by Rainbow School
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人類をコントロールして来たもの

今の世界情勢や国内政治を見ていて、何か「荒っぽさ」というものが、増々表面化してきたとはお感じになってはいないでしょうか。

 

ひとことで言えば、優しさや配慮が、少しも感じられないのです。政治家にしろ評論家にしろ、どの人も、仲間内と敵を峻別し、敵に対しては、目を吊り上げ、口から唾を飛ばして、容赦ない悪罵を投げつける。そうやって人々の感情を煽っては、特定のターゲットへ世間のバッシングが向かうように誘導しています。

 

これは身近な人間関係でも言えることなのですが、相手を自分のコントロール下に治めたいと思った場合に、相手がなかなか言うことを聞かないとなった時には、そのやり口が、だんだんと荒っぽくなっていくものなのです。

 

最初は対等な話し合い(‥‥のフリ)。次がお世辞やおためごかし。それでもダメだとなると、今度は脅しに転じる。そして最後は決まって暴力です。

 

今の政治や世界情勢を見てください。三番目、四番目が、あまりにも大っぴらに横行しているじゃありませんか。敵を設定し、脅威と恐怖を煽り、証拠もないのに相手を悪と決めつけ、正義の名のもとに一撃を加える。一体どっちが悪なのか?と聞きたいです。それを、本来は政治を監視する側でなければならない筈の大手メディアが、率先して誘導しているのですから。

 

けれどもこれは、見方を変えれば、これまでのようなやり方で人々を言い聞かせることが、もはや難しくなって来ている、ということでもあるのです。つまり、いま表れている「荒っぽさ」というものは、彼らの「心の焦り」を、そのまま映し出しています。

 

ここで、人間というのは(私も含めて)つくづく愚かだなぁと思うのは、「荒っぽさ」を出せば出すほど、その人間の本質、本当の姿というものがあぶり出されてしまうということです。人間たちの大半はそれに気づいていないし、ちっとも学習しようとしない。そして何度でも同じ過ちを繰り返す。

 

結局、自分の中に住むエゴという欲や、自分がつくる感情の支配から抜け出すことがなかなか出来ない。そのために、そういう「荒っぽさ」を目にした時に、簡単に同調してしまうんですね。要は「波長が合う」ということです。普段は取り繕ってスマしている人であっても、エゴや感情が刺激されると、隠していた本音がパッと出ちゃう。地位、名声、栄誉、財産、美貌、体重、まったく関係ない!

 

しかしここが、今という時代における分岐点、どっちを選ぶかという(あなたにとっても、また人類にとっても)重大な分かれ道なんです。あなたはどちらの道だって、自由に選ぶことが出来る。「荒っぽさ」が演出する道に乗っかって、一緒に着いて行くことも、それを完全に無視して、マイウェイを生きることも。さてどっちにします? どっちにしたいですか?

 

このブログを読んで下さっている方は、当然、後者を選ぶと信じています。何度も書いて来ましたが、あなたはご自分の幸福を、ご自分で選び取ることが出来るんですよ。朝、窓を開けたら今日は雨が降っている。その同じ雨降りを、「困ったなぁ」と思ってもいいし、「清々しいなぁ」と思ってもいいんです。どっちを選ぶかはあなた次第なんです。

 

ここで、よ〜く考えてみてください。「荒っぽさ」が目立つようになって来ているのは、権力者による、今までのような支配方法の維持が、いよいよ難しくなって来ているからだということを。

 

最も楽な支配。それは、それがコントロールだとは少しも悟られないようにして支配することです。そのためには、自分たち(支配者)は陰にひっそりと隠れていて、人々の心理を巧みに利用して、社会システムによってコントロールしていく。そうやって、人々が、自ら進んで、自分に手枷足枷を嵌め、喜んで奴隷になるように仕向けていくのです。

 

ですから、よもや自分がコントロールされているとは、殆どの人は気づかない。この盲目の状態に、ちっとも目覚めない状態に、人類は数万年もの長きに渡って、延々と留め置かれて来たのです。

 

そのための人間心理を操る手段となったのが、恐怖と、洗脳と、依存です。人類は、何度も何度も転生を重ねる中で、時の為政者から、絶えずこの三つを繰り返し刷り込まれて来ました。その結果、今ではこれが、DNAにすっかり刻印されてしまったのです。

 

恐怖と、洗脳と、依存。そう聞いて、まっ先に何を思い浮かべるでしょうか? そう、宗教です。恐怖の予言をし、教義で洗脳し、教団や聖典に依存させる。この三つは宗教の常套手段。だからこそ、各時代の政治は、宗教を取り込むことを覚えたのです。その方が、だんぜん統治がしやすかったから。言い方を変えれば、コントロールしやすかったからです。

 

こうして、政治は学びました。外敵の侵略や、テロや、災害や、パンデミックや、お金のないことや、病気になることの恐怖を植え付け、学校と、会社と、マスコミを使って洗脳し、自分で考える力を削ぎ、金融や、医療や、インフラや、専門家や、支援というものに依存させる。このようにして人々は、まったく気づかないうちに、権力者の思う壷となり、奴隷にさせられているのです。

 

それで、何が犠牲となったのでしょうか?

 

人間が、自分を信頼するということを、すっかり忘れてしまいました。人間同士が信頼し合えるということを、すっかり忘れてしまいました。本来、自分は自由なんだということを、すっかり忘れてしまいました。生きているだけで幸せということを、すっかり忘れてしまいました。いつも大いなるものに抱かれ、守られているということを、すっかり忘れてしまいました。

 

いいですか、もう一度、言いますよ。あなたは、あなたの幸福を自由に選ぶことが出来るんです。

 

ところが近年になって、これまで長きに渡って人類を支配し続けて来たこのコントロール・システムに気づく人が多くなって来たのです。これには、インターネットによる情報革命と、みなさんには分かりにくいかも知れませんが、宇宙から届く光が非常に強くなってきて、今まで隠れていた闇が、光に照らされるようになったことが、大きく影響しています。

 

世界を支配する、いわゆる「闇の勢力」の本丸がどのようなものであるかを、今日では多くの人が知るようになりました。「お金」という人類支配ツールの実権が、この「闇の勢力」に握られているというカラクリも、多くの人が知るようになりました。過去の戦争がいつも「闇の勢力」のシナリオで起こされて来たことや、医療やマスコミや教育が、これら「闇の勢力」の完全な支配下にあることも知られるようになって来ました。

 

要するに、世界は、そして人類は、「闇の勢力」が描くお芝居の脚本の上に成り立ってきたということです。これには、理解に温度差がありますので、首を傾げる人も、反感を抱く人も、解っているよという人も、さらにもっと先の意味まで解るという人までいろいろでしょう。しかしここでお願いしたいのは、みなさんには、この「闇」を暴くことや、糾弾することに夢中になって欲しくないということです。

 

日陰を好む生き物に強い光が当たれば、彼らはそのままではいられません。放っておいても、その場を逃げ出すか、自分自身が光を好む生き物に変化するしかないのです。みなさんが暴くことや糾弾することに夢中になると、その日陰に同調することによって生じたエネルギーが、彼らに元気を与え、勢いづかせることになるのです。もちろん、あなたの波動も著しく下がります。

 

いま世界中で、破壊衝動が止まずに、むしろエスカレートしていっている背景には、それがあるのです。「テロを撲滅するために闘う」と言う。でも後ろに付けた「闘う」、それは暴力ではないのでしょうか? 暴力に、良い暴力と悪い暴力があるのでしょうか? あるとしたら、それは誰が決めるのですか? こんな馬鹿げた発想が、今も人類を支配しているのです。

 

「平和ボケ」とか「危機意識がない」などと言う人間たちのことは、無視しておしまいなさい。彼らは知らないのです。自分たちこそが、いちばん恐怖に洗脳され、コントロールされたロボットになっているということを。ロボットですから自由に生きることは出来ず、自由に生きようとするものを妬み、自分の方が優れていると錯覚して、揶揄したり攻撃したりして来るのです。

 

そういう彼らの内心は、混乱そのものです。

 

そんな彼らに同調することなく、あなたはあなたの理想を想い描き、そして行動してください。出来ることをやりなさい。個人としての理想、夫婦としての理想、家族としての理想、コミュニティとしての理想、社会としての理想、人類としての理想、生き物としての理想、地球としての理想、宇宙としての理想。それを鮮やかに、心の中に思い浮かべなさい。

 

混乱した時代だからこそ、それが今、何よりも大切なのです。集合意識のことは前に話しましたね。人類というものは、つまるところ個人の集合なのです。あなたが自由に生きたいと願い、自由に生きれば、そしてその楽しさ、嬉しさを表現すれば、そのメッセージが周囲の人々にも伝わります。そして、自由に生きる人が増え、人類をロボット状態から開放します。

 

ですから、人類の命運は、ひとえに、あなたの生き方に掛かっている。

 

何ゆえ、あなたが、この地球世界に生を受けたのでしょうか? ロボットになるためでしょうか? 恐怖と洗脳と依存にコントロールされるためでしょうか? そんなことのために、わざわざ神があなたを創ったとお思いですか? そんな馬鹿げたことを神がするとお思いですか? あり得ません。あなたが地上に生まれた目的は一つ。魂の赴くまま、自由に生きて、体験し、愛を知るためです。

 

世の中に蔓延する嘘や策謀を見抜きなさい。そして、それらの混乱した情報を発信している人たちを、まだロボットの段階にある人たちだと、正確に見てあげて、愛の波動で、その束縛を溶かしてあげなさい。世の中の混乱は、すべてカルマの浄化の現れです。増々混乱する時代だからこそ、あなたには、愛に生きて欲しいのです。

傷ついたんだって? 良かったじゃないか

傷ついたんだって?

身も心も、ボロボロなんだって?

もう、どうしていいか分からないって?

 

良かったじゃないか。

皮肉で言っているんじゃないよ。

真実を言っているんだ。

 

君が、傷つけるなんて、素晴らしいじゃないか。

傷つける自分を持っているなんて、凄いことじゃないか。

 

大人たちを見てごらんよ。

傷つけない大人が、どれほど多いことか。

 

どうして傷つけないか、分かるかい?

傷つくことを恐れて、嘘で自分を誤魔化しているからさ。

本当の自分を、誤魔化しているんだ。

 

傷つくってことは、気づくに「つ」を付けたもの。

つまりは、気づ付くだ。

それはね、気づ付いたんだよ。

何に? 本当の自分、真実の自分にさ。

 

本当の自分、真実の自分は、自由に生きたいって思っている。

本当の自分は、こんなんじゃないぞって分かっている。

でもね、それに制限が掛けられ、否定された時に、人は傷つくんだよ。

 

だから、気づ付けたってことは、

本当の自分を知る手掛かりに、一歩近づいたってことなんだよね。

それは、君に、君の魂が出したサインなんだ。

 

そのサインに、君は素直に耳を傾けた。

だから、気づ付くことが出来たんだよ、君はね。

それって、凄いことじゃないかい?

 

世間の常識やしがらみに雁字搦めになって、

それらに合わせようとして、

本当の自分を誤魔化し、

嘘をついて生きている大人たちの、なんと多いことか。

 

でも君はそうしなかった。

だから気づ付けたんだよ。

それって、素晴らしいことじゃないか。

 

さあ、勇気を出すんだ。

君は、君だ。

君を裁くことは誰にも出来ない。

たとえ君自身だって、自分を裁くことは出来ない。

君は自由なんだ。本来的に自由なんだよ。

 

その自由に、全幅の信頼をよせて生きるんだ。

そうすれば、魂の喜びが分かる。

幸福とは何かが分かる。

世間など、実にくだらないものだと分かるから。

 

いいかい、君は、君なんだよ。

だから、

自分を、思いっきり羽ばたかせてやろうじゃないか。

激動の時代をどう生きるか

軍産複合体に反旗を翻す者として、既成政治勢力の圏外から登場した筈のトランプ大統領が、なんと180度方向を転換、米国議会の承認も受けずに、もちろん国連決議もなしに、シリアにトマホーク59発を打ち込むという事件が起こりました。この後、Googleの検索で「第三次世界大戦」というワードの件数が、過去最高を記録したそうです。

 

そして、またもやこれが「正義」だというのですから、アメリカという国は、結局、変われないのでしょうか? この国際法にも違反している武力行使を、日本政府は支持(師事?)するというのですから、もうどうしようもありません。日本は、唯一の被爆国なのに、当の原爆を落とした国であるアメリカに遠慮して、核兵器禁止条約の交渉テーブルにもつこうとはしない。

 

先日インターネットを見ていましたら、北朝鮮が日本の原発にミサイルを打ち込むかも知れないのに、中国がいつ攻めてくるかも分からないのに、日本の防衛はこのままで大丈夫なのかと、半狂乱になって訴えている女性の姿を目撃しました。この女性は、今そう主張することが正しいことだと、完全に信じているのです。このような怯えが、いま世界中に広がっています。

 

何度も書いてきたように、詐欺に遭う(つまりそれを信じる)人がいなければ、詐欺師は成り立たないのです。

 

北朝鮮が攻めて来るか来ないか、アメリカが先制攻撃するのかしないのか、それは私には分かりません。そうではなくて、人類史の上で、何度も何度も繰り返されてきたこの惨劇パターンの構造に、もういい加減に気づきましょうよ、ということです。

 

繁栄を約束する一方で、恐怖を煽り、正義を主張し、暴力と殺人を正当化する権力者がいる。その権力者の言動を、丸ごと信じ込んでしまう民衆がいるから、人類の悲劇が止まないのです。

 

まさに詐欺師と被害者の関係です。

 

繁栄を信じて、貧困に叩き込まれるのは誰なのか? 民衆です。

企業間競争を信じて、奴隷にされているのは誰なのか? 労働者です。

地域の発展を信じて、環境破壊にさらされているのは誰なのか? 市民です。

正義の戦いを信じて、命を捧げるように強制されるのは誰なのか? 若者です。

 

そうやって、大衆はつねに使い捨てにされ、権力者のみが肥え太っていく。

これが人類の歴史です。

 

いったいなぜ、そんなことが繰り返されてしまうのでしょうか? そこには二つの理由があります。一つは、いま言ったように、大衆が権力者の言葉を信じてしまうということ。しかしそれは、裏を返せば、人々が自分を信じていない、自分のことを信頼していない、ということでもあるのです。実にこれこそが、地球人類をずっと奴隷化のもとに縛り付けて来た、最大の理由なのです。

 

そしてこの「自分を信じない」ようにさせるということが、教育によって、教科書によって、先生によって、親によって、マスメディアによって、広告によって、ブランドによって、資格制度によって、医療によって、宗教によって、政党によって、その他あらゆる組織によって、徹底して刷り込まれるのです。誰も意識していない、それは超巨大な洗脳システムです。

 

その結果、人々は「自分なんて取るに足らないものなんだ、しょせん無価値なんだ」と信じ込み、世間が提示するスケール(物差し)の中で、競争に勝たない限りは自分の存在意義はないと思い込み、身も心もボロボロになりながら、それでもまだ働いて、それで我が身を削っている。ああ、なんて不自由な世界に住んでいるんだろう? そうは思いませんか?

