波動は、エゴが発する低い波動にどーんと落ちてしまいます。一般の人は波動が読めませんので、そういう人間に心惹かれてしまうかも知れませんが、そのようなことをする人は、当然大きなカルマを積むことになります。

 

私がいつも残念に思うのは、スピリチュアルな学習を始めた人の大半が、いま言った二つの点で、心霊界に入っていってしまうということです。いわゆるオカルトの方に興味を集中させて行ってしまうのです。どうしてかな?と思います。私たちがスピリチュアルな学習を進める意味は、あくまで人間としての完成を求めるためだということを肝に銘じていただきたいと思います。

 

それと、身の周りの環境が激変するということについても説明しておきます。リアリティというものが何であるかということについては、これまでにも度々説明して来ました。復習しますと、我々というのは、客観的な「現実」というものの存在を証明することは、絶対に出来ないということです。我々が、当然あると思っている世界は、その人の、あくまで「認識した世界」なのです。

 

つまり、我々が「在る」と思っている世界は、実は、個々の人間の中に形成された「リアリティ」に過ぎないのだということです。ではその個々の「リアリティ」は、どうやって創られているかと言いますと、その人の選択行動によります。これは、好みとか興味、心グセ、習慣といったことでも説明できるのですが、もっと底辺を規定しているものは、その人が持つ「波動」レベルです。

 

外に広がる世界というのは、単一のように見えて、実はそうではなく、ミルフィーユのような多次元構造を持っています。これを精神世界ではパラレルワールド(parallel world)と言います。あなたが、ミルフィーユのどの層を食べるかは、その人が持つ「波動」の高さによるのです。ということは、自分の「波動」の高さが変化すれば、見える世界(選択する世界)も当然違って来るということになります。

 

今まであれほど興味を持っていたことが急につまらなく感じられたり、食べ物の好みや、音楽の好み、ファッションや、読む本や、付き合う人まで、何から何までが変わります。見える景色も、その色や輝きも違って来ます。このような「選択の変化」の結果が、その人にとっては、まるで身の周りの環境が激変したように感じられるのです。

 

ですから、一見、外側にあるものが変化したように見えますが、実はあなたの「波動」が変化しているのです。「選択」というものはつねに二段階で起きており、一段階めはその人の「波動」の高さ、その周波数の範囲内で二段階めの選択が行われています。そして「波動の法則」により、その変化した高さに合った世界を、自分の周囲に展開させているというわけです。

 

この変化には、肉体の変化と同様に、辛い時期が訪れる可能性が大いにあります。それまで親しかった人との別れが起きたり、職場が変わったり、住む場所や家が変わったりです。しかしこれらはみな、あなたの「波動」が上昇したことに伴って起きる現象だということを理解してください。

 

何かを喪失したり、別れたりすることは、一時的に痛みを伴います。ですが、ずっと後になれば、それは必要なことだった、必然だったということが分かります。ですから、それまでが辛抱です。

 

ということで、覚醒が始まった人は、しばらくはちょっと苦しい時期が続きますが、踏ん張って、ご自分を信じて、道を生きて欲しいと思います。世間の人たちから見れば、そんなことに何の意味があるのかと思われるでしょうが、光の道に入った人は、もうそうする以外では生きられないのです。

 

それが、その人の使命であり、人々を喜ばせ、幸せにすること以外では、自分を輝かせることは出来ないからです。

ですから、そのような人たちに、あえて苦難の道をゆく人たちに、私のアミーゴたちに、エールを送っておきます。

 

目覚め始めた者たちよ。

歩め、歩め。歩みを緩めるな。あなたの手助けを世界が待っている。

新しい霊性

社会がどのような体制になろうとも、経済活動がどのように変化しようとも、科学がどのように発達しようとも、人間が霊性(Spirituality)に拠りどころを求めようとする気持ちは決して無くなりません。それは、大多数の人々が、自分の本質は「魂」にあるということを、無意識のうちにも感づいていて、その「魂」が、真に幸福な生き方を求めるからです。

 

でも世の中は、一見、霊性とは関係ないところで動いていて、普段の暮らしも、人間関係も、健康や病気に関することも、教育も、心の問題も、それぞれがそれぞれの領域で語られたり、専門家と称する人のアドバイスを受けたりしています。けれども、最後の最後は、人間、霊性です。霊性に帰着する。それは自分という存在の出発点であったのであり、廻り廻って、最後はそこに眼が向けられることになるのです。

 

それを、いったいどの時点で気づくことになるのか? 幼少時なのか、青年期なのか、壮年期なのか、老人になってからなのか、はたまた死ぬ直前なのか。死の間際になっても、結局気づくことなく臨終を迎えてしまうのか。それとも、死にそうな大病をして、あるいは身内を突然失って、あるいはすっかんピンになって、それでハタと気づくのか。

 

多くの人は、人間、最後の最後は「霊性」だと予感していても、世間の手前や、社会の常識の刷り込みや、日常の忙しさ(そのほとんどはスマホに眼を釘付けにしたりというどうでもいいこと)にかまけて、冷静に「霊性」に向き合う瞬間というものがありません。それと、もう一つの大きな原因は、その求める気持ちに、本当に応えるもの、本物がないということです。

 

いや、正確に言えば、本物はいつの時代にもあるのです。けれども多くの人は、それを発見することができない。なぜ発見できないのでしょうか? それは、自分の中に潜むエゴを捨てられないから。捨てられないから、エゴが喜ぶものを追い求める。よくしたもので(と言っていいのかどうか?)、それに応える、エゴに「霊性」をデコレーションしたスイーツが、世の中にはいっぱいあるのです。

 

それを人々はパクッと食べる。そして満足する。でもしばらくするとまた食べたくなる。結局、いつまで経っても食べることをやめない。あっちにおいしい店があると聞けばすぐに出掛け、こっちに有名パティシエの新作が出来たと聞けば行列に並ぶ。見知らぬお宅を訪問しては「あなたも絶対にこれを食べるべきよ。今すぐに!」と言う。そうして、スイーツを売っている人たちを儲けさせる。

 

