by Rainbow School
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文明の終り

文明の終りが迫っています。これは予言ではありません。私には予言する能力はありませんし、予言はいたしません。今の地球人類の行動の観察結果から、そう予測しています。

 

人類はこれまでにも、何度も、自ら築いた文明を自己崩壊させて来ました。それと同じ状況、雰囲気が日々強まって来ています。人類は、今度もまた同じ轍を踏むのでしょうか? だとすれば、残念ながら、地球人類の学習能力は、非常に低いと言わざるを得ません。過去の経験から気づきを得ようとはしないし、内省というものがまったく足りません。

 

最初にみなさんに言っておきたいことは、たとえ世界が、今後どのようになったにせよ、あなたは生きるのを絶対に止めないということです。宇宙(=生命)に死はありません。人々がこの世で「死」と呼ぶものは、連続する生命の、変化の一局面に過ぎないのです。宇宙では、変化し続けることだけが、唯一、変化しないこと。絶対的存在(=停止)というものはないことだけが、絶対なのです。

 

あなたの「魂」は、どのみち永遠に生き続けるのですから、いわゆる「生きるか、死ぬか」ということよりも、今ある生を「どのように生きるか」が、常に問われているのです。瞬間々々で、あなたが何を知り(思い出し)、どう行動し(体験し)、自分が意味づけする(感じる)のか。その積み重ねによって、個々の「魂」の、今世における学習と、成長度合いが違って来るのです。

 

ですから、人類全体が置かれた状況を鑑みれば、あなたにとっては、いま進行しつつある「文明の終り」のプロセスを、自分が、視点をどこに置いて参加し、何を体験し、どう感じるかが課題となっていきます。もちろん、それはただの傍観者というわけではなく、あなたが、種としての人類の存続をこの先も望むのかどうか、それが人類全体の集合意識に大いに影響を与えます。

 

いま述べたことは、人々の一般的な認識としては、まだほとんど定着していません。それは、人間が、内省する機会をあまり持とうとしない上にプラスして、これまでさんざん間違った知識を吹き込まれて来たためです。特に、「生」と「死」という概念については、まったく誤解をしています。死を怖れなくなるのは、勇気の為せる技ではありません。「魂」は永遠ということを、思い出すがゆえなのです。

 

地球人類がまことに不思議なのは、自分の「死」を、それこそ死ぬほど怖れているというのに、他人を殺すことについてはあまり厭わない。マフィアだけではなく、時に政府が、国家が、殺人を推奨し、人々をこれに駆り立てるし、多くの宗教までもが異教徒を殺すことを正当化しています。さらには、映画やビデオゲームなどで、子どもたちに、早くから殺人の興奮と快感を教えています。

 

この世界の中に、埋没している人たちは、みんなそうすることが当たり前であるし、正しいことだと思っています。しかし、これらを宇宙的な視点から眺めると、地球人類というのは、どうやら集団自殺を望み、それに向かって着々と計画を実行しているとしか思えません。そうは思いませんか?

 

今、国際政治の舞台では、「善悪の逆転」という事態が起こっています。日本は今まで、米英独仏を中心とするいわゆる西側に所属していて、日本政府は西側の行動に追随し、国民の多くは西側が一方的に流す情報を信用して来ました。その陰で、西側が敵と見なす国家、ロシアや中国やイランなどは悪人国家だと決めつけ、これと対抗するような措置をしばしば採って来ました。

 

その一貫として、リビアのカダフィ、イラクのフセイン、シリアのアサド政権等を、あたかも自国民を痛めつけている悪の独裁者国家であるかのように宣伝し、そういう国家を民主的に解放するという「善」の御旗を立てて軍事介入するアメリカに、日本は同盟国として、その都度、追随して来ました。

 

カダフィとフセインは、西側の思惑通りに倒されてしまいましたが、しかしアサド政権は踏ん張って、ロシアの協力を得て、ついにはIS(ダーイッシュ)をほとんど解体させるところまで漕ぎ着けました。この予想外の展開の中で、ISが実はアメリカが作ったものであることが知れ渡り、過去の中東戦争や、アラブの春や、アフガン戦争が、全部アメリカが仕組んだ謀略であることがバレてしまいました。

 

さらには、クリミアの独立問題もロシアが悪者ということにされていますが、その前に起きたウクライナ政権のクーデターが、アメリカが画策したものであることが、証拠とともに明らかとなっています。このようなことで、国際社会においては、いま「善悪の逆転」現象が起きているのです。自分たちは「善」と言い続けて来たアメリカこそが、実は「悪」の帝国だったのだと。

 

ロシアへの経済制裁も、結局、困ったのは輸出を禁じられたヨーロッパの農民たちで、ロシアは国内生産を増やすことでこれを乗り切り、前よりもかえって豊かになりました。一般民衆の生活を見れば、今や露米の差は歴然です。世界がこぞってアメリカ離れに傾斜している中で、日本だけが今なお属国として忠誠を誓い、アメリカに次ぐ貧困大国への道をひた走っているのです。

 

ここで、本当はロシアの方が「善」だったのだと言いたいわけではありません。「善」とか「悪」とかというものは、所詮は人間が創った概念で、そんなものは、視点が変われば容易にスイッチしてしまうものだということ。むしろそれよりも、〈自分が為したことは、自分に還る〉という冷徹な「宇宙の法則」が、その背後に如実に顕れているという点を見ていただきたいのです。

 

重要なことは、外から来るものは「信じ」てはならないということです。世界は壮大なフィクションの上に構築されていて、しかもそれを意図的に操っている者がいます。ですから、何かを「信じる」ことは、そのコントロール下に入る、奴隷になるということを意味します。「信じる」のではなく、常にあなたの「直感」を大切にしてください。

 

自分の「直感」がイヤだなぁと思うことにはハッキリと「NO!」と言い、「直感」がいいなぁと思うことには喜んで賛同し行動してください。義務感や、正義感や、倫理観や、その場の空気などに流されないように。目を釣り上げ、拳を振り上げ、口から泡を飛ばして話す人には要注意です。語る内容が人を欺くためのものだから、そういう見ための演出で感情に訴えて誤魔化しているのです。

 

特に、身近で分かりやすい「敵」を設定し、その粉砕を声高に叫ぶような人の言葉を、簡単に信じて着いていかないように。未知の、新しいことの創造よりも、既知の「敵」の粉砕を叫んだ方が大衆には分かりやすく、同調させやすいのでそうしているのです。ヒトラー、ジョセフ・マッカーシーオーヴァル・フォーバス、ジョージ・ブッシュなどの演説映像があれば、よく見てください。みな同じ手法を駆使していることが解るでしょう。

 

このような人たちは、まだ「自分が何者か」が、思い出せていない人たちなのです。「自分が何者か」を思い出せていないから、自分と敵を分けて、相手の粉砕を叫ぶことができるのです。しかし、もし自分を思い出していれば、自分と他者は一つであるということが解り、よって他者に為したことは自分に還るということも解り、他者を愛することは自分を愛することだと解るはずですから。

 

「歴史に学べ」とは、常套句ですけれども、今度こそは正念場です。歴史から、いったい何を学べばいいのか? 大抵の人は、その歴史で起きたプロセスだと考えています。もちろんそれも重要です。ですが、それ以上に重要なことは、その時の人間の心理です。心の動きです。

 

戦争というのは、全部が、(いま所有している物の、またこれから所有しなければならないと考えている物の)「防衛」意識から始まり(ということは、「敵」が存在するという前提に立ち)、この正義のためならば、「敵」を殲滅して当然と考えることから起きています。このような信念に取り憑かれた人物がリーダーとなり、名誉や勲章と引き換えに、一般民衆の命をまるで将棋の駒のように使って捨てるのです。

 

一つの戦争が終わると、民衆は必ず「もうコリゴリだ」「国に騙された」と言うのですが、しばらくすると、またこの文脈に易々と乗っかってしまう。正義のためならば、国家のためならば、愛する家族のためならば、自分の命を喜んで捧げると誓う。そうやって、また、未熟な「魂」のリーダーの後を着いて行ってしまうのです。ですから、人類はいつまで経っても、肝心な点を歴史から学べないのです。

 

どうか、あなたの視点を、宇宙にまで引き上げて、世界の現状を見て欲しい。そうすれば、いま起きていることが、いかに馬鹿げた「心理ゲーム」に過ぎないかが解るはずです。

 

ジョン・レノンは「世界は、一握りの狂人に操られている」と言いました。まったくその通りです。狂人が、世界を引っ掻き回し、民衆を蟻地獄のような世界に引き摺り込んでいる。この全体の構造に、今度こそ気づくかどうかが、人類にとっての正念場です。今までの認識レベルでは、またアトランティスの二の舞いに終わってしまう。そうではなくて、構造(System)そのものからのジャンプが求められるのです。

 

とりわけ、いま「文明の終り」が迫っているわけは、テクノロジーの進歩が急激に進んでいるためです。狂人の政治指導者と、良心なき科学進歩の組み合わせは、非常に危い。アトランティスが消滅したのも、結局は、この組み合わせが原因です。

 

アインシュタインは、ルーズベルトに原爆の開発を進言しましたし、天才物理学者と言われたオッペンハイマーは原爆開発の父となりました。(*後にこの二人は、自分がした行動を大いに悔やむことになります)ノーベル化学賞を受賞したフリッツ・ハーバーは、第一次世界大戦で毒ガス兵器を開発し「化学兵器の父」となりました。有機化学者のルイス・フィーザーは、ナパーム弾を生み出しました。すべて、科学の誤用です。

 

良心なき科学は、魂の荒廃に過ぎない。

フランソワ・ラブレー(François Rabelais、 1483? - 1553)

 

急速に発達する、遺伝子研究、AI(人工知能)、脳のコントロール技術研究が、もしかしたら人類を滅ぼすことになるかもしれません。ことに、「産業」と結びついた場合は、これらは急速な進化を遂げます。競争と利益が、開発への強力なモチベーションになるからです。このモチベーションの前では、どんな警告も霞んでしまう。産業が政治を動かし、政治が人々を動かすからです。

 

先日、ニュースで、ある日本人のAI研究者がこう言っているのを耳にし、驚きを禁じえませんでした。「AIの研究は、生命の謎を解く鍵になるだろう」。その方は、きっと本気で、そう思われているのでしょう。でも、どうしたらそういう発想が出てくるのか、私には解りません。それよりも、庭の草木や昆虫たちをじっくりと観察した方が、生命とは何かがよほどよく解るのではないでしょうか?

 

本日ここに書いたことは、人類への警告に一部なっていますが、これを脅しとは捉えないでください。冒頭にも書いたように、宇宙/生命に死はなく、あなたが今後、何をどう体験するかだけの問題です。「死はない」ということを、今は頭でしか受け止められないかも知れませんが、いつかそれが腑に落ち、「なるほど、そうだなぁ」としみじみ感じる時が、必ずやって来ます。

 

ですから、これを読んで下さっている方は、いつも言っているように、瞬間々々を、自由に、創造的に、楽しく生きてください。「死」を怖れる人は、結局「生」も怖れる人になってしまいます。そうではなくて、この世でいう「死」は、いささかも怖れる必要はないのですから、そういう人にとっては「生」も怖れる必要がなくなるのです。

 

このことが、実感としてあなたに訪れる時、あなたは、今世の目的を、生きながらにして達成することになります。それでは、その日を目指して、どうぞ行ってらっしゃい。いつも応援していますから。

支援(Support)ということについて

困っている人を助けることは良いことです。人間がみんな、そのような優しい心根を持って生き、行動していたとしたら、どれほど素晴らしい社会が出現しているでしょうか? しかし残念ながら、現実はそのようにはなっていません。

 

これは地球人類が、霊的にまだまだ未熟なためです。学校で言えば、小学校入学のレベルにも至っていません。助けるよりはむしろ虐げる、平等よりは優劣、与えるよりは奪う、融和よりは闘争、正直よりは欺瞞を好む人間が、社会のリーダーとなって、民衆をその価値観で染め上げ、引率しています。彼らがリーダーになれるのは、それを支える大衆に、結局は同じ心根を持つ人が多いからです。

 

でも心ある人たちは、内心それはおかしいと感じています。ある意味、それは当然です。なぜなら、その人の「本質」は、虐げるよりは助ける、優劣よりは平等、奪うよりは与える、闘争よりは融和、欺瞞よりは正直の方が、人は幸せに生きられるということを知っているからです。この〈心ある人たち〉というのは、自己の「魂」が発する声に素直な人たちなのです。

 

けれども、「魂」の声に素直な人たちにとっては、今は非常に生きにくい時代です。ちょっとニュースを見れば、暴力事件や紛争やテロで人が何人殺されたといった話ばかり。一方で、株価がどうしたこうした、ビットコインが史上最高値をつけたとかと言って人々を儲け話に誘う。イヤな世の中だなぁと思いながらも、多勢に無勢で世の流れには逆らえない。こんな状況に、きっと胸を痛めておられることでしょう。

 

先日、ある人からこんな相談を受けました。その方の職場近くの路上に、ホームレスの男性がいたのだそうです。彼女は気の毒に思って、最初、食べ物をその人に渡してあげていた。そのうちに話をするようになったというのですが、ある時、男性から「500円くれないか?」と言われて、それで急に怖くなったというのです。さて、あなたがその彼女だったらどうしますか?