 

いま書いたことをサヨク的だと思う人がいるかも知れません。アホなおっさんが宣うタワゴトだと仰る方もたぶんおられるでしょう。でもね、あなたの視点を上に持っていってみてくださいよ。上に、上に。いやもっと上、地球全体が見渡せるくらいまで。そこで地球を、ふんわりと包み込むようにして見て欲しいのです。そうすれば、いま書いたことが、長期間にわたる単なる人類の観察結果だということが解りますから。

 

人類が今、瀬戸際にあることは、あらゆる点からみて間違いありません。みなさんは、(ゆっくり進行しているように見えて、実はあっという間の変化に過ぎない)その瞬間の、目撃者兼、参加者になろうとしています。でも、今ここに、まさに生きている以上は、ただ目撃者でいることは出来ません。ですが、参加者となる際には、いつも地球全体を暖かく眺めるという、この視点を忘れないでいて欲しいのです。

 

今の地球のこの混乱ぶり。みなさんは、政治的指導者、経済的指導者、宗教的指導者と言われて来た人々が、「なーんだ、この程度の人物だったのか」ということを日々目撃しています。別の言葉で言えば、目が覚めつつあるのです。今までは通用してきた権力者のつく嘘が、なかなか通用しづらくなっているのです。

 

そのせいで、嘘のレベルが、まるで子供だましのように稚拙化しています。彼らは、自分を守るために、他者に対して嘘をついていると考えていますが、そうじゃないんですよ。〈自分に対して〉嘘をついているのです。守っているのではなくて、自分を痛めつけているのです。それが、自分の魂にどれほどのダメージを与えるか、それを全く解っていません。実に愚かです。

 

それだけ彼らも必死なのです。政治にしろ、お金にしろ、組織にしろ、権力を握っている人というのは、ひとたび、その拠って立つ基盤を失ってしまったら、たちまちにして、自分の存在意義というものがなくなってしまいます。それは、彼らにとっては大変な恐怖です。ですから、ほとんど意識することなく、保身の策を次から次へと弄するのです。

 

権力構造にある人は、特定の集団体制でそれを維持していますので、仲間うちではお互いを庇い立てします。しかしこれを繰り返していると、嘘が嘘を呼び、そのうちに辻褄の合わないところが出てきて、嘘のレベルが幼稚化したり、仲間割れを起こしたり、一人に原因をおっ被せたりし始めるのです。権力者というのは、基本的に内と外を分ける、二元性に生きる、そういうメンタリティを持った人たちです。

 

そういう詐欺師たちに、人々が、どうしてこういとも簡単に騙されてしまうのでしょうか? それは、自分の中に潜む「感情」を、人々が刺激されるからです。権力者はこの操縦が非常に上手い。良いことも悪いことも、とにかく感情を刺戟するように訴えかける。あのヒトラーが、演説の際に、自分の手をどのように動かすかを写真を撮って検討し、何度も練習したことはご存知でしょう。

 

権力者は、感情の喜怒哀楽面、すべてに過剰な刺激をして、巧みにコントロールを入れてきます。ですから、このコントロールを見抜いて、それにやすやすと乗らないようにしなければなりません。すぐに飛びついていては、自分を見失ってしまいます。こんな時こそ、「いや、待てよ」と、視点をギューンと宇宙にまで上げて、ポッカリ浮かんだ地球を、暖かな目で見るようにして欲しいのです。

 

不安や恐怖を煽り立てて、人々をコントロールしようとするのは、彼らの常套手段です。ですが、実はそこには、彼らさえも意識していない、次のようなメカニズムが働いているのです。なぜ人々が、不安や恐怖を掻き立てるような情報に、過剰に反応してしまうのか? それは、自分の過去世や細胞内のDNAが体験して来た、魂レベルに存在する恐怖の記憶が、それによって誘発されるからなのです。

 

何十回、何百回と体験してきた過去世の中で、戦争で悲惨な体験をしたり、病死したり、餓死したり、殺されたり、反対に殺したりという体験がある。これらが誘発されて甦り、意識づけされて、自分の中に「こうなっては大変だ」という不安感や恐怖心をもたらすのです。ということは、あなたにコントロールを入れて来ているものの本当の正体は、実はあなた自身だということなのです。

 

このことを、しっかり学び取っていただきたいのです。自分の中に湧き上がる不安や恐怖。それは「誰か」のせいなどではないのです。結局「自分自身」なのです。驚かれましたか? しかしこれは朗報なんですよ。なぜなら、「誰か」をどうにかすることは出来ませんが、「自分自身」が真犯人であるならば、そうしたコントロール下にある自分を、自分の手で解放することが出来るからです。

 

ああ、なんて素晴らしいことでしょう。

そして、このメカニズムに気づき、自分で自分を縛っているものを解き放つことが、「カルマを解く」ということなのです。

 

ここで、「カルマと浄化」の関係について話をしましょう。いま人類は、大規模な「浄化」の時期を経験しています。そう言われて、「浄化」なのに地球のこの混乱ぶりは一体どういうことなのか、と首をかしげる方もおられることでしょう。けれども「浄化」というのは、言葉から受けるイメージとは違い、汚れを落としてスッキリサッパリ、というような感じのものではないのです。

 

カルマの「浄化」とは、それを「受ける」ことを言うのです。自分が出したカルマを、きっちり自分が受けること。それ以外に「浄化」はありません。ですから、誰かに(例えば霊能者に)カルマを取ってもらうといったことは出来ません。自分が撒いた種は自分が刈り取るのです。自分が出した波動は、自分に戻ってくるということです。これは宇宙の基本法則であり、どんな人であろうと「カルマの法則」から逃れることは出来ません。

 

さて一口に「カルマ」と言っても、個人のカルマだけでなく、家族のカルマ、家のカルマ、集団のカルマ、民族のカルマ、土地のカルマ、国のカルマ、人類のカルマ、地球のカルマと、様々な種類があります。これは、いつも言っているように、それらの正体が「想念エネルギー」だからです。まるで粘土細工のように、同質のものをくっつけることで形成されているのです。

 

ですから、今の地球の混乱ぶりというのは、人類のカルマ、地球のカルマに、正しく「浄化」が起きているということなのです。つまり、これまでに人類が出したカルマ、地球に与えたカルマに対する報いが、いま訪れているということ。その「浄化」の証拠を、今みなさんは目撃しているのです。

 

盥に(と言っても分からないか)、じゃあ洗面器に(と、これも分からない?)、じゃあね、幼児用のプールに水を張った状態を思い浮かべてください。あなたがその片端に指を突っ込んで、ピチャピチャと指を動かします。すると、波紋が周囲に広がって行きます。そして縁にぶつかった波が反射して、あなたのところに戻って来る。これが「カルマの浄化」です。

 

あなたの思いや行動が創り出すバイブレーションが、宇宙に広がって行き、影響を与え、そして元のところに戻って来る。この、出したものが戻ることによって、宇宙に平衡が保たれているのです。これは、振り子が逆振れする現象としても例えられます。宇宙の総体は変化ですが、そうやって、変化しつつ常に調和ポイントを見出しているのです。ですから、この「カルマの法則」というものは、絶対的なものです。

 

そして、「浄化」をちゃんと果たすためには、正しく「受ける」ことが必要なのです。きちんと「受ける」ことによってのみ、初めてその人に、反省や得心が起き、その「魂」が霊的に成長していけるわけです。

 

ところが、「受ける」ことを拒み、責任逃れをしたり、誰かに罪を被せたりしていますと、霊的な成長が見込めないばかりでなく、カルマを積み増しすることになり、いつかはそのツケをまとめて返済しなければならなくなるのです。

 

いま地球上に現れている「浄化」は、まさにそれです。これまでの人類のツケ、地球にしてきたことのツケの大返済が迫られているのです。しかし、そう言われて、どうにも納得できないという方もおられるでしょう。俺はそんな悪さをした覚えはないよと。

 

けれども、カルマの戻りは、一代のうちに完結するとは限らないのです。何代もの過去世に渡って拵えてきたカルマが、この時期に一気に戻って来ている。そのため、理不尽とも思える出来事が、あなたの身の上にも起きるかも知れませんが、過去世までほじくってみれば、必ず辻褄は合っているのです。

 

人類はこのことを理解して、よくよく反省しなければなりません。さて、あなたから見て、今の世界は、世界の指導者は、反省に目を向けているでしょうか?

 

絶望しないでください。この先、たとえどんなことがあっても、あなたという「魂」が、宇宙という大大大セーフティネットの上にあることは確かです。高次の存在から、愛され、守られていることは確かです。これも「カルマの法則」と同じく、絶対的なものです。100パーセント確実です。ですからあなたは大丈夫。問題は、そういう心境になれるかどうかです。

 

そこで、「自分を信じる、自分を信頼する」という強い意志が求められるのです。生活の中で、静かに内観する機会と習慣を持ってください。外から来る情報にいちいち反応していては、自分を信頼することなど不可能です。あなたはあなたであり、あなた自身であることが、自分をもっとも生き生きと輝かせ、楽しく、朗らかに、幸せに暮らせることを保証してくれるのです。

 

それ以外はありません。ネガティブな情報は受け流して、無視して、自分の生き方に専念してください。

 

ネガティブな情報は、あなたの感情を揺さぶり「お〜い、こっちの世界へ入って来いよ」と誘ってきます。そこに同調したとたん、それらのものに、自分のエネルギーを与えることになるのです。判断や反発することも同様です。そうやって、多くの人が翻弄され、エネルギーを与えてしまうから、それらの想念が生き続けることになるのです。ですから、受け流して、無視すること。

 

「カルマの法則」というのは、何も悪い事ばかりを言うのではないのです。あなたが愛を送れば、ちゃんと愛が跳ね返って来ます。ですから、周囲がどうであろうと、世間がどうであろうと、あなたは、正直に、誠実に、愛の心で、元気よく行動し、生きることが大切です。そして、そういうあなたのような人が、一人二人と増えていけば、人類のカルマ、地球のカルマまでもが変わっていくのです。

生と死の意味

長年に渡り訪問医療を推進され、家での看取りを続けて来られたある医師の今を記録したドキュメンタリー番組を見ました。

 

この医師は、90歳を超えて自身が癌を患い、在宅医療を受ける側となって、こう自問するのです。「在宅医療は天国だと、自分はずっと言い続けてきたけれども、これはひょっとしたら地獄かもしれない」と。天国から地獄へ。医師として、長年患者を看取ってきた立場から、看取られる立場に変わって、どういう心境変化があったのか?

 

「結局、医療をどうにかしたところで、生活の苦しみがなくならないことには何も解決しない」と、今になって気づいたんだと、その医師は語ります。そして、「だから、総合人間医療のようなものが必要だ」と思うに至るのですが、その答えが見つからないと言って、煩悶しておられるのです。

 

とても熱心で真面目な方です。「医師として」真面目すぎるくらい真面目です。

けれども、この方が、人生の終末期に差し掛かって、天から示された《学びのテーマ》は、明らかです。「医師として」ではなく、「患者として」でもなく、「人として」その日を迎える体験をするということです。

 

一般論とするために、「生活の苦しみがなくならないことには」と、ぼかして語っておられるのですが、この方にとっての「生活の苦しみ」とは、端的に言えば「死への恐怖」です。

 

人間、誰もが死ぬ。ですからそれは特別なことではなく、「人として」当たり前のことです。ところが、「医師として」のもう一人の自分が、その問題に介入して来るために、今ある状況を素直に見つめられなくなって煩悶しているのです。死にゆく自分と、生かし続けようとする医師が、自分の中で激しく闘っているのです。

 

これは、現代の「医療」が持つ、ある種の観念性の問題を端的に示していると思います。医療者は、生命が何であるかを知りません。生とは何か、死とは何か、自分がなぜ生まれてきたのか、死んだらどうなるのか、を知りません。ただ、「生きている」という状態、「死んだ」という状態に対する知見だけがあって、それで「生」と「死」というものを捉えているのです。

 

ですから、多くの人は、その時が来て初めて「自分は何も知らない」と気づく。知らないから、ただ「死」を忌み嫌い、恐怖し、「生きている」ことだけを善しとした医療行為を行い、延命治療に精を出すのです。そして、「いろいろ手を尽くしましたが、ダメでした」となってから、やっと関係者全員が「それなら、仕方ないね」と納得する。

 

これが、今の「死」に対する考え方、対処の仕方のスタンダードになっています。

 

しかしここで、考えていただきたいのです。「生」とは何か、「死」とは何かを知らないまま、(ということは人生の目的を知らないまま)いくら「延命」をしたところで、所詮この世でいうところの「死」は避けられません。だとすれば、現代医療というものは、結局は苦悩の時を長らえさせるだけになってしまっている、とは言えないでしょうか?