そんなことしなくていいのに‥‥。自分の中にすべてがあるのに。

 

これまで、人間が求めて止まない「霊性」に回答を示し、応えようとして来たのは、まぎれもなく宗教です。しかし宗教は、いくつかの点で大きな誤りを犯して来ました。その一つに、多くの宗教は、神との交信が出来た霊能者(今の言葉でいえばチャネラー)を創始として興ったのですが、このチャネラーを、神に準ずる崇拝の対象にしてしまたのです。この図式は、新興と言われる宗教においても何ら変わりがありません。

 

逆に言えば、人間は、自分以外の誰かを、崇め奉るのが好きだということです。ここで、崇め奉られるのが好きな人と、崇め奉るのが好きな人の、ニーズが合致する。波長がぴったりと合ってしまう。両者を合致させているものが何かと言えば、お互いが持っているエゴです。「霊性」の皮を被った実はエゴ。人間には上下があって、上に立つ者が偉いんだ、尊いんだという価値観を、互いに共有し合っている。

 

ところが、これが大問題なのです。エゴを抱えている限り、本当に高い次元の真理には絶対に到達できないだけではなく(なぜなら、波長が合わないから)、支配と被支配、依存と共依存(依存者を支え続ける依存)という関係から抜け出せなくなってしまうからです。

 

Love is blind. そこに嵌まり込んだ人は、喜んで、支配と被支配、依存と共依存という関係に精を出していく。そうすることが、神に愛されることだと、ひたすら信じて。

 

騙される者がいて、騙す者が成り立つ。

本当なら、そのチャネラーはこう言わなければならなかったのです。

 

誰もが、内なる神に出会えるんですよ。

あなたも神の子。ただいるだけで、すでに素晴らしい存在なんです。

自分は、そのことに、ほんのちょっと、先に気づいただけ。

だから私は、私の役割として、あなたたちに道を示します。

さあ、歩みなさい。ご自分の道を。

 

霊能は、霊性の高さを保証するものではありません。ただの能力の一つ。それなのに、自分は霊能を持つから特別だ、人より優れているなどという、人間社会のエゴを剥き出しにした者に、みんな簡単に引っ掛かってしまう。そして創始者が死ぬと、この「特別さ」を巡って、必ず跡目争いが勃発する。「特別さ」は血に、つまりDNAに引き継がれると主張する一派と、教えをいちばんよく理解した高弟、つまり教義によって引き継がれるとする一派とに分裂する。

 

いったい人間は、何をやっているのだ。

自分の「魂」が幸福になる道を歩みたかったのではなかったのか。

自分が何者だということを知りたかったのではなかったのか。

教団の維持と、保身と、他者攻撃にばかり精を出して、それでどうするのだ。

それが、「霊性」を獲得する道だとでも、お前は言うのか。

いい加減に目覚めよ。

己のエゴを徹底して排除しなければ、高みになど昇れないことは、解りきったことではないか。

それなのに、エゴを剥き出しにしておきながら、「神よ、私を救ってください」などと言う。

みんなを愛することが、自分を救ける道だということが、なぜ解らないのだ。

こんな簡単なことが、なぜ解らないのだ。世の指導者たちよ。

 

世界中で起きている戦争は、結局、宗教か、領土・権益争いが原因となって起こっています。「最終戦争」などという馬鹿げた予言を信じ込ませる宗教まであるのです。霊性を求めたはずの宗教が、およそ霊性とは真反対な行動原理に走っている。それもこれも、盲信度合いに応じて、人間に上下の評価を与えるという、とんでもないエゴによる価値観をそこに持ち込んだためです。

 

人間が、新しい霊性に(それは古くて新しいものですが)、本当の霊性に、目覚めなければならない時が来ています。

もう既に、多くの人は気づき始めています。自分の「魂」は、喉の乾きを覚えるほどに霊性を求めている。でも、今まであった教えというのは、どうも違うようだと。本物はどこにあるんだと。

 

本物は、あなたの内にある!

自信を持って言う。甘い言葉の食べ歩きなど、もうしなくていいのだ。

なにゆえ、自分から束縛を求めに行くのだ。

あなたは自由なのだ。

自由こそ、あなたの「魂」が喜ぶ、唯一の道なのだ。

本当の霊性に目覚めよ。

だから、私は言う。

 

誰もが、内なる神に出会えるんですよ。

あなたも神の子。ただいるだけで、すでに素晴らしい存在なんです。

自分は、そのことに、ほんのちょっと、先に気づいただけ。

だから私は、私の役割として、ここに道を示します。

さあ、歩みなさい。ご自分の道を。

21世紀、これからの神学

神様。

この言葉に、あなたはどんな思いやイメージを仮託されているでしょうか?

おそらく一人ひとりが微妙に違っているだろうと思います。

まさしく、Oh My God!(おお、私の神よ!)です。

日本人と欧米人とでも、きっと大いに違う。しかしハッキリ言えることは、誰も実際には「それ」を知らないし、解らないということ。

 

犬や猫は、日々神様を考えながら生きているのでしょうか? 鳥は、神様を拝みながらさえずっているのでしょうか? 花は神様に頭を垂れて咲いているのでしょうか? たぶん、彼らは彼らを生きているだけ。ただ、人間が失くしてしまった感覚はちゃんと持っている。それは “feel” 。宇宙を、自然を、その波動を感じながら、瞬間々々を彼らはただ生きている。

 

人間は “feel” の感覚を失った代わりに、「神」概念を創造しました。

感覚から思考への転換。

そう、それは「神」そのものではなく、頭で創られた「概念」なのです。

自分は誰なのか‥‥。自分が生まれた意味、生きている意味、存在することの意味が知りたくて。自分の上位にあるものを、人間は必要としたのです。

 

あなたは、お父さんとお母さんから貰ったDNAの合体なんだよと、現代科学は説明します。でも、自分の心はどうなんだと。今ある心は、どこから生じたのかと。DNAが〈私の〉心を創り出すのかと。だとしたら、この自分は何なのだと。まったく解らないことだらけです。その解らないことだらけの一切合切を、一挙に解決する手段、それが「神」概念の創造(想像)です。