 

そんなつもりで始めたことじゃないのに‥‥。自分はただ困っていると思って、ちょっと食べ物をあげただけなのに‥‥。一人ぼっちじゃないよ、と言いたくてお話しただけなのに。どうして今、彼はそんなことを言って来るのだろう? 500円。うーん、どうしよう。あげるべきなのだろうか? でもここでお金をあげたら、これから会うたびに無心されるかも知れない。もしかして、最初は500円だったのが、次には1000円になるかも知れない。そして段々と私の生活に入り込んで来るかも? あーイヤだ、自分は何を怖れているんだろう。500円が惜しいのか? いや、そうじゃない。やっぱり彼を、本当のところでは受け入れていないんだ。自分の愛が足りない、ということか? 最初の思いが、単なる偽善者に過ぎない、自己満足に過ぎなかったということを、いま突き付けられているのだろうか?

 

きっと、こんな思いが頭の中を駆け巡るのではないでしょうか? 私にも、若い頃に同じような経験があります。一緒に切磋琢磨して来た友人の一人が、鬱になって仕事が出来なくなってしまった。無収入になった彼を憐れんで、私は彼に10万円をあげました。当時、10万円もあれば1箇月生活できたのです。倹約すれば2箇月は持ちます。その間に、打開策を見つけられるだろうと思ったのです。

 

ところが10日ほど経った頃、当時住んでいたアパートに彼からのハガキが届きました。そこには「お金が無くなりました。」と、一言だけ書かれてありました。これにはびっくりすると同時に、私は腹を立てました。私の3倍のスピードでお金を使っている! いったいどういうことだ。それ以来、彼とは一度も会っていません。今でも時々、どうしているかなぁと思うことがあります。

 

もう30年も前の話で、当時は、私も今のような智恵を持ってはいませんでした。それで、自分のしたことに、やはり激しく自己嫌悪し、悶々とした日々をしばらく送りました。

今の私なら、昔の自分にどう言ってあげるでしょうか? また彼にはどうしてあげるでしょうか?

 

これから書くことは、世間的な、また処世術的な回答にはならないと思います。ですが、この『気づきの啓示板』の読者なら、きっと解ってくださるだろうと思います。

 

近年、「支援(Support)」という言葉が一般に広く浸透し、そうした行為、行動、考え方が当たり前のような感覚になりつつあります。冒頭にも書いたように、困っている人を助けてあげることは、基本的には良いことです。でも、その人が、何に困っているのか、その困っている部分を何をもって助けてあげるのか、を見極めることが非常に大切です。

 

お腹が空いていたら、おにぎりを作って食べて貰えばいいですし、寝るところがなかったら、部屋の一部を提供して布団を使って貰えばいい。ところが「お金」となると、何か気分がザワザワするのは、「お金」というものがいろんなサービスに代替できてしまうからです。その結果、ひもじいのだろうと渡してあげた500円を、お酒を買って飲んでしまったということが起こり得る。

 

*逆に、災害発生直後には、何にでも代替可能な「お金」がいちばん良くて、毛布や古着ばっかり送って来られても困る、という話もあります。

 

このズレは、本当に困っていることの原因が見抜けていないことと、対処の仕方が適切でないことの両方が合わさって生じます。この場合、「500円くれないか?」と言った人は、ひもじかったのではなく、実はお酒を飲みたかったのです。でもそれだって、違うかも知れません。本当のところは、孤独感に打ちひしがれていて、それをお酒で紛らわそうとしたのかも知れません。だとすれば、お金もお酒も何の解決にもなりません。

 

「支援(Support)」という言葉の、今の一般化や常識化は、どうも、この視点がスッポリ抜けているような気がしてなりません。現代においては、「支援」というものが何か制度化、イベント化してしまって、却って、本当に困っていることは何か、というものを見抜く目を失わせているのではないでしょうか? 沈鬱な表情に沈み切った人を助けるのに必要なことは、ただ優しく抱擁してあげることだけなのかも知れません。

 

若い頃の私に、そしてこの500円騒動の相談者に、共に欠けていた視点は、「課題の区別」ということです。私も相談者も、「どうしたらいいのか?」という対処方法にばかり目を向ける余り、相手の課題とは関係ない課題まで自分の中に創り出し、それと闘う羽目に陥っている。そのことに気づかないのです。500円をあげるべきか、あげざるべきか。そのことで、果たして自分が苦しむ必要があったのか? いったいそれは、誰の課題なのか?

 

もちろん、「あなたの現実はあなたが創っている」とこれまで言って来ましたし、「何事にも偶然はない」とも言って来ました。だとすれば、そういう状況に遭遇したのは、何か自分にとっての意味があるはずだ、と生真面目なあなたは思うでしょう。それは、その通りです。ですが、ここからが問題です。「真の援助とは何か?」ということを、あなたは考えなくてはなりません。

 

ここで、世間的な常識からは大きくズレます。宇宙でいう「真の援助」とは、たった一つ。相手の「魂」が、今この瞬間(be here now)の自己の課題に気づいて、成長することを促すことだけなのです。そう聞いて、「なんだ、また『魂』かよ」と呆れられる方もおられるでしょう。でも「なるほどそうか!」と、今までモヤモヤしていたものが、スッキリされる方も多分おられることでしょう。

 

「魂」は、すべて個別のパーソナリティを持っています。あなたが誰かに会う。その時、あなたは、その関係性の中にご自身の課題を発見します。が同時に、相手もその人自身の課題を発見しているのです。これは、当然ながら、同じではありません。そして、その時の境遇や事件は、たとえどんなに悲惨で可哀想なものに見えたとしても、宇宙的に見れば、すべてがギフトなのです。

 

この考え方には、きっと激しい抵抗を覚える方もおられることでしょう。ではこう言い直します。ギフトに変え得る力を、各々の「魂」は最初から持っている。そして、ギフトに変え得た者のみが、それこそが「神の恩寵」だったと気づく。これが、いわゆる『沈黙する神』という命題の答えなのです。

 

神は沈黙している。何もしてくれないように見える。しかし、あなたがハッと気づけば、あなたは、元々が神の一部なのですから、その瞬間に、自分の恩寵を自分で受け取るのです。解りますか? これが、これまでの宗教では決して説かれることがなかった奥義なのです。なぜ説かれなかったのか? みんながこれを知ってしまったら、組織宗教が成り立たなくなってしまうから。

 

ですから、「真の援助」とは、その人の「魂」の課題を見抜いて、今ある状況から、相手が何を学び取るのか、どういう至らなさに気づくのかを、促してあげることなのです。そのためにこそ、お互いの出会い、人間関係というものがあるのです。このことが解れば、いわゆる「支援(Support)」というものの多くが、時に逆効果しか生み出していないことの理由がお解りでしょう。

 

一生懸命「支援」しているつもりが、依存・共依存の関係を創り出しているだけに終わっているケースがあまりにも多い。また、支援する側のちょっとした満足とは裏腹に、支援された側が却って孤立感を深めてしまうケースも見られる。今の親子関係の多くが、自助グループと称するものの多くが、こうした罠に陥っています。それは、互いの「気づき」を遅らせ、「魂」の成長を阻むものになっていることに、それこそ気づいていただきたいのです。

 

課題=成長へのチャンスであることに着目してください。介入し過ぎることによって、相手の課題を奪ってはならないのです。それは、天からのギフトを取り上げてしまうということです。もちろん、相手の課題まで自分が引き受ける必要はありません。あなたにはあなたの課題があるのですから。だから、そこに集中しなさい。そして、それはエゴではありません。

 

そう行動することは、「情」が支配する人間社会から見れば、一見、何か冷たいものに映るかも知れません。がしかし、「宇宙の法則」とはそういうものなのです。「愛情」から「情」を取り去れば、真の「愛」だけになる。宇宙の人になる。時には、何にもしないことが、最大の援助だということがあり得ます。まさに、それは『沈黙する神』のように。

 

ですから、誰かを助けてあげられなかったからと言って、悲しんだり、自分を責めるのはお止しなさい。それぞれの「魂」には、それぞれの課題があって、そうなっているのですから。たとえあなたが助けられなくても、その人は、最初から助けられているのですよ。だから、あなたはあなたの課題に、ちゃんと向き合いなさい。そして自分を助けなさい。それが、結果的には多くの人を助けることに繋がるのですから。

“絶対的” なものなど、どこにもない

自分で自分を客観視することは、完全にはできません。自分の行動や思考プロセスを、時に内省することは出来ますし、それは自己の成長にとって必要かつ大切なことですが、それでも「内省している今の私」というものから逃れることはできません。そこで、人はしばしば、客観的に見ようとしている自分と、見られている自分がゴッチャになり訳が分からなくなってしまう時があります。

 

えっ、しょっちゅうそうだって? それはいけませんなぁ。そんな時には、誰か権威ある人にジャッジして貰いたくなったり、倫理道徳の規定や、聖なる書物の一節に従いたくなったり、霊能者のご託宣を仰ぎたくなったりするものです。私にもそういう時があります。でもその時に大切なことは、外から来る情報に対しては、いつも、「私にとっての真実」をそこに見つける、という姿勢で臨むことです。

 

これまで「外から来るものは信じないように」「つねに自分自身に頼りなさい」と、何度も語って来ました。しかしそれは、外から来るものを完全にシャットアウトしなさいということではないのです。そもそも、それは不可能ですし、それを目指したら、地上で生活する意味がなくなってしまいます。そうではなくて、外から来るものを「自分で選んだ」という意識を、つねに持って接することが大切なのです。そして、実際にそうなのです。

 

たとえばこの『気づきの啓示板』にしても、自分の中にパッと明かりが灯ったように感じるセンテンスが時にあろうことかと思います。それはその瞬間に、あなたという個が、自分の中に元々あった、封印された小箱の蓋を開けたのです。それで、光がサッと射し込む。ですからそのとき眼にした言葉、それは単に鍵の役割を果たしたに過ぎないのです。

 

このようにして、あなたは、「真の自分」を、その段階に応じて徐々に思い出して行っているのです。外から来る情報は、一見偶然のように見えて、実は天によって周到に手配されたものです。しかし「気づき」となる情報は、その準備が出来た者にしかもたらされません。同じ情報を見ても、準備が出来ていない人には、自分にとっての価値が見出せず、それは素通りして行ってしまうのです。

 

ですから、「これは私に向けて書かれた言葉だ!」と読むことが大切なのです。これは文章だけに限ったことではありません。友人が発した言葉、街を歩いていてふと耳にした会話、人々の仕草や行動、足を止めて眺めた絵やオブジェ、音楽、景色、すべてがそうです。自分の周囲に展開されるすべてを師として眺め、そして自分の発見とする。これが、自分でハンドリングするということであり、「自分に頼む」ということなのです。

 

冒頭に書いたように、外に頼みたくなる気持ちも解ります。でもそれを、自分自身の選択に変えていかないと、人は外部にあるものの奴隷として生きることになってしまいます。「魂」が本来有している「自由」の放棄です。

 

人はよく「聖書には、真実がすべて書かれてある」とか、「誰々という過去の偉人はまるで神のような人だ」とか、「わが師である◯◯先生は、この世で最高の人物だ」などと言います。そして、「神」の言葉が記された書物なのだから、この聖書・聖典は「絶対」なのだ、あの先生の仰ることは「絶対」なのだというロジックを使いたがります。

 

けれども、その聖書・聖典を記して編纂したのは、紛れもなく人間です。その「先生」と言われる人物も、人間なのです。最高のチャネラーといえども、同じ不完全な人間なのです。「神」は自らペンを取りません。誰かを通して語らせる。その誰かとは人間です。そこをよく考えなくてはいけません。

 

さらに、言葉そのものが不完全なものです。だからこそ、同じ聖書・聖典類を奉じていながら、言葉の解釈をめぐって異論が百出するのです。そして、たくさんの宗派に分かれ、どっちが本物かと言って不毛な争いをしている。それがどれほど馬鹿げたことであるか、なぜ気がつかないのか。一体なんのための、スピリチュアルな世界への参入なのでしょうか?