 

50年前には、今のような考え方は「常識化」されてはいませんでした。わずか半世紀で、常識が一変してしまったのです。自分が子どもの頃には、「寝たきり」という老人は殆ど見かけませんでした。基本的に、ピンピンコロリ(死ぬ直前まで元気で、脳溢血等でコロリと死ぬ)でした。病気で床に着くようなことになっても、ほどなくみんな死んだのです。

 

ですから、「ポックリ逝きてぇ」というのが、その時分の老人の共通の願いで、そのために多くの人が願かけ(ポックリ寺というものがある)までしていたのです。深沢七郎氏の『楢山節考』には、歳を取っても自分があまりにも元気なものだから、このままでは世代交代がうまくいかないと気にした老婆が、石で自分の前歯を打ち砕くという描写まであるのです。

 

ところが今は、介護ベッド、看護ベッドを自分のホームベースにさせられて、各種の検査データをしょっちゅう取られ、安静と服薬を誓わされて、ヨレヨレの状態になりながらも、でも「できるだけ長く生きること」が、関係者みんなの願いになっている。生きて何をするのか? 「生きる」質を問うことなく、ただ「生きている」という証拠だけが尊ばれています。

 

たぶん、あれは7、8歳の頃だったと思うのですが、「人間、死んだらどうなるのだろう?」「なぜ、自分は生まれてきたのだろう?」「死後の世界というものはあるのだろうか?」といったことの疑問が、しだいに膨らんで、親に尋ねてみたことがあるのです。ところが明確な回答はありません。それで学校へ行って、理科の先生に訊いてみました。でも、先生も知らない。

 

この時は、もの凄いショックを受けました。生きる理由を知らなくても、みんな生きている。疑問など持たずに生きている大人がいる、という事実にです。みんな平気な顔をして、毎日を生きている。それで、そんな疑問を抱く自分はおかしいんだろうか。そんなことを気にしている自分は、よっぽどの小心者なんだろうか、と思いました。

 

それからは、自分が人一倍小心者であるということを気づかれまいとして、そうした素朴な疑問を口に出すことは、一切止めたのです。代わりに、内部でブツブツつぶやきを始める習慣が始まり、そのうち、内部の声がうるさすぎて、頭の中が爆発しそうになったのです。

 

でも冒頭の、医師の例に見るように、終末期における煩悶は、結局、「人間なぜ生きるのか?」「死んだらどうなるのか?」という基本問題に、答えを見つけぬまま「生きている」ということから、発しているのではないでしょうか?

 

人は、人生にとって、重要な問題ほど後回しにする。

そして、どうでもいいことばかりに時間を費やして、大切な一生を終わる。

 

大人になってから、「生きる意味」を考える学問があるということを知りました。「哲学」です。「生きる意味」を考えることは、別にタブーでは無かったのです。ですが「哲学」では、この問いに、真の答えを見つけることは出来ないと、結局知りました。この世の「現象」から推論した、結果の世界の「哲学」には、自ずと限界があるからです。

 

なぜなら、宇宙の始まり、宇宙の存在に関しての合理的な答えが、「哲学」というものにはないのです。根本であるところの宇宙の存在に関しての答えが見つからないのですから、その上に「生きる」ことに、合理的な回答が得られる筈がありません。結局のところ、「現象」から、さらに奥の「因の世界」にまで踏み込んだ「宇宙哲学」に、答えを見つけるしかなかったのです。

 

けれども、「宇宙哲学(=真理)」を語ることは、依然としてタブーです。数学でも、科学でも、医学でも、哲学でも、「結果の世界」だけを語る者には権威が与えられ、「因の世界」にまで踏み込んで考えようとする者には、「トンデモ」とか「ニセ科学」とか「インチキ」といったレッテルが貼られ、罵詈雑言と、バッシングの栄誉が与えられるのです。

 

これはもう仕方がありません。解る人には解るし、解らない人には解らない、としか言えない。それは知識だけの問題ではありませんから。ある種の「感覚」の目覚めを伴うものですから。本当は、この「感覚」は誰でも持っていて、それを呼び覚ましたり、鍛えることも可能なのですが、この世の「常識」がそれを否定し、封印させているので、気づく人は本当に少ないのです。

 

人間の本質は「魂」にあります。肉体であるあなたが、あなたの全てなのではありません。それはあなたが選んだ、この世における活動のための器官なのです。一般に言われている「生」と「死」の境界は、実は大した問題ではなく、この世という三次元世界を生きるための、活動器官を持ったか、手離したかという問題でしかないのです。いわゆる肉体の死後も、あなたの「魂」は生き続けます。

 

そもそも、宇宙には「誕生」も「死」もありません。あるのは「生」の循環だけです。我々が「生きている」とか「死んだ」と呼んでいるものは、循環時の、ある変化の「状態」を特定して、「生きている」とか「死んだ」とか、勝手に名づけているだけなのです。

 

では、あなたにお訊きしたい。あなたは「宇宙」が「死んだ」のを見たことがあるでしょうか? 絶対に無いはずです。なぜって、あなたも「宇宙」の一員なんですから。その「宇宙」が死んだら、あなたも生きてはいません。「宇宙」が「死んだ」ことを分かる人は、もうどこにもいない。

 

結局、「宇宙」には、永遠の「生」しかないのです。ただ「変化(=無常)」のみがあるのです。それが「輪廻」と呼ばれる現象です。「宇宙」に「死」はあり得ない。ですから、「宇宙」の一員であるあなたにも「死」があるわけがありません。あるのは「状態」の変化だけです。それが「輪廻転生」なのです。

 

かりに私に、この世で言うところの「死」が訪れたとしましょう。かつて私を構成していたその肉体を庭先に埋めておくと、やがてそこからは植物が芽を生やすでしょう。その時、かつて肉体だった元素は、植物の栄養となるべくして使われたのです。つまり「生命」が、次のものに運ばれたのです。このように「宇宙」に「死」というものはないのです。

 

では「意識」はどうなるのでしょうか? 現代科学では証明されていませんが、「意識」はエネルギー体です。「魂」の「意識」は、脳を失っても、無くなることはありません。真のホームである霊界に帰還し、休息をとった後、そこでいくつかの選択肢を示された上で、地上での活動をもう一度経験したいと願う「魂」に対しては、その機会が与えられ、また転生してくることになります。

 

こうしたことは「知識」として知っただけでは不充分です。そこにある種の「感覚」というものが伴わないと、なかなか納得していただけないとは思います。しかし最近では、臨死体験や体外離脱体験を語る人も多くなりましたし、深い瞑想状態に至ることで、「宇宙」の永遠性と「魂」の存在の確証についての感覚をしだいに掴むようになることは可能です。

 

疑い深い人は、それでもなお、こうした超意識の感覚を、脳の活動のみによって説明しようとするでしょう。そういう人を説得しようとは思いません。ただ「体験してみては?」と言うことしか出来ません。どの道、地上の今の物質科学では証明することが出来ませんから。

 

しかし反対にこうも言えます。どんな地上の機器を使っても、「感覚」を丸ごと捉えることは不可能だということ。データというものは、「感覚」の一部を切り取って、ある指標(スケール)の上に置き換えたものに過ぎません。

 

あなたに、最近どうも体調が悪いという「感覚」があったとしましょう。そこでいろいろと検査をして、データを収集します。血圧がどう、血糖値がどうとか。その結果、「どこも悪いところはありません」と言われるかも知れません。でもあなたには、「いつもとは変だ」という「感覚」がある。この「感覚」を、他者に丸ごと示し、理解してもらうことは、不可能なのです。

 

しかしここで、驚くべき点に注目していただきたいのです。臨死体験や、体外離脱体験や、深い瞑想体験によって得られた情報が、古今東西で、ほとんど同じだということです。「宇宙」の永遠性や、「魂」の存在や、「輪廻転生」についても、太古の昔から同じことが繰り返し述べられているということです。

 

これは、私が何度も言っているように、「元は一つ」ということの間接的な証明になってはいないでしょうか? ですから、組織宗教になど頼る必要はないのです。霊能者のご託宣などを仰ぐ必要もないのです。何をどうしようが、帰るところは一つ。みんな一緒。ただ、早いか遅いかの違いがあるだけ、ということです。

 

いま言ったことを、信じる必要はありません。疑っていただいて結構なのです。けれども、唯物主義を振りかざす方に尋ねてみたい。あなたが、この世で「死」と呼んでいる現象を迎えたあと、自分がどうなると言うのか? そこには「虚無」しかないのか? 「虚無」しかないとすれば、それまであなたが生きて来たことに、どんな意味があったと言うのか?

 

この迷いこそ、医師が直面したものだったのではないでしょうか?

 

この世は栄枯盛衰です。どんな物も、あの世へは持っていけない。その通りです。ならば「生きる」ことにどんな意味があるのか? 何をやっても、人間、最後は死ぬのなら、人生に意味などないではないか? まさしくその通り。

 

でもちょっと違う。意味はないけれど、あなたの「意識」は残る。「魂」によって運ばれて、この先もずっと、ずっと‥‥。

 

さてそこで、

あなたの「意識」とは、常に〈今ここ〉のものである、ということに気づいて欲しいのです。

Be Here Now. 今ここ。

 

3分前にこういうことがあった。昨日こういう経験をした。学生時代にこういうことがあった。幼少時に親からこんなふうにされた。それは「過去」じゃないんです。「過去」なんてものはどこにもない。そういう体験をしたという、〈今ここ〉の想い、〈今ここ〉の解釈があるだけなのです。解りますか? あなたとは、あなたという「魂」とは、「〈今ここ〉を想う存在」なのです。

 

ルネ・デカルトは、そこでこう言いました。

Cogito, ergo sum 我想う、ゆえに我あり。

 

ということは、〈今ここ〉の想いを変えれば、「過去」の意味など容易に変わるということです。自分が変わるということなのです。そして、この「変わる」きっかけをもたらすものとして、人生におけるあなたの様々な「体験」がある。そのシナリオを、あなたは、霊界において、自分であらかじめ設定した上で、この世に誕生して来ました。

 

人が感じるあらゆる「不安感」の底には、結局のところ、「死」に対する誤った観念というものがあるのです。死んだら何もかも終わりだ。自分という存在が消滅してしまう。「死」は怖い。人生など所詮は空しい。そこで厭世的気分に落ち込む人がいる一方で、刹那的に生きたり、享楽に耽ったり、贅沢三昧をしたり、他者を支配したり、他人の財産を奪い取ったりする人が出てくるのです。

 

つまり、人が「死」と呼んでいるものに対する無智が、これまで地球人類の成長を阻んできた大きな原因になっているのです。

 

しかし、自分の本質は「魂」にあって、自分が「永遠に〈今ここ〉を想う存在」であると知れば、誕生の目的、そして人生の目的がどこにあるのかは、もうお解りでしょう? 成功でも、名声でも、何かを Get することでもない。様々な体験にチャレンジし、それを存分に味わい、そこに何かの意味を見出す(与える、創造する)ことです。

 

そうやって築いた、「魂」の意識だけが、次に運ばれるのです。

 

同じ体験も、辛いと想えば辛い。不幸だと想えば不幸。でも楽しいと想えば楽しい。幸福だと想えば幸福になる。すべては、「〈今ここ〉を想う存在」である、あなたの選択いかんなのです。そして、前者を出来るだけ手離し、後者の想いを増やして行った時、それを指して、宇宙では「魂」の成長と言うのです。

 

いま言ったことは、生と死の意味を正しく理解し、「魂」の永遠性に気づかなければ、どんなに「哲学」を学んだところで、解り得ないことです。結局は、最期になって煩悶する。人生は、そんなに難しいことじゃない。己を信じて、周囲に思いやりを持って、互いに助け合って、楽しく、生き生きと、〈今ここ〉を、思う存分体験すればいい。

 

体験だけがすべて。体験の「解釈」だけが、あの世へそして次の生へと運ばれる。ですから、その時には、辛く苦しいと思ったことでも、全部が役に立っている。あなたの「意識」の層を豊かに積み重ねるについては、全部の体験が貢献しているのです。「苦労は買ってでもしろ」と言われるゆえんです。

 

辛く苦しいことほど、ジャンピングボードのバネが厚い。つまりそれは、「魂」の成長にとって、飛躍のチャンスが与えられたということ。だからあなたも、この「宇宙の真理」を知って、日々をたくましく生きなさい。失敗などどこにもなく、あなたを責めるものなど何もなく、宇宙からは完全に愛されているということを、胸にしっかりと受けとめなさい。

生きにくい時代を、生きぬくために

私は、すでに還暦を過ぎているのですが、今の時代に20代であったとしたら、果たして生きていけるだろうかとよく思うのです。昔が良かったとは言いません。28歳まで自分はフリーターでしたし、風呂なしトイレなしの掘っ建て小屋に住んでいて、食事はそうめんばっかり。自分の将来が見えずに、押し寄せる不安感と闘いながら、ただクラゲのように漂っていました。

 

未来が見えない不安感というものは、人間にとって、とりわけ若者にとって、いつの時代にあっても共通のものだと思います。でも自分が20代であった40年前と今とでは、明らかに違うものがある。それは、社会にレールが敷かれていたということ。自分の不安感は、そのレールに乗らないことを選択した際の、心の揺らぎと、生活苦でした。

 

でも今は違います。今は、レールなんてものはないんです。お若い方はご存知ないと思いますが、このレールという比喩的な言葉は、当時「社会のレールに乗る」といった言い方で、実際に使われていた言葉なんです。それほど、社会の基盤というものがしっかりしていた。いい大学を出て、いい企業に入れば、老後までの人生設計がバッチリ描けたのです。

 

「サラリーマンは〜、気楽なぁ稼業と来たもんだ、ホレ」で始まる植木等さんの『どんと節』。映画『気楽な稼業と来たもんだ』(大映)は、大学卒業を真近に控えた学生たち(クレージー・キャッツの面々)が、先生(ハナ肇さん)に卒業後の進路を問われて、全員が「サラリーマン!」と答えるところから始まります。それほど「サラリーマン」は花形だったのです。

 

ちなみに、この『どんと節』の作詞は、前東京都知事だった青島幸男さん。東宝でシリーズ化された「無責任シリーズ」で主役を務めた時の、植木等さんの役名は「たいら・ひとし」。早い話が「平均」です。それが当時の、まさに平均的な男の生きる道だったんです。ですから、社会の底に、いざとなれば「サラリーマンになる」というセーフティネットがあったんですよ。信じられます⁈

 

今はその底が抜けちゃっている。非正規雇用者が実に4割というのですから、正規の職を得るのが大変ですし、得たとしても終身雇用の保障はない。それでいて、国は若者に年金を納めろと言うんですが、年金財政は実質破綻状態。しかも国の借金1000兆円超で毎年増え続けているというのですから、いやはや、植木等さんの時代からすると、日本はもの凄い転落ぶりです。

 

ですから、今の「生きにくさ」を考えた時に、一つには「社会システム」のヒドさというものがあることは疑いありません。けれども、現行の「社会システム」というのは、決して放っておいてそうなったわけではなく、また一夜にして出来上がったわけでもなく、「そうしたい」と願った人間がいて、その結果として、今のような社会が実現して来たわけですね。

 