 

しかし、こうも言える。あなたが、今日の晩ご飯のおかずを創る。編み物をして靴下を創る。会議に必要な資料をパソコンで創る。そうして創り出された一切合切の前には、必ず「こう創ろう」という意志がある。だとしたら、この自然、この宇宙は、どのようにして出来上がったのか。そこにも、必ず「こう創ろう」という意志があったはずだ。でなければ宇宙は誕生しない。

 

ごく自然な論理です。しかし宇宙物理学者の大半は、また科学者の大半は、その領域に足を踏み入れることを拒絶しています。その結果、ある日突然、「無」から宇宙が誕生したということにせざるを得なくなっている。ならば「無」とは何なのか。どうしてある日突然なのか、ということになってしまう。結局「無」も「神」と同様、人間が創り出した「概念」でしかないのです。

 

人間は、どうやっても、そこを超えられない。

あまりにも次元が違い過ぎて‥‥。

 

あなたはどうお考えでしょうか? 宇宙は、ある日突然「無」から生じたのだと思いますか? だとすれば、あなたもある日突然「無」から生じたということです。それとも、宇宙は、「こう創ろう」というなにがしかの意志があって生じたのだと思いますか? だとすれば、あなたも「こう創ろう」という意志から生じたのだということです。

 

突き詰めれば、そういうことになる。さて、あなたは、どちらが納得できるでしょうか? よりしっくり来るでしょうか?

 

後者のなにがし(某)、これを精神世界では、一般に創造主とか、第一原因と呼んでいます。第一原因というのは、そこを起点として、そこからさらに色々なものが創られたということで、その大本という意味から第一原因と言っています。

 

この創造主に当たるものに、人間は様々なアイデアを与えて「神」概念を創造したのです。まさしく「創造」主です。それを能力だと捉えた人は「全智、全能」という概念を与えました。また仏教で言う阿弥陀様はア(否定)+ミタ(量る)で、「無量(限りが無い存在)」ということを現しています。またこれに人格を与えたい人たちは、それを「父」とか「母」と呼びました。

 

映画などで、人間が「神様」役を演じた場合には、たいていは白髪で、長い顎髭を生やし、白い衣を着たお爺さんということになっています。間違っても韓流スターのようなイケメン青年じゃない。女性や子どもや赤ちゃんということもまずない。それは、人間がこうであって欲しいというイメージを、そこに仮託したからそうなったのです。

 

問題は、そのようにして一度「概念」を拵えると、人間がそれを信じ込むというところにあります。そこから「宗教」が生まれました。しかし本当は、誰もそんなお爺さんを目撃したわけでもないし、誰も「それ」が本当は何であるか、どうなっているのかを知りません。そもそも、理解することは不可能だと言うことです。人間は、先ずそれを認めなくてなりません。

 

しかし、自然を崇拝したいという気持ちは、日本人ならば大抵持っています。日本人だけじゃない。アメリカ大陸の原住民も、アボリジニも、ケルト民族も、そしてスカンディナヴィア半島にも、バリ島にも、ハワイにも、イタリアのグロッタ様式にも、そこには自然崇拝があったということが認められます。おそらく世界中にあることでしょう。

 

これは、今日の視点で考えると、「自然が恵みをもたらしてくれるから」という解釈がもっぱらですが、実はそれだけではないのです。自然というのは、先の論理で言えば、創造主の自己表現物に他なりません。「こう創ろう」という意志の具体化です。ですから、目に見える表現物を通して「神」を感じる、ということがあったのです。そして実際に、「それ」は感じられたのです。それが “feel” です。

 

あなたもきっと感じたことがお有りでしょう。静かな森の中や、神社の敷地内を歩いている時に、スーッと風が通り抜けたような感覚を覚える時が。あるいは、何か大きなものに包まれたような感覚になることが。ぜひ、この「感覚」を大切にしていただきたいのです。

 

今日では、多くの人が都会暮らしをするようになって、もうみんな、すっかり “feel” を忘れてしまいましたし、土地のお祭りだと言っても、様式化形式化した儀式をやって、あとは飲めや歌えやの宴会に成り変わってしまい、それでみんなが満足しています。でも、耳を澄ましてさえいれば、自然の後ろに何かがあることくらいは、たいていの人間ならみんな分かる筈なのです。

 

なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる(西行)

 

そして研鑽を積めば、高次元の存在と繫がることも、時に人間には知り得ないメッセージを受け取ることも出来るのです。そのことから、「それ(第一原因=創造主)」が何であるかまでは解らないとしても、少なくとも高次元の存在がいるということだけは、解る人には解る。そこで、この高次元の存在を、神道では神々と呼び、仏教では仏と呼び、西洋では天使と呼んだのです。

 

ですから、神々と、仏と、天使は同じものです。みな高次元にいる存在で、その実体は、いつも書いているように「想念エネルギー体」です。こう書くとありがた味が無くなってしまうかもしれませんが、この中には、純粋に想念だけで創られた存在も、転生を終えた魂から成るものあります。その括り方に各種があって、色んな名前をつけて、各宗教や民族がそれぞれに呼んでいるのです。

 

これを聞いて「えっ」と思う方や、反発を覚える方も、たぶんいらっしゃるかも知れません。しかし、今のこの、21世紀になって必要なことは、結局「みんな同じ」だと知ることです。宗旨宗派の様式を頑固に守ろうとすることは、結局、一つのとらわれに過ぎないのです。

 

高次元の存在たちに、自分たちが好きな名前を付けるのはいいとしても、それで縄張り争いをしたり、ひどい時には代理戦争までさせてどうするのですか? そんなものが〈高〉次元の存在だとでも言うのですか。えっ、そんな戦争大好きの存在が‥‥。本当の高次元の存在にしたら、はた迷惑以外の何ものでもありません。まったく人間が考えることといったら、訳が分かりません。

 

さて、いま見て来たように、一口に「神」と言っても、それが意味するものもイメージも、人それぞれであって、迂闊に「神論」を語るということは出来ないのです。みんな、それぞれの神〈概念〉を持っていて、共通するものを見出しにくいからです。しかし唯一「神論」を語れる分野がある。それが「創造主」についてです。