 

何事にも「絶対」などはありません。もし「絶対」なるものがあったとしたら、活動がそこで停止するということです。いま有る「絶対」が、少しでも動いたら、それはたちまちにして「絶対」でなくなるからです。宇宙は、決して活動を停止しません。あえて言えば、「絶対」でないことののみが「絶対」である、と言えるでしょうか。すべては、至高を目指して「今、成ろうとしている」存在なのです。

 

それは「神」ですらも。

ですから、神に似せて造られた人間、不完全な我々がいるのです。

 

何かを “絶対的” と認めた瞬間から、それを基に自分の行動を規定してしまうという(つまり自分には「自由」はないと信じる)逆転が始まります。あの先生が言ったことだから、それに従順に従う。聖書・聖典にこう書かれているから、それを信じる。戒律でこう言われているから、それを固く守る。本人は、そうすることが “絶対的” に正しいことだと信じている。

 

そして、その状態に埋没して生きることが、「聖」なる領域に生きることだと信じ込んでいる。でもこれが、「奴隷」でなくしてなんだと言うのでしょうか? この宇宙に、あなたという「個」が生み出されたのは一体なぜなのでしょうか? 自分というものを失くして、奴隷的人生に身を捧げるために、わざわざこの世に誕生してきたとでも言うのでしょうか?

 

ご覧なさい。今の世の中を、そして世界を。宗教でも、お金でも、政治でも、科学でも、“絶対的” と信じる「何ものか」に、自分を売り渡してしまったロボット人間たちが、世界を大混乱へと、生命を大破壊へと導いているこの現実を。なぜ誰かの後を付いて行こうとするのでしょうか? なぜ、自分で自分を縛る道の方を選ぶのでしょうか? なぜ、「自由」であろうとはしないのでしょうか?

 

あなた方の最高の権威は自分自身なのですよ。そのことに自信を持ちなさい。あなたの代替は、他にいないのですよ。あなたという「魂」は、一兵卒でも、駒でも、歯車でも、部品でもありません。この広い宇宙の中に、たった一つの、個性を持った独立した存在です。コントロールされる自分ではなく、自分をコントロールできる自分を見出しなさい。

 

「魂」は生きないではいられません。「魂」には、この世でいう死はないのです。ですから、人間にとっては、生き残ることが問題なのではなく、どう生きるかが問題なのです。この意味をよく考えなさい。あなたはどう生きたいですか? 生き残りのために、自分の「自由」を押し殺して生きる人生と、「自由」を謳歌して、生き残りなど考えずに瞬間瞬間を燃焼させる人生と。

 

いいですか。幸福とは、その時々の「気持ち」なのですよ。

自己を解き放つとき

「自由」。この言葉を、おそらくこのブログの中で、これまでいちばん多く使って来たのではないでしょうか。それは、今の人間たちの苦しみや、不幸の原因、そのすべての根っ子が、同じ「不自由さ」に起因しているからです。しかもそのことに、人間は全くと言っていいほど気づいていません。あなたが日々感じている諸問題は、すべてあなたが「自由」でないところから生じているのです。

 

でも、ここで言っている「自由」は、一般的に考えられているものとはちょっと意味合いが異なります。宇宙では「自由」は「愛」と同義語なのです。この意味が解りますか? つまり、完全に「自由」であることは、イコール自分が、完全な「愛」の人になるということなのです。これが解れば、あなたは大きく飛躍します。今世生まれてきた目的を存分に果たし、そして帰ることが出来るでしょう。

 

人間たちは、「不自由さ」というものを、外から押し付けられる拘束だと考えています。そして「自由」を、自分の意のままに振る舞えることだと捉えています。ですから、人は「自由」になりたいと願う。ところが、人間を「自由」にしたら、社会秩序が破壊されてしまうと考える人たちがいて、これに「制限」を加えようとします。そこでいつも、「自由」と「制限」を巡って、綱引きが繰り返されるのです。

 

これは、本当の「自由」とは何かを知らないため、逆に言えば、「不自由さ」というものの根本原因を知らないためです。人間社会で言われている「制限」も、そして「自由」すらも、宇宙から見れば、実は、同じ「不自由さ」に他ならないのです。要は、両者が載っかっている基盤そのものが、「不自由」な領域にあるのです。ではいったい何が、また何から「不自由」だと言うのでしょうか?

 

それは、自分です。本当の自己です。真我です。

 

真の我(われ)は、つまり「魂」は、本当の「自由」というものを、生まれながらにしてちゃんと知っているのです。ところが、成長して知恵を持つようになると、その活動に意識的に「制限」を設けたり、〈欲望〉という名の偽物の「自由」によって、それを覆い隠してしまうのです。これが、その人に、根本的な「不自由さ」をもたらす原因となっているのです。

 

そこから、受肉すること(「魂」が肉体に入る=Reincarnation=転生)が、しばしば牢獄に入ることに例えられているのです。

 

我欲のままに生きることが「自由」なのではありません。むしろそれは真逆。自分を最も強く拘束させてしまうことに他ならないのですよ。あなた方も、それを半分は解っているはずです。だから、みんなよく言っているじゃありませんか。欲望に突き動かされて、何かに夢中になってしまうことを「ハマった」と。

 

肉体というのは、まことに不自由なもので、時空間の箱に閉じ込められ、移動が制限され、他人とコミュニケーションするのもやっかいだし、肉体を維持するためには、常に食事をしたり運動したりしなければなりません。霊界にいたときの、それまでの自由さがまったく失われてしまうのです。

 

その代わりに、肉体を持つことによって、「魂」はこの物質世界を知覚し、生きていくためのセンサーであるところの、いわゆる「五感」を獲得しました。けれども、幼少期はまだ「五感」の発達が未熟です。幼児は周囲にあるもの何に対しても興味を示し、見たり、聞いたり、触ったり、口に入れたりすることで、しだいに自分の外側にある世界を認識していきます。

 

この時期の「魂」は、本当の「自由」というものをまだ覚えているのですが、「五感」の発達とともに、外の世界に順応し、入れ替わりに、本当の「自由」を徐々に忘れていくのです。そして、家庭矯育、学校脅育、社会狂育によって、「魂」の真の「自由」は見事に歪められ、「幻の世界」を、しだいに真実だと思い込むように育てられていくのです。

 

でも、ここで想像してみてください。生まれたての無垢の赤ん坊は、そんな社会システムとはまだ無縁であったということに。

 

この、外に広がる世界観は、マス(mass)で構成されていて、多重構造である上に、かつ非常に強固なものですから、個人が異論を差し挟む余地がほとんどありません。自己の「魂」に素直な人は、なんとなく違和感を感じてはいるのですが、それを言ってもどうにもなりませんし、そういう人は、逆に「落ちこぼれ」と見なされ社会から排斥されてしまうのです。

 

一例を挙げましょう。今の世界においては「経済」というものが、政治上の一大問題となっています。不況の常態化、雇用問題、貧富の格差、貧困、飢餓、母子家庭問題、熾烈な競争、学歴差別、不正と汚職の蔓延、そして環境破壊まで。ほとんどのことが、「経済」が上手く回っていないことが原因で発生しています。しかしこれらの問題を、一挙に解決する道があるのです。

 

それは、「分かち合う」という考え方の導入です。「経済」活動の根底に、「分かち合う」という基本理念があるだけで、すべてが変わります。「分かち合う」という考え方があれば、富の偏在も、物の偏在もありませんし、ムダな競争をする必要もなく、それぞれに適切な雇用が見出され、貧困も飢餓もなく、学歴差別も必要なく、不正も汚職もなく、戦争のない世界が創られます。

 

これを、みなさんは夢物語だと思われるでしょうか? いいえ、そうではありません。成長した「魂」が創る世界は、いずれ必ずそのようになります。それが進化の法則だからです。ではなぜ、今はそれが実現できていないのでしょうか? その答えは簡単です。社会の基本に、出発点に「オレは、分かち合わない是」という思想が、当然のこととして横たわっているからです。

 

「分かち合わない」ことが「是」だという考え方が、「経済」活動の基盤を構成している。そのために、「経済」は富の奪い合いとなり、激しい競争が生じ、マスコミがこれを煽って人々に刷り込み、格差が生じ、この思想教育を学校で教え、学歴社会が生まれ、差別が生まれ、労働者は奴隷にさせられ、不正と汚職が蔓延し、環境破壊が止まらず、あまつさえ戦争まで起こしているのです。

 

複雑怪奇に見える世界も、元はたったこれだけなのです。人類が「分かち合う」という考え方を選ぶか、「分かち合わない」という考え方を選ぶか、そのどちらかなのです。今、人々の多くは、社会が上手く機能していないのは、現行のシステムがおかしいのではないかと思い始めています。そこで、あれを変えたら、これを変えたらと議論しています。

 

でも、根本はそこにあるのではありません。システムを構成している、元にある考え方こそを問うべきなのです。システムなど、元にある考え方がひっくり返れば、それに合わせて早晩変わっていくものです。こと経済に限らず、金融も、教育も、医療も、福祉も、環境問題も、全部があれよあれよという間に変わっていくことでしょう。重要なことは、どういう考え方の下に、システムを再構築するかなのです。

 

あらゆる面で破壊が進む地球。今のこの地球の混乱を治め、平和な世界を実現し、自然環境を元のように回復させ、人類という種が存続し、そして進化していくためには、根本にある考え方がどのように変わらなければいけないのか? その答えは、すべて共通しています。人類みんなが気づかなければならない、たった一つのこと。宇宙をつかさどる究極の答え。根本法則。

 

それは、「全部が一つ」ということ。あなた方に伝えたいことは、いつも繰り返し言っている言葉、ただこれだけ。あなたはわたしであり、わたしはあなた。ゆえに、あなたが為したことは、あなたに返る。他者を愛することは自分を愛することであり、自分を愛することは他者を愛すること。そこに分離はない。このことを根本に据えて、すべてを考え直しなさい。それが、今後のあなたの出発点になる。

 

その時に、忘れてならないのは、あなたも、現行の社会システムの成立に加担して来たという事実です。過去、何度も言って来たように、一部の富者が成立しているのは、それを支えている多くの貧者がいるからです。加害者がいて被害者がいるのではありません。みんなが合わさって、そういう社会を合意の下に創り上げて来たのです。ここに気づかないといけない。

 

いいですか、「」に目覚めるのです。

まさに気づき。気づきのジャンプです。

 