その頂点には、もちろん権力構造を握る者と、さらにそれを操る者がいる。ですが、それだけでは、彼らが望むような「社会システム」は実現しない。そのヒドい「社会システム」の実現に、賛同し、協力する大衆がいてこそ、はじめてそれが実現する。「そんな馬鹿な!」と思うかも知れませんが、一つの社会というものは、そこに属する人間たち全員の相互協力によって創られているのです。

 

先ずは、そこに気づかなくてはなりません。あのドイツ第三帝国でさえ、アドルフ・ヒトラーただ一人で実現できたわけではなく、ヒトラーに賛同し、協力する大衆がいたからこそ、あのような時代が出現したわけです。およそ、いつの時代でも、大衆は、自分の中に潜むエゴを刺戟し、誘導する指導者を大いに好み、そして自らを困難な状況に追い込むのです。

 

今の政治状況をご覧なさい。一体どこに「理想」がありますか? 赤組白組に分かれて、やっつけ合っているだけです。赤の利権を守るため、白の利権を守るためなら、互いになんだってやる。不正をしようが、嘘をつこうが、相手をやっつけてしまえば全て許される。船が沈みそうになれば、船長は真っ先に逃げ出し、日和見主義者たちは次の船長へとあっさりと寝返る。

 

ですからね、いつまでも旗を振ってちゃダメだってことなんです。「赤勝て、白勝て」と言い合ってる不毛から、いい加減に脱しなければならないのですよ、人間は。どうして自分の思いを他者に仮託するのですか? 誰かに預けちゃうんですか? どうして政治家に「期待」などするのですか? 「期待」するから裏切られるんじゃありませんか。

 

「生きにくさ」の根本には、結局、自ら「自由」を放棄しているということがあるのです。いいですか、誰かに「自由」を奪われているのではないんですよ、放棄しているんです、自分でね。「自由」を放棄させるような「社会システム」に、喜んで参加しているんです。自らの意志によって。そうとは気づかないまま。そうやって、ゾンビになっている。

 

「自由」とは「自らに由ること」だと、前に書きました。「魂」は「自由」を求めて止みません。なぜなら、それがあったればこそ、一つのものから分かれて飛び出して来たからです。つまり「自由」であることは、「魂」の本分なのです。あなたという「魂」は、自分を表現したくてしたくて堪らない。ですから、何らかの理由によって、それが制限された時には、自動的に「生きにくさ」を感じるのです。

 

BS1で『奇跡のレッスン』という番組をやっています。各分野で実績のある世界有数のコーチがやって来て、日本の子どもたちに一週間ほどの臨時レッスンを行うという趣向です。興味がある回を観ているのですが、これを観ていると、どのコーチにも共通している点があることに気づきます。それは、

 

 〇劼匹發燭舛法⊆分で考えるようにさせていること

 ⊆分で創造することは、楽しいことなんだと気づかせていること

 そして楽しく創造できた時に、自分という存在を自己肯定できるということ

 

の3つを体験させているんですね。これは素晴らしいことで、「魂」の「自由」というものの本質をついています。ですから、子どもも親も、レッスンを受けた後は、みんな顔が輝いている。本当に目からウロコといった感じです。ということは、日本の教育現場に、いかにそういうものが無いかということを、逆説的に物語っているとも言えます。

 

自分が子どもの頃もそうでした。登校拒否というレジスタンスまでは、私はしませんでしたが(あ、逃亡は何度かあり)、授業時間は牢獄そのもので、退屈極まりなし。だから授業の予習復習なんてしたことは一度もなく、毎日工作ばっかりに明け暮れていました。

 

こと教育に限らず、今の日本の社会というものは、ぜーん部、上にあげた逆をやっているじゃありませんか。

 

 ー分で考えるという習慣をつけさせない(マニュアルに従え)

 我慢して乗り越えなければ、先はないぞと脅す

 人と比べて、劣っている自分というものに気づいては自己否定する

 

これらは全部「魂」が喜ばないことです。「魂」の本来のあり方や、希求とは真逆のあり方です。ですから「魂」は、自動的に拒否感のシグナルを発し、それが「心」に達した時には「生きにくさ」として感じ、身体細胞の意識とぶつかった時には、自律神経をかき乱し、パニックになったり鬱になったり、体が動かなくなったりするのです。

 

そこで、生きにくい時代を生きぬくためには、先ずこの「真理」を知った上で、「社会システム」に、自分を合わせる必要などない、と気づくことです。私の若い頃には、セーフティネットからこぼれ落ちるという恐怖がありました。でも今は、セーフティネットなどそもそもないのですから、腐った「社会システム」に適合しようとして、自分を痛めつける必要など、いささかもない!

 

「仕事ってのは辛いものなんだ」

「どこへ行ったところでみんな一緒」

「3年は少なくとも我慢しなければ社会人とは言えないね」

「この程度に耐えられなくてどうする?」

「働かなくちゃ喰っていけないんだぞ」

「ボーッとして休んでいる暇なんてないぞ」

「働け、働け!」

 

こんな圧力に屈しちゃダメだ。こんなものは全部ウソです。「魂」に正直に生きることをしなかった先輩たちが、自分への言い訳用に残した言葉に過ぎない。それは、後悔の念の自己正当化なんです。

 

このような「言い訳」をし続けた人たちは、死ぬ間際になってからやっと気づく。なんで自分は、あの時チャレンジしなかったんだろう。なんでもっと家族といる時間を大切にしなかったんだろう。なんで自由を謳歌し、もっと人生を楽しまなかったんだろう。

 

就社だけが仕事じゃないよ。「あなたのしたいことは?」「正社員になることです」って、違うでしょう? それは単に就業形態だ。私が訊いているのは、あなたの「魂」が望むこと。サラリーマンが気楽な稼業だった時代はもうとっくに終わっている。ブラックばかりの、奴隷労働しかない就業形態に、なんでいつまでもしがみつこうとしているのかな?

 

どうして農業に行かないの? どうして漁師にならないの? どうして職人を目指さないの? サラリーマンというセーフティネットは確かに失くなってしまったけれど、私の若い頃にはなかった良さだって逆にたくさんあるじゃないか。食べ物も家電品も家も有り余っているし、有用な情報はすぐに取れる。もっと智恵を働かせるんだ。

 

だいたい、パニックになったり、鬱になったり、自殺しようと思い詰めたりする人は(私もそうだったけど)、みんな真面目な人なのです。この真面目さ、責任感の強さというものを、会社のためにとか、同僚のためにとか、家族のためにではなく、自分のために、自分の「魂」が喜ぶことをするために、用いてもらいたいのです。そしてそれは、エゴではありません。

 

あなたが輝かずして、どうして周囲の人を幸福にできるでしょうか?

あなたが楽しそうに生きなくて、どうして周囲の人たちが喜ぶでしょうか?

 

真面目な人、責任感の強い人は、しばしば誤解をしています。周囲の人たちは、あなたをそれほど気にしていません。あなたの過重な責任感に、あなたが思うほどは頼っていません。みんなが、自分のことで手一杯なのです。そして、自分のことで手一杯の人を、責めることはできません。「魂」の学習とは、つまるところ、そういうことだからです。

 

あなたは、他の「魂」について責任を負うことは出来ません。あなたが負えるもの、責任を持てるものは、あなた自身だけなのです。ならば、責任をお持ちなさい。自分の「魂」を見つめなさい。「魂」の声に耳を澄ましなさい。そして、自分の「魂」が喜ぶことだけをしなさい。そういう自己に自信を持ちなさい。そして「魂」が拒絶するものについては、堂々と「私はイヤだ」と言いなさい。

 

社会システムを、あなた一人の力で変えることは困難です。ですから、自分が全くの無力のように思えます。しかし、あなたは選ぶことが出来るのです。灯りのない夜は怖いでしょうか? でも星空を眺めて、鈴虫の鳴き声に耳を澄ますことだって出来るんです。要は、あなたが何を選ぶかです。

 

たとえ同じものを見ても、人によって解釈はみな違います。その時に、どう見るかによって、その時の、あなたのリアリティというものが決定する。つまり、あなたの現実は、日々あなたが創っている。ですから、たとえ腐った「社会システム」の中に生きていても、あなたの物理的範囲内で、その現実を、あなたの「理想」に変えることは出来るのです。

 

そのことを学びなさい。そして日々の暮らしで実践して、こころ楽しく生きなさい。社会が提示する成功イメージなどは無視してしまいなさい。そうすれば解る。幸福というのは、「魂」が喜ぶ瞬間、そのひと時なのだということが。それ以外には、何もいらないということが。

エゴと人間性と霊性

地球人類は、いまだ小学生レベルにも達していない。これは地球人の霊性の発達度合いに関して、高次元の存在からしばしば指摘されている言葉です。あなたも、何かの本をお読みになって目にしたことがあるかも知れません。一体これはどういう意味なのでしょう? どうして地球人類は、小学生レベルにも達していないのでしょうか?

 

このことを考えるに当たっては、先ず人間の「意識」というもののあり方に着目しなければなりません。私たちは普段、自分の「意識」というものについて深く考えたことが殆どありません。自分の内側に湧き上がる、思考や感情や感覚やインスピレーションなどを、すべて「心」という、いわばオモチャ入れのBOXの中に放り込んで、それで済ましているのです。

 

これが、自分の「心」にどうにも治りがつけられない、ワケの分からないものにしてしまっている大きな原因なのです。自分が今ほしいオモチャを見つけようと思ったら、BOXの中を仕切って整理しておいた方が取り出しやすいでしょう? 全部を一緒くたにしていたら、表面上は整理されているように見えても、そのつど、箱の中を引っ掻き回さなくてはならなくなります。

 

私たちが普段「心」と呼んでいるものは、人間が持つ「意識」の中では、かなり限定的なものです。実際には、人間の「意識」というものはもっとずっと幅が広い。そのことは、「意識」の多層構造として前に紹介しました。多層構造の分類法と名称については各種がありますが、今回は「表層意識」「潜在意識」「深層意識」の三層で考えてみることにしましょう。

 

「表層意識」というのは、思考や感情や感覚などの、自分が普段意識している「意識」です。これがいわゆる「心」の大部分を形成しています。

 

しかしその奥に、普段は隠れているのですが、深く仕舞い込まれているもう一つの「意識」が眠っています。今は忘れてしまった幼少時の体験記憶や、過去世から引き摺っている恐怖、歓喜の感情、特殊な感覚などです。

 

これが「潜在意識」と呼ばれるものです。いわば塗装の際の下地のようなもので、表面的な意識はされていないのですが、下地として、知らず知らずのうちに「表層意識」に多大な影響を与えているのです。ですから広い意味では、「心」というものは「潜在意識」の支配下にあると言えます。五感が外部刺激を知覚した際に、その情報の解釈というものを、「潜在意識」が「表層意識」に与えているのです。

 

ところが、「深層意識」というものは、前の二つとはちょっと次元が違うのです。「深層意識」は「魂」レベルにある意識であって、「脳」とは関係がありません。肉体の有無に関係なく、あなたという「個」に備わっている、永続性を持った「意識」なのです。ですが、一般の人々にそのような知識はなく、想像もしていませんので、「潜在意識」よりもさらに無視される傾向にあります。

 

けれども、あなたの本質は「魂」にあると、これまで繰り返し言ってきたことを思い起こしていただければ、この次元における「意識」の重みもご解りいただけるのではないでしょうか? この「意識」は、常時「宇宙意識」と繋がっている意識であり、自己の深層に迫ることによって、あなたは自分が何者であるかということはもちろん、宇宙哲学の一切までをも知ることが出来るのです。

 

「地球人類は、いまだ小学生レベルにも達していない」ということの意味は、この「深層意識」の存在に、人々が全く注意を向けていないだけでなく、「潜在意識」からのネガティブな支配を、上手にコントロールする術すらも身につけていない、という段階にあるからなのです。しかし、いま地球に迫りつつある大転換は、人類の学習を一挙に飛躍させる大チャンスともなっているのです。

 

私たちの「表層意識」は、「エゴ(ego:自我)」を中心に動いています。この「エゴ」というのは、地上で肉体を持って生活する際に、「生き延びる」ということの必要性から、派生的に〈人間に〉誕生した性質です。ここで注目すべきは、人間以外の動物は「エゴ」を持っていないということです。「弱肉強食」と言われる肉食獣の世界ですら、「エゴ」に従って生きているわけではないのです。

 

自然界には食物連鎖という仕組みがありますが、食物連鎖の上位に位置する動物は、下位に位置する動物を必要以上に食べ尽くしたりはしません。そんなことをしたら、種(しゅ)を継続させていけなくなることを知っているからです。羊は弱いものの象徴ですが、旺盛な繁殖力を持つことで肉食獣に対抗しています。逆にトラやライオンや熊は、力は強くても繁殖力が弱く、個体数が増えません。

 

このように、自然の仕組みはすべて循環型で出来ており、循環の中にうまく調整されているのです。それは彼らが、「生命」というものの意味(つながって行くもの)を、本質的に理解しているということを示しています。ところが人間だけが理解していない。人間は、故意に、不必要な殺生までしてしまう。時には人間までをも殺す。人間は、そこに「エゴ(自我)」をプラスしてしまったのです。

 

「自然界はバランスのもとに自動調整される」ということを、今の人間はまるで信じていないのです。「この世に不足は何もない」「すべてが満たされている」ということを、ある時点から、信じることを止めたのです。その代わりに「全員には行き渡らない」「だから早い者勝ちだ」「そして、他人より多く溜めるんだ」ということを信じたのです。

 

ここから、独善、身内贔屓、他者排斥、攻撃、収奪欲、支配欲、功名心といったものが生じたのです。みなさん、そこで考えてみてください。今の世の中の根底に流れている価値観とは、どういったものでしょうか? 全部、いま上げたものです。結局、「エゴ」が溢れている社会では、「エゴ」に長けた人がもてはやされ、組織の上に君臨できるようになっているのです。これが今の地球人類です。

 

ところが、それを前面に出し続けておりますと、当然ながら社会に著しいアンバランスが生じます。これを、人類は未だにコントロール出来ていません。

 

ある人は、だから倫理や道徳を教える「徳育」というものが必要なのだと力説します。しかし「徳育」の中身は、(所詮は人間であるところの)施政者が考えるのですから、「エゴ」の上に、施政者の(それが正しいと信じる)思惑で蓋を被せるだけのことです。すると、今度は別の問題が生じて来ます。「徳育」が示す「観念」に、人々が縛られてしまうのです。

 