 

なぜならば、宇宙を創った、万物を創った、「こう創ろう」と考えた存在は、一つでなければならないからです。一つでなければ、辻褄が合わないからです。

 

仮に「創造主」が二つだったとしましょう。AとBです。すると、AからすればBが、BからすればAは、いったい何ものが創ったのかということになってしまいます。だって、自分が創ったものではないのですから。それはハッキリしているわけですからね。

 

これは大きな矛盾です。

結局のところ、AもBも、互いが「創造主」だと主張する根拠が怪しいということになって、AとBとを創ったもう一つの存在、Cがその上位に必要となります。こうして、行き着くところは、創造主は「ただ一つ」という結論に帰着してしまうのです。

 

それと、「創造主」を考える際に押さえておかなければならない、もう一つの重要なポイントは「被創造物」、つまり万物、宇宙との関係です。「創造主」が宇宙を創った、万物を創ったと。ここまではいい。しかし「創造主」と「被創造物」とを分ける考え方には、またもや大きな矛盾が生じてしまいます。なぜならば、「創造主を創ったのは誰か」という新たな大問題が生じるからです。

 

「創造主」がいるという発想は、宇宙が「無」から突然生じたとする荒唐無稽さを回避できる論理だったのに、これでは、「創造主」がある日突然、創造されたという、同じような話になってしまいます。これは変です。そこで、次のような結論に落ち着かざるを得ません。それは、「創造主」と「被創造物」とは同じである、ということです。

 

つまり「創造主」は自らを創った。そして今も創り続けている。これが、高次元の存在から教えられた結論です。きっと「えっ」と思われる方もいらっしゃるでしょう。これも荒唐無稽と言えば、荒唐無稽です。けれども、創造者と被創造物との関係はどこまでも続き、最後に留め置くためには、第一原因は、創造者と被創造物は同じだという結論に至らざるを得ません。

 

みなさんの周囲にあるものを見回してください。洋服でもスマホでもコーヒーカップでも結構です。今その形にあるものを創った素材というものが必ずある筈です。でもその素材も、何かを素にして創られているでしょう。そしてその素も、何かを素にして創られている。

 

このようにして遡っていくと、限りがありません。(実は、これが生命の意味でもあるのですが)これをずーっと遡っていった根本というのが、第一原因であり、この連続に終止符を打つためには、最後の最後で、創造者=被創造物という結論を導かざるを得ないのです。

 

これは、「時間とは何か」が人間には解らないのと同様、人知を超えた次元における結論です。しかし、高次元の存在(彼らは人間よりも、より第一原因に近い位置にいることに注意)が、そのように知らせてくれるのですから、我々としてはそれを信じるしかないのです。

 

「創造主」と「被創造物」とは同じである。「創造主」は自らを創った。自らのすべてを創った。よって、「創造主」を「神」と呼ぶならば、宇宙そのものが神であり、自然は神であり、木々は神であり、草花は神であり、獣や鳥や虫も神であり、あなたも神であり、私も神である。すべてが神である。言い方を変えましょう。どれもが神の一部であることには疑いがない。

 

たぶん、めまいを起こすような結論でしょう。しかしこれが、21世紀に、人間がどうしても知らなければならない新たな「神学」、真実の「神学」なのです。数千年、いや数十万年にわたって歪められて来た「神」に関する概念が、根本的に改められなければならない時が来ているのです。

 

全部が一つ、一つで全部。始まりも終わりもなく、ただ生命のいとなみが連綿と続いていく。あなたの思考が、あなたの行動が、そのまま神の一部になっているのだということです。

 

神は一つ。この論理は正しい。

けれども、長きに渡って地球世界を席巻して来た「一神教」は、今まで大きなゴマカシをして来ました。

 

一つには、「創造主」と「被創造物」を分けてしまいました。

その結果、神は自分の外側にあって手の届かない存在であり、その恩寵を得るためには、熱心に崇拝して祈らなければならないとしました。実に、これこそが彼らがもっとも嫌う「偶像」に他ならないのです。

 

二つには、善と悪とがあって、悪行は悪魔の仕業ということにしてしまいました。

これでは、二神論になってしまうのですが、そんな矛盾は無視して、悪を叩き潰すことが善になるという、まさしく独善的考え方を蔓延させてしまいました。

 

三つには、人間は不完全なものだから、戒律によって統御すべしとしました。

これが、人間から、人間にとってもっとも大切な自由を奪い、卑屈さを植え付け、神を頂点とするピラミッド構造の中で、上下関係と、支配被支配の関係を生む基となったのです。

 

すべては、教会や聖職者、そしてそれを政治に利用する者たちの手によって、自分たちの都合のよいように、宇宙の真理が歪められて来たのです。そしてあろうことか、真実を語ろうとして、その時代々々に登場したメッセンジャーたちに「異端」のレッテルを次々と貼っては、闇に葬り去って来たのです。

 

今の世の中を、そして世界を見てください。それが結果です。宗教の時代,魚座の時代の結果なのです。まさに「思ったことは実現する」です。「一神教」の人々は、自然崇拝を原始的と言って小馬鹿にします。でも、そうではないのだということ。自然こそは、神の表現物であることを、堂々と、論理的に、主張して欲しいのです。それが、日本人に課せられた役割です。

 

しかし、よくなったこともある。今は「異端」を堂々と語っても、「あ、こういう人もいたんだね」くらいなもので、命まで奪われるということは無くなりました。街角に出て話さなくても、インターネットで話せるようになりました。誰かに何かを無理強いされるということも無くなりました。勇気と決心しだいで、自分の想いのままに生きることが、充分可能な時代になったのです。

 

そこでみなさんにお願いしたいのです。この、今の時代のよい面を、大いに活用して、ご自身を輝かせて欲しいのです。宗教が今まで流布してきた教義などは、もういい加減に無視して欲しいのです。今さら宗教を学んで、何になるでしょう? 所詮はデタラメの上に構築されたフィクションです。もう全くの時代遅れです。宗教側もそれが分かっているからこそ、焦っているのです。