あなたの現実は、あなたが創っている。そう、これまでにも何度か言って来ましたね。これは、あなたが「現実」だと思って来たものは、あなたの「認識」に過ぎないからです。これが「現実」という、確固たる存在はどこにもない。あなたの「認識」の中にしかないものだからです。ですから、あなたの「想い」が、あなた固有の「認識」を創り上げ、あなたが思っている「現実」を、あなたに見せるのです。

 

そこで、こう言えます。

他者が選んだものに、自分が加担することをもうこれ以上やめるとき、それがその人の解放のときとなる。

そして、その人は、入れ替わりに本当の「自由」を思い出す。

 

友よ。そのようにして「自由」を思い出して欲しい。自分はそのように創られたということを思い出して欲しい。そうして、無限の「自由」を再び得て、無条件の「愛」の人になりなさい。その「愛」を周囲の人々に振りまきなさい。残された時間はもうあまりありません。あなたが目覚めて、周囲の人々に影響を与えれば、人類は変わります。地球も変わります。わたしがついています。だから勇気をもって、己の道を進みなさい。

神は「居る」のではなく、「在る」のだ

ピンポン🎶〜とチャイムが鳴り、玄関に出て見ると、外に見知らぬ女性が二人佇んでいました。二人が醸し出すその雰囲気から、私は直ぐに察知して「宗教ですか?」とこちらから先に尋ねました。相手は頷くと、よくその名を聞く某渡来系の教団の名を名乗りました。(へー、こんな過疎の山奥にまでやって来るのか)と、私は驚き、その行動力に感心しました。私が住む部落には4軒しか人が住んでいないのです。

 

彼女たちに、私はのっけから「宗教の時代はもう終わりです」と、いつも話していることを伝えました。それは挑戦的態度を示そうとしたわけではなく、その場を早く打ち切りにしたかったからなのですが、でもそんなことであっさり引き下がる人たちではありません。彼女たちも「使命」を感じてやっておられることです。結局それから30分も話をすることになりました。

 

「今の世界の混乱の、大部分は宗教が原因になっているのじゃありませんか?」と言うと、彼女たちもそれを認めるのですが、「それは神様の本当の意向を知らないからです」と言い、でも「自分たちは違う」と言うのです。そして、「神様は、そうしたことも全部見ているんですよ」と言って、自分たちが信奉する「神」の名を挙げるのでした。

 

「神の本当の意向を知らない」というのは仰る通りだと思いますし、「全部見ている」というのもその通りです。強いて言えば、「見ている(watch)」というよりは、「知っている(know)」と言った方が適切な感じがします。がしかしそんなことよりも、私が不思議に思うのは、2000年前に勃興して、その後、人の手によって成立した宗教および聖典の解釈を巡って、未だに正統派争いを繰り広げてるというその時代錯誤の感覚です。

 

超ミクロ世界に迫る量子力学が誕生して90年、宇宙の膨張が発見されてから同じく90年、DNAが発見されてから60年、惑星探査機ボイジャーが太陽圏外に向けて出発して40年、ハッブル宇宙望遠鏡が打ち上げられて27年。それなのに、どうして宗教だけは、2000年も前に創られた「神話」の解釈論に、今もって終始しているのでしょうか?

 

おかしいとは思いませんか? あれだけ熱心に「神」を説きながら、現代に「神」は存在しないとでも言うのでしょうか? もし現代に「神」が存在しないのなら、過去の「神」を語っても無駄ですし、現代に「神」が存在するのなら、「神」はいつでもその時代に合った言葉と方法で語りかけて来ているはずです。それでこそ、永遠かつ普遍的存在と言えるのではないでしょうか?

 

なぜ、2000年も前の「神話」を、未だにどの宗教も有り難がるのだと思いますか? それは、まさに「神話」だからです。今進行しつつある現実ではないからです。「神話」だから、骨董的価値があると思われ、数々の奇跡もスンナリ認められる。「神話」だから、言葉を巡って、それぞれの宗派が、都合のよい勝手な解釈が出来るのです。

 

宗教者は、我々が住む「宇宙」というものを、果たして真剣に真正面から考えたことがあるのでしょうか? 彼らは「神様」は語ります。自分たちが承認する「神様」については語ります。しかし「宇宙」のことは語りません。けれども、「神」と「宇宙」と「生命」は、すべて同義です。同じことの言い換えなんですよ。なぜなら、「神」とは、「全て」だからです。

 

「神様」は正しく見て下さっていると、彼らは言います。自分たちが信奉する道のみが正しくて、それ以外は邪道であり邪教だと言います。そちらの道を行く人たちは、みなサタンに支配されているのだと言います。こんな馬鹿げた世界論、宇宙論が、果たしてあるでしょうか?

 

囲碁を思い浮かべてください。自分たちは本当の「神様」を奉じる白い碁石のグループ。でもその横には、サタンの支配下にある黒い碁石のグループも勢力を延ばしている。これが今の世界だと言う。では、その世界を支えているものは何でしょうか? 碁盤ですよ。白い碁石も、黒い碁石も、全部碁盤の上に載っかっている。だとすれば、その碁盤全体が「宇宙」なのだし、それが「神」だ。

 

「神」は、白い碁石じゃない。「全て」だ。この当たり前のことに気がつくことが、21世紀に相応しい、新しい「神学」の出発点になる。

All is in all.(全ては全ての中にある)

だから、当然のことながら、あなたも「神」の一員なのですよ。

 

「神」とは、全智であり、全能であり、全存在であり、宇宙であり、生命であり、完全なる愛であり、法則であり、その全てだ。あなた方は、その「神」の、Sum of God(神の総和)を形成している。

 

神は「居る」のではなく、「在る」のだ。

 

どうでしょう、ここで提案なのですが、「神」に「様」を付けるのを、思い切って止めてみては? 止めたところで、「神」は別に怒りはしない。今までだって、人間たちは「神」をさんざんに言ってきたのだから。「神様、神様」と崇め奉るから、擬人化した感情的なものを、自分の外側に求めてしまうのだ。「神様」は「居る」と信じ、「神様依存症」で生きるしかなくなってしまうのだよ。

 

「神は、未だかつて、自分の名を名乗ったことは一度もありません。なぜなら、宇宙それ自身であるものに名前は必要ないからです」と私は言い、空中を指差して「神はここにも在るし、あなたの中にも在る。そして私の中にも」と言ったのですが、彼女たちには通じませんでした。きょとんとした顔をして「あ、もうお昼だから」と言って帰って行きました。

 

「洗脳」というものは、実に不自由なものだなと思いました。でも彼女たちは、自分が「洗脳」されているとは夢にも思っていません。「信仰」していると思っているのです。正しいことをしていると思っている。この教団のホームページを見ると、「教えの型に固く従うように努力する」とある。もう全然ダメです。「教えの型」も、「固く従う」ことも、「努力する」ことも。

 

宗教の恐ろしいところは、実にそこです。自動車を暴走させて通行人の列に突っ込んだり、山に火を点けて家ごと家族を焼き殺したり、集会所に行って銃を乱射したり。人間が、同じ人間に対して、どうしてこんな酷いことが出来るとお思いですか? 固い「信念」が在るからなのですよ。固い「信念」が、個人の内なる常識をぴょんと超えさせてしまうのです。「信念」が、人を殺人者にしてしまうのですよ。

 

内なる自分にちょっと聞いてみれば、「相手も同じ人間なんだよ。同じ生命(いのち)なんだよ。宇宙の一員なんだよ」という声が直ぐに返って来るはずです。でも「信念」は、その声をあっさり素通りさせてしまう。そして、現代においては、固い「信念」は何も宗教だけに限ったことではありません。政治的「信念」、金銭的「信念」、教育的「信念」、医療的「信念」、etc.。

 

こうしなきゃダメだ、ああしなきゃダメだ。現代人は、押し寄せて来るあらゆる「信念」の洪水の中で、もう息も絶えだえになっている。それが、今という時代の「生きにくさ」の原因です。その鎖から、解き放たれる手助けをしてあげることが猛烈に求められているのに、宗教までもが、自分たちがこしらえた古臭い「信念」を振りかざし、人々をなおも従わせようと躍起になっている。

 

「教えの型」を学ぶ必要はないし、「固く従う」ことなどむしろ避けるべきだし、「努力する」必要も全くない。あなたは、ただ「ありのままでいい」ということに気づくだけでいいのだ。

 

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広い。そして、そこから入って行く者が多い。命に至る門は狭く、その道は細い。そして、それを見出す者が少ない。」

 

まことにその言葉の通りです。しかし、細い道、狭い門とは、特定の宗教・宗派のことを指しているのではありません。そうではなくて、外から来る何かを「信じる」という大通りから、逸れることが人間には難しいのです。みんながゾロゾロ着いていく道から外れて、自分の好きな小道に一人で分け入っていくということがなかなか出来ない。それには、ちょっとした勇気を必要とするから。

 

重要なのは自分自身なのです。外から来るものを「信じる」ことではない。あなたの現実は、あなたが創っているのですよ。自分が、自分の周囲に起きるありとあらゆる出来事について、何をどう解釈し、どんな意味を与えるか、それだけなのです。だから、ありのままに、自分が導く道を行けばよい。なぜって、これが生命の全ての目的なのだから。

 

「信じない」イコール「疑う」ということではありません。自分の内なる「それ」を信じていれば、外から来るものは、「疑う」ことも「信じる」ことも必要がなくなるのです。いつでもオープンハートでもって接することが出来るのです。そしてその状態にあることを、「魂」の自由、「宇宙」との一体と呼ぶのです。これぞ完全なる独立、かつ宇宙との融合です。

 

だから、内なる声に耳を傾けなさい。自分を信じなさい。内なる細い道を目指すのです。そこは元々、あなたが通って来た道なのですよ。そこを帰るだけです。あなたはひとりぼっちじゃない。いついかなる時でも、わたしと共にある。わたしは「全て」なのだから。わたしが在るように、あなたも在る。ですから、安心して己の道を選ぶのだよ。そして、自身の内に湧く歓喜のロードを進みなさい。

 

 

想いは実現するということと、人生苦との狭間

想いは実現する。この言葉を、スピリチュアルなことに関心のあるあなたなら、きっとどこかで目にしたことがお有りでしょう。ところが言葉とは裏腹に、人生というのはままならないし、ちっとも思い通りにはいきません。いったいこれはどういうことなのでしょう? 若いころの私も、思い通りにならない現実に随分と苦しみました。苦しんで、苦しんで、とうとう還暦を過ぎちゃいましたよ〜。(・ω・`;)ノ

 

仏教学の権威である故中村元さんは、サンスクリット語の「苦(dukkha)」を、〈思い通りにならない現実〉と訳されました。これは名訳とされているのですが、仏教では、そもそもの出発点に「一切皆苦(いっさいかいく)」という捉え方を置いています。それからすると、〈人生ってのはねぇ、ぜーんぶが思い通りにならないんだよォ〉ということになってしまいます。う〜ん、暗い。

 

ま、そりゃそうなんですが、還暦を過ぎた今は、「これはちと言い過ぎだよな」と思うようになりました。確かに、人生は思い通りにならないことだらけです。でも最初から「一切皆苦」という認識を自分の中に置いてしまうと、常時「一切皆苦」という人生を自分の中に創り出してしまうことになってしまいます。皮肉なことに、まさにその意味で、思考は現実化してしまうのです。

 

仏教の限界はそこにある、と今の私は思っています。「苦」を努力してなんとか乗り越えるという発想。それで随分回り道をしましたね。その過程が無駄だったとは思っていませんが、これからの人たちが同じことをする必要はもうないと思います。生老病死が本当に深刻な苦しみであった時代には、その思想は慰めになったことでしょう。でもこれからは、本当の科学(因の科学)を知る時代です。

 

50代の半ばを過ぎた時に、私はそれまでの一切合切を捨てて、「これからは、普通のことが普通に出来る人を目指そう」と決めました。「普通のことが普通に出来る」とは、ご飯を作ったり、お茶碗を洗ったり、洗濯をしたり、買い物に行ったり、掃除をしたり、ゴミを出したり、草取りをしたり、花を育てたり、クルマを運転したりといったことです。これらが、当時の自分には出来ませんでした。