「徳育」と言うと、一見よいもののような感じがします。けれども、それに類するものは過去にもさんざん行われて来たのであって、社会体制が変わると、価値観が180度ひっくり返るということもよく起こりました。いい例が、戦後の教科書の墨塗りです。同じ教師が、戦前に自分が教えていたことを全否定した。生徒にしてみたら、正に青天の霹靂だったことでしょう。

 

人間が持つ「エゴ」を、いくら「教育」で抑えようと思っても無理なのです。社会が、政治が、金融が、企業が、マスコミが、教師が、親が、みんな「エゴ」に縛られ、「エゴ」の下に動き、「エゴ」をけしかけている今の世の中では、「徳育」など単にジョークでしかない。政治家やマスコミや大人が「いじめ」が大好きなのに、子どもたちに「いじめは止めようね」と言って、そんなもの効くものですか。

 

ですからね、視点をジャンプさせなければならないのですよ。先ずは自分の「エゴ」を認めること。「エゴ」のプールに浸りきっているから、自分の「エゴ」にみんな気づけないのです。いったん「エゴ」のプールから出て、自分を冷静に見つめ直すこと。「エゴ」への埋没状態から抜け出すのです。プールから上がるのです。タオルで濡れた体を拭くんです。そうやって、ようやく反省が起きる。

 

ことここに至って、人類はようやく小学校入学ていどには成長できるでしょう。そして次の段階へと進む。それが次の段階、「人間性(humanity)」の学習です。独善、身内贔屓、他者排斥、攻撃、収奪欲、支配欲、功名心といったものから脱して、代わりに、同情、共感、いたわり、慈しみ、思いやり、手助け、シェア精神、博愛、といった感情や思考や感覚を体験して行くのです。

 

あなた方が、この世に生まれてきた第一の目的は、これらの体験を積むことにあります。それまで野放し状態にしてきた「エゴ」からジャンプして、一段上の「人間性」を身につけて行くのです。この時、何より大切なことは素直さ。人は多くの観念体系に縛られて生きていますが、これらを持たない人ほど豊かな体験ができるのです。「信念を持たないように」と言っているのはそのためです。

 

自分に制限を設ける人は、それだけ体験できる感情や感覚の機会を遠ざけます。また、体験できる「意識」の広がりを減らした分、凝り固まった「信念」をますます強化させて行くので、これがカルマとなって、ちっとも成長が得られないまま、何度も輪廻転生を繰り返すことになるのです。イエスが「幼子のように」と言ったのはこのためであり、子どものような好奇心に返れという意味なのです。

 

さて、「人間性」を向上させることは、人がこの世に生まれて来たことの第一の目的ではあるのですが、「魂」の成長の観点からすれば、これでもまだ充分ではありません。豊かな「人間性」を持つということは、なるほど素晴らしいことです。ですが、それだけでは人間が抱えている本質的な矛盾に、答えを見いだすことは出来ません。次の「霊性(spirituality)」の段階にまで進まなくてはならないのです。

 

なぜかと言いますと、「人間性」というものは、「エゴ」に対する反省から生じたもので、いまだ肉(脳)に留まった感覚に過ぎないからです。この段階では、人はまだ「善悪二元対立」の中に解決策を見出そうとします。

 

そして、悪を憎み自分を善的なものであろうとする。それは「エゴ」に比べれば、確かに一歩進んだ状態ではあるのですが、二元対立から生じる「葛藤」から抜け出ることまではできません。そこには、根本的な錯覚があるのです。

 

先日、ルワンダの虐殺事件の、その後に関するドキュメンタリーを観ました。ルワンダでは1994年にフツ族とツチ族との間で内戦が起き、推定では80万人ほどが亡くなったと言われています。このとき攻撃に使われた武器が、ふだん農耕用に使用していたナタで、これで人を次々と叩き殺したのです。しかもこの信じがたい規模の虐殺は、隣人間で起きた。

 

この事件は、人間が持つ「観念」と、それが集合体となった際のエネルギーが、間違った方向に使われた場合、すさまじい破壊力になるということの一つの実例です。お隣さんをナタで殺すなんてことは、人としてあるまじき残虐さだとみんな分かっている。でも「そうすることが正義」とアジる人がいて、同調圧力が一気に高まった時には、このような信じがたいことが実際に起きるのです。

 

その虐殺を行った加害者が、20年の刑期を終えて出所し、村に続々と戻って来ている。その結果、加害者と被害者遺族が、再びお隣さん同士として生活していかなければならないのです。どちらも大変な苦しみを背負っています。一体なぜそんなことになってしまったのか。ここで、「エゴ」と「人間性」との間に、もの凄い葛藤が生じることになります。(それが成長の機会なのですけれど‥‥)

 

そもそも、人間に「エゴ(自我)」がどうして生じたかと言いますと、「魂」の独立というところに原因があるのです。これは、例のアダムとイブの楽園追放という物語の中に、象徴的に表されています。アダムとイブは蛇にそそのかされて、禁断の木の実(それは「智恵」の果実なのですが)を食べたことによって、楽園から追放されてしまいます。

 

この時に、木の実を食べたアダムとイブは、互いが裸であることに気づいて、慌ててイチジクの葉っぱで陰部を隠しました。これが「自我(ego)」の芽生えということを表しています。それまでは、裸であるということをべつだん意識していなかったわけですね。さて、この時の「智恵」とは何だったのでしょうか? それは「分ける」ということだったのです。

 

このブログでは、「三角形の法則」として何度か紹介していますが、もともと一つだったものを、△の左右の辺のように二つに分けた。ご承知のように、イブはアダムの肋骨から創られました。つまり元々一つだったものが、「智恵」を獲得した途端、「分離」という概念が生じ、男と女という「二元性」を意識するようになったのです。

 

この「二元性」は、プラスとマイナス、上と下、大と小、東と西、S極とN極、昼と夜、白と黒、左スピンと右スピン、オスとメスといったように、万物すべてに見ることができ、その一環として、「善と悪」という概念も生じたのです。このようにして、末広がりに万物が生じて行った。そこで、末広がりの「八」を「刀」で切るという文字が「分」になっているのです。

 

さて、アダムとイブの物語では、「智恵」の木の実を食べたから「善悪」の概念が生じたということになっています。がしかし「神」は全てですので、アダムとイブも「神」の内側ですし、蛇も「神」の一部です。ですから、蛇がそそのかしたのではなく、「神」が自ら希望して自己の一部を宇宙に解き放ったのです。その時に、副産物として「善と悪」という果実が実った。人に、自由意志が与えられた結果として。これが真相です。

 

つまり、一つだった「宇宙意識」から、個々の「意識」=「魂」が分離した瞬間、その「魂」に自由意志が与えられたのです。このことは、後に「魂」に決定的な二律背反の感情をもたらしました。それは、分離状態を謳歌して、自由意志をとことん行使したいという欲求と、元の一つの状態に帰りたい、つながりを回復して安心したいという欲求です。

 

この「分離」と「合一」という二つの相反する欲求は、どんな人の中にもあります。その中で、「エゴ」の強い人というのは、「分離」意識が非常に強くて、万物は一つという「合一」の感覚を、殆ど忘れてしまった「魂」なのです。言うなれば、地上に降りて来てからの成長が遅れている。しかしそのような「魂」であっても、いつかは成長を果たして帰るのですから、無闇に排斥したり攻撃してはなりません。

 

それよりも、人類全体としての大問題は、実は「魂」としては成長の遅れている「分離」主義者が繰り出す扇動に、(ルワンダの例を見ても解るように)大衆がいとも簡単に引っ張られてしまうということです。どんな人間の中にも「分離」と「合一」という相反する欲求が同居しています。けれども、「エゴ」に長けた「分離」主義者は、巧みに敵を設定し、人々に恐怖心を植え付けては「分離」意識の高揚の中へと大衆を引き込むのです。

 

なぜだか解りますか? そうすれば、自分がそのピラミッド構造の頂点に立てるからです。自分の「エゴ」を満足させられるからです。

 

兵隊がいなければ、戦争は出来ません。甘言に引っ掛かる人が誰もいなければ、詐欺師は成り立ちません。こうした構造は、みんな両者の協力によって成り立っているのです。このカラクリに、いまだに気づけないということが、地球人類の大きな課題です。つまり、地球人類は、与えられた「自由意志」の、よき使い方を知らない。その結果として、人類は、何度も何度も同じ過ちを繰り返しているのです。

 

「戦争」が悲劇しかもたらさないということは、みんな知っています。「環境破壊」が人類の生存そのものを脅かすことも、みんな知っています。「お金」の魔力が時に人を堕落させることも、みんな知っています。それでも、「戦争だ」「テロだ」「原発推進だ」「経済成長だ」「金融資産だ」と言う指導層の声に刺激されて、人々は導かれて行くのです。自分の中に眠る「エゴ」が、同調して喜ぶから。

 

ここで明確に述べておきますが、人は、あきらかに誤りだと認識したものを、何度も何度も経験する必要はありません。体験は重要ですが、宇宙に残るものは結局は「思念」だということを前に申し上げました。ですから、たとえば原爆というものの悲惨さをとことん認識すれば、その「思念」は、体験したことと同じものとなり、その痛みを思えば、再び「核戦争」をする必要など全くないのです。

 

これは全てのことについて言え、環境破壊も、原発事故も、テクノロジーの暴走も、貧困も、金融システムの崩壊も、一度経験すれば、それでもう充分なのです。それなのに、人類が何度も何度も同じ誤ちを重ねるのは、人類全体として見た場合の学習効果が、ほとんど見られないということです。いまだに、幼稚園レベルを行ったり来たりしている情けない状態だということです。

 

その根本原因はどこにあるのでしょうか? それは、地球人類の大多数が「因の世界」を知らないということ、これに尽きるのです。結果を見て、「結果の世界」を論じているに過ぎないということ。ですから、その奥にある「真理」が理解できずに何度も馬鹿げた騒動を繰り返しているのです。そしてその度に、苦悩し、涙を流し、「もう二度とゴメンだ」と固く誓い、しばらくすると、その誓いを忘れる。

 

「因の世界」の「真理」とは実にシンプルなものです。全部は一つ、一つが全部ということ。輪廻の背後にあるものは、「分離」と「合一」の繰り返しであって、私たちには、その間において、創造的体験を積むために「自由意志」が与えられました。ですから私たちとしては、その与えられた「自由意志」というものを、「真理」に沿って行使し、生きるだけなのです。

 

「自由」とは何か? それは束縛から逃れることではありません。「自らに由る」という意志を示すこと。それが真の「自由」。つまり「ありのまま」です。あなたの「ありのまま」とは何でしょうか? あなたの本質であるところの「魂」が、万物とつながっているという感覚を取り戻すことです。あなたが先ず、それを取り戻してください。そうすれば、人類は変わります。

宇宙の健全、身体の健康

これから書くような知識を、あの時に自分が持っていたら、死をまぬがれることは出来なかったにせよ、もっと違った展開になっていたかも知れません。いや、たとえ自分だけが知識を持っていたところで、本人も、医者も、医療関係者も、友人知人も、親戚も、マスコミも、ほぼ全部が現代の医療システムの中に埋没している状況下では、やはりどうにもならなかったことでしょう。

 

あの日あの時、カミさんの癌死という手痛い出来事を体験させられ、いかに自分が馬鹿であったか、未熟であったか、無智であったかを痛感し、そして今日があります。やはりその体験は必然で、今では「伝える」という役目を果たすために、自分が選んだ学習だった気がしています。そのストーリー創りに、彼女は身をもって協力してくれたんですね。

 

さて、いきなり核心に迫る質問です。

あなたは、「宇宙」に病気があると思いますか? 言い方を変えると、「神」が病気になることがあると思いますか?

 

「神」とは全てです。宇宙の総体です。創造主であり同時に被創造物です。従って宇宙には、(特定の宗教で強調されているような)罪や罰はありません。もし罪と罰があるとするならば、「神」は、おイタをする自分の左手を、自分の右手で「コラ!」と言ってひっぱたくということになってしまいます。まるで、漫才のボケとツッコミを一人でするようなものです。こんなバカな話はありません。

 

同じように、宇宙に病気はありません。総体であるところの「神」が、どうして自分で自分の病気を創り、自分で治す必要があるでしょうか? つまり宇宙は、そのままで、ありのままで、まったくの「健全」だということです。言い換えれば、宇宙はつねに「健全」であるように「生きている」ということ。「健全」のもとに自動調整されるということ。それが宇宙の本質であり、真理だということです。

 

ところで、あなたという存在は何であったでしょうか? そうです、「神」の落とし子です。だとすれば、「神」の一部であるあなたが、「病気」になるわけがありません。本来、人間に「病気」はないのです。ところが人間社会では、「病気」が頻繁に見られます。他の動物よりもはるかに高い割合で「病気」なるものが発生しています。これは一体どうしてなのでしょうか?

 

その答えは、前に書いた文中にあります。人間が、「ありのまま」に生きていないからです。自然界に生きる動植物も、人間に飼育された途端に病気になりやすくなるのは、「ありのまま」に生きられなくなるからです。そして人間は、「ありのまま」を忘れただけでなく、「健全」のもとに「自動調整される」ことを信じなくなりました。その代わりに、こう信じた。

 

人は病気になるものだ。齢をとったら体にガタが来るものだ。世の中には病原菌や危険なウイルスが溢れている。病気予防に定期健康診断を受けなさい。早期発見早期治療が大切です。ちょっとおかしいと思ったら、自己判断をせずにすぐに病院へ。今はいい薬がどんどん開発されているし、ハイテクの高度医療機器だってあります。でも、ちとお金が掛かるのね。だから、まさかの時に備えて保険にはちゃんと入っておきたいものですね。

 

過去半世紀で、この刷り込みが、あまりにも壮大な規模で、あまりにも徹底したものですから、今ではその宣伝に疑いを差し挟む人など、ほとんどいません。その延長上に、健康食品ブームがあり、多くの人があれを飲まなきゃ、これを食べなきゃと、ほとんど強迫観念のようにして摂取しています。

 

でもおかしいとは思いませんか? そうやって医療費や健康関連の支出がどんどん増えているということは、健康〈不安〉産業の成長が止まらないということなんですよ。もし本当に「健康」が図られるのであれば、また実現されるのであれば、これらの支出は減っていかなきゃならない。でも逆に増えている。ということは、今のシステムが根本的に間違っているということを明白に示しています。

 

今こそ、あなた方は、「健康」の源泉がどこにあるかということの宇宙的な知識と、「ありのままに生きる」ということの意味を学ぶ時です。

 

宇宙に、想念なしに実体化するものなど、なに一つありません。これはすでに何度も書いてきたことですが、宇宙の根本原理として、ぜひ頭に入れておいて欲しい事柄です。またここで「実体化」と言った時に、それは必ずしも形あるものだけを意味しません。他ならぬ、想念自体(思考や、感情や、感覚など)が、すでに「実体化」なのです。

 

「想念」は目には見えませんが、振動するエネルギー体であって、それ自体がパワーを持っています。その証拠に、「想念」を他者に伝達して影響を与えることが出来ます。たとえば上司が部下に命令を下す。この時、通常は言葉を使うわけですが、それは言語に変換されたところの上司の「想念」なのです。そして、言葉を受け取った部下は、次にこの言葉を自分の「想念」に再構成します。

 

このようにして、普段あまり意識することはありませんが、人間は「想念」パワーによって、互いに周囲に影響を与え合っているのです。今のは言葉を使った例ですが、「目は口ほどにものを言う」という諺もあるように、人はテレパシック(telepathic)な伝達も日常的によく行っておりますし、中には植物と会話したり、動物と会話できるという感覚を持つ人だっているのです。

 

一方、身の回りにある道具や衣服などが、すべてその製作者の「想念」を下敷きに創られたものであるということはすぐにお分かりでしょう。では、物質化している「想念」と、物質化に至っていない「想念」とは、何がどう違うのでしょうか?