 

信仰も、戒律も必要ない。ましてや、独善に陥り、他者を傷つけることなどあってはならない。21世紀のこの時代にあっては、あなたの、自分の、直感を信じて欲しいのです。

 

誰にも頼むな、ただ自分に頼め。

 

あなたは、野の花と同じように、そこに存在するだけで既に意義があるのであり、どこまでも自由であって、ただ自分を、本当の自分を生きることが出来るのだということ。

そして、それこそが、同じく野の花と同じように、幸福に生きるということなのだと、気がついて欲しいのです。

すべてに偶然はないということと、シンクロニシティの意味

この世に、偶然というものは何一つない。

スピリチュアルなことに興味のある方なら、たぶん一度は目にしたことのある言葉でしょう。裏を返せば、「自分の身に起こるすべては必然」だというのです。これを、あなたは信じられるでしょうか?

 

あなたには自由意志が与えられています。選択の自由です。このブログでも、何度も強調して来ました。あなたが為している、今この瞬間の行動は、山ほどもある選択肢の中から、自由意志によって、あなたが確かに選び取ったものです。言い換えれば、捨てた選択肢の方が山ほどある。それなのに、あなたが選んだたった一つのことは、必然なのだと言うのです。

 

イベントの余興でやっている三角くじ。あれを想像して貰えれば解りやすいでしょうか。箱の中には、当たりくじを含むたくさんの券が入っています。その中から「どうか一等が当たりますように」と念じて一枚を引く。それがもう偶然ではなく、必然だというのですから‥‥。

 

えっ、自分はハズレばっかりですって?

私もそうですよ、もうハズレばっかり! (ノ_-。)

 

これはどういう意味なのでしょう?

(だから、ハズレばっかりの意味じゃなくて、選んだ券が常に「必然」だということの意味ね)

 

一方で、シンクロニシティ(Synchronicity)という言葉もあります。これは、一般的には、同じようなことが重なる現象だと説明されています。たぶんあなたにも、何かしらの経験がお有りでしょう。ちょうど思い浮かべていた人に街でバッタリ出会ったり、一日に二度も交通事故を目撃したり、何かの数字が同じだったり、たまたま手に取った本に、疑問に対する答えが書いてあったり。

 

分かりやすいシンクロニシティに出会った時には、本当にびっくりしますよね。でも、前に書いたこととはちょっと矛盾していませんか? シンクロニシティは、〈偶然〉の重なり、と説明されることが多いです。でもすべてが必然なら、偶然の重なりもなにもない。すべて必然なのですから、必然の中に、重なり現象が見られたということに過ぎません。

 

実はその通りなのです。分かりやすいシンクロニシティ現象に出会った時には、ちょっとびっくりしてしまいますが、それは何かに気づかせるためのサインとして、わざわざそのような形をとって示されたものです。言って見れば、狭義のシンクロニシティ。でも実際には、身の上に起きていることのすべてが、シンクロニシティだと言ってもよいのです。今日はこれを説明しましょう。

 

宇宙のあらゆるものを構成している基本要素は、たった一つです。それは振動するエネルギー体です。万物は、この振動するエネルギー体の振動数が、ちょっとずつ違うことで、あらゆるものが形づくられているのです。物も、電磁波も、想念も。このことは、現代物理学もかなりのところまで迫って来てはいますが、まだ完全に証明されたわけではありません。

 

なぜ証明できないかと言いますと、我々が暮らしている三次元(第三霊性密度)の物質世界が、多次元的宇宙全体からみれば、ごく限られた範囲の振動数しか知覚できないからです。それはちょうど、ごく狭いスリットから、向こう側の広大な世界を覗こうとしているようなものです。しかしその限られた範囲であっても、いま言ったことの一端はかいま見ることは出来ます。

 

あなたがよく知っている、X線、紫外線、可視光線、赤外線、音波等。これらが、それぞれ異なる性質と働きを持っているというのはご存知でしょう。ではそれらに異なる性質を与えているものは何だと思いますか? 実に、これが振動数だけなのです。あるいは、波長、密度と言い換えてもいいです。全部が、波には違いがないのですが、それぞれの振動数が異なるのです。すると、性質がまるで違ったものになってしまうんですね。

 

このことを、私はセミナーなどでもよくお話しているのですが、なぜかみなさん感動がないのですよ。なぜでしょうねぇ。

 

私が最初にこれを知った時には、もの凄く感動しました。なんだ、そうだったのか。元はたった一つだったんだ。古代から言われて来たエーテルっていうのは、本当のことだったんだ。なんてシンプルな結論なんだ。なんて Beautiful なんだろう。そうか、「神」ってぇやつは、結局‥‥と、部屋の中で一人で小躍りしていたくらいです。

 

それはさて置き、宇宙のすべては「波」である、「振動するエネルギー体」である、ということを(少なくともこのブログを読んでくださっている方には)最初に認めていただきたいのです。音波や電磁波が「波」だということは、すぐにお認めになるでしょうが、固い物質も、人間の想念も、みんな「波」なのです。「振動するエネルギー体」なのです。

 

ということは、「波」というものが持っている性質や特徴が、物質にも、想念(思考や感情、感覚等)にも当てはまるということなのです。その一つを簡単に言うと、調和する波長は互いに惹かれ合い、合わない波長は反発し合うということが起こるのです。これを音楽で説明すると、共鳴(同調)、和音(調和)、不協和音(不調和=離反)の大きく3つの状態があるのです。

 

物質では、共鳴した時には結晶となり、和音となった時には化合し、不協和音となった時には分離します。人間関係でも同じです。共鳴する関係、調和する関係、不調和となる関係が存在します。物と人間との関係においても同じことが言えます。好む物と好まない物が生じるのは、同調、調和、不調和のセオリーが見えないところで働いているからです。

 