 

なぜ出来なかったかと言いますと、それらに「苦」を感じていたからです。どれも、やればやれないことではなかったけれど、半分「嫌だなぁ」と思いながらやっていた。ですから、それらを難なく普通にこなしている人を見ると、「凄いなぁ」といつも尊敬の眼差しで見ていました。その姿は、私にとっては大きな憧れであり、次の人生の大目標だったのです。

 

台所に、山のように洗い物が溜まっている。「これを洗わなくちゃいけないのか、嫌だなぁ」と思う。そう思うこと無しにスッと出来るようになりたい。そして遂には、喜んで出来るまでになりたい、とそう思ったのです。これはあくまで一般論ですが、そういう意味では、世の女性たちは、男性よりも遥かに進んでいると思います。「虹の学校」の門を叩くのも9割が女性ですし。

 

山奥で暮らして5年になりますが、家の近くに産土神を祀った小さなお宮があるのです。最初に来た時には、過疎地でもう誰も手入れをする人がなく、お宮全体に腰高までの草が生い茂っていました。「よ〜し、これを一つ、自分の『普通の人』になるプロジェクトの実験にしてみよう」と決めた私は、その年から、少しずつ手入れを始めました。

 

最初は、鎌で草を刈っていました。ひとりですので、一日では全部刈れません。しかも、刈っても刈っても、また草が生えてくる。春から夏に掛けては大量の花が地面に落ち、秋になると落ち葉でたちまちいっぱいになってしまいます。それでも続けていたら、2年目から草の背丈が低くなり、地面が見えて来ました。そして3年目になると、草の代わりにうっすらと苔が生えて来たのです。

 

4年目になると、これが逆転し、苔の間に生えた雑草をピンセットで引く抜くスタイルへと変わり、今ではあたり一面に苔が生え、すっかり苔神社に生まれ変わってしまいました。そして、何かしっとりした、凛とした空気があたりに満ちて来るまでになったのです。そうなってみて「ああ、これか!」と、私はやっと気がつきました。「想いは実現する」ということの意味がです。

 

苔を生やしたのは私ではありません。自然にそうなったのです。「自然て、なんて凄い庭師なんだろう」と思いました。苔神社にしようというプランが私にあったわけではありません。今できることをコツコツやっていたら、だんだんと姿形が変わっていった。そして驚くことに、いつの間にか自分も、普通に草取りや掃除ができる、掃除喜爺さんに変身していたのです。

 

ああ、想いは実現する。

 

でも想っただけでは、もちろん実現はしなかったでしょう。行動したからこそ、そうなった。しかしそれは、こうも言えます。先ず「想わ」ないことには、次のステップである「行動」は生じない。そこで、〈人生思い通りにならない〉ことの原因の一段階目は、「想っても行動しない」か、「想いそのものを抱かない」か、そのどちらかだということです。耳が痛い人、おられるのではありませんか?

 

いや、俺は強烈に想っていたし、それなりに行動もした。それでも実現しなかった。そう仰る方もおられるでしょう。かく言う私もその一人でした。20歳の時に映画監督になる夢を抱き、東京に出てきてそのための努力を必死にした。でもいつも、あと一歩というところでなぜか道が閉ざされてしまうのです。

 

泣きたい気持ちに押し潰されそうになる中で、私は自分の運命を呪いました。その不運の才(?)が、その後もずっと自分にまとわりついて離れませんでした。

 

さてそこで、〈人生思い通りにならない〉原因の二段階目です。今になって思うのですが、そのように図られたということです。誰に? 天によって。いや、もっと正確に言えば、自分の「魂」が、そのような軌道修正を選んだと言うことです。あの時もし、自分の「心」が望んだようにスンナリ映画監督になっていたら、今このようなことはしていなかったでしょう。また出来なかったでしょう。

 

そう考えると、不運の日々、屈辱の日々、貧乏に喘いでいた日々、悲しみに打ちひしがれた日々、この世の不条理に憤っていた日々、うつ病で死ぬことしか考えなかった日々、そしてカミさんの病死、それらがみんな今の自分の役に立っているのです。

 

また、もし自分に、生まれつきの霊能でもあったなら、きっと錯覚して、道を誤っていたことでしょう。無能だからよかった。無智だからよかった。だから選ぶことが出来た。お宮さんの掃除を始めた時と同様、ゆくゆくはメッセンジャーになろうなどとは露ほども考えたことはなかった。でもコツコツやっていたら、いつの間にかそうさせられていたのです。天の手足となったのです。

 

あなた方はみな、この世に転生して来る際に、一人ひとりが、自分の今世における「課題」を設定して誕生しています。この「課題」は、自分という「魂」の霊的成長を図るためのもので、前世までのカルマの刈り取りが半分と、今世で新たに味わいたい領域の体験が半分含まれています。そしてそれが体験できる国や環境や両親や自分の肉体を選んで、この世に誕生して来るのです。

 

「魂」は、そのことをもちろん覚えているのですが、成長してこの世を体験し、五感に操られる「心」の方がしだいに優勢になるに従って、大多数の人は、自分が設定して来た転生の目的を忘れてしまいます。このブログで、しばしば「思い出すだけ」と言っているのは、そのためです。何かを掴まなければと思う必要は何もないのです。思い出せば「魂」に帰れるのであり、それが「真我」の発見、つまり自分探しということなのです。

 

ということで、あなたの「想い」が、この「魂」が設定してきた目的に合致し、かつ「宇宙の法則」に則っていることであれば、それは自ずと実現することになります。と、今書きましたが、正確には、あなたの「魂」の初期設定に合致するだけでよいのです。なぜなら、転生時における各「魂」の課題設定そのものが、「宇宙の法則」に則った上で創られているからです。

 

ですから、自分の今の境遇や運命を呪ってはなりません。全部、自分が計画したことです。よくよく見つめてみれば、そこには必ず何らかの学びが含まれていることが解るはずです。それを素直に受け取りなさい。そして感謝しなさい。間違っていたならば修正しなさい。それでこそ、あなたの「魂」が成長できる。カルマも試練も、あなたがご自分に贈ったギフトなのです。だから、自分を愛しなさい。

 

想いは実現する。この言葉を、世に言う「成功者」の方々が発しているのを時々見かけます。また、この手のハウツー本やスピリチュアル系の教材も山のようにあります。それらと、いま言った意味とを、混同しないようにしてください。「成功者」などという概念は、「不成功者」の上に立ってこそあるものだということに気づいてください。そんなものが「宇宙の法則」だと、あなたは本気で思うのですか? わたしが、わたしの子らの差別を望むとでも言うのですか?

 

あなたの本質は「魂」です。「魂」は不死不滅であり、今世で行き着いた霊性のレベルと、この世で体験したことに付随した思いと、身につけた技能と、積んだカルマだけが、次の転生にも運ばれます。境遇や、体験や、物資的なものは、全部、それらのプレイの「道具」に過ぎないのです。このことが解れば、人生にとって、いったい何が重要なことなのかが解ることでしょう。

 

なぜちょっと前のブログで、今度の選挙のことを書いたのか。人は、そしてメディアは、受かったとか落ちたとか、大勝したとか惨敗したとか、そんなことばかりに注目します。でも、それらの何一つ、あの世へも、そして来世へも運べないのですよ。議員の椅子もバッチも、私利私欲で得た財産も名声も、何一つ運べないのですよ。運ばれるのは、その「行動」に至った「想い」だけなのです。

 

そして、自分が蒔いた種は自分で刈り取るという法則があるだけ。だから反省が大事なのです。「因の世界」にまで遡った反省が必要なのです。自分が犯した間違いに直ぐに気がついた者は、その場で直ぐに刈り取れます。でも、間違いに、更に間違いを重ねて生きる者は、雪だるまのようにそれを膨らまし、来世にまで持ち越して、大きく実ったカルマを刈り取らなければなりません。

 

賢明なあなたなら解るでしょう。それは「罰」ではないということが。ただ、自分が為したことは自分に返るという「宇宙の法則」を学ぶチャンスに過ぎないということが。そしてそれは、自分で自分に贈ったギフトなのです。このことが心底解った時、あなたの「魂」は大きく成長する。

 

だから、自分の今の境遇を、嘆かず、朗らかに、精一杯生きなさい。瞬間瞬間の思いを大切にしなさい。そして、何気ない「今この瞬間」に喜びを見出した時、あなたは宇宙の奥義を理解することでしょう。

 

これこそが「神の恩寵」であったということが。

“God bless you” だったのだということが。

 

残念ながら、多くの人が、成功や、物質的な充足を、この世での「想い(願望)」にしているために、それが実現しないと言っては嘆いています。かつての私のように。でもそうではないのです。あなたの真の「想い」は、ソウルの「想い」にこそある。そこに気づけば、そして自分自身を発見できれば、あなたの「想いは実現する」のです。宇宙とは、最初からそのように創られています。

 

だから、友よ。あなたもそのように生きるのだ。

無智ということ

物欲、支配欲、名誉欲、不親切、物惜しみ、執着、狡猾、猜疑心、怒り、憎しみ、嫉妬、慢心、無智、不節制、自暴自棄、‥‥。程度の差こそあれ、人間には誰しも、こうしたいわゆる悪感情や、悪い心グセ、性格というものが備わっています。若いころの自分にとっては、これらの克服が大テーマで、いろんなことを試しましたし、苦しみもしました。そしてそのチャレンジは今も続いています。

 

でも最近は、世間の話題として、そういうことをあまり聞きませんねぇ。もはや「煩悩」解禁になったと言いますか、むしろ剥き出しの「煩悩」を競い合うのが当たり前の世の中になってしまったなぁと感じています。「煩悩」の克服ということが、もはや人生上のテーマでは無くなったのでしょう。もしかしたら、「煩悩」という言葉自体、すでに死語になってしまったのかも知れません。

 

さて、人間にこうした様々なネガティブな感情や性格がある中で、古来より、いちばんの問題は「無智」なのだとされて来ました。「無智」こそが悪の大親分であって、そこにたくさんの子分が従っているのというのです。釈迦もこれと全く同じことを言っていて、仏教では「無明」と言うのですが、明るくないこと、光が差さないことをもって「無智」という状態を示したのです。

 

ではこの「無智」とは、何を意味しているのでしょうか? いったい何を知らないというのでしょうか? そしてそれが、どうして全ての悪の親玉だと言うのでしょうか?