 

私たちはみな肉体を持ち、三次元(3D)の世界に身を置いているせいで、自分の周囲をつい「物」ベースで見て、あるとかないとかと言う癖があります。でもここで、ちょっと想像力を働かせ、ドラえもんのポケットの中から、見えるものと見えないものが逆転するメガネを取り出して掛けてみてください。すると、物質化している・いないに関わらず、様々な「想念」が行き交っている姿が見えることになります。これが、いわゆる霊的世界なのです。

 

霊的世界においては、物質化しているかどうかということは大きな問題ではないのです。たとえばあなたが、あることの実現化に向けて、Aプラン、Bプラン、Cプランを構想したとしましょう。あなたにとっていちばん思い入れが強かったのはAプランだったのですが、諸般の事情でBプランが実現化したとします。この場合、霊的世界においては、BよりもAプランの方が「実体」として強く残り続けるのです。

 

つまり、霊的世界というのは「想念」だけの世界であり、ですから消滅することはなく、永遠に記憶として残り続けるのです。一方、物質化された世界というのは、エネルギー体が振動数を下げた時に出現する世界であり、物質の元となる素粒子は、吸引、反発、粘着、凝集という四つの力の作用によって、絶えず離合集散を繰り返します。これが、物質界の掟、いわゆる「無常(常なるものは何も無く、全てが変化し続ける)」です。

 

*実際には、霊的世界に「時間」というものはないので、この言い方はおかしいのですが、三次元に住む我々には「無時間」という概念が理解し難いので、仮にそう表現しています。

 

よく、「この世は幻」とか「この世は映し絵」と言われるわけは、このような理由によるものなのです。つまり、あなたという「魂」が真に〈生きて〉関わっている世界は、実は霊的世界の方なのです。この世は、物質世界でしか味わえない体験学習をするために、あなたが自ら希望して入学してきた寄宿舎つきの学校というわけです。

 

ですから、高い授業料(生涯費用2億円!)の、元をしっかり取って帰らないといけませんね。はて、あなたは、元、取ってるかな?

 

あなたに限らず、人間たちは、たいてい自分の身体というものと意識というものを、分離して考えています。特に、脳科学がクロースアップされるに連れて、この傾向はますます強まっています。しかし、これまで述べて来たように、すべての物質には、それが成立するための理由(四つの力を組み合わせて行使している原因)があります。言い換えれば、背後に何らかの「意識」があるのです。

 

ということは、あなたの身体も、身体を構成する各器官、各細胞も、脳とは別の「意識」を持っているということなのです。あなたの皮膚上にある古傷がそれを証明しています。皮膚細胞はどんどん新陳代謝を繰り返しているのに、古傷が生じた際の記憶は、新しく作り出される細胞にもちゃんと伝達されているのです。

 

さてこの「意識」ですが、以前にも述べたように、多層構造を為しています。この分類や呼び方については各種のバリエーションがありますが、今回は、その意味をもっとも的確に表現していると思われる「sense mind(感覚的な意識)」と「cause mind(原因の意識)」という言葉を使って説明しましょう。「sense mind」が顕在意識、「cause mind」が潜在意識(無意識)に当たります。

 

あなたがいま借り受けている身体は、いくつかの系、系を構成する器官、器官を作る細胞、細胞を作る分子、分子の素である原子、原子を構成する素粒子という階層構造で構成されています。ここまでは現代物理学においても常識化されています。がしかし、素粒子というものも、結局は万物を形づくっているたった一つの原因、無形の振動するエネルギー体(Sprit)から生じているのです。

 

この「Sprit」は、物質が形成される際のたった一つの根本的原因なのですから、宇宙全体は常に「Sprit」のもとに連動しており、それゆえ「宇宙意識」と繋がった状態での個別の「意識」を持っているのです。これが「cause mind」、因の意識です。ここで「宇宙意識」は、別名「神」の意識と言ってもよいわけですから、結局「cause mind」は、「神」の意識に従っていると言えるのです。

 

もし人が、「cause mind」だけの意識体であれば、人間は病気にはなりません。なぜなら、「宇宙」は完全に「健全」のもとに働いているからです。ところが人間は、「sense mind」を、「cause mind」の上に上乗せする形で動かしています。これは物質世界を知覚し、物質世界を生きるための方策として必要なものであり、いわゆる五感というセンサーから取り入れる情報により形成されています。

 

ここで問題が起きるのです。「sense mind」が、「cause mind」を無視した自由な振る舞いをするということです。しかも、一般的に言って、「cause mind」が自分の身体の深部を支えているという認識を持っている人は、ほとんど皆無に等しいのです。その結果、多くの人間は、与えられた自由意志をエゴに突き動かされる形で行使しているのです。しかもこのエゴには、前世から引きずった意識が含まれているのです。

 

するとどういうことが起きるでしょうか? 「sense mind」と「cause mind」の意識内衝突です。「cause mind」は、深いところで「宇宙意識」に沿った生き方を希求しているのですが、エゴが創り出した「sense mind」がそれを否定し、「こっちの方がいいよ」というメッセージを自分に送り出します。そしてメッセージは、直ちに全身に伝えられ、身体を構成している細胞に影響を与えるのです。

 

このようにして、両意識間に生じた軋轢が、調和を乱し、「病気」というものを発生させるのです。人間社会では、ひとこと「ストレス」で片付けられていますが、その背後にあるメカニズムはいま言った通りで、「ストレス」があらゆる病気の元というのは、正しい見解です。こうして軋轢に精神が耐えられなくなれば、心に病いが生じ、身体が耐えられなければ、そのエゴの性質に対応した身体の箇所に病変を創り出して行きます。

 

*このエゴの性質、言い換えればあなたという「魂」にとっての今世における課題と、生じた病変箇所との関係については、対応表が出来ています。が、今回は説明を割愛します。

 

ここで、おそらくこういう疑問を持たれる方もいらっしゃることでしょう。自分がそれを選んでいるのだとすれば、なぜわざわざそんなムダと思えることをするのかと。しかしこれこそが、この世でしか体験出来ない学習というものであり、自分の周囲で起こるあらゆる出来事同様、「病気」も、使い方によってはその人の「魂」を成長させる大きなジャンピングボードと成り得るのです。

 

要は、そこにどんなメッセージを感じ取るか、そして次に活かしていくかということです。そしてこれが、本ブログのタイトルにもなっている『気づき』なのです。本稿をお読みになって、あなたが「宇宙の健全」と「身体の健康」との密接な関係に気づき、「sense mind」を「cause mind」と調和する生き方を選択して行くとき、あなたは「病気」の不安から解放されます。これが「ありのまま」に生きるということです。

 

また今「病気」を患っている方も、そこから受け取れるメッセージをよく吟味し、「宇宙の法則」に則った生き方をするように、日々心がけていれば、しだいに健康を回復して行きます。あなたの身体を創造しているのは、間違いなくあなたの「意識」です。身体は、そして表情は、あなたの「意識」の鏡であり、あなたの今の「意識」のあり方を、そこに正しく映し出しています。

 

ですから、先ずは自分の「心」の有り様を見つめ直してみてください。いったい自分のどこがいけなかったのか? そして改めるべきは改め、次に向かってください。その際、「病気を治す」とか「病気と闘う」とは思わないでください。ただただ、元気で、活力に満ちて、朗らかに、心を清々しくして、満面に笑顔を浮かべている自分の姿を強く強く想像してください。

 

その上で、適切な呼吸、適切な食事、清浄な水の摂取、血行を促進し身体をほぐす運動を心がけ、一日の中にリラックスタイムを頻繁に設けてください。

未来は明るい。そのことに自信を持って、この体験の機会を活かして参りましょう。

神はかくも雄弁に語る

このブログを書き始めたころは、まだ「神(God)」という言葉を使うことに抵抗があって、かなり慎重になっていました。というのも、人によって「神」という言葉から受けるイメージや定義は様々ですし、各宗教・宗派がこの言葉に込めて教えて来た手垢がたっぷりと付いているからです。そこで、最初のころは「それ(It)」と言うように心がけていました。

 

実際、「それ」には名前というものが無いからです。なんでもかんでも名前を付けずにはいられないというのは人間の性(サガ)で、人間以外の動物は、物や概念にいちいち名前を付けたりはしません。自分が産んだ子どもに「ミーちゃん、モモちゃん」なんて名前を付ける親猫は、たとえ『世界ネコ歩き』をしたって見つからない。人間だけが、つねに名前を欲し、名前を付けているのです。

 

それは人間が、思考やコミュニケーションというものの大半を「言葉」を主体としたものに頼るようになってしまったからです。このことは、他の動物には出来ない複雑な思考や想像力というものを発達させていった一方で、本来誰にでも備わっていたテレパシー能力、直観力といったものを著しく後退させてしまうことにもなりました。

 

その意味で、現代人の「意識」は酷くバランスを欠いた状態にあり、ますますこの傾向が強まっているというのが実情です。本当は、顕在意識(心)と深層意識(魂)を融合させなければならないんですけれど‥‥。まあ「あの世」へ逝ってしまえば、みんなテレパシーで会話できるということが解るわけですが、できれば「この世」にいるうちに訓練して、思い出していただきたいんですよね。

 

でももう何年も書いてきて、「それ」とは宇宙全体を指すということ、また宇宙を創った「意識」でもあるということ、さらには宇宙を創った「意識(創造主)」と創られた宇宙(被創造物)とは同一であること、を充分ご理解いただけたと思い、最近ではシンプルに「神」という言葉を使うようになっています。そこには、使い古された「神」概念を改めたいという思いも、ちょこっとあったりします。

 

さて、前回『沈黙』という映画のことを少し書きましたが、この「沈黙する神」というテーマは、「一神教」にとっては大問題であったのです。

 

*三大一神教:ユダヤ教、キリスト教、イスラム教。これらの宗教が奉じている「神」は基本的には同一で、解釈がちょっとずつ違うのです。ですから、これら宗教間の対立というのは、いわば「神(父)」の取り合いをしている兄弟喧嘩、近親憎悪のようなものなのです。

 

あなたも、今までにこんなふうに思ったりしたことはありませんか? 自分がもの凄く困っている時に、どうして神様は助けてくれないんだろう。こんなにも祈っているのに、どうして優しい声を掛けてくれないんだろう。ちゃんと姿を現して自分を救ってはくださらないんだろう。

 

古代の人々もそう考えました。そして神が「沈黙」しているのは、自分の祈りが足りないせいだ、帰依への決意が充分ではないからだ、と考えたのです。そこで、絶対的な帰依と熱心な信仰をする代わりに、自分を天国に救い上げてくれることの保証を「神」に求めたのです。これが「一神教」同様、日本人には馴染みのない「契約」という概念なのです。

 

よく知られたキリスト教の『新約聖書』、ユダヤ教の『旧約聖書』というのは、これら「神」との新旧二つの「契約」についての内容を語った書物なのです。(『旧約聖書』というのはキリスト教徒から見た場合の、ユダヤ教教典に対する蔑称で、ユダヤ教徒はもちろん「旧」は付けません。これは仏教でも、新興の大乗仏教がそれまでの仏教を小乗仏教と呼んだのと同じです。)

 

西洋がよく「契約社会」と言われる背景には、思考の根本にこうした「神」との「契約」の概念がデンと横たわっているからなのです。人間同士が取り決めをする政治や法律というものは、その下部(Under The God)にあるという考え方になっている。そして、そのさらに下に自然界がある。ですから自然界というものは、人間が好きなようにコントロールしてよい(産業革命以降は特に)という考えがあるのです。

 

エンヤ(Enya)さんというアイルランドの女性歌手がおられますよね。最初に「Orinoco Flow」を聴いた時には、不思議な感覚の歌だなぁと思ったのですが、なにか妙にピタっと来たんですね。あとになって調べてみて、ケルト民族というものが、ローマ帝国の支配に追われて今のアイルランド地方に生き延びた民族だということが判った。

 

このケルト民族というのは元々は太陽崇拝で、ということは天照大神を崇拝して来た古代の日本人と同じ。そして自然にはすべて神性が宿っているという考え方なんですね。ですから日本人の心にピタッと響くものがある。5世紀ころになってカトリック教会がこの地を制圧すると、それ以後はキリスト教と融合してしまいます。そのためアイルランドの十字架は、太陽神の◯とキリスト教の+が合体したケルト十字というものになっています。

 

この自然崇拝や太陽崇拝(自然は太陽からエネルギーを得ているから)の感覚は、「アニミズム(animism)」といって、古代信仰の典型的なものですが、世界各地で見受けられます。ところが「一神教」は、これらを本当の「神」を知らない原始的な信仰であると見なし、領土を乗っ取っては自分たちが信じる「一神教」に改宗させて行ったわけです。このようにして、今日に見る宗教世界が出来たのです。

 

ここで今日、考えていただきたいのは、自然崇拝というものが本当に低級で原始的な宗教なのか、ということです。

 

一神教の「神は一つ」という考え方は、別段、間違ってはいません。創造主は一つのはずですからね。ところが、その「一つの神」を、三大一神教はみんな「我が神」にアレンジしてしまったのです。これは、大いなる矛盾です。「我が神」にした途端、普遍性が無くなってしまいますから。あっちにもこっちにも「我が神」ができ、「神は一つ」では無くなる。こうして、「一神教」同士が争うようになってしまったのです。さて改めて、

 

自然とは何でしょうか? 万物とは何でしょうか?