これらのセオリーを、精神世界では、一般に「波動の法則」と言っています。しかしこの「波動の法則」については、頭から毛嫌いする人も多く、インテリを自認する人は「エセ科学」などと言って、小馬鹿にしたり、罵声を浴びせたりしています。このような人たちは、結果から結果を見る狭い科学しか認めず、因の世界と結果の世界との関係を知ろうとする、真の科学というものを知りません。

 

私はどのように馬鹿にされても、糾弾されても構わないのですが、「波動の法則」は真理です。しかも最重要の。これが真理だと確信を持って言えるわけは、この世の機器では計測できない「波動」を、私はハッキリと知覚することが出来るからです。しかしこれは、何も自分が特別だなどと言いたいわけではありません。それどころか、人間誰しもが持っている普通の能力なのです。

 

あなたにも、ちゃんと「波動」は知覚出来ています。ただ、それを認めなかったり、理論を知らなかったり、気のせいだと解釈したりしているだけのことです。あなたが「ふと」思う。「なんとなく」そう感じる。急に何かの味や匂いを思い出した。空耳が聞こえた。ちょっとした事件が重なった。体が熱くなった。涼しい空気を感じる。気分が清々しい。etc.これらはすべて、あなたが知覚した「波動」です。

 

今これを言ったのは、そのことを意識して、セオリーを正しく学んで、正しく生活に応用していけば、あなたの生活が、よりよいものに変わるということを申し上げたいからです。人間は、今、そのことを真摯に学ぶ時期に来ています。あなたは、ただ物質世界に生きているだけの人間ではありません。多次元世界を知覚できる、多次元的存在なのです。そしてそれが、本当の人間の姿なのです。

 

ここで強調した「正しく」の意味は、「波動の法則」の応用には、エゴを一切持ち込んではならないということです。自分の欲のために「波動の法則」を応用しようという本末転倒があまりにも多いために、あえて強調しました。

 

さて、あらゆるものには固有の振動数というものがあります。あなたの肉体を造っているそれぞれの細胞、またその元である原子も、それぞれの振動数を持っています。またあなたの魂も想念も振動数を持っています。そしてこれらを総合して、今のあなたは、ご自分の「波動」というものを、絶えず周囲に発散しているのです。この「波動」を、オーラの色として見分けられる人もいます。

 

その時、互いの人間が出す「波動」、物が出す「波動」、インターネットやテレビが出す「波動」、文字が出す「波動」、自然が出す「波動」、等々の間で、先に言った、同調、調和、不調和のセオリーが正しく働いているのです。同じレベルの「波動」や似通ったものを含む「波動」を持ったもの同士は惹かれ合い、著しく離れたものは反発し合います。

 

高い波動を持った人間と、低い波動を持った人間が出会った場合、低い波動を持った人間は、大きく二つの反応に分かれます。その高い波動に親しみや共感を覚える場合と、嫌悪する場合です。その人の「魂」が反応すれば、近づきたいという願望が自然に生じ、「心」が反応すれば、今の自分を変えられたくないという防御意識(=怯え)が生じて、自然と嫌悪する態度に変わります。

 

強さを誇示する、強圧的態度に出るなどは、すべて弱さ、不安の裏返しです。

 

あなた方が、日々、テレビやインターネットで見ている怒号や、悲鳴や、罵り合いや、相手を小馬鹿にした態度などは、すべてそうした自己の防御意識の結果として顕れ出たものです。もちろん逆もあります。あたたかな、ふんわりした、リラックスできる、ほのぼのとした愛を感じるものです。また、魂の奥深くに突き刺さるような、深い感動を覚えるといった瞬間もあるでしょう。

 

ここで注目していただきたいのは、あなたが、どんなものに同調意識を持つか、ということです。先ほども申し上げたように、同じもの、似たもの同士は互いに惹き付け合います。ということは、怒号や、悲鳴や、罵り合いや、小馬鹿にした態度などに心惹かれるという人は、その「波動」に、現在の自分がよく調和しているということなのです。

 

通販広告で、これを飲みさえすれば努力なしに痩せられるとか、見違えるような素肌になれるとか、自宅にいて何もせずにお金が稼げるとかの誘いに反応する人は、そのレベルの「波動」に合っているということです。北朝鮮から核ミサイルが飛んでくるぞと言って怯えたり、いつ来るかも分からない大地震を不安に思ったりする人は、そのレベルの「波動」に合っているということです。

 

美女が、肌もあらわに「うっふーん」なんてのに興奮するのは、そのレベルの「波動」に合っているということです。(あ、俺か!)

 

ということで、人間というものは、所詮は自分の「波動」レベルに応じたものしか取捨選択しないものなのです。例えばこの『気づきの啓示板』ブログもしかりです。はなから全く興味関心がない人、誰かに勧められて読んでも「つまらん」と思う人、一つつまみ喰いでもしてみようかなという人、何かを感じすべてを知りたいと思う人、もの凄く感動したという人、などいろいろです。

 

すべては「波動の法則」です。あなたが見たもののすべては、あなたが決している。あなたは、今の自分のレベルに応じた色メガネを掛けて、それで世の中を見ています。そこでは、その色メガネに反応したものしか、あなたに興奮や、興味関心をもたらさないのです。これが、広義の意味でのシンクロニシティ。つまり、あなたのレベルと、周囲にあるもののレベルが同調した「瞬間」なのです。

 

狭義のシンクロニシティ(同じことが重なる現象)は、あなたのガイド(守護霊)や、マスターや、他の多次元的存在や、ハイヤーセルフが、何かの気づきを与えようとして仕組んできます。そこにどんなメッセージがあるかは、すぐには解らなくても、しばらくしてからパッと解る時があります。

 

もうお解りでしょう。「この世に偶然というものは何一つない」ということの意味が。あなたの周囲に起きていること、あなたが体験するあらゆることは、すべてシンクロニシティなのです。今のあなたに、必然的に顕れたものです。そして、あなたが選んだその瞬間々々の軌跡が、あなたの人生を決め、あなたが何者であったかを明らかにすることになるのです。

 