 

このブログでは、これまでにも「無智」という言葉や「智慧」という言葉を何度か使って来ました。目ざとい方は、私が「知」ではなく「智」という漢字を使っていることにお気づきだと思います。が、これは意識してそうしていたのです。「智」という漢字は、「知」の下に「日」が付いています。ですから「日」の基に「知る」ということであり、この「智」は、いわゆる「知識」ということではないのです。

 

*「智」という漢字の部首については「日」(ひへん)に分類している辞書の他に、「日」(いわく・ひらび)に分類している辞書もあります。「ひ」と「いわく」は、今日の活字では同じ形ですが、本来は別字です。ここでは、あえて「日」(ひへん)説をとっています。

 

知識人と言われる方たちの中には、知識を持たない人々を小バカにする傾向がありますが、彼らとて「智慧」を有しているとは限りません。「知識」と「智慧」とは別物です。「知識」とは相対的なものであって、自分は「知識」があると言ったとしても、その人が何もかも知っているわけではありません。例えば歴史を考えてみてください。歴史の全てを知ることは不可能です。

 

「日」を基礎にして「知る」ということ、あるいは「日」を「知る」ということが、どういう意味なのか? 「日」の象形文字は「⦿」です。これは「◯」の中に「・」を納めた形で、「宇宙」を表すシンボルの一つになっています。「宇宙」を表すシンボルにはたくさんあって、◯、⦿、+、T、⊕、☯、✡、卍、などは、みなちょっとずつ意味を違えながら、それぞれが「宇宙」を表しています。

 

その中で「⦿」がどういう意味を持っているかと言いますと、中心の「・」が宇宙の始まり、周囲の「◯」が現在の宇宙全体を表していて、一つのものから宇宙が誕生したというシンボルになっているのです。つまり「全一(全部が一つ、一つが全部)」というものをシンボライズしているのです。ですから、「全一」という真理を知っているよということが、この「智」の意味なのです。

 

そこで、釈迦の言った「無明」という言葉と結びついて来ます。宇宙のバイブレーションは、しばしば「光」に例えられますから、その「光」を知らないことが「無明」、すなわち「無智」というわけです。つまり「無智」というのは、「宇宙の法則」を知らない「無智」を意味しているのです。そしてこれは根本ですから、よって最大の悪とされたのです。

 

話を戻して、人間のあらゆる煩悩の大元は実に「無智」にあるのだと。言い換えれば、あらゆる不幸の原因は「無智」なればこそなんだと、歴史上の多くのメッセンジャーが、みな同じように指摘して来たのに、どうして人類は、今もって「無智」のままなのでしょうか? これだけ知識の溢れた世界に、真の「理解」というものがほとんどない。信じがたいことですが、それが現実です。

 

なぜ「理解」がないのかと言えば、一つには宗教が邪魔をして来たということがあります。各宗教が、自分たちが創案した教義を信者に信じ込ませて来たために、宇宙というものへの正しい理解が進まなかったのです。

 

そしてもう一つは、「知」と「智」を取り違えて来たということ。「無知」が最大の問題だと言われると、みんな、じゃあ知らなきゃな、学習しなくちゃなと思うでしょう。でもそうじゃないのです。この「無智」とは、知識を増やせということではないのです。

 

知識は、なるほど思索を深めるきっかけや道具になってくれます。ですが使い方を誤ると危険ですらあります。なぜならば、知識は「信念」を生むからです。歴史上の大きな過ちは、暴君によってではなく、むしろ知識人によってもたらされて来ました。例えば核兵器です。科学の知識がなければ、人類は核兵器を生み出すことはできませんでした。

 

「知性はあまりにも頻繁に我々を騙す。」

「私たちは無知によって道に迷うことはない。自分が知っていると信じることによって迷うのだ。」ジャン=ジャック・ルソー

 

問題は知識なのではありません。「智」を知らないことにある。もっと正確に言えば、「智」があることに、気づいていないことにある。あなたには、実は最初から「智」があるのです。どこに? ソウル(魂)に。

 

あなたは多次元的存在で、この物質世界だけではなく、第四霊性密度にも、第五霊性密度にも、第六霊性密度にも同時に存在しています。それを、今は意識できないかも知れませんが、意識できようとできまいと、多次元的存在であることは間違いありません。なぜって、そのように創られたのですから。

 

ですから、「無智」から脱するためには、「智」を求める必要はなにもなく、ただ思い出すだけでよかったのです。教科書も先生も、全く必要がなかったのです。ではどうやって思い出せばいいのでしょう? 「知性」に騙されるのを、もういい加減に止めればいい。そうすれば、入れ替わりに、あなたの中にある「智」が浮かび上がって来ます。

 

現代人の不幸は「知識」が無いことにあるのではありません。むしろ逆で、外側から、まるで津波のように、後から後から押し寄せてくる来る「知識」という濁流に、完全に飲み込まれてしまっていることにあるのです。「知識」が有り過ぎて、それに振り回され、かえって自分を見失っている。でも本当に大切なものは「知識」ではありません。

 

それよりも大事なものは、「普遍的な智」の基盤に立って生きることです。それこそ真のあなた。あなたがあなたたる由縁の本質です。ですから、外側から来るものに対しては、勇気をもって、「そんなもの関係ない」「わたしはわたし」と宣言するのです。そして、ご自分の直感やインスピレーションを信じるのです。

 

世の中が激動すればするほど、喧(かまびす)しくあれば喧しくあるほど、あなたはあなたであることを保ってください。そうすれば、幻の中に生きて、右往左往している人たちのことがハッキリと見えて来るでしょう。

 

今日、ここで述べたことをテーマに、できれば瞑想を行ってください。瞑想は、外から来る情報と内なる情報とを切り替えるための最高のツールです。それが、あなたに「智」への扉を開かせてくれるようになるでしょう。

舌禍と正直であること

「全員受け入れることはさらさらない」「排除いたします」。この言葉が波紋を呼んで、選挙戦の潮目が大きく変わってしまいましたね。そこにはやはり驕りがあったと思います。言ったご本人も、後から大いに反省したということなのですが、その反省がもし「舌禍」という面に留まっているのだとしたら、それは充分ではありません。なぜなら、人は思っていないことは表現できないのですから。

 

権力者には二種類がいて、権力そのものが欲しくて権力者になる人と、理想社会の実現のために、権力が持つ統治機構を利用しようとする人です。「権力」など、本当は社会には必要がありません。しかし残念ながら、地球人はまだそこまでは進歩していません。そのため、大勢の民衆を統治するためには、やむなく暫定的に今のような権力機構が必要となっています。

 

そうした状況下では、権力を握った者が、どれだけ真摯に民衆の奉仕者(Public Servant)として生き抜くかが問われるのです。けれども、これも残念ながら、そのように生きる人物は圧倒的に少ない。自分が奉仕者であることを忘れて、まるで王様か貴族のように振る舞う人がほとんどです。選挙公約など、今や有って無きが如し。当選後は平気で嘘をつきまくって私利私欲に邁進する。

 

「こんな人たち」発言も「排除いたします」発言も、その根底にあるのは同じ「分離」という意識です。「人は同じではない」という考え方です。確かに、全員が独立した個体であり、顔かたちも違うし、考え方も立場も境遇も主義主張もみんな違う。でも、それでもなお「みんな同じ」「全部は一つ」という確信を持つことは、先ほど言った霊的進歩の段階において、一段高い飛躍となるのです。

 

ことに、この違いが政治のトップを占める人たちの意識の根底に強くある場合、社会は大きな影響を受けます。「分離」という考え方を推し進めますと、自分と他人を分ける、自分たちの仲間と他の人たちを分ける、ひいては味方と敵を分けるという考えに行き着きます。さらには、自分たちさえ良ければいい、自分の地位や財産を守りたい、そのためには邪魔する敵をやっつけろとなって行きます。

 

これが何をもたらすかは、歴史をちょっと概観してみれば、もう明らかではありませんか? ですが人間は、本当に深いところでの反省というものをなかなかしませんし、いつも情動に突き動かされてしまうので、「あいつは敵だ」「敵をやっつけろ!」と勇ましいことを言って旗を挙げる人には、簡単に「そうだ、そうだ」と同調して、後先あまり考えずに着いて行ってしまうのです。

 

口の利き方は、もちろん慎重にあるべきです。思わず口を突いて出た言葉が、情動に左右されたものでないかを客観視してみる習慣をつけるといい。でもそれは、単に戦術とか、手練手管とか、テクニックとかという問題なのではありません。自分の本性を隠して、いくらテクニックを弄しても、それは「自分自身に嘘をつく」ということにしかなりません。

 

自分自身に嘘をつくことは、とても簡単です。場合によっては、周囲の人々や、大衆を騙すことさえも可能でしょう。でも、天(宇宙)を欺くことだけは、絶対に出来ません。なぜなら、誰もが最初から宇宙に包含された存在であり、かつ深いところでは常に宇宙意識と繋がっているからです。

 

これまで何度か、「正直に生きる」ことの大切さを語って来ました。これは、倫理的意味合いで語っているのではありません。また「嘘をつかない」という意味なのでもありません。倫理なるものは、所詮は人間が定めた基準であり、文化や時代が違えば内容も違ってしまいます。また「嘘をつかない」ということも、ダブる部分はかなりありますが、意味していることの次元が違う。

 

「正直に生きる」とは、自分の「魂(Soul)」に従うということです。自分の「魂」を裏切らないということです。それぞれの人の「魂」は、もともと一つだった宇宙意識から、分かれたピース(一片)ですから、宇宙意識の完全性を知っているのです。ですから、その「魂」の声に耳を澄まして、「魂」が喜ぶことを素直に行っていれば、それがすなわち「正直に生きる」ということなのです。

 

このようにして「正直に生きる」ことは、宇宙の真理にそのまま合致しているわけですから、自分自身の中に葛藤を起こすことがなく、従ってストレスもありません。ですから、ただただ正直に生きれば、その人は平安でハッピーに生きられるのです。

 

ところが、地球に住む人間たちは、どうもそのような生き方が嫌いなようです。「全部が一つ、一つが全部」というのが、揺るぎない「宇宙の真理」であるのに、それには耳を貸さず、他者と比べ、優劣を競い、他者を自分に従わせるために命令し支配し、逆らう者は攻撃し、粉砕することに情熱を燃やそうとする。そのどこが楽しいのでしょうか? 宇宙の不思議よりも、この人間の方がよっぽど不思議です。

 

あなた方に言っておきます。それほどまでに、他者と闘争をし、誰かを殲滅することがお望みであるのなら、あなた方は、遠からず、それを望み通りに地球規模で実現することでしょう。すでに、その集合意識の行方を、あなた方はニュースで見て知っています。でも、いよいよの時になって、「天罰だぁ!」などと言わないで下さいね。天は罰を与えないし、天に罰はありません。みんな、そうしたいと人間が望んだ結果なのですから。

 

剣を取る者は、みな剣によって滅びる」。この意味がお解りですか? 武力を持った者はその武力によって滅びる、と読めます。でもそれだけじゃない。剣を取った瞬間から、その人は、自分の「魂」を信じることを拒否してしまう、という意味なんですよ。剣の方を信じてしまうということです。それが、自分という存在が何者かを分からなくさせる。つまりはせっかくの自分(真我)を滅ぼす。

 

あなたが、ご自分の心の中に常時「剣」を抱くようになってしまったら、当然のことながら、その時点で、宇宙意識とは繋がれなくなってしまいます。そうなれば、その人の「魂」は、今世での霊性向上の機会を失うだけでなく、日常的に「心」に絶えず葛藤を抱えるようになり(なぜなら「魂」の生き方と「心」が望む生き方とが相克するので)、さらには、カルマまで積むことになります。

 

ですから、「反省」という機会(ギフト)を得た時には、「魂」のレベルにまで遡って自分を深く見つめ、自分のどこがいけなかったのかを整理し、宇宙に懺悔し、許しを請うことが大切です。それでこそ「反省」の機会を活かすことが出来ます。

 

人間、誰しも道を誤るものです。大切なことは、たとえ道を誤っても、その「反省」から学ぶことです。逃げてはなりません。成功よりも、失敗の方がより多く学べるのです。誤りに際して、そうやって、自分ときちんと向き合った時、それが本当に自分へのギフトであったことにあなたは気づくことでしょう。

 

ここで、よく知られた、『黄金律』と言われる、あの真理の言葉を改めてお伝えしておきます。

自分がしてもらいたいことを、他の人にも行いなさい

実にこれこそは、シンプルで、「宇宙の法則」をこれ以上余すことなく表した聖なる言葉です。でもこのシンプルな理想を、日常的に実践している人は、極めて稀です。たったこれだけのことが、今の人間には出来ないのです。

 

反省を、もし「舌禍」というレベルで捉えていたとしたら、せっかくの機会を活かすことは出来ません。ですから、「素直さ」が、人間にとって何よりも大切な資質なのです。それが、虚勢を張って嘘で誤魔化したり、誰か他の人のせいにしたりした日には、もうどうにもなりません。一度嘘をつけば、嘘に嘘を重ねなければならなくなり、「反省」の機会はどんどん遠ざかってしまいます。

 

後々になってから、やっと「反省」しようという気になったとしても、それまでに、多くの人を騙したり陥れて来たネガティブな行為の堆積は、いったいどうやって償うというのでしょうか?