 

それは、この世に形として現れたもの。つまりは「結果」の世界です。あなたが今晩の夕食を作る時、作る前には必ずアイデアというものがあるでしょう。アイデアなしで、突如テーブルの上に夕食が出現したりはしません。実現化に先立っては、必ず「こうしよう」という意思がある。じゃあ、今あなたが居る部屋の中にあるものを見回してみてください。果たして、アイデアなしに創られたものが一つでもあるでしょうか? ないはずです。

 

ではあなた自身はどうでしょう? あなたは、誰のどのような「意思」によって創られたのでしょうか? もちろん父母の意思はありました。でも「自己意識的に活動するあなた」を、父母は前もって計画することは出来ません。出来ないのに、時々そうしようと想う親がいるので、そこで親子問題が起きるのです。では「自己意識的に活動するあなた」を創ったのは誰なのか? どこにそのアイデアがあったのでしょうか?

 

唯脳論者は、脳の発達に従って、あなたという自我を持つ意識的存在がしだいに形成されていったのだと主張します。生殖によって生じた物体が、その後に「意識」を持つようになったと言うのです。これこそトンデモ理論です。だとしたら、あなたという個性が生じた理由はなんでしょうか?

 

全ての理由を遺伝子に帰することは可能なのでしょうか? もし父母の遺伝子の合体が、あなたという個性を創ったのだとしたら、そもそもあなたという存在、およびそういう意識体が存在する理由は、どこにあるのでしょうか? あなたという意識体は、単なる脳の操り人形だとでも言うのでしょうか? それを認めたとして、ではあなたを操る脳、その脳を動かしているものは、何なのでしょうか?

 

まったく馬鹿げた理屈です。ところがこの馬鹿げた理屈が堂々と世間一般でまかり通り、脳科学者と称する人々がテレビなどで自説をしきりと展開しています。断じて言っておきますが、意識を先にせずに生まれるものは、宇宙になに一つありません。意識が体を創るのであり、体が意識を生み出すのではないのです。あなたという身体は、あなたの意識が創ったのであり、今もあなたを創造し続けています。

 

では、自然はどうして出来たのでしょうか? 宇宙はどうして出来たのでしょうか? 全く同様です。それに先立って、そういうものを生み出したいという意識があったからです。これが「宇宙意識(Cosmic Consciousness)」です。「宇宙意識」は、「神」なるものが示す多様な性質の一つで、古くには「全智」と呼ばれていました。

 

唯物論の宇宙物理学者は、138億年前のある日、突然、無からビッグバンという大爆発によって今の宇宙が誕生したのだと主張します。では「無」とは何なのでしょうか? どうして「無」から、とてつもないエナルギー量の「有」が一気に出現したのしょうか? 「ある日」と言いますが、「無」には時間も空間もないのですから、どうやって突如「ある日」が誕生したのしょうか?

 

全く説明のつかない矛盾だらけです。その矛盾を、ひとこと「無」という言葉に全部おっかぶせている。「犯人はお前だ!」と。「無」って便利な言葉だなぁ。誰もそれを見たことがないのに。「無」が聞いたら、きっと「ムッ」とすると思うんですけれど。

 

そうじゃないんですよ。もの凄く簡単なこと。夕食のプランを巡らすのと同じように、今見ている宇宙や自然という「結果の世界」を創る前には、ちゃんとプランがあったということなんです。これが「因の世界」です。「意識」の先行なしに、宇宙に物や出来事が生じることは絶対にありません。

 

さあ、ここまで聞いて、ピン!と来た方もおられることでしょう。「神」は果たして「沈黙」しているのでしょうか? いえいえ、とんでもない。「宇宙」こそが、そして「自然」こそが、結果の世界における「神」の表現物なのだということです。「神」は決して、隠れてなどいない。全身全霊をもって表現しているのです。

 

私たちが見るもの、触れるもの、聴くもの全てが「神」の表現だということ。「神」はいつでも雄弁に物語っているとのです。もちろん、あなたとて例外ではありません。あなたも「神」の表現の一部分を担っているということなのです。いいですか、あなたは「神」の落とし子なのですよ。だからこそ、あなたは自分が何者であるかを知るために、「表現」せずにはいられないのです。

 

ですから、勇気をもって、日々表現をしなさい。自分の喜びを他者の喜びに変えなさい。他者の喜びを自分の喜びとして掴みなさい。才能は使わなければ何の価値もないのですよ。自分なんて、私なんて‥‥。そんなことはない。梅は桜になろうとはしません。桜は梅になろうとはしません。梅は梅の花を咲かせようとして生き、桜は桜の花を咲かせようとして生きているだけです。

 

前に私はこう言いましたね。そのことが「宇宙の法則」に適っているかどうかは、「自然」に照らして見ればいいと。実に「自然」こそは、「神」の完全なる表現なのであり、ゆえに「宇宙の法則」を余すところなく映しているのです。ひまわりの花をじっくり観察したことがありますか? ひまわりの種の螺旋状の配列は、フィボナッチ数列に完全に従っています。なぜでしょう? 数式、音楽、芸術は、いずれも「神」の言葉なのです。

 

なのに、どうして人間は、これまでずっと「神」が「沈黙」し続けていると思って来たのでしょうか? それは、人間が「因の世界」を見ようとして来なかったからです。「結果の世界」しか見て来なかったからです。今ある「結果」の答えを、同じ「結果の世界」の中に見つけようとあがいて来たからです。「宇宙」創造の理由を、物質世界の中にいくら探しても、見つからないのと同じように。

 

今日から、周囲の物事の、また身の上に起きた出来事の、奥にあるものをいつも意識して見るようにしてご覧なさい。そうすれば、「因の世界」が見えるようになりますから。路傍に咲く花や、街路樹の命の輝きが見えるようになりますから。一見、不愉快に思える出来事の裏に示された、実は愛に溢れたあなたへのメッセージが、理解できるようになりますから。

 

「神」は「沈黙」などしていません。これほど雄弁に語りかけてくれているものはないのに。人間の方がいつもそっぽを向いているのです。差し出された手を振り払っているのです。ああ、なんてもったいないことでしょう。

「信仰」と「信念」に関して

これまで、私は反発を覚悟で、「信仰」も「信念」も〈持ってはいけない〉と書いてきました。一般的には、「信仰」や「信念」を持つことは良いこととされ、特に精神世界の一部では、その重要性が強調されています。それなのに、自分は「NO!」と言う。これは、何をもって「信仰」と言い、何を「信念」と言うかという定義にもよるのですが、今日はこのことについて、詳しくお話ししたいと思います。

 

先日、遠藤周作原作、マーティン・スコセッシ監督の『沈黙』という映画を観に行って来ました。この題材は、スコセッシ監督が30年間も温め続けていたというもので、「神の沈黙」というテーマ、そして「信仰」という問題にどういう落とし所を与えているかに、私としては非常に興味がありました。けれども観終わって、やはりこのテーマは既に「終わっている」という感慨に至りました。

 

欧米社会というのは、キリスト教という一神教が極めて深く根付いた文化の上に構築されています。この感覚は日本人には到底理解できないもので、たとえば国会乱闘というものがある国は、日本と韓国くらいだと言われています。なぜかと言いますと、欧米では、国会というものは「神」の下に位置し、「神」に預かった場、という意識があるからなのだそうです。そんな神聖な場で、野蛮な乱闘などはあり得ないというわけです。

 

いま世界では、移民や難民が大きな社会問題となっています。実はこの問題の背景には「宗教」があるのです。どういうことかと言いますと、移民や難民となって移動して来る人々というのは、もれなく「宗教」を携えてやって来るのです。この新しく流入してくる「宗教」が、それまでその地にあった「宗教」が醸し出して来た秩序や雰囲気を脅かしてしまうわけですね。それで、欧米社会では排斥運動が沸き起こっている。(難民を作り出したのは欧米なんですけれども‥‥)

 

ところが日本人というのは、南米や北米やハワイその他へ移民しても、現地の宗教にあっさりと切り替えてしまうわけです。何が何でも神道を守り続けるとか、仏教の◯◯宗を守り続けるなんて人はほとんどいない。よく言えばもの凄く柔軟性がある。この、無節操に何でも取り入れてしまう特性は、日本人独特のものです。結局、日本人には「一神教」というものの感覚が解らないのですね。

 

ですから太平洋戦争中は、日本も欧米を真似て国家神道を打ち立て植民地に強制しようとしたのですが、結局うまく行きませんでした。天皇制も、そもそもは明治初期に岩倉具視らの使節団が欧米を視察した際、欧米社会において「一神教」が果たしている社会的役割と構造に気づき、その代替に設定しようとしたものだという研究が最近になって報告されています。

 

このように、欧米人にとって「一神教」をベースにした「宗教」は、正に生きていく上での基盤(fundamental:原理)になっているわけです。ですから、近代以降の今の世界に見られる混沌や混乱をどう解決していくかということを考えた時に、「信仰」というテーマをどのように超克していくかは、欧米人にとっては非常に大きな問題なのです。

 

‥‥とまあ思っていたのですが、『沈黙』という映画は、なんだか肩透かしでしたねぇ。スコセッシ監督があまりにも長期間温め過ぎて、時代変化に取り残されてしまったのでしょうか。期待されたアカデミー賞にも、ノミネートされたのは撮影賞だけ。作品内容的には、アメリカ人にもほとんど注目されなかったということなのかなぁ?

 

アメリカ社会に詳しい人の話を聞くと、アメリカでも今は教会離れがかなり進んでいるのだそうです。キリスト教にしてもイスラム教にしても、メディアで過激主義ばかりが取り上げられるのは、それだけ従来の「信仰」意識が弱まっているということの証左なのかもしれません。つまり、弱いボンドでは、人々を「宗教」にもう繋ぎとめられなくなっているということなのでしょう。

 

と、ここまでは前置きです。さて、冒頭で語った「信仰」と「信念」に関する問題を考えるに当たっては、先ず人間の「意識」というものに着目しなければなりません。私たちが普通「意識」という時には、漠然と、それは思考や感情や感覚などの「心」の働き全般のことだと捉えています。そしてその「意識」なるものは、自分が全てをコントロールしているんだと。でも本当にそうでしょうか?

 

あなたの心臓は誰が動かしているのでしょうか? あなたの胃や腸の蠕動は誰が命じているのでしょうか? 化学作用による栄養素の分解や、血液によってそのエネルギーを運ぶことの指令は誰が出しているのでしょうか? さらには、ふと訪れる直感やインスピレーション。これはあなたの脳が考えたものなのでしょうか? また眠っている時に見る夢は、どこからやって来るのでしょうか?

 

結局あなたの「意識」というものは、「心」の中にだけあるのではないということです。「意識」というものは多層構造になっているのです。あなたが普段、自分で考えたり感じたりしている「意識」は表に顕れている意識、つまり「顕在意識」です。これがいわゆる「心」と呼んでいるもの。でもその奥に、普段は隠れている「潜在意識」があり、そしてさらに奥には「深層意識」と呼ばれるものがあるのです。

 

*意識の多層構造については、2層に分ける考え方と3層に分ける考え方があります。また、各層の呼び名についてもいろいろな言われ方がされていますが、ここではあまり厳密に考えずに概念だけを把握してください。

「顕在意識」→「表層意識」「客観意識」、「潜在意識」→「無意識」、「深層意識」→「下意識」など。

 

さて、例によって梅干しおむすびを思い浮かべてください。芯に梅干しがあって、そのまわりにご飯層があって、表面に海苔が巻いてある。これで言うと、梅干しが「深層意識」、ご飯が「潜在意識」、海苔が「顕在意識」です。あなた方は、普段は「顕在意識」にのみフォーカスが当たっていて、これが自分の「意識」の全てだと思い込んでいるのです。つまり海苔しか食べていない!

 

ところが、タバコを吸う人や、甘い物が好きで止められないという人に聞くと、「無意識」のうちに手が動いていると言います。実際には「無」ということはあり得ないわけで、この名称はおかしいのですが、とにかく自分がコントロールしているという意識は「無」い。このように、潜在的な「意識」があなたを動かしているという場面も実は多々あるわけです。(ああ、やっとご飯にありつけた)

 

「心」とは何か? 「心」がどのようにして生じているかと言いますと、外部刺激に対する諸々の反応として起きる自覚的な「意識」、それが通常「心」と呼ばれているものです。

 

私たちは、外部情報をキャッチするための感覚器官(いわゆる五感)というものを肉体上に持っています。この五感がキャッチした刺激を信号に変え、神経回路を通して脳に送ります。脳はこの信号から、反射的に反応したり、感情を動かしたり、記憶と比較したり、類推したり、判断したりという処理を行って、その結果を瞬時にアウトプットします。それが「心」です。

 

つまり「五感」というものは、あなたの「心」の窓になっているわけですね。

 

このことは、あなたが、全て自分でコントロールしていると思っている自分の「心」が、実は外部刺激によって、逆に絶えずコントロールされているということを意味しています。現代人は、そのことを、それこそ意識していないだけではなく、外部刺激の流入に対してあまりにも無防備なのです。これが、現代人に特有の「心」の不安が増大している最大の理由です。

 

「心」の不安を埋めようとして、みんな眼を皿のようにして外部刺激を追い求めています。そこで、ますます「心」の不安が増大していくのです。なぜだか解りますか? 外からやって来るものは、所詮あなた自身のものではないからです。あなたの「顕在意識」をただ興奮させ、一時的な逃避に導いているだけだからです。

 

電車に乗った際には、周囲を見回してご覧なさい。ゾンビになってしまった人がいかに多いことか。

では逆に、このような始終めまぐるしく変わる外部刺激の不毛に疲れ、不動の「信仰」や「信念」を、この「顕在意識」と「潜在意識」の部分に取り入れてしまったとしたらどうなるでしょうか?