だからこそ、ここであなたにお願いしたいのです。ご自分を高めなさい。あなたには、あなた固有の凄い能力が与えられています。その能力を喜ばせ、そして周囲の人も喜ばせてあげなさい。それを、今日からの、あなたのシンクロニシティとしなさい。あなたがご自分を高めなければ、世の中は高まらないのですよ。社会は、個々の能力の集合体であることを、肝に命じて生きていってください。

人類をコントロールして来たもの

今の世界情勢や国内政治を見ていて、何か「荒っぽさ」というものが、増々表面化してきたとはお感じになってはいないでしょうか。

 

ひとことで言えば、優しさや配慮が、少しも感じられないのです。政治家にしろ評論家にしろ、どの人も、仲間内と敵を峻別し、敵に対しては、目を吊り上げ、口から唾を飛ばして、容赦ない悪罵を投げつける。そうやって人々の感情を煽っては、特定のターゲットへ世間のバッシングが向かうように誘導しています。

 

これは身近な人間関係でも言えることなのですが、相手を自分のコントロール下に治めたいと思った場合に、相手がなかなか言うことを聞かないとなった時には、そのやり口が、だんだんと荒っぽくなっていくものなのです。

 

最初は対等な話し合い(‥‥のフリ)。次がお世辞やおためごかし。それでもダメだとなると、今度は脅しに転じる。そして最後は決まって暴力です。

 

今の政治や世界情勢を見てください。三番目、四番目が、あまりにも大っぴらに横行しているじゃありませんか。敵を設定し、脅威と恐怖を煽り、証拠もないのに相手を悪と決めつけ、正義の名のもとに一撃を加える。一体どっちが悪なのか?と聞きたいです。それを、本来は政治を監視する側でなければならない筈の大手メディアが、率先して誘導しているのですから。

 

けれどもこれは、見方を変えれば、これまでのようなやり方で人々を言い聞かせることが、もはや難しくなって来ている、ということでもあるのです。つまり、いま表れている「荒っぽさ」というものは、彼らの「心の焦り」を、そのまま映し出しています。

 

ここで、人間というのは(私も含めて)つくづく愚かだなぁと思うのは、「荒っぽさ」を出せば出すほど、その人間の本質、本当の姿というものがあぶり出されてしまうということです。人間たちの大半はそれに気づいていないし、ちっとも学習しようとしない。そして何度でも同じ過ちを繰り返す。

 

結局、自分の中に住むエゴという欲や、自分がつくる感情の支配から抜け出すことがなかなか出来ない。そのために、そういう「荒っぽさ」を目にした時に、簡単に同調してしまうんですね。要は「波長が合う」ということです。普段は取り繕ってスマしている人であっても、エゴや感情が刺激されると、隠していた本音がパッと出ちゃう。地位、名声、栄誉、財産、美貌、体重、まったく関係ない!

 

しかしここが、今という時代における分岐点、どっちを選ぶかという(あなたにとっても、また人類にとっても)重大な分かれ道なんです。あなたはどちらの道だって、自由に選ぶことが出来る。「荒っぽさ」が演出する道に乗っかって、一緒に着いて行くことも、それを完全に無視して、マイウェイを生きることも。さてどっちにします? どっちにしたいですか?

 

このブログを読んで下さっている方は、当然、後者を選ぶと信じています。何度も書いて来ましたが、あなたはご自分の幸福を、ご自分で選び取ることが出来るんですよ。朝、窓を開けたら今日は雨が降っている。その同じ雨降りを、「困ったなぁ」と思ってもいいし、「清々しいなぁ」と思ってもいいんです。どっちを選ぶかはあなた次第なんです。

 

ここで、よ〜く考えてみてください。「荒っぽさ」が目立つようになって来ているのは、権力者による、今までのような支配方法の維持が、いよいよ難しくなって来ているからだということを。

 

最も楽な支配。それは、それがコントロールだとは少しも悟られないようにして支配することです。そのためには、自分たち(支配者)は陰にひっそりと隠れていて、人々の心理を巧みに利用して、社会システムによってコントロールしていく。そうやって、人々が、自ら進んで、自分に手枷足枷を嵌め、喜んで奴隷になるように仕向けていくのです。

 

ですから、よもや自分がコントロールされているとは、殆どの人は気づかない。この盲目の状態に、ちっとも目覚めない状態に、人類は数万年もの長きに渡って、延々と留め置かれて来たのです。

 

そのための人間心理を操る手段となったのが、恐怖と、洗脳と、依存です。人類は、何度も何度も転生を重ねる中で、時の為政者から、絶えずこの三つを繰り返し刷り込まれて来ました。その結果、今ではこれが、DNAにすっかり刻印されてしまったのです。

 

恐怖と、洗脳と、依存。そう聞いて、まっ先に何を思い浮かべるでしょうか? そう、宗教です。恐怖の予言をし、教義で洗脳し、教団や聖典に依存させる。この三つは宗教の常套手段。だからこそ、各時代の政治は、宗教を取り込むことを覚えたのです。その方が、だんぜん統治がしやすかったから。言い方を変えれば、コントロールしやすかったからです。

 

こうして、政治は学びました。外敵の侵略や、テロや、災害や、パンデミックや、お金のないことや、病気になることの恐怖を植え付け、学校と、会社と、マスコミを使って洗脳し、自分で考える力を削ぎ、金融や、医療や、インフラや、専門家や、支援というものに依存させる。このようにして人々は、まったく気づかないうちに、権力者の思う壷となり、奴隷にさせられているのです。

 

それで、何が犠牲となったのでしょうか?