 

社会機構の重要ポストに就く人を見る時には、出自や学歴や経歴などで判断するのではなく、ただただ、次のことだけを見てください。この人は、「自分がしてもらいたいことを、他の人にも行う」という資質を持った人であるのかどうか。

そしてあなたも、「自分がしてもらいたいことを、他の人にも行う」人であってください。

今の経済システムからの解放こそが、経済再生への道

又吉直樹さんがレギュラーを務めているEテレの番組に『オイコノミア』というのがあるのをご存知でしょうか? この奇妙なタイトルは、古代ギリシャ語の「οικονομία」から来ていて、これが後に英語の「Economy」になったということなんですね。というわけで、『オイコノミア』は、又吉さんがガイドする経済教養番組という内容になっています。

 

「οικος 」は家を意味し「νομία 」は規則・管理を意味することから、元来は「家政術(management of a house government)」の意味だったようです。英語で言う「Economy」は、これを集団的社会のマネジメントに拡大解釈して行ったんですね。ですが今、元々の意味を改めて知ることはとても重要だと思います。なぜなら、「経済」というものは、本来は家庭の幸福を願ってあったと考えられるからです。

 

日本語の「経済」という言葉も、明治期に「Economy」の訳語として使われるようになり、これが定着したということなのですが、この語は、中国由来の「經世濟民(けいせいさいみん)」<世を經(おさ)め、民を濟(すく)う>から造られたもので、「オイコノミア」と同じように、やはり「人々の幸福を追求する」という、下からの積み上げの意味合いが多分にあったと思うのです。

 

ところがどうでしょう。今はまったく違います。庶民の側には、まだ「経済」という言葉に「自分たちの暮らし向き」を仮託する意識が残っていますが、実際に動いている今の「経済」活動は、庶民を無視するどころの話ではなく、庶民の血を絞り上げる「強欲」を基本に置いて営まれています。大企業が儲かれば、その雫が中小零細企業にも滴り落ち、個人にも回るんだという理屈なのです。

 

2014年11月の衆議院選挙では、自民党が「アベノミクス解散」と言い、公明党が「デフレ脱却推進解散」と言って、与党はどちらも『経済再生』を強調して大勝しました。それを信じて投票した方もきっと多かったのではないでしょうか。でもその後、3本の矢、新3本の矢、合計6本の矢がどうなったのか、2パーセントのインフレ目標がどうなったのか、日銀の3倍ものマネーサプライがどこに消えたのか、誰も何も言わなくなったじゃありませんか。

 

有権者は、この当時のことをちゃんと思い出してみるべきです。公約を信用して投票し、公約が実現できなかったら、今度は別の人に投票する。有権者の投票行動というのは、それしか出来ないのですから。

 

国内での困った問題を、外敵を強調することで眼を逸らさせ、みんなチャラにしてしまう。これは権力者が使う常套手段です。何度も同じ手に引っ掛かってはなりません。『経済再生』のスローガンで当選し政権を担ったのであれば、有権者はその成果をちゃんと問うべきです。

 

91年にバブルが崩壊してから、すでに25年が経過しています。その間、日本経済はどんどん落ち込み、日本は借金のみを膨大な額に膨らませて来ました(これがみな、後の世代への負のプレゼントになるのです)。政府は嘘ばかりついていて、都合の悪い数字は出しませんが、日本の相対貧困率は、対米追随の成果により見事にアメリカに次ぐ第2位にまで躍進(?)しました。80年代には、「Japan as Number One」とまで言われた国がです。

 

でもこの貧困は、「見えない貧困」と言われています。なぜ見えないのでしょうか? それは「貧困」の実態が、昔と今とでは大きく異なっているからです。一昔前の「貧困」イメージはと言えば、飢餓と病気でした。ところが今はそうではありません。飢餓はむしろ肥満に変わり、病気は薬漬けに変わっている。これで解るように、現代の「貧困」とは「不足」なのではありません。良質な暮らしが営めないことなのです。

 

良質な暮らしが営めない原因は複合的です。雇用が不安定。賃金が安い。家を持たない人は家賃に多くの生活費を取られる。ダブルワークや長時間労働をしなければ生活費が稼げない。働く時間以外の時間を確保することが難しく、質の良い食事や睡眠を取ることが出来ない。コミュニティが崩壊し孤立している。伝承文化や知恵に無知。以上から、精神的な安定を維持し続けることが難しい。

 

憲法第二十五条(生存権)には、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と謳われています。けれども、「文化的な最低限度の生活」というものがどういうものかは示されていませんし、憲法が制定されてからもう70年も経っているわけですから、「文化的生活」の意味を、もう一度考え直さなければならない時期にあると思います。

 

今はこれが、生活保障費というもっぱら「お金」に換算されて考えられているのですが、重要なのはそこではありません。その証拠に、災害復興で仮設住宅を作り生活費を支給しても、自殺されたりする人がいるのです。重要なのは「お金」ではありません。何らかのコミュニティに所属し、働くことを通じて、自分が役立っているという「実感」が持てることにあるのです。

 

これが、現代の「文化的な最低限度の生活」というものです。その基盤の上に立って、自分の身体をいたわり、心を平静にし、汚染されていない食料を手に入れ、手の籠った質の高い食事を作って摂り、清浄な空気を吸い、身体を動かし、自然や芸術にいそしみ、周囲の人々と和し、正直に、そして朗らかに生きることが、「良質な暮らし」を営むということです。

 

ところが、いま言った「良質な暮らし」はおろか、その前提となる基盤すらもが脅かされているのが現状の社会です。バブル崩壊から四半世紀。もういい加減、「経済成長が、人々の幸福をもたらす」という幻想を、人間は捨てるべきではないでしょうか? 今日にあっては、「経済成長」とは、一部の富者をますます金持ちにし、庶民を奴隷化することであると、気づくべきではないでしょうか?

 

そもそも、農産品にしろ工業製品にしろ、生産性は年々飛躍的に向上しているというのに、長時間労働がどうしてなくならないのでしょうか? 世の中に、物はたっぷりあるというのに、どうして貧困が拡大しているのでしょうか? おかしいとは思いませんか? 何かが決定的に間違っているとは思いませんか?

 

その直接的な理由は、労働者の賃金が(世界的規模で)抑制されているからです。生産性の向上分を、企業や投資家がみんな取っていってしまうのです。そのため、生活がギリギリ、カツカツという人がどんどん増えている。生産物は非常な勢いで増加していても、それを買える人というのは増えないのです。

 

するとどうなるでしょう。物は売れずに、常時、物余りになります。物価は下がり、限られた市場を巡って企業同士が争うものですから、力のない中小零細企業は戦いに敗れ、寡占化、独占化が進行して行きます。こうして寡占化、独占化を成し遂げた企業は、市場の支配権を握ってしまうので、賃金についても自社基準を業界スタンダードにしてしまえるのです。

 

これが、みなさんがいま見ている世界経済の動向です。そして競争が、国を超えて、全世界を同時に市場とみなす時代になりました。ファストフードにせよ、小売店チェーンにせよ、ファッションブランドにせよ、ネット通販にせよ、コンピュータにせよ、医薬品にせよ、日用雑貨品にせよ、およそありとあらゆる分野で、世界標準が生まれ、多国籍企業による寡占化、独占化が進行しています。

 

このような中で、労働者は絶望的に無力です。生産性が上がり、物は溢れかえっているというのに、貧困者が増え続けているという理由が、これなのです。つまり、今のこのシステムの基で「経済成長」を言うことは、富者をますます富ませることを意味するだけだということ。そして、全体を俯瞰してみれば、これが、人類の奴隷化、家畜化に他ならないということがお解りでしょう。

 

誰も彼もが疲れています。心を病んでいる人もいる。そうでない一部の人は憑かれている、今のこのシステムに。見えない貧困というのは、何も物理的次元だけのことではないのです。今の経済システムの裏側に存在する「強欲」の波動が、人々の精神を無意識のうちに疲れさせているのです。これこそ、もっと深刻な「見えない貧困」を社会にもたらしています。

 

この世界を支配しようと企図したグループは、人類の奴隷化と家畜化のために、「エリート」という概念を創り出しました。自分たちは表に出ずに、代わりにエリートに社会を治めさせたのです。エリートにはそれなりの報酬を与えて、かつ気分的満足を味わせる代わりに、大衆のコントロールをさせたのです。

 

そして一般人に対しては、「エリートは尊敬されるべき対象」であるという思い込みを植えつけました。これが下支えのために、教育分野にまで下され、子どもの時から優劣を競うことが奨励されていきました。間違った平等(個性を無視する)を説く一方で、自分たちの基準による優劣の判定を下したのです。そしてこの計画はまんまと成功しました。

 

今やあらゆる業界に「エリート」が存在し、一般の人々は、エリートを見ればちょっと身が竦むし、肩書きというものを非常に重んじるようになったのです。でも闇の支配者から見れば、このエリートたちも、失敗したら取り替えのきく単なる駒に過ぎないのです。当のエリートたちは、そのことを、そうなってみるまでは気づきません。

 

今までのシステムに基づく世界経済は、もう限界に近づいています。いつかは花火のように弾け飛ぶでことしょう。理由は簡単です。今のあり方が、自然の摂理、宇宙の法則に反しているからです。多様なものが互いに支え合っているのが、自然の姿です。ごく少数の者が、富の半分を独占するといういびつな姿が、そのままであり続けるわけがありません。

 

人間社会は、これまでの概念とは違う、まったく新しい「経済」の考え方に、今後早急に改めて行かなくてはなりません。それは、「強欲」から「仲良く」への転換です。もう一度、「オイコノミア」の出発点、「經世濟民」の出発点に戻るのです。「経済」は、いったい何のためにあるのか? 人類みなが幸福になるためではないのか。

 

物やサービスを買ってくれる人をとことん追い詰めてしまったら、物やサービスを売るところは無くなってしまいます。どうして人間は、いつも、ゆるやかに進む自殺の道ばかりを選択するのでしょうか。その不毛のシステムから、もう解放されるべきです。買って下さって、喜んでくれる人がいるからこそ、自分も喜べるのです。他者に為したことは自分に為したことと同じ。このシンプルな法則に気がつきましょう。

 

今までの人類を支配してきた「貪欲の法則」を、「平等の法則」に置き換えるのです。全部を平等にシェアするという考え方に、人類全体が今日から改めれば、一人一日4時間、週4日も働けば、全員が充分な生活費が得られて、かつ充分な物も得ることが出来ます。そうして残った時間を、自分の霊性の向上への学習と、楽しみに使うことができます。なぜそっちの道を選ばないのですか?