 

あなたは、特定の「信仰」や「信念」に感激して、それを意識に取り込みます。もうその他の外部刺激にフラフラすることはないので、「心」が定まったかに見え安心します。やがて、その「信仰」や固い「信念」を持つ姿こそが、本当の自分だと思うようになる。そして、そのような「信仰」や「信念」を持たない人間を、憐れんだり、蔑んだりするようになって行くことでしょう。

 

でもね、それは外から来たものなのですよ。凍えているあなたに掛けられた、いわば厚手のコートのようなもの。ですから、一度身につけたコートはもう手離せない。脱がされるのが、今度は怖くなる。そこでコートの襟をしっかり立てて、ますますギュッと身体に密着させて、風雪の中を歩いて行くしかなくなってしまう。これを脱ぐのには、もの凄い勇気を必要とするのです。

 

問題は、このコートが一種類ではないということ。「一神教」だと言いながらも、いろんなカラーがある。おかしいじゃありませんか? もし本当に「一神」なら色は一つのはずでしょう? それなのに、それぞれがみな、自分たちのものこそ真実、自分たちこそ本物、それ以外はみんな邪宗、邪教だと言い合って、あげくの果てに戦争までしている。いったい戦争をするのが宗教の目的なのか、と言いたいです。

 

だから、私は「信じちゃダメだ」と言っている。そう言っている私の言葉だって「信じちゃダメ」です。とにかく、一切合切「信じちゃダメ」です。

 

と言うと、あなたはご自分を凧の切れた糸、間違えた、糸の切れた凧のように感じてしまうかも知れません。でもご安心を。あなたの不動の本質というものは「深層意識」にある。つまりは梅干し部分です。「心」という意識ではなく、「魂」の意識にこそ、あなたの本質があるのです。そしてこの「意識」は、全智であるところの「宇宙意識」と常に繋がっているのです。

 

あなたはその「宇宙意識」の一員(member)だ。

そして、その真実を思い出すのが re-member 。

 

ですから、この「意識」を常に意識している者は、どんな人もみな等しく、「光」の道に向かって歩むことが出来るのです。人種や国籍や性別なんて関係ない。組織に所属する必要もない。師から師へと渡り歩く必要もない。法外な授業料を払う必要もない。神殿にぬかずく必要もない。苦行をする必要も、マントラを唱える必要もない。ただ自分の内側を見つめるだけでいい。

 

これこそが、今まで説かれなかった秘密。実は「秘密など何もない」ということが大いなる秘密だったのです。なぜかと言えば、この真理を知ってしまったら、宗教が成り立たなくなってしまうから。そこで各宗教・宗派は、それぞれが勝手なドグマを打ち立て、「信じなさい」「信仰に励みなさい」「固い信念を持て」「ついては、お布施もよろしくね」と言って来たのです。ここで、尋ねたい。

 

あなたは誰なのか?

 

名前? そんなものは単なるレッテルだ。◯◯株式会社 次長? おいおい、その肩書きが無くなったとしたらどうなるんだい? そうじゃない、あなたはいったい何者だと訊いているんだ。あなたはどこから来たのか? そしてどこへ行くつもりなんだい? さあ、どう答える?

 

自分を記録したということになっているアルバムを引っ張り出して来て、よくご覧なさい。そこには、あなたの両親が写した、幼少時のあなたが居るでしょう。確かに今の顔立ちと似た特徴もあるし、ホクロの位置も同じだ。でもそこに写っている人間は、今のあなたとはほとんど別人です。1年前の写真だって違う。でもあなたは、それを自分だったと思っている。

 

どうしてでしょうか? 姿形が変わっても、あなたに、そのように自分が連続していると思わせている something が確実にあるからです。その something とは何か? あなたの「意識」です。つまり、あなたの主体とは「意識」なのです。肉ではないのですよ。そしてこの「意識」は、今までも途切れずに続いてきたように、肉体の死後も続いていくのです。

 

中間生(いわゆるあの世)に帰っても、来世に誕生しても。梅干し部分とご飯部分の一部は繋がっていく。眼を閉じて、その連続を想像してご覧なさい。生まれて死んで、また生まれて、新しいことを体験してはまた死ぬ。そしてやり切れなかったことを反省して、「今度こそは」とまた誕生する。それが、あなたなんですよ。

 

さあ、もうお解りでしょう。

汝自身を知れ。さすれば全てが解る。

ということの意味が。

 

外部刺激を断って、静かに自分を見つめる。自分を知る。それは糸の切れた凧じゃないんです。それこそが大大大セーフティーネットに繋がっている唯一の道なのです。

 

だから、自分に自信を持ちなさい。自分を信頼しなさい。自分を敬いなさい。他者は結局は自分と同一なのですから、誰にでも誠を尽くしなさい。そして、もしそうすることを「信仰」とか「信念」と呼びたいならば、そう呼んでも構わない(実際、そう語っている本もあります)。でもそれは、世間で言うところの「信仰」や「信念」とは、全くの別次元であることを理解して欲しい。

 

それぞれが、「我こそ本物」と言い合いをしているようなものの、いったいどこに「真理」があるというのでしょうか? 人を選ばず、地域を選ばず、時を選ばず、いついかなる時代でも、永遠に通じる普遍性を有するもの。それだけが「真理」の名に価するであろうことは明白です。そしてそれは、すでにあなたの中にある! 行脚などする必要はなかったのだ。青い鳥だったのだ。

 

宗教の時代はもう終わりです。自信を持って、自分の内側の旅に出でよ。そしてあなたも、永遠の真理をつかむのだ。

近親者の「自殺」ということについて

これからお話することは、ある人にとっては、感情を逆撫でするような腹立たしさを誘発してしまうことになるかも知れません。しかしある人にとっては、大いに慰めとなり、生命(いのち)というものについての理解がいっそう進むものになるかも知れません。私としては、できれば後者であって欲しいと願って、今日このテーマを書くことにします。

 

実は先日、同様の件である方から相談を受け、お話をする機会がありました。その時には、その方のご事情に添った回答をして差し上げたのですが、後で同じように悩まれている方も多くいらっしゃるのではないかと思いました。そこで今日は、普遍的な観点から、「魂」および「宇宙の法則」に照らして「自殺」というものをどう考えていったらよいかをお話することにしました。

 

統計によると、平成10年から14年連続して3万人を超えていた年間自殺者数も、ここ3年は減少に転じ、平成26年は2万5千人ほどであったそうです。しかしこの数字は、警察庁の基準に照らして「自殺」と断定されたもののみの人数です。そのため、実際にはもっと多いのではないかという声もあります。私の親戚にも自殺者がおりますし、友人の中で親兄弟が自殺したという人も何人かおられます。

 

さて、最初にみなさんに考えていただきたいことは、病死、老衰死、事故死といった死亡原因と、「自殺」とでは何がどう違うのかということです。さらに言えば、殺人、孤独死といったものと「自殺」とでは、何がどう違うというのでしょうか? 何か「自殺」だけを、特別視しなければいけない理由というものがあるのでしょうか?

 

「自殺」を特別視してしまう理由は解ります。自殺者がそれを決意し実行するに至った心境をおもんぱかって、自分の心がザワザワと騒ぐからです。さぞかし無念であったろう。どうして早く気づいてやれなかったのだろうか。もっと自分が思いやりを示していれば、なんとかしてあげることも出来たのではないだろうか。あの一瞬、あの時のひとことが悔やまれる‥‥。etc.

 

しかしそうやっていくら考えても、死んだ者は戻っては来ません。そこに、処理しきれない感情がいつまでも残ってしまうのですね。でもね、そのことは、病死であっても、老衰死であっても、事故死であっても、殺人であっても、孤独死であっても、みな同じことなのではないでしょうか? 要は、遺された者が、その「死」に対してどのような意味をそこに見出すかということです。

 

釈迦は、説法に歩いた旅先で供養に出された食事(一説によると毒キノコだったと言われている)に当たって亡くなりました。この時の弟子たち、さらにはさまざまな生き物たちがこぞって嘆き悲しむ姿を描いた絵が『釈迦涅槃図』です。この時、釈迦は自分の死に際して、「死は珍しいものではない。だから弟子たちよ、みな力強く生きよ。」と語ったと伝えられています。

 

そうなんです。「死」は珍しいものではありません。どの「死」も「死」です。「死」に特別な意味を見出している、あるいは付与しているのは、遺された者たちの方なのです。それは、残された者の心の中に創り出された「観念」であるということ。そしてこの「観念」をどう創り出すか、身近な者の「死」に対してどんな「意味」を付け加えるかは、自由意思に任されているということです。

 

さらに言えば、これまで何度も申し上げてきたように、この世で言うところの「死」は消滅ではありません。「魂」は永遠であって、肉体の死後も生き続けますし、肉体を構成していた原子も決して消滅することはなく、組成を変えて他の生命を育む素になって行くのです。つまり、この世で「死」と呼ばれている現象は、「魂」の永遠性の中の一つの変化に過ぎないのです。

 

一般的に言って、人は「死」という現象を重々しく捉え過ぎています。このことは、とりもなおさず「生」に対しても重々しく考え過ぎているということを意味しています。「生きること」を重々しく考え過ぎているから、反対の「死」も重々しいものになってしまうのです。そこでは、「生きていること」のみに価値があり「死んだら何もかも終わり」という概念がまかり通っているのです。

 

結局のところ、「生命(いのち)」というものの実相について何も理解しないまま、多くの人はただ「死」を忌み嫌い、その延長で、「自殺」することや「自殺」の話題に触れることをタブー視しているのです。

 

いいですか。人生は「たった一度きり」なのではありません。

 

霊性の向上を目指し、物質界でしか味わえない体験をするために、「魂」は何度も何度も生まれ変わります。この時、個々の「魂」は、みな次の「生」での課題を自ら設定し、この世に誕生を果たしているのです。その意味でも、自分の「生」に関して、全面的に責任を有しているのは、その人自身なのだということです。このことは肝に命じてください。

 

私たちは一生のうちに、実にたくさんの人と出会います。そして相互に影響を与えあっています。中でも近親者は、過去世においても縁の深かった「魂」である場合が多く、輪廻転生する過程で、役どころを変えて再び縁を結びます。なぜそうなるかと言えば、前世までに積んだカルマを解消するチャンスとして、そのようなチャンスが設けられているのです。

 

さて、人間関係というものは常に相互的なものであって、一方通行ということは絶対にありません。たとえそれが支配と被支配の関係だったとしても、その関係を成立させているのは、お互いの意思による相互作用の結果なのです。そのことから、次のように言うことができます。あなたは、他の「魂」のこの世における生死について、責任を負うことは出来ない。

 

これは多分に誤解や反発を与えてしまう言葉かも知れません。この世の常識とはまるで違うからです。たとえば、飛行機を操縦するパイロットは乗客の命に対して責任はないのか、人の命を奪った殺人者に罪はないというのか、といったことです。しかしここでは敢えて、霊的世界における真実を述べておきます。そもそも宇宙には罪も罰もないのです。それを設定したのは、人間社会なのです。

 

この件については、いつかまた詳しく取り上げるかも知れませんが、今ここで強調しておきたいことは、近親者の「死」に関して、あなたが過度の責任観念を持つ必要は一切ないということです。一時は、激しいショックに襲われるかも知れません。また、喪失の悲しみに打ちひしがれるかも知れません。しかし、それをいつまでも引きずってしまってはなりません。

 

そう言うと、薄情な気がして納得がいかないかも知れませんが、では逆を考えてみてください。あなたが自殺をしたとして、今は「魂」のみとなったあなたは、遺された近親者に対して、いつまでも自責の念に駆られていて欲しいと望むでしょうか? たぶん逆でしょう。元気に、明るく暮らして欲しいと願うのではないでしょうか。なぜなら、そのように「生きる」ことは、〈彼ら自身の責任〉だからです。

 

こうして人は、それぞれが自分の「生」に対してのみ責任を持っているのです。それは、転生時に設定して来た課題の現実化にちゃんと向き合い、その体験から意味を引き出し、そして乗り越えるという人生行路です。人間関係というものは、そのために設定されたドラマの配役なのです。そこでは、誰もが主役であり、そして同時に他者の脇役としても存在しているのです。

 

と、ここまで語っても、「いや、自殺は特別だ」となお納得できない方もきっとおられることでしょう。それは、自殺者の「魂」の行方について、誤った知識が世間に流布されているからです。いわく、「自殺者の森に閉じ込められる」「無間地獄に堕ちてさまよう」「永遠に成仏できず、懲罰的苦しみを得る」等々。ここでハッキリ言っておきますが、そのようなことは絶対にありません。

 

中間生に帰ってから、今世での課題にちゃんと取り組まなかったことに気づいて恥ずかしい思いをすることはあったとしても、「自殺」もやはり一つの「転化」のバリエーションに過ぎないのです。しばらくすれば、「今度こそ」と、再び課題に取り組むチャンスが与えられます。

 

また、思いを残して逝った、混乱のまま亡くなったという「魂」に対しては、落ち着くまでの癒しの場が、ガイドたちによって提供されますのでどうぞ安心してください。

 

まれにですが、現世の物質的世界に非常に執着の強かった「魂」の中には、自分が死んだことに気づかないで、生前に縁のあった場所に留まる場合があります。しかしそうした場合であっても、成長スピードは遅いかも知れませんが、いつかは必ず元へ帰って行くことになります。

 

重要なことは、そうした「魂」の存在を怖れないことです。怖れなければ実害はありません。考えてみてください。実害ということで言えば、生き霊(つまり生きている人間)の方がはるかに怖いじゃありませんか。なにしろ、生き霊が繰り出したパンチは、あなたの顔面を確実にヒットすることになるんですからね。

 

ということで、「いま地獄をさまよっている」などと言う怪しげな霊能者の口車には乗らないようにしてください。そういう脅しや、不安を掻き立てる者の言うことに耳を傾けたら、その術中にハマってしまいますよ。いいですか? あなたのリアリティというものは、常にあなたの想像が創造しているんですよ。

 

不安を煽るようなことを言う者はみな無智なのです。宇宙の全てを創造した創造主が、なにゆえ自身の子であるところの「魂」に、恐怖や不安や罰を与えると言うのでしょうか? 宇宙の法則から言って、そんなことは絶対にありません。なぜなら、宇宙の全創造物、それは創造主ご自身でもあるからです。

 

ですから、何も心配することなく、明るく、元気に、楽しく生きることです。それが、あなたの今度の「生」に対する責任を全うするということであり、同時に来世にもつながるポジティブなカルマを演出する元にもなって行くのですから。