 

人間が、自分を信頼するということを、すっかり忘れてしまいました。人間同士が信頼し合えるということを、すっかり忘れてしまいました。本来、自分は自由なんだということを、すっかり忘れてしまいました。生きているだけで幸せということを、すっかり忘れてしまいました。いつも大いなるものに抱かれ、守られているということを、すっかり忘れてしまいました。

 

いいですか、もう一度、言いますよ。あなたは、あなたの幸福を自由に選ぶことが出来るんです。

 

ところが近年になって、これまで長きに渡って人類を支配し続けて来たこのコントロール・システムに気づく人が多くなって来たのです。これには、インターネットによる情報革命と、みなさんには分かりにくいかも知れませんが、宇宙から届く光が非常に強くなってきて、今まで隠れていた闇が、光に照らされるようになったことが、大きく影響しています。

 

世界を支配する、いわゆる「闇の勢力」の本丸がどのようなものであるかを、今日では多くの人が知るようになりました。「お金」という人類支配ツールの実権が、この「闇の勢力」に握られているというカラクリも、多くの人が知るようになりました。過去の戦争がいつも「闇の勢力」のシナリオで起こされて来たことや、医療やマスコミや教育が、これら「闇の勢力」の完全な支配下にあることも知られるようになって来ました。

 

要するに、世界は、そして人類は、「闇の勢力」が描くお芝居の脚本の上に成り立ってきたということです。これには、理解に温度差がありますので、首を傾げる人も、反感を抱く人も、解っているよという人も、さらにもっと先の意味まで解るという人までいろいろでしょう。しかしここでお願いしたいのは、みなさんには、この「闇」を暴くことや、糾弾することに夢中になって欲しくないということです。

 

日陰を好む生き物に強い光が当たれば、彼らはそのままではいられません。放っておいても、その場を逃げ出すか、自分自身が光を好む生き物に変化するしかないのです。みなさんが暴くことや糾弾することに夢中になると、その日陰に同調することによって生じたエネルギーが、彼らに元気を与え、勢いづかせることになるのです。もちろん、あなたの波動も著しく下がります。

 

いま世界中で、破壊衝動が止まずに、むしろエスカレートしていっている背景には、それがあるのです。「テロを撲滅するために闘う」と言う。でも後ろに付けた「闘う」、それは暴力ではないのでしょうか? 暴力に、良い暴力と悪い暴力があるのでしょうか? あるとしたら、それは誰が決めるのですか? こんな馬鹿げた発想が、今も人類を支配しているのです。

 

「平和ボケ」とか「危機意識がない」などと言う人間たちのことは、無視しておしまいなさい。彼らは知らないのです。自分たちこそが、いちばん恐怖に洗脳され、コントロールされたロボットになっているということを。ロボットですから自由に生きることは出来ず、自由に生きようとするものを妬み、自分の方が優れていると錯覚して、揶揄したり攻撃したりして来るのです。

 

そういう彼らの内心は、混乱そのものです。

 

そんな彼らに同調することなく、あなたはあなたの理想を想い描き、そして行動してください。出来ることをやりなさい。個人としての理想、夫婦としての理想、家族としての理想、コミュニティとしての理想、社会としての理想、人類としての理想、生き物としての理想、地球としての理想、宇宙としての理想。それを鮮やかに、心の中に思い浮かべなさい。

 

混乱した時代だからこそ、それが今、何よりも大切なのです。集合意識のことは前に話しましたね。人類というものは、つまるところ個人の集合なのです。あなたが自由に生きたいと願い、自由に生きれば、そしてその楽しさ、嬉しさを表現すれば、そのメッセージが周囲の人々にも伝わります。そして、自由に生きる人が増え、人類をロボット状態から開放します。

 

ですから、人類の命運は、ひとえに、あなたの生き方に掛かっている。

 

何ゆえ、あなたが、この地球世界に生を受けたのでしょうか? ロボットになるためでしょうか? 恐怖と洗脳と依存にコントロールされるためでしょうか? そんなことのために、わざわざ神があなたを創ったとお思いですか? そんな馬鹿げたことを神がするとお思いですか? あり得ません。あなたが地上に生まれた目的は一つ。魂の赴くまま、自由に生きて、体験し、愛を知るためです。

 

世の中に蔓延する嘘や策謀を見抜きなさい。そして、それらの混乱した情報を発信している人たちを、まだロボットの段階にある人たちだと、正確に見てあげて、愛の波動で、その束縛を溶かしてあげなさい。世の中の混乱は、すべてカルマの浄化の現れです。増々混乱する時代だからこそ、あなたには、愛に生きて欲しいのです。

傷ついたんだって? 良かったじゃないか

傷ついたんだって?

身も心も、ボロボロなんだって?

もう、どうしていいか分からないって?

 

良かったじゃないか。

皮肉で言っているんじゃないよ。

真実を言っているんだ。

 

君が、傷つけるなんて、素晴らしいじゃないか。

傷つける自分を持っているなんて、凄いことじゃないか。

 

大人たちを見てごらんよ。

傷つけない大人が、どれほど多いことか。

 

どうして傷つけないか、分かるかい?

傷つくことを恐れて、嘘で自分を誤魔化しているからさ。

本当の自分を、誤魔化しているんだ。

 

傷つくってことは、気づくに「つ」を付けたもの。

つまりは、気づ付くだ。

それはね、気づ付いたんだよ。

何に? 本当の自分、真実の自分にさ。

 

本当の自分、真実の自分は、自由に生きたいって思っている。

本当の自分は、こんなんじゃないぞって分かっている。

でもね、それに制限が掛けられ、否定された時に、人は傷つくんだよ。

 

だから、気づ付けたってことは、

本当の自分を知る手掛かりに、一歩近づいたってことなんだよね。

それは、君に、君の魂が出したサインなんだ。

 

そのサインに、君は素直に耳を傾けた。

だから、気づ付くことが出来たんだよ、君はね。

それって、凄いことじゃないかい?

 

世間の常識やしがらみに雁字搦めになって、

それらに合わせようとして、

本当の自分を誤魔化し、

嘘をついて生きている大人たちの、なんと多いことか。

 

でも君はそうしなかった。

だから気づ付けたんだよ。

それって、素晴らしいことじゃないか。

 

さあ、勇気を出すんだ。

君は、君だ。

君を裁くことは誰にも出来ない。

たとえ君自身だって、自分を裁くことは出来ない。

君は自由なんだ。本来的に自由なんだよ。

 

その自由に、全幅の信頼をよせて生きるんだ。

そうすれば、魂の喜びが分かる。

幸福とは何かが分かる。

世間など、実にくだらないものだと分かるから。

 

いいかい、君は、君なんだよ。

だから、

自分を、思いっきり羽ばたかせてやろうじゃないか。