 

それだけの生産力はすでにあります。そもそも、宇宙に不足はありません。今の世の中の問題は不足ではなく、偏在にあるのです。しかも今後、AIの導入があらゆる分野で急速に進展することになります。そうなった時、問題になるのは、人間の働く場所がもうあまり残っていないということです。「働かざる者食うべからず」といった考え方は、根本から改めなくてはならなくなるでしょう。

 

これまでとは、分配の仕方を変えなくてなりません。でもその前に、人間の心が変わらなくてはどうにもなりません。お前とオレとは違うんだ。自分はエリート。皆を従える権力者である。オレの財産はオレが守らなければ。他人に奪われてなるものか。このような「分離」の概念が、極端な偏在と闘争を生み出しています。宇宙の法則は「偏在」を許しません。そうではなく、神はいつも「遍在」にあるのです。

 

どの「魂」も、根本でそのことを知っています。いま互いに殺し合うために使われている巨額のお金が、仲良くシェアすることに使われたならば、直ちに平和が実現するだけでなく、地上に天国が出現することでしょう。ですから、強欲に「心」に突き動かされるのではなく、ご自分の「魂」の声に耳を澄ましてください。そうすれば聞こえるはずです。

 

「みんな一つなんだよ」

「わたしはあなたで、あなたはわたしなんだよ」と。

選択の時 ― 選挙を前にして ―

「近ごろの世の中と来たら、物騒でイヤなニュースばかりだねぇ」こんな嘆き節が、茶飲み話で囁かれるようになったのは、20年ほど前からだったでしょうか。その当時、多くの人が「なんだかおかしい」という時代変化の雰囲気を感じ取っていたと思います。それがちょっとずつ加速されて行き、今では異常気象が当たり前になったのと同様、物騒でイヤなことだらけが当たり前の社会になってしまいました。

 

経済が停滞期に入っていたということもありますが、1997年には神戸連続児童殺傷事件、2001年6月には附属池田小事件といった世間を震撼させる猟奇的殺人事件が相次いで起こり、心に巣食う闇というものに世間の注目が集まりました。同じ年の9月にはアメリカ同時多発テロ事件、2011年には東日本大震災が起きました。そして今や、毎日、全世界でテロや暴力や猟奇的犯罪が荒れ狂っているのを我々は見ています。

 

ここで留意しなければならないのは、今の35歳以下、場合によっては40歳以下くらいの人たちは、ずーっと経済不況下の時代に生きて来たのであって、物心つく頃から、物騒でイヤな世の中しか見て来なかったということです。そして今、政府も、政治家も、投資家も、企業も、金融も、マスコミも、医者も、教育者も、宗教も、何もかもが信用できない、ということをこれら若い世代は学習しつつあります。これは表面に現れない、地底のマグマのような隠れた大変化です。

 

こうした状況下にあって、個々人の「心」は、いったいどこに落ち着き先を見つけるのでしょうか? ある人は、こんな世の中には背を向けて、自分の趣味世界に耽溺する道を選ぼうとするでしょう。安全と保証を求める人は、すでに壊れ掛けている世界で、なおエリートの道を目指そうとするかも知れません。一方で、競争に馴染めない人は、厭世的気分に深く沈み込んでしまうかも知れません。

 

そして、今の時代に見られる極めて顕著な「心」の表出として、条件反射的な他者攻撃があります。誰も彼もが、一拍置くということをせずに、ちょっとでも気にくわない奴をみつけると、すぐさま罵詈雑言を浴びせ掛けています。一国の最高指導者にしてそうなのですから、あとは右に倣えです。そうやって、自分以外の他者を貶めることによって、自分の存在意義を保とうとしているのです。

 

この意識を、拡大して「国家」概念にあてはめたものがナショナリズムです。ですから、他者攻撃の願望を心の奥に持っている人は、国家主義や愛国主義思想に簡単になびいてしまいます。けれども、今の日本で「国家主義」を標榜している人たちの大部分が、実は「国家主義」とは真逆の、そして「愛国」とは真逆の、「対米追随主義」でしかないことを彼らは知りません。

 

そして宗主国であるそのアメリカとは、民主主義の名のもとに、今なお世界を蹂躙し続け、世界中の人々を貧困と恐怖と混乱に陥れている元凶なのです。そんなアメリカに追随して来たからこそ、見習って来たからこそ、日本の相対貧困率は、遂にアメリカに次いで第2位になったのです。つまり、いま叫ばれている「愛国」とは、アメリカとの心中へのゆるやかな道です。

 

でもそんなディテイルは、彼らにとってはどうでもよいのです。自分の攻撃的感情を載せられる受け皿があればそれでいい。ですから、そもそも「国家」など一つの行政単位に過ぎない、ということを考えてみようとする余裕がありません。歴史地図帳を開けば、日本においてすら国境というものが変わって来たことは明白です。戦国時代をご覧なさい。列島内にたくさんの国があったじゃありませんか。

 

もし「愛国」を言うのなら、どうして全世界の国々を愛する「愛世界国」と言わないのでしょうか? 日本だけを愛して、隣国、周辺国には敵意を剥き出しにする。これは、我が家の家族だけを愛し、隣家や町内会には敵意を抱くということと何ら変わりがありません。自分の仲間たちだけを寵愛し、それ以外は「こんな人たち」と蔑むことと全く変わりがありません。

 

日本人が「愛国」を言うのであれば、他国にだって「愛国」があることを認めるべきだし、それを尊重すべきです。そこに至って、自分を愛するということは、他者が同様に自分を愛することを認めることであり、反対に他者を愛するということは、他者も他者を愛することが可能ということを認めることになります。そしてこれこそが、「Universal Love」であり、世界平和への唯一の道なのです。

 

「必要なのは対話ではない。圧力です!」

全世界を前にして、まったく何という愚かで恥ずかしい発言なのでしょう。

敵意を剥き出しにして来る訪問者に、あなたは玄関の扉を開けますか? 大人は、お金や肩書きや信念で目が曇っているので見抜けませんが、子どもは即座に見抜きますよ。この人、いい人か、悪い人か。地球人の気づきは、まだまだ遠い。

 

これから書くことに、お気を留める方は極く少数でしょう。きっと嘲笑される方もおられるでしょう。でも大事な大事な選択のステップです。あなた方は今後数十年のうちに、二段階のステップを踏んで気づいていかなくてはなりません。第一段階は「人類支配の構造」に関して、そして第二段階は、その奥にある「因の世界」の法則についてです。人類の覚醒は一挙には進みません。この二段階のステップとなります。

 

今の人類が経験している苦しみの大部分の要素は、太古の時代から繰り返し続いて来たもので、その主因は、ほんの一握りの支配者が、残りの大多数の人間を騙して、奴隷化、家畜化し、その上に君臨していることから生じています。ところがこの支配構造は非常に巧妙で、かつ支配者が表に顔を出さないために、長年に渡って「まさか、そんなことが‥‥」という事態が続いて来たのです。

 

簡単に言えば、壮大なるフィクションを人類全体が演じさせられているということです。しかし、みんな自分が演じさせられているとは、よもや気づかない。なぜなら、上から下までが完全な洗脳状態にあるからです。これがあまりにも強力なために、二段階めの気づきが起こるための、最大のネックとなっているのです。しかし一段階めの気づきが起これば、二段階めに気づくのは早い。

 

選挙で、たとえ誰を選ぼうとも、この構造は直ちには変わりません。アメリカ人は、ここ何度かの大統領選で、また議員の選挙で、このことを随分学習しました。政府や政治家やマスコミは信用できないという人が、かなりの規模に達しています。でも日本人は、まだそこまでは行っていません。何度騙されても、懲りずに今なお、政治家や国に「期待する」という感覚の人が多いのです。

 

今日、政治の行方を決めているのは、政治家や役人ではありません。政治家や役人をコントロールしている企業(なかでも多国籍企業)です。その企業をコントロールしているのは、所有者つまり株主や投資家たちです。この投資家たちをコントロールしているのが金融です。そして金融をコントロールしているのが、世にいう「闇の支配者」です。

 

このような構造の中で、配下にいる政治家たちは、自分たちや企業に都合のよいような法律を制定し、この法律を基に国家運営の基本的なシステムを構築しています。このシステムは、金融制度、軍隊、エネルギー、司法、警察、医療、教育、マスコミ等々、全産業に渡っていますから、結果として、あらゆるものを「闇の支配者」がコントロールできる仕組みになっているのです。

 

選挙制度は全くの茶番で、「民主主義」というものをさも実現しているかのようなポーズのためにあるだけで、いま言ったように、実際には「民主主義」とはほど遠いコントロールが水面下で行われているのです。選挙に「お金」が掛かるのは、「お金」の手当てが可能な人しか出馬できないようにするためであり、政治家は、結局は「お金」をくれる者の言いなりになる構造になっているのです。

 

そして、人類を支配するために考案された最大級の発明品が、この「お金」および利息なのです。「お金」が無いと生きていけないとみんなが思い込み、「お金」の魅力によって操られ、「お金」を得るためにあくせくと働き、住まいを得るためには借金をし、利息を取られ、いよいよお金が無くなれば路上生活を強いられるという風で、大多数の人間が、一生を「お金」の奴隷となって過ごすのです。

 

さて「お金」とは何でしょうか? 人類を、この発明品の奴隷にし、富を偏在化させるための仕組みです。あなたが働くと、その労働は賃金に換算されます。しかしその賃金は直ちには払われないし、雇い主に上前を撥ねられます。こうして、労働を賃金に置き換えることで、富の一部を奪い、それを集め、この「お金」を運用することで、富者がますます太る仕組みが確保されます。

 

そしてこの仕組みを維持するために、「お金」の魅力を方々で力説してシステムに誘い込み、富を巻き上げ、次にその富を使って、大衆をコントロールするのです。と聞いても、「なるほどそうか!」と思う人は少ないでしょう。ピンと来ないか、何か私が大袈裟なフィクションを語っていると思うでしょう。それほど、洗脳が隅々にまで行き渡っている。だから大変なのです。

 

でも考えてみてください。自然界に「お金」があるでしょうか? 「お金」の仕組みが存在するでしょうか? 「お金」がないのに、自然界は、互いのエネルギー交換だけで、ちゃんと全体が調和するシステムを実現し、維持しています。これが自然界の摂理です。それぞれが、自分のあるがままに自由に生きて、それでなおかつ調和が成り立っているのです。そして自然とは、神の表現物であったことに注目してください。

 

今までの「お金」のあり方に疑問を持ち、金融支配の構造の裏を知った人たちの中から、「お金」に関して新たな模索をする動きが出始めています。ドルに代わる基軸通貨とか、「お金」の価値を何をもって担保するかとか、ビットコインだとか。でも、ポイントはそこではありません。「お金」のチェンジではないのです。人類の支配者にとって、「お金」はいわば血流ですから、何があってもこの仕組みを手離そうとはしないでしょう。

 

重要な点は、その構造を支えている人類の「意識」なのです。「お金」の裏側には、人類に共通した「エゴ」というものがあって、これが今の「お金」の仕組みを根底で支えているのです。そこに気づかない限り、根本は変わらない。地球の人間たちは、「お金」が支配する「現実」という海を、自分たちは泳いでいるのだと思っています。しかしこれは、物質世界に創られた、全人類合意のもとに演じられている壮大なフィクションに過ぎないのです。

 

あなた方の本質は「肉体」にあるのではなく「魂」にあるのだと繰り返し語って来ました。あなた方が泳いでいる本当の場所は、実は目に見えない場所、霊性(つまり「宇宙の法則」)が支配している海なのです。みなさんの「魂」は、根本のところでこれに気づいています。ですから、何でも「お金」が支配する、今のような世の中との間で、始終摩擦を起こし、苦しまされているのです。    

 

なぜこんな不毛なことが繰り返されているのでしょうか? それは、人々を支配しようとしている者たちもまた支配されているからです。これが「洗脳」というものの実に奥深いところで、支配者層は、「お金」を持つことが自分の「幸福」を実現することだと信じて疑わないのです。ですが、そんなことはありません。肉体の死を迎えた後も運ばれるのは「お金」ではなくて、霊性の海に生きた体験だけなのです。これが、あなたというアイデンティティの唯一の保障です。

 

そして「宇宙の法則」は、いつも次のことを示しています。自分が為したことは自分に返って来る。自分の「エゴ」によって、多くの人々を苦しめた人には、次にその苦しみを自分が体験するチャンスが与えられます。でもこれは「罰」ではありません。チャンスです。宇宙に「罰」はありません。あるのは法則のみ。そのような山登りのルートを選んだ人には、望み通りのチャンスが与えられるというだけのことです。

 

自然界は、理想社会のあり方をいつも示してくれています。多種多様なものが存在し、それぞれがあるがままに自由に生きることで調和が取れている世界。人間はこれを見習って、もっと謙虚になって、親和と愛に生きることを目指さなくてなりません。一握りの権力者が、他の多くの人々を支配することなどあってはならないし、それは「宇宙の法則」に反していますから、必ず破綻します。

 

小さきもの、多種多様なもの、それらの集合体が「生命」なのです。宇宙も、自然界も、そしてあなたの身体も、すべてそのように出来ています。この事実に気づきなさい。小さきもの、多種多様なもの、自分とは違う個性に敬意を払いなさい。あなたを生かしてくれているものはそれらです。ご自分の身体の細胞を慈しみなさい。そして、細胞を慈しむように、隣人を、自然を、世界の人々を愛するのです。世界は一つ、宇宙は一つです。